剣と魔術とライフルと   作:あききし

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《追憶》 Ⅸ 西方の竜

 

《追憶》 Ⅸ 西方の竜

 

 

 エルトリア公爵邸。

 

 王都でも最古参の家格を誇るその屋敷は、壮麗でありながら、息が詰まるほどに静まり返っていた。

 

金箔をこれ見よがしに散らした成金の華美さではない。黒ずんだ古い切石。幾代もの歩みで油のように磨き抜かれた寄木張りの床。何代にもわたって寸分違わぬ位置に掲げられてきた先祖の肖像画。

 

王家よりも長くこの地に留まり続けることすら見越して組み上げられたような、逃れようのない重圧が廊下を満たしていた。

 

すれ違う老従僕の視線一つにすら、格下の家が物乞いに来たのだという冷ややかな嘲笑を探してしまう。そんな卑屈な疑心暗鬼を振り払うように、私はあごを引き、ドレスの裾を擦らせて歩いた。胃の底が鉛のように重い。王都の冷笑と駆け引きに晒され続け、張りつめさせた神経は、いまにも鋭利な音を立てて千切れそうだった。

 

案内された応接室の扉を潜った瞬間、私の足裏が敷物の上で止まった。

 

部屋の中央、黒檀の大机の上に広げられていたのは、調度品ではなく帳簿だった。

 

厚みのある大帳が五冊。その脇には、すでに赤い封蝋を押された書状の束が、測ったように整然と積まれていた。

 

「お待ちしていた」

 

低く、腹の底を擦るような声。

 

灰色の冬空を映す窓辺から、一人の男がゆっくりと振り返った。

 

レオポルト・セレスティン・フォン・エルトリア。

 

エルトリア公爵家の当主。

 

まだ壮年と呼ぶべき年齢のはずだった。だが、その肩の落ち方にも、踏みしめた足の据わりにも、若者の持つ軽さは微塵も残っていない。

この男が一度口にした言葉は、そのまま一族と領地の決定になる。

 

そういう種類の、重い石のような人間だった。

 

「公爵閣下」

 

私は指先の震えを隠すようにドレスの布地をつまみ、深く礼を執った。息を吸い込むたび、コルセットの骨が締めつけられた胸を圧迫する。

 

「挨拶はいい」

 

レオポルト閣下は長椅子を勧めることもなく、机の上の帳簿の一番上に手を置き、自ら開いた。

 

「必要なものを言え」

 

あまりにも無駄のない踏み込みだった。

 

社交辞令の探り合いも、こちらの窮状を品定めするような前置きもない。用意していた交渉の口上が、喉の奥でつかえた。私は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「……すでに状況を把握しておられるのですか」

「王都で知らぬ者はいない」

「ならば」

「兵は出せない」

 

私の言葉を遮り、先に叩きつけられた。

 

胸を木槌で殴られたような衝撃だった。喉の奥で息がひゅっと詰まる。

やはり駄目なのか、という絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってきた。王都中を駆け回り、門前払いを食らい続けてきた日々の徒労感が、一気に両肩へのしかかる。

 

レオポルト閣下は、硬い視線を私の顔から外さなかった。

 

「そこだけは、最初に釘を刺しておく」

「……理由を伺っても?」

 

声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に押し殺した。崩れてしまえば、二度と立ち上がれない気がした。

 

「聞く必要があるか」

「あります」

 

爪が掌に食い込むほど握り拳を作り、私は一歩も退かずに見据えた。哀願に来たのではない。領地を預かる妻として、退くわけにはいかなかった。

 

閣下はわずかに目を細め、それから背後の壁一面に掛けられた王国全土の布地図へ顎をしゃくった。

 

「どこからも兵を抜けんのだ」

 

短く、淡々とした声だった。

 

「ロザリアはレガリア正面を抱えている。ヴァルトシュタインは西方国境。王軍は、この王都の熱病で手足を縛られている」

「エルトリアは」

「自領の守りを空にしてまで北へ差し向けられるほど、余剰の剣は持ち合わせておらん」

 

私の指先が、スカートの布地を内側から強く掴み締めた。布越しに、冷え切った自らの体温が伝わってくる。

 

「……左様ですか」

 

言葉が渇き、掠れた。頭の奥で、雪に埋もれていくトレンスの光景が明滅する。誰も助けてはくれないのだという冷厳な事実が、背筋を凍りつかせた。

 

「だが」

 

閣下の分厚い指が、開かれた帳簿の頁をめくった。

 

「金は出す」

 

私は弾かれたように顔を上げた。

 

「武器もだ」

 

乾いた紙の擦れる音が、張りつめた室内にやけに鋭く響く。

 

「矢束。弓材。槍頭。工兵用の鋼材。魔攻砲の砲架材。高純度の魔晶石」

 

さらに隣の大帳を引き寄せる。

 

「輜重用の輸送馬。荷車。保存用の乾肉。塩。油。冬用の厚手毛布」

 

私の視界が、羅列された品目と数字によって塗りつぶされていく。絶望で白く霞んでいた頭の中へ、桁違いの現実が雪崩れ込んできた。

 

「これらを……」

「今日、直ちに王都の倉庫から動かせる分だ」

 

帳簿が私の手元へ押し出された。

促されるまま、私は身を乗り出した。墨の乾いた数字の列を追う視線が激しく揺れる。

 

一行。二行。十行。

 

目を疑うような数値の連続に、胸の奥で動悸が早鐘を打ち始めた。指先が微かに震え、帳簿の縁を掴む。

 

「……これほどまでの量を?」

「少ない」

 

彼は即座に切り捨てた。

 

「公爵閣下」

「足りないと言っているのだ」

 

その声に、焦りも苛立ちもなかった。

ただ、冷徹に事象の質量を測る響きだった。

 

「北を呑もうとしている災害の規模に対して、これでも足りん」

 

私は手元の帳簿へ視線を落とし直した。

紙面に並ぶ数字を睨みつけながら、胸が締めつけられる。確かに、その通りだった。

 

一つの大貴族家が即座に蔵を開いて差し出せる物資としては、破格という領域を遥かに超えている。どれほどの血が滲む備蓄か、どれほどの財の結晶か、考えただけでも眩暈がする。

 

だが、ヴァルデシアの城壁の損耗。後方へ押し寄せる避難民。崩壊した村々の冬越え。泥濘の街道で潰れていく荷車。これから失われる兵站の総量を思えば。

 

これほど積まれても、なお足りない。

途方もない現実の重さに、目眩がするほどの恐ろしさと、それでもいま目の前に手が差し伸べられているのだという激しい感情が混ざり合い、視界が滲みそうになった。

 

「……それでも」

 

私は喉の奥の震えを押し殺し、深く頭を下げた。鼻の奥が痛いほどツンとする。

 

「心より、感謝申し上げます」

 

閣下は頷かなかった。

礼を受けるほどのことをしていない、とでも言いたげな顔だった。

 

