剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百三十三話

 

第百三十三話 特別資料室の狂宴

 

 

静まり返った廊下に出た瞬間、エリザベートは苛立たしげに歩を進め、アイリスがその半歩後ろを涼やかな足取りで追った。二人の間に流れるのは、まだ解けない殺意と奇妙な連帯の沈黙だ。

 

だが、その歩調に、余分な足音が一つ紛れ込んでいた。

 

エリザベートは鋭く足を止め、翻った外套がバサリと重い音を立てる。振り返った視線が射抜いたのは、当然そこにいるはずのアイリスではなく、その更に後ろを悠然と歩く男だった。

 

「……で、なぜ貴様までついてくる、ウィルソン」

 

問いかける声には、先ほどまでルーカスへ向けていた熱を帯びた怒りとは別種の、冷たく尖った硬さがあった。得体の知れない異物に対する、騎士としての純粋な警戒だ。

 

ヴェクターは、その殺気じみた視線を受けても歩みを止めず、両手を軽く広げて笑った。

いつもの、軽薄で、人を食ったような笑みだ。

 

「おや、ひどい。あれだけ勇ましく報告書を振り回しておきながら、商人の同行はお嫌いですか?」

 

「質問に答えろ。貴様、結局どちら側だ」

 

その言葉に、ヴェクターの笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなった。

貼り付いたような口角はそのままに、瞳の奥から温度だけがスッと消える。

 

「壁際ですよ。どちら側にも逃げられる、商人にとって一番安全な場所です」

 

「ふざけるな」

 

「半分は本気です。もう半分は……バルフォア嬢がまた報告書を鈍器として使用する前に、せめて刃物くらいには研いで差し上げようかと」

 

エリザベートの目が、剣呑に細まった。

 

「貴様、私を馬鹿にしているな」

 

「いいえ。鈍器にも価値はあります。扉を破るには便利ですし、相手がトレンス侯爵でなければ大抵は沈黙します」

 

「ならば、あの男には?」

「通用しません」

 

ヴェクターは即答した。そこに迷いは微塵もなかった。

 

「閣下は、鈍器で殴られても『衝撃方向が非効率です』などと言い出す方です。本気であの方に噛みつくなら、骨ではなく構造を狙える形にしないと。でなければ、また『定義が曖昧です』の一言で処理されます」

 

その容赦のない指摘に、エリザベートの怒気が少しだけ性質を変えた。

不快感はある。だが、武門の人間としての合理性が、彼の言葉の正しさを認めてしまっている。

 

アイリスが、背後から優雅な衣擦れと共に、広げた扇子の陰でコロコロと喉を鳴らして笑う。

 

「まあ。商人の方が、武門の令嬢に牙の研ぎ方を説きますの?」

 

ヴェクターは、歩幅を変えずに自然な動作で、身体を半分アイリスへと向ける。

 

「滅相もない、アークランド様。わたしはただ、宝石にも剣にも、磨き方というものがあると申し上げているだけです」

 

「では、わたくしは何に見えます?」

 

アイリスは微笑んだ。

涼しげな瞳の奥にあるのは、純粋な好奇心ではない。値踏みし、切り捨てる理由を探す、冷徹な観察者の光だ。

だがヴェクターは一拍も置かず、芝居がかった仕草で軽く頭を下げた。

 

「夜咲きの白薔薇、でしょうか」

「陳腐ですわね」

 

「ええ。ですが、陳腐な表現ほど市場では強い。誰にでも美しいと分かる。けれど、近づけば棘があり、香りに酔えば足元を見失う。しかも根は思ったより深い。庭師としては、たいへん扱いが難しい花です」

 

アイリスは扇子をゆっくりと動かし、その笑みをほんの少しだけ深くした。

 

「貴方、商人にしては口が回りますのね」

「商人ですから。口が回らなければ、帳簿が回りません」

「あちらの方は?」

 

「バルフォア嬢は、そうですね……城門を開ける花ですかね」

「花?」

「ええ。根元に爆薬を詰めた、破城槌。あるいは、魔攻砲の一種……」

 

その瞬間、空気が鳴った。

 

「私を鈍器だの攻城槌だの言った口で、よくも優雅に花を語れるな!」

 

エリザベートが踏み込み、腰の回転を乗せた完璧な裏拳を放つ。

 

