《追憶》 Ⅷ 剣先の届く範囲
翌朝。
まだ東の空に朝焼けの色すら滲んでいない時刻、私はヴェリタス南塔の冷え切った発着場に立っていた。
目の前で、一頭の飛竜が苛立たしげに石床を爪で引っ掻いている。
馬より一回り大きな灰褐色の胴体。細長くしなる首。蝙蝠に似た分厚い皮膜翼。
大型竜種のような圧倒的な威容はない。炎を吐くこともなければ、城門を叩き割る力もない。それでも、地上の馬とは比べものにならない速度で空の風を切り裂く。
侯爵家が急使や緊急の密書を飛ばすため、街道の宿駅とは別に維持している特例の便だ。
その背に括り付けられているのは、人を乗せるための粗末な革張りの鞍が二つだけだった。
屋根もない。豪奢な客車など影も形もない。背凭れすら腰を辛うじて支える程度で、風除けといえば鞍の前方に打ち付けられた小さな革板が一枚あるきり。人間を一人か二人、それに書類の革袋を縛り付けるのが精一杯で、荷駄を運ぶ余力など端から計算に入っていない。
乗り心地などという言葉を口にするのが、恥ずかしくなるような代物だった。
「奥様」
背後から、低く硬い声が落ちてきた。
私は飛竜の鞍から目を離さずに答える。
「何です、ヒルダ」
「最後に確認いたします」
長年、私の傍らに張り付いてきた侍女のヒルダは、いつもの黒い侍女服の上から厚手の羊毛外套を隙間なく羽織っていた。
年は私より一回り以上上。私の少女時代、まだオールストンの屋敷で我儘を言っていた頃から私を知っている。
だからこそ、侯爵夫人となった今でも、必要とあらば平然と私に釘を刺してくる数少ない人間だった。
「王都までは、通常のキャリッジなら七日」
「知っています」
「各宿駅で馬を乗り継ぎ、夜を徹して走らせても四日。車軸を焼き切る覚悟で飛ばしても、三日半が限界です」
「知っています」
「早馬の単騎なら三日」
「それも知っています」
ヒルダは飛竜の太い頸を見上げた。竜が鼻孔を窄め、白い蒸気を吐き出す。
「そして、これは」
「今日中に着きます」
「途中で落ちなければ、でございます」
私はようやく振り返り、彼女の眉間を見据えた。
「落ちる予定はありません」
「落ちた者は皆、そう申します」
「ヒルダ」
「はい」
「四日は長すぎるのです」
短く返すと、ヒルダは口を閉ざした。
北では、キース様が軍を率いてすでにヴァルデシアへ向かっている。
大森林を破った魔獣の奔流が城塞都市の門へ達するまで、二日もない。
その現実を背中に突き刺されながら、自分だけが揺れの少ないキャリッジの天幕の中で、四日間も運ばれているなど、私には到底耐えられなかった。
「書状は」
「こちらに」
ヒルダが、ずっしりと重い革張りの文書鞄を持ち上げた。
「王宮。エルトリア公爵家。アークランド公爵家。ハートフィリア公爵家。王都聖律院本院。穀物商組合。運送組合。空船組合。魔道具商会。合わせて二十七通」
「オールストンへの分は」
「昨夜のうちに、領境の早馬へ託しました」
「結構です」
「お着替えは最低限。正式な夜会服は別邸の衣装箪笥にございます」
「不要でしょう。着飾っている暇などありません」
「必要になれば着ていただきます」
「王都は熱病で人が倒れていると聞きました。夜会など開かれているはずがありません」
「王宮という場所は、人がどれほど死んでいようと政治を止めません」
私は小さく息を吐き出した。
「……そうでしたね」
ヒルダは私の顔を、射抜くように見つめていた。
「奥様」
「何です」
「お食事は」
「王都に着いてから取ります」
「却下いたします」
「ヒルダ」
「空の上で胃の中身をぶちまけられては、操竜士の手元が狂います。少しだけでも腹へ収めてください」
差し出されたのは、乾いて硬くなった黒パンの切れ端と、皺の寄った干し果実だった。
私は一瞬だけ睨みつけたが、ヒルダは微動だにせず見返してくる。
先に視線を逸らしたのは、私の方だった。
「……半分だけ」
「全部です」
「時間が惜しいのです」
「奥様が途中で気絶すれば、もっと多くの時間を失います」
私は舌打ちを噛み殺し、無言で黒パンを引ったくった。
横に控えていた操竜士が、見ないふりをしながら小さく口元を歪めているのが見えた。
・・・・・
・・・
飛竜が力任せに石床を蹴った。
強烈な力に身体が鞍へ押し付けられ、胃の腑が持ち上がる。
次の瞬間、足元にあったはずのヴェリタスの城壁が、切り落とされたように真下へと滑り落ちていった。
「っ……!」
私は思わず、鞍の前枠に打ち付けられた真鍮の取っ手を両手で締め上げた。
凍てつくような冷気が容赦なく顔面を叩く。睫毛に霜が降りるのが分かった。
眼下を這うように、トレンス領の幹線街道が細い一本の線となって伸びていた。
