《追憶》 Ⅵ 託された命
城塞都市ヴァルデシア、中央塔。
「ローゼンシュタイン男爵が戻られました!」
大会議室の重い樫の扉が、息せき切った伝令の手で押し開かれた。
卓上の周辺地図に視線を落としていた、ゲアハルト・フォン・トレンス先代侯爵が静かに顔を上げる。
すでに白髪の交じった髭、深く刻まれた眉間の皺。だが背筋は、齢を感じさせぬほど真っ直ぐに伸びている。
彼は、家督を譲った後、北部城塞の立て直しを担当していた。
「……調査団の損害は」
伝令の騎士は喉を鳴らし、握りしめた羊皮紙を前に言葉を詰まらせた。
「合流後の総員四十三名のうち、十七名帰還」
室内の空気が一瞬で凍りついた。半数以上の喪失。
地図の周囲を取り囲んでいた幕僚や騎士団の長たちから、低いうめきが漏れる。
「ウッドワードは?」
「……痕跡を残さず壊滅」
「ローデン」
「撤退戦の最中に呑まれ、壊滅。避難民百二十四名をヴァルデシア外郭へ収容」
「森番の黒鉄狼族は」
「族長含む戦士団の全員が後衛に残り……消息不明。生存の確認は取れておりません」
ゲアハルトの指が、机上の羽ペンをわずかに動かした。感情の色は見えない。
「ハインツをここへ」
「既に参っております」
廊下の石床を、引きずるような重い足音が叩いていた。
扉の隙間から、鉄の錆びた匂いと泥炭の異臭が流れ込んでくる。
入ってきた男の姿に、居並ぶ武官たちが思わず眉をひそめ、露骨な侮蔑の色が走った。
肩当ては引きちぎれ、右の太腿には血の滲んだ荒縄。一歩ごとに絨毯へ赤い染みを落としながら、ハインツ・フォン・ローゼンシュタインが中央へ進み出る。
「……戦士団を置き去りにしたと聞いたが」
「副官に背を守られて逃げたそうだな」
「文官上がりが、貴族の看板だけで男爵位を貰った男の末路か」
低い囁きが、あちこちから漏れる。
ハインツはそのすべてを黙って受け止め、ゲアハルトの前で片膝をついた。
「閣下……」
「報告を」
ゲアハルトの声に、咎めも労りもなかった。ただ、次の言葉を待つだけの静けさ。
ハインツは懐から血に固まった手帳を取り出し、両手で机の縁へ捧げ持った。
「北部大森林より、未知の規模の魔獣群が南下しております」
「規模は」
「分かりません」
室内がざわめく。
「分からないだと?
「……数え……られません、でした」
ハインツは声を荒げる武官を一瞥もせず、ゲアハルトの目だけを見据えた。
「……種族の別がありません。捕食もせず、縄張りも主張せず、ただ一つの方向へ雪崩を打っています」
一拍。
「竜種を確認しました。複数です」
ざわめきが止んだ。
ゲアハルトは何も言わず、手帳を引き寄せた。
めくる。震えた筆跡。獣の通過時刻。推定速度。避難民の頭数。徴発した家畜の焼印の控え。
数字の羅列だけを、彼は静かに読み進めていく。
数頁を進めたところで、その指が止まった。
「……北東からか」
ハインツが顔を上げる。
「は」
「群れの流入方向だ。大森林の奥ではなく、北東寄りに偏っている」
「確認できた範囲では」
ゲアハルトの目が、卓上の地図へ落ちた。
北部大森林。
そのさらに向こう。
国境線を越えた先に、レガリア王国アウヘンミュラー領がある。
「アウヘンミュラーから何か入っているか」
騎士の一人が首を振った。
「いいえ。北東方面からの急報はありません。ただ、大森林を挟んでおりますゆえ、向こうの内情までは」
「ロザリア経由は」
「今のところ何も」
ゲアハルトは黙った。
魔獣が南へ来ること自体は珍しくない。
だが、捕食もしない。
縄張りも争わない。
竜種すら同じ流れに混じっている。
獣が敵意によって進んでいるのではないなら。
「……追われているか」
誰かが息を呑んだ。
ゲアハルトは続ける。
「あるいは、追い立てられている」
室内の空気が僅かに変わった。
ゲアハルトの視線が、地図の北東へ移る。
大森林。
その向こうにある、レガリア王国アウヘンミュラー領。
「……向こうは」
誰に問うでもなく、低く漏らした。
向こうで何かが起きているのか。
それとも、こちらだけなのか。
まだ何も分からない。
「ロザリアへ照会を出せ」
ゲアハルトは地図から目を離さなかった。
「国境監視記録、魔獣の流入、難民、軍の移動、烽火。何でもいい。アウヘンミュラー側について入っている情報を集めろ」
「レガリアの関与を疑われますか」
「疑う段階にもない」
即座に返した。
「向こうが仕掛けたのか。向こうも巻き込まれているのか。そもそもレガリアと関係があるのか」
指先が、地図上の国境線を静かに叩いた。
「今は、そのどれも分からん」
「レガリアへ直接、確認を?」
「今から使者を回して間に合う距離ではない」
ゲアハルトは首を横に振った。
「まずはロザリアだ。向こうと国境を接している。何か起きているなら、痕跡の一つくらいは拾っている」
一拍。
「分からんものを、分かったつもりで扱うな」
誰も答えられなかった。
室内が静まった。
ゲアハルトは地図から目を離し、再び手元の手帳へ視線を落とした。 血で固まった頁の端を、親指で静かに押さえる。
「……お前が己の血で贖った紙だな」
呟くような声だった。誰に向けたものでもなかった。
ハインツが顔を上げる。
その目には、驚きがあった。誰も、これまで彼にそんな言葉をかけなかった。
「閣下、私は」
「言い訳はいらん」
ゲアハルトは手帳を閉じた。
