剣と魔術とライフルと   作:あききし

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《追憶》 Ⅹ 届いた一矢 

 

《追憶》 Ⅹ 届いた一矢

 

 

夜というものは、空から見れば存外に明るい。

 

地上にいる者は、月が雲へ隠れれば闇しか見えなくなる。夜の底に閉じ込められ、すぐ隣の木の梢すら見失ってしまう。

 

だが。

 

雲より高く。

山より高く。

 

翼を広げ、星明かりの中を翔ぶ竜の背からなら、世界は別の貌を見せる。

 

大地そのものが、天から降る僅かな光を撥ね返し、広大な輪郭を青黒く浮かび上がらせていた。

 

川は細い銀の筋となり。

湖は天を映す鈍色の鏡となり。

街道はかすかな切り傷のように森を裂き。

雪を被った稜線だけが、凍てついた刃となって夜空を削っている。

 

そのあちこちに、人の住む町が沈んでいた。

その一つ一つが、濃淡の違う黒として、冷たい風とともに眼下を流れていった。

 

「高度を落とすな!」

 

私はゼフィロスの背で、喉が裂けるほどの声で怒鳴った。

 

夜気の冷たさに喉の粘膜を削られ、肺腑に吸い込んだ空気は氷のように重い。声の半分以上は、竜が切り裂く逆風に千切られて後方へ吹き飛んでいく。

それでも、後方を飛ぶ五騎から、風の唸りを破って次々と短い返答が返ってきた。

 

「了解!」

「右翼、異常なし!」

「後方二騎、追随!」

「魔力灯、あと四刻は保ちます!」

 

手綱を引いたまま、私は一度だけ肩越しに振り返った。

暗い宙を裂いて並ぶ、五つの翼影。

 

誰一人、落伍していない。

 

王都を出てから、すでに幾度の中継塔を叩いたかわからない。

 

着地するや否や竜を休ませ、冷え切った水樽に竜の鼻先を突っ込ませ、激しい摩擦で熱を持った翼膜へ職人総出で獣脂を塗りたくらせた。そのわずか半刻の間、鞍を下りることも許されない乗り手たちは塩辛い干し肉を顎が痛むまで噛み砕き、眠りにおちかけ鞍から滑り落ちそうになった若い騎士の頬を、隣の古参が革手袋の平手で容赦なく張り飛ばした。

 

それを幾度も繰り返して……ただ北へ。

 

ひたすら北へ。

 

風は一宿場進むごとに鋭さを増し、雲は手の届く高さまで垂れ込め、地上を埋め尽くす針葉樹林の黒は、墨を流したように濃くなっていった。

 

もう、トレンス領の領空へ踏み込んでいる。

 

机の上で広げた地図の記憶と、星の位置を照らし合わせる。

あと一刻も飛べば、ヴァルデシアの外郭へ達する。

私は前傾姿勢のまま、手綱を握る指を緩め、ゼフィロスの首筋に張り付いた鋼のような鱗を指の背で叩いた。

 

「まだ飛べる?」

 

老竜が、胸郭の奥から低い地響きのような唸りを漏らした。グルル、と吐き出された熱気混じりの息が、凍てつく私の両脚を撫でる。

手綱越しに伝わる骨太な振動に、私は自嘲気味に口元を歪めた。

 

「そう。聞いた私が馬鹿だったわね」

 

昔からそうだ。

 

王立の厩舎で飼い慣らされることを嫌い、どんな激戦の空でも風を睨みつけて飛び続けたこの老いぼれは、ただの一度も疲れたなどと弱音を吐いたことがない。

私と同じだ。限界を認めるのが下手くそで、背負ったものを投げ出す器用さを持たない。

だから困る。いつだって引き際を見失う。

 

「団長!」

 

左後方、風の壁を突き破って声が飛んだ。

 

「前方下!光です!」

 

私は即座に手綱を絞り、鞍の上で身体を捻った。

 

眼下。

まだ夜明けには遠い。

地平線の東の端が、薄めたインクのように僅かに青白く透け始めたばかりの、夜と朝の狭間の時刻。

その闇の底、黒々と広がる樹海の中に。

小さな赤い点が、一つ見えた。

針先で突いたような、頼りない火の粉。

 

次いで。

 

二つ。

 

三つ。

 

いや……違う。

 

あれは整然と灯される街灯ではない。油の尽きかけた篝火でもない。

 

火だ。

 

鬱蒼とした森の中で、蛇行する街道沿いで、脈絡のない場所に、無数の火点が、引き裂かれた傷口のように散らばっている。

 

「高度を二飛び落とす!」

 

私は叫び、手綱を前へ押し出した。

 

「ただし隊列を崩すな! 飛竜の風切り音を地上へ落とす前に、まず状況を読む!」

 

合図と同時に、ゼフィロスが巨翼の角度を僅かに絞る。

張り詰めた五騎が、乱れぬ楔の陣のまま後に続いた。

灰色の雲の層を一気に突き抜ける。

細氷を含んだ冷たい水滴が、容赦なく顔面を叩き、頬の感覚を麻痺させていく。

 

次の瞬間。

 

視界を遮っていた白い靄が晴れ──世界が、一変した。

 

「……何だ、これは……!」

 

後ろの誰かが、息を詰まらせたような声を漏らした。

私は答えなかった。

胸の奥を鉄の鉤爪で掴まれたようで、返す言葉が見つからなかった。

 

眼下にあるのは北部大森林。

 

王都の参謀本部で広げられる地図の上では、ただ穏やかな緑色の絵の具で塗り込められているだけの、王国北境を閉ざす一枚の巨大な樹海。

 

その一部が……動いていた。

 

森の木々そのものが、足を生やして這いずり回っているように見えた。

 

いや。

 

森ではない。

 

