《追憶》 Ⅴ 紡がれし証
イーライたちが命で買った半刻は、逃げ切るための時間ではなかった。
次に死ぬ者を選ぶための時間に過ぎなかった。
馬が潰れれば、その場で終わる。
荷台の泥にまみれた藁の上で、娘はまだ目を覚ましていなかった。族長から浴びせられた容赦のない一撃により、意識の奥底へ沈められたまま、軋む車輪の振動にただ人形のように揺られている。
その傍らで、一人の黒鉄狼族の女が静かに立ち上がった。
名をシグルダという。
イブリンの母であり、北の闇の中へと消えていった族長が、背中を預け続けた妻だった。
夫と同じ、鋼の冷たさを帯びた灰黒色の剛毛。引き絞られた左肩には古い牙の痕が走り、右の脇腹にはかつて赤岩熊に抉られた肉が白いケロイドとなって引き攣れている。腹を痛めて子を産み落とす遥か以前から北嶺の凍土を駆け抜け、娘が自らの背丈ほどもある長剣を握れるようになってからも、常に最前線の狩り場で血を浴びてきた女だった。
シグルダは荷台の縁へ、泥に汚れた足爪をかけた。
北を睨む。
鼻孔をかすかに開き、冷えた風を深く吸い込んだ。
血の生臭さ。湿った腐葉土。獣脂と糞尿の混じり合った、恐怖によって極限まで濃縮された魔獣どもの体臭。そして、大地を震わせながら地を這い寄る無数の蹄と爪の響き。
耳をわずかに傾けるだけで、奔流の速度、総量、隊列の乱れが、測量針で刻むように頭の中で組み上がっていく。夫が自らの命を投げ打って残した防壁の空白。人間たちが逃走の果てに街道へ押し固めてしまった歪み。そのすべてを測り直す。
まだ足りない。
あの津波のような魔獣の群れを、完全に押し留めることなど最初から不可能だ。神でもない限り、そんな力はどこにもない。
だが、流れを変えることならできる。
シグルダの瞳が、街道の西側へと向けられた。
山肌を強引に削り取って切り開かれた、街道の中でも最も狭隘な区間。片側は切り立った断崖の斜面であり、反対側は底の見えない暗い谷が口を開けている。数日前から水を含んで緩みきった泥炭が際限なく吸い込み、崖の中腹では根の浅い針葉樹が何本も自重に耐えかねて傾いでいた。
地滑りの前兆だった。すでに土壌は限界まで弛緩し、あとほんの僅かな質量と衝撃が加われば、いつでも自重ごと滑り落ちる。
シグルダは視線を落とし、横たわる娘を見た。
イブリン。
輪郭にはまだ幼さが抜けきらず、眉根には父と同じ不器用な意地が残っている。その冷え切った額へ、硬い角質と古傷に覆われた掌をそっと落とした。
一度だけ、乱れた黒髪を無骨に撫でる。
「……愚かな娘だ」
絞り出すような低い呟き。
「父親の悪癖ばかり似おって」
吐き捨てながらも、引き結ばれた口元には乾いた笑みが微かに浮かんだ。
その気配を察し、御者台の手綱を握り締めていたハインツが肩越しに振り返った。
「待て」
シグルダの足首が荷台の縁を踏みしめる。
「何をする気だ」
「道を閉じる」
「閉じるだと?」
シグルダは言葉を重ねず、ただ西側の傾いだ崖を顎で示した。
ハインツの視線が追う。雨水が滝のように走る山肌、ひび割れた斜面、今にも抜け落ちそうな巨木の根。
そして、その意味を瞬時に悟った。
「……崖を落とす気か」
「そうだ」
「正気か。一人でどうやってあの斜面を崩す。工兵の爆裂球すら持ち合わせていないのだぞ」
「あいつらに落とさせる」
短く告げられた言葉に、ハインツの頬が凍りついた。
シグルダはそれ以上の問答を切り捨てるように、荷台の縁に両足で立った。風がその灰黒色の毛並みを激しく波打たせる。
