剣と魔術とライフルと   作:あききし

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《追憶》 Ⅰ 環境災害(スタンピード)

 

《追憶》Ⅰ 環境災害(スタンピード)

 

 

最初の報せは、あまりにも小さかった。

 

 領都ヴェリタス、トレンス侯爵邸。

 

執務机の上に広げられた一枚の報告書を、キース・フォン・トレンスは二度読み返した。羊皮紙の端には、ヴァルデシアからヴェリタスまで八つの宿駅を通過した検印が並んでいた。

 

八つの検印は、すべて同じ日のものだった。

 

「……ウッドワード村との連絡が途絶えた?」

「はい。ヴァルデシアからの急報です」

 

執務机の前に直立した騎士が、声を低くして答える。

 

「一昨日の夕刻に到着するはずだった定期の木材・薬草便が入っておりません。荷受けの帳簿に受領印が下りなかったため、現地の管理官が街道警備の軽装騎兵一組を確認に向かわせました」

 

「それも戻らない?」

 

「はい。本来なら遅くとも昨夜までには帰投する距離です。規定時刻を越えても烽火、伝令ともに連絡なし。二重の未帰還となったため、規定に従い領都への優先報告に切り替えたとのことです」

 

「賊の可能性は」

 

「低いかと。あの辺りで街道賊が動けば、街道沿いの監視所から先に兆候が上がります」

 

「……魔獣か」

 

「それも……今のところは」

 

騎士の返答には、わずかな淀みがあった。

確たる痕跡がない。

 

ただ、荷馬車が消え、それを捜しに出た騎士と従騎士二人まで消えた。

 

平時の報告書としては、それだけのことだった。

そして、それだけだからこそ始末が悪かった。

キースは報告書を机の上に滑らせ、指先を揃えた。

 

 ウッドワード。

 

北部大森林の周縁から延びる街道沿いに拓かれた、ごく小さな村だ。

人口は十数世帯、五十にも満たない。

切り出した木材と自生する薬草をヴァルデシアの市へ卸し、わずかな猟で糊口をしのぐ、どこにでもある辺境の集落。大森林に接している以上、魔獣の迷出そのものは珍しいことではない。下等な獣が二、三頭ほど迷い出た程度なら、村の狩人と常駐の屯所番で片がつく。

手に余る大型が出たとしても、防壁を閉じて使いを走らせれば、ヴァルデシアから騎士が駆けつける。

 

そういう土地だった。

 

「北部街道の烽火網は?」

「異常信号は確認されておりません。各中継台の当番日誌にも、不審な煙の記録はなしとのことです」

 

キースは無言のまま、人差し指で机の木目を一度だけ軽く叩いた。

狼煙が上がっていないということは、定めの手順を踏む暇すらなかったか、あるいは警報を鳴らすほどの事態ではないと現場が判断したかのどちらかだ。

 

「ヴァルデシアに再確認を命じろ。十騎隊を一つ、念のため二日分の糧秣を持たせろ」

 

「はっ」

 

「ただし、仰々しく動くな。村人を無用に怯えさせる必要はない。……単なる土砂崩れか荷車の脱輪であれば、それで済む話だ」 

 

「承知いたしました」

 

それが最初だった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 その翌日の夕刻。

 

ウッドワード村から南へおよそ二駄日ぶん、徒歩で丸一日ほど下った場所に位置するローデン村に、五人の少年が現れた。

 

最初に彼らを見つけたのは、共同井戸から水桶を運んでいた農婦だった。

傾きかけた陽射しの下、街道の白土の上に泥の塊のようなものが這い出してきたのを見て、女は桶を取り落とした。

 

「誰か!誰か来て!早く」

 

女の悲鳴じみた叫び声に、野良仕事を終えた男たちが鍬や鉈を手にしたまま駆け集まる。

少年たちは、歩いてきたのではなかった。

 

