剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百三十四話

 

第百三十四話 枯れ葉達の署名、地上に張られた網

 

 

王立総合学園の片隅にて

 

 

「最近の殿下は、変わられた」

「昔なら、こんなことは問題にならなかった」

「規律だの秩序だの……息が詰まる」

 

そんな囁きが、ここ数日、学園の貴族子弟たちの間で交わされていた。

 

殿下は、以前のように彼らの遊びに付き合わなくなった。授業を抜け出すことも、気に入らぬ生徒をからかって笑うことも、取り巻きたちの軽薄な茶会に顔を出すことも、目に見えて減った。

それは、学園を揺るがす改革などではない。

 

ただ、殿下が少しばかり真面目になり、少しばかり付き合いが悪くなった。それだけの話だった。

だが、殿下の放蕩に寄り添うことで甘い蜜をすすっていた者たちにとっては、それだけで十分だった。

 

殿下の威を借りて大きな顔をする。殿下の冗談に便乗して誰かを笑う。殿下の不興をちらつかせて、自分の小さな優位を守る。

その後ろ盾が薄れた途端、彼らの息苦しさは始まった。

 

「まったく、つまらなくなったものだ」

「殿下がああでは、こちらまで窮屈になる」

「下の者どもが、勘違いしなければよいが」

 

そしてその不満は、より弱い者へ向けられる。

王立学園の図書館裏、古い石壁に囲まれた片隅は、陽光が届かず、人目も少ない。声を荒らげても広い中庭までは届かず、壁際に立たされた者がその場を離れるには、向かい合う相手の許しを得るほかなかった。

 

その日も、身分を笠に着た高慢な声が響いていた。

 

「おい、平民。何度言えばわかる? この水場の使い方も知らないのか。ああ、知る由もないか。所詮、お前のような土の匂いのする者は、侯爵閣下がこの学園に寄贈された、由緒正しき石造り水路の恩恵すら、恐れ多くて受けられぬということか」

 

上級生であるアラン・ヴィルヌーブは、大商会ヴィルヌーブ家の御曹司だった。貴族の子弟が占めるこの学園で、彼が己の「面子」を保ち、貴族と肩を並べるための武器は、己の財力と、上級生という身分、そして貴族家との縁だった。

 

とりわけ彼が誇りにしているのが、ヴィルヌーブ商会が代々出入りを許されている、ある侯爵家との関係である。

 

この図書館裏の水場もまた、その侯爵家が三代前に学園へ寄進したものだった。もっとも、アラン自身がそこに何かをしたわけではない。ただ、その維持に必要な金具や部材を、かつてヴィルヌーブ商会が納めていたというだけの話だ。

それでも彼にとっては十分だった。

 

アランは、石壁に埋め込まれた古い青銅の水栓を、これ見よがしに捻ってみせた。

 

それは獅子の頭を象ったもので、緑青を帯びた口元から、しばらく低い唸りのような音がした。やがて、石の奥で何かが噛み合う鈍い音がして、細い水筋が石の受け皿へ落ちる。

 

「ただ力任せに回せばいいわけではない。三代前の閣下が名誉のために作らせた、中の繊細な仕掛けを壊したらどうする? これは単なる水場ではない。侯爵家が学園に寄せた信義と名誉の証だ。それを不用意に扱われて、我々が黙って見過ごせると思うのか」

 

彼は壁際に追い詰めた新入生のトマスを見下ろし、周囲の取り巻きたちもまた、逃げ道を塞ぐように立っていた。

 

その時、一連の低俗な情景を、冷めた無関心の視線が貫いた。

 

「おい」

 

声は大きくなかった。

 

だが、狭い石壁の間では、それだけで十分だった。

アランと取り巻きたちが一斉に振り返る。そこに立っていたのは、真新しい制服を寸分違わず着こなした少年だった。

茶色の髪に、澄んだ青い目。血筋の良さは感じさせるが、社交界で目立つような派手さはない。

 

だからアランは、目の前の少年をただの新入生として見た。

彼の表情は、今しがた繰り広げられていた力による不均衡な圧力には、何の感情も抱いていないことを雄弁に物語っていた。

 

「私は、その生徒に用がある。直ちにそこを退け」

 

アランの顔が一気に怒りで紅潮した。彼はルーカスを上から下まで見定め、その傲慢な態度に自尊心を深く傷つけられた。

 

「なんだと、貴様! 見たところ新入生だろう。どこの馬の骨か知らんが、上級生に向かってその口の利き方はなんだ!」

 

