第百三十話 スペクトルの解像度と黄金色の感性、あるいは介入する不確定要素
再び荷が動き始めた。
キャリッジ・ポーチに並べられた黒い箱たちは、ルーカスの短い号令によって、一つずつ決められた位置へ吸い込まれていく。
「そのケースは最後だ。先にアンプを奥へ入れろ。リドリー、手前を持て。ハワード、下を見ろ。角をぶつけるな。ウィルソン、固定具の向きが逆だ」
「はいはい、相変わらず愛のないご指摘で」
「愛が欲しければ花屋に行け。ここは積載現場だ」
ヴェクターの軽口を切り捨てながら、ルーカスは一歩も無駄に動かず、全員の位置と荷の流れを見ていた。
その背中が、また癇に障った。
ダモンは、ウィルフレッドと二人で持っている細長いケースの取っ手を握り直した。手のひらに擦り傷が走り、鈍い痛みが滲む。
「……気に食わねぇ」
「またですか、ダモン」
後ろ側を支えていたウィルフレッドが、息を切らしながら呟いた。
「さっきから何度目です。その言葉」
「何度でも言う。気に食わねぇもんは気に食わねぇ」
ダモンは、少し離れた場所で片手を上げ、別の木箱の積載位置を修正させているルーカスを睨みつけた。
……認めねぇ。絶対に認めねぇぞ、あんなもん。
あんなのは歌じゃねぇ。綺麗な旋律も、神への祈りも、騎士の誉れもねぇ。ただの鉄と泥と、喉の奥に詰まった呪いを吐き散らしただけだ。
なのに、なんで俺の膝は笑ってやがった。
年下だぞ。侯爵家の坊ちゃんだぞ。泥も飢えも、下っ端が主君の前に立つためにどんな顔で吠えてるかも、本当なら知らねぇはずの側の人間だろうが。
なのに、あいつは知ってる顔をする。 いや、違う。知ってる顔じゃねぇ。 知ってる奴の声をしてやがる。
それが一番気に食わねぇ。
俺の牙は、俺のもんだ。 綺麗な言葉も、家柄も、金もない俺が、殿下の前に立つために残した最後のもんだ。 吠えて、噛みついて、泥を被って、それでも退かねぇっていう、俺だけの意地だ。
それを、あの野郎は見下しもしなかった。 笑いもしなかった。 ただ、『向きが悪い』って顔で見やがった。
ふざけんな。 上に生まれたくせに、俺たちの泥まで使いこなすな。 俺たちの怒りまで、俺たちより正しく並べるな。 そんなことされたら、俺は何で殿下の前に立ってりゃいいんだよ。
……クソが。
悪態でもついてねぇと、膝をつきそうになる。 あの冷めた面に従っちまいそうになる。 殿下以外の背中を、ほんの一瞬でも『上』だと思っちまいそうになる。
だから吠える。噛みつく。噛みついてねぇと、俺は俺の牙を取られる。
でもな、トレンス。いつか見せてやる。
あんたに研がれたんじゃねぇ。あんたに拾われたんでもねぇ。 俺の牙は、殿下のために、俺が勝手に研いだんだってな。
その日まで、せいぜい気に食わねぇ教官面で立ってろ。俺は吠えながらでも、あんたの
ギリッ、と。
噛み締めた奥歯の隙間から、堪えきれない思考がそのまま言葉となって漏れ出た。
「……あんなの、歌じゃねぇ」
ダモンは吐き捨てるように言った。
「はい?」
「あの音だ。さっきの。綺麗な旋律も、神への祈りも、騎士の誉れも、何一つ入っちゃいなかった。ただの鉄と泥と、喉の奥に詰まった呪いを吐き散らしてるだけだ」
ウィルフレッドは一瞬黙った。 彼もまた、あの一音と、あの声を思い出したのだろう。
「ですが……震えました」
「分かってるよ」
ダモンは舌打ちした。
「それが腹立つんだよ。俺の体まで、あれに反応しやがった。認めたみたいじゃねぇか。あの野郎の声に、何か本物があるって」
二人は、荷を荷台の前まで運ぶ。
「止まるな、リドリー。置くなら番号の左だ。右に置けば後続が詰まる」
ルーカスの声が飛ぶ。ダモンは苛立ちを噛み殺しながら、言われた通りに数歩ずらしてケースを置いた。
言われた通りに動いている自分が、また気に食わない。
「……あいつは、殿下を『資源の浪費』だなんて言いやがった」
ダモンはケースから手を離し、赤くなった掌を握り込んだ。
