《追憶》 Ⅱ 辺境の雄者たち
街道の路面は、降り始めた夜露と泥炭でぬかるんでいた。
黒鉄狼族が北の闇へと消えてから、わずか半刻。
ローデン村から連れ出した輜重車と避難民の荷馬車、計八台の車列は、限界まで速度を上げていた。だが、荷を積んだ農耕馬の脚では、軽装の騎兵のように距離を稼ぐことはできない。
背後から、大気が震えるような重低音がじわじわと間を詰めてきていた。
「車輪が沈む!速度が落ちているぞ!」
先頭を走る御者の叫び声に、馬を並走させていたハインツが即座に怒鳴り返す。
「荷を捨てろ!麦袋も鍋も全部だ、溝へ放り込め!」
兵たちが荷台へ飛びついた。
麻縄を短剣で切り飛ばし、家財の詰まった木箱を蹴り落とす。
麦袋が泥へ転がり、鍋や農具がけたたましい音を立てて街道に散乱した。
長年使われた椅子。毛布。樽。誰かの家にあった食器。
村人たちが生きてきた証そのものが、次々と夜の街道へ捨てられていく。
軽くなった馬車が軋みを上げて僅かに加速する。だが、それも気休めに過ぎなかった。
「……来たぞ!後方二百歩!」
後方を見張っていた兵が叫んだ。
暗がりの中から、最初の影が抜け出てきた。
巨大な灰狼だった。
口元には泡がこびりつき、牙の間から血が糸を引いている。
次いで血走った目で舌を垂らした角鹿が、街道を埋め尽くすように雪崩れ込んでくる。
牙猪。
小型の爬竜。
見慣れた魔獣も、普段は見ない魔獣も、区別なく溢れ出てくる。
一頭、二頭ではない。
街道を埋め尽くす黒い奔流となって、南へ雪崩れ込んできた。
車列から投げ捨てられた麦袋や木箱など、踏み砕かれ、粉微塵に蹴散らされるだけだった。時間を稼ぐ障害物にすらならない。
「投げられるものを投げろ!松明でも天幕の支柱でも何でもいい、鼻先に叩きつけろ!」
護衛兵たちが油壺を放る。
火のついた松明が闇を回転しながら飛び、地面へ落ちた。
油壺が砕け、炎が街道いっぱいに広がった。
それでも、獣たちは止まらなかった。
炎へ飛び込み、毛が燃える。仲間の背に火が移る。それでもなお、狂ったように前へと走る。
投げ捨てられた木箱を踏み砕き、麦袋を破裂させ、倒れた仲間すら蹄で踏み潰して、押し寄せる。
槍が一頭の灰狼の肩へ深々と突き刺さった。
狼は悲鳴すら上げなかった。
槍を身体に生やしたまま走り続ける。
狂乱した獣たちは目の前で火が爆ぜようが、仲間の頭に槍が突き刺さろうが、一瞥もくれずに突進を続けた。ただ前へ、南へと押し寄せる圧力そのものだった。
「だめです、怯みません!数が多すぎる!」
「騎乗の術士、前に出ろ!」
ハインツは手綱を引き絞り、息を切らせる部下の騎士に叫んだ。
「馬に強化を回せ!脚の疲労を麻痺させろ、心臓を保たせろ!」
「しかし男爵様、農耕馬に過負荷の身体強化をかければ、保っても半刻……最後には肺が破裂します!」
「今止まればここで全員死ぬ!やれ!」
騎士が青白い術式光を帯びた手を馬の臀部へと押し当てる。
魔力が肉へ潜り込む。
馬たちが狂ったように嘶いた。
筋肉が異様に膨張し、血管が浮き上がる。
白泡を撒き散らしながら、蹄が泥を蹴り飛ばした。
八台の馬車が、一斉に速度を上げる。
だが、それすらも時間の引き延ばしに過ぎないことは、ハインツ自身が一番よく分かっていた。
これは逃走ではない。
