剣と魔術とライフルと   作:あききし

187 / 200
《追憶》 Ⅱ 辺境の雄者たち

 

《追憶》 Ⅱ 辺境の雄者たち

 

 

街道の路面は、降り始めた夜露と泥炭でぬかるんでいた。

 

黒鉄狼族が北の闇へと消えてから、わずか半刻。

 

ローデン村から連れ出した輜重車と避難民の荷馬車、計八台の車列は、限界まで速度を上げていた。だが、荷を積んだ農耕馬の脚では、軽装の騎兵のように距離を稼ぐことはできない。

 

背後から、大気が震えるような重低音がじわじわと間を詰めてきていた。

 

「車輪が沈む!速度が落ちているぞ!」

 

先頭を走る御者の叫び声に、馬を並走させていたハインツが即座に怒鳴り返す。

 

「荷を捨てろ!麦袋も鍋も全部だ、溝へ放り込め!」

 

兵たちが荷台へ飛びついた。

 

麻縄を短剣で切り飛ばし、家財の詰まった木箱を蹴り落とす。

 

麦袋が泥へ転がり、鍋や農具がけたたましい音を立てて街道に散乱した。

長年使われた椅子。毛布。樽。誰かの家にあった食器。

村人たちが生きてきた証そのものが、次々と夜の街道へ捨てられていく。

 

軽くなった馬車が軋みを上げて僅かに加速する。だが、それも気休めに過ぎなかった。

 

「……来たぞ!後方二百歩!」

後方を見張っていた兵が叫んだ。

 

暗がりの中から、最初の影が抜け出てきた。

 

巨大な灰狼だった。

口元には泡がこびりつき、牙の間から血が糸を引いている。

次いで血走った目で舌を垂らした角鹿が、街道を埋め尽くすように雪崩れ込んでくる。

 

牙猪。

小型の爬竜。

見慣れた魔獣も、普段は見ない魔獣も、区別なく溢れ出てくる。

 

一頭、二頭ではない。

街道を埋め尽くす黒い奔流となって、南へ雪崩れ込んできた。

 

車列から投げ捨てられた麦袋や木箱など、踏み砕かれ、粉微塵に蹴散らされるだけだった。時間を稼ぐ障害物にすらならない。

 

「投げられるものを投げろ!松明でも天幕の支柱でも何でもいい、鼻先に叩きつけろ!」

 

護衛兵たちが油壺を放る。

 

火のついた松明が闇を回転しながら飛び、地面へ落ちた。

 

油壺が砕け、炎が街道いっぱいに広がった。

 

それでも、獣たちは止まらなかった。

 

炎へ飛び込み、毛が燃える。仲間の背に火が移る。それでもなお、狂ったように前へと走る。

 

投げ捨てられた木箱を踏み砕き、麦袋を破裂させ、倒れた仲間すら蹄で踏み潰して、押し寄せる。

 

槍が一頭の灰狼の肩へ深々と突き刺さった。

狼は悲鳴すら上げなかった。

槍を身体に生やしたまま走り続ける。

 

狂乱した獣たちは目の前で火が爆ぜようが、仲間の頭に槍が突き刺さろうが、一瞥もくれずに突進を続けた。ただ前へ、南へと押し寄せる圧力そのものだった。

 

「だめです、怯みません!数が多すぎる!」

「騎乗の術士、前に出ろ!」

 

ハインツは手綱を引き絞り、息を切らせる部下の騎士に叫んだ。

 

「馬に強化を回せ!脚の疲労を麻痺させろ、心臓を保たせろ!」

 

「しかし男爵様、農耕馬に過負荷の身体強化をかければ、保っても半刻……最後には肺が破裂します!」

 

「今止まればここで全員死ぬ!やれ!」

 

騎士が青白い術式光を帯びた手を馬の臀部へと押し当てる。

 

魔力が肉へ潜り込む。

馬たちが狂ったように嘶いた。

筋肉が異様に膨張し、血管が浮き上がる。

白泡を撒き散らしながら、蹄が泥を蹴り飛ばした。

 

八台の馬車が、一斉に速度を上げる。

 

