《追憶》 Ⅶ 辺境の雄
城塞都市ヴァルデシアの灰色の巨躯が見え始めたのは、西の空が鈍い鉛色から茜色へと濁りかけた頃だった。
北部大森林の深い緑を背負い、領都ヴェリタスへと続く幹線街道の喉元を扼する要衝。厚さ三層に及ぶ切石積みの防壁は、普段であれば街道を行く行商や巡礼の群れに揺るぎない安堵を与える。
だが、その日の城壁は、ただ人を拒む巨大な岩山のように沈黙していた。
街道の先、東の主門前は黒々とした人波で埋め尽くされている。
「……ひどいな」
手綱を引いたキースの呟きに、吐き出された白い息が混じる。
荷車の木輪が軋む鈍い音。泥に脚を取られた輓馬の鼻息。荒縄で幾重にも縛り上げられた箪笥や寝具、手押し車に山積みにされた穀物袋。背を曲げた老人の裾を掴んで、声を嗄らして泣きじゃくる幼子。道端には、車軸が折れて横倒しになった荷車がそのまま放置され、積まれていた雑穀が泥水の中に散らばっていた。
城門の狭間からは、甲冑姿の衛兵たちの怒号が絶え間なく響いている。
「荷車は二列に並べ!二馬幅を超える大車は外の側道へ落とせ! 車軸を折ってでも退かせろ!」
「人を先に通せ!家財は後だ!」
「家畜の引き綱を離すな!踏み潰されるぞ!」
「木札の番号を見せろ!検問の手を止めるな!」
兵士の一人が、泥にまみれた通行許可の木札を検め、帳面に手早く炭筆を走らせては次の避難民を押し込んでいる。だが、押し寄せる人の圧力は、引かれた綱の限界をとっくに超えていた。
「先遣隊への通達通り、城門の非常通行規程は敷かれているようですが……」
馬上から背後の副官が声を落とす。
「これでは日没までに半分も捌ききれません。受付の台帳が追いついていない」
その言葉が終わるかどうかの刹那だった。
城壁の中央、監視塔の頂から、重苦しい青銅の音が叩きつけられた。
一度。
間を置かず、二度。三度。
金属の余韻が空気を震わせ、城門前の雑踏が一瞬で凍りつく。定刻の鐘ではない。間隔を詰めた連打──外敵の急襲を告げる警戒鐘だった。
キースの視線が跳ね上がる。
「北か!」
「物見台より伝令!」
城壁の上で、赤旗が激しく振られた。
「北街道、早馬一騎!本道へ突っ込んできます!」
人波を裂くようにして、泥にまみれた一騎が街道を逆流してきた。軍馬の口元からは白い泡が絶え間なく垂れ、騎乗の斥候兵は鞍にしがみつくようにして前傾している。
避難民が悲鳴を上げて左右へ飛び退き、馬はキースの乗馬の十歩手前で前脚を滑らせて崩れ落ちた。
「閣下……!」
泥水に叩きつけられた斥候が、割れた面当てを手で跳ね上げながら這いずる。キースは躊躇なく鐙を外し、自ら泥濘へと降り立った。
「落ち着け。報告を」
「北方、馬ふた汗の距離……!大森林の外縁が完全に破られました!」
斥候の喉がヒューヒューと鳴る。吐瀉物の混じった息を吐き出しながら、胸当てから皺だらけの観測札を差し出した。
「魔獣の群れです……!先頭だけでも優に数百、後続は測れません!」
「種別は」
「影狩竜の群れが前衛!左右に焦土竜の足跡を複数確認! さらに後背……地鳴りと共に、鉄爪竜の巨躯が複数!少なくとも三!」
周囲の護衛兵たちから、息を呑む音が漏れた。
鉄爪竜。鋼の異名を取る鉤爪と、騎兵に匹敵する脚力を持つ大型獣脚竜だ。単体でも厄介だが、真に恐ろしいのはその知能と群れでの狩りにある。獲物の逃げ道を読み、左右へ散って包囲し、弱った一点へ集中して食い破る。数頭がまとまれば、重装歩兵の隊列すら正面から崩される。
そして焦土竜。分厚い鱗と巨躯を持ち、吐き出す火炎で獲物だけでなく、その退路ごと焼き払う大型種。
「進行速度は」
「街道の勾配をものともしていません。日没前……あと半刻と保たずに先頭がこの直走路へ現れます!」
キースは視線を転じた。
街道の先、北の森へと続く緩やかな下り坂には、まだ数千を超える避難民の列が延々と続いている。子供を背負った母親が、足をもつれさせながら歩いていた。歩みを止めれば、後ろから押されて泥に倒れる。
「……いま門を絞れば、この外の民はすべて背後から喰われるな」
「閣下」
近習が声を震わせる。
「防壁の防衛規程に従うべきです。門前の混乱を収拾しないまま接敵されれば、門扉の閉鎖が間に合わず、都市内部へ雪崩れ込まれます」
「分かっている」
短く返し、キースは再び馬の背へと跳ね上がった。
「馬を中央塔へ。父上にお目通りする」
・・・・・
・・・
ヴァルデシア中央塔、上層作戦室。
外の喧騒を遮断する分厚い石壁の中、すでにゲアハルトは羊皮紙の領内地図へ視線を落としていた。
卓上には、魔攻砲の稼働状況を記した真鍮の札と、兵站の報告書が整然と並べられている。
「戻ったか」
老侯爵は息子の姿を確かめると、視線を地図から外さずに言った。
「報告は上がっている。北の外縁哨戒線は壊滅した」
「こちらも外で斥候を拾いました。影狩竜を先頭に数百、大型の混成です」
「防壁の魔攻砲は五基が即応。二基は戻り水の温度が上がりすぎている。いま貯水槽を切り替えている。残る一基は導魔槍に亀裂が入っている。捨てろ」
「撃たないのですか」
「予備の導魔槍は王都からの輜重隊が足止めを食らって届いておらん。撃てんものを頭数に数えるな。計算が狂う」
父の声には、怒りも焦燥もなかった。三十年にわたり辺境の血風を吸い続けてきた老将の、磨き抜かれた刃物のような平坦さがあった。
キースは卓上の領内図に目を落とす。赤い木片が、外郭門の前に密集して置かれている。
「避難民の収容状況は」
「先刻の集計で三千二百。街道に残っているのは、おそらくその倍だ」
