《追憶》Ⅲ 届かぬはずのない距離
闇の向こう、黒々と口を開けた谷を跨ぐように、古い石橋の影が浮き上がっていた。
「橋だ!」
先頭を走っていた騎士の嗄れた絶叫が、濁った夜気をつんざいた。
「橋が見えたぞ!」
その声に、荷台で折り重なるように倒れ込んでいた避難民たちが、弾かれたように顔を上げる。一人。また一人。死人のような土色の顔に、微かな光が差すのが見えた。
谷を渡す古い石橋だ。幅は狭い。荷馬車が一台、ようやく擦れ違いもできずに通り抜けられる程度の頼りない幅しかない。
だが、あそこさえ越えれば街道は一気に隘路へと絞られる。あの大群がどれほど押し寄せてこようと、幅の暴力で一度に呑み込まれることはなくなる。それに――あの石の梁をへし折り、谷底へ落とすことさえできれば、ここで初めて、あの悪夢のような追撃を完全に断ち切ることができる。
「あとどれくらいだ!」
俺は喉の奥から血痰を吐き捨てるように叫んだ。
「三百歩ほど!」 「馬を走らせろ!鞭を入れろ!」 「無理ですッ!」
御者の返答は、ほとんど泣き叫ぶ悲鳴だった。その直後だった。 先頭を引いていた農耕馬の太い前脚が、がくりと、何の前触れもなく折れた。
嘶きすらなかった。鼻先が泥に突き刺さり、分厚い胸が地面を削り、巨体がそのまま真横に倒れ伏す。痙攣すらしない。完全に、命の芯が尽きていた。
「止まれ!」
反射的に肺腑を絞って怒鳴っていた。
「全車、止めろ!」「男爵様!?」
「止めろと言っている!このまま引きずり回せば、馬どころか車軸がへし折れて橋の手前で全部お釈迦になるぞ!」
次々と車輪が軋みを上げて急停止した。馬たちは、もう完全に終わっていた。鼻孔からはどす黒い血泡を吹き、口の端からは粘り気のない白い泡を垂れ流している。全身の筋肉が小刻みに痙攣し、四本の蹄はどれ一つとして地面をまともに噛めていない。 一頭。また一頭と、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちていく。
御者が、ちぎれそうな手綱を握りしめたまま、蒼白な顔で俺を見上げた。
「もう……立ちません。無理です、男爵様……」
俺は倒れた馬を見下ろし、それから馬車の車軸を睨みつけた。 ひび割れた車輪。軋みきった轅。油の切れた軸受け。そのすべてが、限界を超えた摩擦熱と過重で悲鳴を上げている。ここで無理矢理に最後の力で馬を鞭打てば、橋の手前で車軸が折れて横転する。最悪の場合、狭い街道のど真ん中を自らの馬車で塞ぎ、後続の民ごと袋の鼠になる。
「全員、降りろ!」
俺は荷台の側板を拳で叩き割る勢いで怒鳴りつけた。
「歩ける奴は一人残らず降りろ!」
荷台の闇が激しくざわめいた。
「女子供、幼子、動けない年寄り、負傷者だけを荷台に残せ!」
「男爵様!」
「他は全員、馬を外し馬車を引け!後ろから押せ!」
「ひ、人でですか!?この重い荷車を!?」
「他に何がある!」
俺は胸ぐらを掴まんばかりの気迫で吠え返した。
「ここまで逃げてきて、馬の死骸と一緒に街道で腐る気か!動ける手足があるなら動かせ!生き延びるために使え!」
一人の騎士が、引き綱を肩へ二重に巻きつけながら血反吐を吐いた。
「……馬のいねえ即席
「文句があるなら降りて走れ!」
「お断りです、こっちの方がまだ速い!」
村人たちが、雪崩を打つように荷台から這い降りてきた。男たち。若い女たち。まだ足の動く老人。負傷して布を巻いた腕を吊った者までもが、泥の中に足を突き立てる。幼い子供と、動けない老人と、四肢を失いかけた重傷者だけを荷台の真ん中に押し込める。残った全員が、馬車の前へ、横へ、後ろへと群がった。引き綱を素手で掴み、分厚い轅に肩を潜り込ませ、車体の背板に泥まみれの背中を押し当てる。
「騎士!」
俺は息を整える間もなく叫んだ。
「馬にかけていた身体強化の術式を切れ!自分たちへ回せ!」
生き残っていた数少ない騎士たちが、血に汚れた兜の下から目を剥いた。
「ですが、それでは馬が――」 「もう馬は一歩も走らん!荷車を動かすのは俺たちだ!」