這っていた。

履いていたはずの革靴はどこかで脱げ落ちたのか、あるいは擦り切れたのか、全員が襤褸布のような足の裏を晒していた。土と小石が肉に深く食い込み、乾いた血と泥が何層にも重なって黒ずんでいる。肘や膝の皮は完全に削ぎ落とされ、衣服は枝条に引き裂かれて原形を留めていなかった。

 

一人は脱臼したのか片腕をだらりとぶら下げ、もっとも幼い子は虚ろな目で宙を見つめ、呼びかけに対してただ「かかさま、かかさま」と呟き続けていた。

 

一番年長に見える少年でも十二、三。

一番幼い子は、まだ七つかそこらだった。

 

「どこの子だ?」

「水を、早く水を持ってこい!」

「医者を呼べ!」

 

「おい、しっかりしろ!ここはローデンだ。ヴァルデシア寄りのローデン村だぞ!」

 

村の古参の男が膝をつき、年長の少年の肩を揺すった。

少年がゆっくりと顔を上げた。

瞼は赤黒く腫れ上がり、頬には木の枝で裂かれた生々しい傷が何本も走っている。泣き叫び尽くしたのか、その目には涙の一滴すら残っていなかった。乾いた唇が、わずかに開く。

 

「……ウッド、ワード」

 

集まった村人たちのざわめきが、ぴたりと止まった。

 

「ウッドワード……?北の森林境のか?」

 

男が顔を見合わせる。

ここから北へ丸1日。子供の足なら二日半はかかる距離だ。そこから、着の身着のまま、靴すら履かずにここまで来たというのか。

 

「他の大人はどうした。駐留の兵は? 親父さんたちはどこにいる?」

 

「……いない」

 

掠れた声だった。喉が完全に潰れている。

 

「いないって、逃げ遅れたのか?何があった」

 

「村が……」

 

少年の肩が激しく痙攣した。

 

「村が、なくなった……!」

 

誰もその言葉の意味を理解できなかった。

なくなった、という表現があまりにも日常から外れていた。

 

「なくなったって……何だ。火事か?大火でも出たのか?」

 

問い詰める男の声に、別の少年が突如として両手で頭を抱え、耳を塞いだ。

 

「違う!」

 

裂傷の残る喉から、絶叫が迸る。

 

「違う、違う、違う!火なんかじゃない!」

「おい、落ち着け、坊主!」

「みんな走ってきたんだよ!」

 

少年は狂ったように爪を立て、地面の泥を掻き毟った。

 

「いっぱい!森の奥から、全部!角の生えた鹿も、大猪も、黒い狼も、見たこともないでっかいのも、鳥も、全部!」

 

「魔獣の群れか……? 群れが村を襲ったのか!?」

 

「違うってば!」

 

少年は泣き叫びながら、血の滲む拳で地面を叩いた。

 

「柵も、見張り台も、納屋も、全部踏まれて……家ごとなぎ倒されて……お父さんが槍を構えて、でも、踏まれて……!」

 

その隣で、泥まみれになりながらずっと黙り込んでいた少年が、ぽつりと言った。

 

「……食べてなかった」

 

荒い息を吐いていた村人たちの動きが止まる。

 

「……何?」

 

「ぼくたちを、見向きもしなかった」

 

少年が、乾ききった瞳をゆっくりと持ち上げた。その瞳の奥には、恐怖という感情すら焼き切れたような、純粋な空白があった。

 

「転んだやつも、逃げる人も、誰も噛まなかった。見てもいなかった。止まらないで、ただ通り過ぎていった」

 

冷たい風が街道を吹き抜けた。

 

「みんな……何かに追われて、逃げてた」

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

ローデン村へ入ってきたのは、ローゼンシュタイン男爵家の一隊だけではなかった。

 

北へ向かっていたヴァルデシアの先行騎兵と、東の森林縁を回っていたハインツの調査隊が、村の半日ほど手前にある街道番所で落ち合った。

 

片方は、ウッドワードへ向かった街道警備一組の消息を追っていた。

もう片方は、ローゼンシュタイン領内で相次いだ猟師の未帰還と、南へ流れる獣の痕跡を調べていた。

 