取り巻きの一人が、アランの袖を小さく引いた。

 

「アラン様……あれ、もしかして」

「黙れ」

 

アランは低く吐き捨てた。

だが、その一言で、彼自身も遅れて気づいた。

ルーカス・フォン・トレンス。

 

王命によって十三歳で学園に入った、辺境侯爵家の名代。

名前だけは、知っていた。

顔を知らなかっただけだ。

 

だが、もう遅い。

取り巻きは見ている。壁際には平民がいる。ここで退けば、アランが築いてきた上級生としての威は、何の音も立てずに崩れる。

だから彼は、自分の知る最も強い言葉を選んだ。

 

「我々はヴィルヌーブ商会、侯爵家にも出入りする名家だぞ! 今、我々が貴様の命令を聞けば、私の『面子』がどうなるか、わかっているのか!」

 

彼は、すぐには答えなかった。

ただ、アランの顔を見た。

怒りで紅潮した頬。わずかに強張った肩。取り巻きたちの視線を背に受けて、それでも引くことのできない足。

そのすべてを、何かの記録を取るような目で眺めている。

 

「君は」

 

ルーカスは静かに言った。

 

「侯爵家に出入りしていることを、誇っているのか」

 

アランの眉が動いた。

 

「当然だ。ヴィルヌーブ商会は、代々──」

「質問に答えろ」

 

声量は変わらなかった。

 

だが、その一言で、アランの言葉が止まった。

ルーカスは続ける。

 

「君自身が、その侯爵家のために何かを成したのか。あるいは、君自身の名で、ここにいる者たちが敬意を払うべき何かを示したのか」

 

「……何を言っている」

「答えられないのだな」

 

ルーカスは、そこで初めて小さく息を吐いた。

失望したようにも見えなかった。ただ、確認が終わった者の顔だった。

 

「君が守りたいと言う『面子』は、君自身の働きによって得たものではない。家の取引先。上級生という立場。周囲が勝手に恐れているだけの、曖昧な優位。それらを寄せ集めて、自分の価値であるかのように抱えている」

 

アランの唇が震えた。

 

「貴様……!」

 

「違うか?」

 

ルーカスは一歩、近づいた。

 

「私は『面子』というものを否定しているわけではない。血統にも、家名にも、責任と役割がある。それを守るために自らを律するなら、理解できる」

 

澄んだ青い目が、アランを見据えた。

 

「だが君が今しがみついているものは、それではない」

 

アランは息を詰めた。貴族社会の論理で武装したはずの己の言葉が、目の前の少年の前では全く通用しない。

 

「君は、自尊心を守っているのではない。ただ、他人の名を借りて膨らませた虚勢が剥がれることを恐れているだけだ」

 

周囲の取り巻きたちが、息を呑んだ。

アランの顔から、怒りとは別の色が消えていく。

 

「だから、君の『面子』は軽い」

 

その声は、どこまでも平坦だった。怒りも、失望も、侮蔑すらない。

 

「家の名も。取引先との縁も。上級生という立場も。それらを除いた後に、君には何が残る?」

 

アランは答えられなかった。

 

「答えられないのなら、君自身も理解しているのだろう」

 

更に一歩。

逃げ道を塞ぐためではない。ただ、聞き取りやすい距離まで歩み寄っただけのように。

 

「聞け、アラン・ヴィルヌーブ」

 

ルーカスは、淡々と、しかし決定的に言い放った。

 

「私にとって、君のいう『面子』は、道端に落ちた枯葉だとか、肩に付いた糸くずのような、取るに足らないものだ。そもそも、私の視界に入る価値すらない。今私がこうして君に話しかけているのは、君という枯葉を拾い上げるためではない。私の用事を君たちが邪魔したからだ。ただそれだけだ」

 

アランは面子を完全に砕かれながらも、トレンス侯爵家という名と、ルーカスの全身から発せられる威圧感に抗うことができなかった。

 

「さあ、退け。君のどうでもいい自尊心とやらを、私に踏み潰させるな。時間がない」

 

彼は奥歯を軋ませ、憤怒に満ちた顔で取り巻きを引き連れ、屈辱的な退場を選んだ。

 

アランの姿が石壁の角に消えると、残されたのはルーカスと、恐怖と感謝が入り混じった顔で立ち尽くす新入生トマスだけだった。

 

「あ、あの… トレンス様… 助けていただき、ありがとうございます…」

 

トマスはどもりながら頭を下げた。

 