「でもな、ウィル。俺には、あいつの方がよっぽど浪費されてるように見えた。あの若さで、あんな『全部終わっちまった後』みたいな声を出しやがって」
「ダモン……」
「同情じゃねぇぞ」
ダモンは、ウィルフレッドの視線を鋭く遮った。
「同情なんざするか。あいつにそんなもん向けたら、こっちが切り捨てられる。そうじゃねぇ。ただ……分からねぇんだ」
ダモンは少しだけ声を落とした。
「あいつは上の人間だろ。侯爵家の人間だろ。なのに、なんで俺たちの泥まで使う。なんで俺たちの牙を、俺たちより正しく並べる」
ウィルフレッドは、目録を抱え直しながら小さく言った。
「……貴方は、それが許せないのですね」
「当たり前だ」
「けれど、聞いてしまった」
「うるせぇ」
「しかも、覚えようとしている」
「黙れ、ウィル」
ウィルフレッドは少しだけ苦笑した。恐怖で青ざめた顔のまま、それでも言う。
「だって、先ほどから貴方の置き方が変わりました。腰の入れ方も。口調は相変わらずですが、侯爵の指示を聞く前より、明らかに無駄が減っています」
「……」
「噛みつきながら、学んでいますよ、貴方は」
ダモンは返す言葉を失った。
その沈黙を、遠くからルーカスの声が切った。
「リドリー、ハワード。次は真空管ユニットだ。落とせば君たちの家名が消える。両手で持て」
「……っ、ほら来たぞ。ああいう言い方だ。いちいち腹が立つ」
「でも、両手で持ちますよね」
「持つに決まってんだろ!」
ダモンは苛立ちのまま歩き出した。
胸の奥で、まだあの音が鳴っている。 低くて、汚くて、礼儀知らずで、殴りつけるような音。 綺麗な王都の騎士ごっこでは絶対に鳴らない音。
悪態をついていないと、膝をつきそうだった。
あの冷めた面を見上げてしまいそうだった。 殿下以外の背中を、一瞬でも「上」だと思ってしまいそうだった。
だから吠える。噛みつく。噛みついていなければ、自分の牙まであの男に取られる気がした。
けれど。
ダモンは、重い箱の前で膝を曲げた。背を丸めるな。腕で引くな。脚を使え。さっき聞かされた通りに、身体を動かす。
「……見てろよ、トレンス坊」
完璧に重心を捉え、無駄なく荷を持ち上げた親友の姿に、ウィルフレッドは目を丸くした。
「何か言いましたか?」
「何でもねぇ」
ダモンは歯を食いしばり、真空管ユニットのケースを持ち上げた。
「いつか言ってやるだけだ。俺の牙は、あいつに研がれたんじゃねぇ。殿下のために、俺が勝手に研いだんだってな」
「……それは、たぶん」
ウィルフレッドは、少しだけ視線を伏せた。
「侯爵は『なら証明しろ』と仰るでしょうね」
「上等だよ」
ダモンは、獣じみた笑みを浮かべた。
「証明してやる。あの野郎が文句をつけられねぇくらいにな」
彼は歩き出した。悪態を吐きながら。だが今度は、荷の重心を外さなかった。
・・・・・
・・・
「最終ケース、固定完了」
ヴェクターが荷台の奥から軽く手を振った。
ルーカスは無言で荷台へ上がり、固定具の角度、箱の位置、緩衝材の挟み込みを順に確認していく。指先が木箱の縁を叩くたび、乾いた音が馬車の中に響いた。
「……問題なし。搬出フェーズ完了」
その一言で、キャリッジ・ポーチにいた全員の肩から、目に見えない重りが落ちた。
ダモンはその場に膝をつきかけ、慌てて踏みとどまった。ウィルフレッドは目録に最後の印を入れ、震える指でペンを閉じた。エドワードは煤けた掌を見下ろし、そこに赤く刻まれた取っ手の跡を、なぜかすぐには拭わなかった。
「……終わったのか」
エドワードの声は掠れていた。
「搬出はな」
ルーカスは振り返らずに答えた。
「次は設営だ。移動中に手順を叩き込む。休憩は馬車の中で取れ」
「……悪魔か、貴様は」
「礼は不要だ、殿下」
ダモンが小さく噴き出し、すぐに顔をしかめた。笑った自分が気に食わなかったのだろう。
