第百四十三話 思想の先にある街、あるいは日常という名の兵站
北の辺境、トレンス侯爵領。
王都から通常の
この世界で馬車と呼ばれるものは、単なる荷車ではない。強靭な六脚で大地を蹴る
一日に百キロを超えて進むことさえ珍しくない。
それでも、一週間。
その距離こそが、王都と北方辺境との間に横たわる、物理的な断絶だった。
だが。
空を行く者にとって、その距離は、もう少しだけ短い。
雲海の上。
世界が蒼と白だけに削ぎ落とされた高空を、一対の巨大な銀翼が切り裂いていた。
その背に跨がるアメリア・フォン・グロースハイムは、風防の魔術結界越しに前方を見据えながら、数日前の会話を思い返していた。
『トレンス侯爵。先日の確認会で宣言した巡回査察について、正式に通知します』
『承知しております』
学園長室でそう答えたルーカス・フォン・トレンスは、眉一つ動かさなかった。
驚きも。驚愕のあまりの沈黙も。計算の狂いを隠す素振りもない。
今日の天気を尋ねられたかのように、ただ静かに机の上の書類へ視線を落としたままだった。
『ええ。貴公の提出した衛生設備、排水系統、そして今後予定されている上水道更新計画。いずれも、王立総合学園が今後長く使用することになる基盤です』
アメリアは使い古された机越しに、少年の青い瞳をまっすぐ見据えた。
『提出資料だけで判断を終えるつもりはありません。正式査察団の到着に先立ち、私は単独で先行確認を行います』
そこで初めて、ルーカスのペン先が止まった。
『先行確認を、御自ら?』
『ええ』
『随分と性急ですね』
『貴方にだけは言われたくありません』
ほんの一瞬。ルーカスの口元が上がった。
『何か、不都合でも?』
アメリアが問う。すると少年は、背もたれに体重を預けることすらなく、背筋を垂直に保ったまま答えた。
『ありません』
『……随分と即答するのね』
『正式な査察であれ、先行確認であれ、確認されて困る運用ではありませんので』
傲慢だった。
だが、それは自分の城塞へ敵を招き入れる王の傲慢さではない。
構造計算を終えた橋梁技師が、好きなだけ荷重試験をしろと言っているような、妙に乾いた自信だった。
『どうぞ、ご自身の目でお確かめください』
ルーカスは、ペンを置く音すら立てずに、机の端へ静かに添えた。
『何を?』
『私がいなくても、あの領地が機能していることを』
『予定日は?』
『明朝』
『同行者は?』
『私一人です』
ルーカスは躊躇うことなく鞄を開け、一枚の角ばった書類を取り出した。
『……承知しました。着陸許可識別を先に送ってください。領空警戒網が判定します』
『私を撃ち落とす気?』
『識別されなければ、誰であっても警戒対象です』
感情の失せた青い瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。一切の私情を差し挟まず、規則通りに処置するという無機質な警告。
その言葉を思い出し、アメリアは無意識に手綱を握る指へ力を込めた。手袋の革が、きしりと締め上げられる。
『……不機嫌だな、アメリア』
重厚な肉声の響きが、風切り音を押し分けて頭蓋の内側へ直に届く。アメリアはわずかに顎を引いた。
「貴方こそ、先ほどから機嫌が悪そうね。ゼフィロス」
彼女を背に乗せているのは、鈍い銀光を放つ巨竜だった。
老竜ゼフィロス。
かつて王国竜騎士団の象徴として、若き日のアメリアと共に国境の空を駆けた特異個体。
アメリアが激戦で右膝の関節を砕き、実戦部隊を退いた後も、この巨躯と硬質化した鱗の質感だけは手元に残っていた。
正式な査察団は、まだ王都にいる。
財務の帳簿係、保安の憲兵将校、医務の衛生監、教授会の老代表。彼らを束ねて動かせば、それだけで車列の移動と警護の調整に半月が消える。
だからアメリアは、単身で先行した。
巡回査察のための、現地事前確認。公的な記録にはそう留まる。
だが彼女自身の皮膚感覚は、もっと古い軍旅の記憶に従っていた。本隊の野営地を決める前に、指揮官が自らの足で泥の深さを踏み確かめる。ただ、それだけのことだ。
『老いぼれをこんな湿気た北の端まで引っ張り出しておいて、よく言う』