北へと重装備を積んだ無数の荷車が、泥濘を踏み越えて続いている。
魔攻砲、破城槍、矢束、食糧、布、強い酒、担架。
今のトレンス侯爵領が、その身を削って差し出せるすべて。
だが、あの鈍重な車列がヴァルデシアへ届くのは、どれほど急がせても三日後、あるいは四日後だ。現場で血を流す兵たちの背中に、今すぐ届くわけではない。
いま、この凍りつく空の上で風を切り裂いている私だけが、時間の先を強引に追い越している。
さらにその先に……キース様がいる。
もう豆粒ほどの姿も見えない。
それでも私は、首を捻って北を見つめ続けた。
「奥様!」
背後から、風切り音を割ってヒルダの怒声が飛んできた。
「前を向いてください! 突風で首の骨をやられます!」
「……分かっています!」
「分かっている人間は、空の上で後ろを振り返りません!」
飛竜が大きく翼を打った。
ヴェリタスの街並みが白く霞み、急速に小さくなっていく。
私は奥歯を噛み締め、前を向いた。
南の王都へ。
私が一人で、泥を啜らねばならない戦場へ。
飛竜便というものは、一頭の竜の力だけで王都まで飛びきれるような甘い代物ではない。
街道の宿駅と同じように、山頂や岩山を切り開いた中継塔が、主要都市と辺境の間に点々と設けられている。
飛竜は確かに馬より速い。
だが、生き物である以上、心臓にも皮膜翼にも明確な限界がある。
昼前。
第一中継塔の荒削りな岩場へ滑り込む。
全身から汗と白い泡を吹き出し、息を荒らげる飛竜から飛び降りる。
足が地面の硬さを忘れ、膝ががくりと笑った。
だが、息を整える間もない。
繋ぎ場で荒い息を吐いていた別の飛竜の鞍へ、手袋の革を擦りつけながら強引に這い上がる。
冷え切った革袋から渋い水を煽り、喉の渇きを無理やり押し流す。
再び、虚空へ。
午後。
第二中継塔を越えたあたりで、風向きが北東からの吹き下ろしへと急変した。
山肌を洗う荒れた風を嫌い、操竜士が強引に高度を下げる。
針葉樹の鋭い梢と、剥き出しの黒い岩肌が、すぐ足の下を信じがたい速度で後方へ飛び去っていく。
一度、山肌から落ち込んできた強い下降風に翼を叩かれ、飛竜の身体が真横へ傾いだ。
身体がふわりと鞍から浮き上がり、内臓が喉元までせり上がった。
鞍の縁を掴む指の骨が軋む。
背後からヒルダの悲鳴混じりの声が届いた。
「馬車にいたしましょうと申し上げました!」
「今さら言うことですか!」
「今だから申し上げております!」
飛竜が翼を大きく打ち、爪先で岩肌を掠めるようにして無理やり姿勢を立て直した。
夕刻。
鉛色の雲の切れ間から、ようやく王都を取り囲む三重の外壁が見えた。
だが、私の胸に湧き上がったのは、安堵などではなかった。
煙だった。
城壁の内側、無数の方角から細く白い煙が立ち上っている。
火災の黒煙ではない。
煮沸の湯気。酢を焚く煙。そして、悪臭を誤魔化すために燃やされる安物の薬草。
風に乗って、あの音が届いた。
鐘だ。
まだ遠い。
それでも、耳の奥に嫌な重さで響いてくる。
低く……等間隔に。
誰かが息絶え、棺が運び出されるたびに鳴らされる、聖律院の弔いの鐘。
ヒルダが口を噤む。
私もまた、何も言えなかった。
・・・・・
・・・
王都トレンス別邸の分厚い鉄扉を潜った時、空の茜色は完全に濁った闇へと沈んでいた。
「奥方様!?」
先触れの飛竜便を受けていたとはいえ、突然の主の帰還に別邸の使用人たちは血の気を引かせていた。
「お、お出迎えの支度を――」
「不要です」
鞍から降りた瞬間、痺れきった足首が地面の感覚を捉えられず、身体が微かに傾いだ。
私はそれを悟られまいと、強引に背筋を伸ばして歩幅を取った。
ヒルダが横から、自然な動作で私の肘の下へ腕を滑り込ませてくる。
「不要ではありません」
「歩けます」
「知っております」
「なら」
「支えるくらいはお許しくださいませ」
私はそれ以上、彼女の手を払わなかった。
別邸の玄関広間へ足を踏み入れる。
泥と煤で汚れた靴を脱ぐ時間すら惜しかった。
「執事長」
「はっ!」
「応接間を一つ空けなさい。大机を三つ並べること。王都の市街図、主要街道図、各大商会の名簿、最新の貴族年鑑を揃えて広げてください」
「直ちに」
「今夜、外へ走らせられる者は何人いますか」
「騎馬の急使が六名。徒歩の小間使いなら十数名おります。ですが奥方様……」
初老の執事長が、額に脂汗を滲ませながら言葉を濁した。
「市内の幹線道路には現在、聖律院と警備隊による臨時の検問が幾重にも敷かれております。熱病の疑いがある区画は丸ごと封鎖され、夜間の特別通行証を持たぬ者は馬ごと留め置かれます。使いを走らせるだけでも、平時の倍の刻限を覚悟せねばなりません」
私の眉間が引き絞られる。
「トレンス侯爵家の家紋札を見せても通らないと?」