「必要とあらば、エルトリア公爵家の商会信用を使え」

「信用……ですか?」

「手持ちの現金が底を突いても、我が家の名で物を買えるようにする」

「各商会への保証を、閣下が?」

「手形を切れ。こちらから裏書を回す」

 

呼吸が止まった。

 

王都の大商人たちがどれほど疑り深く、いまのトレンスの名を避けたがっているか。そこにエルトリアの裏書が載るという意味の重さが、冷え切った胸の芯を激しく揺さぶる。それは、この公爵家がトレンスの負債を丸ごと背負い込むことと同義だった。

 

「後で必ず返せよ」

「……必ず」

 

絞り出した声が、熱を帯びて掠れた。

 

「返せん時は、トレンス領の鉱山ごと差し押さえる」

 

その容赦のない物言いに、喉の奥から強張りが解け、乾いた笑みが微かに零れた。情けをかけられたのではない、対等な取引として背負わされたのだという冷たさが、いまは何よりもありがたかった。

 

「それは頼もしい担保ですこと」

 

閣下の巌のような目元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「一つだけ忠告しておく」

 

私の笑みが消える。すっと背筋を伸ばし直した。

 

「今は、見栄を張るな」

 

レオポルト閣下の眼光が、私の胸の奥深くまで突き刺さった。

 

「必要なものは必要だと言え」

「……はい」

「足りぬなら、足りぬと叫べ」

 

短い静寂。

 

「侯爵夫人の体面など、領民が生き残った後で拾い直せ」

 

その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが決壊しそうになった。

 

王都へ来てからずっと、侮られないために、夫の名を汚さないために、私は完璧な侯爵夫人でいようと虚勢を張り続けていた。冷笑を浴びても背を反らし、侮蔑の視線にも微笑みを返し、誰にも弱音を吐けずに凍りついていた心が、容赦なく砕かれた。

 

体面など捨てろと、生きて帰れと、泥を啜ってでも民を守れと、この男は命じているのだ。

 

目頭が熱くなり、睫毛が濡れるのを、私は必死に瞬いて堪えた。涙をこぼすことすら許されないほど、渡されたものの重みが両腕に食い込んでいる。

 

私は背筋を正し、もう一度、深く腰を折った。今度は、飾り立てた礼法としてではなく、命を預かる者としてのすべてを込めて。

 

「……肝に銘じます」

 

レオポルト閣下はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 

ただ、机の上に積まれていた封書を、手際よく背後の家令へ手渡していく。

 

その所作一つで。

 

王都の地下倉庫に眠っていた鉄と穀物が、北へ向かって動き始めた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 ハートフィリア公爵邸。

 

 エルトリアの静寂とは、まるで肌触りの違う空気がそこを支配していた。

 

静けさなど、どこにもない。

 

剥き出しの速度だった。

 

回廊を駆け抜ける若い書記官の靴音。乱雑に抱えられた大量の公文書。壁にも卓上にも広げられた王国各地の軍事地図。埃と汗にまみれた伝令が、息を切らせて部屋を出入りしていく。

 

誰一人として、立ち止まって私に視線を投げる者すら信じられないほど、この屋敷の時間は狂ったように早回しされていた。すれ違う者の袖から立ち上るインクと馬の汗の匂いに、私の胃が神経質に収縮する。

 

王国の宰相を兼ねるハートフィリア公爵、セドリック公の館は、大貴族の邸宅というより、王宮の執務室がそのまま溢れ出したようだった。

 

案内された部屋の中央、長大な卓の上にも王国全土の地図が広げられていた。

 

「座れ」

 

卓上の羊皮紙に赤い筆を走らせていた宰相閣下は、顔も上げずに言い放った。

 

「失礼いたします」

 

ドレスの裾を捌く余裕すら与えられない。

 

「トレンスからの急報は、先刻すべて目を通した」

「ならば」

「兵は出せん」

 

まただ。

 

同じ言葉が、容赦なく私の頭上へ叩き落とされる。エルトリアで味わったあの冷たい絶望が、再び胸を刺し貫いた。指先から急速に血の気が引いていく。

 

私は奥歯を噛みしめ、差し出された硬い椅子へ腰を下ろした。座面の冷たさが、薄い布越しに骨へ伝わる。

 

セドリック宰相が、そこで初めて鋭い双眸を私へ向けた。隈の浮いた、だが獣のように研ぎ澄まされた光だった。

 

「酷く不満そうな顔だな」

「当然でございましょう」

 

掠れそうになる喉から、尖った声を絞り出した。ここで淑女の愛想笑いなど浮かべたら、一息で叩き出されると本能が叫んでいた。

 

「よろしい」

 

私の眉根が引き絞られる。

 

「……何がでございますか」

「その程度に噛みつく気力が残っていなくては困る」

 

彼は荒っぽく指先で卓上の地図を叩いた。羊皮紙がばさりと音を立てる。

 

「見ろ」

 

トレンスの隣、ロザリア。

 

「ここからトレンスへ回せば、レガリア正面が薄くなる。王国がその隙を突けば、東部諸州が燃える」

 

そこから南西、ヴァルトシュタイン。

 

「こちらも同じだ。西方国境を睨むだけで手一杯だ」

 

そして中央、王都。

 

「王軍は?」

 

私の問いに、その筆が地図の上で円を描くように止まる。

 

「熱病への対処。市中警備。患者の移送。遺体の処理。封鎖区画の維持。聖律院の警護」

 

彼は地図から目を離さない。

 

「端的に言えば、まとまって北へ出せる兵はない」

 

「本当に……たったの一兵もですか」

「一兵なら出せる」

「なら」

「一兵出して何が変わる」

 

私の息が喉で止まった。

 

「百なら?」

「……」

「その百を北へ送るために、王都のどの門を薄くする。どの封鎖区画を捨てる」

 

答えられない。頭の中で、病に侵された王都の貧民街と、吹雪の中で立ち尽くすトレンスの民の姿が重なり、息が詰まる。

 

「千なら?」

「……無理です」

 

唇を震わせ、かろうじて絞り出した。

 

「そうだ」

 

冷徹な一言だった。一切の甘えを許さない刃の響きだった。

 

「兵という形でトレンスを救う道は、今の王国にはない」

 

「……ならば、トレンスを見殺しにしろと仰るのですか」

 

悔しさと無力感が綯い交ぜになり、声が震えた。瞳の奥が熱くなるのを、私は懸命に睨みつけて押し戻す。

 

宰相閣下の眼光が、一瞬で刃のように研ぎ澄まされる。

 

「誰がそんな腑抜けた真似を口にした」

 

低く、地を這うような怒声だった。肌が粟立つ。

 

「トレンスが落ちた後に何が起きるか、この私が分からんと思うか」

 

乱暴に突き出された指が、北の地図を叩く。

 

トレンス侯爵領。

 

その向こうの北部大森林。

 

さらにその先。

 

「トレンスが抜かれれば、大森林側の防壁が消える。ロザリアは北のレガリア正面と東の二方向を同時に抱える」

「不可能です」

「その通りだ。だから落とすわけにはいかん」

 