だがヴェクターは、ちょうどアイリスの言葉に応えるために、身体を完全に向き直らせる動作の「最中」だった。

彼の姿勢は全く崩れていない。足運びも変わっていない。ただ、ごく自然な流れるような動作が、コンマ数秒だけそこに重なった。

 

エリザベートの拳は、ヴェクターの顎のあった空間を紙一重で裂き、そのまま廊下の石壁へ深く突き刺さる。

轟、と鈍い破砕音。

石壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、細かな破片がパラパラと床へ落ちた。

 

ヴェクターは、無傷のまま目を丸くする。

 

「……お嬢さん」

「何だ」

「今の一撃で、わたしの主張が半分ほど実証されました」

「どういう意味だ」

 

ヴェクターは、無惨に砕けた壁をまじまじと見つめる。

それから、半分本気、半分呆れたようにぼやいた。

 

「攻城兵器じゃないですか」

 

エリザベートのこめかみに、ピキリと青筋が浮く。

 

「次は当てる」

 

「それは困ります。商人の頭蓋は、城壁ほど丈夫ではありませんので」

 

アイリスは、扇子の縁からそのやり取りを静かに見つめていた。

彼女の目は、砕けた壁よりも、微塵も重心をブレさせずにそれを躱した商人の足元へ向けられている。

 

「貴方、ずいぶんと運がよろしいのね」

 

ヴェクターは笑う。

 

「ええ。いい男には秘密が多く、いい商人には幸運が多いものです」

 

「秘密と幸運で、どちらが高く売れますの?」

「買い手によります。アークランド様なら、秘密の方がお好みでしょう?」

 

「まあ。失礼な方」

 

「褒め言葉として受け取っております」

 

エリザベートは壁から拳を引き抜き、グーパーと手を動かして砕けた石粉を払った。痛む素振りすら見せない。

 

「……で、商人。貴様は何を売る」

「まずは、言葉の置き換えを」

「言葉?」

 

「ええ。『あの男が気に食わない』では弱い。『責任の所在が不明瞭である』ではまだ鈍い」

 

ヴェクターはそこで一拍置き、わざとらしく芝居がかった声音を作った。

 

「……『学園長承認の公益事業において、民間企業・私兵相当戦力・融資者が同一経済圏に属している場合の監査権限が未定義である』。ここまで行けば、ようやく閣下のペン先が止まります」

 

エリザベートは、露骨に嫌そうな顔をして鼻に皺を寄せた。

 

「長い」

 

ヴェクターは肩をすくめ、愉快そうに目を細めて笑った。

 

「国家戦略レベルの大魔法を行使するなら、それ相応の長い『詠唱』が必要でしょう?」

「詠唱、だと?」

 

「あの方は今、王都の足元そのものを書き換えるような、巨大で複雑な術式を構築している真っ最中です。それを妨害しようというのですから、一言二言の短い呪文(クレーム)で止められるはずがない」

 

エリザベートの肩から、無駄な怒りの強張りがスッと引いた。

武門の令嬢として、「強大な魔術には強大な詠唱が必要である」という論理は、彼女の皮膚感覚に最も馴染むものだったからだ。得体の知れない書類仕事が、明確な『戦い』の形をとって彼女の前に提示された瞬間だった。

 

「……なるほど。相手の術式に干渉するための、長大な詠唱というわけか」

 

「その通りです。ただ、我々が使う魔力(マナ)は、インクと紙ですがね」

 

アイリスが、手元の扇子をパチリと閉じて感嘆の息を吐いた。

 

「まあ。泥臭い書類仕事を、ずいぶんと美しく包装なさるのね」

「商人ですから。お客様のニーズに合わせて、商品の見せ方を変えるのは基本です」

 

アイリスは小さく笑い、エリザベートを見やった。

 

「いかがです、バルフォア嬢。貴女の怒りを貫通させるための、長大な詠唱(監査報告書)……。これなら、武門の誉れにも傷はつきませんわね?」

 

「……腹が立つが、理屈は通っている」

 

エリザベートが渋々といった態で頷くのを確認し、アイリスは再びヴェクターへ涼しげな視線を向けた。

 

「では、わたくしは何を買えばよろしいのかしら。貴方が仰る通り、わたくしがあの方を解析したいなら、毒だけでは足りません。毒を流し込む管と容器が必要ですわ」

 

「ですから、バルフォア嬢の報告書を容器にするのです」

 

エリザベートが、ピクリと眉を跳ね上げて露骨に顔をしかめた。

 