ルーカスはトマスを一瞥した。その視線に、助けたことへの満足感や、僅かな友情の感情すら見当たらなかった。

 

「感謝は不要だ。私は単に、私の用事が妨げられたから、障害物を排除したに過ぎない」

 

ルーカスは服の袖を軽く払う仕草をし、再びトマスに視線を合わせた。その口調は、今度はただの機械的な事務連絡に切り替わっていた。

 

「さて、本題だ。トマス・ベネット、君だな?」

「は、はい」

 

「学術棟の魔術理論科、レオン教授からの伝言だ。今朝の基礎魔法実験の課題提出について、君の羊皮紙に記述漏れがあったらしい。記述形式が学園の定めに合致していない。『直ちに教授室に来て、私に書き直しの許可を得ること。そうでなければ、君の課題は不受理とする』とのことだ」

 

トマスは驚きに目を見開いた。

「え…! 課題の…?」

 

ルーカスはそれに構わず、言葉を続けた。

 

「以上だ。一分でも早く行け。教授は午後には席を外される。これは単なる伝達事項であり、私の裁量が介在する余地はない。これで、私のすべきことは完了した。ではな」

 

ルーカスはトマスに背を向け、すぐにその場を立ち去り始めた。まるで、彼の前を横切った虫を払った後のように、意識の全てを次の行動に移しているようだった。

 

石壁の角を曲がった先で足を止めていたアランは、その会話の全てを聞いていた。彼は自分の耳を疑った。

 

「伝達事項だと…?」

 

アランは、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。あのトレンス侯爵家の新入生との命懸けの面子の対立が、平民の課題の記述形式の不備を伝えるという、事務的な『用事』よりも価値が低いと、彼によって断じられたのだ。

 

「くそっ…! あいつは… あいつは、教授のただの伝言を、私のヴィルヌーブ家の面子よりも…私の上級生としての権威よりも、優先すべき事項だと見做しやがったのか!?」

 

「あ、アラン様…。まさか、あれが… ルーカス様の言う『私的な感情の発散に付き合っている暇はない』ということだったのでしょうか…」

 

アランは憎悪に満ちた目で、拳を握りしめた。

 

「そうだ。あいつは、私とのあの対立、私が面子を潰されたあの数分間のやり取りを… 『取るに足らない、効率を阻害するノイズ』として処理しやがったのだ!」

 

「私の名誉は、平民への課題の記述形式の連絡という、事務作業よりも下に置かれた…! トレンスめ…! なんという傲慢さだ!!」

 

彼の名誉は、王立学園の教授の「伝言」という、単なる事務作業よりも下に置かれた。アランは憎悪と屈辱で全身を震わせ、石壁に爪が食い込むほど拳を握りしめた。

 

「私の自尊心は、道端の枯葉以下か…! トレンス侯爵家の新入生め…! なんという、なんという傲慢さだ!」

 

 

・・・・・

・・・

 

 

アランは、その夜、自室の机に置かれた銀の燭台を見つめていた。

 

炎は細く揺れていた。まるで、あの時の自分の声のようだった。怒りに震え、面子を叫び、しかし結局、何一つ届かなかった声。

ルーカス・フォン・トレンスは、自分を敵とすら見なさなかった。

侮辱ならまだよかった。憎悪なら受け止められた。嘲笑ならば、嘲笑で返せた。

だが、無関心だけは耐えられなかった。

あの冷たい目は、アランの名も、家も、誇りも、怒りも、すべてを一枚の事務書類より軽く扱った。

 

「ならば、見せてやる」

 

アランは低く呟いた。

 

「私という存在を、奴の秩序の中に刻み込んでやる。奴がどれほど整った道を歩こうと、その足元に、必ず私の名を置いてやる」

 

王都の商いは、帳簿の上だけで動くものではない。

 

アラン・ヴィルヌーブは、父から何度もそう教えられてきた。

 

契約書に署名する前に、誰の顔を立てるべきか。 価格を決める前に、誰へ先に耳打ちすべきか。 品を納める前に、どの家の馬車を先に通すべきか。 そして、損をしてでも守るべき筋と、利益を出してでも踏み越えてはならぬ線。

 

それらは学園の教科書には載っていない。 魔術理論の教授も、礼法の教師も、決して教えない。

 

だが、王都で商いを続ける者にとって、それこそが本物の規則だった。

 

昼間、学園の一室で起きた騒ぎは、完全に隠せるほど静かなものではなかった。

 

