第百三十二話 時代の切れ端、責務の再定義
第百三十二話 名のない立場と、定義なき責任
ドン、と分厚いファイルが机に叩きつけられた。
昼食後の静謐に浸っていた室内の空気が、その生々しい衝撃音によって一瞬で引き裂かれる。
ルーカスのデスクの上は、昼食後の気怠さなど微塵も残っておらず、午前中に処理された帳簿と、午後から施工される配管の予定表が、測量されたかのような正確さで左右に整列していた。その端正な余白の上へ、数枚の薄紙が滑り落ちる。
「何か御用ですか?バルフォア侯爵令嬢」
ルーカスは視線すら動かさず、手元の書類にペンを走らせたままで応じた。等間隔で刻まれるペン先の微細な摩擦音と、一定の速度でめくられていく帳簿の頁。その徹底した無関心が、かえって火に油を注ぐ。
「……ああ。大有りだ。貴様の為に直接持ってきてやったぞ」
「監査報告書、ですか。提出先をお間違えでは?」
「いぃや!あっているだろう!貴様の差し向けた鎖だ!知らぬとは言わせぬぞ」
叩きつけられたファイルを見つめるエリザベートの目は、怒りで血走っていた。対するルーカスは、ようやく顔を上げると、困った子供を見るような酷く冷淡な目を向ける。
「はて、私は何も差し向けておりませんが」
「……学園の地下を掘り返しておいて、まだすっとぼけるか」
「とぼける?言いがかりはよしてください。地下の工事は学園長閣下の指示です」
「……私兵に、門番までさせておいてか?」
「まさか。私兵ではありません。我がトレンス家直属の海兵隊員です。それに彼らがいるのは学園長閣下からの依頼です。弁えない暴徒の出現を危惧し、秩序を守る為に」
「その結果、秩序を揺らしている!」
エリザベートが机を叩く。だが、ルーカスの眉一つ動かない。
「揺れているのは、振動です。工事による副産物でしょう」
「その工事すら、貴様の手の物だろうが」
「いいえ。現在施工中の技術者は、我が家の管轄外にある、トレンス・コンストラクション・インダストリー社が請け負っています」
「詭弁ばかり……!結局、貴様の手の物ではないか!」
怒号に近い叫び。しかし、ルーカスはその熱量をすべて吸い込むように、淡々と首を横に振った。彼の指先は、すでに次の書類の端を正確に整え始めている。
「ご冗談を。彼らはトレンス領の出身なだけで、独自発展した企業になります」
「なら……貴様は無関係とでも言いたいのか?」
「無関係ではありません」
「なら!」
「私は進言しただけです」
遮る声は低く、しかし驚くほど明瞭に室内に響き渡った。ルーカスは背筋を伸ばし、組んだ指の上に顎を乗せる。
「我々が優雅さを優先した結果、足元が疎かになっている現状に対して。その結果、学園長閣下は、危機を認識し、改善を決意なされた。私は、私の出来る事を最大限に提供したに過ぎません」
一拍を置き、彼は万年筆をペン皿に戻し、デスクの上の端然とした余白へ指を一本ずつ立てながら、逃げ道のない事実を並べ立てていく。
「緊急である為に、人手が足りない。だからこそ、私は海兵隊を警備に提供しました。
緊急である為に、予算が不足する。だからこそ、融資しました。
緊急である為に、工事手配が滞る。だからこそ、私は工事業者を斡旋しました」
一歩も引かぬ傲然たる態度で、ルーカスは最後にこう締めくくった。
「つまり、初期対応は海兵隊工兵による緊急衛生措置。現在の元請けはトレンス・コンストラクション・インダストリー社。下請けには王都認可業者も入っている。海兵隊は危険区域の警備と技術引き継ぎを担当しているに過ぎない。何か違法性でも?」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が、薄い氷を張ったように固まった。
エリザベートの指が、分厚いファイルの端をミリミリと音を立てて握り潰す。あまりの理不尽な正論に彼女の喉は怒りで閉ざされ、くすぶる炭火のような、赤みがかった焦げ茶の髪が、激しい呼吸に合わせて鋭く揺れていた。
だが、彼女が次の言葉を吐くより早く、背後から低い声が響いた。
「……それで、済むのですか」
ゼオンだった。
その場にいたクラリーベルが、はっと息を呑む。
「ゼオン……!」
制止の声は間に合わなかった。ゼオンは一歩、前に出ていた。顔色は青白いほどに悪い。だが、その瞳だけは、寝不足と憤りで異様なほど澄み切っている。純粋すぎるがゆえに、濁った現実を許せない若者の目だった。
「違法性がなければ、責任はないのですか?」
ルーカスは、初めてそこでゼオンへ視線を向けた。傾いた窓外の光を吸って静かに沈む、彼の琥珀色の髪。それはまるで、視界の隅に映り込んだ羽虫の羽音を確認するかのような、ひどく希薄な視線だった。
「フィアット殿。質問の意図を明確に」
「明確です!」
ゼオンは拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
「あなたは進言した。融資した。斡旋した。警備を提供した。だが、すべてを別の名で呼び、別の者の判断だと言う。学園長の指示。企業の施工。私兵の警備。貴方はただ機会を提供しただけだ、と」
彼の声は微かに震えていた。それは怒りだけではない。この男の論理が、どこまで行っても手に残らない水のように指の隙間から逃げていく、その不気味さへの恐怖が混じっていた。幽霊と戦っているかのような、底知れぬ無力感。目の前にあるのは、署名と捺印と契約条項だけで編まれた、巨大で透明な壁だった。