「憲兵隊の正規兵すら病で倒れ、代番として駆り出された傭兵や下級衛兵が門を塞いでおります。家紋の格すら読めぬような輩が、平然と槍の穂先を突き出してくる始末でして」
私は冷え切った革手袋を引き抜いた。
指先が白く強張り、小さく痙攣している。
「構いません。トレンスの札で弾かれるなら、実家であるオールストン伯爵家の名も書き添えなさい。使者全員に持たせるのです」
「全員、でございますか」
「今夜、眠る人間はいません」
執事長の目が、怯むように見開かれた。
「ただし、交代で短く仮眠を取りなさい。検問の列で卒倒されては、運べる手紙も運べなくなります」
「承知いたしました」
「王宮へは、トレンス侯爵夫人が緊急謁見を求めていると先触れを。エルトリア、アークランド、ハートフィリアの各公爵家へも、明朝一番の面会願いを送りなさい」
「今夜のうちには……」
「無理でしょう。各大貴族邸も、門前に酢桶を並べて外から来る者を止めているはずです。明朝、門扉が開く瞬間を狙いなさい」
「聖律院には?」
ヒルダが低く問うてきた。
「私自身が行きます」
「奥様」
「熱病の巣窟になっていることは知っています」
「ならば、なおさらです」
「治療師を一人でも動かせるのか。薬があるのか。それだけは、他人の目を通した報告では判断できません」
ヒルダは反論しようと口を開きかけ、そしてやめた。
代わりに、私の煤けた顔を真っ向から見つめて言った。
「では、せめて湯浴みとお着替えを」
「ヒルダ」
「王都へ飛竜で乗りつけ、煤煙と強風で髪を鳥の巣のように乱したまま公爵家へ乗り込む侯爵夫人をお見送りするわけにはまいりません」
私は自分の頭へ手をやった。
風に散々引き裂かれ、もつれた髪は、手櫛すら通らないほど無惨に固まっていた。
「……どれほど酷いのです」
「キース様がおいででしたら、間違いなく吹き出して笑っておられます」
「……つまり、最悪ということですね」
「はい」
その日初めて、私の口の端から自嘲のような吐息が零れた。
・・・・・
・・・
翌朝。
一番に返書を寄越したのは、エルトリア公爵家だった。
面会を受け入れる。
続いて、ハートフィリア。
そして、三通目。
アークランド公爵家。
封蝋へ封切り小刀を差し込んだ私は、そこに記された数行の文字を睨みつけた。
「何と?」
ヒルダが尋ねる。
「本日、第二刻。来い、とだけ」
「随分と手短でございますね」
「昔から、そういう女です」
「クラリス様が?」
「ええ」
ヒルダが、どこか遠い場所を見るような目を向けた。
私はそれを見逃さない。
「何です」
「いえ」
「言いなさい」
「お二人が同じ学園の講義室にいらした頃を、思い出しておりました」
「忘れなさい」
「無理でございます」
「ヒルダ」
「キース様が図書棟から出てこられる刻限を、お二人が示し合わせたかのように別々の石柱の陰で待ち伏せておられたことなど」
「ヒルダ」
「クラリス様がキース様へ差し入れた焼き菓子を、奥様が『糖分の過剰摂取は鍛錬の邪魔になります』と勝手に半分を廃棄されたことなど」
「ヒルダ!」
「私は長年のそば付きでございますゆえ」
私は静かに瞼を閉じた。
「……今は、領地と国家の存亡がかかっているのです」
「ええ」
「昔の些事を引っ張り出している場合ではありません」
「仰る通りでございます」
「なら、その楽しそうな顔をやめなさい」
「申し訳ございません」
欠片も申し訳なさそうではない声で、ヒルダは私のドレスの裾を整えた。
・・・・・
・・・
アークランド公爵邸。
通された応接室は、昔と変わらず絢爛豪華だった。
金糸の刺繍、深紅の敷物、曇りのない白磁の器。冬の最中だというのに、温室から切り出された大輪の生花が惜しげもなく生けられている。
だが、部屋の四隅には目立たぬよう銀の小鍋が置かれ、酢と薬草を煮詰めた鼻を刺す蒸気が漂っていた。
この豪壮な要塞のような屋敷ですら、外を覆う疫病の影から逃れられてはいない。
私は背筋を伸ばしたまま、腰掛けることもなく立っていた。
やがて、奥の重い樫の扉が引かれた。
「まあ」
耳に馴染んだ、澄み切った声。
「ずいぶん酷い顔をしているのね、ダイアナ」
クラリス・ド・ロンスマイヤ・ラ・アークランドは、昔と寸分違わぬ冷たい笑みを湛えて立っていた。
美しい。
そして、昔と変わらず、無性に腹立たしい女だった。
「貴女にだけは言われたくありませんわ」
「その口の利き方も、相変わらずね」
「昔話をしに参上したわけではありません」
「でしょうね」
クラリスは流れるような所作で長椅子へ腰を下ろした。
「昔なら、貴女がその切羽詰まった顔で頭を下げに来たのなら、最低でも半刻はお茶を飲ませて焦らしてから用件を聞いたでしょうけれど」