「この数字が、貴公が何を引き換えにしたかを、すべて語っている」
老侯爵は立ち上がった。
「ヴァルデシアまで、あとどれほどだ」
「猶予は……二日ありません」
「十分だ」
短く言い切ると、ゲアハルトは剣掛けへ歩み寄り、古い長剣を手に取った。
「総員招集。全騎士団、魔法師団、各寄子家へ非常動員令。関所は戦時封鎖へ」
側近たちが弾かれたように動き出す。武官たちの侮蔑の色は、すでに消えていた。
ゲアハルトは振り返り、跪いたままのハインツを見下ろした。
「ローゼンシュタイン男爵」
「はっ」
「貴公は今日、部下を失った。そして、生き延びた」
ハインツの肩が震える。
「そのどちらも、恥じる理由にはならん」
それだけ言うと、老侯爵は踵を返し、部屋を出ていった。
・・・・・
・・・
領都ヴェリタス、北塔の頂から、重い鉄の鳴動が落ちてきた。
一度。
夜風を切り裂くような硬い打音。執務卓の上の蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
間を置いて、二度。
部屋の隅に控えていた文官の羽ペンが止まり、乾いていないインクが羊皮紙の上で小さな黒い染みを作った。
さらに、間髪を入れず三度。
誰もが息を止めた。三度鳴る鐘は、国境の変事を告げる合図だ。
「北部烽火網、緊急信号!」
大会議室の重い扉が蝶番を軋ませて跳ね上がり、息せき切った伝令が敷居に足をとられながら転がり込んできた。肩当ての革紐が千切れかけており、冷気に晒された頬が赤黒く強張っている。
卓上の大判地図を取り囲んでいた書記や老臣たちが、弾かれたように顔を上げた。椅子の脚が絨毯を擦る乾いた音が重なる。
キース・フォン・トレンスだけが、肘掛け椅子から微動だにしなかった。
組んだ指の親指の先を、静かに自らの顎へ当てている。二十代の、まだ引き締まった横顔。父ゲアハルトのような深い刻み皺はないが、蒼の双眸には、夜の湖面のような底知れぬ静寂が張り詰めていた。
「符号は」
声は低く、平坦だった。その低さが、伝令の上ずった息をわずかに引き戻す。
「第一信号、大規模魔獣群!」
伝令は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
「第二信号、南下!」
室内のあちこちで息を呑む気配が立った。年嵩の家宰が思わず地図へ身を乗り出す。
「発信元は」
「北部第五中継台。ですが、同信号を第四、第三でも継承確認!」
「……規模は」
「烽火では判別不能です!」
当然だった。
烽火網が運べるのは、あらかじめ定められた短い符号だけだ。
何がいるのか。何頭いるのか。誰が生きているのか。
そんな泥と血の事実は、山越しに渡る光の瞬きには乗りようがない。
「続報!」
足音の乱れとともに、別の伝令が扉を押し広げた。額に汗を浮かべ、喉をからしている。
「北部第二系統より追加符号!」
「読め」
「竜種確認!」
空気が一瞬で凍りついた。
誰かの手が、卓上の木製駒に触れて音を立てて倒れた。直す者すらいない。
「種類は」
「不明!」
「大型か中型か……!」
「それも分かりません!」
「他には何が出ている!」
「複数種混成!街道退避!以上です!」
キースの指先が、地図の北端で止まった。
大規模魔獣群。南下。竜種混在。複数種。退避。
ひとつひとつなら、魔の蠢く北部辺境の記録として珍しいものではない。年に数度は、迷い出た亜竜や飢えた獣の群れが砦の矢衾に沈んでいる。
だが。
同じ夜、同じ北部に。
異なる尾根に据えられた複数の烽火台から、ほぼ同時に上がる符号ではない。獣の縄張りも習性も飛び越えて、すべてが南へ向かって同じ速度で転がり落ちてきている。
「ヴァルデシアから文書は」
「まだです」
「飛竜便は」
「一騎、北塔の着地場へ降りるとの報せ!いま、階下を上がって参ります!」
キースが初めて瞼を上げ、扉の奥の暗がりを見据えた。
「通せ」
廊下から、濡れた革と泥炭が擦れ合う荒い足音が近づいてくる。
現れたのは、飛竜の風圧に耐えるための肉厚な飛行服に身を包んだ騎兵だった。上着の胸元は凍りついた飛沫で白く濁り、肩には竜の脂の饐えた匂いが染みついている。手袋を外す間も惜しみ、胸元から真鍮の革筒を引き抜いた。
「ヴァルデシアより、ゲアハルト先代侯爵閣下の直筆親書!」
キースは無言で手を伸ばした。卓上の短剣を抜き、赤錆色の封蝋を一息に断ち切る。
羊皮紙が乾いた音を立てて開かれた。
父の筆跡だった。
どんな戦場にあっても決して乱れぬはずのその文字が、わずかに急ぎ足で走っている。
『ウッドワード、痕跡なく壊滅。
ローデン、撤退戦の最中に呑まれ壊滅。
魔獣、多種混成。捕食行動、縄張り争い、共食いの一切を確認できず。
逃走と断定する。先頭は二日を待たずヴァルデシア外郭に達する見込み。
竜種複数。北東より偏向流入』
文字を追うキースの視線が、わずかに細くなった。
襲撃ではない。逃走。
生態系の頂点にいる竜種までが、何かから逃れるように同じ奔流に混ざり、南へ雪崩れ込んでいる。
そして、その奔流の真正面に位置するのが、トレンス侯爵領の北の盾、城塞都市ヴァルデシアだった。
キースは紙片を卓上に置き、広げられた北部全図を静かに見下ろした。
ウッドワード。
その南のローデン。
街道沿いに点々と連なる宿駅、烽火台、小さな開拓村、段丘の砦。