俺は、荷台の端を掴みながら、血が靴の中まで染み出している右脚を庇って地面へと飛び降りた。着地した瞬間、激痛が踵から頭頂までを貫いた。視界が真っ白に明滅する。
「ぐ、っ……!」
膝が砕けそうになり、思わず泥へ手をつきかけた。だが、倒れる寸前で、目の前にあった轅の太い木肌を両手で鷲掴みにした。
「男爵様!」 「構うな!」
奥歯が砕けるほど噛み締め、唾液を飲み込む。
「死ぬなら橋の向こうで死ね!いま倒れた奴は置いていくぞ!」
青白い魔力の光膜が、一人、また一人と騎士たちの身体を包み込んでいく。筋肉が軋みを上げ、皮膚の下の血管が太く浮き上がる。張り詰めた麻の引き綱が、ぎちぎちと乾いた音を立てて引き絞られた。
「引け!」
俺は自分の全体重を轅に預け、前へ傾けた。
「押せぇぇぇッ!」
木と鉄が軋む、耳障りな絶叫。泥に深く沈み込んでいた車輪が、ほんの数寸、前へずれた。そこで止まる。重い。途方もなく重い。
「もう一度! 脚を引くな!」
全員が肺を破らんばかりの咆哮を上げた。
「うおおおおおッ!」
泥が爆ぜ、車輪が轍から抜けた。一台。また一台。馬の力ではない。生身の人間の、筋肉と骨の軋みだけで、重い荷馬車が軋みながら前進を始めた。女子供を乗せ、手負いを乗せ、残った全員が肩を寄せ合い、爪先を泥にめり込ませて前へ進む。
一歩。また一歩。
橋まで、あと二百五十歩。
二百。
百八十。
「後ろォッ!」
殿を務めていた者の悲鳴が、湿った夜気を切り裂いた。
振り返った視界の先、濃密な闇の底から、巻き上がる土煙と複数の低く蠢く影が見えた。
「……追いつかれたか」
大群ではない。十頭に満たない数だ。だが、その身のこなしは異常に速い。崖の崩落を強引に乗り越えてきたのか、獣道から回り込んできたのか。毛並みを血で固めた灰狼。頭部に異様な角を生やした爪鹿。地を這うような小型の爬竜。どれもが傷だらけで、自らの血を滴らせながら、それでも飢餓と狂気で目を血走らせて疾走してくる。
津波のような群れではない。だからこそ、最悪だった。奴らの狙いは、隊列全体ではなく、明確に「遅れている個体」へと絞られていた。足を引きずる人間。列の外側にいる者。一番後ろを歩く、息の絶え絶えな老人。先頭を駆ける灰狼が、狙いを定め、最後尾の荷車を追う老人めがけて低く跳躍した。
「迎え撃て!」
「待て、足を止めるな!」
俺は即座に怒鳴りつけた。
「足を止めたら車が止まる! 押しながら戦え!」
狂気の沙汰だった。自分でも何を言っているのか分からない。 だが、この車列を一度でも完全に停止させれば、二度と動かす筋力は残っていない。
一人の騎士が、引き綱を左肩から胸へ幾重にも巻きつけたまま、右手一本で抜き身の剣を構えた。
「来い、畜生がッ!」
飛びかかってきた灰狼の喉首を、下からの斬り上げが捉える。 肉を裂く鈍い音。だが、死に物狂いの獣の牙が、騎士の左肩の肉を深く抉った。
「ぐ、ああッ!」
「綱を離すな!」
「離して……たまるかぁッ!」
騎士は血を噴き出しながら、噛みついた狼の顎を鉄甲の拳で殴り飛ばした。村人の男たちが、車輪に背中をぶつけるようにして力任せに押す。
「押せ! まだ回ってるぞ!」
横の茂みから、爪鹿が低く頭を下げて突進してきた。鋭利な三本角が、剥き出しの人間を串刺しにせんと迫る。
「右だ!」
短い農具の槍を握った村人が、震える足で割り込んだ。槍先を突き出す。角に弾かれ、槍の柄がへし折れる。防ぎきれなかった切先が男の脇腹を浅く切り裂いたが、男は折れた柄の先で獣の目を突いた。
「引けぇッ!」
「進め!足を動かせ!」
誰一人として立ち止まらなかった。血を流し、肉を削られながら、全員がただ前へ、前へと身体を傾けていた。押す。引く。獣を蹴り飛ばす。泥を蹴る。
あと、百歩。
石橋の輪郭が、闇の中で巨大な質量を持って迫ってくる。
俺の右脚からは、とうに感覚が消え失せていた。激痛すら、どこか遠い世界で起きている出来事のように感じられた。ただ、踏み込むたびに、靴の中で溜まった自らの生温かい血が、ぐちゅりと不快な音を立てて潰れる感触だけが伝わってくる。
一歩。踏み出す。