私の眉根が微かに動く。
「今は?」
「湯冷まし程で済ませてあげるわ」
「感謝いたしますわ」
「嫌味なところも変わらないわね」
「お互い様でしょう」
クラリスはごく薄く笑った。
そして、その笑みを完全に拭い去った。
「状況は」
私は淀みなく、頭の中の数値を叩きつけた。
「北部大森林より、未知の規模の大規模魔獣群。多種混成、竜種を複数確認。捕食行動はなし。南下速度から逆算し、ヴァルデシアへの到達は二日以内」
「現地の防衛戦力は」
「ヴァルデシア常備兵千二百。予備役を掻き集めて二千。トレンス本領から増援部隊を急行させています」
「王軍は期待しないことね」
「分かっています」
「ロザリアも一歩も動けないわ」
「それも」
「ヴァルトシュタインも、西方の国境線を空けるわけにはいかない」
「ええ」
クラリスは、細く整えられた指先で黒漆の机を二度、硬く叩いた。
「それで。貴女は何を買いに来たの」
私は真っ直ぐに彼女の双眸を射抜いた。
「兵です」
「出せないわ」
即座に切り捨てられた。
私の喉が強張る。
クラリスは冷酷なまでに目を細めた。
「だから、最後まで聞きなさいと言っているのよ」
昔、講義室で議論を戦わせた時と同じ、冷徹な声だった。
「兵は出せない。アークランドの領地にも守るべき関所がある。それにね、ダイアナ」
クラリスは机の上で両手を組み、私を品定めするように見上げた。
「仮に今、わたくしがここで首を縦に振って、精鋭歩兵五百の派遣命令書に署名したとするわ。彼らが鎧を着込み、輜重をまとめ、泥の街道を行軍してヴァルデシアに着くのはいつかしら」
私の息が、喉の奥で詰まった。
「どんなに無理な強行軍を強いても十日。通常なら半月よ」
クラリスの声は、どこまでも平坦だった。
「二日後に門を叩かれる街へ、半月後に到着する兵を送り出して何になるの。キース様がとっくに冷たい骨になった後、その墓前で槍を構えさせる気かしら?」
私は奥歯が砕けるほど噛みしめた。
分かっていた。
頭のどこかでは、その物理的な距離と日数の隔絶を理解していた。
だが、口に出して認めたくなかった冷酷な現実を、この女は平然と刃物で切り刻んで私の足元へ突きつけてくる。
「……では、何が出せるのです」
「荷馬車なら出せるわ」
私は目を瞬いた。
「荷馬車……?」
「輸送馬も。保存食も。弓材も。矢羽根も。工兵用の鋼材も。魔晶核も、うちの備蓄から出せる限りの量を融通するわ」
クラリスは手元の羊皮紙へ、迷いのない筆致で数字を書きつけていく。
「王都から北へ戻る商隊を今すぐ洗いなさい。空荷になる車列を全部押さえるのよ。アークランドの名を使って構わないわ」
「クラリス」
「何よ」
「それだけでは」
「足りないでしょうね」
あっさりと、彼女は肯定した。
私は唇を噛み、手袋の奥で拳を握りしめた。
クラリスは、その私の顔をじっと見据えていた。
「昔から貴女はそう」
「何がです」
「欲しいものを、一番大きな形のまま抱え込もうとする」
「今、そんな話をしている場合では――」
「しているのよ!」
クラリスが身を乗り出し、机を平手で叩いた。甲高い音が室内に響く。
「兵千人。確かに喉から手が出るほど欲しいでしょうね。でも兵千人を北へ送れば、毎日千人分の麦がいる。馬の飼料がいる。矢がいる。靴がいる。傷つけば運ぶ車がいる。今のトレンスに必要なのは、兵そのものより、兵を戦わせ続けるための補給よ!」
クラリスは卓上の王都地図を乱暴に引き寄せた。
「歩兵三百より、荷馬車百台の方が今は価値があるのよ」
「ですが……その荷馬車だって!」
私の声が、抑えきれずに震えた。
「王都から荷を積んで北へ走らせても、着くのは七日後、十日後です! 明日の、明後日のヴァルデシアの城壁を支える役には立ちません!」
「そうよ」
クラリスは眉一つ動かさなかった。
「これは、キース様が今日明日を生き延びた後のためのものよ」
私の息が、完全に止まった。
「初戦をどれほど華々しく耐えても、矢が尽き、城壁の補修材が尽き、食糧が底を突けば、二週間後に全員が飢えて死ぬわ。それとも貴女の夫は、明日の日没に最初の群れを斬り倒したら、それで戦争を終えられるとでも思っているのかしら?」
何も言い返せなかった。
前線で剣を振るう男たちの視界からは抜け落ちている、その先の一週間、一ヶ月の泥沼。
それを支えるための荷馬車であり、穀物袋だった。
「……昔から」
「何よ」
「欲しいものほど、一度手荒く断る女でしたわね」
クラリスの口元が、わずかに皮肉げに歪んだ。
「嫌な女」
「お互い様でしょう」
数秒の間。
私たちは互いの瞳の奥を睨み合った。
そして、ほとんど同時に机の上の紙へと視線を落とした。
「空船は」