バルフォア侯爵令嬢が監査報告書を叩きつけ、トレンス侯爵が冷たく言葉を返し、その場でフィアットが「責任の所在」を問うたという話は、廊下にいた者たちの口を経て、既に学園のあちこちへ滲み始めていた。

 

そしてアランは、その中でただ一つの言葉だけを拾い上げていた。

 

──責任の所在。

 

 

「違法性でも、か」

 

アランは低く呟いた。

 

夜の学生寮。上級生に与えられた個室は、平民や下級貴族の相部屋とは違い、狭いながらも応接用の椅子と書き物机が備えられている。机の上には、封蝋を割ったばかりの手紙が数通、綺麗に並べられていた。

 

差出人はいずれも、王都の商会筋に連なる者たちだった。

 

石材商。鋳鉄商。運送組合。古くから王立学園へ備品を納めてきた小商会の子息。

 

どれも表向きは、近況伺いに過ぎない。だが、行間に滲んでいるものは同じだった。

 

不満。警戒。そして、恐れ。

 

トレンス侯爵家が、学園の地下に手を入れた。

 

ただの工事ではない。資金はトレンス家から出ている。警備にはトレンス家直属の兵が立っている。施工にはトレンス領出身の業者が入っている。

 

それらがすべて別名義で、別組織で、別契約だとしても、王都の商人たちには一つの絵にしか見えなかった。

 

トレンスが、学園を押さえた。

 

「実に見事なものだ」

 

アランは机の上の手紙を指先で叩いた。

 

「融資、斡旋、警備、施工。名義を分け、責任を分け、利益だけをつなげる。新興の商売としては、悪くない」

 

だが、と彼は口元を歪めた。

 

「王都の商いでは、それを『筋を通していない』と言うのだ。トレンス」

 

ふいに、耳の奥で声がした。

いるはずのない相手の、あの冷たく平坦な声が。

 

──何か、違法性でも?

 

アランの指先に力がこもった。 手紙の端がわずかに折れる。

 

違法性。契約。制度。責任の定義。

 

ルーカス・フォン・トレンスは、そういう言葉で世界を切り分ける。 切り分けた後に残るものを、見ない。

 

顔。面子。慣習。黙契。長年の貸し借り。笑顔の裏で交わされる譲歩。譲歩の裏に隠された脅し。

そういうものを、まるで無価値な塵のように扱う。

 

いや。アランの瞳が暗く沈んだ。

 

「奴は、分かっていないのではない」

 

その可能性の方が、ずっと腹立たしかった。

ルーカスは知らないのではない。知った上で、不要だと判断している。

 

王都の古い商習慣を、由緒ある家門が積み上げてきた信用を、顔役たちの均衡を、すべて非効率な旧弊として切り捨てようとしている。

 

「侯爵家の名を持つくせに、やっていることは新興商会そのものだ」

 

アランは椅子にもたれ、天井を見上げた。

 

「しかも、たちが悪い。金だけの成金なら、古参の商人が囲めば潰せる。無礼な田舎者なら、礼法で恥をかかせればよい。だが奴は、侯爵家だ。兵もある。金もある。学園長の承認もある。そして何より……」

 

彼は奥歯を噛みしめた。

 

「正しそうに見える」

 

地下水路の老朽化。汚水の滞留。感染症の危険。生徒の安全。 緊急性。

 

それを持ち出されれば、工事そのものには反対しづらい。実際、バルフォア侯爵令嬢ですら、正面から止められなかった。

 

ならば、工事を止めるのではない。

アランは机の上から一枚の白紙を引き寄せた。

 

止めるべきは、ルーカスの足ではない。ルーカスの視界だ。

彼が最短距離で進もうとするたび、説明させる。根拠を求める。手続きを問う。関係者を増やす。疑念を撒く。

 

違法ではない。だが、不透明ではないのか。

必要ではある。だが、誰が決めたのか。

安全のためだという。だが、その安全を名目に、誰が権限を握るのか。

 

アランの口元に、静かな笑みが浮かんだ。

 

「貴様が地下に鎖を張るなら、私は地上に網を張る」

 

その網の最初の糸は、もう見つけていた。

 

ゼオン・フィアット。

 

あの男は愚かではない。むしろ、あの場で唯一、ルーカスの論理の中心を突きかけた。

違法性ではない。指揮命令でもない。名義でもない。

 

責任の所在。

 

ただし、ゼオンは弱い。怒りに呑まれやすく、言葉を定義しきれず、ルーカスに詰められれば足を止める。そして何より、自分のせいでクラリーベル・アウレリアに頭を下げさせたという負い目がある。