「嫌なら王都の馬車小屋へ戻ってもよかったのよ」
『お前一人でその潰れた膝を抱えて飛べるならな』
「昔から、余計な羽音の多い竜ね」
『昔から、お前が無茶な跳躍をするのだ』
そこでゼフィロスの声が途切れた。
次の瞬間。銀竜の太い頸骨を覆う重厚な鱗が、細かく波打った。
アメリアの皮膚もまた、その動きをとらえていた。風向きは一定。雲の切れ間もない。上昇気流の乱れも、野良魔獣の匂いすらない。
なのに、背中のサドルを通じて伝わるゼフィロスの筋肉が、鋼線のように硬直している。
「……どうしたの?」
『目障りだ』
「何が?」
『分からん』
老竜の黄金の瞳が、青澄んだ高空の何もない一点を、絞り込むように睨みつけた。
『だが、何かが鳴っている』
「鳴っている?」
『光だ。いや、光とも違う』
苛立った低い唸りが、骨を伝って腹の底を震わせる。
『見えん。だが、刺さる。目にも、皮膚にも。無数の小石を投げつけられているような……いや、眩しい。腹立たしいほどにな』
アメリアは手綱を握り直し、空の先を見渡した。
何もない。雲海の切れ目、遠く眼下に広がるトレンス領の山裾が、薄い灰色の層に沈んでいるだけだ。
普通の霧ではない。
魔力の流れが、分厚い硝子板のように均一だった。高空からの地形観測を歪めるための遮蔽用結界。その程度の仕掛けなら、彼女も国境警備で幾度となく見てきた。
だがゼフィロスが喉を鳴らして嫌がっているのは、その霧の重圧ではなく、それとは別の何かだった。
「……私たちは、もう見つかっている?」
『知らん。だが、俺ならこんな不愉快な空は二度と飛ばん』
アメリアは、わずかに目を細めた。右手の指先を突き出し、正式な来訪者であることを示す王立総合学園の認可光波を空へ打つ。蒼白い光が三度、高空で弾けた。
数秒。
ゼフィロスが、吐息と共に首を大きく振った。
『……針が引っ込んだ』
「そう」
『刺さるような眩しさが、ふっと消えたぞ』
「なら、やはりそういうことなのでしょうね」
『何がだ』
「跳ね橋よ」
アメリアは眼下を見下ろした。
「誰であろうと、手許の札を見せるまでは跳ね上がったままだわ」
『竜相手にもか』
「だからこそでしょう」
アメリアは乾いた笑いを漏らした。
「ルーカス・フォン・トレンスらしいわ」
・・・・・
・・・
霧を抜けた先で、地上に赤い誘導灯が並んでいた。
完璧な直線。正確な間隔。
煤のつかない細長い発光体が、規則正しく縁を区切っている。
まるで空そのものに、降下経路が描かれているようだった。
『……あの灯りへ降りろというのか』
「正式に招かれているのだから、従いなさい」
『屈辱だな。風を読む隙すら与えん気か』
「貴方は昔から、着陸誘導を嫌うわね」
『空は俺と風のものだ』
「今のところ、その台詞には少し説得力が足りないわね。翼の軸が固まっているわ」
ゼフィロスが盛大に鼻を鳴らし、高温の蒸気を吐き出した。
巨大な銀翼が空気を叩き、折り畳まれながら、指定された広大な打ち固められた着陸場へと滑り込む。
大気が爆ぜる。
翼圧で周囲の短い草が根元から伏せり、不自然なほど粒子が揃った砂塵が低い渦を巻いた。
やがて視界を覆っていた風が晴れる。
その時にはもう、一人の女性がアメリアの降下点の目と鼻の先に立っていた。
縫い目の詰まった濃紺の生地で作られた軍礼装。金色のボタンには飾りの紋様がなく、ただ平滑に磨かれている。腰には黒革の吊り帯で固定されたサーベルと、アメリアの知らない、角ばった硬質の鞘のようなものが下がっていた。
見上げるような巨大な竜の眼前だというのに、彼女の肩の高さは少しも揺れていない。
「トレンス侯爵領海兵隊、戦闘偵察大隊長。イブリン・フォン・メルヴィル男爵です」
女性は掌を前に向けず、顎をわずかに引く無駄のない敬礼を交わした。
「グロースハイム伯爵夫人。ゼフィロス卿。書簡に基づき、歓迎いたします」
アメリアはゼフィロスの背から降りた。
足裏が地面を叩いた瞬間、古傷の右膝へ刺すような鈍痛が走る。だが、彼女は視線を一瞬たりとも下に落とさず、背筋を伸ばした。
それよりも、目の前の女の「眼皮の動き」が気になった。 竜を前にしているというのに、瞬きが増えない。 瞼がわずかに細まるたび、その焦点だけが傷痕、爪、関節へと移っていく。