ミリアリアは目録を閉じ、アンジェリカの未完成の言葉が挟まれた紙束を胸に抱えた。アンジェリカは荷台に収まった黒い機材たちを、まるで眠った獣の群れを見るように眺めている。
「ねえ、ルーカス」
「何だ」
「この子たち、学園に着いたら起きるのね」
「……機材は起きない。起動するだけだ」
「同じことよ」
「違う」
短い応酬のあと、ルーカスは荷台の扉を閉めた。
重い金属音が、朝の空気を断ち切る。
その音を合図に、使用人たちが一斉に動き出した。馬車の周囲から足場が外され、固定具が締め直され、御者台では兵士が手綱を確認する。ヒルダは何事もなかったかのように一礼し、エレノアはタブレットに「搬入完了」の記録を刻んだ。
ただ、誰もが知っていた。
これはただ荷物を積み終えたのではない。
王子の掌に、働く者の傷が刻まれた。
若い騎士の牙に、初めて規律という砥石が当てられた。
怯える文官の目に、未知を検証する火が灯った。
商人の道化は、仮面を遊びではなく装甲として被り直した。
そして、金色の令嬢は、黒い楽器の棺を開け、誰も触れられなかった少年の遠い戦場を、一瞬だけこの場所へ引きずり出した。
ルーカスは、その全てを確認するように一度だけ周囲を見渡した。
「総員、乗車」
その声で、世界は再び工程へ戻る。
だが、荷台の奥に眠る黒い機材も、それを運んだ者たちも、もう出発前と同じではなかった。
・・・・・
・・・
学園──中庭。
ガゼボを包む空気は、橙を通り越し、血のような、あるいは溶けた黄金のような深い色へ沈みつつあった。
ルーカスは手元の手帳に、トレンス領から運び込む予定の真空管の特性曲線を書き込んでいた。出力、歪み率、発熱、消費魔力。余白には、ハートビート・ロマンスで使用する簡易アンプの改良案が、無駄なく並んでいる。
隣に座るアンジェリカが、先ほどから妙に静かなことに気づき、ルーカスはわずかに顔を上げた。
「……何を黙って見ているのです、ハートフィリア嬢」
アンジェリカは膝を抱え、沈みゆく太陽をじっと見つめていた。金色の瞳が夕陽を受け、炎のように揺れている。
「ねえ、ルーカス。夕陽って、どうしてこんなに胸がぎゅっとするのかしら」
「……」
「朝日は、『さあ、行くわよ!』って背中を押してくれるの。でも夕陽は……なんだか、世界中が今日一日の大切な秘密を、そっと打ち明けてくれているみたい」
それは、彼女なりの純粋な情緒の吐露だった。
ルーカスは「秘密」という曖昧な語を、脳内で即座に分解した。
「単なる環境光の物理的特性と、生体リズムによる錯覚です」
「……物理的特性?」
アンジェリカが不満げに頬を膨らませる。ルーカスは気にせず、万年筆の先で地平線を示した。
「朝は、夜間に地表の温度が下がることで塵埃が沈降し、大気の散乱要因が比較的少ない。一方、夕刻は日中の活動で巻き上げられた土埃、煙、砂塵、人や馬車の移動に伴う微粒子が大気中に残留している」
彼は手帳の余白に、太陽光と大気の層を簡略化して描いた。
「太陽光が大気を長く通過する過程で、波長の短い青色光は散乱され、波長の長い赤色光が相対的に強く網膜へ届く。貴女が『胸がぎゅっとする』と呼んだものの正体は、光路長の増加、粒子散乱、そして貴女自身の概日リズムが作る情動反応です」
「つまり?」
「日中に舞い上がった塵と汚れが、光を減衰させているに過ぎません。スペクトルを解析すれば、その『秘密』とやらは、数値化された大気中微粒子濃度として出力されます」
アンジェリカは数秒、呆然とルーカスを見つめた。
それから、堪えきれないように吹き出した。
「ふふ……あはは! 汚れですって! ルーカス、あなたって本当に、世界で一番ロマンチックじゃないわ!」
「褒め言葉としては成立していませんね」
「でも、素敵よ」
「……どこがです」
アンジェリカは手帳を覗き込み、ルーカスの描いた散乱の図を、宝の地図でも見るように指先でなぞった。
「あなたが言う塵やゴミが、一日じゅう世界が動いた証拠だって言うなら、この夕焼けは、世界が今日一日を頑張ったことへのご褒美じゃない」