木々のわずかな隙間を……深く穿たれた谷の底を……獣たち自らが踏み固めてきたはずの獣道を……。

 

無数の黒い点が、南へ、ただ南へ向かって流れていた。

 

一つ一つの点は、すべて生きて蠢く肉の塊だ。

高度を保ったこの目線から見れば、地面を這い回る無数の黒蟻の列ほどにしか見えない。

だが、その列が。

 

一本ではない。

 

十本。

 

二十本。

 

見渡す限りの谷という谷から。

白く凍りついた尾根という尾根から。

意思など最初から持ち合わせていないかのように、すべてが同じ方角、同じ一点へ向けて雪崩のように流れ落ちている。

 

「……大森林全域じゃないか」

 

後ろの若い騎士が、渇き切った喉から掠れた声を絞り出した。

 

「黙って見ろ」

 

私は短く制した。

冷え切っているはずの身体の芯で、心臓が耳障りなほど嫌な速さで脈打っていた。

王都を発つ前、握り潰すようにして目を通した緊急報告書の文面が、網膜の裏に焼き付いている。

 

数千。

数万。

 

多種混成。竜種複数確認。捕食行動なし。南下。

 

全部、机の上の文字だった。

平穏な王都の明かりの下で、羽ペンが羊皮紙の上に並べただけの無機質な記号だった。

 

だが……上空からこの質量を直視すれば、誰にでも分かる。

 

数千、数万などという数詞は、とっくに何の意味も成していない。

最初から、数えるべき対象ではないのだ。

 

川だった。

 

春先の雪解けで山ごと崩れ落ちてきた濁流が、水ではなく、ただ肉と骨と、剥き出しの牙で出来ているだけ。その奔流が、堰を切って溢れ出しているのだ。

 

「北東!」

 

私は手綱を強く引き、喉を張り裂かんばかりに怒鳴った。

 

「尾根の向こうを見ろ!」

 

ゼフィロスが風を捉え、旋回する。五騎の影が、巨大な円を描いて追随した。

 

そして、視界の先にヴァルデシアが現れた。

 

夜明け前の青黒い薄闇の底に、灰色の城塞都市が、険しい山並みの喉元へ食い込むようにして、重々しく横たわっている。

 

山を背負った巨大な外壁。天を突く中央塔。北の山懐へ向けて、いくつも突き出した頑丈な堡塁。

 

その輪郭、その威容だけを見るならば……それは今もなお、揺るぎない堅牢さを保っているように見えた。

 

王国北部の盾。

何百年もの長きにわたり、凍てつく寒気と、獰猛な魔獣と、国境の混乱をすべてその身一つで受け止めてきた不落の城。

 

 

「……煙だ」

 

後ろの騎士が、愕然と呟いた。

城壁のあちこちから、天を覆うように何本もの細い煙が立ち上っている。

 

木造家屋が燃え盛る火災の煙ではない。

魔攻砲が限界を超えて吐き出し続ける、青白い排熱の陽炎や野営の篝火。そして、積み上げられた何かの焼却煙。

それらが混ざり合い、夜明けの冷気に重く澱んでいる。

 

 

外壁の北側。城門前のわずかな平地が、異様なほど、黒かった。

土の色ではない。石畳の灰色でもない。

 

死骸だった。

 

何百。いや。

何千という魔獣の死骸が、幾重にも、幾重にも互いを押し潰すようにして折り重なっている。

 

巨大な牙を持つ剛毛の巨猪。群れをなす灰狼。硬質な鱗で覆われた爬竜。枝角を折られた大鹿。見たこともないような甲殻を背負った蟲獣。

その夥しい肉の堆積の合間に、車輪の砕けた輜重車と、半ばで折れた防壁用の長槍と、引き裂かれた人間の身体が、泥に塗れて見分けもつかぬまま混じり合っている。

 

「一晩で、ここまで……?」

 

若い騎士が、悪夢でも見るかのように呟いた。

 

「昨日からだ」

 

私は手綱を固く握りしめたまま答えた。

 

「昨日から、休まずこれをやっているのよ」

 

自分の声が、押し殺した低音になって喉の奥に落ちていくのが分かった。

 

城壁の北側では……今この瞬間も、戦いが続いていた。

 

まだ夜明け前、光すら差していない極寒の闇の中だというのに。

誰も、一瞬たりとも休んではいない。

 

城壁の突端で、魔攻砲が一基、鈍い青光を放った。

空気がビリビリと震え、数息の静寂の後、巨大な氷塊が唸りを上げて放物線を描き、森の縁へと叩きつけられる。

 

轟音。炸裂。

 

土煙と氷片が吹き荒れ、魔獣の黒い列が一瞬だけ窪むように崩れた。

 

だが。

 

弾け飛んだ肉の隙間を埋めるようにして。

後ろから、また別の、飢餓感すら感じさせない無機質な群れが、何事もなかったかのように流れ込んでくる。

 

「発射間隔が長すぎる」

 

私は唇を噛み、呟いた。

 

王都を出る直前に叩き込まれた報告書では、ヴァルデシアに配備されている魔攻砲は、昨日の時点で五基が即応状態。

二基が砲身冷却中。一基が機構損傷。

 

だが、いま上空から見下ろす防壁の上、稼働している火点は。

 

「……三」

 

息を呑みながら数えた。

 

一基。城壁中央の主砲座。

一基。北東の第三堡塁。

もう一基。西側の防区。

 

それだけだ。残りの砲座は沈黙している。

 

「団長」

 

後ろから、硬い報告が飛ぶ。

 

「東堡塁に一基、砲架だけが見えます。導魔槍が焼き付いて歪んでいる……人員もついていません」

 

「壊れたのね」

 

「恐らく。交換用の術式部品も、術師の魔力も底を突いたかと」

 

私は冷たい風の中で舌打ちした。歯が擦れ合う音が耳に痛い。

 