「……戻れるのか」
絞り出すようなハインツの問いに、ほんの一拍の間が落ちた。
「戻る」
欺瞞ではなかった。生きて戻る意志そのものは、刃の切っ先のように鋭く研ぎ澄まされていた。ただそれだけのことだった。
「貴族」
「……何だ」
「あの子を頼む」
「やめろ、貴族などと。そのような言い方は――」
シグルダは二度と答えなかった。
「待ちなせえ!」
荷台の暗がりから、ひび割れた濁った声が上がった。
ローデン村の自警団の札を腰に下げた一人の男が、筵を蹴立てて立ち上がっていた。
歳は三十を少し越えたばかり。騎士の血筋でもなければ、武勲を挙げた傭兵でもない。春には凍った畑を鍬で掘り返し、冬には凍傷に爪を剥がしながら罠を仕掛け、村の丸太柵が腐れば手斧で杭を削り直す。どこにでも泥を啜って生きている、ただのヒュームの百姓だった。
手には、穂先を何度も研ぎ減らした狩猟用の古槍。もう片方の手には、先端に親指ほどの小さな魔晶石を麻紐でくくりつけた、傷だらけの樫の杖が握られていた。
「あなた……?」
荷台の隅で身を縮めていた妻が、すがるような声を漏らした。
その細い腕の中には、まだ五つにも届かない幼い娘が抱えられている。リディア。冷え切った空気に震えるその小さな手を、十一、二歳になる少年が、青ざめた両手で必死に握り締めていた。
ゼファーだった。
男は家族の前へ、泥のついた革靴を軋ませて膝を落とした。
妻の細い肩を引き寄せ、前髪の張り付いた額へ、吸い付くように唇を押し当てる。
「……やだ、行かないで」
妻が喉の奥で掠れた悲鳴を漏らした。
畑の泥を落としていた、馴染んだ石鹸の匂いがした。
振り払って逃げ出したいわけじゃない。誰が好き好んで、こんな暗闇で化け物の餌になんてなりたいものか。来年も畑を耕し、不格好な芋を掘り出して、笑いながら夕飯を食いたかった。当たり前に老いて、当たり前に畑の土へ還りたかった。
だが、荷馬車は遅い。誰かが足を止めなきゃ、全員まとめて後ろから噛み砕かれる。
天秤にすらならなかった。
男は何も言わず、ただ腕の中の小さな娘を見た。
「父ちゃん」
「おう」
「どこいくの? さむいよ」
喉の奥が引き攣れるのを、男は歪んだ笑みで押し殺した。
「ちょっと、な」
ひび割れた指先で、娘の冷たい頬を優しく撫でる。泥を擦りつけないよう、指の腹の柔らかいところを探して触れた。
「馬車が重たくて進まねえからな。父ちゃんが後ろから押してやるんだ」
「すぐくる?」
「……ああ。すぐだ」
親が子につく、最初で最後の嘘だった。
後でどれだけ泣かれようが、嘘つきとなじられようが構わない。泣けるなら、そいつは生きている証拠だ。
娘の頭を、ごわごわとした手のひらで何度も、慈しむように撫で下ろした。
それから、男は視線を少年へと向けた。
「ゼファー」
「お、おじさん……」
男の両手が、少年の細い肩を骨ごと砕くほどの力で鷲掴みにした。
「リディアを頼む」
少年の瞳が、行き場のない恐怖と困惑に揺れた。
勝手な話だ、と自分でも思った。
ゼファーは身内でも何でもない。ただ隣の畑で鼻水を垂らし、リディアと泥遊びをしていただけの、他人の家のガキだ。まだ十そこらの子供に、大人の命を、一家の未来を背負わせるなど、正気の沙汰じゃない。大人の、父親の、身勝手極まる甘えだった。
だが、今この揺れる荷台の上で、ガチガチと歯を鳴らしながらも、リディアの手を離さずにいてくれたのは、この少年だけだった。
「俺の代わりに、お前が護れ。この家族を」