「……収容が間に合いません」
「だろうな」
老侯爵は、手挟んでいた黒い石の駒を、門の内側ではなく外郭の防衛線の上に置いた。
「日没と同時に、外郭の主門を閉じる」
室内の空気が一段、重く沈んだ。
キースが眉根を寄せる。
「まだ外に数千の民が残っています。荷を捨てさせ、二列から四列へ改めれば、あと半刻あれば──」
「北からの先頭集団が到達するまで半刻だ」
父は冷徹に言葉を遮った。
「魔獣の突進力を見誤るな。避難民の最後尾が門を潜る前に、先頭の足の速い群れが雪崩れ込む。門前が混乱すれば、跳ね橋を上げる間もなく跳ね飛ばされるぞ。そうなれば城内へ引き入れ、市街戦だ。三千どころか、城塞都市の住民四万が死ぬ」
「しかし」
「キース」
父が初めて顔を上げた。白髪交じりの眉の下から、射抜くような眼光が息子を据える。
「お前は現当主だ。この領地の帳簿を握り、兵の命を預かる侯爵だ」
「分かっています」
「ならば命じろ。『門を閉じよ』とな。それがお前の仕事だ」
吐き出された言葉は、石壁の冷気よりも重くキースの肩へ伸しかかった。
外で泥を這う民を見捨てる決断。四万を生かすために、数千の同胞の背中に巨大な鉄扉を降ろす決断。為政者が背負わねばならない冷酷な天秤。
キースは卓上の地図をじっと見つめた。
北街道の緩やかなカーブ。長槍二つ分の石畳。両脇を切り立った崖と湿地に挟まれた、ただ一本の細い道。
「……父上」
「何だ」
「全軍の指揮と、魔攻砲の運用権限を一時的に父上へお返しします」
老侯爵の眉がわずかに動いた。
「どういう意味だ」
「私が直掩隊と親衛騎士を率いて外へ出ます。街道の隘路、第三渡河点に防衛線を張り、日没まで敵の前衛を足止めします」
「却下だ」
父の声が一気に低くなった。
「私が出れば、最低でも半刻は稼げます。その間に避難民の荷をすべて焼き払わせ、身体一つで門へ走らせれば──」
「戦術の話をしておらん」
「では何の話です!」
「お前が死ねば、この家はどうなる」
父は机の上の帳簿を指先で強く叩いた。
「領主が討ち死にすれば、相続の混乱に乗じて誰がこの防壁の維持費を出し、誰が戦後処理の補償を通す。お前がここで首を落とせば、残された民も都市も、次の冬を越せん」
「父上がおられる。アルバードも……下の子もまだいる」
「私はもう老兵だ。いつまで生きている」
キースは唇を噛み、言葉を呑み込んだ。
老侯爵は息子を見据えたまま、諭すように告げる。
「お前は家名を背負う頭脳であって、一振りの剣ではない。個人の武勇で戦況を誤魔化そうとするな」
「今は、その剣が足りていないのです」
キースは一歩踏み出し、父の目を真っ向から見返した。
「私がこの部屋で帳簿を眺め、規定通りに門を閉ざす命令を下している間に、外では領民が背中から喰いちぎられる。そんな当主を、誰が次の冬に信用して従いますか」
「……全てを救うことはできん。それは領主の傲慢だ」
「全てを救うとは言っていません」
キースの手が、腰の佩刀の柄へ触れた。指先が微かに白くなるほど強く握りしめられる。
「救える計算が立っている命を、安全な塔の中から見殺しにはしないと言っているのです。北街道の道幅は三馬並び。両脇は湿地です。第三渡河点はさらに狭く、長槍ふたつ分の隘路だ。私の間合であれば、敵の前衛を堰き止められます」
作戦室に沈黙が降りた。
遠く、階下から微かに響く避難民のざわめきと、城壁の上で兵たちが魔攻砲へ魔石を装填する金属音だけが、床板を通じて伝わってくる。
父と息子の視線が、刃を交えるようにぶつかり合っていた。
やがて、老侯爵の喉から、深く、重い吐息が洩れた。
老将は卓上の砂時計を引っくり返し、細い砂が落ち始めるのを見届けると、地図の横から一本の真鍮の鍵を取り上げた。
「……日没までだ。砂が二落ちし──」
キースが息を止める。
「……外郭の監視鐘が六度鳴った瞬間、何があろうと主門の閂を下ろさせる。お前が門の外にいようが、敵と刃を交えていようが、容赦なく跳ね橋を切り落とす。──良いな」
「はい」
「二度は言わん。六度目の鐘だ。遅れれば、お前自身が外で魔獣の餌になれ」
「承知しています」
「返事の勢いだけは一人前だな」
老侯爵は吐き捨てるように言い、真鍮の鍵を卓上へ放り出した。
「騎兵三十、重装歩兵五十を持っていけ。それ以上は城壁から出さん。……行け」
「感謝します、閣下」
キースは深く一礼し、踵を返した。マントを翻して扉へ向かうその足取りには、先刻までの迷いは微塵も残っていなかった。
・・・・・
・・・
西側兵舎の石畳に、鉄甲の擦れ合う乾いた音が絶え間なく響いていた。
荷駄の積み込みと予備武器の点検でごった返す兵舎前広場で、遊撃隊長のローダスは喉が裂けんばかりの怒声を張り上げていた。
「術式槍の起動紋を弄るなと言ったはずだ! 接敵前の空焚きで魔石をすり減らすな! 光らせて威嚇できる相手なら最初からこんな街まで逃げてこねぇ!」
「は、はい!」
「追尾矢の筒を開けた奴は誰だ! 大型の急所を狙うための一本二枚銀の代物だぞ! 狼一匹に撃ち込んだ奴は、生きて帰ってきても俺がこの手で叩き殺す!」
「団長!」
胸当てを泥で汚した物見の兵が、息を切らせて駆け寄ってくる。
「何だ!」
「北の稜線に砂塵! 街道側面の樹海から鳥が一斉に飛び立ちました!」
直後、城壁の胸壁の上から見張りの絶叫が降ってきた。
「北の針葉樹林が揺れている! 森ごとこっちへ滑り落ちてくるぞ!」
ローダスは忌々しそうに奥歯を噛み鳴らし、舌打ちを一つ落とした。
「ギルバード!」
「ここに!」