「私の報告書を毒壺にするな」

「ただの鈍器よりは洗練されていますわ」

「アークランド、貴様も黙れ」

 

ヴェクターは、二人の不穏な空気をどこ吹く風と受け流し、恭しく一礼する。

 

「わたしは商人です。管と容器と値札を用意し、鈍器を刃に変える『商人の砥石』を提供するのが仕事でして」

 

エリザベートは、しばらくヴェクターを鋭く睨みつけた。

その視線には、裏切られた者の怒りに似た、ひどく冷たい警戒の色があった。

 

「やはり貴様、あの男の言葉を知りすぎている」

「長い付き合いですので」

「ならば、敵だな」

「いいえ」

 

ヴェクターは、そこで再び笑った。

まるで仮面をすげ替えるような、完璧な商人の顔で。

 

「攻略情報を売りに来た商人です」

 

エリザベートは小さく息を吐いた。

 

彼女自身も知っていた。

この男は、最初から味方などと名乗ってはいない。ルーカスの側にいるように見える。自分の不満を煽ったようにも見える。兄ルードヴィッヒの思惑すら、あの地下へ流し込んだようにも見える。

 

毒蛇よりも信用ならない男だ。

それでも今、この男は、ルーカスに噛みつくための牙の研ぎ方を教えると言っている。ならば、利用するしかない。

 

「……ついて来い」

「光栄です、お嬢さん」

「次にその呼び方をしたら斬る」

「では、バルフォア監察官」

「それも腹が立つ」

 

アイリスが扇子の陰で、心底おかしそうに笑った。

 

「素敵ですわ。始まる前から、たいへん先行きが暗い共同作業ですこと」

 

「貴様も来るんだ、アークランド」

「もちろん。毒壺の出来栄えを見届ける責任がありますもの」

「だから毒壺と言うな」

 

三人は歩き出した。

石造りの冷たい廊下の奥へ向かう足音は、決して揃っていなかった。

 

規則正しく床を叩く、騎士の硬い靴音。

音を立てずに滑るような、公爵令嬢の静かな歩幅。

そして、どこへでも逃げられるような、商人の軽すぎる足取り。

 

だが、決して交わるはずのなかったその不揃いな音が、奇妙にも一つの方向へ進んでいく。

背後の部屋からは、まだアンジェリカの明るい声が響いていた。

 

――みんな違う音なら、一緒に鳴らした方が楽しいでしょう?

 

その無邪気な余韻を断ち切るように、エリザベートは舌打ちをした。

 

「……冗談ではない。私は、あの男に叩きつける刃を研ぎに行くだけだ」

「ええ」

 

ヴェクターは、薄く笑った。

 

「最初は皆、そう仰います」

 

その声は、いつも通り羽のように軽かった。

だが、貼り付いた商人の笑みだけが、ほんの一瞬だけ奇妙な同情を帯びて、遅れて戻ってきた。

 

彼らは気づいていない。

自分たちが刃を研いでいるつもりのその足取りが、すでにあの「不揃いな音を束ねる」怪物の重力圏に、完全に絡め取られていることに。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

三人の不揃いな足音が止まったのは、王立学園北棟の奥だった。

 

分厚いオーク材の扉で閉ざされたそこは、特別資料室と呼ばれている。

 

過去数十年分の学園図面。王都の統計資料。古い修繕記録。疫病年の出欠簿。認可業者の登録簿。普段なら埃を被ったまま、誰に顧みられることもない紙の墓場だ。

 

エリザベートが乱暴に扉を開ける。

 

「……何だ、この紙の山は」

 

一歩足を踏み入れた彼女は、思わず顔をしかめた。

 

広い机の上はもちろん、床にまで羊皮紙と分厚い台帳が散乱している。古い紙の匂い。乾いた革表紙の匂い。それに混じる、濃すぎるインクの匂い。

 

そして、部屋の奥から、ぶつぶつと呟く異様な声が聞こえてきた。

 

「……違う。違うんだ。第三区画の排水量だけでは説明できない。現状の生徒数なら過剰だ。だが、疫病年の欠席率と、王都南区の人口流入を重ねれば……いや、待て。ここにトレンス領の衛生規格を当てはめると……」

 

資料の山の向こうで、ひとりの男が取り憑かれたように計算尺を弾いていた。

 

クレメンス・ド・ノイマンだった。

 

