剣と魔術とライフルと   作:あききし

177 / 177
第百四十話

 

第百四十話 自由の代金、美しき推奨

 

 

会場が静まる。

白い手袋をはめた指先が、ゆっくりと扇子を閉じた。

 

「トレンス侯爵」

 

アイリス・ド・アークランドの声は、よく通った。

 

責めるでもない。怒るでもない。

けれど、聞き逃すことを許さない声だった。

 

「王立総合学園二年次、レグルス寮所属。アイリス・ド・アークランドです」

 

彼女は壇上のルーカスを見上げる。

 

先ほどまで、会場は資料の束を見ていた。

 

停止条件。 監査権限。 保守手順。 感染症の発生率。 将来負荷を見越した配管径。

 

だが、アイリスが見ていたのは、その資料のさらに先だった。

設備が完成した後。 人々が慣れた後。 誰もが、古い水場へ戻れなくなった後。

 

「先ほど貴方は、保守手順、部品規格、維持管理条件を整えると仰いましたわね」

 

「はい」

 

ルーカスは即座に答えた。

 

「では、伺います」

 

アイリスは扇子を膝の上へ置いた。

 

「学園が将来、別の設備を選ぶ時。あるいは、トレンス領の規格とは異なる方法で、この基盤を更新しようとする時」

 

一度だけ間を置く。

 

「その自由は、どこまで保証されますの?」

 

会場の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。

それは衛生設備の話ではなかった。

一度トレンスの設備を受け入れれば、学園は以後もトレンスの規格に従わされるのではないか。

便利さという名の鎖に繋がれるのではないか。

 

ルーカスは、手元の資料へ一度だけ視線を落とした。

 

「将来の学園が何を選ぶかは、将来の学園が判断することです」

 

そして、顔を上げる。

 

「私が定めることではありません」

 

淡々と。まるで、最初からそこに境界線が引かれていたかのように。

アイリスの瞳が、わずかに細くなる。

 

「本件の契約範囲を超える将来の変更については、学園から要請がない限り、私が判断を代行することはありません」

 

ざわめきが走る。

ルーカスは、誰かの反応を待たなかった。

 

「学園が将来、別の事業者を選ぶことも。別の規格を採用することも。既存設備を全面的に更新することも、学園の権限です」

 

「……随分と、あっさり手放されますのね」

 

アイリスは微笑んだまま言った。

だが、その声にはまだ納得の色がなかった。

 

「学園の基盤に触れておきながら、その先には責任を負わないと?」

 

「違います」

 

ルーカスの声は変わらなかった。

 

「本件の設計、施工、導入、保守契約の範囲については、契約に基づき責任を負います」

 

彼は資料の一頁をめくる。

 

「ただし、将来の学園が選ぶべき判断まで、私が代行することは責任ではありません」

 

短い沈黙。

 

「それは、介入です」

 

 

言葉が、会場の中央へ落ちた。

アイリスは扇子を閉じたまま、動かなかった。

彼女は、いったん頷いた。

 

「では、もう一点だけ」

 

その声音は、先ほどより柔らかい。

だからこそ、会場の者たちは気づく。

彼女は引いたのではない。 次の問いを、より深い場所へ差し込もうとしている。

 

「学園が将来、別の規格を選ぶことはできる。契約上、貴方はそれを妨げない。そこまでは理解いたしましたわ」

 

「はい」

 

「けれど、その選択によって既存設備との接続が失われ、改修費が膨らみ、保守要員の再教育が必要になり、非常時の対応能力まで一時的に落ちるとしたら」

 

彼女は微笑んだ。

 

「その損失は、誰が負うのですの?」

 

会場の空気が、少しだけ硬くなった。

今度の問いは、自由を許すかどうかではない。

自由を使った者が、現実に何を失うのか。

その損失を、誰が帳簿へ載せるのか。

 

「学園の予算ですか。利用者である生徒たちですか。現場の職員ですか。それとも、最初にこの規格を導入した貴方ですか」

 