「敵が減っているように見えますか」

 

後ろの若い騎士が、救いを求めるように問うてきた。

 

「見えない」

 

私は即座に、冷酷なまでに平坦な声で切り捨てた。

見えはしない。むしろその逆だった。

人間側は、目に見える形で確実にすり減っている。

 

砲は壊れれば減る。矢は放てば尽きる。人は傷つき、血を流し、一睡もできずに腕を鈍らせていく。水を飲む時間すら、喉の渇きを潤す暇すら、削り取られていくのだ。

 

だが。

 

向こうは違う。

森の暗がりの底から、ただ後ろから押し寄せてくる。

理由もなく、恐怖もなく、ただ来る。

人間が一頭を屠れば、その倒れた死骸を踏み越えて、次の二頭が押し出されてくるだけだ。

 

「……最悪ね」

 

私は低く、胃の底に溜まった毒を吐き出すように吐き捨てた。

 

「何がです? まだ……」

「拮抗していることよ」

 

若い騎士が、私の言葉の意味を咀嚼できずに言葉を失った。私は冷え切った手綱を握り直し、眼下の凄惨な防衛線を睨みつけた。

「城は落ちていない」

 

私は言った。

 

「外壁もまだ立っている。門も堅く閉じられている。砲も撃ち、兵たちも槍を構えて戦い続けている」

 

「なら、持ち堪えられて──」

「だから最悪なのだ」

 

叩きつけるように遮った。

 

「この戦い方なら、今日も保つかもしれない」

 

一拍。風の音だけが響く。

 

「だが……明日は?」

 

誰も答えなかった。 

 

「矢倉の矢がすべて尽きたら?」

 

沈黙。

 

「備蓄の魔晶石が空になったら?」

 

沈黙。

 

「徹夜で砲架に張り付いている砲術師たちが、魔力切れで脳を焼かれて倒れたら?」

 

私はゼフィロスの首を強く叩き、己の焦燥を押し殺した。

 

「敵は、明日になっても同じ数だけ残っている」

 

いや……違う。

 

同じですらないのだ。

 

あの底知れぬ北部大森林の奥には、いま見えている濁流を遥かに凌ぐ数が、まだ。

あまりにも多く蠢いている。

 

「団長!」

 

不意に、後方の騎士が張り詰めた叫びを上げた。

 

「北門前!戦闘です!」

 

即座に視線を落とす。

 

防壁の巨大な影が落ちる街道沿い、城門から百歩ほど突き出た場所。

 

そこに、黒い肉の海を押し分けるようにして、小さな人影の塊が蠢いていた。

 

五十。

 

いや、せいぜい百にも満たない隊だ。

 

魔獣の死骸が山をなす泥濘の間を縫い、防壁の庇護を捨てて、城外へ躍り出ている。

 

「馬鹿が」

 

信じられない思いで、思わず罵倒が口から漏れた。

 

「夜が明けてもいないのに、外へ出て何を──」

 

だが、続く言葉が喉の奥で凍りついた。

 

先頭に、泥と返り血を浴びて、もはや布地の色すら判別できなくなった紺色の外套。

その男の、重心の低い足運びを見た瞬間、心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。

 

剣を振る。

 

巨狼の喉元を正確に裂く。

 

一頭が沈む。

 

斬る。

 

返す刃で、踏み込みながら次の獣の頸動脈を断つ。

 

また斬る。

 

左右から飛びかかられ、囲まれかける。

 

だが、男の後ろに控える手練れの騎士たちが長槍で左右の空間を強引に抉り開く。

その僅かな隙間を。

男は迷うことなく、また前へ踏み込んでいく。

 

「……あの馬鹿」

 

喉の奥から、乾いた笑いとも、沸き立つ激怒ともつかない熱い息が漏れ出した。

 

学生時代。

王立総合学園の練兵場で、砂煙と泥にまみれながら、何度叩き伏せても起き上がってきた少年の姿が、目の前の泥まみれの背中と重なった。

一本取られれば、次は同じ手を二度と食わない。腕の骨にヒビを入れられれば、脂汗を流しながら片腕で泥臭く剣を構え直す。魔力を完全に使い果たせば、生身を晒して木剣一本で愚直に突っ込んできた。

教官だった私が、何度言っても。

お前は退くことを覚えろと、どれほど拳骨を落として説教しても、あの男は──。

 

「あれが……キース・フォン・トレンス……」

 

後ろの騎士が、信じられないものを見るように息を呑んだ。

 

「本当に、当主自ら外に出ているのか……」

「ええ」

 

私は冷たい風の中で、額を激しく手で押さえたくなった。

 

「最悪なことにね。昔と何一つ変わっていないわ」

 

眼下で、また一頭。

キースの剣が銀の軌跡を描き、爬竜の分厚い首を両断した。

魔獣の巨体がどうと倒れ込む。

 

そのすぐ真横。

巨大な鉄の塊のような両手剣を、旋風のように振り回している大柄な男の姿があった。

 

「あれは……」

「ローダス・ケストレルでしょうね」

 

私は目を細め、その荒々しい戦いぶりを凝視した。

昔、王都の式典の片隅で、一度だけ顔を合わせたことがある。

 

辺境の獣。

 

洗練された貴族の礼儀というものを、場末の酒場にでも置き忘れてきたような無頼漢。

 

そのローダスが、今。

 

キースの半歩後ろ、死角となる位置にぴったりと張り付き。

怒鳴り散らし、迫る小型種を足蹴にし、怯みかけた味方の兵の兜を幅広の剣の腹で容赦なく殴りつけながら、崩壊しかける前線を、ただその暴力的なまでの膂力で無理やり繋ぎ止めていた。

 

「左!」

 