「だが、すべての中心にいるのは貴方だ。誰もが貴方の言葉で動き、貴方の金で動き、貴方の用意した仕組みの中で動いている。ならば、その結果に対して、貴方は責任を負うべきではないのですか」
その言葉に、傍観していたエリザベートがわずかに眉を上げた。
それは、彼女が怒りで掴み損ねていた一点だった。
違法性ではない。所有でもない。指揮命令でもない。
──責任の所在。
少年が放った、むき出しの正論。
だが、ルーカスは、わずかに口角を上げた。その笑みは、精密な測量によって設計された落とし穴に、獣の足が綺麗に嵌まるのを見届けた猟師のそれだった。
「なるほど。フィアット殿、君にしては良い問いだ」
その侮蔑をはらんだ賛辞に、ゼオンの頬が引きつる。
「馬鹿にしているのですか」
「いいや。評価している。少なくとも、バルフォア嬢のようにファイルを鈍器として使うよりは、幾分か建設的だ」
「トレンス……!」
エリザベートが低く唸り、床を踏みしめる。それを意にも介さず、ルーカスは涼しい顔で続けた。
「責任なら負っている。だからこそ、融資した。だからこそ、警備を出した。だからこそ、施工業者を斡旋した。問題が発生した際、人的・金銭的・技術的損失を最小化するための構造を用意した。君の言う責任とは、感情的に胸を叩いて『私が悪い』と叫ぶことか?」
「違う! 私が言っているのは──」
「では何だ?」
遮るルーカスの声が、静かに、そして圧倒的な硬度を伴って響いた。一瞬にして部屋の主導権が完全に切り替わる。
「工事を止めることか? 汚水を放置することか? 感染症の発生リスクを維持することか? 学園の静謐を守るために、生徒の健康と命を賭けることか?」
「っ……」
ゼオンは言葉に詰まった。突きつけられたのは、あまりにも重い現実の選択肢。彼の綺麗な正義感では、天秤にかけることすらできない具体物だった。
「私は、そんなことを言っているのではない……」
「では、君は何を求めている」
ルーカスは座ったまま、一歩も動かない。ただ、冷徹な言葉の刃だけで、じりじりとゼオンとの距離を詰めていく。逃げ場をなくしていく。
「説明か。謝罪か。中止か。罰か。──『責任』という言葉は便利だ。だが、何を誰にどう負わせるのかを定義しなければ、ただの怒りの別名に過ぎない」
ゼオンの拳が、小刻みに震えた。言い返す言葉が見つからない。
クラリーベルは、その痛々しい震えを見ていた。
これはもう、議論ではない。ただの処刑だ。
ゼオンは、正義の名を借りて、自分の処理しきれない混乱と無力をぶつけているだけに過ぎない。これ以上彼を喋らせれば、身を滅ぼす。
彼女は迷いを捨て、一歩、前に出た。
「申し訳ありません。トレンス侯爵閣下。謝罪はいかようにでも」
ゼオンの前に滑り込むようにして、クラリーベルは深く頭を下げた。張り詰めた空気に、彼女の震える声が染み込んでいく。
「かまわない。頭を上げたまえ、アウレリア嬢」
ルーカスの声から、先ほどまでの刃のような鋭さが消え、元の退屈そうな調子に戻る。
「そういうわけには…」
「ここは学園であり、私も一生徒でしかない。そして、この空間は学園内の私的自由時間であり、制度として発言の機会は誰にでもある。平等にな」
建前だけの平等を口にするルーカスに、クラリーベルは胃のあたりが焼けるような感覚を覚えながらも、貴族としての仮面を死守した。
「寛大な慈悲に感謝致します」
「ただ……」
ルーカスはペンを執り、再び手元の書類へと視線を落とした。その動作だけで、彼らとの対話が「終了した」ことを告げていた。
「貴族として歩むのであれば、振る舞いには気をつけるべきだろう。どんな関係であれ、発言には責任が伴う。貴族であればなおさらだ」
カリカリ、とペン先が紙を引っ掻く音だけが響く。
ルーカスは顔を上げないまま、最後に、酷く残酷な、しかしこれ以上ない救いの言葉を投げかけた。
「君は恵まれているな、フィアット殿。君の剣が抜かれる前に、鞘を押さえてくれる者がいる」
その言葉の重みに、ゼオンはただ、唇を噛み締めて立ち尽くすことしかできなかった。
・・・・・
・・・
再び、ペン先が紙を擦る音だけが室内に落ちた。
誰も、すぐには動けなかった。
ゼオンは唇を噛み締め、クラリーベルはその前に立ったまま、貴族令嬢としての完璧な礼を保っている。エリザベートは、潰れかけたファイルを握りしめたまま、肩で息をしていた。
その沈黙に、柔らかな声が落ちた。
「……責任、ですか。美しい言葉ですわね」
鈴を転がすような声。
だが、その響きは、甘い蜜ではなく、薄く研いだ刃に塗られた毒だった。
「定義されていない限り、どれほどでも相手を縛れる。まるで、上質な絹紐のようですわ」
全員の視線が、自然と声の主へ向いた。
アイリス・ド・アークランド。
彼女はいつからそこにいたのか、その血のように赤い髪を夜の帳のようにドレスの背へ流し、絹張りの扇子を手に、優雅に微笑んでいた。白磁のような肌、計算され尽くした立ち姿、そして、ただそこにいるだけで空間の重心を奪う公爵令嬢としての圧。
エリザベートの眉が、露骨に歪む。
「……アークランド。貴様、いつから聞いていた」
「まあ。人聞きの悪いこと。わたくしはただ、騒がしい獣が書類の束を振り回していると聞いて、様子を見に来ただけですわ」