財務部の職員たちが、同時に資料へ目を落とす。

保安部の者たちも、黙って壇上を見ていた。

そこには、理念では処理できない項目がある。

費用。 訓練時間。 部品備蓄。 緊急時の復旧速度。

ルーカスは、少しだけ眉を動かした。

 

「設計または施工に瑕疵があり、その結果として変更が必要になった場合。その損失は、私が負います」

 

迷いのない返答だった。

 

「契約期間中、私が部品供給や技術支援を不当に制限した場合も同様です」

 

アイリスは、すぐには次の言葉を出さなかった。

ルーカスは、契約上の責任から逃げていない。

むしろ、逃げられる余地を先に閉じている。

 

「けれど、別規格を選ぶ自由があると言いながら、既存設備との互換性や運用実績によって、貴方の規格を選ぶ方が圧倒的に安く安全になるのでしょう?」

 

だからこそ、彼女はさらに踏み込んだ。

 

「それは、貴方の規格を選ぶことと同義ではなくて?」

 

「同義ではありません」

 

「私見を述べるのであれば、既存設備と互換性のある規格を採用した方が、改修費、保守負担、利用者教育、事故対応における折衝は少なく済むでしょう」

 

その一言に、財務部の職員らしき男が小さく頷いた。

 

否定できる者はいなかった。

すでにある設備に接続する方が安い。 使い慣れた手順を続ける方が速い。 非常時に、既知の部品と既知の技術者へ頼れる方が安全だ。

それは脅しではない。

ただ、あまりにも現実的な計算だった。

 

「ですが」

 

ルーカスは続ける。

 

「それは推奨です。拘束ではありません」

 

会場は静かだった。

アイリスは、わずかに首を傾けた。

 

「推奨、ですか」

 

「ええ。自由に選ぶことと、選択に費用がかからないことは、別の問題です」

 

声は冷たくも、脅しではなかった。

 

「自由に選べることと、選び直した者だけが損をすることは、同じではありませんわ」

 

アイリスは楽しげに、しかし目を見据えて続ける。

 

「資金を出し、人材を出し、部品規格を整え、保守の手順まで先に置いた方の『推奨』は、随分と重いものですわ」

 

その言葉に、王都の商会筋の何人かが目を伏せた。

古い商いもまた、同じように人を縛ってきたからだ。

古い取引先。 古い顔役。 古い貸し借り。 古い慣習。

選び直す自由は、いつだって存在した。

ただし、その自由を使う者は、必ず何かを失った。

 

「重いでしょう」

 

ルーカスは否定しなかった。

 

「ですが、学園がより高価な方式を選ぶための費用。あるいは、別の理念を選ぶための費用まで、私が負担すべき理由はありません」

 

彼は、白い板に残された設備図を見た。

 

「だからこそ、契約上の拘束力とは切り離します」

 

「切り離せば、影響力まで消えると?」

 

「消えません」

 

会場が静まった。

 

「影響力は残ります。設備が有用である限り、学園はそれを選ぶでしょう」

 

その言葉は、侯爵家の権威を誇るものではなかった。

 

「ですが、選び続ける理由が私への従属ではなく、費用と安全性と運用実績にあるのなら。それは支配ではありません」

 

自分の規格が優れているという、自負の言葉ですらない。

設備が使われ続ける理由を、彼自身から切り離している。

 

「より良い代替案があるなら、そちらを選べばよい。選ばれ続ける根拠を失った規格を、私の名だけで維持する理由はありません」

 

ルーカスは、一度だけ資料を閉じた。

 

「選択肢を残すためには、選択肢を維持する側が、その費用と責任を引き受けなければならない」

 

わずかな間。

 

「自由と平和は、この世で最も高価な贅沢品です」

 

講堂の空気が、わずかに揺れた。

 

「自由を、贅沢品と呼ぶのか」 「平和まで値札で測るつもりか」

誰かの低い囁きが、石造りの壁際を滑った。

 

だが、財務部の職員たちはすぐには否定しなかった。 保安部の者たちも、顔を上げたまま動かなかった。

 