宰相閣下は卓に両手をつき、身を乗り出した。その双眸に宿る異様な熱量に、息を呑む。

 

「だからこそ、兵以外を動かす」

 

脇に控えていた書記官から、乾いた音を立てて分厚い書類束が渡される。

 

「王都第一、第二軍需倉」

「はい」

「備蓄資材の優先払い出しだ。北行きへ最上位の割り当てを掛ける」

 

私は目を見張った。紙面の最上段に、王家の刻印が鮮やかに捺されている。

 

「空船」

「アークランドから二隻、すでに押さえております」

「足りん。追加を動かす」

「可能なのでございますか」

「可能にする」

 

別の紙を引き寄せ、署名を叩きつけた。

 

「王都に入っている商船を三隻、王家保証付きで借り上げる。通常運賃の倍まで認める」

「それでも断る船主がいたら」

「王都の港は、王家の許しなく使えん」

 

私が僅かに目を見開く。恫喝とも取れるその言葉を、宰相閣下はまるで帳簿をめくるように淡々と続けた。

 

「商人に愛国心を要求するな。利益と保証を与えろ。それでも動かぬなら、動かぬ方が損だと理解させればいい」

 

吐き捨てるような合理性に、鳥肌が立った。情け容赦はない。だが、この男は本気で船を北へ押し流そうとしている。

 

「それと……もう一隻だ」

 

宰相の指先が、書類の端に記された古めかしい船名の上で止まる。

苦々しい、吐き捨てるような声音だった。

 

「工廠の奥で、建国記念日の祝砲以外に浮きもしない鉄屑が一隻、埃を被っている。物資を積むには腹が狭すぎるが……浮くことだけは、毎年確認が取れている。持っていけ」

 

「……儀礼用の船を、ですか?」

 

「王家の倉で錆びつかせておくよりはマシだ。荷車十台分程度の軽荷なら甲板に縛り付けられる。動くものはすべて北へ送れと言ったのは貴女だろう」

 

次の羊皮紙が引き寄せられる。

 

「街道の検問」

「熱病のため、厳格に止められています」

「北行きの軍需車列には特例通行証を出す」

「病を広げる危険は」

「検問の手前で車を分ける。荷を移し、御者を替える。人を止めても荷は止めるな」

 

即座に返される指示の精密さに、頭が痺れるようだった。現場の混乱も、関門での怒号も、この男の頭の中ではすでに計算され、処理されている。

 

更に一枚。

 

「関銭と渡河料は北行き軍需に限り免除。宿駅は軍用輸送へ優先開放。商会には王家の支払い保証を付ける」

「エルトリア公爵閣下からも、裏書を頂きました」

「なら両方使え」

 

その目に迷いはなかった。

 

「信用は重ねた方が商人の足が速くなる」

 

私の腕の中へ、次々と書類が押し付けられていく。ずっしりとした重み。乾いたインクの匂い。王都中の商人と役人を力づくで走らせるための紙の束が、私の胸を圧迫する。

 

「聖律院については」

 

私は胸元に抱えた書類の隙間から、ヒルデン侯爵邸で預かった折衝印の写しを思い出した。

 

「ヒルデン侯爵を通じ、本院から各支院へ応援要請を回していただくことになっています」

「よし」

 

彼は間髪を入れずに別紙へ手を伸ばした。ペン先が紙を削る音が、室内を支配する。

 

「なら王国側はこちらで潰す」

「何を?」

「領境通行、宿駅使用、軍馬借受、渡河、関銭。聖律院の者が北へ行くと決めた時、王国側の紙一枚で足を止めさせるな」

 

私は息を呑んだ。胸の奥が激しく波打つ。

 

「治療師を出せと命じることはできん」

 

顔を上げずに言う。

 

「だが、行くと決めた者を王国の都合で一刻たりとも遅らせぬよう命じることはできる」

 

ヒルデン侯爵とは違う。

 

聖律院そのものを動かすのではない。動こうとする者の前から、国境も関銭も役人も退ける。足枷をすべて叩き割る。

 

それが、この男の執る政治という刃なのだ。

 

「……国王陛下は、何と」

 

私の問いに、宰相閣下は一瞬だけ筆を止めた。

 

「揺れておられる」

「……」

「先代王太子の急逝以来、現王の足元は盤石ではない。王命一つにも、諸侯は余計な意味を読む」

 

視線が国境線へ落ちる。その横顔に、一瞬だけ深い影が差した。

 

「今、陛下がロザリアへ出兵を命じれば、王家が東部を意図的に危険へ晒したと取られる。ヴァルトシュタインへ命じても同じだ」

「では……」

「誰も動かさん」

 

セドリック宰相が私を見る。冷え切った、だが逃げ場のない現実の目をしていた。

 

「それが最も公平だからでございますか」

「違う」

 

首を横に振る。

 

「それが、この国を今すぐ壊さないためだ」

 

一拍の間。

 

「今は、国全体を崩さずにトレンスを支えねばならん」

「……そんな都合の良い方法が」

「ない」

 

即答だった。

あまりの断言に、私の肩からわずかに力が抜けた。虚飾のない現実に殴り倒されそうになる。彼は、その動揺を見逃さなかった。

 

「だからこそ」

 

積み上がった書類束を、私の前へ押し出す。机を滑る重い音。

 

「今やれることを全部やる」

 

私はその束を見下ろした。

 

軍需物資の優先払い出し。商用空船の借り上げ保証。北行き物資の特例通行。関銭と渡河料の免除。王家による商会支払い保証。聖律院関係者への通行優先。

 

そこにあるのは、剣を握る兵士の身体ではない。

 

だが、王国という巨大で鈍重な仕組みが、骨を軋ませ、関節から油を流しながら絞り出した権限と資源のすべてだった。重い。腕が抜けそうなほど重いのに、これで人が救えるのかという恐怖が消えない。

 

「これらをすべて」

「持っていけ」

「……宰相閣下」

「礼は要らん」

 

宰相閣下は低く遮った。

 

「結果を出せ」

「……御意に」

 

喉を押し潰すようにして答えた。

 

「それと、避難民だ」

 

私の眉間が曇る。胃の奥が再びきゅっと引き絞られた。

 

「空船を確保しても、受け入れ先がありません」

「分散させろ」

「どこへ」

「一箇所へ押し込むな」

 

彼は地図の南部を指でなぞった。

 

「トレンス南部の町。王領の中小都市。街道沿いの修道院。商会の空き倉庫。使われていない旧軍宿営地」

「それらすべてを?」

「すべてだ」

 

指先が、地図上へ点々と散る。まるで駒を捨てるような無慈悲さで。

 

「五千人を一箇所へ入れれば、その街ごと死ぬ。五百ずつ十箇所なら、まだ食わせられる」

「寝床は」

「納屋でも倉でも屋根があれば使え」

「王都へは」

「絶対に入れるな」

 