「誰が獣だ」
「心当たりがおありなら、わたくしから申し上げる必要はありませんわね」
エリザベートの手が剣の柄へ伸びかける。
だが、その指は寸前で止まった。
ここは地下ではない。工事現場でもない。私的自由時間とはいえ、王立学園の一室であり、目の前にはルーカスがいる。ここで剣を抜けば、自分はまた、ルーカスの言う「定義されない怒り」を自ら証明することになる。
その屈辱的な自制を見届けるように、アイリスは小さく笑った。
「ご立派ですわ、バルフォア嬢。ペンと報告書は、少しばかり貴女を淑女に近づけたようですわね」
「……殺すぞ」
「その前に、報告書の誤字を直してからになさいませ。死後に文官から笑われるのは、武門の誉れに傷がつきますわよ」
エリザベートのこめかみに青筋が浮かぶ。
しかし、アイリスはもう彼女を見ていなかった。
その視線は、ルーカスへ向いていた。
ルーカスはペンを止めず、顔も上げない。アイリスが部屋の空気を変えたことも、その毒を撒いたことも、すべて把握した上で、あえて無視しているようだった。
アイリスは、その無関心さに、かすかに瞳を細める。
そして、ゆっくりと歩み寄った。
一歩。
また一歩。
その足取りは淑女として完璧でありながら、どこか獲物の背後へ回る獣のようでもあった。
クラリーベルが、わずかに息を呑む。
エリザベートが低く唸る。
ゼオンは、意味を理解できず、ただその異様な距離の近さに眉をひそめた。
アイリスはルーカスの背後へ立つと、白い手袋に包まれた指先を、そっと彼の肩へ置いた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
それは、婚約者候補としてならば、かろうじて許される距離だった。
だが、まだ正式な顔合わせは済んでいない。両家の最終的な合意も、公には告げられていない。
つまり、それは許容と逸脱の境界線を、わざと爪先で踏む行為だった。
「アークランド公爵令嬢」
ルーカスが、ようやくペンを止めた。
その声は静かだった。
「その手は、どの立場からのものです?」
アイリスの唇が、艶やかに弧を描く。
「もちろん、まだ名のない立場からですわ」
「名のない立場は、権限の所在を曖昧にします」
「ええ。だからこそ、今のうちに一番都合よく使えるでしょう?」
その返答に、エリザベートが露骨に顔をしかめた。
クラリーベルは、逆に表情を消した。
ゼオンだけが、その意味を完全には掴めずにいる。ただ、目の前の公爵令嬢が、自分の噛みついた相手の肩に、当然のように手を置いている。その事実だけが、彼の胸の奥を不快にかき乱した。
ルーカスは、肩に置かれた手を一瞥した。
「曖昧な権限は事故の原因になります」
「でも、事故が起きた時こそ、責任の所在が見えてくるものですわ」
アイリスの声は、甘かった。
先ほどゼオンが持ち出した「責任」という言葉を、彼女はまるで宝石のように摘み上げ、全く別の角度から光らせてみせた。
ルーカスは数秒沈黙し、それから、短く息を吐く。
「……貴女は本当に、面倒な概念を玩具にする」
「あら。貴方ほどではありませんわ。貴方は概念どころか、学園の地下構造まで玩具になさるでしょう?」
「玩具ではありません。インフラです」
「ええ。そうでしたわね。貴方にとっては、淑女の悲鳴も、騎士の誇りも、王立学園の静謐も、すべて最終的には配管と工程表に収束するのでしょう?」
「必要であれば」
その一言に、アイリスの瞳の奥が微かに熱を帯びた。
恋慕ではない。
少なくとも、彼女自身はそう名づけていない。
探究心。政治的関心。支配欲。
己より強い論理に屈服させられたいという倒錯と、その支配者を今度は自らの手で支配したいという矛盾。
それらすべてが、ルーカスの肩に置かれた指先に、薄く、しかし確実に宿っていた。
「……それで」
ルーカスは、淡々と視線を前へ戻した。
「貴女は、この場をどう処理するつもりです?」
「処理だなんて。わたくしはただ、婚約者候補として、未来の縁者が無用な誤解を受けていないか確認しに来ただけですわ」
「まだ候補です」
「ええ。まだ、ですわ」
アイリスは、わざとその言葉を柔らかく重ねた。
「だからこそ、今は何をしても、すべて『候補としての慎ましい関心』で済ませられますの」
「慎ましさの定義について、後日議論が必要ですね」
「楽しみにしておりますわ」
アイリスはそこでふと視線をずらし、青ざめたまま立ち尽くすゼオンへと、扇子の先を向けるようにして目を細めた。
「それにしても、まるで、鏡に映った炎を敵だと思って吠える犬のようでしたわ。……けれど、あの愚直さは嫌いではありません。折るにも、燃やすにも、芯がある方が美しいですもの」
ルーカスは視線を書類に落としたまま、淡々と返す。
「試験紙としては使えるが、可燃性が高すぎる。保管には向かんな」
そのやり取りを聞いていたエリザベートが、耐えかねたように舌打ちした。
「……ふざけた芝居を見せるな。私は、この男を糾弾しに来たのだ」
「ええ。拝見しましたわ。分厚い紙束を机に叩きつける姿、たいへん勇ましかったですわよ。次はぜひ、目次と要約を添えることをおすすめいたします」
「アークランド!」
「それに、バルフォア嬢」
アイリスは、扇子を閉じたまま、エリザベートへ視線だけを向けた。