そのすべての喉元を締め上げるように座すヴァルデシアの城壁へ向かって、見えない黒い泥水が、山肌を削りながら這い下ってくる光景が、卓上の羊皮紙の上に重なって見えた。
「ヴァルデシアの守備兵は」
傍らに立つ軍務担当の家臣へ、視線を落としたまま問う。
老臣が震える手で日報の帳面をめくった。
「……常備で千二百。城内の予備役、退役兵をすべてかき集めれば、二千ほどまでは膨らませられますが……」
「魔攻砲は」
「城壁上に八基。ただし、即応可能なのは五基です」
「残り三基は」
「二基は術式盤の銀の摩耗による交換待ち。最後の一基は、先月の試射で導魔槍に亀裂が入っております」
「直せ」
家臣が息を詰まらせ、困惑に眉を歪めた。
「……二日では完全な修復など到底……」
「完全でなくていい」
キースは遮った。声の調子は変わらない。だが、その冷徹な響きが部屋の空気を圧した。
「一発でも多く撃てればいい。撃ったあとに砲架ごと砕けても構わん」
室内が静まり返る。
魔攻砲一基が、どれほどの金を呑む兵器なのか。
職人が数ヶ月かけて彫り込む術式盤と、その溝を埋める希少な魔導銀。
心臓部として中央に据えられ、術式を刻まれた魔晶核。
突き出す導魔槍。
一射ごとに灰と化す、拳大の魔晶石。
そして、それを扱う専門の砲術師や魔術師たち。
一基を損耗として切り捨てるだけで、並の小貴族なら家計が破綻する。代々、資産として大切に整備され、誇りとして城壁に飾られてきた兵器だった。
そんな計算は、キースも骨の髄まで叩き込まれている。
だが、いま卓上で擦り合わせるべきは金の勘定ではなかった。
「ヴェリタスの兵器庫も開けろ」
「……領都の、でございますか」
兵站を預かる家臣が、恐る恐る口を挟む。
「持ち出せる魔攻砲は何基ある」
「野戦用の牽引型が六基。うち一基は先代の遠征以来、長期保管庫に置かれたままで……射撃には分解整備と試射が必要です」
「両方引っ張り出せ。整備は道中でやらせる」
「侯爵様、領都の防備が手薄になります!」
「ヴェリタスの頑丈な城壁に据え付けたまま、お前は何を撃つ気だ」
キースの指先が、卓上の北端を重く叩いた。
「敵はあちらから来る」
誰も返せなかった。
「破城槍は」
「大型が八。携行型が二十二」
「全部出せ」
「閣下、破城兵器は城攻めのためのもので……野戦の獣相手では……!」
「城門の分厚い鉄板を穿てるなら、竜の胸板も叩き割れる」
キースの双眸が居並ぶ者を射抜く。反論の言葉が喉でつっかえた。
「矢もだ。工房にあるものをすべて荷車に積め。矢羽根が不揃いだろうと、鏃に錆が浮いていようと構わん。槍、麻縄、投射用の油樽、爆裂球、工兵の鑿、予備の馬具、車輪の替え木。倉庫の底をさらい、使えるものはすべて引き摺り出せ」
「先発隊に積みますか」
「いや」
キースは即座に首を振った。
「先発は軽くする。騎兵、遊撃隊、魔導師、工兵。携行できるだけの矢弾と糧食だけ持たせろ」
「では重装備と予備の物資は」
「後から走らせる。工兵隊に加え、街道普請の工夫と徴用人夫もだ」
地図の上に引かれた街道の線を、キースの指が力強く擦る。
「荷車を集めろ。侯爵家の公用車だけでは足りん。領都の商家、座商人、運送屋が持っている荷車を片端から徴発する。街道沿いの宿駅には早馬を飛ばし、すべての替え馬を軍用に差し押さえさせろ」
「魔攻砲まで宿継ぎで運ぶおつもりですか!街道の傾斜と馬の損耗が尋常ではなくなります。馬が潰れますぞ」
「馬は金を出せば買い直せる」
キースは視線を上げなかった。
「だが、一度喰われた者は、金をいくら積んでも戻ってこない」
低く、容赦のない声だった。
「……避難民の受け入れについてですが」
別の家臣が帳面をめくり、戸惑いながらも進言した。
「ヴァルデシア単独では……難しいかと。城内人口だけでも相当数です。北部諸村から流入すれば、井戸と食糧が先に限界を迎えます」
「なら、城を素通りさせて南へ流せ」
「南へ……領都まででございますか」
「必要なら、ヴェリタスの外郭をすべて開放する」
キースの指先が、街道の線を南へ、領都へと辿る。
「ヴァルデシアで止める。それが第一だ。父上もそのために残っておられる」
指が、領都ヴェリタスの円影の上で止まった。
「だが、万が一にもヴァルデシアが抜かれた場合を、今ここで想定しておく必要がある。止まらなかった時に慌てて門を閉ざすのでは、後詰めの意味がない」
年嵩の老臣が、痛ましげな表情で膝を折るようにして進み出た。
「閣下……しかし、まだ敵の総数すら判明しておりませぬ。烽火の符号と親書の数行のみで領内の全資材を吐き出すのは、あまりに早計では……」
「だからだ」
若い侯爵の言葉が、老臣の躊躇を両断した。
「規模が分かってから動けば、分かった頃にはすべてが終わっている」
室内に、沈黙が落ちた。
キース・フォン・トレンス。
王都の学園を修了してからまだ数年しか経っていない。
父ゲアハルトから家督を譲り受けて間もなく、家臣たちの前で見せる顔には、まだ若さの残滓がある。
剣を握らせれば、北部にその名を知らぬ者はないほどの剛腕。
だが、領主としての統治の実績など、無いに等しかった。
いま動かそうとしている領地は、父が何十年もかけて血を流し、開墾し、整えたものだ。目の前に並ぶ家臣たちも、父の武勇を仰ぎ見て従ってきた古強者たちばかりである。父が築いた軍を、父が残した法と帳簿を、いま、自分の拙い名において動かさなければならない。