だが、それすらも時間の引き延ばしに過ぎないことは、ハインツ自身が一番よく分かっていた。

 

これは逃走ではない。

死ぬ場所を半刻先へ動かしただけだ。

 

 地鳴りが背中に張り付く。

 

振り向けば、もう目と鼻の先だった。

 

百歩。

 

八十歩。

 

五十歩。

 

見るたび距離が縮まる。

後尾を走る荷馬車の馬の尻へ、先頭の魔獣が吐き出す白い息が届きそうになっていた。

 

「……くそ」

 

ハインツは小さく吐き捨てた。

 

逃げ切れない。

 

誰かが止めなければ。

 

そう考えた瞬間、不思議なほど頭が冷えた。

ハインツは懐へ手を入れた。

 

泥と汗で湿った調査手帳を引き抜く。

 

ウッドワード村。生存者五名。魔獣の異常移動。黒鉄狼族の証言。鉄爪竜の死骸。森から消えた生物。

この日で見聞きしたすべてが、そこに書かれていた。

 

そして、隣を併走していた副官へ手を伸ばした。

 

「イーライ」

「はっ!」

 

「これを持っていけ」

 

手帳を叩きつけるように押し付ける。

 

「何があっても止まるな」

「……男爵様?」

 

ハインツの目が据わっていた。

 

細身の文官肌と侮られてきた男の顔から、迷いが完全に削ぎ落とされていた。

 

「隣の馬車にあの娘が乗っている。あれと手帳を、ヴァルデシアへ送り届けろ。そして領都へ走り、ここで見聞きしたすべてをお館様にお伝えしろ」

 

「何を言って──」

 

「私はトレンス侯爵家寄子、ハインツ・フォン・ローゼンシュタインだ」

 

ハインツは腰の長剣を一気に引き抜いた。

白刃が夜の月光を冷たく弾く。

 

迫り来る奔流を真正面に見る。

 

灰狼。牙猪。角鹿。

その向こうには、数え切れないほどの影。

 

怖くないわけではない。

身体の芯は、とっくに恐怖で冷え切っていた。

それでも剣先は震えなかった。

 

「領民を背にして逃げ延びる道など、我が家名にはない!」

 

剣を掲げる。

 

「我こそと思わん者は続け!」

 

何騎かが振り返った。

ハインツは腹の底から吠えた。

 

「これより突撃する!命を惜しむな!名を惜しめ!」

 

ハインツは馬首を巡らせ、迫り来る黒い津波へと切っ先を向けた。胸の底から、喉が張り裂けんばかりの声を張り上げる。

 

「いざ──」

 

馬腹を蹴ろうとした。

咆哮が最高潮に達した、その瞬間だった。

 

 ぐすり、と。

 

鈍く、肉を裂く硬質な音がハインツの右太腿から響いた。 

 

「が、っ……!?」

 

激痛と衝撃に、ハインツの叫びが喉の奥で詰まった。

見下ろすと、甲冑の隙間、乗馬用のトラウザーズを貫いて、鋼の短剣が深く突き刺さっていた。

 

柄を握っていたのは──イーライだった。

 

「な……にを……」

 

ハインツの視界が揺らぐ。

 

イーライは短剣を容赦なく引き抜くと、ハインツの襟首を掴み、そのまま並走する荷馬車の荷台へと力任せに突き飛ばした。

 

「ぐあっ!」

 

藁と毛布の上に背中から叩きつけられ、ハインツの手から長剣が滑り落ちる。

 

見上げた夜空の縁に、イーライの顔があった。

その表情には、忠誠も、畏れもなかった。ただ、すべてを投げ打って腹を括った男の、獰猛で乾いた笑みが張り付いていた。

 

「やってられねぇな」 

 

イーライは唾を吐き捨てた。

そして、ハインツの胸元へ、先ほど押し付けられたはずの血濡れの手帳を無造作に投げ返した。

 

「おい!こんなクソみたいなことしてられるか!」

 

イーライは馬首を反転させ、腰の幅広剣を抜き放ちながら、車列の兵たちに向けて怒鳴り散らした。

 

「行くぞ!ついてこい!逃げ道を確保しろ!」

 