死ぬ場所を半刻先へ動かしただけだ。
地鳴りが背中に張り付く。
振り向けば、もう目と鼻の先だった。
百歩。
八十歩。
五十歩。
見るたび距離が縮まる。
後尾を走る荷馬車の馬の尻へ、先頭の魔獣が吐き出す白い息が届きそうになっていた。
「……くそ」
ハインツは小さく吐き捨てた。
逃げ切れない。
誰かが止めなければ。
そう考えた瞬間、不思議なほど頭が冷えた。
ハインツは懐へ手を入れた。
泥と汗で湿った調査手帳を引き抜く。
ウッドワード村。生存者五名。魔獣の異常移動。黒鉄狼族の証言。鉄爪竜の死骸。森から消えた生物。
この日で見聞きしたすべてが、そこに書かれていた。
そして、隣を併走していた副官へ手を伸ばした。
「イーライ」
「はっ!」
「これを持っていけ」
手帳を叩きつけるように押し付ける。
「何があっても止まるな」
「……男爵様?」
ハインツの目が据わっていた。
細身の文官肌と侮られてきた男の顔から、迷いが完全に削ぎ落とされていた。
「隣の馬車にあの娘が乗っている。あれと手帳を、ヴァルデシアへ送り届けろ。そして領都へ走り、ここで見聞きしたすべてをお館様にお伝えしろ」
「何を言って──」
「私はトレンス侯爵家寄子、ハインツ・フォン・ローゼンシュタインだ」
ハインツは腰の長剣を一気に引き抜いた。
白刃が夜の月光を冷たく弾く。
迫り来る奔流を真正面に見る。
灰狼。牙猪。角鹿。
その向こうには、数え切れないほどの影。
怖くないわけではない。
身体の芯は、とっくに恐怖で冷え切っていた。
それでも剣先は震えなかった。
「領民を背にして逃げ延びる道など、我が家名にはない!」
剣を掲げる。
「我こそと思わん者は続け!」
何騎かが振り返った。
ハインツは腹の底から吠えた。
「これより突撃する!命を惜しむな!名を惜しめ!」
ハインツは馬首を巡らせ、迫り来る黒い津波へと切っ先を向けた。胸の底から、喉が張り裂けんばかりの声を張り上げる。
「いざ──」
馬腹を蹴ろうとした。
咆哮が最高潮に達した、その瞬間だった。
ぐすり、と。
鈍く、肉を裂く硬質な音がハインツの右太腿から響いた。
「が、っ……!?」
激痛と衝撃に、ハインツの叫びが喉の奥で詰まった。
見下ろすと、甲冑の隙間、乗馬用のトラウザーズを貫いて、鋼の短剣が深く突き刺さっていた。
柄を握っていたのは──イーライだった。
「な……にを……」
ハインツの視界が揺らぐ。
イーライは短剣を容赦なく引き抜くと、ハインツの襟首を掴み、そのまま並走する荷馬車の荷台へと力任せに突き飛ばした。
「ぐあっ!」
藁と毛布の上に背中から叩きつけられ、ハインツの手から長剣が滑り落ちる。
見上げた夜空の縁に、イーライの顔があった。
その表情には、忠誠も、畏れもなかった。ただ、すべてを投げ打って腹を括った男の、獰猛で乾いた笑みが張り付いていた。
「やってられねぇな」
イーライは唾を吐き捨てた。
そして、ハインツの胸元へ、先ほど押し付けられたはずの血濡れの手帳を無造作に投げ返した。
「おい!こんなクソみたいなことしてられるか!」
イーライは馬首を反転させ、腰の幅広剣を抜き放ちながら、車列の兵たちに向けて怒鳴り散らした。
「行くぞ!ついてこい!逃げ道を確保しろ!」
その怒声に応えるように、前方の馬車からも、後方の護衛からも、次々と声が上がった。
