《追憶》 Ⅳ 小さく、大きな
橋を落としたというのに……終わらなかった。
雨の向こう、狭隘な街道の先で、低い唸り声が響いた。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
折れた槍を杖代わりに立っていた騎士が、青ざめた顔で闇を凝視している。
「……裂爪竜だ」
その呟きと同時に、岩陰からぬるりと、巨大な影が這い出してきた。
全長は二馬身を優に越える。
腹を擦るほど低くはない。太く発達した四肢が、長大な胴体を地面から高く持ち上げている。
濡れた灰褐色の鱗。
その一枚一枚が細かな棘のように逆立ち、雨粒を弾くたび、ざらついた体表が鈍く光った。
前肢には湾曲した鉤爪。
口元には、肉を引き裂くために後方へ反った無数の牙。
そして長い尾の両側には、刃物のように硬質化した鱗が鋸歯状に並んでいた。
尾が一度、地面を薙いだ。
びしゃり、と泥水が爆ぜる。
それだけで、街道脇に転がっていた木箱が真横から叩き割られた。
誰も、声を出せなかった。
もう戦える騎士は何人残っているのか。
槍は何本あるのか。
術士は。狩人は。立てる大人は。
頭の中で数えようとして、誰もが数えることをやめた。
意味がなかった。
勝てない。そんなことは、見れば分かった。
裂爪竜の右脇腹には、えぐられたような深い咬み傷があった。
左目は潰れ、尾の刃鱗も何枚か根元から折れて血が滴っている。
手負いだ。誰かに酷く傷つけられている。
それでも。
今ここにいる全員を合わせても、まるで敵わない化け物だった。
竜が頭を下げた。
残った片目が、避難民の群れを品定めするように舐めていく。
幼子。老人。怪我人。逃げられない人間たち。
その視線が、ゆっくりと一つの場所で止まった。
リディアだった。
「……ひっ」
隣で、小さな悲鳴が漏れた。
握り合っていた指先が、びくびくと震えだす。
つめたい。
ぼくの手なのか、リディアの手なのか分からないほど、お互いの指先は氷のように冷え切っていた。
怖い。
逃げ出したい。
だけど足が泥に張り付いたみたいに動かない。喉も張りついて声が出ない。
どう考えたって、ぼくみたいな子供がどうにかできる相手じゃない。
それでも。
『俺の代わりに、お前が護れ』
あの声が、頭の中に蘇った。
『絶対に手を離すな』
ぼくは、握りしめているリディアの手を見た。
小さい。
ぼくの手よりもずっと小さくて、小鳥みたいに震えている。
だから。
離さなかった。
震える足を、もつれそうになりながら、一歩だけ前へ出した。
「ゼファー……?」
リディアがぼくの名を呼んだ。
ぼくは答えなかった。口を開けば、情けなく泣き叫んでしまいそうだったからだ。
やくそく……したんだ……。ぼくが………まもるって。みんなが……戦った。今度は……。
長さはぼくの背丈ほどしかない。先っぽもない、ただの折れた木の棒だ。
武器と呼ぶには、あまりにも頼りない。
両手で握り直そうとして──やめた。
左手は、リディアと繋いだままにした。
竜が一歩、こちらへ近づいた。
ずしり、と足元の泥が沈む。
ぼくの膝が、情けないくらい震えてる。
「……う」
声が出ない。
胸の奥に冷たい息が引っかかって、呼吸ができない。
怖い。
怖い……。
怖いよ……!