普段の理知的で隙のない貴族の面影はない。髪は乱れ、目は血走り、頬には不健康な熱が差している。

ただ、その瞳だけが異様に澄んでいた。

未知の真理の輪郭に触れかけてしまった者の、ひどく危うい光だった。

 

エリザベートが引いたように眉を寄せる。

 

「ノイマン……? 貴様、そこで何をしている。幽鬼のような顔だぞ」

 

クレメンスは、弾かれたように顔を上げた。

充血した目が、三人を見た。

いや、正確には、エリザベートの小脇に抱えられた『分厚い監査報告書』を視線で射抜いた。

 

「そ、それは……」

 

がたん、と椅子が倒れる。

クレメンスはふらつきながら立ち上がり、恐ろしいほどの執念でエリザベートへとにじり寄った。

 

「バルフォア嬢。それは地下工事の現場記録か。資材搬入量、施工区画、作業人員、工期、事故報告、魔道灯の消費量まで入っている最新の帳簿だな?」

 

「ひっ……な、何だ貴様。気味が悪い。近寄るな」

 

思わず一歩後ずさったエリザベートの横で、ヴェクターがやれやれと肩をすくめた。

 

「おやおや。歴史と法の徒は、すっかり数字の虜になってしまったようですね」

 

「ウィルソン!」

 

クレメンスはヴェクターを見ると、ほとんど縋るような目を向けた。

 

「君か。君が彼女にそれを持たせたのか。昨日置いていった王都の人口動態資料と、トレンス領の衛生規格を照らし合わせていたんだ。だが、足りない。現場の数字が足りない。机上の統計だけでは、線が見えない」

 

「線?」

 

エリザベートが顔をしかめる。

 

「何を言っているんだ、こいつは。頭が沸いたのか?」

「いいえ、バルフォア嬢」

 

アイリスが、扇子を広げて優雅に微笑んだ。

その目は、クレメンスの狂態を咎めるものではなかった。むしろ、埃の山の中から『よく研がれた刃』を見つけた者の目だった。

 

「どうやら彼は、わたくしたちより先に、あの方の言語へ足を踏み入れてしまったようですわ」

 

「言語だと?」

 

「ええ。剣でも、家格でも、感情でもなく、数字と条件と余白で書かれた言語です」

 

アイリスはエリザベートから報告書を受け取ると、クレメンスの目の前でぱらりと頁をめくってみせた。

 

細かな施工記録。区画ごとの資材配分。魔道具の配置表。人員交代の時刻。作業中止基準。湿度と臭気の記録。

 

クレメンスが、ごくりと喉を鳴らした。

 

「ノイマン卿」

 

アイリスの声は、極上の毒のように甘かった。

 

「貴方、この暗号を解いてみたいとは思わなくて?」

 

「暗号……」

 

クレメンスは、震える指で報告書の端に触れた。

 

「これは暗号ではない。少なくとも、本人は隠していない。むしろ、すべて書いてある。書いてあるのに、意味が見えない。そこが気味が悪い」

 

ヴェクターが薄く笑う。

 

「よくお分かりで」

 

「違うんだ、ウィルソン。これは、補修ではない。少なくとも、補修だけでは説明できない」

 

クレメンスは報告書を掴み取るように奪うと、乱暴に頁を捲った。

 

「この配管径。今の学園には大きすぎる。ここの排水余力もそうだ。通常年なら無駄だ。無駄なら、トレンス侯爵は削る。あの方は余分な装飾を嫌う。ならば、これは無駄ではない」

 

「では、何なのです?」

 

アイリスが問う。

クレメンスは答えなかった。いや、答えられなかった。

彼は紙面に視線を落としたまま、掠れた声で呟く。

 

「まだ分からない。だから、気味が悪い」

 

部屋の空気が、わずかに冷えた。

 

「ただ、一つだけ言える」

 

クレメンスは顔を上げた。

その目には、怯えと興奮が同居していた。

 

「彼は、今の学園を見ていない」

 

エリザベートは眉をひそめる。

 

「どういう意味だ」

 

「今ある人数。今ある校舎。今ある規則。今ある権限。それだけを見て設計しているなら、この数字にはならない。十年後の負荷。疫病年の最悪値。王都から流れ込む人の波。学園が避難所になる場合。あるいは、学園が水と汚物の流れを握る場合」

 