足裏が泥を滑り、身体が前のめりに崩れかける。
それでも、両手の指先だけは轅の硬い木肌から絶対に離さなかった。
爪が剥がれ、指の腹から血が滲んで木肌を滑る。それでも、骨を食い込ませるようにして掴み直す。
「男爵様!」
「前を見ろ、声を出す暇があるなら息を吸え!」
「もう無理です、倒れます!」「歩けと言っている!」「あんたの足が、もう折れてるんだよッ!」
横で綱を引く御者の怒号のような叫びに、俺は顔を歪めた。 笑ったつもりだったが、きっと酷い面相になっていただろう。
「知るか!俺の足だ、俺が動かす!」
喉の奥から鉄の味が競り上がってくるのを、無理矢理に飲み下す。
「だから行くんだよ!」
七十歩。
五十歩。
三十歩。
最後尾で、再び獣の唸り声が上がった。灰狼の二頭目が、殿の騎士の背中に飛び乗る。もつれ合い、二重の影となって泥濘へ転がった。
「置いていけ!」
泥に塗れた騎士が、狼の首を締め上げながら喉を破らんばかりに叫んだ。
「俺はここまでだ!行け!」
「黙れッ!」
俺は首を後ろへ巡らせることすら惜しみ、前を睨みつけたまま咆哮した。
「今日は誰も格好よく死ぬな!這いずり回ってでも生き残れ!」
一瞬の静寂。泥の底から、騎士の短く吐き出すような笑い声が聞こえた。
「……承知!」
肉を裂く音。騎士が短剣で狼の目を突き刺し、血まみれになって跳ね起きた。足を引きずり、泥を蹴立てて、槍を拾い、再び荷車の後板へと手を伸ばす。
十歩。
橋の親柱が目の前に迫る。泥の道が終わり、敷き詰められた古い石畳が姿を現した。
最初の車輪が、石の角をガチリと噛んだ。硬質な、火花を散らすような衝撃が、轅を通じて両腕の骨へと突き抜けてくる。
「乗ったぞ!」
俺はありったけの呼気を絞り出した。
「渡れぇぇぇッ!」
全員の絶叫が、谷底の闇へと木霊した。
硬い。泥の粘りつく重さが抜け、代わりに石畳の容赦ない冷たさが足裏を叩く。だが、俺の右脚は、もう冷たさすら感じ取れなかった。完全に麻痺していた。壊れた肉体が、自らをこれ以上破壊させないために、無理やり感覚の回線を焼き切ってしまったかのようだった。
その代わり。肺の腑が、真っ赤に焼けた炭を呑み込んだように熱を帯びていた。吸い込む冷気が、鋭利なガラスの破片となって気管を切り刻む。吸っても。吸っても。空気が胸の奥に届かない。 どれだけ荒く息を継いでも、肺胞が熱で張り付いて開かないような錯覚。胸骨の裏側が激痛で軋み、口の端からだらしなく垂れ流される唾液に、濃い血の味が混ざり合っていた。
視界が、急速に白く濁っていく。視界の端から、分厚い白い霧が押し寄せてくる。闇を覆い、輪郭を溶かし、光を奪っていく。
見えない。
自分が渡っているはずの、両脇の切り立った谷底も見えない。前方に口を開けているはずの狭い街道も見えない。
背後で響いているはずの魔獣の爪音も、騎士たちの喚声も、何一つ届かなくなっていた。
ただ、一つだけ。
自分が両手で掴み、全体重を預けている、轅の黒ずんだ木肌。 そこに食い込ませた、白く強張った自らの十本の指先。それだけが、針の先ほどの狭さに絞り込まれた視界の真ん中に、焼き付いたように張り付いていた。
「……ひ、」
声を出そうとした。喉の肉が癒着したように張り付き、乾いた擦過音しか漏れてこない。
(引け)
頭蓋の裏側で、自分自身の怒号をただ狂ったように反芻させる。
(止まるな)(脚が千切れても前に出せ)(倒れたら、この荷車に轢き殺されるぞ)(足を止めた奴から、後ろの獣の餌になるんだ)
耳の奥で、すべての音が消えていった。
怒号も。悲鳴も。荷車がきしむ重い摩擦音も。まるで深い水の底に沈み込んだかのように、遠く、くぐもった雑音へと変わっていく。残ったのは、頭蓋骨のすぐ内側で乱暴に打ち鳴らされる、破裂寸前の心臓の鼓動だけだった。
どく、と大きく跳ねるたびに、視界が白と黒に激しく明滅する。
白。 黒。 白。
脚が、勝手に前へ出る。膝の関節が抜けかける。両腕の筋力だけで強引に車体を引き寄せ、抜けた膝を地面へ叩きつけて身体を支える。もう一度、逆の足を出す。
一歩。 また一歩。