「何隻か、動かせるわ」
「避難民を」
「乗せることはできる」
「では――」
「どこへ降ろすの」
私の言葉が、喉元で凍りついた。
クラリスの問いは冷たかった。
だが、逃れようのない正論だった。
「王都は熱病よ。南部の中小都市も受け入れの余裕なんてない。ヴェリタスへ戻せば、それだけで領都の食糧事情を圧迫する。飛行船は人を宙に浮かせる魔法の箱ではないわ。空を飛んでいる間も人は水を飲み、降ろした瞬間から寝床と麦がいるのよ」
私の指先が、机の縁を白くなるほど締め上げた。
「……分かっています」
「本当に?」
「分かっています!」
私の声が、荒く跳ね上がった。
クラリスは口を噤んだ。
私自身、自分が取り乱して声を張り上げたことに、一拍遅れて気づいた。
「……失礼いたしました」
「いいえ」
珍しく、クラリスは皮肉を返してこなかった。
「やっと、本当の顔になったわね」
私が顔を上げると、彼女は静かに私を見つめていた。
「昔はその顔で、キース様をわたくしから奪っていったでしょう」
「今、その話を蒸し返すのですか」
「するわよ。貴女、昔から追い詰められると、怖いくらい真っ直ぐになるもの」
私は黙った。
「だから」
クラリスは羽ペンを取り直した。
「できるものから取りなさい」
羊皮紙の上をペン先が走る。
「荷馬車百二十。輸送馬二百。保存食。矢。鋼材。魔晶核。それから、空船二隻」
「二隻?」
「今すぐ魔晶石と浮遊石を補充して飛ばせるのは、それが限界よ。北へ向かう空船なら、風に乗れば二日でヴァルデシアの上空へ届くわ。高位の治療薬や、今すぐ必要な魔道具があるなら、全部これに積み込みなさい」
「受け入れ先は」
「後で考えるわ」
私は目を見張った。
クラリスは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「何よ」
「貴女が、そのような見切り発車を口にするとは思いませんでした」
「人を乗せる箱があるのに、降ろす場所が決まるまで飛ばさない方が間抜けでしょう。空船なら、最悪でも上空で待機させて半刻や一刻は稼げる」
「ですが、先ほどは――」
「現実の厳しさを理解しなさいと言っただけよ。諦めろとは一言も言っていないわ」
クラリスは署名を走らせ、印章を力任せに押し付けた。
「勘違いしないでちょうだいね。わたくしは、貴女を助けるためにこれを書いたわけではなくてよ」
「分かっています」
「トレンスが潰れれば困るのよ」
「ええ」
「キース様がどうなろうと――」
一瞬。
クラリスの声が途切れた。
私は何も言わなかった。
彼女も、その先を継ごうとはしなかった。
やがて。
「……北部の防衛線が消えれば、王国全体が困るのよ」
と、自分に言い聞かせるように呟いた。
私は深く頭を下げた。
「それで、十分です」
クラリスは忌々しそうに顔を背けた。
「本当に、昔から可愛げのない女」
「貴女にだけは言われたくありませんわ」
その日の午前。
私はアークランド公爵家の印が押された重い書類を抱え、屋敷を辞した。
荷馬車百二十、輸送馬二百、保存食、鋼材、魔晶核、飛行船二隻。
手に入れたものは、決して少なくない。
一つの貴族家から引き出した支援として見れば、破格という言葉すら生ぬるい。
だが、門の外へ一歩踏み出した瞬間、王都の泥濘が現実となって馬車の車輪にまとわりついてきた。
目抜き通りには、熱病の死者を運ぶ荷車が列をなし、焦げた薬草の白煙が陽光を濁らせている。
角を曲がるたびに臨時の検問兵が槍を突き出し、公爵家の署名入り通行証を検めるために、私の貴重な刻限を無情に削り取っていく。
揺れる馬車の中。
私は膝の上に書類を広げ、震える指先で数字をなぞり直していた。
荷馬車は、到着まで七日から十日。
飛行船でも早くて二日。
兵力は、ゼロ。
ヴァルデシアの決戦は、明日。
「……間に合わない」
密閉された車内に、私の乾いた呟きが落ちた。
集めた荷馬車が泥濘の街道を越えて北へ辿り着く頃、あの街の城壁が残っている保証など、どこにもない。
夫が明日、魔獣の爪の下で肉塊になってしまえば、この百二十台の車列は何の役にも立たない。
それでも。
集めなければならない。
もしあの人が、血を吐きながら明日を生き延びてしまったなら。
その先で、今度は街ごと飢え死にさせないために。
「奥様」
向かいの席から、ヒルダが静かに声をかけてきた。
「次は、ヒルデン侯爵邸でございます」
「……ええ」
「その前に」
「時間がありません」
ヒルダは何も言わず、私の膝の上へ小さな包みを差し出した。
包みを開く。
黒パンと、干した果実。
「……またですか」
「またでございます」
「ヒルダ」
「奥様」
彼女の声は、どこまでも平坦で、慈悲がなかった。