一騎が馬首を返した。
「おうよ!」
もう一騎。
「帳簿係に格好いい死に方なんぞさせるか!」
さらに二騎。
「旦那には領都でたっぷり働いてもらわねえとな!」
笑い声さえ上がった。
気づけば、ハインツ配下の十騎長を含む一隊が丸ごと馬首を返していた。
誰一人、迷わなかった。
まるで、最初からこうすると決めていたように。
ハインツは息を呑んだ。
もとから打ち合わせていたかのような、淀みのない動きだった。彼らは最初から、ハインツがどう出るかを分かっていて、そしてどう動くかを決めていたのだ。
「やめろ……!イーライ!貴様ら、戻れ!これは命令だ!」
ハインツは傷口を押さえ、血を噴き出させながら荷台の縁にすがりついた。
「戻れぇっ!死ぬぞ!お前たち、全員死ぬぞ!」
振り返ったイーライの顔が見えた。
その瞳の奥にある覚悟を、ハインツは痛いほどに読み取ってしまった。
──生き残って、伝えろ。
黒鉄狼族の族長が言ったことと同じだった。
「ふざけるな……」
武勲を立てて死ぬのは自分たちでいい。泥を被り、部下を見殺しにして逃げ延びたという汚名を背負い、それでもお館様へ事実を届ける役目は、貴族であるお前が引き受けろと。
「ふざけるな……!」
死ぬ覚悟ならできていた。
その無言の献身と、主君としての誇りを完膚なきまでにへし折られた屈辱。
死ぬ覚悟ならできていた。
だが。
生き残る覚悟など……誰がした。
相反する感情が胸の中で濁流となって渦巻き、ハインツの喉を激しく焼き焦がした。
「うおおおおおおッ!」
イーライたちが雄叫びを上げ、押し寄せる魔獣の先頭集団へと真っ向から突撃していく。
正面には、街道を埋め尽くす数多の獣。
十数騎の人間が、獣の奔流と激突した。
剣が肉を断つ。牙が馬の喉を噛み砕く。
騎士が跳ね飛ばされる。馬が押し潰される。槍が折れる。骨が砕ける。
イーライが先頭の牙猪へ馬ごと突っ込んだ。
「どけぇぇぇッ!」
肉が裂け、馬が潰れ、骨が砕ける音が夜気を震わせる。
幅広剣が振り抜かれ、牙猪の顔面から血が噴き出した。
倒れた巨体へ後続が衝突する。
さらに騎士たちが突っ込む。
その僅かな一瞬、奔流の先頭が西の崖側へと押し曲げられ、街道の上に細い一本の空白が生まれた。
「走れぇぇぇッ!」
御者が狂ったように鞭を振るう。
荷馬車が軋んだ悲鳴を上げながら、開いた隙間を縫って闇の中へと加速していく。
左右から牙が迫り、灰狼が荷台へ飛びつこうとする。
兵が槍で叩き落とす。
牙猪の角が最後尾の車体を掠め、板が弾け飛ぶ。
それでも。
抜けた。
八台の車列が、一本ずつ。
イーライたちが身体でこじ開けた道を、南へ抜けていく。
「あ……」
ハインツは荷台に伏した。
「ああ……」
背後から怒号が聞こえた。
一人。
また一人。
知っている声が、獣の咆哮へ呑み込まれていく。
耳を塞ぎたかった。
「あ……あああ……っ」
ハインツは荷台に突っ伏し、泥炭と自分の血で汚れ果てた手帳を、両手で爪が白くなるほど強く抱きしめた。
背後で部下たちの怒号が、獣たちの咆哮に呑み込まれて消えていくのを、ただ耳を塞ぐこともできずに聞き続けながら。
・・・・・
・・・
「どけぇぇぇッ!」
喉が引き裂けるほどの声を張り上げ、俺は馬腹を思い切り蹴り飛ばした。