それでも。
あの時、黒鉄狼族の戦士たちはどうしていただろう。
絶対に死ぬと分かっていて。それでも北へ走っていったおとなたちは。
冷たい雨ごと息を吸い込んだ。
「う……お……」
掠れた、情けない声。
竜が、何事かと首を傾げる。
「うおおおおッ!」
ぼくはありったけの声を張り上げた。
雨の谷間へ飛び出したのは、迫力のかけらもない、甲高いだけの悲鳴だった。
声は途中で裏返り、息も続かない。最後にはほとんど悲鳴になった。
それでも、黒鉄狼族がしていたように拳を胸へ叩きつけた。
ぱん、と。
濡れた服の上から、比べられないほど軽い音が鳴った。
「ばんッ!」
静寂が落ちた。
竜は止まらない。
騎士たちも、村人たちも、誰もが呆然として、何が起きたのか分からない顔をしていた。
その中で。
「……違ぇよ、坊主」
泥の中に座り込んでいた御者が、ぽつりと言った。
片腕を布で吊り、顔半分を血で汚した男だった。
ゼファーが振り返る。
御者は、ひどく疲れた顔で笑った。
「そいつぁ、もっと腹から出すんだ」
ふらつきながら立ち上がり、拳を胸へ叩きつけた。
ドンッ。
「ウロォォォォォォ──ッ!」
低い声が、雨を震わせた。
「ヴァンッ!」
もう一人。
槍を折られた村人が立ち上がった。
「ウロォォォォ──ッ!」
「ヴァンッ!」
騎士が。狩人が。老人が。負傷した兵が。
一人。また一人と立ち上がる。
「ウロォォォォォ──ッ!」
「ヴァンッ!」
声が重なり始めた。
最初はばらばらだった。発音も、呼吸も、間合いも。
黒鉄狼族が聞けば吹き出すような、下手くそな戦吼だった。
だが、数が増えていく。
「ウロォォォォォォォォ──ッ!」
「ヴァンッ!」
谷が震え、降りしきる雨粒が揺れた。
裂爪竜の残った片目が、初めて細められた。
勝てるなんて、誰も思っちゃいない。
そんな奇跡、誰も信じていない。
それでも。
もう誰も後ろへ下がらなかった。
折れた槍を構える者。石を拾う者。弓へ最後の一本を番える者。
鍬を握る者。短剣一本だけを逆手に持つ騎士。
全員が。
子供たちの前へ立った。
「もう一度だ!」
誰かが叫んだ。
ゼファーは涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
息を吸う。
今度は。
腹の底から。
「ウロォォォォォォォォ──ッ!」
大人たちが続く。
「「ウロォォォォォォォォォォ──ッ!」」
そして。
「「ヴァンッ!」」
大地が鳴った。
その瞬間だった。遥か後方。
崩落した街道と森の闇、そのさらに向こうから。
低く。
重く。
人間の肺腑では到底生み出せない、獣の咆哮が返ってきた。
『──ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──……!!』
空気が震えた。
全員が振り返る。裂爪竜すら、反射的に首を巡らせた。
雨煙の向こう。街道の闇の中に。一つの影が立っていた。
片腕がない。左脇腹からは血が流れ続けている。片脚を引きずり。灰黒色の毛並みは泥と血で固まり。全身に、数え切れない裂傷を刻まれている。
それでも。
金色の双眸だけは……何一つ死んでいなかった。
「……母、上……?」
荷台の上で、いつの間にか意識を取り戻していたイブリンの唇から、震える声が漏れた。
シグルダは答えない。
ただ。遠くに立つゼファーを見た。
少年の胸。握られた幼女の手。折れた槍。
そして……下手くそな戦吼。
シグルダの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「……なんだ」
血に濡れた牙が覗く。
「その腑抜けた吼え方は」
ゼファーが目を見開く。
シグルダは、残った片腕の拳を、自らの胸へと叩きつけた。
ドンッ!