安定した設備。 維持される補給。 訓練された人員。 故障時に止める手順。 そして、失敗した時に負担を引き受ける者。

平和が続くために必要なものを、彼らは日々、帳簿と勤務表の上で見ていた。

 

「それを負担せずに済む自由など、誰かの犠牲の上にしか成立しません」

 

アイリスは、しばらく黙っていた。

その沈黙は、言葉を失った沈黙ではない。

彼女は、目の前の男が「自由」を否定していないことを理解していた。

 

 

なるほど。貴方は縛らないと。

むしろ、自由を安易な美辞麗句にすることを拒んでいる。

ただし、自由の代金まで、貴方が肩代わりする気もない

自由を選びたいなら、その選択を維持できるだけの資金と技術と責任を、自分たちで抱えろ。

……ええ。それは、ずいぶんと誠実で……ずいぶんと残酷ですわね

 

 

やがて、アイリスはゆっくりと微笑んだ。

 

「なるほど。学園を手に入れる必要など、ございませんのね」

 

その声は、先ほどよりも静かだった。

 

「学園の方が、自ら貴方の置いた道を選び続けるのであれば」

 

ルーカスは、わずかに目を細めた。

 

「選ばれ続けるなら、それは私の所有ではありません」

 

それは突き放しだった。

 

だが、同時に。

誰かの善意や庇護に依存しないための、唯一の方法でもあった。

 

「学園が、その都度そう判断した結果です」

 

「……結構ですわ」

 

彼女は、膝の上の扇子を、白い手袋の指先で愛おしそうにひとなぞりした。

 

「よく分かりました」

 

何が分かったのかは、誰にも分からなかった。

 

ただ、彼女の涼しげな瞳の奥で、ひとつだけ新しい問いが、静かに形を取り始めていた。

 

 

ゼオンは、最後に立ち上がった。

指が震えていた。資料の端を握る力が強すぎて、紙が音を立てて歪む。

 

「……王立総合学園一年次、アルタイル寮所属。ゼオン・ド・フィアットです」

 

声は掠れていたが、目は壇上のルーカスを、まるで敵を睨む騎士のように真っ直ぐ捉えていた。

 

(署名したから、ここに立っている。

逃げてはいけない。

正しいことを、問わなければならない)

 

クラリーベルが傍聴席から自分を見ているのが分かった。

その視線が、背中に重くのしかかる。

だが、それでも彼は口を開いた。

 

「なぜ……学園の生活を変える工事を、生徒が知る前に始めることができたのですか」

 

一度、息を吸う。言葉を、定義しようとする。

 

「緊急性があったとしても、影響を受ける我々が知る権利は、どこに置かれていたのですか。

その『緊急』の定義は、誰が、どの基準で、どこまでの範囲を許容するものとして決めたのですか」

 

講堂が静まり返った。

ゼオンは、自分の声が震えているのを自覚しながらも、止まらなかった。

 

「私は……ただ『必要だったから』という言葉で、すべてが片付けられるのが、理解できない。

緊急措置という言葉が、どこまでを許し、どこからが『後回し』や『説明不要』になるのか。その境界線が、明確に定義されていない状態で、私はこの質問を終えることができません」

 

彼は、壇上のルーカスを真正面から見据えた。

 

「私は署名した。

だから、答えを聞く責任がある。

けれど、その答えが『定義されていないまま』だったら……私は、また同じ間違いを繰り返すことになる。

トレンス侯爵。

あなたは、王都の白い機械のように、人間の営みを『効率』という言葉で塗り替え、血の通った歴史を、ただの『旧弊』として消し去るつもりなのですか?」

ゼオンは、そこで初めて自分の声が大きくなっていることに気づいた。

 

「私は、あの展示館で見た。

人間が手で洗い、手で守り、手で紡いできた尊厳を、無機質な箱に置き換える光景を。

聖騎士エルリアーナ卿の名さえ、記録から消される時代を。

あなたは……そういうものを、すべて『必要だったから』という一言で、定義も境界線も残さずに消していくつもりなのですか?」

 