列の端から、長大な術式槍を脇に抱え込んだ若い騎士が駆け戻ってくる。肩当の革紐を締め直す指先が微かに震えていた。
「お前は第三班の先頭に入れ」
「第一班ではなかったのですか?」
「今変えた。文句を言うな」
「理由を伺っても!?」
「第一班は気合いが空回りした脳筋の集まりだ! お前の方がまだ人の言葉を耳で聞ける!」
「それは……褒め言葉として受け取ってよろしいので?」
「死にたくなきゃ黙って従え! 生き残ってから酒場で講釈垂れろ!」
その怒声の最中、重々しい鎖の巻き上げ音が響いた。
外郭主門の脇、歩兵用の通用門が跳ね上がり、軋んだ鉄扉が押し開かれる。
避難民を押し戻す兵たち、そして遊撃隊の面々が一斉に視線を向けた。
出撃を告げる騎馬の蹄音ではない。
ただ一人、硬質な軍靴の足音を石畳に響かせ、外の泥濘へと歩み出ていく影があった。
佩刀の柄に左手を添え、深い紺色の外套を泥風に棚引かせた背中。
「……若様?」
ローダスの太い眉が跳ね上がった。
「馬も連れずに、何やってやがるんだあの馬鹿は!」
門扉の脇に詰めていた当直副官が、青ざめた顔で書類を握りしめながら叫んだ。
「侯爵閣下の直命である!避難民の退路確保および先頭集団の破砕のため、当主自ら前進される!」
ローダスは片手で乱暴に自らの額を押さえ、深く天を仰いだ。
「……あのクソ坊主が。帳簿の桁を数える頭はどこへ落としてきやがった」
吐き捨てた言葉とは裏腹に、髭面に歪んだ笑みが貼りつく。
引き抜かれた広刃の大剣が、鈍い鉛色の空の下で銀色の弧を描いた。
「おい、ぼさっと突っ立ってんじゃねぇ!全隊、抜剣!足回りの泥を蹴散らせ!」
「え、団長!?」
「若様一人に全部の手柄をかっ攫わせる気か! 殿様に先陣を切らせて城壁の中で指くわえて待ってたら、戦後に飯の種がなくなるぞ!」
ローダスは大剣の平で自らの胸当てを甲高く叩き鳴らした。
「遊撃隊、前へ! 若様の背中を死んでも踏み越えさせるな!」
・・・・・
・・・
北街道の緩やかな傾斜の向こう、森の輪郭がざらざらと崩れ始めた。
最初は、街道の白泥の上に散らばる胡椒の粒のような黒い点だった。
それが瞬く間に線を結び、黒々とした群れとなり、やがて視界の端から端までを埋め尽くす濁流へと膨れ上がる。
狂気に駆られた魔獣の群走。
牙を剥き出しにして涎を撒き散らす灰色狼の群れ。丸太のような胴体で低木をなぎ倒す巨猪。枝分かれした黒角を低く構えた長躯の鹿。濡れた鱗を波打たせる四足の大型爬虫類。
奇妙な節足と甲殻を持ち、地表を滑るように走る肉食獣。
どれ一つとして、目前の人間を獲物として値踏みしてはいなかった。
ただ後ろから迫る何かから逃げ惑うように、血走った眼球を剥き出しにし、南へ、城壁の狭間へと雪崩れ込んでくる。
「荷を捨てろ! 立ち止まるな!」
キースの声が、乾いた風を裂いて響いた。
「身軽な者から走れ! 門をくぐるまで振り返るな!」
街道の路肩で、赤子を胸に抱いた母親が足を取られて派手に転倒した。泥水が跳ね上がり、すぐ背後から、血に飢えた灰色狼の先頭が顎を裂いて跳躍する。
その母子の横を、紺色の影が一瞬で駆け抜けた。
一息。
泥を踏み抜く一歩。
二歩、三歩。
交錯の刹那、抜刀の音すら置き去りにした白光が水平に走る。
跳躍した狼の胴体が、中空で真っ二つに泣き分かれて泥濘へと叩き落とされた。
血煙が散る間もなく、キースの足元が低く沈み込む。
反転。
踏み込み。
喉首を狙って突っ込んできた二頭目の眉間を、正確無比な突きが貫通する。
引き抜きざまの薙ぎ払いで、三頭目の前脚を断ち切り、無駄のない足運びで四頭目の頭骨を柄頭で粉砕した。
わずか数瞬の間に、母子の前に肉の防壁が築かれる。
キースは切っ先を泥へ向けたまま、振り返りもせずに左手を差し伸べた。
「立て」
泥塗れの母親の腕を掴み、力任せに引き起こす。
「走れるか」
「あ、ああ……!」
「子供を抱えろ。門まで直線だ。脇目も振らずに走れ!」
母親が震える脚で地を蹴り、城門へ向かって転がるように逃げていく。
だが、安堵する間もなく、街道の気温が肌を刺すように急降下した。
濃密な魔力の淀みが、森の出口から吹き抜けてくる。
キースが視線を正面へ戻す。
樹海を薙ぎ倒し、木屑を撒き散らしながら、五頭の異様な巨躯が飛び出してきた。
体長二馬身を超え前傾姿勢で地を駆ける中型竜。発達した後肢には鋼を思わせる巨大な鉤爪が生え、漆黒の皮膚には血管のように赤い魔力紋が明滅している。
獲物を追うためだけに研ぎ澄まされた、捕食者の造形。
獣脚竜ほどの重量はない。しかし、走狗竜特有の長い後肢と尾が生み出す加速は、騎馬すら置き去りにする。
「
駆け上がってきた騎士が引き攣った声を上げる。
「五……いや、六頭いるぞ!」
「待て、七頭だ! 数が増えている!」
街道を走る巨躯が、陽炎のようにブレて輪郭を二重、三重に増殖させていた。地面を蹴る実体と、その左右を並走する漆黒の幻影。
「幻惑に惑わされるな!」
背後から追いついたローダスの怒号が、混乱しかけた兵たちの鼓膜を叩いた。
「影は土煙を上げねぇ! 地面を蹴って泥を跳ね上げてる本体だけを網膜に焼き付けろ!」
ドレッド・ハンターの一頭が低く唸りを上げ、街道の左手、湿地帯へ回り込む。
もう一頭が真正面から低空を滑るように突進。
三頭目が、逃げ遅れた避難民の背後を刈り取るべく大きく跳躍した。
「陣形を崩すな!」
ローダスが大剣を両手で構え、突進してきた正面の一頭の鼻先へ踏み込む。
「こいつらは獲物を散らしてから各個撃破する習性だ! 背中を合わせろ!」
「はあああっ!」
