第百三十六話 毒の回る庭にて
その夜、アイリス・ド・アークランドは、自室へ戻るまで一度も口を開かなかった。
自室の扉が閉まる。
無言のまま、控えていた侍女が外套を受け取った。
鏡台の前に腰を下ろし、ゆっくりと白絹の手袋を外す。
指先に、微かに古い紙とインクの匂いが残っていた。
そのひどく無骨な匂いが、先ほどまでの特別資料室での記憶を、アイリスの脳裏へ引き戻す。
アイリスは目を閉じ、今日あの場に集まった者たちの顔を、順番に整理した。
エリザベート。
粗い。危険。だが、質量がある。わたくしの毒を流す容器としては少々割れやすいが、割れなければ強い。
クレメンス。
知に飢えている。あの男が引いた数字の底を、覗き込んでしまった。答えを掘る者は、時に答えに食われる。彼がどちらに転ぶかは見物だ。
ルーカス。
王冠ではない。玉座でもない。人が死なない街。
それは美しいが、何よりも扱いづらい。
欲望で動く者なら取引できる。野心で動く者なら縛れる。善意で動く者なら利用できる。
だが、「必要だからやる」という者は、いったいどこを掴めばいいのか。
最後に。
アイリスの思考が、もう一人の男で止まった。
名前を思い出す。
ウィルソン。
わたくしが呼ぶ価値は、まだない。
けれど、忘れるには軽すぎる。
軽いものは、踏めば潰れる。
だが、風に乗るものは、踏む前に庭の外へ逃げる。
「……お疲れでございますか」
背後からの静かな問いかけに、アイリスは目を開けた。
鏡越しの侍女へ、公爵令嬢としての完璧で優雅な笑みを向ける。
「いいえ。少し、埃っぽい花園に迷い込んだだけですわ」
侍女が静かに下がり、部屋に一人きりになる。
アイリスは、膝の上に置かれた自分の両手を見つめた。
インクの匂い。そして、思考。
「……ウィルソン」
そっと声に出してみる。
安い名だ。
軽い名だ。
商人の次男にふさわしい、どこにでもありそうな名。
けれど、あの男が最後に残した言葉だけは、決して安くなかった。
『人が死なない街は、高く売れます』
どこまでも商人の言葉だった。
けれど、どうしてだろう。
その響きだけは、トレンス侯爵の無機質な声と、奇妙なほど同じ場所から聞こえた気がした。
アイリスは、ゆっくりと手袋を机の上に置いた。
涼しげな瞳の奥に、極上の獲物を見つけた狩人のような、冷たく底知れない光が宿る。
「……根の深さを、確かめておきましょうか」
・・・・・
・・・
翌朝。
アイリスの朝食の席には、薄い封筒が一つ置かれていた。
封蝋はアークランド家の内紋。
彼女が昨夜、侍女に命じた「根の深さ」の第一報だった。
アイリスは紅茶に手をつける前に、封を切った。
ヴェクター・ウィルソン。
王都北東区、ウィルソン商会次男。父母健在。兄は商会本筋を継承予定。本人は幼少より帳簿補助と外回りに関わり、学園入学は将来的な販路拡大のため。
ウィルソン商会は数年前、トレンス領方面の流通網と接点を持ち、以後、経営状態を大きく改善。納税記録、商会登録、近隣証言、使用人証言、学園提出書類に大きな齟齬なし。
齟齬なし。
アイリスは、その一文を二度読んだ。
「……たいへん綺麗な根ですこと」
彼女が呟くと、控えていた老執事が静かに頭を下げた。
「差し支えなければ、私見を申し上げてもよろしいでしょうか」
「許します」
「記録は白でございます。少なくとも、昨夜慌てて塗った白ではございません。古い白です」
アイリスは報告書から目を離さず、わずかに眉を上げた。
「古い白?」
「はい。商会登録、納税、近隣証言、使用人の記憶。いずれも年季がございます。作られたものだとしても、作ったのは昨日今日ではございません」
「貴方は、あの商人を草だと言いたいのかしら」
「そこまでは申し上げません。ただ、草というものは、必要になってから植えるものではございません。必要になる前に植え、庭師が植えたことを忘れた頃に、ようやく根を張るものです」
アイリスは、そこで初めて老執事を見た。
「つまり?」
「仮に草であったとしても、今朝の調査で抜ける根ではございません」
沈黙が落ちた。
アイリスは報告書へ視線を戻す。
紙の上のヴェクター・ウィルソンは、あまりにもよくできた商人の次男だった。
軽薄。外向的。女好きの噂あり。酒場や市場に顔が広く、学園入学前から周辺の商流や人の動きを見ていた。王都の武器商、カフェ、観光高台、旧神殿跡方面での目撃あり。
いずれも、商家の子息として説明可能。
説明可能。
アイリスは、そこで小さく笑った。
「説明できるものほど、時に面倒ですわね」
「お嬢様のお言葉の通りかと」
「疑うには白すぎる。けれど、信じるには整いすぎている」
老執事は何も答えなかった。
それで十分だった。
アイリスは、報告書の最後の一行へ目を落とす。
――トレンス侯爵家との直接的な私的関係は、現時点で確認できず。
「現時点で、ね」
アイリスは白絹の手袋越しに、報告書の端を撫でた。
昨日の夜、あの商人は言った。