街道の脇をすり抜け、車列の先頭へ回り込もうとしていた灰狼の頭部へ、抜き放った幅広剣を叩き込む。
骨の砕ける鈍い感触が手首を痺れさせ、黒ずんだ血飛沫が顔面へ浴びせられた。馬が巨体ごと狼の死骸を轢き潰し、泥濘を跳ね上げる。
視界の端で、さらに二頭、三頭。
足の早い連中が、荷馬車の進路を塞ごうと牙を剥いて飛び出してくるのが見えた。
――行かせるかよ。
ここから先は、一歩だって通さねえ。
俺は馬首を強引にねじ曲げ、牙猪の横っ面へ馬ごと突っ込ませた。
激突の衝撃で肺の空気が全部吐き出されそうになる。だが構わず、ひしゃげた剣先を喉笛へ突き立て、力任せに抉り抜いた。
笑わせるな、と思った。
四十を過ぎて、あれが初陣だなんて冗談がきつすぎる。
領地の水路の普請に頭を抱え、秋になれば税の帳簿と睨み合い、小作人の揉め事の仲裁ばかりやってきた男だ。
剣の構え方一つ見りゃ分かる。お世辞にも話にならねえ。あんな鈍くさい太刀筋でこの津波に突っ込んだら、格好をつける暇もなく一拍で肉片にされるだけだ。
領民を背にして逃げられない、だと?
命を惜しむな、名を惜しめ、だと?
馬鹿野郎が。
そんなものは、俺たちみたいな使い捨ての野良犬が吐く台詞だ。
薄汚い傭兵上がりの俺を、どこの骨とも知れねえ流れ者の俺を、あの人は副官に据えてくれた。
小遣い稼ぎの手柄を立てただけで、自分のことのように破顔して、よくやったと肩を叩いてくれた。
それだけじゃねえ。
男爵邸の敷居を跨ぐ時、泥を落としきれねえ俺の足元を咎めもせず、奥方はいつだって湯気の立つ温かいスープをよそってくれた。幼い坊主や嬢ちゃんが、血生臭い俺の膝へ当たり前のように這い登って、笑いかけてくれた。
あの温かさを。
あの暖炉の火を。
こんな泥の底で灰にさせてたまるか。
「旦那ァァッ!」
俺は返り血で濡れた顔のまま、街道の先へ、加速していく荷馬車の背中へ向かって吠えた。
「死に場所を間違えんじゃねえぞ! 俺たちの命を無駄にしたら、化けて出てでも首絞めてやるからな!」
背後から仲間たちの怒号が追いついてくる。
「ベッカー!右から爬竜が抜けるぞ!」
「押し返せ!馬をぶつけろ!」
十数騎の男たちが、獣の奔流の横腹へ楔のように突き刺さる。
槍がへし折れる。馬の喉笛が食い破られ、絶叫と共に騎士が闇へ引きずり落とされる。俺の肩口にも、狼の牙が肉ごと甲冑を抉る激痛が走った。
だが、痛えなんて感じてる暇はねえ。
俺は左腕の革手袋ごと狼の顎をへし折り、残った右手で短剣をその眼窩へ突き刺した。
泥を噛み、血を啜り、骨を砕く。
ただ前を塞ぐ影を、一頭でも多く崖下へ叩き落とす。
街道の上に、細い一本の道が残っている。
荷馬車が、八台の車列が、軋みを上げながらその隙間を南へ駆け抜けていくのが見えた。
抜けた。
進路は開けたぞ。
「行け……!」
俺は馬腹を裂かれ、崩れ落ちそうになる愛馬の首を抱え込みながら、迫り来る無数の赤い瞳を睨み据えた。
口の中に溜まった鉄の味を、泥炭へ向けて力一杯吐き捨てる。
「行け、ハインツ! 生き残って、領都でたっぷり仕事しやがれ……!」
津波のような影が、俺の視界を真っ黒に塗り潰していった。
・・・・・
・・・
イーライたちの命を賭した突撃によって、街道の上にわずかな空白が切り開かれた。
だが、その隙間も瞬く間に埋まろうとしていた。