「貴女は、既に一つ勝っておりますわ」
エリザベートの怒気が、わずかに揺らいだ。
「……何?」
「貴女は、あの地下の数字を読み、報告書にまとめた。少なくとも、剣では届かなかった場所へ、紙で一歩踏み込んだ。あの方の仕組みに噛みつくなら、今後はその刃を研ぎなさいませ」
アイリスは、美しく微笑んだ。
「もっとも、今のままでは鈍器ですけれど」
「……貴様は本当に、最後の一言が余計だな」
「余計なものを削るのは、トレンス侯爵の得意分野でしょう? わたくしまで真似る必要はありませんもの」
ルーカスは、低く呟いた。
「……私を巻き込まないでいただきたい」
「既に中心にいらっしゃるのですから、諦めなさいませ」
アイリスはそう言うと、ルーカスの肩から手を離した。
指先が離れる瞬間、ほんの一瞬だけ、彼女の手が名残惜しむように動いた。
だが、ルーカスはそれを見ていない。
いや、正確には、見た上で「政治的接触」として分類し、そこにある湿度を切り捨てた。
アイリスは、その切り捨てられ方さえも愉しむように、目を細めた。
「……答えろ、トレンス」
エリザベートの声は、怒りに焼けていた。
「貴様は、戦士なのか。それとも、戦場すら紙と工程表の中に閉じ込める、ただの管理者なのか」
室内の空気が、ぴんと張り詰める。
ルーカスは、そこでようやくペンを止めた。
「質問の定義が曖昧です、バルフォア侯爵令嬢。戦士と管理者は、相互排他的な概念ではありません」
「そうやってまた逃げるのか」
エリザベートの指が、監査報告書の表紙を強く掴む。
「私は、あの朝の貴様を知っている」
その一言に、部屋の端で書類を整理していた数人の生徒が、ぴたりと動きを止めた。
エリザベートは気づかない。
「泥に転がり、拳で殴り、蹴り上げ、卑怯も正道も知ったことかと言わんばかりに、ただ勝つためだけに動く貴様を見た。そこに礼節も、家門も、学園の規律もなかった。だが、だからこそ美しかった」
クラリーベルの顔色が変わった。
ゼオンは目を見開いた。
ミリアリアは、手元の書類を握ったまま、ゆっくりと視線を上げる。
「私は、あの瞬間の貴様に焦がれた。誰にも許可を求めず、誰にも縛られず、己の力と論理だけで檻を蹴破っていく者だと思った」
廊下側で、誰かが息を呑む音がした。
エリザベートは、それでも止まらない。
「それなのに、地下にあったのは何だ。バルフォアの名も、アークランドの名も、武門の誇りも何の意味も持たず、ただ工程、安全確認、進捗管理だけが積み上がっていく、あの無機質な場所は何だ」
彼女は、ルーカスを真正面から睨み据えた。
「あのアレックスという男もそうだ。あれほどの武を持つ者を、剣ではなく、門番として、工程の一部として立たせていた。貴様は、戦士すら仕組みに閉じ込めるのか」
「……」
「なあ、トレンス」
エリザベートの声が、低くなる。
「あの朝、私と貴様が互いに激しく求め合ったあの熱は、いったい何だったのだ」
完全な沈黙が落ちた。
廊下の向こうで、誰かが持っていた本を取り落とした。
「……え?」
「今、何と……」
「ハートフィリア様とアークランド様だけでは……」
「バルフォア侯爵令嬢まで……?」
「朝……互いに……?」
ミリアリアは、片手で顔を覆った。
ヴェクターは壁際で口元を押さえた。笑っていい場面ではない。だが、肩が小刻みに震えている。
アンジェリカだけが、目を輝かせていた。
「まあ! エリザベート様も、ルーカスとそんなに熱いことをしたのね!」
「ハートフィリア嬢。発言を増幅しないでください」
ルーカスの声は静かだった。
だが、その顔には、明確な疲労と嫌悪が浮かんでいた。
「バルフォア侯爵令嬢。忠告します。その表現は極めて不適切です」
「何がだ」
エリザベートは眉をひそめた。
本気で分かっていない。
「私は、あの朝の戦いについて問うている。互いの呼吸を読み、刃の代わりに拳を交え、次にどこを抉るかを誰よりも近くで求め合った、あの時間についてだ」
廊下のざわめきが、さらに一段階ひどくなった。
ルーカスは、静かに目を閉じた。
「……手遅れですね」
その時、扇子の開く軽い音が響いた。
「まあ。トレンス侯爵」
アイリスが、甘く愉快そうに微笑んでいた。
「先日の大食堂での昼食会の折には、わたくしとハートフィリア嬢を前にして散々『不合理な乱数だ』『外部観測者が勝手に関係性を構築するな』と冷たく切り捨てておいででしたのに。わたくしたちの高次元の対話を『退屈な雑音』と切り捨てた裏で、よもや武門の薔薇と、泥にまみれた『早朝の熱い逢瀬』を済ませていたとは……少々、順番が違いましてよ?」
「逢瀬ではありません。偶発的な早朝戦闘です」
「互いに激しく求め合った?」
「戦闘上の間合いです」
「拳を交え、呼吸を読み、次にどこを抉るかを近くで求め合った?」
「戦術的観察です」
「ええ。よく分かりましたわ。わたくしたち二大公爵家の令嬢には見せない、たいへん『戦術的で肉体的な』お戯れですこと」
アイリスは、わざとらしく扇子で口元を隠し、周囲の耳に確実に届く声で囁いた。
周囲が、ついに悲鳴のような囁きに変わる。
「嘘だろ……アークランド様とハートフィリア様だけじゃなく、バルフォア様まで……!」
「トレンス侯爵、三人もの令嬢を全部寝取りに行く気かよ!?」
「しかも、バルフォア様とは朝から……泥まみれで……っ」