その重圧が、キースの背骨を鉛のように押し潰そうとしているのを、彼自身が一番よく知っていた。
それでも。
迷っている暇だけは、最初から与えられていなかった。
「寄子家へ動員をかけろ」
「……どこまでです」
「北部全域だ」
ざわめきが波のように広がった。寄子家の動員は、平時であれば領主会議を開き、利害を調整し、数週間の折衝を経て初めて下される性質のものだ。それを口頭一つで、全域にかける。
「全域……ですか」
「二日ある」
キースは顔を上げた。その眼差しに、一切の揺らぎはなかった。
「二日しかない、ではない。二日ある」
張り詰めた声が、大会議室の隅々にまで染み渡る。
「動かせるだけ動かす」
「治療要員はどうなさいます」
重臣の一人が落としたその問いに、今度はまったく異質な、粘りつくような沈黙が室内に垂れ込めた。
治療。
軍馬や荷車なら、侯爵の権限で力ずくで徴発できる。だが、治癒術だけはそうはいかない。
「ヴァルデシア聖律院支院は」
「聖律師十二名。うち戦傷処置に回せる者は、多く見積もって七名」
「……少なすぎる」
「ですが、聖律院の管轄です。我々に徴用権はありません」
キースの眉間に皺が寄った。
「領都支院は」
「こちらも余裕はありません。巡回治療に出ている者を戻しても、十数名ほどかと」
「北部へ出せるだけ出せと頼め」
「拒否された場合は」
「私の名で院長へ書状を出す」
「それでも」
キースが顔を上げた。
「なら私が頭を下げる」
幕僚が目を瞬く。
「侯爵閣下が、ですか」
「頭一つ下げて十人助かるなら安い」
それから、机上の物資一覧へ目を落とした。
「薬は」
「……薬、と申しますと」
「傷病者を運ぶためのものだ」
一兵卒が腰に下げ、飲めば忽ち傷が塞がるような都合のいい薬など存在しない。
治癒は聖律院が握っている。
門外不出の治癒薬など、将校ですら平時には滅多に拝めない代物だ。
野に時折、奇跡のような腕を持つ治療師が現れることはある。
だが、それは制度ではない。
期待して数に入れるものではなかった。
「当て布と縛り紐。止血帯。副木。担架。気付け酒。火傷用の脂薬。眠り草と痛み止めになる薬草。全部だ」
「気休め程度ですが……」
「聖律師の手に渡るまで死なせなければいい」
キースは即答した。
「奥の薬棚に眠っている錬金術師の『命の水』もだ」
「閣下、あれは一瓶で金貨数枚に化ける秘薬ですぞ。平民の兵に振りかけるようなものでは……!」
「死んだ兵に金貨は払えん。全部持っていけ」
「……承知しました」
「野良の治療師でも、骨接ぎでも、産婆でも構わん。使える腕がある者を探しておけ」
「……刃物を扱える者はどうなさいます。潰れた手足や、腐りかけた傷口を落とす者がおりませんが」
「街の髪結いを集めろ。剃刀を研げる手があるなら十分だ。ただし無理に前線へ引っ張るな」
「……承知しました」
「聖律院の治療を受けるまで命を繋ぐ。それだけでいい」
それが、今できるすべてだった。
・・・・・
・・・
その日の夜。
軍靴の足音と荷車の軋む音が遠く階下から響く中、キースは自室へ戻る足を止め、侯爵夫人の居室へと向かった。
扉を静かに押し開けると、夜気を含んだ部屋の奥で、一本の蝋燭が揺れていた。
机に向かっていたダイアナの影が、石壁に長く伸びている。
人前に立つための豪奢なドレスでも、夫を出迎えるための柔らかな衣装でもない。袖口を紐で絞った、動きやすさだけを優先した簡素な室内着だった。
机の上には、すでに分厚い帳簿が三冊開かれ、乾ききっていない黒インクの匂いと、溶けた封蝋の独特な獣脂の臭いが満ちていた。
「……何をしている」
キースの声に、ダイアナの手が止まり、顔を上げた。
眉間に微かな疲労を滲ませながらも、その双眸は澄んでいる。
「避難民の受け入れ数と、今後の食糧消費を計算しております」
「もう聞いたのか」
「邸内であれだけ人が走り回っていれば、聞かなくても分かります」
淡々と答え、彼女は机の端から書き殴られた数字の並ぶ羊皮紙を一枚、キースへと差し出した。
「領都だけなら、現在の備蓄で二月ほど。避難民五千を加えれば一月半。万を超えると、一月もちません」
キースは無言で紙を受け取り、目を落とした。
整然と引かれた線に、日ごとの穀物消費量と製粉所の稼働限界予測が割り出されている。
「……南部から買えるか」
「山道経由では量が足りません」
「西は……?」
「ロザリア方面なら可能でしょう。ただし、向こうも北部の異変を知れば穀価を上げます」
「なら先に──」
「すでに使いを出しました」
キースの指が、紙の端を掴んだまま止まった。
視線を上げると、ダイアナは机上の砂を払ってインクを乾かしているところだった。
「……早いな」
「侯爵様が魔攻砲の話をしている間、侯爵夫人は麦の話をするものです」
少しだけ棘のある声だった。
だが、その言葉の裏にある実務の確かさに、キースの強張っていた口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
「助かる」
「それは結構です」
ダイアナは帳簿を乾いた音を立てて閉じた。
だが、机の上にはまだ封を待つ書状が何通も整然と並んでいる。
キースの視線が、そこに書かれた宛名へ吸い寄せられた。
オールストン伯爵家。
ロザリア方面の大商会。
王都の穀物商組合。
そして、王都聖律院本院。