持ち寄った情報は、どれも決定打には欠けていた。

だからこそ、不気味だった。

 

点だった異常が、互いの報告を重ねた瞬間、不気味な一本の線を結び始めた。

 

その線の先にあった最寄りの村が、ローデンだった。

 

そして、その日の暮れ方。

合流した両隊は、輜重を含めれば四十を超える一団となって、そのままローデンへ向かった。

先頭にいたのは、トレンス侯爵家の寄子、ハインツ・フォン・ローゼンシュタイン男爵だった。

 

 

「ウッドワードの生存者だと?」

 

馬から飛び降りたハインツは、集会所の板敷きに寝かされた少年たちを見るなり眉根を寄せた。

 

 四十を少し越えた細身の男。

 

剣よりも領地の納税台帳や穀物庫の出納記録を繰る姿のほうが似合うと評される人物だった。しかし寄子とはいえ北部に領地を持つ貴族である。その身に纏う鋼の胸当てには無駄な装飾がなく、実戦用の手入れが行き届いていた。

 

「……この五人だけです」

 

村長が震える手で差し出した湯飲みを、ハインツは手で制した。

 

「……他の者は?」

 

村長は首を横に振った。

 

「一人も街道を通っていません。この子たちも、森の側溝伝いに這い出してきたところを……」

 

ハインツは無言のまま膝をつき、最年長の少年の目線まで腰を落とした。

 

「私はハインツ・フォン・ローゼンシュタインだ。北部の領地と街道の保全を預かっている。……恐ろしい目に遭ったな。もう大丈夫だ」

 

少年は怯え切った目でハインツの胸の紋章を見つめる。

 

「君たちが街道へ出るまでに見たものを、覚えている限り正確に教えてほしい」

 

語られた内容は、あまりにも要領を得ず、それでいて不気味なほど一致していた。

 

真夜中の地鳴り。森の鳥が一斉に消えたこと。木立ちをなぎ倒して雪崩れ込んできた、何百という獣の群れ。

 

襲撃ではなかった。

 

通り抜けられたのだ。

 

進路に立ち塞がった丸太小屋も、家畜の柵も、逃げ惑う人間も、ただ踏み潰され、粉砕され、後には瓦礫と肉片しか残らなかった。

 

 どれも断片的だった。

 

地鳴り。犬の遠吠え。突然森から飛び出してきた魔獣。

逃げる父親。潰された家。弟を引っ張って走ったこと。

気づけば五人になっていたこと。

 

何度聞いても、少年たちの証言は同じ一点へ戻った。

 

「……獲物を狩る動きではないな」

 

少年の証言を手帳に素早く書き留めていたハインツが、低く呻くように言った。

 

「魔獣が、何かから逃走している?」

「男爵様」

 

背後に控えるヴァルデシアから来た十騎長が、声を潜めて耳打ちする。

 

「極限状態にあった子供の証言です。暗闇の恐怖で話が誇張されているのでは」

 

「誇張で村が一つ消えるか?」

 

「それは……しかし、魔獣が群れを成して南下するなど、冬場の飢餓期でもあり得ません」

 

「だから確かめる」

 

ハインツが立ち上がろうとした、その時だった。

 

「確かめる手間など要らん」

 

低く、地を擦るような胴間声が集会所の外から響いた。

 

 村人たちが一斉に道を開ける。

 

そこに立っていたのは、灰黒色の毛並みに覆われた屈強なビーストだった。

 

常人よりも頭二つ分は背が高い。

 

裂けた右耳。頑強な顎。幾重にも鞣された魔獣革の鎧を纏い、背には幅広の鉈のような大剣を背負っている。

 

 黒鉄狼族。

 

この一帯の森林地帯で数代にわたり、猟場を守ってきた森番。古参の部族長だった。

 

「族長……!」

 

村長が慌てて頭を下げる。

ハインツは視線を逸らさず、男の正面に立った。

 

「魔獣はこちらを襲ったのではない」

 