その一撃だけで、彼らが何十人と重ねた音よりも、深く。
大地が震えた。
「よく聞け」
片腕の黒鉄狼が。裂爪竜へ牙を剥いた。
「戦吼ってのはな」
足を引きずりながら。
一歩。
また一歩。
人間たちの輪の中へ入ってくる。
「こうやるんだ」
そして……本物が吼えた。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ヴァァァァンッ!!』
一拍遅れて。
ゼファーが。騎士が。農夫が。狩人が。
生き残った全員が、吼え返した。
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォ──ッ!!」」
「「ヴァンッ!!」」
裂爪竜が初めて。
一歩だけ。
後ろへ退いた。
・・・・・
・・・
裂爪竜が初めて。
一歩だけ、後ろへ退いた。
誰も動かなかった。
いや。
動けなかった。
その一歩が、あまりにも信じ難かったからだ。
人間たちの前に立つシグルダもまた、追わない。
残った片腕を下ろさず。牙を剥いたまま。
金色の双眸で、裂爪竜の片目を真正面から睨み返していた。
雨が降る。
裂爪竜の喉の奥から、低い唸り声が這い出した。
「グルルルルルル……」
腹の底へ響く。
人間ならば、それだけで腰を抜かしてもおかしくない声だった。
実際。
ゼファーの膝は震えていた。
手にした折れ槍の柄も、かたかたと小刻みに鳴っている。
それでも……左手だけは。
リディアから離さない。
シグルダの耳が動いた。
「坊主」
「……え?」
「さっきよりはマシだ」
ゼファーが目を見開く。
「だが」
シグルダは一歩、前へ出た。
血で濡れた爪先が、泥を深く踏み抜く。
裂爪竜の首が、僅かに持ち上がった。
「声は一つじゃねぇ。……二つで一歩だ」
残った拳を。
胸へ。
叩きつける。
ドンッ。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ヴァァァァンッ!!』
泥水が爆ぜる。
大地に爪を食い込ませ、その場に重心を縫い止めた。
「これで据える」
シグルダは息を継がず、もう片方の脚を前へ滑らせた。
喉の奥を裂くような、鋭い呼気。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ラァァァァイッ!!』
前へ、半歩。
切っ先のように牙が突き出される。
「これで出る」
シグルダは裂爪竜から目を逸らさない。
「ヴァンで腹を括り、ライで間合いを盗るんだ。……ついてこれるか」
ゼファーが唾を呑み込んだ。
左手でリディアの手を握り直し、右手の折れ槍を構える。
「……うん!」
シグルダの拳が、再び胸を打った。
ドンッ。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ヴァァァァンッ!!』
ゼファーの足が、泥を踏み砕く。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「ヴァンッ!!」
騎士が。農夫が。負傷兵が。
泥を蹴り、その場に仁王立つ。
逃げ腰だった全員の足が、地面に突き刺さる。
裂爪竜が頭を低くした。
前肢の鉤爪が石を掻く。
飛びかかろうと、背骨が撓んだ。
その瞬間。
シグルダが、前へ出た。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ラァァァァイッ!!』
ゼファーが。
折れた槍の切っ先を突き出し、泥を蹴って前へ出た。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「ラァァァァイッ!!」
人間たちが。
半歩、前へ雪崩れ込む。
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」」
「「ラァァァァイッ!!」」
裂爪竜の残った片目が、見開かれた。
飛びかかろうとした前肢が、思わず止まる。
退かない。
それどころか、間合いを詰めてくる。
シグルダの拳が鳴る。
ドンッ。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ヴァァァァンッ!!』
人間たちが一斉に足を止める。
「ヴァンッ!!」
大地が揺れる。
壁になる。
そして、息を吸う間もなく。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