ルーカスは、静かにゼオンを見つめ返した。

表情に苛立ちも、嘲りも、動揺もなかった。ただ、淡々とした、しかし一切の曖昧さを許さない視線だった。

 

「フィアット殿」

 

彼は、静かに口を開いた。

 

「まず、エルリアーナ卿の件についてですが、私は一切関与しておりません。あれは私の管轄外の別件です。記録の扱いについても、確認していません」

 

ルーカスはそこで一度、視線をゼオンに固定した。

 

「そして、王都の商売と学園の地下工事に、直接的な相関性はありません。別件です」

 

一瞬の間。

 

「知る権利についてのみ答弁します」

 

ルーカスは、資料に視線を落とすことなく、淡々と続けた。

 

「緊急衛生措置として初動を開始したため、事前周知が不十分でした。これは私の判断ミスです。

以後、同様の緊急事業を行う場合は、着手後二十四時間以内に、生徒および保護者への説明手続きを制度化します」

 

彼はそこで、初めてゼオンを真正面から見た。

 

「知る権利は、認めます。

ただし、それは『後から知る権利』です。

事前にすべてを知る権利ではありません」

 

冷たい、しかし一切の曖昧さのない声だった。

 

ゼオンは、自分の署名が、ただの怒りの叫びではなく、ひとつの「確認可能な記録」へ変えられてしまったことを、痛いほどに実感していた。

 

それは敗北ではなかった。けれど、勝利でもなかった。

自分が訴えた痛みは、通知と説明と記録という形に整理されていた。

 

だが、最初から選べなかった者のための答えは。

まだ、どこにも書かれていないように思えた。

 

 

アラン・ヴィルヌーブは、ついに席を立たなかった。

 

問うべきことが、ないわけではない。

古くから学園へ品を納めてきた工房はどうなる。 顔の利く職人たちが、見慣れぬ寸法と紙切れ1枚で切り捨てられるのではないか。 トレンスの関係者だけが、新しい仕事を独占するのではないか。

胸の中には、いくらでもあった。

 

だが、それを口にした瞬間。 自分が何を惜しんでいるのかまで、この講堂に晒される気がした。

 

これまでの問いは、どれも違っていた。

停止できるのか。 誰が記録を読むのか。 将来、別の選択肢を選べるのか。 影響を受ける者へ、いつ、何を知らせるのか。

誰もが、自分の知っている言葉で問うていた。

 

けれど、その問いは皆。 アランがこれまで見たこともないほど整えられた形で、記録へ変えられていった。

不満は条件へ。 怒りは手続きへ。 疑念は、次に誰かが使える権限へ。

 

ゼオン・ド・フィアットですらそうだった。

 

あの青臭い正義感だけが取り柄の少年が。 拙いながらも、自分の署名をただの怒鳴り声ではなく、学園へ問いを返すための形へ変えてみせた。

 

アランは、膝の上で拳を握った。

自分は何を問えばいい。

工房ごとに違う寸法が困る、と? 昔からの取引を残せ、と? 顔を知る者に仕事を回せ、と?

 

それは問いではない。

自分たちが握ってきた曖昧な優先権を、失いたくないという愚痴に過ぎない。

 

その事実が、腹の底から焼けるほどに屈辱だった。

 

 

その時だった。

 

「……後から知ることを」

 

ゼオンの声が、講堂の中央へ落ちた。

彼はまだ立っていた。

 

「後から知ることを、選んだことと呼ぶのですか」

 

ルーカスの視線が、わずかに上がる。

 

「フィアット殿。先ほど説明した通り──」

 

「貴領では、選ばない自由があると仰るのでしょう」

 

ゼオンは、止まらなかった。

 

「新しい水路を使わない自由。古い設備を使い続ける自由。新しい規格を拒む自由」

 

「けれど……──。選ばなければ生活が苦しくなり、仕事が減り、危険が増し、周囲との関係まで失っていくのなら」

 

資料を握る指が、白くなる。

 

「それは、本当に選べるということですか……?」

 

アランの呼吸が、止まった。

 