即答だった。氷を投げつけられたようだった。

 

「これ以上、健康な民を熱病の渦へ入れるわけにはいかん」

 

冷酷だった。

あまりにも無慈悲で、切り捨てる側の論理だった。

 

だが、正しい。

ぐうの音も出ないほどに、正しかった。

 

胸が張り裂けそうだった。

 

まただ。

 

エルトリアも、ヒルデンも、そしてこのハートフィリアも。誰も間違っていない。誰も私を嘲笑ったり、トレンスを見殺しにしようとしているわけではない。皆、自分の守るべきものの限界の淵で、血を吐くような手を打っている。

 

それでも…………足りない。

全員が最善を尽くしてなお、死んでいく民の数に届かない。その絶望的な計算が、頭の中で弾き出されて止まらない。

 

「……宰相閣下」

「何だ」

「もし」

 

私の唇が、寒気もしていないのに激しく震えた。言ってはならないと分かっていても、弱音が漏れそうになる。

 

「もし、これでも足りなかった時は」

 

セドリック公は地図を見たまま答えた。迷いのない、鋼の平坦さだった。

 

「何が、どれだけ足りなかったのか。必ず残せ」

「……敗北の記録を?」

「そうだ」

 

彼の指が、止まる。

 

「次に同じ災厄が来た時、同じだけ足りない国であってはならん」

 

「次など……っ!」

 

思わず悲鳴のような声が漏れた。今生きている者すら救えないかもしれないのに、次などという言葉を聞きたくなかった。

セドリック公が私を見る。その眼差しは、哀れみすら拒絶していた。

 

「ある」

 

あまりにも迷いなく言った。

 

「厄災は、人々が忘れた頃にもう一度来る」

 

私は言葉を失った。全身の血が凍りつくのを感じた。

 

「だから記録しろ。壁が何丈足りなかった。矢が何万本足りなかった。荷車が何台足りなかった。治療師が何人足りなかった。伝令が何刻遅れた」

 

その声は、低く静かだった。それは死者たちの墓標を刻むような響きだった。

 

「次の世代が、同じ数を数えずに済むようにな」

 

その一言に……私は、しばらく呼吸を忘れていた。

 

背負わされたものの途方もなさに、視界が白く眩んだ。目の前の男は、いま眼前にある危機だけでなく、百年先の国家の骨格を見据えて、私に呪いのような命令を下しているのだ。逃げ出すことなど許されない。泣くことすら、この書類束の前では無駄な熱の浪費にすぎない。

 

肺腑の底に残っていた空気を震えながら吐き出し、私は冷え切った両手で書類を胸元へ抱きしめた。紙の角が、ドレス越しに肋骨へ痛いほど食い込む。

 

やがて。

 

私は乱れそうになる呼吸を整え、深く頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 執務室を出て、重い扉が背後で閉ざされた瞬間、張りつめていた肺から細い呼気が零れ落ちた。

 

凍てつく回廊の冷気の中を、ドレスの裾を踏みそうになりながら足早に歩く。抱え込んだ書類の角が腕に食い込み、骨が軋むように痛む。だが、その痛みにすら縋りついていなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 

待たせていた馬車へ滑り込み、革の扉が外の喧騒を遮断した途端、押し殺していた吐き気が込み上げた。奥歯を噛み締め、シートへ深く身を沈める。

 

向かいには、すでにヒルダが姿勢を正して座っていた。

主人の乱れた息遣いにも、青ざめた肌にも、余計な哀憐を向けない。その静寂だけが、いまの私には救いだった。

 

私は震える指先で、膝の上へ今日手に入れたすべてを並べた。

エルトリアの資材帳簿。アークランドの補給書。聖律院の薬品払い出し証。ヒルデン侯爵家の折衝印。そして、ハートフィリアから渡された特例令書の束。

 

幾重もの朱印。分厚い羊皮紙。乾いたインクの匂い。膝を圧迫する物理的な重量は、一つの家が傾くほどの莫大な財と権力の結晶だった。

 

荷馬車、空船、魔晶核、麦、治癒薬、通行許可、商会信用、王家保証。

 

少なくない。

決して、少なくなど……ない。

 

王都中の大貴族に頭を下げ、冷笑を浴び、体面を泥に浸してかき集めたのだ。この紙の一行一行が、確実に誰かの命を繋ぐ。何十人、何百人の飢えを止め、凍傷の手足を温めるはずだった。

 

私は膝の上の帳簿をめくり、数字を足した。

 

荷馬車一台の積載量。避難民一人が一日に消費する穀物の重さ。前線で一日に折れる槍の数。街道の雪に足をとられ、後送の途中で死んでいく負傷兵の割合。

 

一度。

もう一度。

 

指先を走らせ、何度も検算する。

足し算を重ねるたび、胃の奥が冷え切っていく。

 

それでも。

 

「奥様」

 

ヒルダが呼ぶ声がどこか遠くに聞こえた。私は答えなかった。指先が数字を追うのをやめられない。どこかに計算違いはないか。どこかにまだ、見落とした余剰の数字が眠っていないか。

 

「奥様」

「……足りない」

 

掠れた声が、喉の奥から零れ落ちた。

情けなさが、黒い泥のように全身を蝕んでいく。

 

王都の暖炉の前で、安全な部屋で、私は一体何をしてきたのか。偉そうに頭を下げて、大貴族の施しをかき集めて、それで何を救えた気になっているのか。

あの人は今この瞬間にも、雪と泥に塗れ、骨が軋むような寒さの中で剣を握っているはずなのに。

 

「……ええ」

 

ヒルダの返答は、残酷なほど平坦だった。

 

「……これほど集めても」

 

私は紙の端を握り締めた。上等な羊皮紙が、爪の圧力で無惨に歪む。

 

「まだ……まるで、足りない……」

 

城壁の裂け目を埋めるには石が足りない。避難民を収容するには屋根が足りない。傷口を塞ぐには薬が足りない。何より、あの人の背中を守るための兵が、たったの一人も足りない。

 

胸の奥が張り裂けそうだった。涙すら出てこない。ただ、乾いた絶望だけが全身の血を凍らせていく。

 

ヒルダは慰めなかった。同情の言葉も、無責任な励ましも口にしなかった。

 

ただ、冷え切った手つきで、書類の隙間へ一枚の羊皮紙を静かに差し込んだ。

 

赤い王家の封蝋。

次の行き先だった。

 

「次は、王宮でございます」

 

冷徹な現実が、私を現実へと引き戻す。

 

私は目を閉じた。

瞼の裏の暗闇に、雪の白さと、その上を流れる赤い血の幻影が浮かぶ。

ほんの一瞬だけ、ドレスの胸元の上から、服の内側に隠した首飾りの硬い感触を確かめるように強く握りしめ、奥歯が砕けるほど噛み締めた。

 

それから、目を開け、差し出された羊皮紙を指先で引き抜いた。

 

「……行きましょう」

 