私は突如として視界の端をよぎった異変に、空気を引き裂くような声を張り上げた。

部下全員の意識が、一瞬で私の視線の先へと集中する。

 

「城壁北東、三百歩!」

 

針葉樹の深い影から。

 

大型種。

 

四足の太い脚。

鞭のようにしなる長い尾。

岩肌のような装甲質の外皮。

巨大な塊が、地響きを立てて森を飛び出してくるのが見えた。

まだ、地上の者たちは気づいていない。

 

いや。

 

気づけるはずがなかった。

 

目の前に積み上がる死骸の山。

足元から立ち込める血の湯気と土煙。

そして、夜明け前の底暗い薄闇。

地上を這う人間の狭い目線では、森の窪みから死角を突いて迫るあれを捉えることなど、絶対に不可能な角度だった。

 

「大型種、北東から接近!」

 

私は鞍の上で身を乗り出し、喉を絞って怒鳴った。

 

「矢文を落とす!三番、準備!」

「了解!」

 

後方に控えていた騎士が、迷うことなく腰の矢筒から長大な信標矢を引き抜いた。

鏃はない。

太い矢軸に、夜闇でも目を引く鮮烈な赤い布が巻きつけられ、短い文が括り付けられている。

 

敵影。方向。距離。それらを速記魔法で記していく。

 

「投下!」

 

合図とともに、矢が手放された。

 

風を切り、空気を鋭く裂く螺旋を描きながら、赤い布を棚引かせた矢が、地上へ一直線に突き刺さる。

 

キースたちの隊列の、わずか数歩後方の泥の中へ。

跳ねた泥に気づいた一人の騎士が、地面を見やる。

 

拾い上げる。

布を裂き、文を読む。

そして、喉が張り裂けんばかりに前線へ向けて叫んだ。

 

その声が、かすかに……吹き上げる風に乗って、この上空まで届いた。

 

地上の隊列が一瞬で動いた。

 

淀みない連動。

 

右翼の槍衾が、一斉に北東の暗がりへと向けられる。

 

数息の後。

 

森の木々を薙ぎ倒し、勢いそのままに大型種が突っ込んできた。

だが、突撃の鼻先に待ち構えていたのは、魔力を励起させた重装歩兵の術式槍だった。

分厚い甲殻の隙間、関節の肉へと、無数の穂先が正確に突き刺さった。

 

「……通じた」

 

若い騎士が、安堵に声を震わせた。

 

「当然でしょう」

 

私は手綱を握り締め、冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。

胸の奥の、凍りついていた血が、僅かに熱を帯びていくのを感じる。

 

私たちは……間に合ったのだ。

少なくとも、あの男が背後から喰い殺されるこの瞬間には。

 

「全騎!」

 

腹の底から声を張り上げる。

 

「高度をさらに落とす!」

 

ゼフィロスが応えるように低く唸り、巨大な翼をすぼめた。

 

「本隊の任務を開始する!」

 

後方の五騎が、迷いのない練度で一斉に吠えた。

 

「了解!」

「一番、二番!」

「はっ!」

 

「東西へ分かれて戦線の外縁を洗え! 敵群の主流と分流を記録し、十五止めごとに城内へ向けて観測矢文を叩き込め!」

 

「了解!」

「三番、四番!」

「はい!」

 

「避難路の安全を確認!城外の街道や荷馬車に取り残されている民間人を見つけたら、即座に赤煙筒を落として防壁の内側へ誘導を!」

 

「了解!」

「五番!」

「ここに!」

「私について来い!」

 

一番若い五番騎の騎士が、私の気迫に押されたように、兜の奥で顔を引き攣らせた。

 

「だ、団長……何をなさるおつもりで?」

 

私は答えなかった。

答える必要などなかった。

 

眼下。

 

大型種の脚を止めた前線で、またあの紺色の外套が、泥を蹴って前へ出た。

 

前へ。

ただ前へ。

 

敵の群れが分厚ければ分厚いほど。

味方の戦列に穴が開き、誰かが死にそうになればなるほど。

その空いた穴を、自分の命で埋めるようにして突っ込んでいく。

 

変わっていない。

何一つ、あの頃から変わっていない。

 

どれほど立場が重くなろうと、どれほど多くのものを背負おうと、この男の根底にある愚かしさだけは、何一つ削ぎ落とされていなかった。

 

「……あの大馬鹿者」

 

私は手袋越しに、ゼフィロスの太い首筋を愛おしむように、そして強く撫でつけた。

 

『まったく、懲りない男だ』

 

相棒のゼフィロスが、私の胸の内をなぞるように、喉の奥でゴロゴロと嘲笑の響きを鳴らす。

 

「行くぞ!」

 

手綱を一気に引き絞る。

ゼフィロスの巨翼が。

 

夜気を孕み、大きく、深く。完全に畳まれた。

 

「まずは、あの馬鹿の頭を上空から引っぱたきに行く!」

 

ゼフィロスが咆哮を上げる。

 

風を裂く轟音が耳朶を打ち鳴らし。

私たちは、青白く明け始めた凍てつく空を。

 

一直線に。

 

濁流渦巻くヴァルデシアの防衛線へ向かって、弾丸のように急降下した。

 

 

 

・・・・・・

・・・

 

 

 

 夜が明けたらしい。

 

空の端が薄青く白んで、足元に広がる泥と臓物の境目がはっきり見通せるようになっただけだ。それ以外、昨夜と何一つ変わりはしねぇ。

 

朝が来たからって、死んだ部下が起き上がってくるわけでもない。

折れた槍の柄が元通りにつながるわけでもない。

ましてや北の森から湧き出し続けている化け物どもが、日が昇ったからここらで朝飯にしようぜ、などと気を利かせて足を止めるはずもなかった。

 

視界の端から端まで、殺しても殺しても減らない黒い波が押し寄せている。胃の底が焼きつくような苛立ちが、血の味と一緒にせり上がってくる。

 

