幕間 未完成の円、あるいは紙上の境界線
放課後の陽光が射し込むテラスサロンの片隅は、大理石の柱によって他のテーブルからの視線が遮られた、不自然なほどに静かな空間だった。
そこには、三代前のベルンハルト侯爵が学園へ寄進した水場から引かれた、古い噴水が涼やかな音を立てている。その青銅の細工を眺めながら、フォルカルト・ド・ベルンハルトは、シスリーから差し出された白磁のカップを手に取った。
「……フォルカルト様。冷めないうちにどうぞ。わたくし、お砂糖を少し多く入れておきましたわ」
「……ああ、すまない、シュタイン嬢」
彼女の纏う安物の香油の匂いが、テラスの乾いた空気に湿った温度を与えていく。一切の否定を持たない無垢な眼差しは、ルーカスの冷淡な合理性に存在を無視され、傷つききった彼の自尊心を、そのまま丸ごと肯定してくれる唯一の安息所だった。
カチャリ、と定規で測ったかのような正確な軌道で、机の上に一冊の冊子が置かれた。
厚手の手漉き紙を、エーデルライト家の内紋が刻まれた青い革紐で厳格に綴じた、一分の汚れもない冊子。
そこに立っていたのは、オリビア・ド・エーデルライトだった。
一糸乱れぬ制服、白絹の手袋。その表情には、怒りも、嫉妬も、哀れみすらも存在しない。ただ、徹底して色彩を排した「平坦な無表情」だけが、冷たくそこにあった。
「シュタイン男爵令嬢」
オリビアの声は、低く、淀みなく響いた。
「ここは、上級貴族および寮代表の利用が推奨される格式のサロンです。許可なき立ち入り、および身分差を弁えぬ距離での私的接触は、家門の教育を疑わせるもの。速やかにお引き取りを」
「あ、……申し訳、ありません……」
シスリーは、氷の剃刀を突きつけられたかのように身を縮め、慌てて席を立った。その弱々しさが、フォルカルトの内のプライドを逆撫でする。
「オリビア……。 言い方が酷すぎるのではないか?彼女はただ、私と──」
「フォルカルト様」
オリビアは、フォルカルトの抗議を完全に無いものとして、机の上の青い冊子を指先で静かに押し出した。
「午後からの魔導幾何学の演習に関する予習資料、ならびに我が家門が管理する学園規約の写しですわ。ご査収ください」
「……資料だと?」
フォルカルトは、置かれた冊子の表紙を一瞥した。
──『魔導幾何学演習:第三象限における応力分散と配管摩耗の相関台帳』
「必要ない。私は、授業の遅れを君に介護されねばならぬほど、無能ではないと言ったはずだ」
苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てる。だが、オリビアの硝子細工のような瞳は、微塵も揺らがなかった。
「これは単なる授業の補遺ではありませんわ」
平坦な声が、淡々と事実を告げる。
「台帳の後半、円の変形率として算出した数値には、我がエーデルライト商会が持つ王都の標準規格、ならびに学園創立時の敷地管理規約が添付されています。特に、ベルンハルト家が寄進した古い水路の『維持管理権限』と『将来的な負荷の帰属』について、幾何学的な応力計算を用いて、既存の形式に落とし込んであります。……一度、目をとおされることを強く推奨いたしますわ」
維持管理権限。将来的な負荷の帰属。
オリビアの口から紡がれるのは、あくまでも数百年間貴族社会が守ってきた「既存の形式と構造」に則った言葉だった。
だが、今のフォルカルトの耳には、その「正しさ」そのものが、自分に非を認めさせ、彼女の庇護に縋らせようとするための鎖にしか聞こえなかった。ここで資料を精読し、彼女の言う通りに既存の権利を点検することは、自らの敗北を認めることになる。
「……余計な気遣いだ、オリビア」
フォルカルトは、小脇にその冊子を乱暴に挟み込み、立ち上がった。
「次の講義の準備がある。君のその『高度な幾何学の講義』には、後で目を通しておく。……行くぞ、シスリー」