ルーカスの万年筆が、わずかに止まった。
「……強引な解釈だ」
「ええ。だって、私の解釈だもの」
アンジェリカは夕陽へ向き直り、満足そうに笑った。
「汚れているから綺麗だなんて、最高にロックだわ。汗も、砂も、煙も、走った馬車の跡も、誰かが泣いたことも、笑ったことも、全部混ざって、世界が黄金色になるのね」
ルーカスは忌々しげに顔を背けた。
「病原性の汚染物質まで美化するのは危険です。感染症対策の観点から、貴女の感性は極めて不衛生な方向へ暴走しています」
「違うわ。汚いものをそのままにしておけって言ってるんじゃないもの」
アンジェリカは、少しだけ声を柔らかくした。
「洗うものは洗う。壊れたものは直す。でも、そこにあったことまで、全部なかったことにしなくてもいいでしょう?」
ルーカスは答えなかった。
答える代わりに、手帳の余白へ真空管の回路を書き足す。線は正確だった。だが、一拍だけ、筆圧が乱れた。
前世のどこかで見た夕陽が、脳裏を過ぎる。 硝煙と砂塵と血の匂いに汚れた空。 綺麗だと思ったことなどない。 ただ、目を離せないほど美しかったことだけは、覚えている。
「……次の機材搬入日には、夕刻の散乱光に負けないだけの輝度と音圧を持つ、高効率の真空管アンプを持ってきます」
「まあ!」
アンジェリカは太陽のように笑った。
「貴女の言う『ハートビート』が、錯覚ではなく、他者の胸郭へ届く現象であることを確認するためです」
「ええ! 楽しみにしてるわ、ルーカス!」
「……まったく」
背後から、呆れた声が落ちた。
エドワードだった。上着の袖をまくったまま、掌にはまだ赤い取っ手の跡が残っている。王太子らしい優雅さは、今日に限って少しだけ荷台の埃を被っていた。
「夕陽を見ているはずなのに、なぜ最後は胸郭への干渉実験になるのだ、トレンス」
「殿下が聴覚と胸郭の区別を理解されているようで安心しました」
「貴様、俺を何だと思っている」
「本日、アンプを持ち上げる際に腰を使わず腕で引いた方です」
「……それを今言う必要があるか?」
「次に同じ動作をすれば、王家の血統より先に腰椎が敗北します」
アンジェリカが堪えきれずに笑った。
エドワードは一瞬だけ眉を吊り上げたが、すぐに肩をすくめ、ガゼボの柱に背を預けた。
「ならば、次は俺にも正しい持ち方とやらを教えろ。王家の腰椎を守るのも、臣下の務めだろう」
「私は殿下の臣下ではありません」
「では、協力者として命じる」
「協力者に命じるな」
「ならば、友として頼む」
ルーカスの筆が止まった。
アンジェリカが目を丸くする。エドワードは、夕陽を見たまま、少しだけ口元を歪めていた。
「今日一日、貴様に散々こき使われた。掌は痛いし、腰も痛い。だが、悪くはなかった」
「疲労による判断力の低下です。水分を摂取し、早急に休息してください」
「そういうところだぞ、トレンス」
エドワードは小さく笑った。
「先ほどの演奏だが」
エドワードは、まだ赤い跡の残る掌を見下ろしながら言った。
「凄まじい音だった。あれを歌と呼ぶかは、今でも迷っている」
「迷う必要はありません。分類不能なら、便宜上、騒音で結構です」
「貴様は本当に、自分の評価を下げることに躊躇がないな」
エドワードは呆れたように息を吐き、しかしすぐに目を細めた。
「だが、足りない」
ルーカスの万年筆が止まった。
「何がです」
「奥行きだ。いや、幅と言うべきか。貴様の音は強い。鋭い。だが、一人で完結しすぎている。あれでは、聴く者は殴られるだけだ」
アンジェリカが二人を見比べる。
「殴られるだけ?」
「そうだ。衝撃はある。だが、返す場所がない。祈りには唱和がある。舞踏には相手がいる。合奏には呼吸がある。だが、先ほどのトレンスの音は、全部一人で決めて、一人で閉じていた」
ルーカスは数秒沈黙した。
「……ただの曲芸だ」
淡々と吐き捨てる。