その怒声に応えるように、前方の馬車からも、後方の護衛からも、次々と声が上がった。

 

一騎が馬首を返した。

 

「おうよ!」

 

もう一騎。

 

「帳簿係に格好いい死に方なんぞさせるか!」

 

さらに二騎。

 

「旦那には領都でたっぷり働いてもらわねえとな!」 

 

笑い声さえ上がった。

 

気づけば、ハインツ配下の十騎長を含む一隊が丸ごと馬首を返していた。

 

誰一人、迷わなかった。

まるで、最初からこうすると決めていたように。

ハインツは息を呑んだ。

 

もとから打ち合わせていたかのような、淀みのない動きだった。彼らは最初から、ハインツがどう出るかを分かっていて、そしてどう動くかを決めていたのだ。

 

「やめろ……!イーライ!貴様ら、戻れ!これは命令だ!」

 

ハインツは傷口を押さえ、血を噴き出させながら荷台の縁にすがりついた。

 

「戻れぇっ!死ぬぞ!お前たち、全員死ぬぞ!」

 

振り返ったイーライの顔が見えた。

その瞳の奥にある覚悟を、ハインツは痛いほどに読み取ってしまった。

 

 ──生き残って、伝えろ。

 

黒鉄狼族の族長が言ったことと同じだった。

 

「ふざけるな……」

 

武勲を立てて死ぬのは自分たちでいい。泥を被り、部下を見殺しにして逃げ延びたという汚名を背負い、それでもお館様へ事実を届ける役目は、貴族であるお前が引き受けろと。

 

「ふざけるな……!」

 

死ぬ覚悟ならできていた。

 

その無言の献身と、主君としての誇りを完膚なきまでにへし折られた屈辱。

 

死ぬ覚悟ならできていた。

 

だが。

 

生き残る覚悟など……誰がした。

 

相反する感情が胸の中で濁流となって渦巻き、ハインツの喉を激しく焼き焦がした。

 

 

「うおおおおおおッ!」

 

イーライたちが雄叫びを上げ、押し寄せる魔獣の先頭集団へと真っ向から突撃していく。

 

正面には、街道を埋め尽くす数多の獣。

 

十数騎の人間が、獣の奔流と激突した。

 

剣が肉を断つ。牙が馬の喉を噛み砕く。

騎士が跳ね飛ばされる。馬が押し潰される。槍が折れる。骨が砕ける。

イーライが先頭の牙猪へ馬ごと突っ込んだ。

 

「どけぇぇぇッ!」

 

肉が裂け、馬が潰れ、骨が砕ける音が夜気を震わせる。

 

幅広剣が振り抜かれ、牙猪の顔面から血が噴き出した。

倒れた巨体へ後続が衝突する。

 

さらに騎士たちが突っ込む。

 

その僅かな一瞬、奔流の先頭が西の崖側へと押し曲げられ、街道の上に細い一本の空白が生まれた。

 

「走れぇぇぇッ!」

 

御者が狂ったように鞭を振るう。

 

荷馬車が軋んだ悲鳴を上げながら、開いた隙間を縫って闇の中へと加速していく。

 

左右から牙が迫り、灰狼が荷台へ飛びつこうとする。

兵が槍で叩き落とす。

牙猪の角が最後尾の車体を掠め、板が弾け飛ぶ。

 

それでも。

 

抜けた。

 

八台の車列が、一本ずつ。

イーライたちが身体でこじ開けた道を、南へ抜けていく。

 

「あ……」

 

ハインツは荷台に伏した。

 

「ああ……」

 

背後から怒号が聞こえた。

一人。

また一人。

知っている声が、獣の咆哮へ呑み込まれていく。

 

耳を塞ぎたかった。

 

「あ……あああ……っ」 

 

ハインツは荷台に突っ伏し、泥炭と自分の血で汚れ果てた手帳を、両手で爪が白くなるほど強く抱きしめた。

 

背後で部下たちの怒号が、獣たちの咆哮に呑み込まれて消えていくのを、ただ耳を塞ぐこともできずに聞き続けながら。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

「どけぇぇぇッ!」

 

喉が引き裂けるほどの声を張り上げ、俺は馬腹を思い切り蹴り飛ばした。

 