オリビアは振り返らなかった。ただ、大理石の床を叩く彼らの不揃いな足音を、感情のない瞳で静かに見送っていた。
・・・・・
・・・
深夜。レグルス寮の主室。
マホガニーの書き物机の上には、飲みかけの赤ワインのグラスが二つと、シスリーが残していった安っぽい薄紅色のリボンが、ぬるい夜気が流れ込む窓辺で揺れていた。
フォルカルトは、クラヴァットを緩め、胸元のボタンを外した崩れた装いのまま、椅子にもたれかかっていた。彼の指先には、まだシスリーの柔らかく甘い体温の残響が、生理的な安らぎとともに残っている。
(……これでいい)
彼は、小脇に挟んだままだった青い革紐の冊子を、机の上へと放り出した。
バサリ、と重い音がして、手漉き紙の頁がいくつかめくれる。
そこには、オリビアの寸分違わぬ美しい細文字で、複雑な円の座標と、学園の古い敷地管理規約の一文が、冷徹に刻まれていた。
だが、フォルカルトはその数字と条項の海へ、視線を落とすことすら拒絶した。
見たくなかった。
幼なじみから手渡されたその「事務的な資料」を直視することは、為政者としての自分の「遅さ」を無言で受け入れることを意味していたからだ。
「……ただの、授業の補足だ」
低く、自分を騙すように呟く。
貴族として、エーデルライト家からの正式な書面を破棄するような不調法はできない。だから彼は、その冊子を乱暴に閉じると、マホガニーの机の最も奥──三代前の水場の権利を示す、古いベルンハルト家の重い真鍮印の真下へと、力力任せに押し込んだ。
未開封のままの、重石として。
カチリ、と古い印章が冊子を押さえつける音が、暗い室内に響いた。
地下からは、またしても低い振動が、ゴン、と床を伝ってくる。
フォルカルトは、その不快な音を遮るように、シスリーのリボンを指先で強く握りしめ、目を閉じた。
「……私には、理屈ではなく、情熱が必要なのだ」
古い印章の下で、彼を救うはずだった唯一の「
自分が今、何を机の奥へ葬り去ったのか。その代償の重さに気づかぬまま、次期侯爵は、甘く腐った幻影のなかへと自ら沈降していった。
・・・・・
・・・
大講堂の空気は、最初から俺のために整えられたものではなかった。
最初に飛んだのは、ありふれた不満だった。
工事の騒音がひどい。夜に眠れない。通行止めのせいで授業へ遅れる。見知らぬ兵が立っている。古い講義棟の壁に振動の影響はないのか。
それなら、俺にも分かった。
不快だ。
由緒ある学園の地下を勝手に掘り返し、夜まで耳障りな音を響かせ、石造りの廊下を泥と鉄の臭いで満たす。何の説明もないまま、勝手に進めている。
不作法だ。
学園に相応しくない。
そう言うつもりだった。
だが、最初に立った第一王子は、そんなものを「不快だ」の一言で終わらせなかった。
眠れない者はどうする。新しい設備を使えず恥をかく者はどうする。苦情を言った生徒が、工事の邪魔をした者として扱われない保証はあるのか。
問うた後、殿下は答えを待った。
あいつは即座に、夜間作業の原則禁止、例外時の寮監と保安部による承認、工事区域と通行制限時間の事前掲示、生活支障の申告窓口、利用案内と補助担当を並べた。
白い板に文字が浮かび、書記が記録する。
騒音への不満が、作業時間の規則になる。
通行止めへの不満が、代替通路と補助人員になる。
不安が、紙の上の項目へ変わっていく。
「今の回答は記録に残せ」
エドワード殿下はそう言った。
「守られなかった時は、次に私が問う」
その言葉を聞いた時、俺の喉が乾いた。
俺なら、同じように言えただろうか。
夜がうるさい、と怒鳴ることはできる。兵を引け、と叫ぶこともできる。だが、その後は。
誰が記録する。どこへ申告する。何を超えたら止める。誰が次に問う。
そこまで、俺は一度でも考えたことがあったか。
次に第二王子が立った。