人が死なない街は、高く売れます。
商人の言葉だった。
けれど、紙の上に並ぶどの記録よりも、その一言だけが重かった。
「続けなさい」
アイリスは静かに告げた。
「ウィルソン商会そのものではなく、トレンス領方面との最初の接点を。誰が、いつ、どの品目で、どの経路を開いたのか」
「既存の記録では、そこまでは」
「だから、続けなさいと言っているのです」
「かしこまりました」
老執事が頭を下げる。
アイリスは、ようやく紅茶へ手を伸ばした。
「庭の根を掘る時は、花を傷つけないように。けれど、土は深く」
「承知いたしました」
窓の外では、朝の光が庭園を白く照らしている。
アイリスは、薄い笑みを浮かべた。
「さて。どれほど深く植えられているのかしら」
中庭に面した回廊の一角では、妙に軽やかな騒ぎが起きていた。
日差しは柔らかく、風は花壇の香りを連れてくる。だが、目の粗い白石の卓上に広げられているのは、花でも菓子でもなく、四隅に公式の受付印が刷られた厚手の羊皮紙と、大講堂の舞台袖を示す簡易な配置図、そしてインクの滲む活動申請書の下書きだった。
「ですから、アンジェリカ様。大講堂を借りるには、使用目的、責任者、安全計画、機材搬入経路、音量制限、終了後の原状回復について記載が必要です」
ミリアリアが、机上の複雑な罫線に埋め尽くされた用紙を見つめ、疲れたように細い指先でこめかみを押さえながら言った。
その向かいで、アンジェリカ・ド・ハートフィリアは、まるで春の花が風を受けるように明るく笑っている。
「まあ! ただ音を鳴らすだけなのに、ずいぶんたくさん書くのね!」
「ただ音を鳴らす、では通りません」
「では、みんなで楽しく音を鳴らす、では?」
「もっと通りません」
横で配置図の寸法を確認していたウィルフレッドが、控えめに咳払いをした。手にした定規を羊皮紙の端に合わせる。
「加えて、音響魔道具を使用するなら、管理責任者の明記が必要です。大講堂は王立行事にも使われるため、床材への振動影響、壁面反響、観客導線も確認されるかと」
アンジェリカは、細い眉を寄せて真剣な顔で頷いた。
「つまり、楽しくない言葉をたくさん並べると、楽しいことができるのね?」
「大筋では、そうです」
「素敵だわ。まるで呪文みたい」
「呪文より厄介です。誤字があると差し戻されますので」
そのやり取りを聞きながら、石卓の端に腰かけていたヴェクター・ウィルソンが、低く軽く笑った。手の中で黒い羽根ペンを滑らかに遊ばせている。
「では、こうしましょう。『演奏会』ではなく、『寮間交流および音響魔道具運用試験を兼ねた情操教育活動』」
アンジェリカが、ぱっと弾けたように目を輝かせた。
「まあ! つまらないのに、通りそう!」
「つまらない言葉ほど、扉を開ける鍵になります」
ヴェクターはそう言って卓に身を乗り出し、迷いのない筆致で、規定の枠内へさらさらと均一な文字を並べていく。
「活動目的は三つ。寮間交流、魔道具の安全運用確認、情操教育。責任者はアンジェリカ様。ただし実務管理者としてミリアリア嬢とウィルフレッド殿の署名欄を併記。音響機材はトレンス侯爵側の技術管理下に置く──ここに、保守点検の合意書の写しを添付すれば完璧です。それから、苦情窓口の設置についても先に書いておきましょう」
「苦情が来る前から、苦情の窓口を作るの?」
アンジェリカが、インクの乾ききらない紙面を覗き込み、不思議そうに首を傾げる。
ヴェクターは、ペンの尻で用紙の最下部にある空白を軽く叩いた。
「ええ。苦情というものは、出口がないと壁を壊しますから」
その一言に、ミリアリアがわずかに顎を上げ、彼の指先を見た。
ウィルフレッドもまた、インク壺に浸しかけた羽根ペンをぴたりと止める。
だがヴェクター本人は、何でもない商人の軽口のように片手をすくめてみせただけだった。
「怒りも不満も音も、流す場所を作れば扱いやすくなります。溜め込めば、だいたい厄介なことになる」
「そうなのね!」
アンジェリカは合点がいったように、小気味よく両手を合わせた。
「ヴェクターは、楽しいことを通すために、つまらない言葉へ変えるのが上手なのね!」
「商人ですから。中身がどれほど瑞々しくても、運ぶための頑丈な木箱を作るのが仕事です」
その時、彼らの背後、冷たい石柱の影から涼やかな声が滑り込んできた。
「鍵を作るのがお上手ですこと、商人殿」
衣服の擦れる衣擦れの音が響き、場の空気が一瞬にして張り詰める。
ミリアリアが弾かれたように椅子から立ち上がり、衣服の皺を伸ばした。ウィルフレッドも手早く机上の書類の端を揃えながら腰を浮かす。アンジェリカだけが、その緊張に気づかぬまま、ぱっと花が咲いたように笑った。
「アイリス様!」
アイリス・ド・アークランドは、回廊の柱の影からゆっくりと姿を現した。