街道の脇をすり抜け、車列の先頭へ回り込もうとしていた灰狼の頭部へ、抜き放った幅広剣を叩き込む。

 

骨の砕ける鈍い感触が手首を痺れさせ、黒ずんだ血飛沫が顔面へ浴びせられた。馬が巨体ごと狼の死骸を轢き潰し、泥濘を跳ね上げる。

 

視界の端で、さらに二頭、三頭。

足の早い連中が、荷馬車の進路を塞ごうと牙を剥いて飛び出してくるのが見えた。

 

――行かせるかよ。

ここから先は、一歩だって通さねえ。 

 

俺は馬首を強引にねじ曲げ、牙猪の横っ面へ馬ごと突っ込ませた。

激突の衝撃で肺の空気が全部吐き出されそうになる。だが構わず、ひしゃげた剣先を喉笛へ突き立て、力任せに抉り抜いた。

 

笑わせるな、と思った。

 

四十を過ぎて、あれが初陣だなんて冗談がきつすぎる。

領地の水路の普請に頭を抱え、秋になれば税の帳簿と睨み合い、小作人の揉め事の仲裁ばかりやってきた男だ。

 

剣の構え方一つ見りゃ分かる。お世辞にも話にならねえ。あんな鈍くさい太刀筋でこの津波に突っ込んだら、格好をつける暇もなく一拍で肉片にされるだけだ。

領民を背にして逃げられない、だと?

命を惜しむな、名を惜しめ、だと?

 

馬鹿野郎が。

そんなものは、俺たちみたいな使い捨ての野良犬が吐く台詞だ。

 

薄汚い傭兵上がりの俺を、どこの骨とも知れねえ流れ者の俺を、あの人は副官に据えてくれた。

小遣い稼ぎの手柄を立てただけで、自分のことのように破顔して、よくやったと肩を叩いてくれた。

 

それだけじゃねえ。

 

男爵邸の敷居を跨ぐ時、泥を落としきれねえ俺の足元を咎めもせず、奥方はいつだって湯気の立つ温かいスープをよそってくれた。幼い坊主や嬢ちゃんが、血生臭い俺の膝へ当たり前のように這い登って、笑いかけてくれた。

 

あの温かさを。

あの暖炉の火を。

こんな泥の底で灰にさせてたまるか。

 

「旦那ァァッ!」

 

俺は返り血で濡れた顔のまま、街道の先へ、加速していく荷馬車の背中へ向かって吠えた。

 

「死に場所を間違えんじゃねえぞ! 俺たちの命を無駄にしたら、化けて出てでも首絞めてやるからな!」

 

背後から仲間たちの怒号が追いついてくる。

 

「ベッカー!右から爬竜が抜けるぞ!」

「押し返せ!馬をぶつけろ!」

 

十数騎の男たちが、獣の奔流の横腹へ楔のように突き刺さる。

槍がへし折れる。馬の喉笛が食い破られ、絶叫と共に騎士が闇へ引きずり落とされる。俺の肩口にも、狼の牙が肉ごと甲冑を抉る激痛が走った。

 

だが、痛えなんて感じてる暇はねえ。

俺は左腕の革手袋ごと狼の顎をへし折り、残った右手で短剣をその眼窩へ突き刺した。

 

泥を噛み、血を啜り、骨を砕く。

ただ前を塞ぐ影を、一頭でも多く崖下へ叩き落とす。

 

街道の上に、細い一本の道が残っている。

荷馬車が、八台の車列が、軋みを上げながらその隙間を南へ駆け抜けていくのが見えた。

 

抜けた。

進路は開けたぞ。

 

「行け……!」

 

俺は馬腹を裂かれ、崩れ落ちそうになる愛馬の首を抱え込みながら、迫り来る無数の赤い瞳を睨み据えた。

口の中に溜まった鉄の味を、泥炭へ向けて力一杯吐き捨てる。

 

「行け、ハインツ! 生き残って、領都でたっぷり仕事しやがれ……!」

 

津波のような影が、俺の視界を真っ黒に塗り潰していった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

イーライたちの命を賭した突撃によって、街道の上にわずかな空白が切り開かれた。

 