「右だァッ!」

 

潰れかけた喉を引き裂くように怒鳴り散らした。

 

「第三班、右へ寄れ!その隙間を絶対に空けるな!」

 

泥の中に半ば膝を沈めていた連中が、弾かれたように立ち上がる。

 

「エミール、引くな!」

 

叫んだのは古参のポールだった。

三十を過ぎ、額から顎まで古傷の走る隻眼。新兵の首根っこを掴んで飯を食わせ、戦場じゃ何より先に逃げ道を確かめろと教えていたような小狡いベテランだった。

 

そのポールが、足をもつれさせた若いエミールの襟首を引っ掴み、泥の中へ力任せに引き倒した。

 

直後、灰色狼の巨大な顎が、エミールがさっきまで立っていた空間を噛み砕いた。

空振りの牙がカチンと硬い音を立てる。

 

「突け、エミール!喉だ!」

「は、はいっ!」

 

起き上がったエミールが、震える手で術式槍を突き出す。

だが、腰が入っていない。切っ先は狼の頑丈な肩骨に弾かれ、浅い傷をつけただけで槍柄が跳ね上がった。

 

槍を引く手が止まる。致命的な一拍の硬直。

 

「馬鹿野郎、手元を見るな!」

 

横合いからポールが割り込み、短槍で獣の目を突いた。

狼が狂乱して頭を振る。

その太い前脚が、ポールのみぞおちを薙ぎ払った。

胸当ての鉄板がメリメリと音を立ててひしゃげ、ポールの身体が泥の上を転がる。

 

「ポールさんッ!」

「呼んでんじゃねぇ、エミール!」

 

俺は泥を蹴りながら怒鳴りつけた。

 

「槍を引け! 突いたら引くんだよ!」

 

大剣を両手で振り抜き、狼の首骨を叩き折る。

肉の千切れる音とともに血飛沫が泥を叩いた。

だが、倒れたポールの口からは、すでに泡混じりの黒い血が溢れ出していた。肺をやられている。

 

「おい、立てポール!死んだふりしてねぇで起きろ!」

エミールがすがりつこうとした。

その手を、血塗れのポールが右腕で乱暴に払いのけた。

「……触んな、泥がつく」

掠れた、空気の漏れるような声だった。

ポールの濁った目が、エミールを睨みつける。

「槍を……構えろ。前を、見ろ……」

 

それっきり、首ががくりと泥の中へ折れた。

 

「ポールさん? おい、ポールさんッ!」

 

「エミールッ!」

 

俺はエミールの背中を、大剣の腹で容赦なく引っぱたいた。

鈍い音とともに、若造がつんのめる。

 

「泣いてる暇があったら槍を拾え!死んだ奴の顔を見てる間に、次の奴に喉笛を食いちぎられるぞ!」

 

「で、でも……さっきまで、あんなに……」

「昨日まではトマスもいた!朝まではルーファスも槍を握ってた!名前を呼んで生き返るなら俺が百回呼んでやるよ!」

 

怒鳴り散らしながら、足元の泥を蹴り上げた。

 

昨夕は九人いた班だ。

トマスは腹を裂かれた。ルーファスは肩を持っていかれた。一人は夜半の混戦から戻らず、一人は後送。まだ息があれば城内の治療所に転がっているはずだ。

そして今、ポールが消えた。

 

残りは四人。エミールを含めて、たったの四人だ。

 

「団長、槍がありません!」

 

若い兵が、泥塗れの顔で悲鳴を上げた。

 

「そこに転がってるだろうが、目ぇついてんのか!」

「折れてます!」

「半分ありゃ腹くらい刺せる!」

 

足元に転がっていた長槍を力任せに蹴り飛ばしてやった。

穂先は吹き飛び、樫の柄も真ん中から無残に裂けている。だが、折れ口の先は尖っている。兵士は一瞬だけ絶句し、泥を撒き散らしてそれを拾い上げた。

 

「それで脚を払え!喉まで届かせようとするな、まず止めろ!」

「は、はい!」

「次が来るぞ!」

 

左の視界が塞がる。灰色狼の巨躯が跳びかかってきた。

 

もう名前なんぞどうでもいい。牙があって、俺たちを噛み殺そうとするなら全部ただの敵だ。

 

両手で大剣を握り込み、横薙ぎに叩きつける。

刃が肩口へ食い込み、骨にぶち当たって鈍い手応えで止まった。

昨日の朝なら、骨ごと一息で断ち切れていたはずの一撃だ。

それが、止まる。

 

「ちっ……!」

 

腕が鉛のように重い。筋肉が引き攣り、刃を引き抜くのにほんの一拍、無駄な間が空いた。

その一拍を嗅ぎ取って、死角から別の影が飛び込んでくる。

大剣は間に合わない。俺は左腕の籠手を突き出した。

鋼を牙が噛み、甲高い軋み音が骨まで響く。

 

「てめぇに食わせる肉は持ち合わせてねぇよ!」

 

泥を蹴って膝をその腹へ叩き込み、歪んだ顎へ大剣の柄頭を叩きつける。

背後から鋭い風切り音が響き、術式槍の穂先が獣の腹を深々と貫いた。狼の四肢が痙攣し、泥の上に崩れ落ちる。

 

「誰だ!」

「第四班、ミハイルです!」

「いい突きだ!次はもう半歩早く出せ!」

「無茶言わないでください!」

「生きて帰れたら文句を聞いてやる、持ち場へ戻れ!」

 

怒鳴り返した瞬間、肺の奥が焼けるように痛んだ。

 

激しく咳き込むと、口の中にじっとりと鉄の味が広がる。唾を吐き捨てた。

赤い。

まだ大丈夫だ。これが黒くなってから心配すりゃいい。

 