今度は依存の話だった。
部品。技術者。保守。規格。契約が終わった後、学園はいつトレンスの供給網から独立できるのか。
胸の奥が、わずかに反応した。
それは確かに不安だった。
いったんトレンスの設備を入れれば、学園はもう、あの家なしには回らなくなるのではないか。
だが、レオナルド殿下は「侯爵家に支配されるのではないか」とは言わなかった。
管理台帳の移管。外部業者への発注権。
規格公開。非常停止の実施権。独立の条件として、淡々と並べた。
俺の中ではただの苛立ちだったものが、あの方の口から出た瞬間、政治になった。
バルフォア嬢はさらにひどかった。
施工者、警備者、融資者が同じ経済圏に属するなら、誰が止めるのか。
停止権限は誰にあるのか。停止した記録は残るのか。あの猪のような女ですら、怒鳴り散らしているだけではなかった。
怒りの向け先を知っていた。
剣を振るうなら、どこを切るべきかを知っていた。
俺は、ただあの男を切りたかった。
だが、何を切るべきかなど、考えていなかった。
ノイマンは、配管が太すぎる理由を問うた。
今ではなく、十年後や災害時の負荷を、誰が決めたのかと。
ラスターバンの少年は、トレンスの数字を信じろと言われるだけでは足りない、と言った。測定器具、校正手順、誤差の範囲、第三者による再測定。
震える声だった。
それでも、問いは震えていなかった。
皆、何かを持ってきていた。
不満だけではない。
自分の不安を、答えさせるべき形へ変えてから、この場に立っていた。
俺だけが違った。
手元の資料は開いている。
工事概要。施工体制。融資条件。保守契約。停止基準。
字は読める。
だが、何一つ頭に入らない。
(俺は……、何をしに来た)
トレンスの粗を見つけるためだ。
あの男が学園を私物化しようとしている証拠を掴むためだ。
そう思っていた。
だが、前に立った者たちは、あの男を憎むためだけに問うてはいない。
止められるようにするため。
確かめられるようにするため。
次に責任を負う者を、先に決めるため。
そのために問うている。
俺だけが、家名と屈辱だけを持って座っている。
白い板の図が切り替わった。
排水系統。既存水場。仮設給水導線。
衛生設備の利用区画。細い線が、学園の地下を縫っている。
俺の目は、図面の端にある文字で止まった。
既存水場。
脳裏に、古い噴水の音が浮かぶ。
獅子の頭を象った青銅の水栓。
緑青を帯びた口元。
石の奥で何かが噛み合い、細い水が受け皿へ落ちる。
ベルンハルト家が寄進した水場。
名誉。信義。あの水場の部材を納め、補修を担い、長い時間をかけて繋がってきた商会や工房。
今はまだ、図面の端に「既存水場」として残っている。
だが、排水を整え、衛生設備を増やし、利用者が増えれば。
次に問われるのは、給水だ。
水質。供給量。貯水。非常時の水源。新しい管。新しい規格。新しい業者。
そして、古い水場は。
(……消える)
胸の奥で、何かが鳴った。
怒りではなかった。
恐怖だった。
家の名が消えることへの恐怖。
古い水場の周りで生きてきた者たちが、役目を失うことへの恐怖。
だが、それをどう言えばいい。
フェルナー教授が、次の質問者を求めた。
「他に、現行事業の範囲、安全性、責任分担、維持保守に関する質問はありますか」
俺の指が、肘掛けから離れた。
膝へ力を入れる。
気づけば、立っていた。
「……下水だけを整備して、それで終わるとでも言うつもりか」
出た声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
違う。
これは問いではない。
「発言者」
フェルナー教授の声が飛んだ。
「所属と氏名を」
講堂中の視線が、俺へ集まっていた。
逃げられない。
「……王立総合学園四年次。レグルス寮所属」