塵一つない白い手袋。完璧に編み込まれた紅い髪。そこにあるのが当然であるかのような、慈愛に満ちた柔らかな微笑み。彼女が歩みを進めるたびに、回廊を行き交う他の生徒たちの視線が自然と吸い寄せられ、その進路から音もなく退いていく。
ヴェクターはすぐに立ち上がり、軽やかに一礼した。
「これはアークランド様。まさか、このような場所でお目にかかれるとは」
「まさか、ですの?」
アイリスは微笑みを絶やさない。その一言だけで、偶然という言葉の表面に薄く、鋭い刃が入った。
ヴェクターは、その刃を向けられても、いつもの人懐こい笑みを崩さなかった。
「商人は、幸運を偶然と呼ぶことにしております」
「便利な言葉ですこと」
「当店の売れ筋でごさいます」
アイリスはそれには応えず、石卓の上に広げられた、整然たる箇条書きの申請書へ視線を落とした。手袋に包まれた指先が、その白い紙の端をそっとなぞる。
「楽しそうなお遊びですわね」
「ええ、とても!」
アンジェリカが胸を張り、卓上の紙を誇らしげに指さした。
「いまね、楽しいことを、つまらない言葉に変えているところなの!」
「それは、とても高等な遊びですわ」
アイリスはそう言いながら、当然の権利を行使するように、ウィルフレッドが引いた空きの木椅子へ腰を下ろした。
誰も、座ってよいかなどと問われていない。
だが、その場にいる全員が、彼女がそこに座ることを、世界の法であるかのように自然に受け入れた。ヴェクターだけが、ほんの数寸、アイリスのドレスの裾が汚れないよう椅子の位置を整える。
「お手を煩わせますわね」
「光栄です。白薔薇の棘に触れず椅子を引くのは、なかなか緊張いたしますが」
「貴方、まだその陳腐な比喩を使いますの?」
「陳腐な表現ほど、市場では最も広く流通し、強い力を持ちます」
アイリスは扇子を開き、口元を隠した。その瞳の奥だけが笑っていない。
「では、その市場の言葉で教えてくださる? これは何を売るための申請書なのかしら」
ヴェクターは、差し込む日差しを遮るように、少しだけ目を細めた。
「夢を売るには、まず会場を借りなければなりませんので」
ヴェクターはそう言うと、大仰に両手を広げ、天を仰ぐような仕草をしてみせた。まるで、まだ見ぬ大講堂のきらびやかな舞台をその手のひらで宙に描いてみせるかのように、芝居がかった手つきだった。
「夢?」
アイリスは小さく首を傾げた。その冷ややかな問いかけにも、ヴェクターは怯むどころか、待っていましたとばかりに楽しげに人差し指を立ててみせる。
「ええ。音楽、交流、青春、感動。どれも市場では高値のつく、美しい商品です。ただ──」
彼はそこで言葉を区切り、わざとらしく声を潜めると、肩をすくめて両方の手のひらを見せた。
「美しいだけの商品は、そのままでは倉庫の帳簿に入れられません。いくら極上の品であっても、棚番が決まっていなければ紛失扱いになってしまう。ですから、こうして規格名と管理責任者という『荷札』をつけるのです」
ヴェクターは卓上の羊皮紙を愛おしげに指先で撫で、まるで一級の絹織物を貴婦人に差し出すかのような、商人の恭しい手つきでアイリスの方へとわずかに押し出した。
「ずいぶん味気ない夢ですこと」
アイリスの視線が、ヴェクターの汚れのない指先に注がれる。
「味気ない箱ほど、中身を傷めず運べます」
アイリスの瞳が、わずかに静かになる。
先日の、あの冷たい石壁に囲まれた特別資料室での光景が蘇る。
バルフォア嬢の怒りを、監査報告書という容器にする、と彼は言った。
そして今、ハートフィリア嬢の奔放で不確かな音楽を、情操教育活動という箱に詰め込んでる。
言い方は軽薄で、表情は人懐こい。どこまでも商人の顔をしている。だが、その指先がやっていることは、すべて同じだった。形のない動揺や熱情に、あらかじめ用意された流路を作っていく。
アイリスは、何気ない調子で、しかし確実に対象を絞るように問いを変えた。
「中央掲示板の質問状も、ずいぶん整っていましたわね」
ミリアリアの書類を押さえる指が、わずかに強張った。ウィルフレッドは静かに目を伏せ、定規を置く。
アンジェリカだけが、その名前に不思議そうに瞬きをした。
「質問状?」
「ええ。地下工事に関するものですわ。フィアット子息の署名で。大層な人だかりができていましたわ」
「ああ」
アンジェリカはぽんと手を打った。
「ゼオン君、なんだか難しいお顔で頑張っていらしたのね!」
その無邪気な言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。回廊を吹き抜ける風が、羊皮紙の端をパタパタと鳴らす。
ヴェクターは、少しだけ肩をすくめてみせた。
「フィアット子息は、まっすぐな方ですから。まっすぐな線は、紙の上でも映えます」
「まっすぐなだけでは、あの項目にはなりませんわ」
アイリスは、扇子の骨を一本ずつ指先で確かめるようにしながら、涼しげに言った。
「工事範囲、安全対策、警備権限、融資条件、施工業者選定、騒音と振動、今後の説明手続き。ずいぶんと、答えるための箱が綺麗に並んでいました」