「ラァァァァイッ!!」
前へ。
「ラァァァァイッ!!」
刃先が突き出される。石が掲げられる。折れた槍が。欠けた剣が。拳が。
裂爪竜が。
また。
一歩退いた。
誰かに命じられたわけではない。
だが。
揃っていた。
ヴァンで耐え、ライで喰らいつく。
受けて、出る。
折れた槍を持つ者。
石を握る者。
空になった弓を構える者。
鍬を握る者。
子供の手を引く少年。
全員が、同じ呼吸で足を踏み出していた。
ドンッ。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「ヴァァァァンッ!!」
止まる。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「ラァァァァイッ!!」
出る。
じり、と人間が詰める。
ずし、と裂爪竜が下がる。
四歩目。
シグルダの右脚が、がくりと沈んだ。
「母上!」
荷台から声が飛ぶ。
イブリンだった。
シグルダの耳が、僅かに伏せられた。
だが。
振り返らない。
泥に膝をつきかけた脚を、力づくで引き戻す。
胸を打つ。
ドンッ。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!』
『ヴァァァァンッ!!』
踏み直した。
立ってみせた。
そして、血を吐き出しながら、もう一歩を前へ叩きつける。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」
「ラァァァァイッ!!」
「ラァァァァイッ!!」
人間たちの声が重なる。
裂爪竜の尾の刃鱗が泥を掻いた。
鋭い牙の隙間から、荒い白煙が漏れる。
襲ってこない。
いや。
襲えない。
目の前にいるのは、逃げ惑う獲物ではなかった。
一歩ごとに足を踏み固め、次の瞬間には確実に間合いを奪いにくる、巨大な一つの生き物だった。
五歩。
六歩。
七歩。
誰一人として、勝てるなどとは思っていない。
もしあの巨体が一度でも飛び込んでくれば、先頭から十人は一息に肉塊へ変えられる。
分かっている。
だからこそ、呼吸を乱さない。
ここで一人が足を止めれば、そこから食い破られる。
ドンッ。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」
「ヴァァァァンッ!!」
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」
「ラァァァァイッ!!」
裂爪竜が、首を振った。
唸る。
吼える。
「グルァァァァァァァァッ!!」
大気が爆ぜるような咆哮。
何人かの膝が、恐怖で軋んだ。
だが。
その咆哮を切り裂くように、シグルダの拳が胸を叩いた。
ドンッ。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ……!!』
『ヴァァァンッ!!』
揺るがない。
一歩も引かない。
そして。
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」」
「「ラァァァァイッ!!」」
ゼファーが、大人たちが、雨を突き破って吼え返した。
裂爪竜の残った片目が、細くなる。
人間たちを見る。
傷ついた自らの脇腹を見る。
崩落した橋を見る。
そして。
もう一度、シグルダを見る。
片腕。
裂けた腹。
全身から血を流し、今にも倒れそうな身体。
それなのに、規則正しく、確実にこちらへ歩を進めてくる。
理解できない。
獣にとって、それはひどく不気味で、割に合わない獲物だった。
裂爪竜が、ゆっくりと右へ身体を向けた。
誰も吼えるのを止めない。
『ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォッ…!!』
『ヴァァァンッ!!』
尾が一度、泥を薙ぐ。
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」」
「「ラァァァァイッ!!」」
前へ出る。
裂爪竜は、飛びかかってこなかった。
岩壁沿いへ、一歩、二歩と進路を逸らす。
そして、何度もこちらを振り返りながら、暗い谷道の奥へ去っていった。
誰も追わなかった。
誰も歓声を上げなかった。