「これは」
「先に打てる手です」
ダイアナは指先で、書状の束を軽く叩いた。象牙色の紙肌に、トレンス家の家紋が刷られている。
「オールストンには領西部の輸送馬と荷車の取りまとめを。商会には穀物と塩。王都には兵と資材」
「聖律院には」
「人です」
キースの目が細くなる。
「北部支院だけでは足りません」
「本院が出すと思うか」
「出させます」
迷いのない、即座の返答だった。
キースは眉をひそめ、机へ一歩歩み寄る。
「王都では熱病が流行っていると聞いた」
「ええ」
「なら、なおさら治療師は出さん」
「でしょうね」
「分かっているのか」
「分かっているから行くのです」
キースが顔を上げる。
「行く?」
ダイアナは返答の代わりに、真鍮のスプーンで溶かした赤い蝋を新しい書状の合わせ目へ静かに垂らした。
「明朝、王都へ向かいます」
「駄目だ」
返答は即座だった。
ダイアナの眉が僅かに上がる。真鍮の印章を構えたまま、キースを見上げた。
「なぜです?」
「熱病が……出ている」
「知っています」
「お前まで病に倒れたら……!」
「では、誰を行かせます?」
キースの喉元で、言葉が詰まった。
冷たい沈黙のなか、ダイアナは蝋の上へ家紋の印章を押し当てた。ジュッ、と微かな熱の音が立つ。
「書状だけでは、王都は動きません」
彼女は立ち上がり、机越しにキースを真っ直ぐに見据えた。
「兵を寄越せと言っても、王都自身が疫病対応に兵を取られている。聖律師を寄越せと言っても、本院は患者で溢れている。薬草も布も馬車も、すべて奪い合いになるでしょう」
「だからこそ危険だ」
「だからこそ、侯爵夫人が行く価値があります」
「兵そのものが出せないなら、近隣諸侯へ兵を求める許可を取る。聖律師が出せないなら、地方支院から人を動かす承認を取る。王都の倉が開かないなら、商会へ王家の保証をつけさせる」
一枚ずつ、机の上に並ぶ書状を細い指で弾いていく。
「飛竜便の優先使用権。街道検問の一時簡略。軍需品の購入上限撤廃。必要なら聖律院の輸送車まで借ります」
キースは何も言い返せず、ただ立っていた。
城壁の上で兵を動かすのは男の役目かもしれないが、背後の国を動かすための血肉を掻き集めるのは、今この女がやろうとしていることそのものだった。
「あなたが北へ行くなら」
ダイアナが言った。
「わたくしは南へ行きます」
その言葉のあと、二人の間に短い沈黙が落ちた。
隣室では、とうに眠りについているはずの子供たちの気配がある。
長男アルバード。
次男エドモンド。
まだ父が侯爵であることより、剣を教えてくれる人間であることの方を身近に感じているような子供たちだった。
今夜も眠る前に、アルバードは明日の朝稽古を見てもらえるかと尋ね、エドモンドは父の外套の裾を掴んで離さなかった。
どちらにも、曖昧に頷いて頭を撫でることしかできなかった。
キースは何も言わず、閉ざされた扉の向こうへ一度だけ視線を向けた。
北には、魔獣の奔流。
南には、熱病に沈みかけた王都。
どちらも、人間一人が剣を振るってどうにかできる相手ではない。
「……いつ出るのです?」
ダイアナが先に訊いた。声の調子を平坦に戻している。
「明朝」
「ヴァルデシアへ?」
「ああ」
「御自身で」
「当然だ」
ダイアナはしばらく彼を見つめた。
夜風が鎧戸の隙間を鳴らし、机の上の蝋燭を激しく揺らす。
「……そうですか」
「止めないのか」
「止めれば……残りますか?」
「残らない」
「なら無駄です」
彼女は机の脇を回り込み、キースの前まで歩み寄ってきた。
鎧を脱ぎ捨てたばかりのキースの胸元、乱れていたチュニックの襟を、細い指先で丁寧に直す。
「ただし、一つだけ」
「何だ」
「死ぬ覚悟などしていかないでください」
キースが僅かに眉を寄せた。
「戦場だ」
「知っています」
「戻れない可能性もある」
「それも知っています」
「なら──」
ダイアナの手が止まり、胸元の布をぎゅっと握りしめた。
「戻れない可能性と、戻らない覚悟は別でしょう」
キースは口を閉ざした。
「あなたは侯爵です」
「分かっている」
「いいえ」
ダイアナの声はどこまでも低く、静かだった。
「剣士である前に」
キースの目が細くなる。痛いところを突かれた男の顔だった。
「あなたが一人で何十体斬ろうと、領地は動きません」
「……」
「戻ってきてください」
ダイアナはゆっくりと胸元から手を離した。指先が微かに震えていたのを、隠すように背中へ回す。
「ヴェリタスは、わたくしが預かります」
「お前は王都へ行くと言っただろう」
「ええ」
ダイアナは微かに口元を緩めた。
「だから、ヴェリタスがわたくし一人を必要としない形にしてから出ます。家宰とリーマスへ必要な権限は渡してあります」
キースも、引きつりかけた頬を緩め、僅かに笑った。
「欲張りだな」
「侯爵夫人ですから」
「もし私が」
「その先は禁止です」
「……ディア」
「帰ってから仰ってください」
一歩も引かなかった。
その瞳の奥には、夫を戦場へ送り出す貴族の妻としての誇りと、断じて未亡人にはならないという意地が宿っていた。
「遺言を聞くために嫁いだのではありません」
長い沈黙が部屋を満たした。
遠くで夜回りの兵の足音が通り過ぎていく。
やがてキースが、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは『必ず』でしょう」