ヴェクターは、その指摘を心地よい風のように受け流して笑った。
「箱がなければ、搬入された商品は床に散らかってしまいますから」
「怒りも商品ですの?」
「扱い方を誤れば、倉庫を燃やす不良在庫より厄介なものになります」
「問いは?」
「優れた問いは、遠方から上質な買い手を連れてきます」
「答えは?」
「帳簿の上で、それなりの値がつきます」
アイリスは、ゆっくりと音を立てずに扇子を閉じた。
「貴方、本当に商人なのね」
「ええ。家名に賭けて、疑いようもなく」
「だからこそ、少し疑わしいのですわ」
その場に、石畳の冷たさが這い上がってくるような薄い沈黙が落ちた。ミリアリアとウィルフレッドは、机の上の書類を見つめたまま身じろぎもしない。
だがヴェクターは、困ったように眉を下げ、頭を掻いてみせただけだった。
「それは困りました。商人が商人らしくして疑われるとなると、次から何を名乗ればよいものか」
「道化などいかが?良くお似合いですわ」
「それでは商品の価値が下がりそうです。値引き交渉をされてしまいます」
「では、翻訳者」
アイリスの瞳が、ヴェクターの笑顔の奥にあるものを覗き込もうとする。
ヴェクターは、その視線を正面から受け止めながら、笑みを崩さなかった。
「それこそが商売の基本でございます」
「基本?」
「ええ。買い手の欲望を売り手の言葉へ。売り手の都合を買い手の利益へ。怒りを要望へ。不安を条件へ。曖昧な期待を、署名できる契約へ。翻訳できなければ、商人など務まりません」
アイリスは、閉じた扇子の先端で、自身の顎をかすかに叩いた。
否定もせず、認めもしない。ただ、あまりにも自然に、すべてを使い古された「商人の技術」という枠組みへと置き換えてみせる。
「便利な職能ですこと」
「おかげさまで、食い扶持には困りません」
「楽しいことを、通る言葉へ。怒りを、運べる容器へ。問いを、答えの箱へ。貴方はずいぶんと、形のないものを扱うのがお上手ですわね」
ヴェクターは、すぐにいつもの軽薄な笑みを顔に貼り直した。
「最高の褒め言葉として、帳簿に記録させていただいてよろしいので?」
「まだ、値札を眺めているだけですわ」
「なるほど。目の肥えたお客様の売り場に、置いていただけただけでも光栄の至りです」
アイリスはそこで、初めて名を呼んだ。
「ウィルソン」
「覚えていただけたとは、商人冥利に尽きます」
「勘違いなさらないで。商品に、仮の名札をつけただけですわ」
「商人にとって、名札は何より大事です。名のない商品は、どれほど一級品であっても棚に並べてもらえませんので」
アンジェリカが、二人を交互に見比べて、無邪気に嬉しそうに笑った。
「なんだか、二人ともとっても楽しそうね! 難しい言葉のお友達かしら」
ミリアリアは、きつく唇を結んだまま静かに目を伏せた。
ウィルフレッドは、完成した申請書の端を何度も揃え直しながら、最初から何も聞かなかったことにする実務者の顔を作っていた。
「ところで、トレンス侯爵はどちらに?」
アイリスは、そこでふと思い出したように、中庭の奥へと視線を向けた。
「ルーカスなら、機材の方よ!」
アンジェリカが即答した。
「エドワードお兄様とダモンと一緒に、音響増幅器の調整をしているの。ルーカスったら、また音を数字で捕まえようとしているのよ」
「音を数字で、ですか」
「ええ! でも、お兄様は音で返して、ダモンは機材が壊れないように押さえているの。とても忙しそうだったわ!」
ヴェクターが、中庭の向こうの喧騒を想起するように軽く笑う。
「音も数字も、逃げ足が速いですからね。捕まえるには人手が要ります」
アイリスは、その言葉には返事をしなかった。
公開質問状が中央掲示板に貼り出された。
学園長がそれを正式に受理し、手続きの光の下へ引きずり出すだろう。
生徒たちは不安にざわめき、王都の古い商人たちは息を潜め、バルフォア嬢は手にした監査報告書を研ぎ澄まされた刃にしようとしている。
そのすべての中心にいるはずの男は、今、中庭の奥で楽器の音を数字で捕まえている。
無関心なのではない。おそらく、すべてを知っている。その上で、自らその政治の場に付きっきりになっていない。
その事実が、アイリスにとっては少しだけ気に入らなかった。
そして、その底知れなさが、少しだけ恐ろしかった。
「……余裕、というには少し、違いますわね」
アイリスは、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。
ヴェクターが、その呟きが聞こえていたのかいないのか、卓上に置かれた紅茶の水面に映る青空を見つめながら言った。
「重要なことが起きている時ほど、手を止めてはいけない仕事もあります」
「それも、商人の言葉ですの?」
「いいえ」
ヴェクターは、ゆっくりと顔を上げた。
「現場の言葉です」