「……でも、僕、何もできない」
「絶対に手を離すんじゃねえ」
男の指先が、少年の薄い肩肉にめり込む。懇願ではない。呪いのように、少年の骨へ刻み込むための力だった。
「荷がひっくり返ろうが、魔獣の息がかかろうが、死んでもその手を離すな。お前が護れ」
少年の大きな瞳に、拭いきれない涙がみるみる溜まっていく。
その細い腕に、自分たちの生きた証を全部押し付ける。その理不尽さに胸が焼けそうになりながら、それでも男は少年の手を睨み据えた。
少年は、握り締めた幼子の手を、さらに強く握り直した。
「……うん」
「声が小さえ!」
「護る!」
「もう一回だ!」
少年は唇から血が滲むほど歯を食いしばり、夜風を切り裂く声で叫んだ。
「僕が、絶対に護る!」
男の顔が、くしゃりと崩れるように笑った。
すまねえな、と思った。こんな重たいものを背負わせて。
だが、その細い指先には、確かに命を預けるだけの意地があった。
「よし」
立ち上がる。
妻の細い指が、男の肘のあたりを必死に掴み取った。爪が擦り切れた布地を裂かんばかりに食い込む。
「行かないで……お願い……だからっ」
男の肩が、一瞬だけ激しく震えた。
振り向けば、二度と足が動かなくなる。
だから、その手を自分の節くれだった指で、静かに、だが決して逆らえない力で外した。
「すまん」
残したのは、それだけだった。
男は踵を返し、シグルダの隣へと歩み寄った。
シグルダの鋭い金色の瞳が、横目で男の足元から杖までを冷酷に検分する。
「ヒュームの」
「へい」
「死ぬぞ」
「そいつぁひでえや」
男は軽口を叩くように肩を竦めた。
「南の畑に植えた芋がまだ半分残ってまさあ。あれを掘り出すまでは、死んでも死にきれねえ」
シグルダの鼻梁に皺が寄った。
「魔法は何ができる」
「畑仕事の延長ですよ」
男は無骨な樫の杖を軽く掲げてみせた。
「土を柔らかくする。火を起こして枯草を燃やす。種を飛ばす程度の風を吹かせる。あとは……精の出ねえ日に、人の身体をちょいと元気づけるくらいのもんで」
シグルダの三角の耳がピクリと跳ねた。
「……強化の術が使えるのか」
「ほんの気休めですがね」
「十分だ」
二人は躊躇うことなく、揺れる荷台から闇の底へと身を投げ出した。
「待てぇぇぇッ!」
ハインツの悲痛な怒号が、冷たい風の音にかき消されていく。
泥水の中へと着地。
男は転がり込むように体勢を立て直すと、樫の杖を濡れた街道の地面へ渾身の力で突き立てた。
「まずは、足場をいただきやすよ!」
杖の頭に嵌め込まれた魔石から、濁った琥珀色の光が噴き出し、網目状に泥の地面を這い回った。
「ローデンの土はな、雨を喰うと性格が悪くなるんだ」
杖先の魔晶石が琥珀色に更に灯る。
「起きろ。畝をほどけ」
ローデンの農夫たちが代々使ってきた、畑仕事の術だった。
《泥起こし》
土そのものを作り変える魔法ではない。
この土地の水気と泥炭、その中に棲む精霊へ働きかけ、地面を「耕しやすい状態」へ戻すだけ。
春先の硬く凍てついた大地を砕き、作物の根が呼吸できるように土へ水分を抱かせる、農夫の生活に根付いた魔法。
ただ、固い土を柔らかくするだけの術。
だが、夜露と地下水を吸い込んで限界まで緩んだ斜面、そこへ百を超える魔獣の凄まじい蹄の圧力が加われば、術の意味は根底から変質する。
ズズ、と地中深くで水脈が弾けるような音がした。
街道の表面が一気に液状化し、底のない泥の沼へと姿を変える。