「嘘は言えん」
「そういうところだけ、生真面目なのですね」
呆れたように息を漏らし、ダイアナは笑った。
そして。
ほんの一瞬だけ。
背負っていた領主夫人の重荷を降ろし、年相応の若い妻の顔になった。
「帰ってきてください、キース様」
「……ああ」
・・・・・
・・・
翌朝。
夜明け前の青黒い空の下、侯爵家練兵場にはすでに数百の兵が集められていた。
凍てつく朝靄の中に、吐き出される白い息と、擦れ合う鉄甲の鈍い音が満ちている。まだ薄暗い泥土を踏みしめる軍靴の足音に混じり、輜重隊が積み上げる槍衾の軋みや、遠くで馬が鼻を鳴らす低いいななきが響いていた。誰もが無言のまま、間近に迫った出陣の冷気に身を固くしている。
その重苦しい静寂を、怒声が一撃で叩き割った。
「遅ぇ!」
怒声が飛ぶ。
若い騎士が吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
「魔力を込めりゃ槍が勝手に敵を殺してくれると思ってんのか!」
跳ね上がった泥飛沫の向こうで、倒れた青年を見下ろしているのは、全身に生々しい古傷を刻んだ男だった。
ローダス・ケストレル。三十五歳。
トレンス家譜代の武家出身でありながら、格式張った正規の騎士団には属さない。だが、ひとたび戦場に出れば剣も槍も馬も自在に操り、その泥臭い実戦の腕を買われて騎士団の指南役まで務めてきた男だった。
そして今回、北部の混乱を駆け抜けるために緊急編成された遊撃隊の団長を命じられていた。
「立て、ギルバード!」
「立ってます……!」
「寝っ転がったまま口答えするんじゃねぇ!」
泥まみれの外套を払い、若いギルバード・ミレス・オールストンが跳ね起きた。
まだ成人の儀を終えて間もない体躯は、完成された戦士の厚みには届かない。それでも、鍛え上げられた骨格は同年代の中では十分に大柄で、悔しさに歪んだ双眸には強い闘気が宿っていた。
「もう一度!」
「槍を持て!」
「はい!」
「違う!」
穂先を構え直そうとしたギルバードの頭部へ、容赦のない木剣の薙ぎ払いが叩き込まれた。
「お前はなんで毎回、術式を起動してから構える!」
「その方が速いからです!間合いに入った瞬間には突き出せます!」
「魔力が垂れ流しになるだろうが、馬鹿野郎!」
ローダスが追撃の木剣で、兜越しに青年の頭を無造作に引っぱたく。鈍い衝撃にギルバードが歯を食いしばった。
「戦場じゃなぁ、強ぇ奴から死ぬんじゃねぇ!」
ローダスは木剣の切っ先を地面に突き立て、周囲を取り囲んでいた若い兵たちを鋭い眼光で見回した。
「無駄遣いする奴から死ぬんだ!」
ギルバードのすぐ後ろで槍を構え直していたエミールが、己へ切っ先が向いた瞬間、びくりと肩を跳ねさせる。
「エミール、お前もだ!受ける時に手首だけで止めてんじゃねぇ!魔獣の質量を舐めるな、骨ごと持っていかれるぞ!」
「は、はいっ!」
「魔力も!矢も!脚も!息も!全部だ!」
ローダスは木剣の柄を乱暴に叩いた。
「百回振れる剣を最初の十回で全力で振り回す馬鹿は、残りの九十回分死んでるのと同じだ!一匹殺して息を切らしてる間に、次の二匹目に喉笛を喰いちぎられるのが関の山だぞ!覚えとけ!」
若い騎士たちが息を殺して立ち尽くす中、隊列の後ろで荷車の車輪に腰掛けていた片目の古参兵——ポールが、研ぎ石を走らせていた短剣を鞘に納め、呆れたように息を吐いた。
「おいおい団長、出陣前から雛鳥の首をへし折る気かよ。ただでさえ頭数が足りねぇってのに」
「死に損ないを連れて行って餌にするよりはマシだ」
ローダスが吐き捨てる。
「ローダス」
背後から、低く落ち着いた声がかけられた。
ローダスが肩越しに振り返り、木剣を無造作に肩へ担ぎ直す。
「おう、若様」
冷たい朝の光を背に浴びて歩み寄ってきたのは、すでに漆黒の騎乗甲冑に身を包んだキースだった。背後には数名の伝令と幕僚を従えている。
「侯爵様と呼べ」
「学園出たばっかのガキに慣れるかよ」
「……卒業して何年経つと思ってる」
ポールが苦笑しながら立ち上がり、エミールは直立不動のまま青ざめて視線を彷徨わせた。周囲の正規騎士たちが不敬に息を呑む中、キースは眉一つ動かさず、軽く手を上げて制した。
「遊撃隊は」
「百八十三」
「少ないな」
キースの目が、ローダスの背後に控える一団へ向けられた。揃いの甲冑もなければ、掲げる旗もない。猟師上がりの軽歩兵、規律を嫌って本隊を弾かれたポールのような古参兵、そしてギルバードやエミールのような血気盛んな若手。雑多な寄せ集めだった。
「寄せ集めだ。数だけ増やしても邪魔になる」
「騎士団からもう少し回す」
「要らん」
ローダスは即答した。
「壁を守る奴は壁に置いとけ。分厚い石の後ろで槍衾作らせるのが一番役に立つ。こっちは壁の綻びた場所や、抜け出してきた化け物のケツを追っかけて走り回る連中だ。身軽で、足が速くて、何より死に損ないのしぶとい奴だけでいい」
「足りるか」
「足りるわけねぇだろ」
ローダスが笑う。
「だから足りなくなる前に仕事を終わらせる」
キースも僅かに口元を緩めた。
「頼む」
「頼まれた」
・・・・・
・・・
その頃、ヴァルデシア城壁上
見張り台の半鐘が絶え間なく鳴り響き、湿った北風が獣の腐臭を運んでくる。
平原の向こうに立ち上る土煙と遠い地鳴りに急き立てられるように、壁上の砲座では怒号が飛び交っていた。