何歩進んだ? 十歩か。二十歩か。五十歩か。いま自分が、橋のどこにいるのかすら分からない。
真ん中なのか。渡り終えそうなのか。それとも、まだ橋の入り口に過ぎないのか。
ただ、轅から手を離さないこと。この冷たく湿った木を離せば、自分が守ろうとしたすべてのものが泥の中に崩れ落ちるということ。
それだけが、焼き切れた意識の燃え殻の中に、消えない楔のように打ち込まれていた。
「……ま!」
遠く、水の向こうのような場所で、誰かが何かを叫んでいる。
「……しゃく……さまッ!」
うるさい。雑音だ。
俺はそれを振り払うように、さらに深く前へ倒れ込み、肩の骨を軋ませて轅を押し込んだ。
肺が燃え盛っている。喉の奥の血管が、一本ずつぷつぷつと弾け飛んでいくような酷い熱。それでも、車輪はまだ回っている感触がある。
微かにだが、前に進んでいる。進んでいるなら、止まる理由がどこにある!
「ハインツ様ッ!」
突如、左肩に岩でもぶつけられたような凄まじい衝撃が走った。 太い腕が、俺の胸の下に割り込み、強引に後ろへと引き剥がしにかかってくる。
「離せ……ッ!」
俺は腕を振り払おうとした。轅を離すまいと、白く強張った指にありったけの力を込め、木肌に爪を立てる。
「邪魔をするな……引け!まだ……橋を……ッ!」 「止まってください!」
耳元で、鼓膜が破れるほどの怒号が返ってきた。冷たく濡れた鉄の手甲が、俺の両頬を力任せに挟み込み、無理やりにその顔を跳ね上げる。激しい揺さぶりに、視界を覆っていた分厚い白煙が、わずかに揺らいで散った。
目の前にあったのは。 血と煤にまみれ、汗と涙でぐしゃぐしゃになった、ヴァルデシアの十騎長の顔だった。青ざめた唇を震わせ、見開かれた血走った瞳が、必死に俺の顔を覗き込んでいる。
「……なにを、している」
俺の喉から漏れたのは、擦り切れた布のようなかすれ声だった。
「橋だ……早く、橋を渡るんだ……止めるな……」 「渡りました!」
十騎長が、喉を裂いて叫んだ。 首筋に青筋を立て、唾を撒き散らしながら、俺の肩を揺さぶる。
「もう渡りきったんです! ハインツ様!」
「……あ?」
思考が、冷え切った油のようにひどく鈍くしか回らなかった。
渡った? 何を言っているんだ、こいつは。
俺はまだ、轅を握っている。まだ、足を前に出している。 まだ、息がこんなにも苦しい。
終わっているはずがないだろう。
「見てください!足元を!」
十騎長の腕に強く引かれ、俺の視線がおぼつかない足元へと落ちた。 石畳ではなかった。そこにあったのは、雑草の千切れた葉が混じる、黒く湿った泥土だった。俺の靴底は、確かにその柔らかな土を深く噛み締めていた。
俺は、軋む首を、恐る恐る後ろへと巡らせた。
十歩。 二十歩。 三十歩。 いや――遥か四十歩以上も手前の闇の中に。
あの古い石橋の、頑丈な親柱の影が取り残されていた。
馬車は。避難民たちは。視界に映る車列は、すでに橋を渡りきっていた。
対岸の狭隘な土手道へと、五十歩以上も雪崩れ込んでいた。ある者は泥の上に投げ出されるように倒れ伏し、ある者は車輪の横で胸を押さえて荒い息を吐き、ある者は互いの無事を確かめるように抱き合って震えている。誰も、もう歩いていなかった。皆、足を止めていた。
止まっていなかったのは。視界を失い、痛覚を失い、ただ気狂いのように轅にしがみついて荷車を引きずり続けていた――俺一人だけだった。
「……渡った、のか」
俺の指先から、するりと。あれほど固執していた轅の木肌が、力なく滑り落ちた。
その瞬間だった。張り詰めていたすべての糸が、一斉に弾け飛んだ。堰を切ったように、世界中の痛みが肉体へと逆流してくる。引き裂かれた右脚の肉に焼けた油を注ぎ込まれたような激痛。完全に焼き切れた肺胞が、呼吸のたびに針の山を擦り付けられるような苦悶。全身の筋肉が一斉に引き攣れ、制御を失った俺の膝が、泥の中へと音を立てて崩れ落ちた。
「男爵様!」「しっかりしてください!」
兵たちの手が、左右から俺の肩を抱え上げる。 だが、安堵の息を吐き出す暇すら、天は寄越さなかった。
――バキィンッ!