「アークランド公爵令嬢」
ルーカスの声が、一段低くなった。
「火に油を注ぐのをやめなさい」
「以前、わたくしが火種にされた際、貴方はたいへん冷静に処理なさいましたでしょう? 今回もぜひ、その優れた消火技術を拝見したいものですわ」
「……
ルーカスは、心底うんざりしたように吐き捨てた。
だが、アンジェリカはその横で、ぱっと顔を輝かせた。
「ねえ、エリザベート様!」
「何だ、ハートフィリア」
「その熱、きっと音になるわ!」
「……音?」
「ええ! ルーカスに叩きつけたいものがあるのでしょう? 怒りでも、失望でも、あの朝が嘘じゃなかったって証明したい気持ちでも。そういうものは、きっと強い音になるわ!」
エリザベートは、アンジェリカを見やる。その言葉だけは、不思議と胸に落ちた。
「……叩きつける、か」
彼女は、ゆっくりとルーカスへ視線を戻す。
「そうだな。私は貴様に叩きつけたい。怒りも、失望も、あの朝の熱が嘘ではなかったと証明したいこの衝動も、全部だ」
周囲のざわめきは、もはや収拾不能になりかけていた。
ルーカスは、こめかみに指を当てる。
「バルフォア嬢。忠告します。これ以上発言するほど、貴女の社会的損害は指数関数的に拡大します」
「私は恥じるようなことは言っていない」
「だから問題なのです」
アイリスが、扇子の陰で楽しげに笑った。
「潔いですわね。わたくし、少し好きになりましてよ」
「貴様に好かれる筋合いはない」
「ええ。ですが、貴女ほど無自覚に爆薬を抱えて突撃する方は、なかなか貴重ですもの」
アンジェリカも頷いた。
「そうね! とてもまっすぐで素敵だわ!」
「ハートフィリア嬢。褒めて増幅しないでください」
「でも素敵なものは素敵よ?」
ルーカスは、深く息を吐いた。
「……本題に戻ります」
エリザベートの目が、再び鋭くなる。
「貴女があの朝見た私が嘘だったのではありません」
その言葉に、エリザベートの表情がわずかに揺れた。
ルーカスは続ける。
「ただし、それは私の一部に過ぎない。貴女が勝手にそこだけを切り取り、理想の戦士像を投影し、地下の工程管理を見て裏切りと感じた。それだけの話です」
「それだけ、だと」
「ええ」
ルーカスは、監査報告書の表紙を指で指した。
「戦場とは、刃と刃が触れ合う瞬間だけを指す言葉ではない。塹壕を掘る者、水を引く者、病を防ぐ者、物資を運ぶ者、撤退路を確保する者。名も残らず、血も浴びず、それでも敗北を一日遅らせる者たちがいる」
エリザベートは、何も言えなかった。
「私は必要なら殴る。蹴る。転がる。卑怯と呼ばれる手段も使う。だが、同じ目的を達成するために、配管を通し、契約を結び、融資し、警備線を引く方が有効なら、そちらを選ぶ」
ルーカスの声は冷たい。
けれど、その冷たさの奥には、あの朝に彼女が嗅ぎ取った戦地の匂いが、確かにあった。
「貴女が求めた檻の外とは、好きな時に剣を振るえる庭ではない。自分で責任の形を定義し、その結果を引き受ける場所だ」
エリザベートの喉が、小さく鳴った。
ルーカスは、最後に淡々と告げた。
「あの朝の戦闘は事実です。しかし、事実であることと、それを中心に世界を組むことは別です」
その一言は、どんな拒絶よりも深く突き刺さった。
エリザベートが絶句し、周囲のざわめきすらもその冷たい重圧に押し潰された、その時。
「さて」
アイリスは、その残酷な余韻を愉しげに扇子で断ち切ると、今度は奥へ視線を向けた。
そこには、窓辺の席で一連の騒動を見ていたエドワードがいた。
昼食後の気怠い余韻を残す時間帯だというのに、彼の机の上には、優雅なティータイムの気配は微塵もなかった。豪奢な銀のトレイに載せられた磁器のカップは、一度も口を付けられないまま完全に冷め切り、表面に薄い膜を張っている。そのトレイ自体が、今やルーカスから回された予算決算書の束が風で飛ばないための、ただの重石として扱われていた。
彼は、そのトレイの脇に積み上げられた書類の束から顔を上げ、少しばかり疲れた表情でアイリスを見返す。傍らには、給仕の手際ではなく、書類の不備を仕分けるための鋭い視線でミリアリアが控え、さらに少し離れた位置では、アンジェリカが昼下がりの穏やかな陽光を浴びながら何やら新しい刺繍の図案を広げていた。ヴェクターは壁際に立ち、軽薄そうな笑みを浮かべながら、場の温度を測っている。
アイリスは、優雅に一礼した。
「エドワード殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
「……ああ。アークランド嬢も息災そうで何よりだ」
エドワードは、短く返した。
以前の彼であれば、第二王子派閥筆頭家門の令嬢を前に、もっと身構えただろう。あるいは、王族としての虚勢を過剰に纏ったかもしれない。
だが今の彼には、微妙な疲労と、どこか妙に開き直った空気があった。
ルーカスに荷を運ばされ、書類を書かされ、音楽という奇妙な居場所に片足を突っ込んだ者の、諦めに似た軽さ。
アイリスは、それを見逃さなかった。
「近頃、殿下は随分と……音の賑やかな方々と親しくなさっているご様子。アークランド家としても、少々関心を持たずにはいられませんわ」
エドワードの眉がわずかに動く。
「音の賑やかな方々、か。随分と柔らかく包んだな」
「包まない方がよろしかったかしら?」