過負荷の強化魔法をかけられた農耕馬の鼻腔から、赤黒い血泡が吹き出す。車輪の軸受けからは煙が上がり、悲鳴のような摩擦音が夜気に軋んでいた。
これだけでは、逃げ切れない。
イーライたちが稼いだ時間は、長くて半刻。馬が息絶えれば、その場で追いつかれる。
荷台の藁の上で、深く昏倒したままの娘の傍ら。
一人の巨躯を誇るビースト──シグルダが、静かに立ち上がった。
族長と同じ、鋼のような灰黒色の毛並み。歴戦の傷が刻まれたその横顔は、夜の風を鋭く切り裂くように北を睨み据えていた。鼻孔を広げ、風に含まれる血の濃さと、地を伝う振動の波長を測る。
足りない。
伴侶の命も、ヒュームの兵士たちの命も、この巨大な津波を完全に受け流すには、あと一握りの重みが足りない。
野生の勘が、骨の髄で告げていた。
群れの先頭を走る中型の頭目を叩き、進路をさらに崖下へねじ曲げる決定打が必要だ。そしてそれは、森の獣の呼吸と間合いを知り尽くした自分にしか打てない。
彼女は屈み込み、眠る娘の額に、硬くざらついた掌をそっと押し当てた。
黒鉄狼の誇りと、母としての意地。
娘の未来をこの泥濘の街道で途絶えさせるわけにはいかなかった。
シグルダは、太腿を押さえて血を流すハインツを見下ろした。
その双眸には、迷いも恐れも微塵もない。
「貴族」
低く、だが鋼のように硬い声だった。
「あの子を頼む」
「待て……貴女まで……!」
ハインツが手を伸ばそうとするが、彼女はすでに荷台の縁へと足をかけていた。
「おい、待ちなせえ!」
荷台の隅から、荒い息と共に一人の男が身を起こした。
ローデン村の自警団の革鎧を纏った、三十路ほどの男。
名のある戦士ではない。騎士でもない。
畑を耕し、冬には狩りへ出て。村の柵が壊れれば直す。
そんなヒュームの男だった。
手には使い古された狩猟槍と、先端に小さな魔晶石を嵌め込んだ樫の杖を握りしめている。
その背後では、男の妻が幼い娘を胸に抱きしめ、声もなく震えていた。
娘はまだ五つにも満たない。
その小さな手を、隣に座る十ほどの少年が、青ざめた顔で両手で固く握りしめていた。
「あなた……何を!」
妻が悲鳴のような声を漏らす。
男は振り返り、妻の肩を強く引き寄せ、額に一度だけ唇を落とした。
「……やだ」
妻が囁いた。
「……置いて行かないで……!」
男は笑い、答えなかった。
ついで、娘を見やる。
「父ちゃん」
「ん?」
「どこいくの?」
喉が詰まる。何も知らないままに、雰囲気に押され泣きそうな顔に、堪らなく目頭が熱くなる。
「ちょっと……な」
男は笑った。
「馬車が遅えからよ、後ろから押してくる」
「すぐくる?」
「……ああ」
娘の頭を撫でる。
何度も。乱暴に。愛おしく。
そして、隣の少年の肩を両手で鷲掴みにした。
「ゼファー」
「お、おじさん……?」
「リディアを……頼む」
男の瞳に、父親の覚悟が宿っていた。
「……」
「絶対に手を離すな」
男の指に力が入った。
「何があってもだ」
ゼファーの目に涙が溜まる。
それでも、リディアの小さな手を握り直す。
「……うん」
「聞こえねえ」
「護る」
「もう一回だ」
少年は歯を食いしばった。
「俺の代わりに、お前がリディアを護れ。絶対に手を離すな。いいな!」