御者が鞭を振るい、馬車が王都の濡れた敷石を叩いて動き出す。車輪の振動が、座席を通じて腰へ、背骨へと突き上がってくる。

 

次へ。

さらに次へ。

北では今この瞬間も、夫が泥に塗れながら。

 

飢えと震えに苛まれる兵たちの前で、主として立ち尽くしながら。

 

私と同じように、足りないものを……命の数を、数え続けている。

 

そのことだけが……私の膝を、決して屈服させてはくれなかった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 王宮、大会議室。

 

 

 夕刻の鐘が遠く鳴り響いてからも、蝋燭の油煙が立ち込める室内では、終わりなき言葉の空転が続いていた。

 

長大な作戦卓の中央に広げられた王国全土の布地図。

 

その上には、領主や部隊の所在を示す黒と赤の木製駒が、互いの退路を塞ぎ合うようにして固まっていた。

 

動かせる駒は、一つもない。

 

一つを右へ動かせば、左の防壁が崩れる。一つを北へ進めれば、東の喉元がガラ空きになる。

 

「ロザリアからは一兵も抜けん」

 

ハートフィリア公爵セドリックが、濁った声で作戦卓の端を叩いた。

 

「現状の配置ですら、レガリア王国正面の監視には余剰がない。あそこを薄くすれば、王国の東部軍に『どうぞお入りください』と道を開けるようなものだ」

 

「ヴァルトシュタイン伯爵領は」

 

軍務卿が呻くように問う。

 

「西方国境の山岳線を維持するだけで手一杯です。レガリアが陽動で小競り合いを仕掛けてきている今、西軍主力を動かすなど自殺行為に等しい」

 

「ならば王軍直属部隊はどうか」

 

「すでに熱病対応で兵の三割が市内任務に拘束されている。衛戍部隊、各門の検問、重症患者の強制移送、遺体処理の護衛、そして聖律院の警備だ。これ以上、王都の治安線を削れば、北からの魔獣が来る前にこの都が内側から暴動で焼け落ちるぞ」

 

誰かが舌打ちを鳴らし、乾いた紙が擦れ合う音が響く。

 

「では、トレンスは自力だけで持ち堪えろと言うのか!」

 

「誰もそんな見殺しを肯定してはおらん!」

 

「だが、現実に兵が出せんのだろうが!」

 

激昂する武官たちの怒声が、石造りの高い天井に反響しては虚しく消えていく。

 

玉座に座る国王陛下は、顎に指を添えたまま、沈黙の底で地図を見下ろしていた。

 

若い。

 

偉大なる先代、そして急逝した兄王太子の影を払拭するには、あまりにも若く、王冠の重みを持て余していると囁く陰口は、王都の至る所に燻っている。

 

毒殺。事故。あるいは呪い。

 

兄宮の死にまつわる真偽不明の噂が宮廷の足元を凍りつかせ、玉座からの一言、軍勢の一つの移動にすら、派閥同士の醜い猜疑心が纏わりつく。

 

命令一つを軽々しく下せば、それだけで国家の箍が外れかねない。

 

「……トレンスが落ちれば」

 

セドリック宰相が、感情を削ぎ落とした低い声で繰り返す。

 

「大森林側に張り巡らされた北の防衛線が完全に消滅する。ロザリアは、レガリアの脅威と東からの魔獣という二正面を、たった一軍で抱え込む羽目になるのだ」

 

「不可能です。そんな戦線は一日と保たない!」

 

「だからこそ、トレンスを落とすわけにはいかんのだ」

 

「ならば兵を寄越せ!」

 

「だから、どこから引き抜くと言っているのだ!」

 

まただ。

 

同じ場所へ、ぐるぐると戻ってくる。

 

私は、会議卓の最末席で、冷え切った指先を重ね合わせて息を潜めていた。

 

すでに、手は尽くした。

 

アークランドから輸送馬二百頭と荷馬車百二十台をもぎ取った。

 

エルトリアから武器、鋼材、金、そして商会信用の裏書を引き出した。

 

聖律院から、倉に眠っていた高位治療薬百二十七本を買い叩いた。

 

ハートフィリアから物資の優先払い出しと、民間空船の徴用特例令を奪い取った。

 

飛行船も、手配した。

 

物資を北へ急送する路も、避難民を空から逃がす手段も、帳簿の上では揃えつつある。

 

けれど……兵だけが、来ない。

 

泥濘に足を取られながら、あと一日足らずでヴァルデシアの門を破ろうとしている何千、何万という魔獣の津波。

 

それを真正面から受け止めるための「生きた刃」だけが、この豪壮な王宮のどこを探しても、欠片も見当たらないのだ。

 

胸の奥が、焼けた鉄を押し付けられたように熱く、苦しかった。

 

私がここで優雅なドレスを着て、男たちの面子と政治の堂々巡りに付き合っているこの瞬間にも。

 

北の泥の中で、キース様は息を削り、兵たちを怒鳴りつけ、今まさに死の淵へ向かって歩みを進めているというのに。

 

「……陛下」

 

私は膝の上で拳を固く握り込み、立ち上がった。

 

ざわめいていた室内の視線が、一斉に末席の私へと突き刺さる。

玉座の若い王が、ゆっくりと視線を上げた。

 

「トレンスは、あと一日もありません」

 

私の喉から絞り出された声は、自分でも驚くほど冷たく、硬かった。

 

「分かっている、侯爵夫人」

 

「いいえ、お分かりになっておられません」

 

武官たちの息を呑む気配。無礼を咎める視線。そんなものは知ったことではなかった。

 

「明日に門を破られる前線にとって、十日後にしか到着せぬ歩兵を今ここで何百人で議論しようと、砂粒ほどの価値もございません」

 

私は会議卓へ歩み寄り、冷え切った地図の上に両手を突いた。

 

「ですから──今この瞬間、明日までにトレンスへ届くものだけを動かしてください」

 

「ダイアナ夫人」

 

セドリック宰相が眉をひそめる。

 

「今すぐ飛べるものなど、この王都には──」

 

その時だった。

 

重厚な会議室の大扉の向こう側から、怒声と激しい靴音が響いた。

 

「お待ちください!」

 

「閣下、現在陛下の御前会議中であります!」

 

「だから、そこへ用があると言っているのよ!」

 

聞き覚えのある、凛とした、そしてあまりにも不遜な女の声。

 

衛兵が制止する間もなく、巨大な観音開きの扉が、外側から力任せに蹴り開けられた。

 

ドォン、と重苦しい石の壁が震える。

 

取り乱した二人の近衛兵が、抜刀すらできずに立ち往生していた。

 

その二人の間を、風を切り裂くような大股の足取りで、一人の女が踏み込んできた。

 

風雪に晒され、煤と油の匂いを微かに纏った濃紺の長外套。

 

腰には実戦で使い込まれた長剣。

 

肩口の銀の留め金には、王国竜騎士団の紋章が硬質に鈍光を放っている。

 

アメリア・ド・ヴァルトシュタイン・ラ・グロースハイム。

 