鋭い気合いと共に、ギルバードが前へ出た。
抱え持った術式槍の基部に魔力を流し込む。刻まれた術式環が淡い青光を放ち、螺旋状の突風が槍身を包み込んだ。
「起動が早すぎるぞ、馬鹿野郎!」
「今、目の前にいるんです!」
「なら確実に急所を抉れ!」
風を纏った穂先が、右から回り込んできたドレッド・ハンターの分厚い肩口を捉えた。硬質な甲皮を螺旋の突風が食い破り、肉と骨を穿つ鈍い手応えがギルバードの腕を伝う。
巨体が甲高い悲鳴を上げ、側道へ横倒しに転がった。
だが、その倒れた巨体の背後から、音もなく別の漆黒の影がギルバードの死角へ滑り込んできた。
凶悪な前脚の爪が、無防備な首筋へ振り下ろされる。
「しまっ──」
ギルバードの反応が半拍遅れる。
「そいつは影だ、下がるな!」
横合いから割り込んだキースの鋭い一喝。
ギルバードの眼前を通過した影には触れず、キースの剣はさらにその半歩後ろ、何もない空間へ向けて一直線に突き出された。
肉を断つ確かな感触。
空間が歪むようにして、姿を隠していた本物のドレッド・ハンターが姿を現す。その開かれた喉笛には、キースの長剣が鍔元まで深々と突き刺さっていた。
ギルバードが息を呑み、喉を鳴らす。
「い、今のは……」
「影は足音が軽い。大気を押しのける風切り音がない」
キースは剣を引き抜き、飛び散る黒血を外套で払った。
「戦場で講釈垂れてる暇があるなら、次の獲物を探せ!」
ローダスが横合いから割り込み、脚を止められた別の個体の頭部へ、全体重を乗せた大剣を叩き割るように振り下ろした。
・・・・・
・・・
その頭上、遥か高くそびえる城壁の胸壁では、焼け付くような熱気が渦巻いていた。
「第一魔攻砲、魔力充填完了!」
魔法師団長の手が、風を切り裂いて振り下ろされる。
「目標、街道東側の湿地帯外縁!本道の避難民と味方遊撃隊を巻き込むな!砲角下げ三度!」
「照準固定、術式固定環、連動良し!」
「撃てぇっ!」
鼓膜を押し潰すような重低音が城壁を揺るがした。
穂先から撃ち出された圧縮火炎の巨大な光弾が、濛々たる白煙を曳きながら放物線を描く。
街道の脇、魔獣が密集して雪崩れ込んでいた雑木林へ直撃した。
衝撃波が木々を根こそぎ薙ぎ倒し、火柱が数十丈の高さまで噴き上がる。
巻き込まれた数十頭の魔獣が、悲鳴を上げる間もなく炭化し、爆風によって四散した。
「初弾命中!後続の突進速度が鈍りました!」
「第二砲、急げ!間髪入れずに叩き込め!」
「だ、第三砲!導魔槍の冷却が追いつきません!」
観測手が叫び返す。
「次弾発射まで、あと何息だ!」
「二十息必要です!排熱紋が飽和している!導魔線の温度が下がりません!」
「十五息で絞り出せ!下に若様が出ているのが見えんのか!」
「無理に圧を上げれば魔術陣が焼き切れます!」
「焼き切れたら予備の石を嵌め直せ!手足を動かせ!」
怒号と金属音が錯綜する砲列のわずか数歩後方。
エレノアは額に張り付いた髪も払わず、第三魔攻砲に組み込まれた術式盤を凝視していた。
指先から淡い光を伸ばし、刻まれた幾何学模様の溝をなぞる。
「第三砲の砲術師!基底魔力の流量を二割落としなさい!」
甲高い指示が、砲術師たちの怒声を切り裂いた。
「なっ……流量を落とせば、着弾時の爆縮威力が半減するぞ!」
年配の魔術師が、汗塗れの顔を歪めて振り返る。
「このまま規定値で撃ち込めば、術式盤の第三環が負荷で融解します!この一発で砲を潰す気ですか!?」
「今ここで叩かなければ、街道の防衛線が押し切られるんだ!」
「二射目が撃てなくなれば、結局その後に押し切られます!」
エレノアは一歩も引かず、術式盤の安全環に指を滑り込ませた。
「貫通術式は死んでいる!拡散火炎の術式だけを残して展開しなさい!」
「馬鹿を言え、それでは大型種の装甲を貫通できん!」
「大型の足元を焼いて進路を狂わせれば十分です!威力を捨てて導魔線の負荷を落とします!第三環を避けて冷却紋へ流します!回り道してる線を二本潰せば間に合う!」
少し離れた胸壁の影では、フェリクスが長弓を引き絞っていた。
その長弓は、一般的な騎士弓よりわずかに幅広い。
握りから上下へ伸びる弓幹には、銀色の細い刻線が一本ずつ走っていた。
弓の両端には、飾り気のない三つの切れ込みが刻まれている。
番えられているのは、どこにでもある鉄鏃の通常矢だった。
弓幹に刻まれた簡素な補助紋が淡く灯り、指先から流れ込んだ魔力が銀の刻線を走り、番えた矢へと収束していく。
貫通術式──強穿矢
鏃へ魔力を集中させ、矢柄の撓みを抑えて射速と貫徹力を引き上げる。弓兵なら珍しくもない初歩の貫通術式だ。
フェリクスが弦を放つ。
放たれた矢は風を裂き、城壁下で歩兵へ飛びかかろうとしていた灰狼の肩口へ深々と突き刺さった。
一射。
間を置かず、二射目。
今度は影狩竜の眼前へ撃ち込み、その進路を僅かに逸らす。
大型を仕留めるほどの威力はない。
それでも、ほんの一歩ずらせれば十分だった。
「おいおい、お嬢ちゃん。また後で兵站部と工兵隊から大目玉を食らうぞ」
三本目を番えながら、フェリクスが口元を歪めた。
エレノアは振り返りもせず、術式盤の刻印を素早く組み替える。
「減給の通達なら後でいくらでも受け取ります!生き残っていればの話ですが!」
エレノアが振り返る。
その瞬間、彼女の周囲に六本の氷槍が音もなく展開した。
詠唱はない。
指先を僅かに払うと、六条の白光が胸壁を越え、ほとんど同時に城壁下へ降り注いだ。
一頭の灰狼が頭蓋を貫かれ、二頭目が胸を穿たれる。
続く四本が、押し寄せていた小型魔獣を次々と地面へ縫い止めた。