「倒れた侯爵夫人ほど、この局面で役に立たないものはございません」
私はしばらくの間、その無骨な包みを睨みつけた。
やがて、奥歯を鳴らしながら、それを引ったくるように受け取った。
馬車が軋んだ音を立てて走り出す。
検問の怒号を抜け、酢と薬草の白煙を潜り抜けて。
その窓の外では、聖律院の鐘が今この瞬間も止むことなく鳴り続けていた。
・・・・・
・・・
ヒルデン侯爵邸は、王都の大貴族屋敷の中では妙に飾り気がなかった。
古い石造りの外壁。磨かれてはいるが、金箔も彫像もない玄関広間。壁際に並ぶのは歴代当主の肖像ではなく、王家と聖律院の間で交わされた古い協定書や寄進状の写しばかりだった。
ホーネリア王国と聖律院。
王権と信仰。
剣と治癒。
互いに必要としながら、決して一つにはならない二つの組織の間へ、何代にもわたって腰を据えてきた家。
それがヒルデン侯爵家だった。
「それで」
向かいに座るヒルデン侯爵は、私が差し出した書状を最後まで読み終えると、机の上へ静かに戻した。
「聖律師を寄越せ、と頼みに行くつもりか」
「可能な限り」
「無理だ」
あまりにも即答だった。
私は眉を寄せる。
「まだ聖律院へ確認もしておりません」
「確認するまでもない」
ヒルデン侯爵は指先で机を二度叩いた。
「今の王都で、治療師を十人だの二十人だの北へ出せるわけがない」
「北部も非常事態です」
「知っている」
「なら」
「だからこそ、頼み方を間違えるなと言っている」
私は口を閉ざした。
ヒルデン侯爵は椅子の背へ深く身を預ける。
「聖律院は王家の医局ではない」
「承知しています」
「本当に?」
鋭い視線が飛んでくる。
「王命ひとつで治療師を動かせると思っているなら、承知しているとは言えん。あれは王国の中に根を張っているが、王国の役所ではない。土地を借り、寄進を受け、免税の特権を持ち、各地に支院を置く。その代わり、王家は聖律院の教義と内部人事へ容易には口を出せん」
「では……何を求めれば」
「薬だ」
私は目を細めた。
「薬?」
「今の熱病には、高位治癒薬が効いていない」
ヒルデン侯爵は淡々と続けた。
「傷には効く。火傷にも骨折にも効く。だが、熱病には効かん。だから倉に残っている」
「数は」
「本院の帳簿を見なければ分からん。ただし、人よりは動かしやすい」
「それでも、聖律院が大量に出すとは」
「普通なら出さん」
そこで、侯爵は机の引き出しを開けた。
中から取り出されたのは、小さな銀の印章だった。
聖律院の天秤印と、ヒルデン侯爵家の家紋が並んで刻まれている。
「これは」
「折衝印だ」
私が顔を上げる。
「三十年前、北部支院の土地紛争を終わらせた時から使っている。王家の命令状ではない。聖律院との正式な交渉窓口であることを示すだけのものだ」
「これがあれば、薬を?」
「扉は開く」
ヒルデン侯爵は印章を私の前へ置いた。
「中で何を引き出すかは、お前の仕事だ」
私は銀印を見つめた。
「治療師は、本当に一人も」
「最初から人を求めるな」
声音が少しだけ強くなる。
「まず薬。次に聖布、固定具、軟膏。地方支院へは『派遣命令』ではなく『応援要請』だ」
「違いが?」
「大きい」
侯爵の口元が僅かに歪む。
「命令、と言えば聖律院は構える。応援を求める、と言えば、自分たちの判断で助けた形を残せる」
「……面倒ですね」
「そう思うだろう」
初めて、少しだけ笑った。
「王家からは坊主の味方と言われ、聖律院からは王の犬と言われる。間に立つ家とは、そういうものだ」
私は銀印を手に取った。
冷たい。
「他に、気をつけることは」
「金で殴るな」
「……」
「払う意思を見せるのはいい。だが、最初から倍額だ三倍額だと言うな。聖律院は商会ではない。誇りを傷つければ、出せる物まで出さなくなる」
「では」
「足りないから欲しい、と言え」
私は侯爵を見る。
「それだけですか」
「それだけでいい」
短い答えだった。
「治したいのに治せず、自分たちまで熱に倒れている連中だ。今の聖律院に必要なのは、金額よりも、何ならまだ人を救えるかという話だ」
私は立ち上がった。
「……感謝いたします」
「礼はいい」
ヒルデン侯爵も立つ。
「聖律院を動かしたと思うな」
「はい」
「動く理由を作れ」
私は深く一礼した。
「心得ました」
・・・・・
・・・
王都聖律院本院の白亜の正門へ近づくより先に、馬車の隙間からあの異臭が鼻腔を突いた。
煮沸された麻布の湿った湯気。煮詰めた薬草の青臭さ。傷を洗う薬酒の苦い臭気。そして、それらを全て覆い隠すように立ち込める、饐えた汗と吐瀉物、病み衰えた人間が放つ独特の生温かい熱気。
車窓の帳を少しだけ押し上げると、門前には朝の冷気の中、すでに長蛇の列が蛇のようにとぐろを巻いていた。
