剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百三十八話

 

第百三十八話 不変の定数と、不毛な試行

 

 

「……なあ、トレンス」

 

エドワードは、提出されたアンプの配線図を検品しながら、ふとペンを動かす手を止めた。

 

部屋の隅で、またしても見たこともない複雑な回路を弄っているその背中に向けて、彼は溜息混じりに声をかける。

 

「何ですか、書記殿。その箇所に論理的な矛盾でも?」

 

「いや、図面に不備はない。相変わらず、気味が悪いほどに完璧だ。……そうではなく、そう、『書記殿』という呼び方だ」

 

ルーカスが怪訝そうに、肩越しにこちらを振り返る。その瞳には「何を今更」という無機質な疑問だけが浮かんでいた。

 

「何か問題でも? あなたは今、この部屋の事務処理という重要なリソースを管理している。役割を正確に定義したまでですが」

 

「……まぁいい。学園に入れる設備は、本当に……あの、別邸のものではないのだな」

 

「当然です」

 

ルーカスは腕に抱えた資料束に視線を落としたまま、淡々と応じた。

 

「分かっている。分かっているが……」

 

エドワードは小さく息を吐き、インクのついた手で額を押さえた。

 

「お前が言う『標準仕様の衛生設備』とやらですら、王都の連中には十分すぎる異物だ。地下を掘り、トレンスの兵が立ち、トレンスの融資が入り、トレンス領の登録業者が動く。その上で、学園の生活様式そのものが書き換えられようとしている。昨日までバケツと人力を頼りにしていた空間が、明日からはトレンスの配管と規則に従わなければ動かなくなるのだぞ」

 

ルーカスは、黒いインクが並ぶ図面を静かにめくりながら、黙って聞いていた。

 

「皆が問題にしているのは、便座が冷たいか温かいかではないのだ。お前が、どこまで学園へ手を伸ばすつもりなのかだ」

 

エドワードは、少しだけ苦い顔をして、手元の書類をトントンと机に叩きつけた。

 

「手を伸ばしているわけではありません。安全基準を満たした必要な設備を整備しているだけです」

 

「それが、お前には一番危ない」

 

エドワードは椅子の足を軋ませ、声を低くした。

 

「お前は本当に、必要だからやっている。事故防止や衛生管理という、誰にも否定できない正当性から始めている。だから止まらない。だが、王都の古い連中は必要性だけでは見ない。誰が金を出したか。誰の兵が立っているか。誰の名で業者が動いているか。最後に誰の帳簿が太るか。必ず、そこを見る」

 

ルーカスは資料束を机に置き、わずかに眉を寄せた。

 

「当然の警戒です」

 

「なら、備えているのか」

 

「ええ。質問されるなら答えます。疑われるなら、他領の既存設備と比較可能な実証資料を出します。反対されるなら、具体的な代替案と工事の停止条件を求めます」

 

エドワードは、そのあまりにも平坦な、手続きの壁のような答えに、少しだけ顔をしかめた。

 

「……大講堂での説明会まで想定してるわけか」

 

「必要になれば。処理手順が一行増えるだけです」

 

「少しは、上手くいかないかもって不安に思う気はないのか?」

 

「祈りは、資料の代わりになりません」

 

エドワードはしばらく黙った。それから、前髪を乱暴に掻き回し、喉の奥で自嘲気味に笑った。

 

「そうだったな。お前にとって不安ってのは、酒で誤魔化すものでも、忘れるものでもない。記録して管理するものだった。……これでも一応、友として心配しているんだがな。王都の泥沼に、わざわざ自ら飛び込んでいくお前をだ。お前がどれだけ冷たく突き放そうと、俺にとっては、お前が唯一の――」

 

「……初めてのお友達を擦りすぎだろ。何度そのワードを使う気だ。Stop being so needy」

 

「……お前にとって、俺の言葉はそれほど価値が無いか、トレンス」

 

ルーカスは、重いため息を一つ吐いた。

 

「俺の色気に焼かれるのは勝手だがな。こちとら、既に王都の裏情報や貴族たちの動向は、必要な外部要因として帳簿へ計上されている。その無駄に重い情念は、処理の邪魔になる」

 