イブリンの動作には、上級貴族に対する十分な節度がある。
だが、その瞳の焦点は、ゼフィロスの翼の付け根にある古い傷痕。爪の摩耗。首の関節の硬直。
アメリア自身の腰の傾き。右足の踏み込みの浅さ。握りこぶしの内側のタコ。
ほんの一瞬の交錯の中で、視線が滑らかに全身をなぞっていた。感動も、畏怖もない。ただ重量と状態の数値を検分されている感触。
(……この子、竜を見て感動する種類ではないわね)
「ルーカス卿は王都におります」
イブリンが口を開く。風に揺れない短髪の奥から、平坦な声が響く。
「本日の先行確認については、キース侯爵閣下ならびにラ・トレンスが対応いたします。正式な査察団の受け入れ準備についても、既に開始しております」
「結構です」
「本邸まで車両をご用意しております」
「いいえ」
アメリアは即座に断ち切った。
イブリンの眉が、ほんの少しだけ動く。
「歩きます」
「……本邸までは相応の距離がありますが」
「承知しています」
アメリアは丘の裾野から先へ広がる、妙に整然とした街並みへ目を向けた。
「せっかく来たのですもの。まずは自分の足で、貴領の土を踏ませてくださいな」
「承知しました」
イブリンは重ねて制止しなかった。交渉の余地を残さない態度を、即座に状況の前提として組み替えた動きだった。
ただし、足を向けかけたアメリアへ、静かな一言を添えた。
「指定された経路を外れないようお願いいたします」
「理由を聞いても?」
「この領地の『目』は、少々過保護ですので」
アメリアは、背後でゼフィロスが不快そうに「フシュー」と重い息を吐き出すのを聞いた。
・・・・・
・・・
最初に違和感を覚えたのは、足元だった。
アメリアは足を止め、視線を足元へ落とした。
黒い。そして、滑らかだった。
王都の職人がノミで切り出し、一個ずつ泥の上に並べた石畳ではない。
継ぎ目が、どこにも見当たらなかった。
細かく砕かれた黒っぽい石と油分を含んだ塗料のようなものが、隙間なく押し固められている。
靴底から返ってくる感触も、異様だった。石のように尖った反発ではない。ほんのわずかな弾力があり、踏み出すたびに膝への衝撃を吸い取ってしまう。
均一。どこまでも均一。
「……これは?」
「舗装路です」
イブリンは前方を向いたまま、短く答えた。
「材料は?」
「詳細な配合は技術資料扱いとなりますが、砕石層の上に複数の材料を混合した舗装材を施工しています」
「……石畳を敷き詰めるより、手間がかかるのでは?」
「逆です。施工速度は石畳の十倍以上、表面の平坦性が確保されるため、輪軸の損耗率が八割削減されます」
アメリアは再び歩き出した。
王都の石畳なら、どれほど金と時間をかけて、丁寧に敷かれていても足裏に小さな凹凸を感じる。
荷車が通れば、車輪の振動が地面を伝い、雨が降れば窪みに水が溜まる。
補修された箇所には、必ず年月の痕跡が残る。
だが、これは違う。
地面そのものが、人の都合に合わせて作り替えられていた。
(……道からして、もう違う)
顔を上げる。
次に襲ってきたのは、街を包む「音の質」だった。
都市というものは、本来喧しい。
石畳を叩く蹄の乾いた音。車輪の鉄輪が上げる悲鳴。露店売りの叫び声。家畜の糞尿の匂いと共に混じる罵声。鐘の音。
人と獣が、互いの都合を暴力的にぶつけ合う雑音こそが、都市の生活音だった。
ここにも喧騒はあった。
しかし、種類が違う。
低く振動する、一定の機械の唸り。
遠方から規則的に響く警告音。
馬の合図なしに、滑らかな加減速で流れていく箱型の車両。
建物の奥から聞こえる、高圧の空気があふれ出る短い破裂音。
人の会話はある。
買い物袋を持った女性の笑い声も、子供の足音も、商店の口上もある。
だが、そのすべての下腹部に。
巨大な時計の歯車が、油の海の中で延々と噛み合っているような、低い周期的な打撃音が響いていた。
アメリアの歩幅が、無意識のうちに狭まる。
道路の幅が異常に広い。
歩行者が歩くための高い段差のついた側道と、金属の塊が走る中央の幅広の車線が、白い線できっちり区切られている。