見慣れぬ寸法。知らない帳簿。

顔を知る職人ではなく、紙切れで決まる仕事。

胸の奥にあったものが、勝手に形を与えられていく。

 

置いていかれる。

違う。

自分は、そんな言葉を使う側ではない。

 

古い仕組みの中で、置いていく側にいた。 顔を知る者を選び。 知らない者を後回しにし。 それを筋だと呼んできた。

 

それでも。

 

「選ばなければ置いていかれるのなら」

 

ゼオンの声が、わずかに掠れた。

 

「選ばなかった者が困るのなら」

 

講堂のあちこちで、誰かが息を止めた。

商会筋の誰かが、無意識に資料を握り直した。

後方の清掃人夫が、伏せていた顔を上げた。

医務室の職員が、何か言いかけて口を閉じた。

 

誰もゼオンに賛成したわけではない。

誰も、今すぐ工事を止めろと言ったわけでもない。

 

アランは、そのことが気味悪かった。

ゼオンは何もしていない。 ただ、震える声で問いを口にしているだけだ。

 

なのに。

誰かの不安が。 誰かの損得が。 誰かの古い恨みが。

まるで、同じ場所へ寄せられたように。

 

「それは自由ではなく」

 

ゼオンは、ルーカスを見据えた。

 

「最初から決められた道に、遅れて乗るか。外へ落ちるかを選ばされているだけではないのですか」

 

 

講堂のあちこちで、別々のはずだった沈黙が。

ほんの一瞬だけ、同じ形をした。

そんな気がした。そう……感じられた。

 

 

「フィアット殿」

 

やがてルーカスは言った。

 

「貴殿は、自由を誤解しています」

 

講堂の空気が、わずかに硬くなる。

 

「選択肢が多いことは、自由を行使しやすくします」

 

「ですが、選択肢が少ないことが、直ちに選択そのものを無効にするわけではありません」

 

ゼオンの眉が寄る。

 

「飢えている者が、働くことを選ぶ。借金を抱えた者が、契約を結ぶ。故郷を捨てる者が、新しい土地へ移る」

 

「それらの選択は、快適ではないでしょう」

 

「しかし、苦しい選択だったという理由だけで、本人が選んだ事実まで奪うことはできません」

 

ルーカスの視線は、静かだった。

 

「貴殿は、弱い立場にある者を救いたいのでしょう」

 

「ですが、救いたいという願望を理由に、その者が下した判断を“選択ではない”と断じるなら」

 

そこで、ほんのわずかに言葉を止めた。その僅かな空白が、かえって次の言葉の逃げ場のなさを際立たせる。

 

「それは救済ではありません」

 

「貴殿が、本人に代わって人生を決めるというだけです」

 

ゼオンの指先が、資料の端を強く握った。

 

「では、選ばなかった者は置いていかれるのですか」

 

「選ばない自由もあります」

 

ルーカスは即答した。

 

「旧来の設備を使い続ける自由も。新しい規格を拒む自由も。変わらない生活を選ぶ自由もあります」

 

「ただし、選ばなかった結果まで、選んだ者や運営者が永続的に肩代わりする義務はありません」

 

「周囲が前進する中で停滞を選べば、相対的には後退します」

 

彼は手元の書面に視線すら落とさなかった。

 

「それは罰ではない。差です」

 

壇上の机に置かれた指先も、微動だにしない。

その静けさが、講堂に満ちていた感情の熱を、ひとつずつ切り分けていくようだった。

 

「自由とは、すべての選択が同じ結果をもたらすことではありません」

 

「自分が選んだ結果を、自分のものとして引き受けられることです」

 

ルーカスは、そこで初めて少しだけ声を落とした。

 

「ただし」

 

弾かれたように、前方で控えていた書記のペンが走る音が再開された。

 

「聞く権利については、貴殿に一理あります」

 

アランはその乾いた音を耳にしながら、腹の底が冷えていくのを覚えた。その声には、ゼオンを打ち負かそうとする怒りも、憐れみも、あるいは勝ち誇った気配すらもない。ただ、反駁しにくい理屈を、引き出しから淡々と取り出して並べるような手際だけがあった。