「奥行きも、激しさも足りない。一人で制御できる範囲の音など、どれだけ歪ませても、単なる予定調和の反復に過ぎん」
「そこまでは言っていない」
「事実です」
ルーカスは手帳を閉じた。
「音楽で既存のシステムを圧殺するには、こちらの想定を超える不確定要素が必要だ。一人がシステムとして完結している内は、ただの珍奇な見世物で終わる。俺が欲しいのは見世物ではない。大気を物理的に引き裂く質量だ」
エドワードはしばらく黙り、それから片眉を上げた。
「……貴様、音楽の話をしているのだな?」
「そのつもりですが」
「今の説明だと、半分は攻城戦の話に聞こえた」
「差異は限定的です」
「大いにある」
アンジェリカが楽しげに身を乗り出した。
「じゃあ、私たちがその不確定要素になるのね!」
「貴女は不確定要素ではありません。制御不能要素です」
「まあ、すごいわ!」
「褒めていません」
エドワードは思わず笑い、それから少しだけ真面目な顔に戻った
「ならば、私は何だ」
ルーカスは彼を見た。
「殿下は、余計な装飾音です」
「喧嘩を売っているのか」
「だが、必要な場合がある」
エドワードの表情が止まる。
「主旋律だけでは、群衆は見上げる対象を失う。低音だけでは、足元しか見ない。貴方の音は上に伸びる。少なくとも、貴族どもには分かりやすい」
「……褒めているのか、それは」
「用途を述べています」
「まったく、貴様らしい」
ルーカスはわずかに顔を背けた。
「まあ……使い物にならなければ、夢物語ですが」
その言い方だけが、少し砕けていた。
エドワードは笑った。
「なら、使い物になるところを見せてやる。王家の装飾音とやらを、せいぜい上手く使え」
「過度な期待はしません」
「期待しろ。友として命じる」
「友は命令権を持ちません」
「なら、勝手に弾く」
「……最悪ですね」
「お互い様だ、トレンス」
「まあいい。次にまた私を荷役に使うなら、せめて事前に言え。王太子にも、心の準備というものがある」
「作業計画に王太子の心情欄はありません」
「作れ」
「却下します」
「では、勝手に欄外へ書き込んでやる」
アンジェリカが嬉しそうに手を叩いた。
「素敵! それなら、私も書くわ!」
「貴女はまず指定された席に戻る習慣を身につけてください」
「それは別の欄に書いておいて!」
エドワードが、今度こそ声を立てて笑った。
夕陽が三人の影を長く伸ばしていた。
王太子と、侯爵家の名代と、公爵令嬢。肩書だけを並べれば、そこには王国の未来を担う三つの重みがあった。
だが、その瞬間だけは、誰かが命じ、誰かが従う場ではなかった。
ただ、疲れ果てた若者たちが、今日の終わりに、同じ黄金色の光を浴びていた。
ルーカスは再び手帳に目を落とした。
だが、真空管の特性曲線の横に描かれた簡素な散乱図を、しばらく消そうとはしなかった。
黄金色の大気が、論理と感情を、等しく同じ色に染めていた。
・・・・・
・・・
一方、その頃。
学園の音楽室では、窓辺に張り付いたヴェクターが、ガゼボにいる三人の口の動きを読み取りながら、まるで舞台役者のように仰々しい身振り手振りで、三人の会話を勝手に演じていた。
その少し後ろで、ミリアリアは山積みの在庫リストと格闘していた。
彼女の手元には、機材目録とは別に、アンジェリカが中庭で書き殴った羊皮紙が挟まっている。その端には、震えるような筆跡で一行だけが残っていた。
──空腹は、歌になる。
ミリアリアは、その言葉を見るたび、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じていた。
これは、公爵令嬢の気まぐれな詩ではない。飢えを知る者たちの声を、飢えを知らぬ者が借りてしまうのだ。だからこそ、軽く扱えば取り返しがつかない。
美しい言葉に置き換えれば、詩としては整う。だが、それでは違う。
あの少女たちが吐いた声は、飢餓を薔薇色に飾ってほしいのではない。ただ、消さないでほしいのだ。