「何を……知っている?」

「森の血が引いた」

「血が引いた……?」

 

「鳥が鳴かん。鹿の足跡も途絶えた。牙猪も、爪熊も、小鬼の群れすら巣を捨てた」

 

「……開拓地へ溢れ出しているということか?」

 

「違うな」

 

族長は乾いた喉を鳴らし、侮蔑するように鼻を鳴らした。

 

「消えたんだ。北の奥から順に、綺麗さっぱりな」

 

「同じことだろう。群れが南へ押し出されているのなら──」 

 

「貴族、言葉を違えるな」

 

闇夜もきり裂きそうな、金色の眼光が据わる。

 

「縄張りを争って逃げる獣は、横へ散る。獲物を追う獣は、立ち止まって肉を食らう。だが今走っている連中は、どれも脇目も振らん。ただ南へ、森の外へ、尻尾を巻いて転がり出ている」

 

族長は太い指を北の空へ突きつけた。

 

「今朝方、森の境界で鉄爪竜の骸を見つけた」

 

護衛の騎士たちの空気が凍りついた。

 

 鉄爪竜。

 

並の傭兵や巡回隊では歯が立たない、森の生態系の頂点に君臨する大型獣脚竜種だ。

 

「……討伐されたのか?」

「傷一つなかった」

「なら……病か?」

「心臓が破裂していた」

 

族長は黄色い犬歯を剥き出しにした。

 

「爪が根元からへし折れ、足の肉が骨まで削れてもなお、そいつは走り続けていた。何かに追いつかれまいとして、己の心臓が止まるまで駆け抜けて、そのまま前のめりにくたばったんだ」

 

集会所の中を、静寂が支配した。

外の風の音だけが、やけに明瞭に耳に届く。

 

「ここの子供らは嘘をついちゃいねえよ」

 

族長は背後の少年たちを一瞥した。

 

「森の主が、命乞いをするように逃げ回っているんだ」

 

「……何が……来ている」

 

ハインツの問いに、族長は首を横に振った。

 

「知らん。俺たちの一族がこの森に入ってから、こんな気配は一度も嗅いだことがない」

 

「あなたたちでも見当がつかないと?」

 

「だから逃げろと言っている」

 

族長の声は、怒りではなく、底知れない冷たさを帯びていた。

 

「俺たちは森のすべてを知っている。だからこそ──絶対に入ってきてはならねえものが這い出してきたと、皮膚で分かる」

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

ハインツの決断は早かった。

 

その夜のうちに撤退すると、ハインツは伝えた。

 

「調査はここで打ち切る。直ちに全村退去だ。女子供、老人を優先してヴァルデシアへ送る」

 

「退去ですと!?」

 

ローデン村の村長が悲鳴を上げた。

 

「突然すぎます!いま日暮れですぞ!夜間の移動など危険すぎます!それに畑も、納屋の麦も、まだ残って──」

 

「時間がない!」

 

村長が食い下がった。

 

「家畜はどうするのです!」

 

「捨てろ!命と牛を秤にかけたいなら好きにしろ。ただし、村人まで巻き込むな」

 

「しかし……!」

 

「なら……家畜の耳の焼印と頭数を今すぐこの羊皮紙に書き殴れ!」

 

ハインツは懐から抜き取った白紙の徴発帳面を村長の胸元に叩きつけた。

 

「侯爵家の補償台帳にそのまま転記してやる!財産の心配は後だ、命を繋いでから泣き言を言え!子供と動けない年寄りを荷馬車に乗せろ!私物は毛布一枚以外すべて捨てろ!」

 

「そ、そんな……!」

 

「今すぐ動かねば、明日の朝にはお前たちも鉄爪竜と同じように踏み固められた肉塊になるぞ!」

 

細身の男爵が放った怒声の気迫に圧され、村長は転がるように広場へ駆け出していった。

 

ハインツは手帳を閉じ、冷えた手袋を締め直す。

 