その一言だけが、乾いた石のように重く、やけに軽くなかった。
アイリスは、しばらく無言のまま彼を見つめた。
商人。道化。翻訳者。
そして今、その奥にほんのわずかに見えた、別の顔。
彼女は、自身の胸の内で何かが噛み合う音を聞きながら、再び優雅に微笑んだ。
「ウィルソン」
「はい」
「貴方の値札、どうやら表と裏で数字が違うようですわね」
ヴェクターは、楽しげに目元を細め、元の軽薄な男に戻った。
「よくあることです。世の中、本当に良い商品ほど、特別な裏値がございますので」
「では、いずれ確かめます」
「お手柔らかに」
「花は、根を傷めないように、優しく周りの土を掘るものですわ」
ヴェクターは、手帳を懐に収めながら一礼した。
「そこに、根が見つかれば、の話ですが」
アイリスは笑った。
その笑みは、甘く、美しく、そして冬の初めの水面のように少しだけ冷たかった。
「見つけますわ。必ず」
吹き抜けた風が、申請書の端をかすかに揺らした。
楽しいことを通すための、つまらない言葉。
怒りを運ぶための、整った容器。
問いを制度へ流すための、答えの箱。
庭に回る毒は、一種類ではない。
そして、どうやらこの美しい庭の底には、思っていたよりも多くの乾いた水路が通っている。
・・・・・
・・・
中庭を離れたアイリスは、侍女を連れず、ひとりで長い回廊を歩いていた。
背後からはまだ、アンジェリカの明るい笑い声が、風に乗って微かに届いている。
大講堂。音響魔道具。寮間交流。情操教育活動。
楽しいものが、つまらない言葉の枠組みへと変えられていく。
アイリスは、歩調を緩めず、指先で扇子の骨の硬い質感をなぞった。
ヴェクター・ウィルソン。
商人殿。道化。翻訳者。
彼はそのどれを向けられても、少しも困らなかった。むしろ、それらすべてに値札をつけ、自ら棚に並べてみせた。
買い手の欲望を売り手の言葉へ。
売り手の都合を買い手の利益へ。
怒りを要望へ。
不安を条件へ。
曖昧な期待を、署名できる契約へ。
翻訳できなければ、商人など務まりません、と。
「……便利な言葉ですこと」
アイリスは、誰もいない回廊の曲がり角で、低く呟いた。
便利すぎる。
商人の言葉としては、あまりにも自然だった。だからこそ、喉の奥に刺さった魚の骨のように気にかかった。
嘘なら見える。
欲なら匂う。
野心なら、どこかで必ず隠しきれない熱を持つ。
けれど、あの男の言葉は、どれも奇妙なほどに温度が低かった。
軽薄に見える。軽やかに笑う。女を褒め、男をからかい、その場の空気を乱さず、誰の懐にも一歩だけ自然に入る。
なのに、彼の通り過ぎた後に残るものは、決して軽くない。
ふと、回廊の向こう、西日が斜めに差し込む細長い通路に数人の上級生が見えた。
その中心に立ち、低く密やかな声で指示を飛ばしていたのは、アラン・ヴィルヌーブだった。
彼は取り巻きの肩を叩きながら何かを告げていたが、アイリスの衣服が擦れるわずかな音と、その独特な香気にあっと気づくと、劇的なほど素早く表情を消した。先ほどまで取り巻きたちに向けていた、他者を値踏みするような険しい目つきは霧のように消え去り、老舗商会の子息らしい、完璧に均一な礼節の微笑みを顔に貼り直す。
周囲の者たちも一瞬遅れて顔を強張らせ、揃いの制服の裾を正して壁際に身を引いた。
アイリスは、石畳を打つ靴音のテンポを一切緩めなかった。
アランのちょうど正面、西日の光が遮られる柱の影で、すっと足を止める。
「ヴィルヌーブ……だったかしら」
アイリスがその名を静かに口にするだけで、アランの背後にいた者たちの背筋が、まるで見えない冷水を浴びせられたかのように一斉に直立した。
公爵令嬢に直接名を呼ばれる──それは学園の序列において、一族の商売への致命的な叱責にも、あるいは過分な恩寵にもなり得る重みを持っていた。
「はい、アークランド様」
アランは顎を引き、腰から正確な角度で深く頭を下げた。
「王都の納入筋に名がありましたわね。たしか、学園の古い水場廻りにも、割印が押されていたかしら」
アランの口元に張り付いていた笑みが、ほんのわずかに、輪郭を失うように固まった。
「……はい。三代前より、いくつかの侯爵家と王立学園へ、配管の接合金具や青銅の部材一式を納めさせていただいております」
「そう。目立たない場所の鉄を、よく保っているようで何よりですわ」
それは優雅な褒め言葉だった。少なくとも、アイリスにとっては。
だがアランの耳には、自分の一族が守ってきた王都の古い利権の歯車が、上空から巨大な目によって一項目ずつ「点検」されたように聞こえていた。
「……当家の実務をご記憶に留めていただき、恐悦至極にございます」
「ええ。蔵に眠る古い寄付台帳や納入記録には、意外なほど懐かしい家名が残るものですから」
アランはもう一度、今度はさらに慎重に頭を下げた。
彼は貴族ではない。だが、王都を代表する大商会の跡取りとして、どの程度の深さで頭を下げ、どの速度で視線を戻せば、高貴な相手の自尊心を損ねず、かつ自家の格と商人としての実利を失わずに済むかを、骨の髄まで叩き込まれている礼だった。