フェリクスが、まだ弦に掛けたままの四本目の矢を見下ろす。
「……俺、要る?」
「護衛でしょう。仕事をしてください」
エレノアはすでに術式盤へ向き直っていた。
「私は今、手が離せません」
「六匹まとめて殺した奴が言う台詞かよ……」
・・・・・
・・・
街道の白泥を蹴散らし、樹林の裂け目から大型の獣脚竜が滑り出てきた。
「ヴェ、鉄爪竜!」
誰かが叫ぶ。
一頭。
二頭。
三頭。
そのどれもが、鉄爪竜と呼ぶにはあまりにも大きい。
全長は十馬身近い。青みがかった灰色の皮膚の下で、細身ながらも長大な筋肉の束が波打ち、発達した前肢には鋼の鉤を思わせる巨大な爪が並んでいる。
「くそっ、群れだ!」
騎士たちが槍を構え直す。
だが、先頭の一頭を見たローダスの顔から、瞬間的に血の気が引いた。
「……待て」
骨節は太く、首回りには古傷が幾重にも走っている。
そして何より、下顎から喉にかけて異様に発達した袋状の器官があった。
その喉が、ゆっくりと波打つ。
「違う!」
ローダスが怒鳴った。
「鉄爪じゃねぇ!大鉄爪だ!」
空気が凍った。
長く生き延びた鉄爪竜の中でも、群れを率いるまでに老成した上位個体。
単に身体が大きいだけではない。獲物の動きを読み、群れを操り、そして成熟した魔力腺から腐食性の体液を吐き出す。
「一頭だけじゃない!」
別の騎士が悲鳴じみた声を上げる。
二頭目。
三頭目。
いずれも喉が膨らんでいる。
「……三頭とも、大鉄爪だと?」
次の瞬間、中央の個体が前脚を止めた。
下顎の皮膚が風船のように膨張し、その奥で黄色い粘液が泡立つ。
「ブレスだ!頭を下げろ!」
前衛の騎士が絶叫した。
直後、空気を腐らせるような異臭と共に、黄色く濁った酸の飛沫が霧状に散布される。石畳に触れた端から、ジュウと耳障りな音を立てて白煙が噴き上がった。
キースが一歩前へ踏み込む。
「散開するな、抜けるぞ!」
引き絞られた長剣が、袈裟懸けに振り下ろされた。
刃が裂いたのは獣の肉ではない。凝縮された魔力の圧力が生み出す鋭利な気流が、霧状の酸を真正面から叩き斬り、左右の側道へと強制的に吹き散らした。
だが、微細な飛沫のすべては払いきれない。
後続で盾を構えていた騎士の左肩へ、数滴の飛沫が降り注ぐ。
「ぐあああっ!」
鉄の肩当てが瞬時に沸騰するように泡立ち、内側の革鎧を溶かして肉を焦がした。
「金具を外せ!」
横から飛び込んできたローダスが、男の革紐を短剣で乱暴に切り飛ばす。
「肩当てを捨てろ!肉まで溶け落ちる前に剥ぎ取れ!」
泥の中に焼け落ちた装甲が落ち、白い煙を吐き出す。
その隙を逃さず、グラン・ヴェロックスが酸で崩れかけた隊列へ向けて突進した。鎌のような前脚の鉤爪が、空気を切り裂いて振り下ろされる。
「第三班、引くな!」
ギルバードが槍柄を腰に押し当て、低く構えた。
「左から挟み込め!関節を狙え!」
三人の騎士が同時に地を蹴り、槍身の術式刻印を起動させる。
刺突術式──《穿槍》
穂先へ絞られた魔力が青白い螺旋となって噴き上がり、三本の槍が同時に巨竜の装甲へ食らいついた。
一本は頑丈な肩口の骨節に弾かれた。
だが、もう一本が脇腹の軟条部へ深々と突き刺さり、最後の一本が軌道をかすめて前脚の腱を抉る。
質量に勝る巨体の突進が、激しい衝撃と共にわずかに右へ逸れた。
「今だ、矢を放て!」
後方の胸壁から、鋼の弦が唸りを上げた。
放たれた二本の術式矢が、空中で自立的に推進魔力を噴き上げる。
蛇のように鋭い弧を描き、逃げる獲物を追うように軌道を修正していく。
そのさらに後方で、フェリクスも一本を番えた。
先ほどまで使っていた強穿矢とは、魔力の通し方が違う。
弓幹の銀線を走った光が鏃へ一点に集まり、両端の刻みのうち二つが淡く灯る。
貫通術式──《硬穿》
硬質な甲殻や骨節を抜くため、瞬間的な威力よりも鏃の強度と一点への貫徹に寄せた術式。
フェリクスが放つ。
二本の追尾矢がグラン・ヴェロックスの顔面へ殺到する、そのわずか後。
硬穿の一矢が一直線にその間を抜け、眼窩ではなく、その下にある薄い骨板へ深々と突き立った。
直後、追尾矢が狙い過たず右眼球へ吸い込まれる。
爆縮。
眼窩の中で魔力が炸裂し、獣が鼓膜を破る絶叫を響かせてのけぞる。
その無防備に晒された喉元へ、キースの影が滑り込んでいた。
踏み込みの瞬間、足元の石畳に放射状の亀裂が走る。
下から上への斬り上げ。
硬質な鱗の継ぎ目を滑るように刃が通り抜け、太い頚動脈を一撃で断ち切った。
黒い血飛沫が弧を描き、巨体が石畳の上へ音を立てて崩れ落ちる。
「次が来るぞ!」
キースは返り血を拭うこともなく、すでに切っ先を次の個体へと向けていた。
・・・・・
・・・
西の空を覆っていた鉛色の雲の端が、どす黒い朱色に染まり始めていた。
だが、北街道の避難民の列は、未だに途切れる気配を見せない。家財を捨て、着の身着のままで走る人々の列の最後尾は、まだ数百歩も後方にあった。
突如、街道の左手、雑木林の奥が一瞬にして昼間のように赤く照らし出された。
「火だ!」
避難民の中から悲鳴が上がる。
「火災じゃない、奴らのブレスだ!」
樹木を焼き払いながら姿を現したのは、鈍重な甲殻に覆われた三頭の
その先頭の一頭が、溶岩のような熱気を帯びた太い首を大きく左右に振った。
開かれた巨大な顎から、猛烈な火炎放射が吐き出され、街道の敷石を舐め尽くすように迫る。
「全員、伏せろ!」
キースが駆け戻り、避難民の背中を庇うように立ち塞がった。
剣を両手で握り、柄頭を胸元へ引きつける。