「いや。貴女が包まずに物を言う時は、大抵その中に毒針が入っている」
「まあ。殿下も、随分と観察眼がお育ちになりましたのね」
「育てられた覚えはないが、最近、嫌でも目は鍛えられている」
そう言って、エドワードはルーカスをちらりと見た。
ルーカスは書類へ視線を落としたまま、淡々と返す。
「視覚情報の処理精度が上がったのなら、喜ばしいことです」
「お前に言われると、褒められている気がしない」
「事実を述べています」
「それが問題なのだ」
アンジェリカが、楽しそうに笑った。
「ふふ、エドワード殿下とルーカス、最近とっても息が合っているわ!」
「合っていない!」「Hardly」
ルーカスとエドワードの声が重なった。
その瞬間、ミリアリアが小さく噴き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化す。
アイリスは、その一瞬の「同調」を見た。
見てしまった。
第一王子エドワードが、ルーカスの隣で、同じ速度で反応している。
これは、ただの協力関係ではない。
少なくとも、かつての放蕩と無力の殻に閉じこもっていた第一王子とは違う。
何かが変わっている。
いや、変えられている。
「……殿下」
アイリスは、微笑みを深くした。
「確認させていただいても?」
「何だ」
「この集まりは、ハートフィリア公爵令嬢の趣味の延長かしら。それとも、第一王子殿下の新しい政治的足場と見てよろしいのかしら」
空気が、わずかに硬くなった。
ミリアリアの指先が、書類の端を軽く押さえる。
ヴェクターの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
エリザベートは、面倒な政治の匂いに露骨に顔をしかめた。
クラリーベルは、今度こそ完全に沈黙し、ゼオンの腕をそっと押さえた。これ以上、彼に発言させてはならないと判断したのだ。
エドワードは、アイリスを見返した。
少し前の彼ならば、ここで腹を立てたかもしれない。
だが、彼は怒らなかった。
むしろ、疲れたように息を吐いた。
「現時点では、学園公認の音楽・音響研究クラスターだ」
「まあ」
「政治的足場と呼ぶには、まだ音程が合っていない」
ルーカスのペン先が、わずかに止まった。
アイリスの瞳が、細くなる。
アンジェリカは目を輝かせた。
「音程! すごいわ、お兄様! そうよ、まずはみんなで音を合わせないと!」
「ハートフィリア嬢。政治的文脈を、勝手に合唱へ変換しないでください」
「でも、ルーカス。音が合わないと気持ち悪いでしょう?」
「……否定はしませんが」
エドワードが、微かに笑う。
「そういうことだ、アークランド嬢。今はまだ、騒音と演奏の境界を探っている段階だ。足場と呼ぶには、不安定すぎる」
「では、いずれ足場になり得る、と?」
「それを決めるのは、私一人ではない」
エドワードは、そこで少しだけ視線を横へ流した。
アンジェリカ。
ミリアリア。
ヴェクター。
そして、ルーカス。
「少なくとも、この場では、私だけが旋律を決めるわけではないらしい」
アイリスの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。
それは、とても小さな変化だった。
しかし、ルーカスは気づいた。
ミリアリアも気づいた。
ヴェクターも、おそらく気づいた。
第一王子が「自分一人で決める」と言わなかった。
王族として命じるのではなく、仲間と呼ぶにはまだぎこちない者たちの中で、音を合わせようとしている。
それは、第二王子派閥筆頭のアイリスにとって、決して軽視できない変化だった。
「……音程、ですか」
アイリスは、ゆっくりと微笑みを戻した。
「殿下がそのような言葉を選ばれるとは。随分と、面白い影響を受けていらっしゃるのね」
「悪影響だと思うなら、今のうちに止めればいい」
エドワードは、肩をすくめる。
「だが、止まるかどうかは保証しかねる。何しろ、私自身も気づけば荷運びと清書と音響実験の協力者にされていた」
「第一王子殿下を荷運びに。……トレンス侯爵、貴方は本当に、王国の既存秩序に対して礼儀知らずでいらっしゃるのね」
ルーカスは顔を上げずに答えた。
「適材適所です。殿下は予想より筆跡が安定していました」
「そこを評価するな」
「それに、腰の使い方は改善の余地があります」
「今その話をするな」
「次に同じ持ち方をすれば、王家の血統より先に腰椎が敗北します」
アンジェリカが声を上げて笑った。
ミリアリアは、額に手を当てた。
「……お願いだから、王家の腰椎という単語を公爵令嬢方の前で当然のように出さないでちょうだい」
「事実だ、オルスタイン嬢」
「事実なら何を言っても許されると思っているところが、本当に最悪なのよ、あんたは」
その口調の砕け方に、アイリスの視線がぴたりと止まった。
ミリアリア。
ハートフィリア公爵令嬢の侍女であり、オルスタイン伯爵家の令嬢。
彼女は以前、もっと固かった。もっと規律に縛られ、もっと距離を取る娘だったはずだ。
それが今、ルーカスへ向けて「あんた」と言った。
それをルーカスは咎めない。
むしろ、当然のように受け止めている。
アイリスの中で、また一つ盤面が組み変わった。
(……なるほど)
彼女は、ほんのわずかに口元を歪めた。