ただ、遠ざかる影へ向けて、交互に足を踏み鳴らし続けていた。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォッ…!!」
「ヴァァンッ!!」
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ──…!!」」
「「ラァァァァイッ!!」」
やがて。
裂爪竜の姿が、完全に雨の向こうへ消えた。
それでも、しばらく誰も止められなかった。
そして……最後の、最後。
シグルダが、胸へ拳を当てた。
もう、叩く力は残っていなかった。
こつ、と。
湿った革が触れ合うような、小さな音がした。
「ウロ……ォ……」
声が、途中で途切れる。
「ヴァ……」
最後まで、言い切れなかった。
身体が、傾く。
「母上ッ!」
イブリンの叫び。
シグルダは、初めて娘の方を見た。
金色の瞳が、ほんの僅かに、柔らかく細められる。
口元が動いた。声にはならない。
だが、確かに笑った。
次の瞬間。
膝から、崩れた。
・・・・・
・・・
母の咆哮が、雨を裂いた。
「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!」
「ヴァァンッ!!」
その声へ応えるように、少年が、騎士が、農夫が、傷だらけの大人たちが吼え返す。
「「ウロォォォォォォォォォォォォォォォォ──……ッ!!」」
「「ヴァァァァンッ!!」」
裂爪竜が、退いた。
あの怪物が。北の森の頂点にいたはずの竜が、人間を前にして退いたのだ。
だが、私の視界が捉えたのは、その勝利ではなかった。
母上の膝が、折れた。
「……母上?」
私の喉から、掠れた声が落ちた。
まだ頭の奥がずきずきと痛む。後頭部を殴り倒された時の衝撃で、視界の端が白く濁っている。
それでも、見間違えるはずがなかった。
片腕を失い、腹から血を流し、片脚を引きずって。
泥と血にまみれた、あの灰黒色の毛並み。
「……母上?」
もう一度呼んだ。
母の耳が、ごく僅かに動いたように見えた。
振り返ろうとしたのかもしれない。
だが、その身体はそのまま、何の抵抗もなく泥の中へ崩れ落ちた。
「母上ッ!」
私は荷台から飛び降りていた。
着地の衝撃で、父に打たれた首筋が焼けるように痛む。まだ頭の奥が痺れていた。戦うことも許されず、首を折られるように意識を奪われ、荷物みたいに馬車へ放り込まれた――その情けなさと屈辱が、頭蓋の裏で泥炭みたいに渦巻いていた。
足がもつれ、泥に手をつく。膝の皮が剥けようが構わず這い上がった。
走った。
「母上!母上ッ!」
泥の中に倒れ伏す身体へ縋りつき、抱き起こす。
──軽い。
嘘みたいに軽かった。
幼い頃、私を片腕でひょいと抱き上げてくれたあの広い背中が。
父と並んで赤岩熊を仕留め、森の誰よりも速く、誰よりも誇り高く駆け抜けていたはずの身体が。
骨と皮ばかりのように頼りなく、冷たい雨を吸い込んでいた。
血の匂いに混ざって、母の毛並みの匂いが雨水に流されて消えていく。
「母上……?起きろよ。起きてくれ」
冷え切った頬を叩く。泥を拭う。
いくら揺すっても、琥珀色の瞳は開かない。
父は北へ走った。一人で、あの津波の前に立ち塞がって散った。帰ってこないことなんて、最初から分かっていた。
「母上……父上が待ってるんだろ」
口にして、喉の奥が引き裂かれそうになった。
父は待っていない。
父は北へ走った。一人で、あの軍勢の前に立ち塞がるために走った。
帰ってこないことなんて、最初から分かっていた。
父も、母も。
部族の戦士たちも、全員。
――なのに、なんで私だけが。
喉の奥が引き裂かれそうだった。
戦士だと言い張ったくせに。父に子ども扱いされて首を叩かれ、安全な荷台の上で気絶していた。何も背負わず、何も守らず、ただ親の命をすり潰して生き延びた。その事実が、内臓を素手で握り潰されるみたいに苦しい。
その時、私の視界の端に、泥の中に座り込んでいる男が映った。
右脚を血で染め、顔を土気色にしたヒュームの男。
ハインツ・フォン・ローゼンシュタイン。
――生きている。
父が命を捨てて道を譲り、母が最後の血を絞って守り抜いた先で、当たり前のように息をしている男。
耳が怒りで後ろへ倒れ、口の奥から制御の利かない唸り声が漏れた。
「……お前」
母の身体を、そっと泥の上に寝かせた。
足元がふらつく。だが、金色の瞳の焦点は、あの男の喉首から微動だにしなかった。
泥を踏み抜くたび、爪が食い込む。