喉が張りつき、指先はしびれるように痛みだす。全身の血が頭に集中するように、視界がぼやける。
「フォルカルト・ド・ベルンハルトだ」
自分の名を口にした瞬間、今吐き出した感情に、署名をさせられたような気がした。
もう引けない。いや……引くわけにはいかなくなった。
俺は今、ただの感情に自分の名前をつけてしまった。
責任の所在が確定した。俺は立ったまま、この講堂に残すに足る言葉を続けなければならなくなった。
「続けてください」
分かっている。
これは……ただの感情だ。
講堂の視線が集まる。
俺は逃げられなくなった。逃げる気も……ない。
せめて。
「衛生設備を増やし、排水を整えるなら……次に必要になるのは、水の供給だろう」
手元の資料は読めない。頭の奥から、無理やり言葉を絞り出し、継ぎ足す。
どこかで読んだのではない。
いや、読まなかった冊子の表題が、遅れて頭の奥から浮かんできた。
応力分散。配管摩耗。維持管理権限。
将来的な負荷の帰属。
「水質。供給量。貯水。非常時の確保。利用者が増えた場合の配分」
言葉が途切れそうになる。
「……この工事は、将来的な上水道整備の入口ではないのか」
僅かな沈黙が下りる。
フェルナー教授が、すぐに口を開いた。
「ベルンハルト殿。本会は現在進行中の地下施設改修事業に関する確認会です。将来の上水道整備は、本件の議題から外れます」
当然だ。分かっていた。
俺は、まだ起こっていないことを持ち出した。
しかも、家の水場が消えるかもしれないという、私的な恐怖から。
講堂のどこかで、誰かが息を吐く気配がした。
俺は立ったまま、何も言えなかった。
やはり、やった。
王子も。バルフォア嬢も。子爵家のクレメンスも。ラスターバンの、名も知らなかった少年すら。
皆が自分の言葉を整えていた中で、俺だけが感情を投げつけた。
その時だった。
「教授のご指摘は正しい」
トレンスの声が、平熱のまま講堂へ落ちた。
俺は顔を上げた。
あの男は、俺を見ていなかった。
資料の端を指で押さえたまま、白い板に浮かぶ配管図を見ている。
「本件の契約範囲に、学園上水道の全面整備は含まれていません」
そうだ。
それで終わりだ。
俺は勝手に議題を逸らした。
そう処理されるだけだった。
「ただし」
奴は、そこで一度も声色を変えずに続けた。
「排水と給水は、衛生機能としては完全に分離できません」
講堂の空気が、わずかに変わる。
「施工契約、管理主体、予算配分においては分離すべきです。しかし、衛生設備を恒常的に運用するなら、水質、供給量、貯水、非常時の配分は、将来的に検討対象になります」
あの男は、俺の混乱した言葉の中から、使えるものだけを拾っていた。
怒りも。恐怖も。ベルンハルト家の名誉も。
何も見ていない。
ただ、そこに混じっていた技術的な成分だけを切り出して、誰にでも読める言葉へ戻している。
「ベルンハルト殿の指摘は、本件の契約範囲を越えています」
あいつは言った。
「しかし、技術的には無関係ではありません」
その一言で、講堂の視線が変わった気がした。
俺が未来の水利を見た者として扱われている。
四年次レグルス寮の、ベルンハルト侯爵家嫡男として、将来の負荷を読んだ者として。
俺は、見えないように拳を握り込んだ。
違う。
違うのに。
俺だけが知っている。
今、落ちるはずだった場所に、こいつが勝手に床を敷いたのだと。
俺が上手く問えたからではない。
あの男が勝手に要件として拾い上げた結果、俺の名前で、俺よりまともな問いが講堂に残ってしまっただけだ。偶然、俺の面子が保たれたに過ぎない。
それだけだった。
それでも、俺は立ったまま、次の言葉を探した。
ここで黙れば、本当に何も残らない。
「……では」
喉が、ひどく乾いていた。絞り出した言葉は、どれほど掠れていただろうか。
「既存の水場は、どうなる」
初めて、講堂の後方で商会筋の者たちが身じろぎした。