「砲術師!仰角を戻せ、照準軸がずれている!」
「魔術師は何をしている、魔術陣の同調はまだか!」
「第三魔攻砲、術式盤交換!」
「魔晶核の出力が安定しません!」
「予備を持ってきて!」
「それは第二砲用です!」
「型が合わん!彫り師が違うのか、台座の溝に嵌まらない!」
「削れ!無理矢理でも押し込め!」
「魔導銀の象嵌が剥がれたらどうする!」
巨大な鉄の砲身と照準器を力任せに扱う砲術師と、魔導具の心臓部へ魔力を注ぎ込む魔術師たち。本来なら精密に組み合うべき両者の呼吸は、迫る死線を前に完全に乱れていた。一基ごとに手作業で彫り込まれた術式盤は、同じ魔攻砲でありながら微妙に癖が異なり、部品一つ容易に使い回せない。
冷却紋も排熱紋も、後世の補修と増設を重ねた結果、導魔線は盤面の上を蛇の巣のように這い回っていた。
平時なら数日かけて行う同調調律を、わずかな迎撃準備の時間で済ませようとする砲座は、すでに戦場の手前で恐慌に陥りかけていた。
その怒号の渦巻く工房のような砲座の中に、一人だけ、妙に若い少女がいた。
「待ってください」
エレノア・ハートン。
十六歳。
自らの身一つで魔法を紡ぎ放つ「魔導師」の外套を羽織りながら、彼女はその細い指で、魔術師たちの領分である第三砲の基部を覗き込み、眉を寄せた。
「この接続、逆です」
「何だと?」
脂汗を流す年嵩の魔術師長が、苛立ちを隠さずに振り返る。
「魔導師の小娘が術式盤に口を挟むな!お前たちは壁際で自分の杖でも握っていろ!」
「火炎術式の第三環です」
エレノアは怒声を意に介さず、盤面を指差した。
「昨日確認したぞ。試射の記録も残っている!」
「だからです。昨日は動いていたのでしょう」
エレノアは細い指先を、微かに熱を持った盤面へと滑らせた。爪先で溝をなぞると、焦げた絶縁油の臭いが鼻腔を突く。
「ここ、導魔線が焼けています。銀の象嵌が熱でわずかに浮いて、隣の線と接触しかけている。このまま魔力を流し込んだら、二射目で暴発します」
魔術師の顔から血の気が引いた。
道具としての術式盤をただ「起動」させるだけの魔術師には見抜けない、術式構造そのものの歪み。それを目の前の少女は、触れただけで看破していた。
「……術式技師を呼べ!」
その声を遮るように、胸壁の向こうから駆け込んできた伝令兵が怒鳴った。
「先行する小規模群を確認!本流の到達時刻は未だ不明!」
砲座の空気が、一瞬だけ張り詰める。
エレノアは伝令へ目も向けず、術式盤に指を置いたまま言った。
「聞いたでしょう。技師を待っている時間はありません」
「ではどうする」
「第三環を切ります」
「威力が落ちるぞ。射程も二割は縮む!」
「爆発して全員死ぬよりましです」
エレノアは即答し、腰の革袋から迷いなく打具を取り出した。代々受け継がれてきた美しい銀の刻印に、冷静に刃先をあてる。
その近くで、甲冑の擦れ合う音とともに、呆れたような男の声が落ちてきた。
「まぁた、勝手なことをしてるな」
エレノアが振り返る。
佩刀に手を添え、鎧を纏い、出陣の準備を整えたアールブの青年が立っていた。抜剣の時間を待ち受ける緊張感を、あえて軽口の裏に押し込めているのがわかる。
「勝手ではありません。それよりフェリクス、あなたこそ魔導師の護衛なのに持ち場を離れてフラフラしないでください」
「誰の護衛対象が勝手に持ち場を抜け出して、他所の砲座に潜り込んでると思ってんだ」
若い騎士——フェリクスは肩をすくめ、周囲で怒号を上げる砲術師たちに視線を走らせた。
「詠唱陣地の前列でお前の盾になるのが俺の役目だ。団長に無断で代々の資産を傷つけて、査問にかけられる小娘を庇う任務は拝命してない」
「撃ってから壊れたら遅いです」
エレノアは顔を戻し、打具に槌を当てた。甲高い金属音が砲座に響く。
「それで怒られるのは君だぞ」
「爆発して死ぬよりはいいでしょう」
遠くで魔獣の咆哮が重なり合い、城壁の石材をかすかに震わせた。歩兵たちの走る足音と、矢を配備する木箱の軋む音が、否応なしに戦の始まりを告げている。
「……相変わらず可愛げがない」
「あなたにだけは言われたくありません」
婚約者だった。
まだ二人とも、この戦いが終わったら何をするか。
そんな話をしていた。
「……戻ったら」
フェリクスが、腰の剣帯を締め直しながら言った。視線は壁外の地平線に向けられている。
「何です」
「式の日取りを決めよう」
「今それを言いますか?」
「今だからだ」
エレノアは僅かに目を伏せた。
指先には、黒く変色した銀の粉と機械油がこびりついている。
「フェリクス……戻ってからにしてください」
「約束だ」
「はいはい」
「軽いな」
「第三砲が爆発しない方が今は大事です」
「俺より?」
「当然です」
「ひどいな」
彼女は笑った。
ほんの少しだけ。
そして視線を術式盤の冷たい溝へと戻すと、ためらいなく槌を振り下ろし、銀の環を叩き切った。
胸壁の隙間から見下ろせば、城壁下の街道には、まだまばらながら避難民の列が南門へと続いていた。
荷車を引く者。背に幼子を負う者。家畜の縄を握ったまま、何度も北を振り返る者。
その列を縫うように、迎撃へ向かう騎兵が数騎ずつ北門を抜けていく。
門内では重装歩兵が槍衾を組み、防楯を運ぶ兵たちが怒号を交わしながら配置についていた。
まだ戦いは始まっていない。
だが城塞全体が、確実に戦場へと姿を変えつつあった。