「団長!」

 

泥を跳ね上げながら、ギルバードが駆けてきた。

 

まだ二十歳そこそこの若い顔が、泥と煤に塗れてまるで老人のようにやつれ切っている。右頬には黒ずんだ裂傷。左肩の肩当てはどこかで千切れ飛んだらしく、握りしめた術式槍の穂先も、今朝配給された粗悪な代替品に変わっていた。

 

「北東堡塁から伝令です!術式矢、残り三割を切りました!」

「知るか!」

「報告です!」

「聞いた!返事は同じだ!」

 

迫りくる魔獣の頭蓋を大剣の腹で叩き潰しながら、俺は唾を飛ばした。

 

「一発で確実に殺せる時だけ撃て!雑魚狼一匹に追尾矢なんぞ使いやがった馬鹿は、死んだ後でも叩き起こして殴る!」

 

ギルバードが肩で荒い息を継ぐ。

 

「東堡塁の魔攻砲も一基、止まりました!」

「どこだ!」

「第四砲座!冷却路が詰まったそうです!」

 

苛立ちのあまり、視線が勝手に城壁の上へと向いた。

さっきまで間断なく火を噴いていた砲座の一つが、ぽっかりと口を開けたまま沈黙している。砲兵どもが群がって何やら喚き散らし、泥を掻き出そうとしているのが見えた。

直そうとしているのは分かる。だが、撃てねぇ大砲なんぞ、ただの冷えた鉄の塊だ。壁の上に置かれたただの重石に何の価値がある。

 

「復旧の見込みは!」

「分かりません!」

「分からんなら、最初から無ぇものとして計算しろ!」

 

怒鳴りつけながら、どこかで聞いたような台詞だと苦々しく思った。

若様だったか、それとも先代の旦那だったか。

どっちでもいい。戦場で使えるか、使えねぇか。計算に入れられるか、除外するか。それだけだ。使えない弾や砲に縋った奴から順番にくたばっていく。

 

「ギルバード」

「はい!」

「第三班の穴を塞ぎに行け」

「団長はどこへ?」

「俺はここだ」

「ここって……」

 

ギルバードが、血走りかけた目で周囲を見回した。

 

転がる死骸。底なしの泥。へし折れた逆茂木。砕け散った盾。

人間の肉片と獣の臓物がぐちゃぐちゃに混ざり合い、もはや砦の前庭だった面影すら残っていない。

 

「ここって、どこですか」

 

俺は唇の端を歪めて、吐き捨てるように言った。

 

「知るか。今、穴が空いたところだ」

 

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、左翼から引き裂くような悲鳴が上がった。

 

「抜けたぞッ!」

 

俺の顔から笑みが消える。

 

見ると、大型の爬竜が一頭、後脚を引きずりながらも猛然と隊列の綻びを食い破っていた。

進路の先には、前線へ運ぶはずだった矢弾の荷車と、後方へ下げきれていない負傷兵の搬送路がある。あそこを踏み荒らされたら、この前線は完全に息の根を止められる。

 

「第五班!」

 

返事がない。

 

「第五班、何やってやがる!」

 

もう一度怒鳴りつけた。

二拍置いて、ようやく遠くの泥の中から掠れた声が返ってきた。

 

「……二人しか、残ってません!」

 

クソが。

 

俺は奥歯を噛み締め、大剣を担ぎ直した。俺が行くしかない。足が動くかどうかなんて考えている暇はねぇ。

そう腹を括って泥を蹴り出そうとした、まさにその時だった。

濃紺の影が、視界の端を弾丸のような速度で横切っていった。

 

「あ」

 

横にいた若い兵が声を漏らす。

 

キースだ。

 

若様だ。

 

まただ。

 

誰よりも早く気付き、誰よりも迷わずに走る。

 

抜けた敵を見据え、最短距離を突っ走り、斬る。それだけを機械のように繰り返している。

 

「若ァッ!」

 

怒鳴り声は届かない。聞こえていて無視しているのか、戦場の熱狂で耳が塞がっているのか。あの男の性格なら十中八九、前者だ。

 

若様は爬竜の巨大な顎の真正面から滑り込むように飛び込んだ。

姿勢を極限まで低く沈め、一撃。前脚の関節を正確に断つ。

間髪容れず、二撃目。寸分違わぬ傷口へ刃を叩き込む。

甲高い悲鳴を上げて爬竜が体勢を崩した。そこへようやく追いついた歩兵が二人がかりで槍を突き入れ、巨体が泥濘へと沈む。

止まった。

 

また、塞いだ。

 

だが俺の奥歯は、ギリ、と嫌な音を立てて軋んだ。

 

「……そうじゃねぇだろうが」

 

隣にいた兵が、呆然としながら俺を見た。

 

「え?何がです?」

 

「何でもねぇ!」

 

八つ当たり気味に怒鳴り散らした。

 

だが、胸の奥底に溜まり続けている重苦しい泥のような焦燥は、少しも晴れやしない。

 

昨日からずっとそうだ。

 

街道の防衛線に穴が空けば、若様が走って埋めた。

 

夜半、北門の扉が軋んだ時も、若様が駆けつけて敵を叩き落とした。

明け方、壊滅しかけた砲兵隊の前へ抜け出た大型種を屠ったのも、あの男だった。

 

そして、今もだ。

 

一つならいい。二つでも、三つでも、あの天才なら埋めてみせるだろう。

 

だが、十個になったらどうする。

 

二十個、五十個、戦線中に百個の穴が空いた時、あの男の身体はいくつに分裂してくれるんだ?