王国でも指折りの特異個体、飛炎竜ゼフィロスを駆る歴戦の竜騎士。

 

そして──かつて王立総合学園の訓練場で、泥にまみれたキースを完膚なきまでに叩きのめし続けた、あの厳格極まりない教官。

 

「……アメリア卿」

 

王が微かに眉根を寄せた。

 

「陛下」

 

アメリア様は歩みを止め、騎士としての正確無比な一礼を捧げた。

 

無駄のない、美しい礼だった。

 

だが、会議を力づくで中断させた乱入者が執るには、あまりにも堂々としすぎていた。

 

「……何の用だ。見ての通り、軍議の最中だ」

 

「出撃の許可をいただきに参上いたしました」

 

室内の空気が、ピシリと凍りついた。

 

セドリック宰相が目を細め、身を乗り出す。

 

「……西方国境軍から、独断で兵を引き抜いてきたとでも言うのか」

 

「滅相もない。そのような無駄な手続きは踏んでおりません」

 

「では、何を出撃させる」

 

アメリア様は顔を上げ、平然と言い放った。

 

「竜騎士六騎」

 

一瞬の間。

 

室内の誰もが、その数字の意味を正しく咀嚼できなかった。

 

「……六?」

 

武官の一人が、間の抜けた声を漏らす。

 

「六騎だと?」

 

「耳が遠いのかしら」

 

「いや……貴様、正気か!」

 

別の将校が立ち上がり、机を叩いた。

 

「たったの六騎で、あの数万の魔獣の津波に立ち向かうつもりか!何をする気だ!」

 

「戦争に勝つつもりよ」

 

「何だと!?」

 

「──などと、言うと思ったかしら」

 

アメリア様は冷ややかに唇の端を持ち上げた。

 

「六騎で大森林の魔獣を殲滅できるなら、最初からこんな埃っぽい部屋へ許可など取りに来ないわ」

 

「では、何をしに行くのだ!」

 

「時間だ」

 

吐き捨てられた言葉に、誰かの指先がピタリと止まった。

 

アメリア様は大股に会議卓へと歩み寄り、私が手を突いていた地図の北側を、革手袋の指先で鋭く叩いた。

 

「竜騎士六騎。今すぐ王都を飛び立てば、夜を徹して飛び続け、明朝の夜明け前にはトレンス領の最北端、ヴァルデシアの上空へ突入できる」

 

「西方国境の守備を空ける気か」

 

「六騎抜けた程度で崩壊するような脆弱な防衛線なら、とっくに我が家はレガリアに呑まれているわ」

 

辛辣極まりない返答に、武官が言葉を詰まらせる。

 

「西方の主力部隊は一兵たりとも動かしていない。抜くのは私と、死ぬ覚悟を完了させた志願者五名だけよ」

 

「アメリア」

 

玉座の陛下が、低く、重々しい声で制した。

 

「貴女自身が、わざわざ飛ぶ理由がどこにある。他の者を遣わせば済む話ではないか」

 

「誰が、上から戦場を見るのですか」

 

アメリア様は真っ向から王の瞳を射抜いた。

 

「泥の中を走る地上の伝令だけで、あの規模の魔獣の進路が正確に読めると本気でお思いですか」

 

誰も、答えられない。

 

「大森林を突き破った奔流が、どの谷で割れ、どの尾根を越え、どの街道へ雪崩れ込むのか。どの橋が落ち、どの村の避難民が袋小路へ追い詰められているのか。地上を這いずり回る歩兵に、それが見えるはずがないでしょう」

 

アメリア様の指が、北から南へと滑らかに地図をなぞる。

 

「竜の背からなら、見える」

 

一拍。

 

「孤立した部隊の頭上へ、退却の矢文を叩き落とせる」

 

次。

 

「逃げ遅れた避難民の車列を、上空から安全な間道へと誘導できる」

 

次。

 

「突出してきた大型種の眉間へ、空中から高火力の術式を叩き込んで進路をねじ曲げられる」

 

次。

 

「そして──孤立し、手負いとなった前線の指揮官を、爪で掴んで強引に引き抜くこともできる」

 

「……それを、たった六騎でやると?」

 

宰相の問いに、アメリア様は傲然と胸を張った。

 

「六騎だからこそ、できるのだ」

 

静かな、だが鋼のような響きだった。

 

「歩兵千人を動かすなら、道がいる。宿営地がいる。何千人分もの麦と水がいる。そして到着までに半月の日数が消える」

 

彼女は冷たく言い放った。

 

「六騎なら、今すぐ飛べる」

 

会議室から、すべての雑音が消え失せた。

 

私は息を呑み、金縛りに遭ったようにアメリア様を見つめていた。

 

全身の毛穴が粟立つような衝撃が、背筋を駆け抜けていく。

 

今日、この王都へ飛竜で降り立ってからというもの。

 

私が耳にしてきたのは、逃れようのない正論と、冷徹な計算と、誰も悪くないがゆえの「出せない」という拒絶ばかりだった。

 

誰もが正しく、誰もが己の持ち場を守るために必死で、だからこそトレンスへ向けて差し伸べられる「生きた手」など、この国のどこにも存在しないのだと、絶望の淵に突き落とされかけていた。

 

それなのに、この方は……何の後ろ盾もないたった六騎で。

「今すぐ行く」と、言い放ったのだ。

 

「……陛下」

 

アメリア様は王を見据えた。

 

「私は、援軍を恵んでいただきたくて参上したわけではありません」

 

「では、何をしに来た」

 

「私が援軍として北へ翔ぶことを、認めさせに来ました」

 

王は沈黙した。

その眉間に、深い苦渋の皺が刻まれる。

 

「西方の指揮系統はどうなっている」

 

セドリック宰相が問う。

 

「すでに副長へ全権を移譲済みです」

 

「……志願者五名というのは」

 

「すでに飛竜の轡を取り、王都西門の外で待機させてあります」

 

彼の眉が、呆れたように跳ね上がった。

 

「許可が下りる前からか?」

 

「もし陛下が首を縦に振らなければ、六人揃って門前の酒場で安酒を煽り、泥酔して西方へ帰還する手筈でした」

 

「……本気か?」

 

「半分くらいは」

 

「どちらの半分だ」

 

「お聞きにならない方が御身のためよ」

 

この極限の緊張感の中で、武官の誰かが思わず小さく息を噴き出した。

だが、玉座の王は笑わなかった。

 

「アメリア」

 

「はっ」

 

「貴女が独断で動けば、それが前例となる」

 

王の声は、恐ろしいほど静かだった。

 

「王命の正式な手続きを経ず、諸侯や名門騎士が己の私情で勝手に戦線へ介入することを、王権が容認したと見做される」

 

「ならば」

 

アメリア様は一切躊躇わず、一歩前へ踏み出した。

 

「王命にしてください」

 

静寂が、会議室を押し潰す。

 

「陛下が、王国の北の防波堤を守るため、竜騎士六騎の緊急派遣を直々に命じた。そう布告なさればよろしいでしょう」

 