切っ先を垂直に立て、大気中の魔力を刃の稜線へと強引に集約させる。
剣閃術式──《冰鋭閃》
振り抜かれた剣筋に沿って、圧縮された冷気が空間を両断した。
激突した火炎の濁流が、まるで頑丈な防波堤にぶつかった波のように左右へと分断され、避難民たちの頭上を掠めて湿地帯の泥水へと消えていく。
城壁の胸壁の上から、兵士たちのどよめきが歓声となって降ってきた。
「止めたぞ!」
「侯爵閣下が火炎を断ち割った!」
だが、歓声に浸る猶予などなかった。
二頭目のテラ・レイスが、キースの死角、避難民の密集地点へ向けて首をもたげる。
キースが振り返る。
距離がある。剣圧による相殺は間に合わない。
「第一魔攻砲、氷槍術式!」
遥か頭上、城壁から魔法師団長の声が風を裂いた。
青銅の導魔槍から、濃紺の光条と共に長大な氷の槍が撃ち出される。
大気を切り裂いた氷槍は、火炎を吐き出そうとしていたテラ・レイスの剥き出しの胸部へ正確無比に直撃した。
装甲を粉砕し、体内へ深々と突入して内部から凍結させる。
巨体が内側から破裂するように倒れ伏し、二度と動かなくなった。
残る三頭目へ向けて、城壁から無数の術式矢が降り注ぐ。
軌道を曲げながら殺到する矢が、脚の関節、喉、眼球へと吸い込まれ、姿勢を崩したところへローダス率いる遊撃隊が突っ込んだ。
「足を止めろ!槍を突っ込んで体重をかけろ!」
騎士たちの術式槍が風を巻き込み、テラ・レイスの装甲の隙間へ次々と突き立てられる。
その瞬間だった。
街道の敷石を通じて、鈍い地響きが足裏を叩いた。
ドスン。
一度。
周囲の兵士たちは誰も意に介さなかった。魔攻砲の着弾と大型種の突進で、地面の揺れなど数え切れないほど起きていたからだ。
だが、二度目の揺れは違った。
ズシン、と骨を揺さぶるような重低音が響き、道端の水たまりの水面が同心円状に激しく波打った。
大剣を構え直そうとしたローダスの動きが、ピタリと止まる。
「……おい、何の音だ」
北街道の奥、針葉樹林の巨木が、まるで紙細工のようにへし折られた。
一本ではない。十本、二十本という大木が、左右へと押し分けられ、根こそぎ薙ぎ倒されていく。
「大型種か!?」
見張りの兵が叫ぶ。
「いや、違う……何だあれは、桁違いだぞ!」
倒木の間から、ぬっと姿を現した頭部。
太古の巨岩を削り出したかのような、禍々しく角張った顎。
大木の幹ほどもある太い首筋から背中にかけて、黒褐色の硬質鱗がびっしりと幾重にも重なり合っている。
大地を踏みしめる太い後脚は、荷馬車を引く輓馬の胴回りすら凌駕していた。
全長、優に十数馬身。
獣脚竜種の頂点
──―暴君走竜──―
城壁の上を包んでいた喧騒が、潮が引くように消え失せた。
「……嘘だろ」
「た、
誰かの乾いた呟きが、静まり返った戦場に落ちる。
「……森林の最深部にいるはずの主が、なぜこんな外縁まで……」
タイラントレギウスが天を仰ぎ、咆哮した。
大気が爆発したかのような衝撃波が吹き荒れ、街道の軍馬たちが一斉に狂ったように嘶いて前脚を跳ね上げる。避難民の列から、絶望的な悲鳴が上がった。
「狼狽えるな!魔攻砲!」
中央塔の作戦室から身を乗り出したゲアハルトの怒声が、咆吼術式を通して、城壁の兵たちを叩き起こした。
「第三砲、最大出力で氷槍を叩き込め!」
「照準、竜種の頚部!」
「撃てぇっ!」
空気を焦がす轟音と共に、最大魔力で錬成された巨大な氷槍が放たれた。
一直線に空を切り裂き、タイラントレギウスの首の付け根、装甲の集中する部位へ直撃する。
バァン、と硬質な破砕音が鳴り響き、黒褐色の鱗が砕け散って白煙が上がった。
氷槍が半ばまで突き刺さり、巨竜の足が止まる。
城壁の上から、すがるような歓声が上がりかけた。
だが、次の瞬間。
タイラントレギウスが苛立たしげに太い首を横へ振った。
突き刺さっていた氷槍が、まるで枯れ枝のようにあっけなくへし折られ、粉々に砕け散る。
上がろうとした歓声が、兵士たちの喉の奥で凍りついた。
術式も、火炎もない。ただ生き物として頑丈だった。
「……浅すぎる」
第三砲の横で術式盤を凝視していたエレノアが、青ざめた唇を震わせた。
「多層鱗の表面で威力を殺された。筋肉の層まで届いていません」
「第二砲、火炎弾を装填! 間髪入れるな!」
着弾した火炎弾が巨竜の頭部を包み込み、黒煙と爆風が吹き荒れる。
だが、煙を割って飛び出してきたのは、表面の鱗を赤く焦がしただけの巨躯だった。
脚の速度は落ちていない。
その獰猛な黄色い眼球は、街道の先、開け放たれた城門と、逃げ惑う避難民の群れだけを捉えていた。
「門へ突っ込んでくるぞ!」
逃げ遅れた子供が、泥に足を取られて泣き叫ぶ。
キースの手が、佩刀の柄をきつく締め上げた。
城壁の胸壁から、父の怒号が響く。
「キース!引け、城内へ退がれ!」
だが、息子はすでに石畳を蹴っていた。
一息。
十歩、二十歩。
巨竜の歩幅と交差する直前、タイラントレギウスの巨大な顎が、獲物を丸呑みにせんと開き放たれる。
キースは跳躍しなかった。
姿勢を極限まで低く沈め、顎の噛み合いの下、巨竜の右後脚の死角へと滑り込む。
抜刀。
右後脚の足首、鱗の合わせ目を狙って横一文字に刃を走らせた。
破断術式──《轟断》。
刀身へ叩き込まれた魔力が、衝突の瞬間だけ爆発的に膨れ上がる。
キィン、と火花が散る。
硬質鱗が一枚、砕けるように裂けた。
だが、刃はその下の筋肉へ届く前に止まった。
「硬い……!」
キースの奥歯が軋んだ。これまでの魔獣とは、肉の密度も骨の強度も桁が違う。
頭上で風が唸りを上げた。
巨竜の太い尾が、空気を薙ぎ払って叩きつけられてくる。