だが、その隙間も瞬く間に埋まろうとしていた。

 

過負荷の強化魔法をかけられた農耕馬の鼻腔から、赤黒い血泡が吹き出す。車輪の軸受けからは煙が上がり、悲鳴のような摩擦音が夜気に軋んでいた。

 

 これだけでは、逃げ切れない。

 

イーライたちが稼いだ時間は、長くて半刻。馬が息絶えれば、その場で追いつかれる。

 

荷台の藁の上で、深く昏倒したままの娘の傍ら。

 

一人の巨躯を誇るビースト──シグルダが、静かに立ち上がった。

 

族長と同じ、鋼のような灰黒色の毛並み。歴戦の傷が刻まれたその横顔は、夜の風を鋭く切り裂くように北を睨み据えていた。鼻孔を広げ、風に含まれる血の濃さと、地を伝う振動の波長を測る。

 

 足りない。

 

伴侶の命も、ヒュームの兵士たちの命も、この巨大な津波を完全に受け流すには、あと一握りの重みが足りない。

 

野生の勘が、骨の髄で告げていた。

 

群れの先頭を走る中型の頭目を叩き、進路をさらに崖下へねじ曲げる決定打が必要だ。そしてそれは、森の獣の呼吸と間合いを知り尽くした自分にしか打てない。

 

彼女は屈み込み、眠る娘の額に、硬くざらついた掌をそっと押し当てた。

 

黒鉄狼の誇りと、母としての意地。

 

娘の未来をこの泥濘の街道で途絶えさせるわけにはいかなかった。

 

シグルダは、太腿を押さえて血を流すハインツを見下ろした。

その双眸には、迷いも恐れも微塵もない。

 

「貴族」

 

低く、だが鋼のように硬い声だった。

 

「あの子を頼む」

「待て……貴女まで……!」

 

ハインツが手を伸ばそうとするが、彼女はすでに荷台の縁へと足をかけていた。

 

「おい、待ちなせえ!」

 

荷台の隅から、荒い息と共に一人の男が身を起こした。

 

ローデン村の自警団の革鎧を纏った、三十路ほどの男。

 

名のある戦士ではない。騎士でもない。

畑を耕し、冬には狩りへ出て。村の柵が壊れれば直す。

そんなヒュームの男だった。

 

手には使い古された狩猟槍と、先端に小さな魔晶石を嵌め込んだ樫の杖を握りしめている。

 

その背後では、男の妻が幼い娘を胸に抱きしめ、声もなく震えていた。

 

娘はまだ五つにも満たない。

 

その小さな手を、隣に座る十ほどの少年が、青ざめた顔で両手で固く握りしめていた。

 

「あなた……何を!」

 

妻が悲鳴のような声を漏らす。

男は振り返り、妻の肩を強く引き寄せ、額に一度だけ唇を落とした。

 

「……やだ」

妻が囁いた。

 

「……置いて行かないで……!」

 

男は笑い、答えなかった。

ついで、娘を見やる。

 

「父ちゃん」

「ん?」

「どこいくの?」

 

喉が詰まる。何も知らないままに、雰囲気に押され泣きそうな顔に、堪らなく目頭が熱くなる。

 

「ちょっと……な」

 

男は笑った。

 

「馬車が遅えからよ、後ろから押してくる」

「すぐくる?」

「……ああ」

 

娘の頭を撫でる。

何度も。乱暴に。愛おしく。

 

そして、隣の少年の肩を両手で鷲掴みにした。

 

「ゼファー」

「お、おじさん……?」

「リディアを……頼む」

 

男の瞳に、父親の覚悟が宿っていた。

 

「……」

 

「絶対に手を離すな」

 

男の指に力が入った。

 

「何があってもだ」

 

ゼファーの目に涙が溜まる。

それでも、リディアの小さな手を握り直す。

 

「……うん」

「聞こえねえ」

「護る」

「もう一回だ」

 

少年は歯を食いしばった。

 

「俺の代わりに、お前がリディアを護れ。絶対に手を離すな。いいな!」

 

少年の喉が上下し、涙が溢れそうになる。だが男の気迫に呑み込まれるように、ゼファーは唇を噛み締め、力強く頷いた。

 