俺は、古い獅子の口から落ちる水を思い出していた。
あれを守りたいのか。
家の名を守りたいのか。
それとも、あの水場の周りで生きてきた者たちを守りたいのか。
自分でも、まだ分からなかった。
あいつは、すぐには答えなかった。
白い板に残る配管図へ視線を落とし、既存水場と記された小さな印を確認するように、指先で机を一度だけ叩く。
「既存の水場には、複数の扱いがあり得ます」
平坦な声だった。
「歴史的・景観的価値を理由に保存する。教育用途として残す。非常時の補助水源として維持する。あるいは、衛生基準を満たさない場合は、使用を停止したうえで記録保存へ移す」
保存する、と言った。
その言葉だけで、胸の奥にかすかな熱が灯りかけた。
「ただし」
次の一言で、それは冷えた。
「保存価値は、衛生機能の代替にはなりません」
講堂の空気が静かになる。
「旧設備を残すなら、保存目的、維持費用、安全基準、保守責任者、廃止または移設の条件を定義する必要があります」
白い板に項目が浮かんだ。
──保存目的
──維持費用
──安全基準
──保守責任者
──代替機能
──廃止または移設条件
「名誉だけでは、水質も流量も保証できません」
分かっていた。
言われる前から、分かっていたはずだった。
ベルンハルト家が寄進した。
だから何だ。
古い水場が長く使われてきた。
だから何だ。
その事実は、保存する理由にはなっても、安全である証明にはならない。
白い板に浮かぶ項目を、どこか遠くのように眺めていた。
その水は、今も安全なのか。どれだけの人間を支えられるのか。壊れた時、誰が直すのか。金は誰が出すのか。
俺の家の名は、それらの問いに何一つ答えていない。
喉の奥が、ひどく苦くなった。
反論したかった。
あの水場は、ただの飾りではない。三代前の先祖が、学園へ信義を示すために寄進したものだ。そこには、王都の商会も、工房も、補修を担ってきた者たちも繋がっている。
だが、その全てをどうやって一つの問いへまとめればいい。
俺は、まだ分からない。
その沈黙を破ったのは、俺ではなかった。
「補足の質問を、お許しいただけますか」
澄んだ声が、少し離れたレグルス寮の席から響いた。
胸の奥が、鈍く沈む。
オリビアだった。
「王立総合学園二年次、レグルス寮所属。オリビア・ド・エーデルライトです」
彼女は立ち上がっていた。
一糸乱れぬ姿勢。白い手袋。
いつものように完璧で、いつものように俺を見ていない。
彼女の手元で、見覚えのある青い革紐の冊子が開かれた。
俺の机の奥に眠っているものと、同じ装丁だった。
「ベルンハルト殿の問題提起に関連して、将来的な移行対象について確認いたします」
その言い方に、講堂の何人かが頷く気配がした。
外から見れば、俺たちは連携しているように見えるのだろう。
侯爵家の嫡男が、水利構造と既存設備の行方を問う。
婚約者が、そこに実務と移行の論点を足す。
さぞ、美しく見えるに違いない。
だが俺は知っている。
彼女は俺を助けるために立ったのではない。
俺が読まなかった冊子に書かれていたものを、今ここで、俺より正確に使うために立ったのだ。
「将来、上水道整備が正式に検討される場合」
オリビアの声は、淡々としていた。
「既存の水場や保守設備は、単なる保存対象として扱われるのでしょうか」
講堂の後方で、商会筋がわずかに姿勢を正す。
「あるいは、それらの周囲で生計を立ててきた者たちも、移行の対象として扱われるのでしょうか」
俺の指先が、無意識に椅子の肘掛けを握った。
それだ。俺が言いたかったのは、それだった。
俺が家の面子と屈辱で濁らせた不安を、彼女は濁りのない言葉へ変えた。
だが、発したのは……俺の言葉ではなかった。
「既存設備の部材を納めてきた小規模工房。水の運搬、補修、清掃に関わってきた者。旧規格の部品しか扱えない職人。新しい供給網へ、すぐには接続できない者」