 

爬竜の死骸の向こうで、返り血を浴びながら次の敵へ剣を向けるキースの背中が見える。

 

肩が小刻みに上下している。

 

剣を振るう右腕の軌道が──ほんの、わずかだが、遅くなっている。

他の兵には見えねぇだろう。だが、ガキの頃からあの男の太刀筋を見てきた俺の目は誤魔化せねぇ。限界はとうに過ぎている。自分の命をすり潰して、その場しのぎの壁を作っているだけだ。

 

「……馬鹿野郎が」

 

誰にともなく吐き捨てた。

 

このままじゃ、穴が埋まる前にあいつが擦り切れて死ぬ。あいつが死んだ瞬間、この砦の全員が綺麗さっぱり食い殺される。

終わらねぇ。敵の数は減らず、こちらの人間は削れ、若様一人に全部のツケが回っていく。どうにもならねぇ手詰まりの感覚が、冷たい汗になって背中を伝った。

 

その時だった。

 

ヒュン、と。

 

戦場の喧騒を切り裂いて、奇妙に甲高い風切り音が響いた。

空からだ。

 

一本の長い矢が、緩やかに回転しながら頭上から降ってきた。

俺の目と鼻の先、深々と泥濘へと突き刺さる。

 

「敵襲ッ!」

 

若い兵が悲鳴を上げて盾を構えた。

 

「待て、動くな!」

 

俺は手を上げて制した。

敵の矢じゃねぇ。矢羽根には鮮やかな赤い布が結び付けられ、鏃の代わりに真鍮の小さな筒が括り付けられている。

 

「……何だ、これは」

 

駆け寄った兵が泥を払い、矢を引き抜いて筒を捻り開けた。

中から滑り出てきたのは、手のひらに収まるほどの小さな紙片だ。

広げた紙を覗き込む。

文字はたったの一行。殴り書きのような短い墨の跡だった。

 

『北東三百歩。大型一。死骸の陰より接近中』

 

俺の背筋に、冷水を浴びせられたような戦慄が走った。

北東三百歩──そこはさっき崩れた第五班の持ち場の先、魔獣の死骸が山のように積み上がって、こちらからは完全に死角になっている場所だ。

 

もしそこから不意打ちを食らえば、今度こそ中央の荷車まで一直線に食い破られる。そしてまた、若様が血反吐を吐きながら駆けつける羽目になる。

 

「北東だッ!」

 

考えるより先に、喉が怒鳴りつけていた。

 

「全員、槍を北東へ向けろ!死骸の山を睨め!」

「な、何がいるんですか!?」

「知らん!いいから穂先を揃えろ、早くしろ!」

 

半信半疑の兵たちが、泥に足を取られながらも必死に隊列を組み替える。

 

五息。

 

泥の跳ねる音しか聞こえない。

 

十息。

 

何もない。ただの風が吹き抜ける。

 

十五息。

 

「団長、これ本当に何か──」

 

二十息。

 

積み上がっていた死骸の山が、内側から激しく弾け飛んだ。

黒い甲殻に覆われた巨躯が、土煙を撒き散らして突進してくる。大型の甲殻獣だ。あの装甲の厚み、初動で止められなければ十人は挽肉になっていた。

だが。

 

「槍ィ構えッ!」

 

今度は、待ち構えていた。

飛び出してきた化け物の真正面へ、術式槍が三本、呼吸を合わせて同時に突き出される。

 

一本目が装甲の隙間、胸郭を深く穿つ。

 

二本目が突進の勢いを殺すように前脚をへし折る。

 

そして三本目が、大きく仰け反った無防備な喉笛へと吸い込まれた。

 

断末魔の絶叫とともに、大型種が隊列の手前わずか数歩の泥の中へと崩れ落ちた。

槍を握りしめた兵たちが、荒い息を吐きながら、信じられないものを見る目でその死骸を見つめている。

 

誰も死んでいない。

 

誰も抜かれていない。

 

そして何より──若様がここへ走ってくる必要すら、なかった。

一人の兵が、泥塗れの顔をゆっくりと天へ向けた。

 

釣られるように、俺も顔を上げる。

雲が切れ始めた、薄青い朝焼けの空。

最初はただの黒い点、渡り鳥の群れかと思った。

 

だが、違う。

 

でかい。

 

一つ、二つ、三つ……全部で六つ。

 

大きく広げられた皮膜の翼。風を捉えて旋回する巨大な影。

 

竜だ。それも、飛炎竜。王国竜騎士団。

 

「……へっ」

 

渇き切った喉の奥から、掠れた笑いが漏れ出た。

 

「団長……?」

 

若い兵が、震える声で空を指差す。

 

「あれ……援軍、ですか……?」

 

俺は空を翔ける六つの影を見据えた。

 

たったの六騎。

 

もし昨日の朝、戦端が開かれる前だったなら、たった六騎で何ができると鼻で笑って唾を吐き捨てていたかもしれない。

だが、今は違う。

 

「六騎も来やがった」

 

兵たちが次々に顔を上げていく。

俺は大剣を泥から引き抜き、肩へと乱暴に担ぎ直した。

 

「おい、野郎ども!」

 

腹の底から声を張り上げる。

 

「目ぇが増えたぞ!」

 

頭上から、ヒュンと風を裂いて二本目の伝令矢が回転しながら降ってくる。

 

「上から全部見下ろしてくれてるんだ! これで少しは、てめぇらの死角が減るぞ!」

 

一番巨大な飛竜が、朝の冷たい風を両翼に孕ませながら、ゆっくりと高度を落とし始めていた。

 

銀色の鱗に覆われた、歴戦の老竜。

その背に跨り、手綱を握る人物の姿が視界に焼き付いた瞬間、俺の頬の肉が嫌でも引きつった。

 

「……おいおい」

 

隣の兵が、目を白黒させながら聞いてくる。

 

「団長、知り合いですか?」

「俺のじゃねぇよ」

 

俺は顎をしゃくって、少し離れた泥の中で肩で息をしながら、なおも一人で前へ出ようとしていたキースの背中を指し示した。

 