予定では、夜半をかけて荷車を仕立て、夜明けと共に第一陣を発たせるはずだった。

昼までには大半を。自分たち調査団はその後殿となればいい。

 

ヴァルデシアまでの距離を考えれば、それでも綱渡りだが、混乱による落伍者は防げる。

 

彼自身の計算では、まだ数刻の猶予があるはずだった。

 

 

だが、その計算は脆くも崩れ去った。

日が完全に落ちてから半刻も経たない頃。

 

集会所の外に立っていた黒鉄狼族の戦士たちが、誰からともなく一斉に跳ね起き、北の空を睨みつけた。

 

 耳が小刻みに震えている。

 

族長の傍らに控えていた若き娘の喉からも、掠れた威嚇の唸り声が漏れた。

 

「……父上」

 

「来たな」

 

ヒュームの耳にはまだ、小川のせせらぎと村人の怒号しか聞こえない。

 

「どうした……何が聞こえる」

 

ハインツが駆け寄る。

彼は応えず、地面に片膝をつき、分厚い掌を泥炭に押し当てた。

 

 五息。十息。

 

「……馬車を捨てろ」

「何?」

「走れる奴から走らせろ。街道を南だ」

 

族長が跳ね起きるように立ち上がった。

その瞳の奥に、獣特有の獰猛な光と、深い諦念が混ざり合っていた。

 

その瞬間。

 

ハインツの耳朶にも、その音が届いた。

 

 音ではない。

 

胃の底を直接揺さぶるような、極めて重く、鈍い振動。

 

 遠雷ではない。

 

雷ならば天から降る。

この地鳴りは、北の地平の底から、土を盛り上げるように這い寄ってきていた。

 

井戸の脇に置かれた水桶の水面が、細かく波打ち、水飛沫を散らす。

 

繋がれていた軍馬が甲高い嘶きを上げて暴れ狂い、柵の中の羊たちが互いを踏み荒らしながら狂乱の声を上げた。

 

「……嘘だろ」

 

騎士の一人が剣の柄を握ったまま硬直する。

 

北の森林の天蓋が、一気に持ち上がったように見えた。

 

黒い飛沫のようなものが夜空へ吹き上がる。

 

 鳥だ。

 

数万羽の渡り鳥と夜行鳥が、秩序を失った黒雲となって、南の空を覆い尽くしていく。

 

「退避──ッ!」

 

ハインツは反射的に南の丘陵へ目を上げた。

 

闇の中、街道沿いに立つ烽火塔の頂で、赤い光が瞬いている。

 

一度。二度。間を置いて三度。

 

大規模魔獣群。南下。緊急退避。

さらに遠く、その次の塔にも同じ光が灯った。

警報はもう、ヴァルデシアへ向かって走り始めている。

 

ハインツは腹の底から叫んだ。

 

「子供を抱け! 街道へ出ろ! 後ろを振り返るな!」

 

平穏だった村が、刹那の間に阿鼻叫喚の坩堝へと叩き落とされた。

 

転倒する老人、子供の名を叫びながら逆走する母親、荷物を抱えて立ち往生する男たち。

 

その混乱を切り裂くように、十数名の黒鉄狼族の戦士たちが駆け出した。

 

南ではない。

地鳴りが迫る、北の暗闇へ向かって。

 

「貴様ら、何を考えている!」

 

馬の手綱を取ったハインツが怒鳴る。

大剣を抜いた族長が、肩越しに振り返った。

 

「街道の幅が狭すぎる。あいつらがこのまま突っ込めば、逃げている連中は一本道で背中から丸呑みだ」

 

「あんな群れを止められるわけがない!」

 

「止める気など毛頭ない」

 

族長は獰猛に牙を剥いた。

 

「西の岩場へ群れの先頭を誘導する。首を少し曲げてやるだけでいい。……それだけの時間を稼ぐ」

 

「死ぬぞ!」

「知っている」

 

一片の迷いもない返答だった。

ハインツは言葉を失い、喉を痙攣させた。

 