交差点の頭上には、赤と緑の色硝子が交互に点滅していた。
荷物を限界まで積み上げた、馬のいない黒い大型車両が交差点の手前で静かに減速し、完全に停止する。
その直後。
横断歩道の脇で待っていた老人が、手押し車を押しながら、青い光の点灯に合わせて渡り始めた。
誰かが威圧的に警笛を鳴らしているわけではない。
貴族の先払い用の従者が道を散らしているわけでもない。
そこにいる全員が、頭の中に同じ小さな時刻表を埋め込まれているかのように、無言で点灯の周期に従っていた。
全員が……同じ規則を知っている。
「……見張り塔がないわね」
アメリアは、街並みから突き出す幾つもの高層建築へ視線を走らせた。高所そのものがないわけではない。むしろ多すぎるほどだった。だが、弓兵を置く張り出しも、狭間も、旗手の足場もない。少なくとも、彼女が知る意味での「見張り塔」は一つもなかった。
それでも自分たちは、領境へ入った時点で捕捉されていた。
ならば。
イブリンは横目だけをアメリアへ向けた。
「必要ですか?」
「この規模の街なら、普通は要所に防衛用の高塔を三つは建て、弓兵と見張りを置くものよ」
アメリアは周囲の景色を見回した。
街道の合流点。高台の端。鐘楼のてっぺん。城壁の角。
どこにも、分かりやすい兵士の姿や、狭間を切った角楼がない。
「空から来るものを見張るには、高い塔が必要でしょう?」
「普通は、そうですね」
「ここでは違う?」
「さて」
イブリンが、ごくわずかに口角を引いた。
「我が領地では、防衛設備が景観を損ねることを好まない者がおりまして」
「誰かしら」
「ご想像にお任せします」
アメリアは重ねて尋ねなかった。
だが、一度だけ高空を見上げた。
雲の上でゼフィロスが感じ取った、あの目に見えない見張り網。
そして今も、この滑らかな道路の角、街灯の根元、建物の庇の陰から。
どこからか見られている。そんな感覚だけが消えない。
数分。
本当に、数分だった。
歩いたのは、たった数百メートルの区間だった。
だが、目に入ってくる情報が多すぎた。
寸分違わず同じ規格で作られた窓枠。
気泡一つない厚手のガラス。
建物の壁面に取り付けられた、数字と記号が並ぶ板。
路肩の決められた黄色い枠内に、正確な角度で停車する車両。
作業服を着た男たちが、荷台から木箱ではなく、規格化された箱を滑らせるように降ろしている。
その横を、同じ色の制服を着た少女たちが、笑い合いながら通り過ぎていく。
遠くの区画には、細い金属の筒から白い煙を垂直に吐き出す工場。
別の方向には、一切の装飾を削ぎ落とした、巨大な白く四角い建物。
屋根の高さ。道路の勾配。排水溝の格子の隙間。人の歩行速度。
全てが互いの邪魔をしないように組まれている。
アメリアには分かってしまった。
武人だったからこそ。騎士として駆け抜けたからこそ。
分かってしまう。
この街では、物が止まらない。負傷者を運べる。兵を動かせる。夜でも働ける。
食料を集められる。情報を飛ばせる。道路が泥にならない。
馬が疲れても物流そのものは止まらない。
ただの都市の形をしている。
だが同時に。
どこにも隙間のない、巨大な後方補給拠点そのものだった。
「……メルヴィル男爵」
「はい」
「この街は」
アメリアは一度言葉を切り、喉の奥の乾きを確かめた。
「一つの生き物のようね」
イブリンは黙って前を見据えている。
「いいえ」
アメリアは自らの言葉を修正した。
「陣地だわ」
そこで初めて、イブリンの無表情な側顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「お見立ては、非常に近いです」
「近い?」
「閣下は、この街を有事のためだけに造ったわけではありません」
イブリンは淡々とした調子で歩調を保つ。
「ですが、街が生きている限り、戦い続けられるようには作られています」
「民の暮らしまで、兵站に組み込んだの?」
「逆です」
イブリンがアメリアを振り返る。その瞳には、純粋な実務者の色しかなかった。
「人が暮らすために必要なものを整えた結果、それらがそのまま兵站としても機能する」
なんの感慨もない声だった。