先頭を突進していた数頭の牙猪が、踏みしめた瞬間に前脚の付け根まで泥に呑み込まれた。巨体が慣性のまま頭から前のめりに転倒し、濡れた地面を削りながら滑走する。その後ろへ、視界を奪われた灰狼の群れが折り重なるように突っ込み、角鹿が足を取られてもんどり打った。
狂奔する魔獣の奔流の切っ先が、ほんの一瞬、確実に淀んだ。
「今だ!」
シグルダの肉体が、鋼の弾条となって爆ぜた。
灰黒色の影が、泥飛沫の立ち上る空間を低く滑空する。
常人の動体視力では、その輪郭すら捉えられない。
転倒した牙猪の背を足場にしてさらに跳躍。空中で剥き出しにされた前肢の鉤爪が、三日月のような軌跡を描いた。
一頭。
灰狼の喉笛が、皮ごと一気に引き裂かれる。
着地と同時に身を沈め、二頭目。
横から角を突き出してきた角鹿の頭部を両手で挟み込み、全体重を乗せて頸椎を真横へ捻り折る。鈍い破砕音が響く。
三頭目。
斜め後方から跳びかかってきた別の灰狼に対し、振り向きざまに後ろ脚を跳ね上げ、その下顎を砕き割りながら、喉元の柔らかい肉へ逆手の爪を深々と突き立てた。
熱い血飛沫が、夜の冷気へ噴き上がる。
だが、止まらない。
足首を切り、首を落とし、肺腑を抉り抜いても、その後背からは百を越える獣の影が、仲間の死骸すら踏み荒らしながら際限なく押し寄せてくる。
「左だ!」
男の銅鑼のような叫び。
樫の杖から放たれた圧縮空気の塊が、シグルダの側頭部すれすれで炸裂した。横合いから噛みつこうとしていた魔獣の軌道が半歩分だけ外側へ弾かれる。その一瞬の隙に、シグルダの爪が迷いなくその頸動脈を刈り取った。
「次、三頭来やす!」
男が杖を振るうたび、泥水が爆ぜ、地面が波打って先頭の脚を奪う。
シグルダは走り、裂き、跳ね飛ばし、蹴り据える。
彼女の目的は、敵を殲滅することではない。
西へ。
爪の一撃で外側へと弾き、肩の体当たりで軌道を狂わせ、魔獣の奔流そのものの軸を、少しずつ、確実に崖側へと押し込んでいく。
泥水に塗れながら魔法を連打していた男の頭にも、ようやくその全容が結像した。
「……なるほどな」
西の急斜面。
雨水を溜め込み、限界まで弛緩した泥炭の層。根元がむき出しになって傾いだ巨木。
そして、この街道を津波のように押し流れてくる魔獣たちの、莫大な質量と推進力。
「手前たちで崩すんじゃねえ」
男の口から、乾いた笑い混じりの呟きが漏れる。
「あの化け物どもに、自分たちの重みで崖を掘っ払わせる気か」
シグルダは応えない。返答する息すら惜しむように、前方の闇だけを凝視していた。
地鳴りが変わった。
蹄の音の奥から、大地そのものが軋むような、重金属の擦れ合う低周波が響いてくる。
正面の闇を割って姿を現したのは、家屋の屋根ほどもある巨大な影だった。
岩砕犀。
全身を鈍色に光る分厚い骨質の甲殻で覆い、頭部には巨岩をも粉砕する衝角を備えた、北の森の巨獣。
その巨体が、後方から迫る恐怖に狂乱し、周囲の小獣を踏み潰しながら猛進してくる。
走り出せば、城門の鉄格子すら突き破る質量兵器。
シグルダの細められた瞳に、冷たい光が宿った。
あれだ。
シグルダは一切の迷いなく、その巨獣の真正面へと進路を取った。
「お、おい! 真正面だぞ!」
男の悲鳴のような制止を無視し、シグルダは大地に爪を立てて構えた。
岩砕犀の血走った濁った眼球が、自らの突進線上に立ち塞がる灰黒色の矮小な影を捉えた。いや、対象が何であるかなど認識していない。ただ進路上に存在する障害物を、粉微塵に押し潰すことしかその脳にはない。
頭部が沈み込み、分厚い骨角が水平に構えられる。