「俺の必死の忠告も無意味だと言いたいのか。相変わらず、気味が悪いほどに完璧だ。……そうではなく、その、呼び方だ」

 

「Eddy.これで満足か?」

 

「……そういう話をしているんじゃない。俺は、この王国の第一王子だ。百歩譲って『雑用』に従事している現状は受け入れよう。だが、たまには……そう、たまには友を敬うという、貴族として、あるいは人間としての『情緒的配慮』を見せたらどうだ?」

 

エドワードの言葉に、隣で領収書を整理していたミリアリアが、見てはいけないものを見るような目で彼を凝視した。ヴェクターに至っては、噴き出すのを堪えるために必死で口を覆っている。

 

ルーカスは、持っていた精密ドライバーを置き、わざとらしく椅子をガタリと回転させてエドワードと向き合った。

 

「リスペクト、ですか」

 

「そうだ。一瞬でいい、語尾に『殿下』をつけるとか、椅子から立ち上がる時に俺より先に動かないとか……そういう、非効率だが美しい『様式美』だ。お前という男の仕組みに、その程度の事を組み込む余裕はないのか?」

 

エドワードの精一杯の、「友としての抗議」。

それに対し、ルーカスはしばらくの間、無言でエドワードを観測した。その沈黙は、エドワードの期待を裏切るに十分なほど、冷たく、そして「分析的」なものだった。

 

「……敬意とは、儀礼の回数で測定されるものではない。私は、あなたの『正確な筆致』と『折れない忍耐』を高く評価しています。だからこそ、こうして私の隣で、最も重要な機密の一部を任せている」

 

ルーカスは立ち上がり、一度だけ、流麗すぎる所作でエドワードの座る机の端を人差し指でコン、と叩いた。

 

「『敬い』を求めて言葉を飾る暇があるなら、その高貴な指先を次の在庫表へ進めるんだな。俺があんたを『第一王子』という記号ではなく、『代えのきかないパートナー』として扱っている。……これ以上の『敬意』が、この世にあるとでも?」

 

「……っ」

 

エドワードは絶句した。

懃懃無礼。傲岸不遜。

 

しかし、その言葉の裏にある「お前を認めている」という、あまりにも重すぎる平熱の信頼。

 

「……相変わらず、可愛げのない男だ」

「可愛げを期待するなら、そこらの『子犬』でも構ってろ。あちらの方が、お前の望む『無条件の反応』を返してくれるだろうよ」

 

ルーカスはそう言い捨てると、再び作業に戻り、金属音を響かせ始めた。

 

「……オルスタイン嬢。今の、聞いたか?」

 

「……はい、殿下。……『お前は犬以下だ』と言われなかっただけ、前進だと思って諦めてください」

「……そうだな。俺も、奴に何を期待しているんだか」

 

エドワードは苦笑し、再び羽ペンを握った。

 

腹は立つのに、不思議と気分は悪くない。ルーカスの不遜さは、裏を返せば「利用価値のない人間には牙を剥くことすらしない」という、彼なりの誠実さであることを、エドワードも無意識のうちに理解し始めていた。

 

「……見ていろ、ルーカス。いつかお前に、心底から『殿下、お見事です』と言わせてやる」

 

「楽しみにしてますよ。……一万年後くらいには」

 

「一言多いんだよ、貴様!」

 

エドワードの毒づきを背中で受け流しながら、ルーカスはふと、機材の脇にある一台の金属製の「箱」に目を止めた。中身は空のアンプケースだった。子供でも、片手で持てる重さにすぎない。

 

「……ふむ。これは、少し計算外だな」

 

ルーカスが独り言を漏らし、その箱に手をかけた。

次の瞬間、ルーカスの表情が劇的に一変する。

 

「……ッ!? ぬ、ぐ……っ、重い……!?」

 

先ほどまで氷のようだったルーカスの顔が、見たこともないような必死の形相に歪んだ。膝を深く折り、血管を浮き上がらせ、全身で「あり得ない重量」に抗っている。

 

「ど、どうした、ルーカス!?」

 

エドワードが驚いて椅子を蹴るように立ち上がる。

 