そこまで言って、クレメンスは自分の言葉の行き着く先にぞっとしたように口を閉ざした。

 

「……いや、違う。言いすぎた。まだ証明できない」

 

ヴェクターは何も言わない。ただ、楽しげに笑っている。

アイリスはその沈黙を見逃さなかった。

 

「ウィルソン、と言ったかしら」

 

「はい、アークランド様」

 

「貴方は、どこまでご存じなのかしら」

 

「商人は、商品の価値を多少知っているだけですよ」

 

「多少?」

 

「ええ。全部知ってしまうと、かえって値付けを誤りますので」

 

アイリスの笑みが深くなる。

だが、それ以上は追わなかった。今この場で、ウィルソンという商人の底を暴くことは目的ではない。

目的は、ルーカス・フォン・トレンスのペン先を止めるための刃を作ることだ。

 

アイリスは扇子で報告書を指し示し、クレメンスを見つめた。

 

「ノイマン卿。貴方の学問で、この壺に罅を見つけてくださらない?」

 

「壺?」

 

エリザベートが嫌そうに顔をしかめる。

 

「また毒壺の話か」

 

「ええ。バルフォア嬢の怒りを、ただの鈍器ではなく、きちんと毒の通る容器にする必要がありますもの」

 

「私の報告書を毒壺にするな」

 

「鈍器よりは洗練されていますわ」

 

「アークランド、貴様も一度殴られたいのか」

 

「わたくしは花ですので、丁重に扱っていただきたいですわ」

 

「根に毒が回っている花だろうが」

 

「まあ。ずいぶん正確な観察ですこと」

 

そのやり取りを聞いていたクレメンスは、もはや二人を見ていなかった。

彼は報告書を、神託の石板でも受け取るような手つきで握りしめている。

 

「……やる」

 

声が震えていた。

 

「いや、やらせてくれ。僕の学問のすべてを懸けて、この数字の底にあるものを掘り出してみせる。あの男が何を見ているのか。どこまでを、今から設計しているのか」

 

「素晴らしいですわ」

 

アイリスが満足げに微笑む。

 

「交渉成立ですわね」

「待て」

 

エリザベートが腕を組む。

 

「私はまだ、こいつを信用すると言っていない」

 

「信用しなくて結構です」

 

ヴェクターが軽く手を叩いた。

 

「必要なのは信用ではなく、役割です。武門の監察官。公爵家の毒。得体の知れない商人。そして数字に憑かれた文官。なかなか均整の取れた布陣では?」

 

「どこが均整だ。悪夢の見本市ではないか」

 

「神話の英雄譚にも引けを取りませんよ。盾役、魔術師、盗賊、賢者」

「誰が盾役だ。私は剣だと言っているだろうが」

「はいはい、攻城槌ですね」

「ウィルソン、貴様……!」

 

エリザベートが拳を握りしめたその時、クレメンスが報告書の一頁を押さえながら叫んだ。

 

「待て。この第三工区の配管圧だ」

 

全員の視線が、紙面へ落ちる。

クレメンスは震える指で、細かな数字の列をなぞった。

 

「おかしい。ここの材質と厚みが、通常の排水補修にしては明らかに過剰だ。いや、過剰というより……余裕を持たせている。水量の急増に耐えられるように。あるいは、あとから別系統を接続できるように」

 

「別系統?」

 

エリザベートが身を乗り出す。

 

「何の話だ」

 

「まだ分からない」

 

クレメンスは即座に言った。

 

「分からないが、補修ならこの余白は要らない。もしこの余白に意味があるなら、工事の目的は地下を直すことではなく、地下を今後使える形に変えることだ」

 

アイリスが扇子を閉じた。

 

「つまり、その余白に対して監査権限を問える、ということですわね」

「問える」

 

クレメンスの声が低くなる。

 

「ただし、問い方を誤れば潰される。『なぜ過剰なのか』では弱い。彼は安全率と将来負荷で返してくる。『誰が、その将来負荷を定義したのか』まで問わなければならない」

 

ヴェクターが、楽しげに目を細めた。

 

「おや。もう刃らしくなってきた」

 

エリザベートは、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「……長い。面倒くさい。だが、少し分かってきた」

「何がです?」

 

アイリスが問う。エリザベートは報告書を睨みつけた。

 

「つまり、あの男を殴るなら、あの男の拳ではなく、あの男が勝手に引いた線を殴れということだろう」

 