大地が、一歩ごとに跳ね上がるような衝撃。
十歩。
八歩。
五歩。
シグルダの筋肉が極限まで張り詰め、獣毛が逆立つ。
「今だァッ!」
男が樫の杖を叩き折らんばかりに振り抜いた。
シグルダの足元で突風が炸裂する。横からの衝撃波を受け、シグルダの身体は紙一重で躱し、真横へと吹き飛んだ。
直後、岩砕犀の巨躯が、風を切り裂いてその空白を通過した。
そのままの慣性と質量を抱え、泥で緩みきった路肩へと突っ込む。
ズシン、と腹の底に響く鈍い激突音。
山肌全体が震え、大量の土砂と小石が滝のように崩れ落ちた。
だが――足りない。
表土が大きく剥がれ落ちたものの、奥にある岩盤までは砕けていない。
「くそがッ!」
男が泥水を吐き捨てながら舌打ちした。
シグルダも見上げる。斜面には蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。確実に崩壊へ向かって傾いている。だが、山そのものを滑落させるための、決定的な「最後の一撃」が届いていない。
その間隙を縫うように、後続の魔獣が二人の周囲へと雪崩れ込んできた。
男の左肩に、灰狼の牙が深々と突き刺さる。
「ぐあッ!」
男は狩猟槍の石突きを魔獣の腹へ強引に叩き込み、力任せに引き剥がした。直後、角鹿の鋭利な枝角が脇腹を裂き、粗末な革鎧の下から鮮血が噴き出す。
「ヒューム!」
「まだだ!まだくたばっちゃいねえよ!」
男は足を引きずりながら杖を振り回した。火礫が闇を焦がし、突風が小獣を吹き飛ばし、泥が脚を絡め取る。
だが、術を放つたびに、杖の先端の魔晶石は白く濁り、光を失っていく。
男自身の皮膚からも急速に血の気が失われ、青白い陶器のような色へと変わっていた。
シグルダもまた、迫る魔獣の頭蓋を砕き、内臓を掻き出し続けるが、その呼吸はかつてないほど荒い。両腕の剛毛は返り血と泥に固まり、太腿には肉を削ぎ落とされた深い裂傷が刻まれていた。
二人とも、言葉にせずとも悟っていた。
このままでは、あの岩砕犀をもう一度崖へと誘導するだけの余力も、時間も残されていない。
男が、手の中の樫の杖を見つめた。
先端の小さな魔晶石。そこに残された、針の先ほどの微かな燐光。
そして、自分の胸の奥底。命の火そのものから削り出すしかない、なけなしの魔力の残滓。
男は顔を上げ、血飛沫の向こうに立つシグルダの背中を見た。
「……ご夫人」
「何だ」
シグルダは迫る灰狼の顎を裂きながら、背後へ短く応えた。
「強化術が使えるって、言いやしたね」
「ああ」
「手前のような半端もんじゃ、自分自身に掛けたところで大した力にゃならねえ」
男の唇が、泥にまみれたまま歪んだ。
「だが、他人一人に、命ごと全部叩き込むなら……そこそこのもんになりやす」
シグルダの背筋が、強烈な緊張に強張った。振り返る。
「やめろ」
「へ?」
「それを使えば、お前自身の命脈が尽きる。足一本動かせなくなるぞ」
「でしょうなあ」
「なら――」
「でもよ」
男は、シグルダの視線の先、遥か南へと続く暗い街道を振り返った。
遠く、豆粒のように小さくなった荷馬車の輪郭。
妻の顔も、娘の泣き顔も、隣家の少年の震える肩も、もう夜の闇に溶けて何も見えない。
だが、それで十分だった。
「届きやした」
男は静かに言った。
「……何がだ」
「俺の仕事の、終わりどころですよ」
シグルダは喉の奥を詰まらせ、何も言い返せなかった。
男が、両手でしっかりと樫の杖を握り直す。
「ご夫人」