アイリスは、その完成された平伏の手続きを見て、扇子の端で口元を隠しながら少しだけ微笑んだ。
「ところで――先の中央掲示板、たいへんな人だかりでしたわね」
アランは頭を上げ、その太い眉を微塵も動かさずにアイリスの視線を受け止めた。
「そのようでございますね。学園の皆様も、足元で続くあの不快な地下工事には、ひとかたならぬ関心がおありなのでしょう」
「ええ。『関心』。事態の推移をただ眺めるには、とても便利な言葉ですわ」
「便利でなければ、広大な学園の寄宿生たちの口には、これほど早く残りません」
「さすが、市場の風を読まれる商人のお言葉ですこと」
アイリスはパッと音を立てて扇子を広げた。白絹に描かれた薔薇の模様が、西日を浴びて妖しく揺れる。
「それにしても、あのフィアット子息の質問状。驚きましたわ。あれほど粗野な騎士の家系でありながら、文面の項目がずいぶんと……事務的に整っておりましたわね」
「フィアット殿は、裏表のないまっすぐなお方ですから。不当な扱いに対しては、いつでも直球を投げられる」
「最後の一文は、たしかに」
アイリスの視線が、アランの網膜の奥を射抜くように固定された。
アランの視線が、ほんの一瞬、呼吸を忘れたかのように止まった。
アイリスはその網膜の微かな震えを、決して見逃さなかった。
「王立学園の秩序が、いかなる理由により、いかなる権限のもとで書き換えられているのか、我々生徒は知る権利を有する。青く、熱く、まっすぐで、少しばかり危うい。あれは間違いなく、フィアット子息の言葉なのでしょう」
「ご本人の確固たる署名がございます」
「ええ。署名は、ね」
アイリスが言葉を重ねた瞬間、アランの背後にいた取り巻きの一人が、耐えきれずに気まずそうに視線を床の石畳へと落とした。衣服の繊維が擦れる摩擦音だけが、不自然に大きく響く。アランだけは、張り直した笑みを崩さない。
「何か、あの紙面にお疑いでも?」
「疑いというほどのものではありませんわ。ただ、紙には香りが残るものですから」
「香り、でございますか」
「ええ。一番最後の一文からは、燃え盛る若い騎士の匂いがいたしましたわ。けれど……その上にある見事な箇条書きの、火の付け方と導線の引き方には、少しばかり『王都の古い油』の匂いが混ざっていたのです」
アランは、そこで初めて、口元の端を吊り上げて薄く笑った。それは作り物の商人としての顔ではなく、同じ盤面を戦う棋士としての昏い笑みだった。
「王都という過密な街では、火種も、それを広げるための油も、求めればいつの間にか一箇所に集まるものでございます」
「まあ。恐ろしい、お行儀の悪い街ですこと」
「だからこそ、あらゆる不測の事態に対応できる、強い商いが育ちます」
「それは……火事場で、かしら?」
「火事を起こして混乱を生む者。騒ぎに乗じて水を高く売る者。そして、焼け跡の更地にいち早く新しい材木を運び込む者。──そのすべてが、王都の巨大な市場を回すためには必要不可欠でございます」
アイリスは、広げた扇子の陰で、その瞳をさらに細めた。
分かりやすい。
アラン・ヴィルヌーブという男の構造は、あまりにも分かりやすかった。
そこには明確な面子があり、奪われた利権への私怨があり、王都の古い商いを自分たちが回してきたという誇りがある。トレンス侯爵という新参の巨大な存在への、強烈な拒絶と反発がある。
それでも、その汚れた感情をそのまま剥き出しにして暴力に走るのではなく、ゼオンの純粋な「正義感」という都合の良い火口を選び、そこに的確に火を移してみせた。
濁っている。
だが、その濁り方は、アイリスの知る世界において、極めて健康的で自然だった。
王都の地下を流れる古い暗渠の水のように、そこには泥も、油も、落ちた花びらも、誰かが夜陰に捨てた灰も、全てが混ざっている。混ざり合っているからこそ、どの泥がどこから流れ込み、誰の利害が匂うのかが、手にとるように判別できる。
アイリスは、扇子を持たない方の手の手袋をすっと直しながら、何気ない調子で尋ねた。
「ヴィルヌーブ」
「はい」
「貴方は、トレンス侯爵をお嫌い?」
回廊の周囲の空気が、物理的な圧力を伴ってぴたりと固まったように感じた。
アランの取り巻きたちが、信じられないものを見る目で息を呑む。アランは即座には答えず、長い沈黙を選んだ。
ここで否定すれば、この聡明な公爵令嬢の前では滑稽な嘘になる。
かと言って認めれば、あまりにも軽率な子供の愚痴になる。
呼吸を二度繰り返すほどの濃密な間を置いて、アランは静かに、しかし地を這うような声で答えた。
「……恐れている、と申し上げるべきでしょう」
アイリスは微笑みを深くした。睫毛の影が揺れる。
「恐れている?」
「はい。あの方のなさることは……あまりにも、正しそうに見えます。そこが、何より恐ろしい」