背後で、耳をつんざく破壊音が谷間に響き渡った。木材が裂け、鉄がひしゃげる、絶望的な音。
「な……ッ!?」
俺は泥を噛みながら、無理やりに首を後ろへ巡らせた。霞む視界の先。橋の、ちょうど真ん中だった。最後尾を走っていた荷馬車の太い樫の車軸が、耐えかねて真っ二つに爆ぜていた。
まだ……残っていた。
斜めに傾ぎ、石畳を削りながら座礁した一両目の荷台に、すぐ後ろを押していたもう一両が止まりきれずに側面から激突。車輪が根元からへし折れ、二両の巨体が折り重なるようにして、狭い橋の通路を完全に塞ぎ止めていた。
最悪なのは、車体だけが転がったのではないということだ。
「助けてッ!」「足が、足が抜けない!」「お母ちゃん!」
荷台から、女の悲鳴と子供の泣き叫ぶ声が爆ぜた。
歩けない重傷者。幼子を抱えた母親。骨の折れた老人。自力で走れない者を詰め込んでいた二両だった。
横倒しになった側板の下に足を挟まれた男が泥水を掻きむしり、傾いた荷台の縁から、いまにも谷底へ滑り落ちそうになっている子供の小さな手が宙を掻いている。そして――。 その残骸の向こう側に、闇を裂いて無数の赤い眼窩が追いついた。
「グルァッ!」
灰狼の先頭が、横倒しになった車輪の上へ前脚をかけた。血走った牙が、すぐ下に転がっている負傷者の肩へ向けて振り下ろされる。
「荷台に人がいるぞ!」「引きずり出せ!」「子供を先に取れ!」
橋の上に残っていた数人の村人と殿の騎士が、狂乱状態で残骸へ取り付いた。一人が手甲の拳で狼の鼻面を殴り飛ばし、もう一人が傾いた荷台へ飛び込んで子供の襟首を掴み上げる。だが、重傷を負った大人の体は、へし折れた木組みの隙間に深く挟まり込んでビクともしない。
「抜けない!軸が噛んでる!」 「板を叩き割れ!引きちぎれ!」 「来てるぞ!上から来る!」
小型の爬竜が、低く身をくねらせて折れた車軸の間から首を突っ込んできた。避難民の男が農具の鋤をその脳天へ突き立てるが、硬い鱗に弾かれて火花が散る。横から別の狼が飛びかかり、男の太腿に牙を食い込ませた。悲鳴。鮮血が石畳へぶちまけられる。
そのすぐ足元――橋のこちら側の袂では、工兵の生き残りと数人の術士が、青ざめた顔で敷石へ鑿を突き立てていた。
「男爵様!術式、いつでも起爆できます!」
工兵が、震える手で導魔線を握りしめながら、泥に塗れた俺へ叫び狂った。
「いま落とさなきゃ、連中が残骸を乗り越えて雪崩れ込んできます! 橋を落としますか!?」
「待てッ!」
十騎長が喉を破らんばかりに怒鳴り返す。
「まだ味方がいる! 子供も怪我人もあそこに取り残されてるんだぞ!」 「だが今やらなきゃ全員死ぬぞ!奴ら、馬車を足場にして跳んでくる!」
見れば、横倒しになった幌の骨組みの上に、二頭目の灰狼が跳び乗っていた。すぐ下には、側板に挟まれて動けない老人がいる。その向こうの闇からは、さらに数を増した影が、獲物の匂いに釣られて石橋へ殺到してくるのが見えた。
救助か。破壊か。
見捨てるのか。巻き込むのか。
「……あ、ぐ……ッ!」
俺は十騎長の手を力任せに振り払い、泥の中へ爪を立てて這い上がった。右脚が千切れそうな痛みを上げ、膝が悲鳴をあげる。 立ち上がれない。なら、四つん這いだ。泥を両手で掴み、橋へ向かって体を前へ引きずり出す。
「男爵様!」
「うるせえ!工兵、鑿を叩き続けろ!敷石の継ぎ目を全部抉り出せ、ギリギリまで術式を溜めとけ!」