「簡単に申すな!」

 

「簡単だなどと、誰が言いましたか」

 

アメリア様の眼光が、一段と鋭利に研ぎ澄まされる。

 

「ですが──政治の建前を繕うために、今まさに爪と牙の下で死に瀕している人間を見殺しにするほど、この国は落ちぶれ果てたのですか」

 

近衛兵が身じろぎし、甲冑が小さく鳴った。

 

完全なる不敬。

 

首を刎ねられても文句の言えない舌鋒だった。

 

だが、王は怒らなかった。

ただ、若き君主の瞳の奥で、激しい葛藤の火が揺らめいていた。

 

「私は……」

 

彼女は言葉を緩めない。

 

「西方から軍団を引き抜けとは申しておりません」

 

「ロザリアの防衛線を空けろとも」

 

「熱病に苦しむ王都の民を見捨てろとも申していない」

 

「六騎です」

 

彼女は、手袋の人差し指を真っ直ぐに突き立てた。

 

「たったの、六騎」

 

一拍。

 

「それだけの爪を伸ばすことすら恐れる国であるならば」

 

その声が、氷点下の冷たさを伴って落ちた。

 

「トレンスが食い破られ、北が消え去った後、この王宮は何を守り切ったと誇るおつもりですか」

 

誰も、反論できなかった。

重苦しい沈黙が、蝋燭の芯が爆ぜる音だけを響かせる。

 

やがて、地図を睨み続けていた宰相が、重々しく口を開いた。

 

「……六騎であれば」

 

全員の視線が、宰相へと集まる。

 

「西方全域の戦力均衡に、決定的な破綻は生じません」

 

「セドリック……!」

 

王が視線を向ける。

 

「ただし、アメリア卿という象徴的な戦力を前線へ投じる政治的意味は、決して小さくはない」

 

「分かっているわよ」

 

「貴女に発言権は与えておらん」

 

「これは失礼」

 

微塵も反省の色がない声。

宰相は王を見据え、深々と頷いた。

 

「形式上、王命による『限定救援任務』とすべきです」

 

「限定、か」

 

「任務の範囲を厳格に規定いたします」

 

彼は指を折った。

 

「高空からの地形および敵勢力の偵察。各部隊間の情報伝達。避難民の誘導。孤立戦力の救難。そして、ヴァルデシア防衛線への限定的な戦術補助」

 

「殲滅戦への直接参加は?」

 

「現地指揮官の判断」

 

アメリア様が即座に割り込み、宰相が鋭く睨みつける。

 

「……現地判断、といたします」

 

彼女はわずかに言い直した。

 

「それが最も危険なのだ、この猪武者が」

 

「戦場とは、元よりそういう場所でしょう」

 

王が、静かに両目を閉じた。

 

長い、長い沈黙だった。

私の胸の鼓動だけが、耳の奥で早鐘のように乱れ打っていた。

膝の上で固く握りしめていた自分の指先が、爪が掌に食い込み、血が滲み出そうになっていることすら、痛覚の麻痺した頭では認識できなかった。

 

兵が来るのだ。

 

六騎。

 

たったの、六騎。

 

軍勢と呼ぶことすら憚られるような、頼りない数字。

 

だが、今日一日、この広大な王都の泥濘を這いずり回り、誰もが「出せない」と首を横に振り続ける中で。

 

初めて。

 

たった一人だけ。

 

「私が行く」と、この地獄の前に自らの命を投げ出してくれた人間が、目の前に立っている。

その事実の眩しさに、私の視界が熱く揺らぎそうになった。

 

王が、目を開いた。

その瞳から、迷いの色は消え失せていた。

 

「……許可する」

 

アメリア様が、深く、優雅に一礼した。

 

「感謝申し上げます、陛下」

 

「ただし」

 

王の声が、一段低く響いた。

 

「必ず、生きて戻れ」

 

ほんの一瞬。

アメリア様の無機質な表情が止まった。

それから、彼女の口元が、わずかに皮肉げに綻んだ。

 

「努力いたします」

 

私の眉根が、ぴくりと跳ね上がった。

 

昨日。

 

ヴェリタスの屋敷を出る直前、私の目の前で、まったく同じ顔をして、まったく同じ台詞を吐いた男の顔が脳裏をよぎった。

 

「そこは『必ず』と答えぬか」

 

王の咎めるような言葉に、アメリア様は肩を竦めてみせた。

 

「戦場で吐く嘘ほど、悪趣味なものはございませんので」

 

私は、思わず小さく息を漏らした。

 

笑ってしまったのか、それとも堰を切って泣き出しそうになったのか、自分でも判別がつかなかった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 会議は、怒濤のように閉会へと雪崩れ込んだ。

 

宰相の署名が記された令状を抱え、早足で回廊を抜けようとするアメリア様の背中を、私は無我夢中で追っていた。

 

「アメリア先生!」

 

石造りの冷たい回廊に、私の声が甲高く響いた。

 

足音が止まる。

 

アメリア様が、長い外套を翻して振り返った。

 

私たちを隔てる距離は、わずか数歩。

 

「先生、などと呼ばれるほど、貴女に学問を授けた覚えはないわよ、トレンス侯爵夫人」

 

冷たい、突き放すような声だった。

 

「キースから……幾度となく伺っております」

 

「碌なことを言っていなかったでしょう」

 

「非常に厳しく、容赦のない教官であったと」

 

「事実ね」

 

「模擬戦のたびに、情け容赦なく泥の中へ叩き伏せられたとも」

 

「それも事実よ」

 

「冬の雪中演習の折には──」

 

「その先は、当事者の口から直接聞きなさい」

 

私の口元が、わずかに緩んだ。

だが、その笑みはすぐに消え去った。

私はドレスの裾を踏みしめ、胸元へ両手を強く押し当てた。

 

「……ありがとうございます」

 

アメリア様は答えなかった。

 

「トレンスのために……北の民のために、その身を投じてくださること、心より──」

 

「勘違いしないでちょうだい」

 

刃物のような冷徹な声が、私の謝意を切り捨てた。

 

私は息を呑み、顔を上げた。

 

その灰青の瞳が、侮蔑ではなく、ただ澄み切った厳格さをもって私を射抜いていた。

 

「私は、貴女の家のために飛ぶのではないわ」

 

「では……」

 

「教え子が死にそうだから行くのでもない」

 

彼女は佩刀の柄に手を添え、静かに、だが誇り高く告げた。

 

「私の信念に……騎士道に従って征くのだ」

 

私は、数秒の間、言葉を失って立ち尽くした。

 

家の利害でもない。

かつての教え子への感傷ですらない。

ただ、理不尽な災厄の前に人が倒れようとしている時、自らの剣を抜くことを己の矜持に誓っているからこそ、飛ぶのだと。

 

「……そうですか」

 

私の喉から、掠れた声が落ちた。

 

「ええ」

 

「ならば」

 

私は一歩踏み込み、腰を深く折り、頭を垂れた。

 