ルーカスは、もはや声も出ないといった様子で、歯を食いしばりながら「開かない扉」をこじ開けようとするかのような、大仰な動作を繰り広げ始めた。箱は少しも動いていない。

ヴェクターだけは、ルーカスの肩が不自然に固くなった時点で、何か始まると察していた。

 

「……ま、まさか、魔力異常か!? 空間が捻じ曲がって……っ!」

 

「ルーカス、しっかりしろ! 私が手伝う!」

 

エドワードは、目の前の「知性の怪物」がこれほどまでに無力な姿を晒していることに焦りを覚え、全力で駆け寄った。ルーカスが必死に掴んでいる箱の取っ手へ、自らも渾身の力を込めて指をかける。

 

(この怪物が動かせないほどの重量……! よほど、とんでもない密度の魔導具が――!)

 

「せーの、で引くぞ! ルーカス! ぬおおおおおっ!!」

 

エドワードが顔を真っ赤にし、全身のバネを使って、文字通り「死力を尽くして」箱を引き上げた。

 

――カパッ。

 

「……え?」

 

抵抗が、ない。

あまりにも、無い。

 

強烈な抵抗を想定して全力で引いたエドワードの身体は、慣性の法則に無慈悲に従い、後方へと豪快に吹き飛んだ。

 

「うわああああっ!?」

 

ドッシーン!! と、音楽室の床が鳴った。

 

エドワードは見事にひっくり返り、その手には、空っぽの金属ケースが高々と掲げられていた。

 

静寂が訪れた。

 

ミリアリアは口を開けたまま硬直しており、ヴェクターはついに限界を迎えて机の下に沈没した。

エドワードが、尻の痛みと激しい混乱の中で顔を上げると。

 

そこには、先ほどまでの必死さが嘘のように消え失せ、いつもの無機質な、しかしどこか満足げな顔をしたルーカスが立っていた。制服の埃を優雅に払っている。

 

「……素晴らしい。流石はエドワード殿下だ。私ではビクともしなかったこの『難局』を、たった一人の膂力で解決されるとは」

 

ルーカスは、これ以上ないほど大仰に、しかし感情の籠っていない拍手をパチパチ、と二、三回送った。

 

「その力、まさに万人力。王家の血筋に宿る潜在的なパワーには、私の論理も平伏するしかありませんね。……いやはや、助かりました。私はこの『勝利の記録』を整理してきますので。では」

 

「……あ、待て、トレンス……」

 

ルーカスは、エドワードが呼び止める隙も与えず、制服の裾を翻して風のように部屋を立ち去った。

 

残されたのは、床に転がったまま空の箱を抱える王子と、冷たい静寂。

 

「……ミリアリア。今、俺は……騙されたのか?」

 

「……殿下。あの方は今、間違いなく『楽しんで』いらっしゃいましたね。……そして、殿下のことを『力自慢の猪』か何かとして処理した挙句、面倒な片付けを押し付けていかれました」

 

エドワードは、手の中のあまりにも、軽い箱をじっと見つめ、それからようやく、腹の底からこみ上げる怒りを爆発させた。

 

「ルーカス・フォン・トレンス――!! 貴様、俺を『便利屋』扱いしたな! 敬えと言った矢先にこれか!!」

 

放課後の廊下に、王子の絶叫が響き渡る。

 

角を曲がった先で、ルーカスは一瞬だけ、誰にも見せないような、悪ガキがいたずらに成功した時のような笑みを浮かべ、それからすぐに「効率的な歩行」へと戻った。

 

放課後の音楽室には、どこか歪で、しかし確かなリズムを持った日常の音が響いていた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

「……ちょっと、ルーカス」

 

呼び止める声は低かった。

廊下の後ろから、足早に追いついてきたのは、ミリアリア・オルスタインだった。

腕を組み、いつも以上に鋭い視線でルーカスを睨みつけている。

 

「何です、オルスタイン嬢。次の予定まで時間がありませんが」

 

「本当に……大丈夫なんでしょうね」

 

彼女は周囲に目を配りながら一歩近づき、声を極限まで潜めた。

 

「中央掲示板の公開質問状。学園長が受理した監察報告書。大講堂での説明会。王都の商会筋の噂まで動いているのでしょう。これでも大丈夫だと言えるの?」

 