喉から血を吹き散らしながら、橋の真ん中で立ち往生している全員へ向けて咆哮した。
「騎士!両手で引け!挟まってる奴の服を裂け!肉が削れようが構わん、骨ごと引っこ抜け!」
「男爵様、狼が――!」 「死に物狂いの村人を舐めるな!棒を持ってる奴は全員で喉を突け!荷台の樽を転がせ!奴らの足場を崩せ!」
俺の怒号に、半狂乱だった男たちの動きが変わった。一人の村人が、割れた酒樽を残骸の上から狼の顔面へ投げつける。怯んだ隙に、騎士が血まみれの腕で側板の隙間へ潜り込み、挟まれていた男の腰帯を力任せに引きちぎった。
「うおおおおおッ!」 「出た!引けッ!走れぇッ!」
子供を抱いた母親が、泥にまみれながら橋のこちら側へ転がり出てくる。太腿を噛まれた男を、別の男が肩に担ぎ上げ、足を引きずりながら石畳を蹴る。
だが、残骸の向こう側――敵のいる側に、まだ動けない負傷兵と、投げ出された子供二人が取り残されていた。 狭い橋の上、折り重なった二両の巨体が完全に退路を塞いでいる。そこへ、傷だらけの灰狼がさらに二頭、爪鹿が一頭、残骸の縁へ跳び乗った。
「受け取れぇぇぇッ!」
残骸の向こう側で、血まみれの騎士が剣を一閃させて狼の喉を裂き、片手で転がっていた子供の襟首を引っ掴んで叫んだ。 身体強化の青白い光が腕に爆ぜる。 騎士は、横倒しになった幌馬車の残骸越しに、子供をこちら側へ向けて力任せに放り投げた。
「きゃあっ!」
放物線を描いて飛んでくる小さな身体。
「うおおッ!」
こちら側にいた村人の男が、頭から泥炭の中へ滑り込み、胸で子供を抱き止めた。 泥を被り、擦り傷だらけだが、生きている。
「もう一人いくぞ!落とすなよ!」
二人目の子供が宙を舞う。別の男が受け止め、石畳の上を転がる。
だが、そこまでだった。残骸の隙間から、小型の爬竜が滑り込み、負傷兵の喉笛を食い破った。 屋根の上には三頭の灰狼が跳び乗り、赤く光る眼で残骸のこちら側を見下ろしている。 狭い橋の向こう側は、あっという間に魔獣の密集地帯へと化していた。もはや、残骸の向こう側にいる大人が、自力でこちらへ乗り越えて戻ってくる隙間など、どこにも残されていなかった。
「男爵様、もう駄目です!跳ばれます!」
工兵が悲鳴を上げる。狼の筋肉が縮み、こちら側へ跳躍する体勢に入る。
「落とせッ!」
残骸の向こうから、怒号が飛んできた。太腿から血を噴き出し、長剣を杖にして立った殿の騎士――ガリアンが、血の泡を吐きながら叫んでいた。
「落とせ、男爵様!早くしろ!」 「馬鹿野郎、お前を置いていけるか!」
俺は喉が千切れるほど叫び返した。
「誰も格好よく死ぬなと言ったはずだ! 戻ってこい!」 「死ぬ気なんざ毛頭ねえよ!」
ガリアンが吠えた。その手は、転がっていた仲間の歩兵長槍――二間半はある分厚いトネリコの長槍を、泥の中から力任せに引き抜いていた。
「俺はまだ酒のツケを払ってねえ!誰がくたばるかよッ!」
馬車の屋根から灰狼が跳びかかってくる。ガリアンは振り返りもせず、片手で抜いた短剣をその喉笛へ突き刺した。だが、後ろの闇からは、さらに数頭の影が石畳を蹴って迫っている。残骸を迂回して走って戻る道など、どこにもない。
「落とせ!爆風を寄越せッ!」 「……な、何を――」 「落とせぇぇぇッ!」
ガリアンの狂気に満ちた咆哮。
その意図を悟った瞬間、俺の全身の毛穴が逆立った。
「全員、伏せろ!」
俺は工兵の襟首を掴み、導魔石へその拳ごと叩きつけた。