「なら、退け……!ヴァルデシアの城壁まで退けば、防衛陣地がある!」

「そこまでヒュームどもの足が保たん」

 

族長は街道の先を顎でしゃくった。

泣き叫びながら親に引っ張られる幼子たち。

足を引きずり、泥に塗れて逃げるウッドワードの少年たち。

 

「一刻だ。一刻稼げば、あのガキ共も次の砦の視界に入る。……それに馬車に乗る時間くらいはどうとでもなる」

 

「父上!」

 

一人の少女が前に出た。

まだあどけなさの残る細身の獣人だが、その双眸には一族の誇りが燃え盛っていた。

腰の細剣を抜き放ち、父の前に立ち塞がる。

 

「私も残る!私の脚なら、先頭を岩場へ引きつける役ができる!」

「ならん」

「私も戦士だ!」

「だから駄目だ」

 

「納得できません!族長の娘が、仲間を置いて自分だけ逃げ延びろと──」

 

「──―…」

 

父の低く柔らかな声が、娘の激昂を遮った。

族長は荒々しく引き抜いた大剣を地面に突き立てると、大きな手を伸ばし、娘の細い肩を抱き寄せた。

 

「……父、上……?」

 

幼子の頃以来となる温もりに、少女の張り詰めていた身体から、僅かに力が抜けた。

 

 その刹那。

 

族長の分厚い掌が、鋭く娘の首筋を打った。

 

「が、っ……」

 

短い息を漏らし、彼女の膝が折れる。

崩れ落ちる娘の身体を、族長は片腕で抱き止め、そのままハインツの馬の上へと投げ渡した。

 

「何を……!」

 

ハインツが慌てて気絶した少女を抱き留める。

 

「連れていけ」

「族長!」

「この馬鹿は言っても聞かん。……貴族」

 

族長がハインツの目を真っ直ぐに見据えた。

その瞳には、もはや私情の色はなかった。

 

「お前には口がある。手もある。帳簿をつける頭もある」

 

地響きが、すぐ背後の防風林を揺るがし始めた。

巨木が根こそぎへし折れる凄まじい破砕音が、闇夜に木霊する。

 

「何が起きたか、何が向かっているか、城の奴らに過不足なく叩き込め。……生き残って、それを伝えるのがお前の役目だ」

 

「あなたはどうする」

「俺は走るのが得意でね」

 

戦士たちが一斉に大剣の腹を叩き、喉を鳴らして笑った。

 

「だから、一番後ろを走ってやる」

 

ハインツは奥歯が砕けるほど噛み締めた。

感情を殺し、手綱を握り直す。 

 

「……必ず戻れ」

「約束はできんな」

 

族長は大剣を引き抜き、闇の向こうへと切っ先を向けた。

 

「だが、娘の迎えには行かせてもらう」

 

それが、最後の言葉だった。

黒鉄狼族の戦士団が、疾風となって北の森へ突撃していく。

 

次の瞬間、森の境界から最初の波が噴き出した。

 

泡を吹き、全身から血を流した無数の野獣の奔流。

 

その後ろから、天を衝くような大木を薙ぎ倒しながら、形容しがたい巨大な影の塊が押し寄せてくる。

 

「走れぇぇぇッ!」

 

ハインツは馬の腹を蹴り、叫んだ。

託された命を抱え込み、前だけを見据えて街道を南へ疾走した。

 

「荷物は捨てろ!子供を乗せろ!歩けない者を馬車へ!」

 

村が一瞬で混乱に包まれる。

 

泣く子供。怒鳴る男。家畜を捨てられず立ち尽くす老人。家へ戻ろうとする女。

 

「戻るな!」

 

騎士が引き止める。

 

「母の形見が!」

 

「死にたいのか!」

 

巨大な津波が森を押し倒しながら近づいてくる。

ハインツの顔から血の気が引いた。

 

「行け!」

 

 自分自身へ言い聞かせるように叫ぶ。

 

「全員走れ! ヴァルデシアへ!」

 

 

 

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