「ええ。説明会用に、融資条件と施工主体の実績、騒音・振動の影響をまとめた全項目の照合資料を整理させています。手続きが進むのは、むしろ歓迎すべきことです」

 

「歓迎、ではありません」

 

ミリアリアはさらに一歩、ルーカスの胸元へ詰め寄った。その瞳には、学園内の生々しい権力闘争への恐怖とは異なる、ひどく切実な色が出入りしていた。

 

「確認が必要なのは分かります。でも……そのせいで、導入が遅れたりはしないのでしょうね」

 

ルーカスは一瞬、資料を抱えたまま目を細めた。

 

「標準仕様の衛生設備については、工程への影響は最小限に抑えます」

 

「最小限、では困るの」

 

ミリアリアは、言ってから自分でも少し驚いたように細い息を止めた。だが、組んだ腕の指先にきゅっと力を込め、決して引き下がろうとはしなかった。

 

「アンジェは、あの設備を『ちっとも恥ずかしくない』と仰ったわ。使用人の手を煩わせることも、冷たさに耐えることも、臭気も、不便も。今までみんな、古い慣習として当たり前だと思って、誰も疑問にすら思わなかったのに」

 

彼女は、わずかに唇を震わせた。その瞳が、夕暮れの光を撥ね返す。

 

「一度知ってしまったら、もう……戻れないでしょう……?」

 

ルーカスはすぐには答えなかった。ただ、その動揺を静かに見つめている。

ミリアリアは顔を真っ赤にしながら、自らの退路を断つように一気に言いきった。

 

「だから、もしあの設備の導入が遅れでもしたら……アンタに汚されたって、学園中に吹聴してやるからね!」

 

一瞬だけ、放課後の廊下の空気が完全に停止した。

通りかかった他寮の生徒が、驚いたように足を止めてこちらを見る。

ルーカスは重い資料束を片腕で抱えたまま、わずかに片眉を上げた。それから、フッと口元だけで不敵に笑ってみせた。

 

「……お嬢様方に、あの快適さは刺激が強すぎたか?」

 

「なっ――」

「安心しろ」

 

ミリアリアが真っ赤になって反論の言葉を探すより先に、ルーカスは手元にある、別邸向け特注仕様の精緻な図面を軽く指先で叩いた。

 

「ハイエンドモデルの供給契約は、もう決済を済ませてある」

 

その声は、いつもの冷徹なものとは違い、少年らしい不敵さを帯びて妙に軽快だった。

 

「何があろうと、工期は遅らせないさ。契約は、護るためにある」

 

ミリアリアは、その「護る」という言葉の響きに、有能な相棒としての頼もしさを感じて、かすかに肩の力を抜いた。

 

「……なら、信じるわ」

「それでいい」

 

「ただし、もし遅れたら」

 

「そんなに俺の指印(サイン)が欲しいなら、そう言えばいい。……安心しろ、お前のための特注仕様(ハイエンド)は、もう俺の帳簿の特等席に、逃げられないように括り付けてあるさ」

 

ルーカスが小さく笑い、ミリアリアは耳たぶまで真っ赤にして硬直し、身を引こうとする。

だが、それよりも早く、ルーカスは一歩踏み込み、彼女の耳元へ静かに口元を寄せた。そして触れそうなほどの距離から、低く、滑らかな声で囁いた。

 

「俺を脅迫した対価だ。その極上の快適さは、誰の手も煩わせずに……お前だけのものにしてやる」

 

「……忘れなさいよ!」

 

「無理ですね。脅迫は記録に残す主義ですので」

 

「最低……!」

 

ミリアリアが踵を返す。

その背を見送りながら、ルーカスは小さく息を吐いた。

 

 

「まったく」

 

抱えた資料束の中には、学園の下水系統図と、衛生設備の「維持保守条件」および「部品規格表」が、寸分の狂いもなく並んでいた。

 

一度これを受け入れた者は、二度と古い石造りの水場には戻れない。維持管理の部品も、定期的な保守点検の手続きも、すべてはトレンスの規格という名の、新しい鎖に繋がれていく。

 

 契約は、護るためにある。

 

 

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