 

「学園を運営する責任は、生徒にはありません。予算を負担し、事故の責任を負い、停止を命じる主体は、学園長閣下と学園組織です」

 

ゼオンの肩が、目に見えて強張った。

 

「ですが、生徒は工事の影響を受ける当事者です」

 

何かを言い返そうと開かれかけた唇が、次の言葉を失ったように歪む。

 

「当事者を説明の外に置くことは、運営上の必要とは別の問題です」

 

ゼオンの怒りは、否定されたわけではなかった。

だからこそ、アランには余計に不気味だった。

その怒りは、正しいか間違っているかを裁かれる前に、通知、説明、記録という四角い枠の中へ置かれてしまった。

 

「今回、その手続きは不足していました」

 

ルーカスの声の調子が変わったわけではない。しかし、アランには、目の前で頑丈な鉄格子の扉が音もなく閉ざされたような気がした。 

 

「だからこそ、通知と説明と記録の手続きを追加します」

 

与えられたのは、あくまで「問い返す」だけの椅子だ。決定の机には、最初から近づけるつもりなどないのだ、と。

 

「生徒には、理由を知り、影響を確認し、記録を読み、後から問い返す権利があります」

 

ルーカスはそこで初めて、ゼオンから、講堂の全体へと静かに視線を広げた。その眼差しは、不満を抱く者たちを値踏みしているのではない。

 

「ですが、予算を負担し、事故の責任を負い、停止と再開を命じる権限まで、生徒へ分散させることはできません」

 

まるで、すでに帳簿の上に引き終わった「境界線」を、上からなぞって確認しているかのようだった。

 

「権利は、責任の所在を曖昧にするためにあるのではない。責任を負う者へ、理由と記録を要求するためにあります」

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

説明会は長く続いたが、誰も完全な勝利も完全な敗北も味わわなかった。

 

最後に、アメリア・フォン・グロースハイム学園長が立ち上がった。

 

「本日の答弁は記録します。提示された資料、質問、回答、監察所見を学園の正式記録として保管し、工事継続中は定期報告を義務付けます」

 

彼女は会場全体を見渡した。

 

「本件は、トレンス侯爵の善意を信じるための事業ではありません。誰が担当しても確認し、停止し、継続できる事業へ移行するためのものです」

 

アメリアは静かに一礼した。

 

「本日は確認の第一歩に過ぎません。以後も、定期的に記録・監査を行います」

 

大講堂に、重い沈黙が落ちた。

 

「加えて」

 

アメリアは、一度だけ壇上のルーカスへ視線を向けた。

 

「本件に関しては、提出資料と学園内での答弁だけをもって確認を終えません」

 

講堂に、わずかなざわめきが走る。

 

「王立総合学園学園長権限、および伝統儀礼──巡回査察の規定に基づき、私は近日中にトレンス領へ赴きます」

 

講堂の空気が揺れた。

 

「住宅区画。商業区画。産業施設。導入済みの衛生設備と排水系統、保守記録、故障時の対応、利用者への負担、施工後の生活環境を、自ら確認します」

 

その言葉は静かだった。

だが、財務部の職員も、保安部の者も、王都の商会筋も、同時に顔を上げた。

 

「必要に応じ、学園の医務室、保安部、財務部、ならびに監査に関心を示した者から、同行者を選びます」

 

アメリアの声は、あくまで平静だった。

 

「これは、トレンス侯爵の資料を疑うためだけの訪問ではありません」

 

一拍。

 

「学園が、自ら確認し、自ら運用し、自ら止められるだけの知識と手順を受け取れるかを判断するための査察です」

 

壇上のルーカスは、ほんのわずかに目を細めた。

 

予想していなかったわけではない。

 

巡回査察という伝統そのものは、当然知っていた。

だが、本来なら年の後半に、形式的な視察として行われるはずのものだった。

 

それを今、この場で。

まだ工事が始まって間もない段階で。

しかも、公開の記録と監査の名目を得た上で持ち出す。

 