「正しいなら、よろしいのではなくて?」
「正しさだけで商いは動きません」
アランの声色が変わり、そこへほんの少しだけ、隠しきれない生々しい熱が混じった。
「王都の商いには、脈々と受け継がれてきた『筋』がございます。お互いの『顔』がございます。帳簿に載らない数代にわたる『貸し借り』がございます。狭い辻馬車で、誰の家の馬車を先に通すべきか。新しい資材が入った時、誰の耳に先に話を入れるか。誰に恥をかかせず、誰に損を呑ませて後で補填するか。……そういう泥臭い情実を積み上げて、ようやくこの巨大な市場は、大割れせずに均衡を保っているのです」
「それらは、紙に書かれていないものですわね」
「だからこそ……。書かれていないからこそ、命がけで守らねばならない古来の秩序です」
「トレンス侯爵は、それを守らないと?」
「守る必要がないものとして扱っているように見えます」
アランはそこで一歩だけアイリスに近づき、さらに声を低くした。その瞳には、古い規律を守ろうとする実務者の、確かな切迫感があった。
「違法性はありません。融資の契約、施工の契約、警備の契約、名義も別、責任の所在も細かく分散されている。けれど、王都の商人たちがその並べられた書類を遠くから見れば、それは巨大な一つの絵になるのです。トレンス侯爵家が、金を貸し、業者を斡旋し、私兵で固め、施工を独占し、学園の足元の土台へ、誰の許可も得ずに潜り込んだ」
アイリスは、その言葉を遮ることなく、冷たい静けさの中でただ聞いていた。
「それを『不透明』と呼ばずして、いったい何と呼ぶのでしょうか」
「私的な筋を通していない、と?」
「はい」
アランは、自身の足元の石畳を踏みしめるように即答した。
「王都の古い商いでは、それを『不誠実』と申します」
アイリスは、ゆっくりと扇子を閉じた。
カチリ、と、象牙の骨が噛み合う小さな硬い音が回廊に響く。
「ありがとう。貴方の言いたいことは、実によく分かりましたわ」
「何が、でございましょう」
「貴方が、とても……どこまでも王都の商人であることが」
アランは、一瞬だけその鋭い目をさらに細めた。
今の言葉が、公爵令嬢からの最大の褒め言葉なのか、あるいは底知れない侮蔑なのか、彼の商人の勘では測りかねたのだろう。
アイリスは、彼に考えるための答えを一切与えなかった。
「では、ごきげんよう」
彼女が身を翻し、再び歩き出そうとしたその時。
「アークランド様」
アランの声が、その背中を鋭く呼び止めた。
「ひとつだけ、不躾ながらお伺いしてもよろしいでしょうか」
アイリスは足を止め、振り返らずに横顔だけを向けた。
「許します」
「貴女は、トレンス侯爵閣下の婚約者候補であられる」
背後で、取り巻きの一人の顔が青ざめるのが気配で分かった。いくらなんでも踏み込みすぎだ、と。
だがアイリスは、その美しい横顔の笑みを微塵も崩さない。
「そう見られているようですわね」
「ならば、あの方のなさることを、すべて是とされるのですか」
アイリスは、ほんの少しだけ首を傾げた。その動作に伴って、耳元の細かな宝石が夕暮れの光を撥ね返す。
「ヴィルヌーブ。貴族の婚約者候補というものは、相手の落とす影のなかに、ただ隠れて収まる者のことではありませんわ」
「では……?」
「その男の隣に立つだけの価値が、本当にあるのかどうか──相手の底を、見定める立場でもあります」
アランは、次の言葉を完全に失ったように、わずかに口を開けたまま硬直した。
アイリスは完全に振り返り、完璧な貴族の優雅さで微笑んでみせる。
「もちろん、見定められるのはわたくしも同じでしょうけれど」
その声はどこまでも甘く、心地よい。
だが、その甘さの最深部には、触れた者を確実に麻痺させる薄い毒の膜があった。
「ですから、安心なさいな。わたくしはトレンス侯爵の盲目的な味方として貴方を見ているのではありません」
アランの強張っていた表情に、ほんのわずかな安堵の隙間が浮かびかけた。
アイリスは、その隙間に容赦なく言葉を叩き込んだ。
「ただ──貴方が、わたくしの庭を荒らさずに使える、どの程度の器の商人なのかを、ここで計っていただけですの」
浮かびかけた安堵は、その瞬間に凍りつき、アランの顔面は削り出された石のようになった。
アイリスはそれ以上、視線すら彼らに残さず、滑らかな足取りで回廊の奥へと歩き出した。
背後で、ようやく緊張から解放された彼らが、情けなく小さく息を吐き出す気配が響いた。
しばらく、静まり返った長い回廊を、アイリスは前だけを見つめて歩き続ける。
アラン・ヴィルヌーブ。
あれは、分かる。
古い王都の商人そのものだ。
そこには面子があり、明確な利害があり、私怨があり、情実の貸し借りがあり、暗黙の了解があり、顔役同士の繊細なバランスがある。
だからこそ、酷く濁っている。
王都の古い油の匂いもする。泥も派手に跳ねている。
だから、分かる。
だからこそ、扱いやすいのだ。