「病院のベッド数。舗装路の耐荷重。倉庫の温湿度管理。通信線。水道の口径。車両の修理互換性。食料の長期保存。定期輸送」
イブリンは一度だけ肩をすくめた。
「平時に役に立たない軍事設備に予算を浪費することを、閣下は嫌いますので」
アメリアの足が、ぴたりと止まった。
その一言が。
彼女の胸腔に、重く冷たく突き刺さった。
(軍のために民の街を作ったのではない)
(街そのものを、戦が起きても壊れない仕組みとして組み上げたのだ)
視線の先で、大型の箱型車両が、歩行者の途切れを待って滑らかに角を曲がっていった。
その向こうの歩道では、買い出しの紙袋を抱えた母親が、幼い子供の手を引いて微笑んでいる。
さらにその奥の白い建物からは、清潔な服を着た医療従事者が、談笑しながら出てくる。
アメリアは、ゆっくりと胸の奥の空気を吐き出した。
学園の地下で見た、あの異様な配管工事。新たに導入された衛生基準。帳簿の様式。契約の条件。海兵隊。
すべて。
ここにあるすべては、トレンス領においては何ひとつ「特別な発明」などではなかったのだ。
ルーカス・フォン・トレンスが学園へと持ち込んでいたものは、何か凶悪な異物などではない。
王都へ行っていたあの少年自身が。
この巨大で、完璧に機能する日常の一部を、ほんの少し切り取って持ち歩いていただけだったのだ。
アメリアは、知らずに強く握りしめていた右手の指を解いた。
手袋の革の奥で、指先が冷たくなっていた。
(……たった三週間)
あの日、学園の執務室で出会ってからの、たった三週間。
その短い間に自分は、あの少年の何を見たつもりになっていたのだろう。
行き過ぎた合理主義。冷徹な効率。自己を磨り減らす義務感。危険な改革思想。
違う。
思想などという生易しい言葉ではない。
もう、街の形をとってそこに存在している。
試作でも。絵空事でも。若い貴族の野心でもない。
人が何万人と住んでいる。
笑い、働き、食べ、運ばれ、治療され、暮らしている。
完璧に、動いている。
アメリアは、唇を噛みしめた。
自分は何をしに、この北の果てまで飛んできたのか。
ルーカス・フォン・トレンスの冷たい論理の歯車に、人間の血の温もりから生まれた歯止めをかけるためではなかったか。
その効率が人を削りすぎるなら……。
その正しさが本人すら燃料にして消費してしまうなら。
旧き時代を知る自分が、立ち塞がらなければならないと。
そう思って、ここへ来た。
だが。
目の前に広がるこの街は。
彼女がこれまで見てきたどの王国領地よりも、圧倒的に「人を死なせないため」に出来上がっていた。
「……伯爵夫人?」
イブリンの問いかける声で、アメリアは我に返った。
「何でもないわ」
彼女は自分の浅い呼吸を整え、少しだけ笑ってみせた。
「ただ」
目の前でまっすぐに伸びる黒い道を指す。どこまで歩いても、破綻する兆しが見えない。
「貴女の言った通りだと思っただけよ」
「何がでしょう」
「歩いて回るには、私の寿命では少し足りないわ」
イブリンは一拍だけ沈黙し、アメリアの右膝のわずかな傾きに視線を落とした。
「車両を呼びますか?」
「ええ」
アメリアは即座にうなずいた。
もう、無意味な強がりで足を痛める必要はなかった。
「本邸へ向かいましょう」
「都市部の先行確認は、よろしいので?」
「十分よ」
イブリンの眉が、わずかに動いた。
アメリアは、その微小な反応を見て、自嘲気味に微笑む。
「勘違いしないで。確認を終えたわけではないわ」
舗装路を一台の箱型車両が通り過ぎ、その風圧がアメリアの銀髪をふわりと揺らした。
「この街が完璧に動いているという事実だけは、もう嫌というほど分かった」
一拍。
「数字は、後から本隊に拾わせます」
「では」
アメリアの眼差しから、迷いが消えた。
「私は、この仕組みを作った源流を直接見に行くわ」
イブリンはそれ以上、何も問い返さなかった。
ただ胸元の小さな金属製の道具へ、迷いのない動作で指を滑らせた。
「了解しました」
短い操作音。
そしてアメリアには意味の分からない言葉が、イブリンの口から流れる。
「
アメリアの眉がピリと跳ねた。
(……また、あの言語)