「落とせぇぇぇぇぇッ!」
青白い魔光が、石橋の継ぎ目という継ぎ目から噴き上がった。 雷鳴のような轟音。支柱が砕け、石畳の中央に巨大な亀裂が走り、谷底へ向けて橋の腹がへし折れる。
「弓を持て!」
俺は泥を噛みながら、対岸の村人たちへ向けて怒鳴り散らしていた。
「狩人、弓を引け!術士、ありったけの風を撃て!ガリアンの周りの獣を全部吹き飛ばせッ!」
残っていた村の狩人たちが、震える手で弓を引き絞った。風の魔法が、突風となって砕け散る橋の上を薙ぎ払う。矢が雨のように降り注ぎ、ガリアンの背中に跳びかかろうとしていた灰狼の目を射貫き、爬竜の鼻先を弾いた。
その乱戦の火花の中を、ガリアンが疾走した。
崩れ落ちていく石畳。足元が斜めに傾ぎ、谷底の暗黒へ向かって滑落していく中、ガリアンは両足に魔力を注ぎ込んだ。
青白い術式光が、彼の両脚の皮膚を破らんばかりに明滅する。
踏み切り。傾斜した石の角を蹴り、手にした長槍の石突を、崩落しかけた馬車の鉄輪の隙間へ深々と突き立てた。
トネリコの頑丈な柄が、極限までしなる。軋み、今にも爆ぜそうなほどの弓なり。
「うおおおおおおおおッ!」
ガリアンの咆哮と共に、しなり切った長槍が跳ね上がった。棒高跳びの要領で、男の巨躯がふわりと宙へ打ち上げられる。
背後で、石橋の中央が轟音を立てて崩壊し、群がっていた魔獣たち諸共、黒々と口を開けた谷底へと呑み込まれていく。その爆風と粉塵を背に受けて、血まみれの騎士が、夜空を横切るようにこちら側へと飛来した。
だが――足りない。
重い鉄甲を纏った身体だ。対岸の縁まで、あと三歩。
勢いを失った身体が、重力に引かれて放物線の頂点を過ぎ、谷底の虚無へと落ち始める。
「ガリアンッ!」
考える暇などなかった。折れているはずの右脚に体重を乗せ、俺は泥炭を蹴った。
激痛で脳の奥が真っ白に弾け飛んだが、そんなものは知ったことか。
前へ。
地面を滑るように跳ね、俺は断崖の縁から、両手を闇の中へ突き出した。
「手を伸ばせぇぇぇッ!」
横から、十騎長が、村人の男たちが、泥に頭から突っ込みながら同じように手を伸ばす。
虚空の中で、ガリアンの血に塗れた手が、必死に宙を掻いた。
ガチリッ。
鋼と鋼が、皮膚と皮膚が、火花を散らすような音を立てて噛み合った。
俺の左手がガリアンの手首を掴み、十騎長の太い手がガリアンの鉄甲の縁を鷲掴みにした。凄まじい落下の衝撃が、俺の肩関節を引きちぎらんばかりに引き絞る。
「ぐ、あぁぁぁッ!」
骨が軋み、喉から鮮血が噴き出た。前のめりに谷へ引きずり落とされかける。
だが、俺の腰と両足を、後ろから飛び込んできた村人たちが力任せに抱え込んでいた。
「引け!」 「離すな!」 「引けぇぇぇッ!」
崖の縁に胸を打ち付けながら、俺は必死に下を見下ろした。谷底の暗闇にぶら下がりながら、ガリアンが血と泥にまみれた顔を上げていた。腕の筋肉が千切れそうなほどの重み。
だが、確かに繋がっている。
落ちていない。
「……男爵、様……!」
ガリアンの唇が、暗闇の中で小さく歪んだ。
喉から血の泡を吐き出しながら、男は痛みに顔を引きつらせ、それでも勝ち誇ったように笑った。
「言った、でしょうが……。俺は、格好よく死ぬ気なんざ……毛頭ねえって……」
「……当たり前だ、大馬鹿者」
俺の奥歯から血が滲む。腕の腱が引きちぎれそうな激痛の中、喉を絞って笑い返した。