侯爵夫人としての格式も、貴族の娘としての誇りも、すべて石畳の上へ脱ぎ捨てて。

 

「夫を……キースを、お願いいたします」

 

アメリアの眉が、露骨に歪んだ。

 

「貴女に頼まれる筋合いではないわ」

 

「承知しております」

 

「私はあの馬鹿を助けに行くのでも、庇い立てするつもりも──」

 

「はい」

 

「……」

 

「はい」

 

アメリア様は、心の底から嫌そうな、酷く居心地の悪そうな顔をした。

 

「貴女……昔からそうなの?」

 

「何がでございますか」

 

「相手が断れなくなるまで、平然と頭を下げ続けるところよ」

 

私は伏せていた顔を上げ、小さく微笑んでみせた。

 

「最近、覚えました。頭一つ下げて誰かが生き残るなら、いくらでも下げるべきだと」

 

「嫌な成長ね」

 

「夫にも、よく言われます」

 

アメリア様は長いため息を吐き出し、乱暴に額を押さえた。

 

「……あの男が、また昔の悪癖を出して、己の剣一本で全てを斬り伏せれば済むと思い上がり始めたら」

 

私の笑みが、すっと消え去った。

 

アメリア様の瞳に、歴戦の教官の冷たい光が宿る。

 

「殴り飛ばしてでも、その足を止めます」

 

「……お願いいたします」

 

「それから」

 

アメリア様の視線が、私の全身を上から下まで冷酷になぞった。

 

「貴女も、倒れないことね」

 

「私は……前線で剣を振るうわけではありません」

 

「王都も戦場よ」

 

即答だった。

 

遠く、窓の外から、風に乗って聖律院の鐘が響いてくる。

 

「昨夜、眠った?」

 

「……」

 

「今朝、何か口に入れた?」

 

「……」

 

「ダイアナ」

 

低く、有無を言わせぬ響き。

 

「……ヒルダが、黒パンを」

 

「そう」

 

アメリア様は短く頷いた。

 

「なら、その侍女の言う通りにしなさい」

 

「なぜ……誰も彼も、私に同じことばかり申すのです」

 

「皆から同じことを言われるということは、貴女の立ち振る舞いに致命的な欠陥があるということだ」

 

ぐうの音も出なかった。

 

アメリア様は踵を返し、回廊の先へと歩み出した。

 

軍靴の硬質な音が、規則正しく敷石を打つ。

 

「先生!」

 

私は思わず、その遠ざかる背中へ向けて叫んでいた。

 

アメリア様の足が止まる。

 

だが、彼女は振り返らなかった。

 

「……どうか」

 

私の喉が引き攣れ、言葉が熱く震えた。

 

「どうか……生きて、帰ってきてください」

 

短い静寂。

 

薄暗い回廊の向こうで、アメリア様が外套の襟を引き上げるのが見えた。

 

「それは」

 

背中を向けたまま、彼女は言った。

 

「キースにも、言っておきなさい」

 

そして、今度こそ一度も足を止めることなく、彼女は夜の闇の向こうへと消え去っていった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 王都西門、城壁外郭の特設繋留地。

 

日没の残光が完全に失われ、鉛色の闇が大地を覆い尽くす中、私は馬車の窓からその光景を見つめていた。

 

松明の赤黒い炎に照らし出されていたのは、六頭の飛炎竜の影だった。

 

その中央に佇むのは、鈍い銀光を放つ老竜ゼフィロス。

 

巨躯の鱗は歴戦の傷で硬質化し、鼻孔からは苛立たしげな高温の蒸気が噴き出している。

 

周囲を取り囲む五頭の軍用飛竜もまた、飢えた獣のように爪先で土を抉り、夜風を吸い込んでいた。

鞍の上には、濃紺の騎兵装に身を包んだ五人の若き竜騎士たち。

そして、先頭のゼフィロスの手綱を握り締めるアメリア。

 

「目的地!」

 

アメリアの鋭利な怒号が、冷たい夜気を切り裂いた。

 

「北方、トレンス侯爵領!」

 

五人の騎士が、寸分の狂いもなく唱和する。

 

「任務!」

 

「偵察!避難誘導!情報伝達!戦線補助!」

 

「帰還条件!」

 

列の端にいた一人の若い竜騎士が、白い歯を見せて不敵に笑った。

 

「生きていれば!」

 

「馬鹿者!」

 

アメリアの叱咤が、雷鳴のように叩き落とされる。

 

「全員が五体満足で生きて帰るまでが任務だ!一歩でも死線に踏み込みすぎた奴は、私が空中で叩き落とす!」

 

「団長が一番信用できませんな!」

 

「後で営倉へ叩き込んでやる!」

 

短い、乾いた笑い声が風に散った。

 

次の瞬間。

 

「跳べぇぇぇッ!」

 

アメリアの号令と共に、六頭の飛竜が一斉に大地を蹴り上げた。

 

バサァッ、と巨大な皮膜翼が空気を引き裂く重低音。

 

巻き起こる猛烈な突風が、見送る私の馬車の天幕を激しく揺さぶり、松明の火の粉を夜空へと撒き散らす。

 

一騎。

 

三騎。

 

六騎。

 

見る見るうちに高度を上げ、漆黒の夜空へと吸い込まれていく銀と黒の影。

 

王都の分厚い城壁を飛び越え、彼らは一直線に北の地平を目指して翔び去っていった。

 

北へと。

たったの、六騎で。

 

この巨大な王国が、自らの制度と保身の軋みの中で、辛うじて絞り出した、最初で……そして最後の。

敵を討ち倒すための、生きた援軍だった。

 

「……行ってしまわれましたね」

 

隣で、ヒルダが静かに呟いた。

私は夜空を見上げたまま、動くことができなかった。

小さくなっていく羽音の余韻を、耳の奥でいつまでも追いかけ続けていた。

 

希望だった。

 

あまりにも頼りなく、あまりにも脆く、指で触れれば弾け飛んでしまいそうなほど小さな光。

 

だが、あの人たちが行く。

私の言葉を携えて、あの人が待つ北の空へと飛んでいく。

 

「……ええ」

 

私は深く息を吸い込み、冷え切った夜気で肺腑を満たした。

そして、馬車の窓を閉めた。

 

「戻りましょう、ヒルダ」

 

私の声から、迷いは完全に消え失せていた。

 

「まだ、やらねばならぬことが山ほどあります」

 

空船への物資の積み込み。商人たちとの補給手形の発行。

南部諸都市への避難民分散の通達。

空を見上げて祈るだけの時間は、もう終わりだった。

 

あの六騎が時間を稼いでくれるなら。

 

私は、その時間の先で生き残る者たちのための土台を、この泥の都で狂ったように築き上げねばならない。

 

車軸が軋み、馬車が反転する。

 

遠く、王都の闇の底で、今日もまた、弔いの鐘が鳴り響いていた。

だが、その音はもう、私の足を止めることはできなかった。

 

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