キースは切っ先を地面に突き立て、その反動で横へ身を投げた。
直後、彼が立っていた石畳が轟音と共に粉砕され、拳大の砕石が散弾のように周囲へ飛び散った。
キースは着地の衝撃を転がりで殺し、立ち上がりざまに再び踏み込んだ。
「同じ箇所だ!」
右後脚、先ほど傷をつけた全く同じ亀裂へ、二撃目を寸分違わず叩き込む。
火花が散り、装甲がさらに砕ける。
間を置かず、全体重を乗せた三撃目の突き。
刃がようやく、分厚い筋肉の深層へと達した。
タイラントレギウスが苦痛に満ちた咆哮を上げ、巨体が右へ傾ぐ。
「閣下!」
ローダスとギルバードが、遊撃隊を率いて駆け込んできた。
「右脚の傷口に集中しろ!」
キースが血を吐き出すように叫ぶ。
「胴の装甲を叩いても通らん!脚の関節を潰して歩みを止めろ!」
「応ッ!」
ギルバードの術式槍、その槍身を走る刻線が二段階に灯る。
刺突術式──《重穿槍》
腰だめに構えた穂先を、キースが切り拓いた肉の裂け目へ深々と突き入れる。
螺旋の突風が傷口の内部で炸裂し、肉片を撒き散らす。
続いて二本、三本の槍が同じ傷へと殺到した。
巨竜の右脚が耐えかねて折れ曲がり、巨体が大きく沈み込む。
城壁の上では、フェリクスもすでに弦を引き絞っていた。
首筋。先ほど氷槍が鱗を砕いた、その縁。
重なりの崩れた一枚を狙い、《硬穿》を一本、正確に叩き込む。
鏃は黒褐色の鱗を一枚穿ち、その下へ潜り込んだところで止まった。
「……冗談だろ」
「魔攻砲!」
それを横目に、エレノアが身を乗り出して叫んだ。
「外殻を狙うな!口を開けた瞬間、口腔内へ氷槍を撃ち込みなさい!」
砲術師団長が叫び返す。
「角度が浅い!味方を巻き込むぞ!」
「今、頭を上げました!今しか通らない!」
右脚を破壊されたタイラントレギウスが、周囲の人間を圧殺せんと、頭部を高く跳ね上げて最大の咆哮を放とうと顎を広げた。
無防備に晒された、赤黒い口腔の粘膜。
「撃てぇっ!」
第三砲の穂先から、閃光と共に氷槍が撃ち出された。
空気を切り裂く青い光条が、巨竜の開かれた口内へ真正面から吸い込まれる。
直撃。
口腔の奥を突き破り、後頭部の装甲を内側から吹き飛ばして氷槍が貫通した。
巨竜の咆哮が、濁った空気の漏れる音へと変わる。
「今だ、畳み掛けろ!」
ローダスの大剣が、無防備になった側頭部へ叩きつけられる。
そして、正面から跳躍したキースの全身の魔力が、長剣の刃へと収束した。
顎下、軟弱な喉笛への一閃。
深い手応え。
引き抜きざまの二閃目で頚骨の隙間を抉り、三閃目で内部の神経節を断ち切る。
タイラントレギウスの巨躯が、痙攣するように硬直した。
瞳から急速に光が失われていく。
ゆっくりと、巨木が倒れるようにして傾き──
ズシン、と大地を揺るがして街道の脇へ横倒しになった。
数拍の間。
立ち込める土煙と血煙の中で、誰も息をすることすら忘れていた。
ただ、泥にまみれた長剣を下げ、肩で息をするキースの姿だけがあった。
「……倒した」
ギルバードの震える声が漏れた。
その呟きが引き金となった。
「うおおおおおおおおっ!」
城壁の上から、割れんばかりの大歓声が爆発した。
兵士たちが兜を天に放り投げ、胸壁を狂ったように叩き鳴らす。
「侯爵閣下万歳!」
「竜種を仕留めたぞ!」
「勝ったんだ!」
街道を走っていた避難民たちも、涙を流しながら門の中へと雪崩れ込んでいく。
だが、キースは歓声に目を向けることはなかった。
荒い息の下、震える右腕を左手で押さえつけながら、なおも切っ先を泥から離さない。
「立ち止まるな!」
枯れ果てた喉から、鋭い叱咤を絞り出す。
「まだ敵の残余がいる!一人残らず門へ走れ!急げ!」
・・・・・
・・・
西の空の朱色が完全に潰え、夜の帳が街道を覆い尽くした頃。
最後の輜重車が跳ね橋を渡りきり、城内へと滑り込んだ。
ゴォン、と重苦しい青銅の鐘が、ヴァルデシアの夜空に六度鳴り響く。
定刻。
巻き上げ機の太い鎖が軋み、巨大な跳ね橋がゆっくりと持ち上がった。
分厚い鉄張りの外郭主門が閉じられ、太い樫の木の閂がドスンと音を立てて落とされる。
第一波迎撃戦、終了。
損害、戦死四十七名。
負傷者、百十二名。
第三魔攻砲、過熱による術式盤の融解で中破。
備蓄されていた術式矢および高純度魔晶石、全体の約一割を消費。
だが、街道に残されていた避難民、四千余りの収容を完了。
暴君走竜一頭を含む、大型・中型魔獣の撃破数、百を超える。
城壁の切石は破られず、主門の防衛線は保たれた。
「第三砲は今夜中に術式盤を外せ。焼けた導魔線は捨てろ。第二砲と第四砲から工兵を回して、明朝までに再起動の可否だけ出せ」
ゲアハルトの低い声が、戦闘後の胸壁を淡々と流れていく。
「負傷者は西兵舎へ集約。軽傷者から装備を返納させろ。術式矢の残数と魔晶石の在庫は、今夜中にもう一度数え直せ」
「はっ」
副官が羊皮紙へ素早く羽ペンを走らせる。
その背後、胸壁へと続く石段のあたりから、もつれ合うような足音と押し殺した小競り合いが聞こえてきた。
「おい、エリー!閣下は今、損害確認の最中だぞ!」
「分かっています」
「分かってて何でそっち行くんだ!?」
ゲアハルトは振り返りもせず、淡々と夜番の配置を口にし続けた。
「夜間哨戒は城外へ出すな。物見塔を二重配置。森側の監視灯を──」
「お、おい、待て待て待て!」
背後でフェリクスの声が上ずる。
「どこ行く気だ!?」
エレノアは振り返らない。
「閣下」
戦果報告を読み上げていた副官の横から、エレノアが声を挟んだ。