「……シグルダだ」
男は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、泥と血にまみれた顔をくしゃりと歪めて笑う。
「へえ。シグルダさん、ですかい」
「お前は」
「あっしですか」
男は樫の杖を握り直した。
「イグニード。ローデンのイグニードでさあ」
「そうか」
シグルダは短く頷いた。
「イグニード」
ただ名前を呼んだ。
それだけで、男の笑みが少しだけ深くなった。
杖の魔晶石が、これまでにない眩い琥珀色の輝きを放った。
男が最後の魔力を杖へ流し込もうとした、その時だった。
地面の下で、何かが応えた。
《泥起こし》によって目覚めた水精と土精。
春には種床をほどき、夏には根へ水を運び、秋には芋を太らせ、冬には凍土の下で眠っていた、この土地の小さな精霊たち。
イグニードが生まれてから三十余年、毎年その土を耕し、肥やし、踏みしめてきた足跡を、彼らは忘れてはいなかった。
杖からではない。
泥の中から、畦の跡から、崩れた畑の方角から、淡い琥珀色の光が次々と立ち上がった。
「……おいおい」
男が掠れた声で笑った。
「最後くらい……自分でやらせてくれや」
光は男の命を奪うようには見えなかった。
むしろ逆だった。
土に返るはずだった彼の最後の熱を包み込み、それを何倍にも膨らませて、シグルダへと送り出していく。
光がシグルダの身体へ染み込んだ。
だが、それは筋力だけを無理やり引き上げる強化術とは、少しだけ違った。
視界を遮る雨粒が逸れ、踏みしめた泥が沈まない。
風が毛並みを撫でるように流れ、身体の抵抗を奪っていく。
傷口から噴き出していた血が、土に吸われるように一時だけ細くなる。
まるでローデンの土地そのものが、たった一度だけ彼女の足元へ手を差し出したようだった。
イグニードが差し出した強化の術を、土地の精霊たちは拒まなかった。
受け取り、膨らませ、そしてこの地で生きる者たちが知る形へと組み替えて返した。
同時に、血管の中を熱湯が駆け巡るように血流が跳ね上がり、網膜に映るすべての光景が不自然なほど鮮明に研ぎ澄まされていく。獣の咆哮が引き延ばされ、空を舞う泥の一粒一粒が止まって見える。
身体の奥深く、腱の一本、骨の芯、研ぎ澄まされた神経の先端に至るまで、泥臭い人間の男が一生をかけて耕してきた生命と、その歩みを覚えていた土地の力、そのすべてが、奔流となって注ぎ込まれていく。
「お前……!」
「どうやら、ね」
ボキリ、と男の膝が折れ、地面の泥水へと沈んだ。
杖の先を辛うじて地面に突き立て、上半身を支えている。鼻孔と目尻から、黒ずんだ血がツーと垂れ落ちた。
「ここいらが……俺の、限界らしい」
シグルダが振り返る。
男はもう、指一本動かす力すら残っていなかった。
それでも、泥にまみれた顔で、笑っていた。
「頼みやす」
ただそれだけの、短い言葉だった。
妻の未来も、娘の命も、約束を背負わせた少年の行く末も、村の誰もが泥を耕す明日の朝も。
そのすべてが、その一言の底に押し込められていた。
シグルダは何も約束しなかった。
軽々しい誓いなど立てず、ただ一度だけ、深く顎を引いた。
そして――消えた。
男の霞みゆく視界から、その姿が文字通り消失した。
次の刹那。
数十歩の前方で、猛進を再開しようとしていた岩砕犀の巨大な頭部が、横合いから撃ち抜かれたように爆ぜた。
シグルダの強化された回し蹴りだった。
骨甲殻が砕け散り、巨体が真横へとたたらを踏む。
そこへ、休むことのない連撃。