泥に汚れた毛布を頭から被り、震えている老人。ぐったりと首を垂れた赤子を胸元で狂ったように揺すり続ける母親。冷たい敷石の壁に額を押し当て、立っていることすらできずに座り込む若者たち。
その無数の手足の隙間を、純白であるはずの法衣を着た聖律師たちが、足音を乱して走り回っている。
だが、あまりにも少なかった。
押し寄せる病苦の濁流に対し、白衣の数は指で数えられるほどしか見当たらない。
「……停めてください」
私は御者台へ向けて短く告げた。
車軸が軋み、馬車が停まる。
御者が外から扉の把手に手をかけようとした瞬間、私の膝の前へ、黒い袖口から細い手が伸びてきた。
「奥様」
「分かっています」
「本当に、でございますか」
「分かっています」
ヒルダは何も言わず、私の手の中へ幾重にも折り畳まれた目の細かい薄布を押し込んできた。
鼻と口を覆うための当て布だった。
香油すら差されていない。ただ熱湯で煮締められただけの布。
私は躊躇うことなくそれを口元へ当て、紐を耳へ掛けた。
「行きます」
「はい」
私はドレスの裾を自ら引き上げ、敷石の上へと降りた。
通されたのは、大貴族の来訪を歓待するような豪奢な応接室などではなかった。
本院の最奥。狭い回廊の突き当たりにある、普段なら薬剤の調合記録や薬草の仕入れ台帳を繰るためだけに使われている小部屋だった。
壁際には、背表紙の擦り切れた分厚い帳簿が乱雑に突っ込まれている。執務机の上には澱んだ色の液体が入った無数の薬瓶。その足元には、膿と血で汚れた使い古しの白布が、麻袋から溢れて山を作っていた。
「……お待たせいたしました、トレンス侯爵夫人」
扉を押し開けて入ってきた男の姿に、私はわずかに息を呑んだ。
聖律院本院の副院長。
かつて王都の夜会で見かけた頃の、脂の乗った高慢な聖職者の面影はどこにもなかった。
本来なら汚れ一つ許されないはずの純白の法衣の袖口には、茶色く乾いた染みが何重にもこびりついている。落ち窪んだ眼窩の底には、泥炭を塗りたくったような深い隈が張り付いていた。
彼の視線が、私の手元で止まる。
銀の折衝印。
「……ヒルデン侯爵家を通されましたか」
「ええ」
「なるほど」
副院長の口元に、疲れ切った苦笑が浮かんだ。
「それなら、こちらの事情もだいたい聞いておられるのでしょうな」
「人が出せないことは」
私はそう答えた。
副院長の眉が僅かに上がる。
「治療師を求めに来たのでは?」
「求めたい気持ちはあります」
一拍置く。
「ですが、無理だと聞きました」
副院長は少しだけ目を細めた。
「誰から」
「ヒルデン侯爵から」
「……あの方らしい」
私は続けた。
「ですので、薬をいただきたい」
今度こそ、副院長の顔に明確な驚きが浮かんだ。
「薬を?」
「高位治癒薬。中位治癒薬。止血用の聖布。固定用の聖具。火傷に使える軟膏。魔力枯渇を和らげる薬。出せる限り、すべて」
副院長はしばらく黙っていた。
「ヒルデン侯は、どこまで話されました」
「熱病には治癒薬が効かないこと」
「……」
「人より薬の方が、今は動かしやすいこと」
副院長は深く息を吐いた。
「本当に、余計なところまでよく知っておられる」
「長い付き合いなのでしょう」
「長すぎます」
その声には、僅かな苦笑が混じっていた。
だが、すぐに消える。
「本院長閣下は」
私は問うた。
「発熱しておられます」
「……熱病ですか」
「おそらく」
「おそらく、とは?」
「確かな診立てのできる上位の術者から順に、奥の病床へ倒れ込んでおりますので」
私は奥歯を噛み締めた。
副院長は立ったまま、机の角へ体重を預ける。
「昨日だけで、本院詰めの聖律師が十一名倒れました」
「人を治すべき治療師が、ですか」
「はい」
「あの門前の熱病に」
「はい」
「……聖律院の神聖治癒術をもってしても、防げないのですか」
「効きません」
冷え切った石を呑み込んだような一言だった。
「完全に?」
「熱を下げることも、身体の内に巣食った病を祓うことも叶いません」
「なぜです。神の奇跡を謳う貴方方が、なぜ治せないのです」
「分かりません」
聖律院の中枢に座る高位の術者が。
この王国の治療を長く握り、神聖不可侵の権威を誇ってきた人間が。
分からない、と言った。
副院長は、自嘲するように乾いた唇を歪める。
「剣による裂傷。魔獣の牙の毒。魔力回路の過負荷による火傷。砕けた骨。裂けた内臓。そうした傷であれば、我々の術式は今まで通り奇跡を起こせます」
「ですが、熱病には」
「何一つ通じません」
副院長は首を横に振った。
「神聖術を注ぎ込めば注ぎ込むほど、患者の身体は熱を帯びる。ひどい時には、術者まで同じ熱に倒れる。まるで、治そうとする力そのものへ喰らいついてくるように」