 

それは、扱いやすい傷だった。

 

 

翌日の放課後、アランは中庭の回廊でゼオンを待った。

 

春先の風が、石柱の間を抜けていく。遠くでは、地下工事の振動がかすかに響いていた。 石の下から、低く鈍い音が伝わるたび、通りかかる生徒たちの表情が曇る。

 

アランはそれを見て、満足した。

 

揺れているのは地面だけではない。学園そのものが、揺れている。

やがて、ゼオンが現れた。

 

彼は一人だった。クラリーベルの姿はない。顔色はまだ悪い。目元に疲労が残り、歩調にも迷いがある。

 

アランは、いつもの尊大な笑みを浮かべなかった。それでは駄目だ。 今必要なのは、敗者を見下ろす顔ではない。

同じ疑問を抱く者の顔だ。

 

「フィアット殿」

 

ゼオンが足を止めた。

 

「ヴィルヌーブ……殿」

 

その声には警戒があった。ゼオンも、ヴィルヌーブが下級生や平民を壁際へ追い込み、家名と身分を盾にする男だという噂くらいは聞いていた。

 

アランは一歩引いた距離で、丁寧に頭を下げた。

 

「昨日の件について、少し話がある。時間をいただけるか」

 

「私に?」

 

「そうだ」

 

ゼオンの眉が寄る。

 

「トレンス侯爵への不満なら、私に言うことではない」

 

「不満ではない」

 

アランは即座に否定した。

 

「君の問いについてだ」

 

ゼオンの表情が、わずかに動いた。

アランは見逃さなかった。 傷に指が触れた感触があった。

 

「君は、あの場で正しいことを言った」

 

ゼオンの肩が、ほんのわずかに強張る。

 

「正しい?」

 

「少なくとも、問うべきことを問うた。違法性の有無ではなく、責任の所在を問うた。あの場にいた者の中で、それを言葉にしたのは君だけだ」

 

ゼオンは視線を逸らした。

 

「……結局、答えられなかった。私は感情的になっただけだ」

 

「そうだな。君は感情的だった」

 

アランは穏やかに言った。

ゼオンが顔を上げる。 責められると思ったのだろう。

だが、アランは続けた。

 

「だが、感情的であったことと、問いが間違っていたことは同じではない」

 

ゼオンは何も言わなかった。

 

「トレンス殿は、実に巧みに論点を移した。工事を止めるのか。汚水を放置するのか。感染症の危険を見逃すのか。そう問われれば、誰でも黙る。だが、君が問うたのは本来、そこではなかったはずだ」

 

「……何が言いたい」

 

「工事の必要性と、手続きの正当性は別だということだ」

 

ゼオンの瞳が揺れた。

アランは内心で笑った。 だが、表には出さない。

 

「地下が危険なら、改修すべきだろう。そこに異論はない。だが、なぜ学園長の判断に至るまでの過程が、生徒に知らされていない? なぜ私兵が学園内に入っている? 彼らの権限はどこまでだ? 融資の条件は将来の学園運営に影響しないのか? 施工業者は、どのような基準で選ばれたのか?」

 

ゼオンの拳が、ゆっくりと握られた。

 

「それは……」

 

「問うてもよいことだ」

 

アランは静かに言った。

 

「いや、問わねばならないことだ。特に君のように、あの場で責任を口にした者なら」

 

ゼオンの顔に、苦しげな色が浮かぶ。

 

「私を煽っているのか」

 

「そう聞こえるなら、私の言い方が悪いのだろう」

 

アランは少しだけ目を伏せた。

 

「だが私は、君を馬鹿にしに来たわけではない。むしろ、惜しいと思ったのだ。君の問いは、正しい形で出されていれば、簡単には退けられなかった」

 

「正しい形?」

 

「感情ではなく、文書だ」

 

ゼオンは黙った。

 

「公開質問状だ。地下工事に関する説明を求める。工事の範囲、安全対策、私兵の権限、融資条件、施工業者の選定理由、生徒への影響。すべてを、学園長と関係者に問う。罰を求めるのではない。中止を求めるのでもない。ただ、説明を求める」

 

アランはそこで、少し声を低くした。

 

「トレンス殿が本当に責任を負っているというなら、説明できるはずだ」

 

ゼオンの喉が動いた。

 

「……なぜ、それを君がやらない」

 

当然の問いだった。

アランは、用意していた苦笑を浮かべた。

 

「私がやれば、私怨に見える」

 

「違うのか」

 