「……うん!護る! 僕が絶対に護る!」

「よし」

 

妻が腕を掴んだ。青白くなるほどに、震えながら、力一杯抵抗する。

 

「行か……ないで……」

 

その肩が、一瞬だけ震えた。

それでも、妻の手をそっと外した。

 

「すまん」

 

それだけだった。

 

そして振り返り、荷台の縁に立つ彼女の隣へと並んだ。

槍を構え直し、樫の杖を握る手に微弱な魔力を込める。杖の先の魔晶石が、淡い琥珀色の光を灯した。

 

「ご夫人を一人で行かせるのは男の名折れだ」

 

男は歯を剥き出しにして、自嘲気味に笑った。

 

「畑仕事の合間に覚えた微力な魔法ですがね。不肖ながら、お供させていただきます」

 

彼女は男の顔を一瞥した。

 

種族も、言葉も、生きる世界も違う。だが、背後の荷台に残した「我が子」を思う熱量だけは、寸分の違いもなく重なっていた。

 

「おい」

「へい」

「死ぬぞ」

「そいつぁ困る」

 

男は肩を竦めた。

 

「畑の芋がまだ半分残ってるんでね」

 

シグルダが鼻を鳴らした。

 

「魔法は」

 

男は樫の杖を見せる。

 

「土を柔らかくする。火を起こす。風を吹かせる。あと、人の身体をちょいと元気にするくらいで」

 

シグルダの耳が動いた。

 

「強化が使えるのか」

「ほんの少しですがね」

「……遅れるなよ、ヒューム」

「へっ、そっちこそ置いていかないでくだせえ!」

 

「私が先頭を崩す」

 

「へい」

 

「お前は地面を殺せ」

 

男が口角を上げた。

 

「畑を殺すのは得意じゃねえんですがね」

 

「今日は許す」

 

「ありがてえ」

 

二つの影が、疾走する荷馬車から同時に闇へと躍り出た。

 

「やめろぉぉぉッ!」

 

ハインツの絶叫が夜風に掻き消える。

 

着地と同時に、男の杖から琥珀色の光弾が放たれた。

街道の地面に着弾した光が炸裂し、土煙と共に泥炭が深々と捲れ上がる。

 

「まずは足場をいただきますよ!」

 

琥珀色の魔力が地へ潜った。

 

《泥起こし》

 

本来は畑を耕すための精霊魔法だった。

土へ水分を巡らせ、固い地面を柔らかくする。

 

ただ、それだけの術。

 

だが、雨を吸った街道。泥炭。斜面の土。

 

条件が揃えば、話は変わる。

 

地面が一気に沈み、先頭を走っていた巨大な牙猪が足を取られ、激しく前のめりに転倒した。

後続の灰狼が突っ込み、角鹿が跳ねる。

 

そこへ、シグルダが疾風となって突っ込んだ。

 

獣の奔流に、一瞬の乱れが生じた。

 

両手の鋭利な鉤爪が、宙を裂く。

 

転倒した魔獣の首を爪先で跳ね飛ばし、そのまま後続の魔獣の頭上を足場にして高く宙へ舞い上がる。狼特有の鋭い咆哮が、夜空を劈いた。

 

男の放つ突風と炎の礫が、魔獣の目を眩ませ、隙を作り出す。

 

その隙間を、雌狼が神速の連撃で抉り抜いていく。

 

たった二人。だがその気迫と狂乱の足止めは、奔流の先頭を強引に削り取り、魔獣たちの足を泥濘と仲間の死骸の山へと釘付けにした。

 

街道の先、荷馬車が確実に距離を引き離していく。

 

背後で巻き起こる爆炎と、響き渡る獣の絶叫。

 

荷台の上で、ハインツは血の混ざった泥炭を口蓋に張り付かせながら、ただ拳を握りしめていた。

 

 また一つ。

 

いや、二つ、三つと、返しようのない命の借りが積み上がっていく。

 

父親が、母親が、部下が、自分の命を盾にして買い取ったこの数刻の猶予。

 

その途方もない重さに、彼の痩せた肩が激しく打ち震えていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。