「歓迎します、学園長閣下」

 

ルーカスは、完璧な所作で一礼した。

 

「確認されることを恐れる事業であれば、そもそも学園へ持ち込むべきではありません」

 

「そうでしょうね」

 

アメリアは微笑まなかった。

 

「ですから、確認します」

 

その手は、学園長としての重い署名印を、提出された監察記録の末尾へ静かに、だが確実な力で押し当てていた。

 

ルーカスもまた、表情を変えなかった。

 

威圧があったわけではない。

魔力が迸ったわけでもない。

殺意も、敵意も、戦意もなかった。

 

ただ、学園長と侯爵が。

互いの言葉を、軽く扱わないと決めた。

 

それだけだった。

 

それでも、講堂にいた誰もが、背筋へ一筋の汗が流れるのを感じた。

 

片方は、伝統と責任を背負う学園長だった。

もう片方は、未来と手順を背負う若き侯爵だった。

 

どちらも退かない。

どちらも、相手を排除するつもりはない。

そして、どちらも、相手を無条件には信じない。

 

その静かな確認だけが、講堂の空気を張り詰めさせていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

押し入れの向こうは異世界でした(作者:Brooks)(オリジナル現代/コメディ)

▼練馬区江古田の古いアパートで一人暮らしをする女子大生・篠原澪は、友達の少ないボッチ気質の二十歳。趣味は彫金とギター。貯金は十万円ほどしかなく、大学、家賃、生活費に追われながら、六畳一間で静かに暮らしていた。▼ある日、小さな地震のあと、部屋の押入れの向こうが異世界の市場につながる。▼幸い、言葉は通じた。澪は恐る恐る異世界へ足を踏み入れ、手元にあった爪切りを売…


総合評価:139/評価:-.--/連載:224話/更新日時:2026年07月29日(水) 08:51 小説情報

【書籍発売中】転生宰相のダンジョン魔改造録 ~ポンコツ魔王様に頼られたので、壊滅した魔王軍を再建します~(作者:パンダプリン)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

女神さまにハズレ扱いされた俺は、ラスボスの魔王が超高難易度で有名なとあるゲームの世界へ転生させられてしまった。▼スキルはダンジョンマスター。種族は魔族。どう見ても主人公側ではなく、敵側としてだ……。▼途方に暮れていたところ、明らかに格上の存在と出会ってしまったが、あなたが魔王……?▼勇者たちを倒したはいいけど、部下もダンジョンも失ってやる気がない……?▼俺、…


総合評価:1374/評価:8.2/連載:287話/更新日時:2026年07月29日(水) 11:50 小説情報

戦国爆乳信長(作者:星野林(旧ゆっくり霊沙))(オリジナル歴史/コメディ)

時は戦国時代……謎の病気により男の出生率が減り、男女比が1対9くらいになってしまい、更に男社会は応仁の乱によって壊滅してしまった。▼それから約80年……戦乱の世が続く中で2人の男女が産まれる。▼1人は織田信長、そしてもう1人は池田恒興。▼主人公兼転生者の池田恒興は女性として生まれた幼なじみの織田信長と一緒に天下を駆ける!▼え?豊臣秀吉や徳川家康、明智光秀も女…


総合評価:2317/評価:8.31/連載:35話/更新日時:2026年07月08日(水) 18:01 小説情報

心配性の実力者は今日も鍛え続ける(作者:大気圏突破)(原作:魔法少女リリカルなのは)

 青信号で横断歩道を渡っている時に上級国民が運転する暴走車に轢かれてしまい彼は命を落とした。本来ならもう67年ほど生きる予定だったが天国に来てしまった。定員オーバーなので神は二次創作特有のアニメ作品内に彼を転生させる▼ 部屋で目を覚ました彼は9歳の姿になっていた。そして机の上置かれていた手紙に▼「その世界は実力が無いと死んじゃうから頑張って鍛えてね♡ byゴ…


総合評価:3480/評価:7.15/完結:63話/更新日時:2026年05月02日(土) 20:55 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>