一歩。また一歩と、泥を踏みしめて近づく。
「イブリン殿……」
男の脇にいた年嵩の騎士が割って入ろうとした。
「黙れ」
喉の底から絞り出した威嚇に、騎士が息を呑んで圧された。
私はハインツの目の前に立ち、見下ろした。
男の上着は無残に裂けていた。
泥と血にまみれた布の隙間、その背中に走るいくつもの傷が見えた。
頭の中で、張りつめていた何かが音を立てて千切れた。
「……背中の傷だ」
私の声が震えた。
「逃げ傷だ……!」
黒鉄狼の戦士は、背中に傷を負わない。
敵に背を向けて走った者だけが、追撃の刃をその背に刻まれる。森で生きる者にとって、それはもっとも忌むべき、恥辱の証だ。
「父上は、背中なんて見せなかった!」
一歩、踏み込む。牙が剥き出しになる。
「父上は前を向いて走った!母上だって、前を睨んで、最後まで吼えて死んだ!」
ハインツの唇が僅かに動いた。だが、声は出ない。
「村の人間も!騎士も!みんな前を向いて残った!なのに……!」
私の両手が、男の濡れた胸倉を掴み上げていた。
「なんでお前の背中に傷があるんだよ!」
力任せに引きずり上げる。男の身体が重い。死人のように冷え切っている。
十騎長の息を呑む気配も、冷たい雨の音も、もう何一つ耳に入らなかった。
「逃げたんだろ!」
叫ぶ私の口から、涙と唾が飛び散った。
「後ろを向いて走ったから、背中を切られたんだ!臆病者!恥さらし!父上たちを盾にして、自分だけ背中を丸めて逃げ出したんだろ!」
父の死に場所を、母の最後の咆哮を、こんな無様な男の命なんかと引き換えにされたと思いたくなかった。
こいつが誇りある戦士で、命を賭けるに値する男だったなんて、絶対に認めたくなかった。もしそうなら――あんな情けなく気絶させられて生き残った私の存在は、一体何になる。
「言え!父上は!」
拳を握りしめ、ハインツの頬を力任せに殴りつけた。
骨の軋む鈍い音がして、男の顔が横へ跳ねる。
十騎長が腰の剣に手をかけたのが視界に入った。
だが、ハインツの震える左手が、僅かに持ち上がった。
──手を出すな。
その無言の制止が、余計に私の神経を逆撫でした。
「母上は!」
もう一発、反対の頬を殴りつける。
拳の皮が裂け、男の唇から飛び散った血が私の指を濡らした。
「村のみんなも!」
三発目。
「残った兵たちも!」
四発目。
「みんな、前を向いて死んだのに!」
五発目を振り上げた腕が、空中で止まった。
肩が激しく波打ち、喉がひゅうひゅうと鳴る。
殴っても、殴っても、殴り返してこない。
言い訳の一つも喚かない。
伝わってくるのは、骨の硬さと、殴るたびにぐらりと揺れる冷え切った肉の重みだけだ。
「……みんな」
声が、掠れてひび割れた。
「みんな死んだのに……」
ハインツは、ただ私を見ていた。
前髪から雨を滴らせ、腫れ上がった頬から血を流しながら、その痛ましいほど静かな瞳で、私から一度も視線を逸らさなかった。
掴んでいた胸倉から、ずるりと指の力が抜けていく。
「どうして……お前だけが生きてるんだよ」
言い訳をしてほしかった。
足が潰れていたとか、意識を失っていたとか、命令だったとか、貴族らしく汚い嘘を吐いて喚き散らしてほしかった。そうすれば、こいつをただの卑怯者として軽蔑して、殺して、終わりにできたのに。
それなのに、男は何も言わない。
私の理不尽な怒りも、行き場を失った八つ当たりも、全部そのまま呑み込んで座り込んでいる。
「……何とか言えよ……」
雨が、私たちの間に降り注ぐ。
「貴族なんだろ。偉いんだろ。誰かを身代わりにして……命令したんだろ」
泥の中に落ちたハインツの拳が、ぎしり、と白くなるほど握りしめられるのが見えた。
「……言えよ!」
私は最後の力を振り絞って、男の胸板を叩いた。
だが、もう拳を握る力すら残っていなかった。
ただ私の震える手が、冷たい鉄の鎧に縋りついているだけだった。
額を男の胸元に押し当てると、雨と涙が止めどなく零れ落ちた。
その冷え切った頭の上から、酷く掠れた声が降ってきた。
「……ああ」
泥を呑み込んだような、低い呟きだった。
私が顔を上げると、ハインツの目が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
逃げも隠れもしない、痛ましいほど澄んだ瞳だった。
「……最後まで」
男の喉が、血の泡を噛み潰すように小さく鳴った。
「最後まで……前を向いて、戦っていた」