止めに入ったフェリクスの手を振り切るようにして、エレノアが進み出ていた。
額にはまだ煤が残り、袖口には魔攻砲の術式盤を弄った際についた焦げ跡が黒くこびりついている。
ゲアハルトが指示を止め、視線だけを向ける。
「何の真似だ」
「外に倒れている大型種を、今夜のうちに回収させてください」
周囲の幕僚が一斉に息を呑んだ。傍らにいた砲術師が露骨に眉をひそめる。
「嬢ちゃん、外にはまだ残敵がいる。解体屋を出せる状況じゃないぞ」
傍らの年嵩の兵站官も鼻を鳴らした。
「……魔物の腹を捌く話は明日にしろ」
「明朝では腐ります」
エレノアは即座に言い切った。
「必要なのは魔力心臓と、大鉄爪の魔力腺です。暴君走竜の爪と硬質鱗も、引ける位置にあるなら拾いたい。心臓は時間が経てば内包魔力が霧散します。腺も体液が濁れば触媒になりません」
副官が帳簿を汚されまいと手で覆いながら、怪訝そうに問う。
「……何に使う気だ」
「魔晶石の即席代替。術式矢の核への再充填。あの魔力腺を煮詰めて精製できれば、焼けた導魔線の引き直しにも使えます」
誰も口を挟まなくなった。
今日一日で何をどれだけ使い潰したか、その数字を書き留めていた副官の手が止まる。
魔晶石の残数。射ち尽くした術式矢。焼けた術式盤。亀裂の入った導魔槍。
エレノアは夜の帳が降りた城外へ、まっすぐに視線を向けた。
「次がいつ来るか分かりません」
抑揚のない、乾いた声だった。
「王都から補給が来る保証もありません。使えるものを外に置いたまま腐らせる余裕は、もうないと思います」
「……戦が終わった顔ではないな、お前は」
ゲアハルトが低く呟いた。
エレノアがわずかに口を噤む。
「……終わった保証がありませんから」
老侯爵はしばしエレノアを見据えた後、城外の暗闇へと顔を戻した。
「回収班を森までは出さん。門から鎖を掛けられる死骸だけ引け。心臓と魔力腺を優先。鱗と骨は夜が明けてからだ」
「はい」
「ただし」
ゲアハルトの視線が鋭く向けられる。
「一人でも行方不明が出た時点で中止だ。素材一つのために兵を捨てる気はない」
「承知しました」
エレノアは深く頭を下げた。
それ以上は何も言わなかった。
城内の広場では、泥と油にまみれた兵士たちが座り込み、互いの無事を確かめ合って笑い声を上げていた。
炊き出しの粥を啜りながら、抱き合って涙を流す避難民の姿もある。
「勝てるぞ……!」
兵士の一人が、包帯を巻いた腕を掲げて言った。
「俺たちには侯爵様がいる」
「ああ、あの竜種を真正面から斬り倒したんだ」
「魔攻砲もまだ残ってる。ヴァルデシアは落ちやしない」
広場を満たすその熱気は、間違いなく人々にとっての希望だった。
灯火が揺れる城壁の上。
ゲアハルトは腕を組み、階下の広場で兵や民に囲まれている息子の姿を静かに見下ろしていた。
背後から、血糊を拭った大剣を肩に担いだローダスが歩み寄ってくる。
「派手に暴れてくれましたな、若様は」
「……ああ」
「城内の連中はすっかり熱狂してますよ。若様は完全に、この街を救った英雄様だ」
「初陣の兵を奮い立たせるには、今はそれでいい」
ローダスが横目で老侯爵の横顔を盗み見る。
「ずいぶんと甘い採点ですな。普段の閣下なら、無謀な単独突出だと軍規違反で営倉送りにするところだ」
「あいつはまだ若い」
「成人して何年も経ちますよ」
「お前が十五で初陣を踏んだ時、敵の軽騎兵に怯えて落馬し、泣き喚きながら泥水を啜っていたのを忘れたか」
「……二十年も前の恥ずかしい話を今ここで蒸し返すのは勘弁してください」
老侯爵の口元が、わずかに皮肉げに緩んだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
老将はゆっくりと視線を転じ、城壁の北側、闇に沈んだ樹海の彼方を見据えた。
夜風が、冷たい湿気と濃密な血の匂いを運んでくる。
森の深部は、まるで巨大な怪物の口のように黒々と口を開けていた。
「ローダス」
「何です」
「あの竜の死骸を検分したか」
「ええ」
「背中の傷を見たな」
ローダスの口元から、軽薄な笑みが完全に失われた。
顎髭を撫でる指先が、わずかに強張る。
「……見ましたよ。胸壁から落ちた氷槍の跡でも、若様の剣痕でもねぇ」
タイラントレギウスの背中。
あの大木のような分厚い硬質鱗が、広範囲にわたって強引に剥ぎ取られ、巨大な何者かの爪によって肉ごと抉り取られたような、無残な裂傷。
傷口はまだ新しく、黒い血が凝固しかけていただけだった。
「何に追われて、あの化け物が森から飛び出してきたと思う」
老侯爵の低い問いに、ローダスは首を振った。
「考えたくもねぇですな。まだ、成体でないとはいえ……あれを獲物として追い立てるようなナニかが、森の奥にいるなんてこたぁ」
「私もだ」
遠く。
夜の帳に包まれた大森林のさらに深奥から、低く、重い唸り声が響いた。
一つ。
呼応するように、別の稜線の向こうからもう一つ。
それは昼間の狂乱した魔獣たちの悲鳴ではなく、大地を領有する者たちの、冷徹な合図のようにも聞こえた。
ローダスが口を閉ざす。
ゲアハルトもまた、沈黙のまま暗黒の地平を見つめ続けた。
城下からは、まだ勝利を祝う人々の歓声と、乾杯のざわめきが風に乗って聞こえてくる。
その夜、ヴァルデシアにいた誰もが、自分たちは過酷な初戦に勝利したのだと信じて疑わなかった。
だが、彼らが命を賭して打ち倒した巨竜すら、背後から迫る本物の災厄から逃げ惑い、たまたま先頭を切って街道へ転がり落ちてきただけの露払いに過ぎなかったことを。
まだ、誰一人として知る由もなかった。