オリビアは、誰も責めない。
だからこそ、誰も逃げられない。
「新たな衛生設備が、生活と安全を改善することは理解いたします」
「ですが、その利益の外側へ押し出される者に、移行のための時間と選択肢は与えられますか」
一拍の間が落ちる。
「変化に適応できない者を、ただ『旧いから』という理由だけで切り捨てないための手順は、どこにありますか」
胸の奥で、何かが崩れた。
そこで初めて気づいた。
俺は、水場そのものだけを惜しんでいたわけではなかった。
そんなことすら、俺は自分の言葉では知らなかった。
古い水場が消えることへの怒り。
ベルンハルト家の名が薄れることへの恐怖。
それらの底には、変化の速さに追いつけない者が、声も上げられないまま押し流されることへの不安があった。
だが俺は、その不安を家の面子と屈辱で濁らせた。
オリビアは、それを濁りのない言葉へ変えた。
トレンスは彼女を見た。
「ご質問は正当です」
その言葉に、俺の胸がまたひどく軋んだ。
「上水道整備が正式に検討される場合、既存事業者への影響調査は必要です」
白い板に、新しい項目が追加されていく。
──既存事業者影響調査
──技能転用・再訓練
──規格移行支援
──移行期間
──代替雇用
──契約先の公開選定
──小規模工房の参加条件
俺は座り直すこともできず、立ったままその音を聞いていた。
俺の名から始まったはずの問いだ。
なのに、それを誰にでも届く言葉へ完成させたのは、俺ではない。俺にはそれができなかった。
「保守技能の転用可能性。部材製造の規格移行。再訓練に必要な期間。代替雇用。新規契約への参加条件」
「それらを評価せず、設備だけを更新するなら、衛生改善の利益を一部の者だけが得ることになります」
講堂の空気が変わった。
先ほどまで、古い水場の話は、ベルンハルト家の面子や記念物の話にもなり得た。
だが今は違う。
小さな工房。水を運ぶ者。補修を覚えた者。新しい規格を知らない者。
それぞれの生活の話になっている。
「ただし」
ルーカスは、また同じ温度で続けた。
「既存の業者であること自体は、優先権の根拠にはなりません」
商会筋の誰かが、息を止めた。
「移行支援は必要です。しかし、旧来から関わっていた者だけに、新規事業への参加を保証することは別の不公平を生みます」
「必要なのは、過去の関係を守ることではありません」
あいつの声は、どこまでも静かだった。
「新しい規格の中で、参加可能な条件を公開することです」
オリビアは、ゆっくり頷いた。
「承知いたしました」
それから、ほんの少しだけ顎を上げる。
「では、その条件が将来、公開されることを記録へ残してください」
「記録します」
書記の筆が、紙の上を走る。
俺の役目は、完全に終わっていた。
ゆっくりと、椅子のクッションに自分の体重が戻っていくのを感じた。
周囲からは、どう見えているのだろう。
ベルンハルト家の嫡男が、水利と旧設備の未来を問い。
エーデルライト令嬢が、移行と雇用の責任を問う。
婚約者同士が、別々の角度から学園の将来を見据えた。
そう見えているのかもしれない。
けれど俺だけが知っている。
俺は何も用意していなかった。
俺は、恐怖に押されて立ち上がった。
教授に切られ、落ちるはずだった。
あの男が、その言葉から使える部分だけを拾った。
そしてオリビアが、俺の言えなかったことを完成させた。
偶然、俺は面子を保った。
それだけだった。
オリビアは、最後まで俺を見なかった。
それが、何よりも苦しかった。
彼女は俺を助けたのではない。
ただ、俺が捨てた問いを拾い上げ、俺より先に、誰にでも届く言葉へ変えただけなのだ。
講堂の白い板には、新しい項目が残っている。
移行期間。再訓練。参加条件。公開選定。