(この場は、単なる第一王子派閥の再編ではありませんのね。彼は、身分や派閥より先に、使える者を『役割』で再定義している)
王子は装飾音。
公爵令嬢は制御不能要素。
伯爵令嬢は実務担当者。
そして、ルーカス自身は中心ではなく、制度の設計者として振る舞っている。
なんて不快で。
なんて美しい。
アイリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ますます興味深いですわ」
ルーカスは、露骨に嫌そうな目をした。
「貴女の興味は、時折、災害に近い」
「その災害を制御するのが、貴方のお得意な合理性ではなくて?」
「制御不能要素は既に一名で手一杯です」
ルーカスの視線が、アンジェリカへ向く。
アンジェリカは、自分のことだと気づいて、にこにこと笑った。
「まあ、私のこと?」
「ええ」
「なら大丈夫よ、ルーカス!」
「何がです」
「私は制御されなくても、ちゃんと楽しい方へ行くもの!」
その場にいた者たちのうち、数人が同時に沈黙した。
あまりにも無邪気な言葉だった。
だが、その無邪気さは、単なる愚かさではない。
アイリスは、その瞬間、アンジェリカの蜂蜜色の瞳を見た。
彼女は理解している。
少なくとも、自分がこの場の誰とも違う位置にいることを。
ルーカスの論理に染まるのではなく、論理そのものを横から照らす光として存在していることを。
「……ハートフィリア嬢」
アイリスは、静かに声をかけた。
「貴女は、本当に不思議な方ですわね」
「そうかしら?」
アンジェリカは首を傾げる。
「私はただ、楽しいものが好きなだけよ」
「ええ。だからこそ、不思議なのですわ」
アイリスは微笑んだ。
その笑みには、初めて、敵意ではない何かが混じっていた。
羨望に近いもの。
あるいは、決して自分には持てない透明さへの、静かな警戒。
「貴女だけは、あの方の理に感染していない」
アンジェリカは、ぱちぱちと瞬きをした。
「感染?」
「ええ。皆、少しずつ変わっておりますわ。殿下も、オルスタイン嬢も、バルフォア嬢も、そちらのフィアット殿も。良くも悪くも、あの方の論理に触れた者は、以前と同じではいられない」
アイリスの視線が、ルーカスへ戻る。
「でも貴女だけは、変わらないのではなく……最初から別の理で動いている」
アンジェリカは少し考え込み、夕陽でも見上げるような顔をした。
そして、明るく笑った。
「だって、ルーカスの言うことは難しいもの!」
ミリアリアが頭を抱えた。
「アンジェ……そういう問題ではないわ……」
「でもね、アイリス様」
アンジェリカは続けた。
「ルーカスは、難しいことを言っている時も、きっと誰かを置いていきたくないのよ。だから、みんなを無理やりでも前に進ませようとしているんだわ」
ルーカスのペン先が止まった。
「……ハートフィリア嬢」
「違う?」
アンジェリカは、ルーカスをまっすぐ見た。
その瞳には、政治も、欲望も、計算もない。
だが、誰よりも深いところを、平然と覗き込む光があった。
「貴方は、世界が止まっているのが嫌いなのでしょう? でも、本当は止まっている世界そのものより、その中で誰かが苦しんだままなのが嫌なんじゃないかしら」
沈黙。
その言葉は、ルーカスの論理に対する反論ではなかった。
むしろ、論理の奥にある、彼自身が触れようとしない感情へ、無邪気に指を差したものだった。
ルーカスは、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……詩的な誤読です」
「そうかしら。私は、そう聞こえたわ」
「貴女の聴覚は、音楽以外にも余計な情報を拾いすぎる」
「それなら、素敵な耳でしょう?」
「厄介な耳です」
「ふふ、ルーカスにそう言われると、褒められた気がするわ!」
「褒めていません」
エドワードが、低く笑った。
「いや、今のは負けだな、トレンス」
「何の勝敗ですか」
「言葉のだ。彼女の方が一音高かった」
「殿下まで比喩を乱用しないでください」
「覚えたばかりなのでな。使わなければ損だろう」
「その貧乏根性を王家の美徳にしないでいただきたい」
「……貴様、本当に不敬だな」
その応酬に、張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
だが、その緩みの外側に、ゼオンは立っていた。
彼には、その笑いが理解できなかった。
先ほどまで自分が「責任」を問うていた相手が、公爵令嬢に肩を触れられ、王子と軽口を交わし、ハートフィリア公爵令嬢に核心を突かれ、それでも場の中心にいる。
彼らは、もう自分の知る秩序の言語で会話していない。
音楽、工程、責任、感染、制御不能要素。
すべてが絡み合い、ゼオンの理解できない新しい秩序を形作っている。
「……クララ」
ゼオンは、掠れた声で呟いた。
「私は……何を見せられているんだ」
クラリーベルは、彼の腕を掴む手に力を込めた。
「時代の切れ端よ」
「……こんなものが、時代だというのか」
「ええ」
クラリーベルの声は冷たかった。
だが、そこにはかすかな震えもあった。
「残念ながら、貴方が認めなくても、もう動き始めているわ」
ゼオンは、返事ができなかった。
アイリスは、その二人を横目で見た。
「アウレリア嬢」
「……何でしょう、アークランド様」