少年の喉が上下し、涙が溢れそうになる。だが男の気迫に呑み込まれるように、ゼファーは唇を噛み締め、力強く頷いた。
「……うん!護る! 僕が絶対に護る!」
「よし」
妻が腕を掴んだ。青白くなるほどに、震えながら、力一杯抵抗する。
「行か……ないで……」
その肩が、一瞬だけ震えた。
それでも、妻の手をそっと外した。
「すまん」
それだけだった。
そして振り返り、荷台の縁に立つ彼女の隣へと並んだ。
槍を構え直し、樫の杖を握る手に微弱な魔力を込める。杖の先の魔晶石が、淡い琥珀色の光を灯した。
「ご夫人を一人で行かせるのは男の名折れだ」
男は歯を剥き出しにして、自嘲気味に笑った。
「畑仕事の合間に覚えた微力な魔法ですがね。不肖ながら、お供させていただきます」
彼女は男の顔を一瞥した。
種族も、言葉も、生きる世界も違う。だが、背後の荷台に残した「我が子」を思う熱量だけは、寸分の違いもなく重なっていた。
「おい」
「へい」
「死ぬぞ」
「そいつぁ困る」
男は肩を竦めた。
「畑の芋がまだ半分残ってるんでね」
シグルダが鼻を鳴らした。
「魔法は」
男は樫の杖を見せる。
「土を柔らかくする。火を起こす。風を吹かせる。あと、人の身体をちょいと元気にするくらいで」
シグルダの耳が動いた。
「強化が使えるのか」
「ほんの少しですがね」
「……遅れるなよ、ヒューム」
「へっ、そっちこそ置いていかないでくだせえ!」
「私が先頭を崩す」
「へい」
「お前は地面を殺せ」
男が口角を上げた。
「畑を殺すのは得意じゃねえんですがね」
「今日は許す」
「ありがてえ」
二つの影が、疾走する荷馬車から同時に闇へと躍り出た。
「やめろぉぉぉッ!」
ハインツの絶叫が夜風に掻き消える。
着地と同時に、男の杖から琥珀色の光弾が放たれた。
街道の地面に着弾した光が炸裂し、土煙と共に泥炭が深々と捲れ上がる。
「まずは足場をいただきますよ!」
琥珀色の魔力が地へ潜った。
《泥起こし》
本来は畑を耕すための精霊魔法だった。
土へ水分を巡らせ、固い地面を柔らかくする。
ただ、それだけの術。
だが、雨を吸った街道。泥炭。斜面の土。
条件が揃えば、話は変わる。
地面が一気に沈み、先頭を走っていた巨大な牙猪が足を取られ、激しく前のめりに転倒した。
後続の灰狼が突っ込み、角鹿が跳ねる。
そこへ、シグルダが疾風となって突っ込んだ。
獣の奔流に、一瞬の乱れが生じた。
両手の鋭利な鉤爪が、宙を裂く。
転倒した魔獣の首を爪先で跳ね飛ばし、そのまま後続の魔獣の頭上を足場にして高く宙へ舞い上がる。狼特有の鋭い咆哮が、夜空を劈いた。
男の放つ突風と炎の礫が、魔獣の目を眩ませ、隙を作り出す。
その隙間を、雌狼が神速の連撃で抉り抜いていく。
たった二人。だがその気迫と狂乱の足止めは、奔流の先頭を強引に削り取り、魔獣たちの足を泥濘と仲間の死骸の山へと釘付けにした。
街道の先、荷馬車が確実に距離を引き離していく。
背後で巻き起こる爆炎と、響き渡る獣の絶叫。
荷台の上で、ハインツは血の混ざった泥炭を口蓋に張り付かせながら、ただ拳を握りしめていた。
また一つ。
いや、二つ、三つと、返しようのない命の借りが積み上がっていく。
父親が、母親が、部下が、自分の命を盾にして買い取ったこの数刻の猶予。
その途方もない重さに、彼の痩せた肩が激しく打ち震えていた。