鋭い言葉だった。

一瞬、アランの内側で怒りが跳ねた。 だが彼は、それを飲み込んだ。

 

「違わない部分もある」

 

正直に認める。 ここで全否定すれば、かえって嘘臭い。

 

「私はトレンス殿を快く思っていない。彼が私の面子を傷つけたことも事実だ。だからこそ、私が表に立てば、問いそのものが濁る」

 

ゼオンは眉をひそめたまま、じっとアランを見ている。

アランは続けた。

 

「だが、君なら違う。君はあの場で、誰かの商売上の利害ではなく、責任を問うた。少なくとも、そう見える」

 

「見える、か」

 

「世の中では、見え方もまた力だ」

 

ゼオンの顔に不快感が走った。

アランはすぐに言葉を足した。

 

「そして、正しい問いが正しく見えなければ、握り潰される。君はそれを、昨日学んだのではないか」

 

ゼオンは反論しなかった。

回廊の外で、また地面が微かに震えた。 遠くの女生徒が小さく悲鳴を上げる。 すぐに笑い声で誤魔化されたが、不安は消えない。

ゼオンはその方向を見た。

アランもまた、同じ方を見た。

 

「フィアット殿。私は君に、トレンス殿を憎めと言っているのではない」

 

嘘だった。

 

「彼を裁けと言っているのでもない」

 

これも嘘だった。

 

「ただ、問えと言っている。誰もが不安に思っていることを、正しい形で、正しい場所に差し出せと」

 

ゼオンは長い沈黙の後、低く言った。

 

「……草案は」

 

アランの胸の奥が、静かに熱を帯びた。

 

「ある」

 

彼は懐から、折り畳んだ紙を一枚取り出した。

 

「君の言葉に直すといい。私の名は出さなくてよい。むしろ、出すべきではない」

 

ゼオンはその紙を受け取らなかった。 しばらく見つめているだけだった。

 

だが、拒絶もしなかった。

アランは紙を差し出したまま、待った。

 

やがてゼオンの手が伸びる。

紙が、渡った。

その瞬間、アランは確信した。

網の一本目が、掛かった。

 

 

その日の夜、王都の商会筋に、いくつかの短い手紙が走った。

 

王立学園地下工事について、生徒から正式な説明要求が出るらしい。

 

差出人の名は、アラン・ヴィルヌーブではない。 文面にも、ヴィルヌーブ商会の印はない。

 

ただし、受け取った者たちは皆、理解した。

 

これはただの学生の疑問ではない。 王都の古い商いの側から、トレンスに投げられた最初の石だ。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

翌朝、学園の掲示板の前に人だかりができた。

 

一枚の文書が、整った筆跡で貼り出されていた。

 

地下施設改修工事に関する公開質問状。

 

署名は、ゼオン・フィアット。

 

内容は淡々としていた。

 

一、工事範囲の明示。 一、安全対策の詳細。 一、海兵隊の学園内における権限範囲。 一、融資条件および返済計画が学園運営に与える影響。 一、施工業者選定の経緯。 一、工事による授業環境への影響と補償方針。 一、今後同様の緊急事業を行う場合の説明手続き。

 

過激な言葉はない。 糾弾もない。 誰かを断罪する文言もない。

 

だからこそ、人々は読み込んだ。

 

「これ、確かに気になるよな」 「あの私兵って、結局どこまで口を出せるんだ?」 「融資ってことは、学園がトレンス家に借金してるってこと?」 「施工業者、トレンス領の業者なんだろ?」 「それって、公平なのか?」

 

囁きが広がる。

 

噂というものは、火よりも煙に似ている。 火元が見えなくても、匂いだけで人は不安になる。

 

アランは少し離れた柱の陰から、その様子を眺めていた。

 

取り巻きの一人が、小声で言う。

 

「アラン様、お見事です。これならトレンスも無視できません」

 

「無視はしないだろうな」

 

アランは穏やかに答えた。

 

「奴は説明する。資料を整え、数字を並べ、工事の必要性を語るだろう」

 

「では、まずいのでは?」

 

「いいや」

 

アランは微笑んだ。

 

「説明させることに意味がある。奴が一度説明の席に立てば、次も求められる。次の次もだ。奴が何かを進めるたびに、周囲は問うようになる。これは誰の判断か。誰の金か。誰の利益か。誰が責任を負うのか、と」

 

彼は掲示板に視線を戻した。

 

「トレンスは効率を愛する。ならば、効率を削ってやればいい」

 

その時、人だかりがわずかに割れた。

 

 

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