「彼を、今日は連れてお帰りなさい。今の彼は、これ以上この場にいると、剣ではなく自分の喉を切りますわ」
クラリーベルは、数秒だけアイリスを見つめた。
それから、静かに頭を下げる。
「ご忠告、感謝いたします」
「礼には及びません。貴女のような鞘は、貴重ですもの」
クラリーベルの表情が一瞬だけ強張る。
ルーカスの言葉を、アイリスは拾っていた。
そして、再利用した。
クラリーベルは、そのことに気づいた上で、何も言わずゼオンの腕を引いた。
「行くわよ、ゼオン」
「だが──」
「今は駄目」
その一言は、拒絶ではなく、命綱だった。
ゼオンは、まだ何かを言いたげにルーカスを見た。
しかしルーカスはもう、彼を見ていなかった。
その無関心こそが、最も深い敗北だった。
ゼオンは、クラリーベルに引かれるまま、部屋を後にした。
扉が閉まる。
残された空気に、ほんの少しだけ重みが戻った。
エリザベートは、沈黙したままファイルを拾い上げる。
その目には、まだ燃えるような怒りがあった。
だが、そこには同時に、自分が今何と戦っているのかを理解し始めた者の、暗い光も宿っていた。
「……トレンス」
「何です、バルフォア嬢」
「次は、鈍器ではなく刃として持ってくる」
ルーカスは、わずかに視線を上げた。
「期待はしませんが、改善は歓迎します」
「その言い方が腹立たしい」
「それは残念です」
「残念だと思っていない顔だ」
「ええ」
「殺すぞ」
「その前に、報告書の控えを正規窓口へ提出してください。書式不備があれば差し戻されます」
エリザベートは、今度こそ本気でファイルを投げかけた。
だが、投げなかった。
歯を食いしばり、ファイルを抱え直す。
「……アークランド」
「何かしら」
「行くぞ。貴様も手伝え」
「なぜわたくしが?」
「貴様がいなければ、この男の言葉を次に解体できん」
アイリスは、一瞬だけ驚いたように目を開いた。
それから、愉快そうに笑った。
「まあ。ようやくわたくしの価値を認めましたのね」
「違う。毒には毒をぶつけるだけだ」
「ひどい評価ですわ」
「的確だろう」
「……ええ。残念ながら」
二人は、互いに殺意と奇妙な連帯を滲ませながら、部屋を出ていった。
その背を見送ったミリアリアが、深々と息を吐く。
「……あの二人、最悪の組み合わせね」
ルーカスは書類に戻りながら答えた。
「最悪ということは、出力が高いということです」
「出力が高い爆薬は、管理を誤ると周囲ごと吹き飛ぶのよ」
「だからこそ、管理する価値がある」
「本当に最悪」
ミリアリアはそう吐き捨てながらも、手元の書類を整理し始めた。
エドワードが、椅子の背にもたれながら天井を仰ぐ。
「……トレンス。貴様の周囲は、なぜこうも疲れる者ばかり集まる」
「私に聞かれても困ります」
「貴様が中心にいるからだろうが」
「私は環境を用意しただけです」
ヴェクターが、壁際で楽しげに笑った。
「出た。閣下の便利な逃げ文句」
「黙れ、ウィルソン」
「はいはい」
その時、アンジェリカがぽんと手を叩いた。
「ねえ、みんな!」
全員の視線が、嫌な予感と共に彼女へ集まる。
アンジェリカは、太陽のように笑っていた。
「こんなにみんなの音が違うなら、やっぱり楽団にした方がいいわ!」
沈黙共に、エドワードが眉間を押さえた。
ヴェクターが、壁際で楽しげに笑いながら肩をすくめた。
「お嬢様、そこは今のやかましいノリなら『バンド』って言うべきですよ。どう見ても宮廷の楽団じゃなくて、ロックのそれなんだから」
「ロック?」
アンジェリカが首を傾げ、ヴェクターは続ける。
「各個の出力が異常に高く、既存の枠に収まらない以上、単一の強力な指向性を持つバンド編成として再定義した方が、管理コストは下がります」
ミリアリアが遠い目をして頭を抱えた。
「……お願いだから、アンジェの無邪気な思いつきを、いちいち理屈っぽく補強しないでちょうだい」
ルーカスは、静かにこめかみに指を当てた。
「……ハートフィリア嬢」
「何?」
「今の会話から、どうしてその結論に到達したのか、論理過程を説明してください」
アンジェリカは胸を張った。
「だって、みんな違う音なら、一緒に鳴らした方が楽しいでしょう?」
ルーカスは沈黙した。
反論は容易だった。
非効率。不確定。騒音。制御不能。
いくらでも切り捨てられる言葉はあった。
だが、そのどれもが、なぜか今は決定打にならなかった。
エドワードが、少しだけ笑って言った。
「……どうやら、また一音高かったな」
「殿下」
「何だ」
「黙ってください」
「断る。友として、今の貴様の負けを記録しておく」
「友には記録権限がありません」
「では欄外に書く」
「却下します」
「勝手に書く」
アンジェリカが嬉しそうに笑う。
ミリアリアは、諦めたように書類の端へ小さくメモを入れた。
──要検討:メンバー間の音楽的役割整理。
ルーカスは、それを見て顔をしかめた。
「オルスタイン嬢」
「何よ」
「その項目は不要です」
「いいえ、必要よ。どうせ明日にはアンジェが言い出すもの」
「……」
ルーカスは反論しかけ、やめた。
そして、小さく呟く。
「……Just perfect」
アンジェリカは、満面の笑みで返した。
「最高ね!」
その声だけが、煌めく陽光のような髪を軽やかに弾ませる彼女の、まだ誰の論理にも感染していない黄金色の音として、部屋の中にどこまでも真っ直ぐに響いた。