聖典語ではない。隣国の言葉でも。沿岸部の交易語でも。魔術の構築言語でもない。
音節が異常に短く、子音が硬い。
そして、一音一音に情緒というものが欠落している。
感嘆している暇はなかった。
遠くの角の向こうから。
低い、地鳴りのような重低音が近づいてくる。
その巨大な鋼鉄の塊が、一切の振動を感じさせずに舗装路を滑り。
アメリアの目の前、寸分違わず同じ間隔を保って停止した。
現れたのは、漆黒の塗装に覆われた、巨大な塊。それはアメリアが知る「馬車」とは似ても似つかぬ、威圧感の権化だった。
四つの巨大な全地形対応タイヤ。魔法障壁を重ね掛けしたかのような重厚な特殊装甲。フロントグリルには、トレンス侯爵家の紋章が輝きを放っている。
「閣下が設計させた、要人警護用重装甲車両です。馬車のような優雅な揺れはありませんが……『生存』に関しては、この大陸のどの王宮よりも保証されています」
「馬車ではないわね」
「馬はいませんので」
「見れば分かるわ」
アメリアが乾いた声で返す。
イブリンがドアハンドルに手をかけ、引き抜くように開いた。
厚い。異常なほどに。
アメリアは思わず断面を見る。
金属。何層もの素材。分厚い透明板。
「……この扉だけで、普通の馬車一台分くらいありそうね」
「それよりは軽いです」
「慰めになっていないわ」
「恐縮です」
アメリアが車内へと足を踏み入れると、そこには外世界の喧騒から完全に遮断された静寂があった。
そして。
乗った瞬間、再び呼吸を止めた。
暖かい。
外は冬の冷たさだった。
だが、この閉ざされた空間の中は、早春の朝のように快適な温度と湿度で満たされていた。
吸い付くような革張りの座席。精密に組み合わされた黒い金属パネル。淡く青い光を放つ小さな計器類。空気の匂いすら、外の煤煙や街の匂いから完全に切り離され、濾過されていた。
最後にイブリンが乗り込み、扉を引く。
ドムッ、という金庫の扉を閉めたような重厚な音が響き、外部の音は完全に消失した。
機械音も。人の声も。遠くの工場も。
すべてが、一枚の扉の向こうへ切り離された。
最高級の革張りシートの香りと、魔導式の空調装置が作り出す、最適化された温度。コンソールには無数の計器が並び、常に領内の防衛網とデータリンクしていることを示す光が明滅している。
アメリアは、しばらく言葉を発することができなかった。
そして、ゆっくりと、深く革の背もたれへ体重を預けた。
「……行きましょう、メルヴィル男爵。この『動く城塞』の主が、何を恐れてこれほどの牙を隠しているのか。直接、確かめさせてもらうわ」
「本邸へ」
イブリンが前席の運転手へ短く告げる。
「承知しました」
前席からの静かな応答と同時に、黒い巨体が滑り出した。
蹄の音一つ立てず、吸い付くような加速。身体を背もたれへと押し付ける確かなGを感じさせながらも、車体そのものは舗装路の微細な凹凸すら感じさせないほど滑らかに揺れを殺している。
アメリアは窓の外を見た。
規則正しく並ぶ街灯と、どこまでも均一な黒い道路。『ヴェリタス』の目抜き通りが、後方へ滑るように吸い込まれていく。
その揺れなき速度のなかで、アメリアは深く確信していた。
ルーカス・フォン・トレンスという少年は、もはや既存の王国という器に収まる存在ではないということを。
彼女はもう、車窓から街の観察を続ける気はなかった。
この街が機能しているという事実は、たった数分の歩行で骨の髄まで理解させられてしまったからだ。
次に彼女が確かめなければならないのは、もっと厄介で、根深い何かだった。
ルーカス・フォン・トレンスという少年が作り上げた、この異様な仕組み。
その少年を、この世に送り出し、育て上げた者たち。
父、キース・フォン・トレンス。
母、クリスティアナ・アルベルト・エレナ・ド・エルトリア・ラ・トレンス。
アメリアは、静かに目を細めた。
巡回査察のための先行確認。
王都の書類には、そう記録されるのだろう。
だが、彼女自身の胸の中では、もうそんな生ぬるい言葉は死んでいた。
これは査察などではない。
自らの足で、この怪物のような領地の源流へ踏み込むための。
敵地への、単身偵察だった。