・・・・・
・・・
出立の時刻が近づき、訓練を切り上げた兵たちは、それぞれ最後の装備確認へ散っていった。
南門へ向かう途中。
ダイアナは、練兵場の端で槍の穂先を確かめていた一人の若い騎士を呼び止めた。
「ギルバード」
声を掛けられた青年が、弾かれたように振り返る。
「……奥様」
ギルバード・ミレス・オールストン。
オールストン家に叙爵された寄子の騎士。
まだ若く、騎士としての経験も浅い。
それでもダイアナにとっては、嫁いだ後もなお故郷の名を背負って立つ、数少ない顔見知りの一人だった。
「少し、よろしいですか」
「もちろんです」
ギルバードは槍を脇へ置き、姿勢を正した。
ダイアナはすぐには口を開かなかった。
練兵場の向こうでは、出陣を控えた兵たちが慌ただしく動いている。
そのさらに奥。
キースが幕僚たちと何かを話していた。
「……あの人を……頼みます」
ギルバードが目を瞬いた。
「侯爵様を、ですか」
「ええ」
「私などが、お守りできる相手ではありません」
「剣の話はしていません」
ダイアナの声は静かだった。
「キース様は、自分が斬れば済むと思った瞬間が一番危うい人です」
ギルバードは、遠くにいるキースへ視線を向けた。
「強いですからね」
「だから困るのです」
ほんの少しだけ、ダイアナの口元が緩んだ。
「侯爵であることより、剣士であることを選びそうになった時」
彼女はギルバードを見る。
「止めてください」
「私が……?」
「ええ。あなたが」
「……聞きますかね」
「聞かせてください」
あまりにも即答だった。
ギルバードは困ったように頭を掻いた。
「閣下に殴られるかもしれません」
「その程度で済めば安いものです」
「ひどいもんですなぁ」
「オールストンの騎士でしょう」
その一言に、ギルバードの表情が少しだけ変わった。
ふざけた色が消える。
ダイアナは続けた。
「わたくしは王都へ行きます。あの人は北へ行く」
「はい」
「だから、わたくしの目が届きません」
僅かな沈黙が降りる。
「代わりに見ていてください」
ギルバードはしばらく黙っていた。
やがて、胸へ拳を当てる。
「承りました」
ダイアナが僅かに眉を上げる。
「随分と素直ですね」
「オールストン家の御息女に頼まれて、断れる寄子騎士がいたら見てみたいです」
「もう御息女ではありませんよ」
「私にとっては、そう簡単に変わりません」
ダイアナは一瞬だけ言葉を失った。
それから、微かに笑う。
「では、なおさらお願いします」
「はい」
ギルバードは今度こそ真っ直ぐ答えた。
「侯爵様を、ちゃんと連れて帰ります」
ダイアナはその言葉を聞き、ほんの僅かに目を伏せた。
「……ええ」
「必ず」
「その言葉は、本人にも言わせたかったのですけれどね」
「侯爵様、そういう約束は嫌いそうです」
「よく分かっていますね」
二人は小さく笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
出陣を告げる鐘が、練兵場の向こうで鳴り始めた。
・・・・・
・・・
出立を待つ練兵場の後方では、軍だけではないものが動いていた。
荷車へ矢束が積まれる。工兵用の鉄杭が束ねられる。副木と担架。洗った麻布。気付け用の酒樽。傷を洗う酢の小樽。湯と薬草を煮出す大釜。傷口へ当てる脂薬と、民間で使われる鎮痛草。
治せはしない。
治せる者の手へ渡すまで、人間を生かしておくための物資だった。
さらにその奥には、巨大な木枠へ分解された野戦魔攻砲が、何頭もの馬によって牽引車へ積み込まれている。
破城槍。予備の魔晶核。砲架。術式盤。
領都を守るために眠っていたものが、次々と北へ送られる準備を整えていた。
先発隊が出たあとも、ヴェリタスから北へ向かう車列は途切れないだろう。
必要なものを。使えるものを。運べるだけ。
すべて北へ。
そしてその一方で。
南門からは、王都へ向かう別の車列が出発の刻限を迎えていた。
財務官と輜重の係を乗せた、数台の頑丈な荷馬車。
積まれているのは武器ではない。重い金庫、トレンス家の手形、各大商会宛ての照会状、そして何十通もの公用書状。
夫人が、身一つで王都へ乗り込んだ後、その背後で結ばれるであろう膨大な契約と決済を引き受けるための、後続の実務部隊だった。
軍より速く。砲より軽く。
だが時として、それらより遥かに多くの人間を動かすもの。
印璽と、紙と、言葉。
北へ向かうキース。
南へ向かうダイアナ。
二人は城門前で顔を合わせなかった。
別れは、昨夜すでに済ませていた。
正午。
ヴェリタスを出る軍勢の先頭に、キースはいた。
騎士団。魔法師団。遊撃隊。工兵。荷車。
そして、まだ戦争を知らない若者たち。
城壁上には、見送るダイアナの姿はない。
彼女はすでに、出立に備え、書類の最終選別へ没頭していた。
キースは一度だけ南を振り返った。
何も見えない。
それでも、あちらへ行ったのだと分かっていた。
彼は前を向く。
「出発」
号令とともに、軍が動き始める。
北へ。
城塞都市ヴァルデシアへ。
その後ろから、魔攻砲も。破城槍も。布も。酒も。食料も。
侯爵領が持つありとあらゆるものが、遅れて北へ続いていく。
そして同じ頃、遥か南の王都では、人々が熱に浮かされ、聖律院の鐘が夜昼を問わず鳴り続けていた。
北の災厄を止めるために必要な助けは、よりにもよって、別の災厄のただ中にあった。