濁った水というものは、どこにどのような性質の毒を落とせば、どの範囲まで汚染が広がるのかが、あらかじめすべて予測できる。
けれど。
ヴェクター・ウィルソン。
同じ商人を名乗るには、あまりに違う。
軽薄で、口が回り、女を褒め、場の空気を和ませ、人々の怒りを制度の要望へ、不安を契約の条件へ、奔放な夢を官僚的な申請書へ、そして、問いを答えを出す為の箱へと、いとも簡単に変えていく。
その一挙手一投足はどこまでも商人らしく見える。
なのに、商人にあるはずの濁りが薄すぎる。
裏がないのではない。裏にあるはずの泥を、表に出しても誰も文句を言えない形へ、最初から「洗い直して」提示している。
アイリスは、歩みを止めないまま、今日初めて、その美しい眉をわずかに寄せた。
泥の深い場所を踏んだはずの靴なのに、その裾には、一滴の跳ねも残っていない。
それは、商会としての育ちが良いからではない。
足の上げ方、泥の踏み方を、別の巨大な場所で、徹底的に身体へ躾けられているからだ。
王都の古い商人は、泥を避けない。むしろ泥を踏み、裾を汚し、その汚れの深さを「俺たちの歴史だ」と勲章のように笑い合う。
だが、あのウィルソンは違う。
彼は泥を踏む。
現に踏んでいるはずだ。市場の最奥にも、怪しげな酒場にも、資料室にも、あの冷たい特別資料室にも、トレンスの新設クラスターの現場にも、彼は必ず姿を現している。
踏んでいるはずだ。
なのに、その身体には汚れが残らない。
否、残さない。
「……洗練されすぎていますわね」
それは、伝統的な貴族の洗練ではない。
礼法の美しさでもない。洗練された社交界の優雅さでもない。血筋による生まれつきの余裕でもない。
もっと、乾いていて、無機質なもの。
人間の生々しい湿度をすべて抜き去り、不確かな曖昧さを精緻に分解し、本来なら裏の闇に置かれるはずの不都合を、表の光に出しても何一つ問題のない「適正な手続き」へと洗い直す、冷徹な技術。
あれは、王都の商人ではない。
少なくとも、この王都の古い土壌が育てた商人では、絶対にない。
アイリスは、手の中で扇子をゆっくりと、少しだけ広げた。
「トレンスの商人」
誰もいない曲がり角で、その言葉をそっと口に出してみる。
まだ、確実な断定ではない。
事実、ウィルソン商会は数年前、トレンス領方面の強固な流通網に組み込まれたことで劇的に経営を復調させた。
だからこそ、使う言葉の癖が似る。だからこそ、手続きに異常なほど慣れている。だからこそ、責任や条件という項目を呼吸のように語る。
すべては、そうやって合理的に「説明可能」なのだ。
そう説明できる。
だが──説明が完璧にできるものほど、裏を隠すためには面倒な存在はない。
アイリスは、回廊の開かれた飾り窓から、夕闇に沈みゆく中庭を見下ろした。
遠く、薄紫色の影のなかで、アンジェリカがまだ楽しげに笑っている。
ミリアリアが必死に羊皮紙の端を押さえている。
ウィルフレッドがペンを片手に何かを再確認している。
そのすぐ横で、ヴェクターが、完成した申請書の端をその細い指先で、精密に整えている。
軽い男。
羽毛のように、軽すぎる男。
けれど、これほどまでに軽いからこそ、彼はどんな不確かな場所にも、摩擦なく乗ることができるのだ。
人々の燃え盛る怒りにも、アンジェリカの奔放な夢にも、ゼオンの実名告発の問いにも、生徒たちの底寒い不安にも。
風に乗って、音もなく庭を狂わせる、あの透明な毒のように。
アイリスは、夕闇のなかで静かに、しかし昏く微笑んだ。
「ウィルソン」
まだ、その安い名に敬称をつける理由はない。
だが……その名を忘れるには、彼は少しばかり、軽すぎて、そして不気味すぎた。
だが、その名はもう、彼女の記憶の棚に置かれていた。
「貴方の根は、商会の土だけでは足りなさそうですわね」
その日の夕刻、王都の一角にあるアークランド家の私的な情報網の末端へ、これまでになく奇妙で、しかし具体的な新しい指示が下った。
ウィルソン商会そのものではない。
トレンス領方面の流通網と、彼らが結んだ『最初の接点』。
その見えない橋を最初に架けた、名もなき人物の署名。
その橋を渡って、最初に王都へ流れ込んできた資材の『具体的な品目』。
その時期を境に、ウィルソン商会の帳簿の書き方から消え失せた、古い『情実の癖』。
そして──ヴェクター・ウィルソンという次男坊が、その変化のなかで、いったいいつから、あのように「完璧な商人らしく」振る舞い始めたのか。
表に塗られた、白さではなく。
その白さで洗われる前の、濁った水の源流を。
老練な庭師は、地上に咲く花だけを見て満足したりはしない。
見えない根を追う。
湿った土の性質を見る。
その底を流れる水路の、最初の石を見る。
そして時には、その美しい庭を枯らす毒が、いったいどの配管から回ったのかを確かめる。
アイリス・ド・アークランドは、夕暮れの光の中で、ひどく美しく微笑んだ。
「さて。どちらの庭で育った花なのかしら」