爪が肉を削ぎ、踵が眼窩を打ち抜き、獣の骨格を軋ませる強烈な体当たりが叩き込まれる。
殺すのではない。
痛覚を刻み込み、恐怖を狂乱へと変え、進路を強引に制御する。
岩砕犀が、天を衝くような絶叫を轟かせた。
視界を赤く染めた巨獣の怒りが、ただ一頭の灰黒色の影へと完全に固定される。
「来い」
剥き出しにされた純白の牙の隙間から、低く冷たい呼気が漏れた。
「こっちだ、鈍物」
シグルダが地を蹴る。
西へ。
崩れかけた斜面へ。
岩砕犀が、大地を揺るがす勢いでその背を追う。
一頭だけではない。その巨獣の狂気と勢いに巻き込まれ、後続の数十、百を超える魔獣の群れが、雪崩のように同じ軌道を描いて崖側へと吸い寄せられていく。
シグルダは崖の直前まで一気に駆け抜けた。
足元には、先ほどの衝突で刻まれた巨大な亀裂。雨水を吐き出しながら、裂け目は今も広がり続けている。
あと一押し。
シグルダは断崖の縁で急制動をかけ、振り返った。
目前に迫る、巨大な骨角。
逃げ場のない距離。
激突の瞬間、シグルダの両足の腱が弾け飛ぶほどの力で地面を蹴り上げた。
跳躍。
岩砕犀の巨躯が、何者もいない断崖の亀裂へと、全力のまま突っ込んだ。
大地が、咆哮した。
轟音とともに、山肌を走る亀裂が一気に縦横へと枝分かれしていく。
一本、十本、百本。
斜面を支えていた深層の岩盤が、凄まじい摩擦音を立てて断裂した。
巨木の太い根が破裂音とともに千切れ飛び、水分を飽和させた泥炭層が、基礎ごと重力に従って滑り落ちる。
そこへ、岩砕犀の質量がそのまま楔となって食い込み、さらに後続の魔獣たちが、止まりきれずに次々とその背中へと衝突した。
十頭、三十頭、五十頭。
密集した生きた質量が、最後の引き金を引いた。
山肌が、落ちた。
轟音という言葉すら生ぬるい、世界がその合わせ目から砕け散ったような破壊音が夜の闇を満たした。
土砂の濁流が、数千トンの岩塊とともに街道を呑み込んでいく。
巨木が枯れ枝のように圧し折られ、数百の魔獣が悲鳴をあげる暇もなく土煙と泥の底へと埋没していく。
街道が消えた。
崖と谷を繋いでいた細い動脈そのものが、天から叩き落とされた巨大な土と岩の防壁へと姿を変えていた。
その壁の向こう側で、取り残された後続の奔流が次々と土砂の山に激突し、圧死し、折り重なっていく。
押しても、もがいても、通れない。
南へと続く道は、完全に、断絶されていた。
遠く、泥の冷たさの中に沈みながら、男はその光景を見届けていた。
もう片方の膝を立てることすら叶わない。
冷たい泥水の中に横たわり、自らの血の生ぬるさを頬に感じながら、男の唇が微かに震えた。
「……へへ」
空気の抜けるような、掠れた音が漏れ出た。
「やるじゃ、ねえですか……」
泥炭の煙が舞い上がる視界の端。
山が崩落するその直前、灰黒色の影が、崩れ落ちる土砂の天辺を蹴って闇の向こうへと跳んだように見えた。
土砂を越えて向こうへ渡ったのか。
それとも、地滑りの底へと呑み込まれたのか。
もはや、男の濁った瞳には判別がつかなかった。
ただ、南へと向かって大地を震わせていたあの地鳴りが、生まれて初めて、遠く、静かに遠ざかっていくのを感じていた。
男は、ゆっくりと瞼を下ろした。
雨水が、睫毛を濡らして頬を伝っていく。
「……リディア」
口元が、かつて畑で娘を抱き上げたときのように、優しく綻んだ。
「手ぇ、離すんじゃねえぞ……」
その呟きを拾い上げる者は、もう、この冷え切った夜の底には誰もいなかった。