俺の家の古い水場は、その下で、ただ小さく「既存設備」と記されていた。
細い水音が、ひどく遠くで聞こえた気がした。
周囲のレグルス寮の生徒たちが、感嘆の入り混じった視線を俺へ投げかけているのが、肌を刺すように伝わってくる。財務部の職員は手元の台帳に何かを書き加え、後方の古い商会筋の連中は、まるで救世主でも見るかのような目で、俺とオリビアを交互に見つめていた。
「素晴らしい連携でしたわ、ベルンハルト様」「さすがはエーデルライト嬢、これで王都の古い職人たちも、トレンスの独走に怯えずに済みますね」
囁きが、テラスの噴水のように頭上で跳ねる。
外から見れば、完璧な絵だったろう。
侯爵家の嫡男が、まだ見ぬ水利の構造から旧設備の存廃という本質を突き、婚約者であるエーデルライト令嬢が、そこに実務の継続性と雇用という具体的な肉付けを施す。二大名門による、隙のない未来への布石。
だが、俺の肺の奥は、冷たい泥を呑み込んだように重かった。
(……違った)
手元に広げられた工事概要の紙が、寝不足の視界の中で白く爆ぜる。
応力分散。 配管摩耗。 維持管理権限。 将来的な負荷の帰属。
俺の口を突いて出たあの言葉。
どこかで聞いたのではない。俺自身が、自室のマホガニーの机の最も奥、古い重い真鍮印の真下へ、未開封のまま力任せに押し込んできた、あの青い革紐の冊子の表紙だ。
オリビアは、今日この場で起きることを予言していたのではない。
彼女はただ、何百年も我が家門が守ってきた『学園の敷地管理規約』と『既存の形式』を正確に点検し、魔導幾何学の変形率という仕様に落とし込んで、俺に手渡していただけだった。
あの冊子に、最初からすべて書かれていたのだ。
トレンスの下水整備が始まった時点で、次に既存の給水設備がどういう理屈で検分され、どういう基準で置き換えられていくか。その時、ベルンハルト家が名誉や感傷ではなく、規約上のどの『手順』を持って対抗すべきか。
彼女は、俺に武器を届けていた。
幼馴染としての、エーデルライトとしての、完璧な一手を、何日も前に俺の机の上に置いていた。
それを──ただの授業の補足だと笑い、敗北者の介護だと撥ね付け、見たくない現実から逃げるようにして、おままごとのリボンの横に放置したのは、他ならぬ俺自身だった。
喉の奥から、乾いた笑いがせり上がりそうになるのを、奥歯で噛み潰す。
俺が、シスリーの安っぽい香油の匂いに巻かれ、「俺には理屈ではなく情熱が必要なのだ」と自尊心を慰めていたあの夜。
オリビアは一人で、この冷徹な大講堂の盤面を見据え、既存のルールの中で俺たちの足場を守るための数式を、白絹の手袋の内側で、俺には見えない実務を積み上げていたのだ。
「これより、第四工区の安全導線に関する項目に移ります」
フェルナー教授の声が、講堂の天井へ抜けていく。
白い板の図面が、また次の無機質な配管へと切り替わっていく。
誰も、俺の敗北に気づいていない。
あいつはすでに次の資料へ指を走らせ、俺のことなど、初めから存在しなかった変数として処理している。
そして、席に戻ったオリビアは──最後まで、一度もこちらを見なかった。
一糸乱れぬ姿勢のまま、平坦な横顔で、ただ書記の走らせるペンの音を聞いている。
その徹底した無関心が、何よりも深く、俺の輪郭を削り取っていく。
彼女が守ったのは、ベルンハルト家の名誉ではない。
俺が捨てた問いを、既存の形式に繋ぎ止めるための、ただの実務だ。
そこに、俺という人格の介在する余地は、最初から一寸も残されていなかった。
手元の資料の端が、俺の指の汗で歪んでいく。
自室の机の奥、重い真鍮印の下で、一度も開かれなかった青い冊子が、今も冷たく眠っている光景が、鮮明に脳裏をよぎった。
あの古い獅子の口から落ちる、細い水音が。
もう二度と、俺の元には戻らない決定的な断絶の響きを伴って、ひどく遠くで、静かに消えていった。