部屋が一瞬、静かになった。

クレメンスが、ゆっくりと頷く。

 

「粗いが、おそらく正しい」

「粗いと言うな」

「では、武門らしい」

「それも褒めていない」

 

ヴェクターが肩をすくめる。

 

「いいではありませんか。刃物にする前の鉄は、だいたい粗いものです」

「貴様は一言多い」

「商人ですから。言葉数で稼いでおります」

 

アイリスはその光景を眺めながら、静かに笑った。

本来なら決して同じ机につくことのなかった者たち。

武門の令嬢。公爵家の毒花。商人の次男。知に飢えた文官。

その四人が、埃とインクにまみれた特別資料室で、一つの報告書を囲んでいる。

 

敵を倒すためではない。

まだ、倒せるなどとは誰も思っていない。

ただ、一度でいい。

あの男のペン先を止めるために。

 

「始めましょうか」

 

アイリスが言った。

クレメンスが新しい紙を広げる。

ヴェクターが台帳を開く。

エリザベートが椅子に座り損ね、苛立たしげに立ったまま机へ身を乗り出す。

 

「まず何をすればいい」

 

「報告書の表題を変えます」

 

ヴェクターが言った。

 

「『地下工事に関する監査報告』では弱い。もっと細く、もっと深く刺す」

 

「どんな題だ」

 

クレメンスは、羽根ペンを取った。

数秒、沈黙する。

そして、紙の一番上に書きつけた。

 

――学園長承認公益工事における監査権限および将来負荷定義主体の所在について。

 

エリザベートは心底嫌そうな顔をした。

 

「長い」

 

アイリスは満足げに微笑む。

 

「刃とは細いものなのでしょう?」

 

ヴェクターが楽しげに頷いた。

 

「ええ。そして、長い刃ほど奥まで届きます」

「卑猥に聞こえる。黙れ」

「心外です」

 

アイリスは、書き上げられた表題を眺めながら、ふと呟いた。

 

「まるで、玉座の脚を一本ずつ測っているようですわね」

 

「玉座?」

 

「ええ。王冠を戴かずとも、玉座の傾きは変えられる。学園を足場にし、王都の地下へ手を伸ばす。水と汚物の流れを押さえれば、人の流れも、病の流れも、金の流れも見える。たいへん不作法で、美しい手筋ですわ」

 

「違う」

 

クレメンスの声は、思ったより鋭かった。

アイリスが目を細める。

 

「違う?」

「王権に繋がらないとは言わない。繋がる。繋がってしまうだろう。だが、それを目的にした線ではない」

 

クレメンスは、数字の列を指でなぞった。

 

「玉座の傾きを変えるだけなら、ここまで要らない。支持を集めるだけなら、もっと見える場所に金を使えばいい。派閥を動かすだけなら、井戸と排水路の寸法まで見る必要はない」

 

エリザベートが顔をしかめる。

 

「では、何のためだ」

 

クレメンスは答えられなかった。

答えられないまま、かすれた声で呟く。

 

「分からない。ただ……この数字は、王を作るための数字ではない」

 

一拍。

 

「人を死なせないための数字に見える」

 

部屋に、重い沈黙が落ちた。

アイリスは、その一瞬の沈黙で気づいた。この得体の知れない商人は、クレメンスの異常な推論を、軽口で否定しなかったのだ、と。

だが、ヴェクターは次の瞬間には、完璧な商人の仮面を貼り直していた。

 

「ウィルソン」

「覚えていただけたとは光栄です、アークランド様」

「勘違いなさらないで。名札をつけただけですわ」

「売り場に置いていただけただけでも十分でございます」

 

「貴方は、今の言葉を否定なさらないのね」

 

ヴェクターは、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。

 

「商人は、売れる商品を否定しません」

「それは商品ですの?」

「ええ。人が死なない街は、高く売れます」

「誰に?」

「生きている者すべてに」

 

アイリスは、しばらく黙った。

 

それは商人の言葉だった。だが、薄気味悪いほどに、あのトレンス侯爵の論理に酷似していた。

 

こうして、特別資料室の夜は更けていく。

それは、ルーカス・フォン・トレンスという怪物を打ち倒すためではない。

その歩みを完全に止めるためですら、まだない。

 

ただ、彼のペン先を、ほんの一瞬でも止めるための、最も歪で、最も凶悪な監査報告書を錬成する、徹夜の始まりだった。

 

 

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