飢えを知らぬ者が、飢えを美しく飾ってはならない
ミリアリアは、羊皮紙の余白にそう書きかけて、すぐに線を引いた。
あまりにも正しい。
正しすぎて、歌にならない。
けれど、その正しさを忘れた瞬間、アンジェリカの歌は、あの少女たちから声を奪うものになる。
──私が勝手に歌うんじゃなくて、一緒に歌える形にするの。
中庭を離れる前、アンジェリカはそう言った。
──空腹を、私の言葉にするんじゃない。あの子たちの声が、私の歌の中で消えないようにするの。
その言葉があったからこそ、ミリアリアはまだ、この羊皮紙を破り捨てずにいられた。
「『夕刻は日中の活動で巻き上げられた土埃や微粒子が大気中に残留している……スペクトルを解析すれば、その秘密とやらは数値化された大気中微粒子濃度として出力されます』……だ、そうですぜ。ミリアリア嬢」
ヴェクターの芝居がかった声に、ミリアリアは現実へ引き戻された。
「……はぁ」
彼女は羽根ペンを置き、深々とため息をついた。
「……あの方の頭の中には、情緒というものが一片も存在しないのかしら。公爵令嬢の詩情を、微粒子濃度で物理的に粉砕するなんて……本当に、救いようのない無粋さですわね」
「最近の戯作本では、そういう御仁を『ノンデリ野郎』と言うらしいですよ」
ミリアリアは眉をひそめる。
「……何ですの、その品のない言葉は」
「ご令嬢方の間で流行っている戯作本に載っておりましてね。意味は、おおむね今の大将にぴったりかと」
「また妙な言葉が……。どうにも最近は、妙なことが多いものね」
「まったくです。僕ならもっと甘い言葉で夕陽を讃えるんですがねぇ。不器用なお人だ」
「……そもそも、なぜ貴方はあの距離でそこまで正確に読めますの?」
「商人の嗜みですよ」
ヴェクターは、ひどく胡散臭い笑顔でさらりと答えた。
その背後で、低く呻く声がした。
最高級の革張りソファに、巨体を完全に投げ出してうなだれているダモンだ。朝からのヘヴィ・リフトで腰と腕を徹底的に破壊された彼は、もはや指一本動かす気力も残っていないようだった。
「……あの野郎、絶対に許さねぇ。騎士を、人足扱いしやがって……」
「ダモン、文句を言う体力があるなら、こちらの伝票の束を左へ移してください」
ダモンの隣で、ウィルフレッドが青白い顔のまま、ミリアリアの事務作業の補助に回っていた。彼の腕もぷるぷると震えているが、その瞳の奥には、疲労を上回る奇妙な熱が宿っている。
「ミリアリア嬢。この『真空管』と呼ばれるガラス管の目録ですが……先ほどの侯爵の言葉を借りるなら、これが魔力を変換し、あの『板切れ』の微弱な信号を物理的な音圧へと増幅させる心臓部、ということになります。信じられません。これほど物理的で繊細なガラスの部品が、あれほど凶暴な音を生み出すなど。この回路図、一体どういう数式で……」
「ウィル。お前、完全にあの侯爵の毒に当てられてるぞ……」
「毒ではありません。これは学術的な検証です」
ダモンの恨み言をさらりと躱し、ウィルフレッドは食い入るように機材の仕様書を見つめている。
ダモンはしばらく天井を睨んでいたが、やがて舌打ちし、重い腕を持ち上げた。
「……左だな。これでいいんだろ」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うな。余計に疲れる」
そう吐き捨てながらも、彼は伝票の束を崩さないよう、意外なほど丁寧に机の左端へ寄せた。
窓の外では、王太子と天才と公爵令嬢が、夕陽の中で絵画のような時間を過ごしている。
だが、この部屋では、商人の倅が情報を拾い、伯爵令嬢と陪臣たちが、泥と汗と疲労にまみれながら、確実にトレンス家の『実務』を回し始めていた。
その隣室では、担当教授であるミューズが、運び込まれた機材目録の仕様欄を凝視したまま、研究者としての興奮と教育者としての不安の間で、しばらく羽根ペンを持つ手を震わせていた。