「酒のツケは……銅貨一枚まけさせんぞ。戻ったら、貴様が全員に一杯ずつ奢れ」
「へっ……。高くつく、救助料だ……」
ガリアンの右手が泥を掻き、崖の縁を力任せに掴んだ。
あと一引き。あと半歩。
二人で泥に塗れて笑い転げる未来が、確かにそこにあった。
――届いた。
そう、確信した、その刹那だった。
頭上の大気が、爆ぜた。
風ではない。突風どころではない、巨大な質量が空気を切り裂く、重い羽ばたきの轟音。
「――え?」
誰の声だったのかも分からない。
谷の暗がりから、音もなく滑空してきた巨大な影が、夜の闇を塗りつぶした。
黒い嘴。膜を張った巨大な皮翼。狂乱と飢餓で濁りきった、血走った黄色い眼球。木々を薙ぎ倒して空へ逃げ出していた、中型の有翼竜――飛竜だった。
影が、視界を横切った。
それだけだった。咆哮も、威嚇もなかった。
ただ通り魔のように、空を切り裂いて滑り落ちてきた巨大な顎が、崖の縁にぶら下がっていたガリアンの胴体を、背後から丸呑みにするように挟み込んだ。
ゴキィッ、と。
人間の胴骨が、甲冑ごと一瞬で粉砕される鈍い破壊音。
「ガ――」
俺の叫びすら、形にならなかった。
凄まじい牽引力。馬車数台分を一度に引っ張られたような途方もない衝撃が、俺の腕を、肩を、引きちぎらんばかりに襲った。崖の上の全員が、悲鳴を上げて前へ引きずり倒される。
ブツンッ。
肉と腱が引き裂かれ、皮鎧の革帯が弾け飛ぶ、生々しい破断音。
瞬間――腕にかかっていたすべての重みが、嘘のように消え失せた。
「あ……」
飛竜の巨大な影は、ガリアンの身体を口に咥えたまま、一度も羽ばたくことなく谷底の暗黒へと急降下していった。 断崖の底から、骨が砕かれる音と、くぐもった肉の擦れる音だけが、遅れて風に乗って這い上がってくる。
後ろから、何十本もの手が伸びていた。
反動で谷へ落ちかけた俺の腰を、足を、鎧の縁を、村人たちが死に物狂いで掴み、泥の中をずるずると後方へ引きずり戻す。石の角に膝をぶつけ、泥水を浴びせられても、抵抗する力すら湧かなかった。
人形のように引き倒され、泥土の上に放り出される。
静寂。
誰も、声を出せなかった。
弓を構えていた狩人も、杖を握っていた術士も、俺を引き戻した男たちも、全員が息を呑んで凍りついていた。
俺は。
泥濘の上に這いつくばったまま、動けなかった。
自分の両手を、見つめる。
右腕の感覚はない。左手の指先は、まだ何かの重みを、信じられないほどの力で握りしめたまま硬直していた。
そこに……あった。
引きちぎられた、鉄甲の籠手。
その内側に残された、肘から先だけの――まだ生温かい、血を滴らせる肉と骨の塊。
俺の手は、確かにそれを離していなかった。
爪が食い込むほど、骨が砕けるほど、絶対に離すまいと握りしめ続けていた。
それだけが……掌の中に、残されていた。
「……あ」
喉の奥から、乾いた呼気しか漏れなかった。
「……ああ……」
助けたはずだった。手を伸ばしたはずだった。あいつは……笑ったはずだった。
なのに……手の中に残っているのは、これだけだ。
「あああああッ……!ああああああああああああああああッ!」
雨の混じり始めた夜の断崖に、ハインツの、人とも獣ともつかない絶叫が木霊した。泥の中に額を打ち付け、千切れた肉の塊を胸に抱きしめながら、男爵はただ狂ったように慟哭し続けた。
背後で、崩落した橋の向こうから、取り残された獣たちの遠吠えが雨音を切り裂いていた。