沈黙が部屋を満たした。
私は机の上に並ぶ硝子瓶へ目を向けた。
「だから、薬が残っている」
「ええ」
副院長も瓶を見る。
「使えないからです。熱病には」
「数は?」
「何のです?」
「高位治癒薬です」
副院長は私を見た。
「最初から、そこまで聞きますか」
「刻限がありません」
しばらくして、副院長は壁際の帳簿を引き寄せた。
「トレンスへ回せる限界として、百二十七本」
「中位は」
「在庫三百五十六。二百三まで」
「聖布」
「五十七反」
「固定具」
「三十」
「軟膏」
「六十一壺」
「魔力回復薬」
「百九本」
私は即座に言った。
「すべて頂きます」
副院長の眉が動く。
「出せる分を、です」
「代価は」
「支払います」
「侯爵夫人。これは安い買い物ではない」
「承知しています」
私は一歩前へ出た。
「ですが、金も屋敷も、生き残れば稼ぎ直せます」
低く言う。
「死んだ人間は……二度と戻りません」
副院長は黙った。
その視線が、私の手にあるヒルデン侯爵家の折衝印へ落ちる。
そして、少しだけ苦い顔をした。
「ヒルデン侯は、金で殴るなとも言われましたか」
「言われました」
「では、なぜそんな顔で全部寄越せと仰る」
私は答えた。
「足りないからです」
副院長が止まる。
「足りないから、欲しいのです」
机上の帳簿を指す。
「百二十七本でも足りない。二百本でも足りない。聖布も軟膏も固定具も、全部足りない」
私は副院長を見る。
「ですが……足りないからといって、貰えるものまで置いて帰る理由にはなりません」
長い沈黙だった。
やがて、副院長が小さく息を吐く。
「……なるほど」
帳簿を閉じる。
「ヒルデン侯が印を持たせた理由が分かりました」
「出していただけますか?」
「出します」
私の肩から、ほんの僅かに力が抜ける。
「高位治癒薬百二十七。中位二百三。止血聖布、固定聖具、軟膏、回復薬。倉番へ直ちに払い出しを命じます」
「感謝いたします」
「ただし、二つ条件があります」
「何でしょう」
「一つ。聖律師は同行させられません」
「承知しています」
「もう一つ。薬の使用記録を残してください」
私は眉を寄せた。
「誰に。どの傷に。何を。どれだけ使い、その後どうなったか」
「なぜ」
「効いたかどうかを、知りたいのです」
副院長の声から、聖律院の役人としての硬さが抜け落ちた。
「我々は今、この王都の病に対して、何一つ為す術を持たない。神に祈り、術式を編み、それでも目の前で人が冷たくなっていくのを見送るしかない」
深く、重い息を吐く。
「せめて、我々の手が届く傷について、何が人の命を繋ぎ止めたのか。その事実だけは見失いたくないのです」
私は静かに頷いた。
「記録させます」
「必ず」
「ええ」
副院長が窓の外を見る。
「輸送はどうなさる」
「空船を使います」
「あの大型船を?」
「アークランド公爵家から二隻。すでに動かす許可を取り付けています」
副院長の口元が、今日初めて僅かに綻んだ。
「……随分と走り回っておられる」
「まだ足りません」
「でしょうな」
それ以上は、互いに何も言わなかった。
私は帳簿の写しへ視線を落とした。
高位治癒薬百二十七、中位、止血聖布、固定聖具、軟膏、回復薬。
決して小さくない。
それでも、北へ押し寄せるものを思えば……足りない。
「ヒルダ」
「はい」
「次へ向かいます」
副院長が顔を上げた。
「もう?」
「刻限が惜しいのです」
私は深く一礼した。
「薬は今日の日没までに、王都西門の空船繋留地へ」
「手配いたします」
「代価の支払いは、別邸の執事長へ」
「承知しました」
踵を返し、回廊へ足を踏み出す。
その背中に、副院長の声が飛んだ。
「トレンス侯爵夫人」
振り返る。
「ヒルデン侯へ」
副院長は少しだけ疲れた笑みを浮かべた。
「たまには、こちらの味方もしてくれとお伝えください」
「王家には、聖律院の味方だと言われているそうですよ」
「……まったく」
ほんの一瞬だけ、副院長が笑った。
すぐに、その笑みは消える。
「北の民を、一人でも多く連れ帰ってください」
私は静かに頷いた。
「そのために、ここへ参りました」
暗い回廊を抜け、外の冷気の中へ戻る。
馬車の前まで辿り着いた時、ヒルダがぽつりと言った。
「奥様」
「何です」
「百二十七本でございます」
「ええ」
「決して、少ない数ではございません」
私は口元の薄布を顎の下へ引き下げ、馬車の踏み台へ足をかけながら答えた。
「分かっています」
「では」
「それでも、足りないのです」
ヒルダはそれ以上、何も言わなかった。
私もまた、口を開かなかった。
馬車へ乗り込むと同時に、背後の聖律院の尖塔から、ゴォン、と弔いの鐘が重く冷たく鳴り響いた。