「あいつの、一番苦手な手合いだ」

 

銀色の飛竜が朝焼けを背に受け、冷酷なまでに鋭い風を巻き起こしながら、俺たちの頭上へと滑り降りてきた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 

 ヴァルデシア中央塔、上層作戦室。

 

 

ゲアハルト・フォン・トレンスは、窓の外を見ていなかった。

 

夜が明けたらしい。

窓の向こうの光など、見る必要はなかった。

 

天蓋の隙間から作戦室の石床へと差し込む影が、わずかに輪郭を硬くした。それだけで分かる。

 

北の森の深い闇も。

外壁の足元で幾重にも積み上がる、黒い臓物の山も。

泥濘の街道を、血反吐を呑みながら駆け回る息子の姿も。

 

見ない。

 

見てどうなるものでもない。

今、儂が見るべきものはすべて、この無垢材の机の上に並んでいる。

 

「第一魔攻砲」

 

帳面から目を離さずに声を落とす。

 

「稼働中」

 

書記官の筆先が、羊皮紙の上で小刻みに震えていた。

 

「冷却循環、規定値を維持。ただし、術式盤の魔導銀に熱によるわずかな歪みが発生。工兵の目立てでは、最大出力射撃に耐えうるのはあと十五射前後とのことです」

 

指先を伸ばし、第一砲を示す真鍮の札を三寸手前へ引いた。

 

「最大出力射撃を禁止する。通常出力へ落とせ」

「閣下、それでは威力が二割以上落ちます」

「構わん」

「押し寄せる大型種の外殻を貫けなくなります」

「大型種に砲を撃たせるな」

 

書記官が息を呑み、顔を上げた。

儂は視線を卓上の配置図から外さない。

 

「大型は術式矢の集中射と、ローダスの遊撃隊へ回せ。第一砲は、背後の群れを薙ぎ払って前進の足を止めるためだけに使え」

 

「……承知いたしました」

 

「第二」

 

「稼働中です。ただし昨夜半、冷却水路へ破砕された魔獣の肉片が流入。掻き出しは完了しましたが、圧が規定値の八割まで低下しています」

 

「射撃間隔を倍に伸ばせ」

「倍、でございますか。それでは前線の歩兵にかかる圧力が──」

 

「焼き付いて完全に止まるよりはましだ。次」

「第三砲」

 

書記官の指が止まる。

 

「術式盤の第三環が完全融解。基幹回路が焼き切れております」

 

無言で、第三を示す真鍮の札を卓上から取り上げた。

 

「修復の見込みは」

「術式技師が取り付いておりますが……王都からの交換用予備盤が届いておりません」

「なら、それはただの冷えた鉄塊だ。砲と呼ぶな」

 

カタリ、と乾いた音を立てて札を裏返し、枠外へ跳ね上げた。

作戦室に詰める者たちの喉が、かすかに鳴る。

 

「第四」

「東堡塁。先ほど、外部冷却水路の亀裂により循環が停止」

 

「原因は」

「飛来した爪甲の破片によるものと推測されます。応急の溶接作業中ですが──」

「復旧見込み」

「一刻……いえ、二刻ほど」

「一刻で直らんのなら、砲術師と工兵をすべて第五へ回せ」

「第四を放棄するのですか!?」

 

軍務官が声を荒らげた。儂はゆっくりと視線を上げ、その男の目を据えた。

 

「直らん砲に人を貼りつけて、何が生まれる。そこに突っ立っているだけで給金を食い、矢を消費し、死ぬ危険を増やすだけだ。直らぬ道具は捨て、動く道具へ手を集中させろ」

 

「……はっ」

 

札がまた一枚、無造作に脇へ払われる。

八基あった。

このヴァルデシア城壁に据えられた、難攻不落を謳う防衛構想の牙。

昨日の開戦時に即応できたのは五基。

今、確実に引き金を引けるのは三基。

そしてその三基すら、昨日と同じ速度では撃てない。熱を持ち、歪み、部品をすり減らしている。

 

「第五」

「西堡塁。正常です」

「正常、か」

 

儂は低く繰り返した。

 

「砲術師の員数は」

 

書記官が慌てて帳面を繰る。

 

「せ、正規二名、補助三名。うち正規の一名は昨夜、敵弾の衝撃で鼓膜を破損。耳から出血し、先ほど治療所へ後送されました」

 

「交代要員は」

「一名詰めております」

「それを正常とは言わん。定員割れだ。記録を改めろ」

 

誰も言葉を返さなかった。

ペン先が羊皮紙を擦る、カリカリという無機質な摩擦音だけが作戦室を満たす。

儂は視線を数字の列へと戻した。

 

「魔晶石」

 

補給担当の官吏が、油汗を額に浮かべて進み出た。

 

「高純度結晶、開戦時の総備蓄から二割七分を消費いたしました」

 

「昨日の第一波を凌いだ時点で一割の消費だったな」

「はい」

「昨夜だけで一割七分を溶かしたわけだ」

「暗闇で射線が定まらず、大型種の突入を止めるために出力を上げざるを得ませんでした。それに──」

「言い訳の類いは帳簿には載らん」

 

その声に抑揚はない。

 

「この消費速度が続けば、どうなる」

 

官吏の指が、計算盤の真鍮の珠の上で凍りついた。

 

「……最大出力射撃を完全に封じ、通常射撃の間隔を倍に絞れば、明朝までは保ちます」

「明朝か」

「はい」

「それ以降は」

「……低純度石、あるいは再充填の不完全な屑石を使わねば、通常出力すら維持できません」

「使え」

「しかし閣下、不純物の多い石を使えば砲の術式線が煤け、極端に不安定になります。最悪の場合、術式盤の逆流による暴発の危険が跳ね上がります」

 

「規定の半分以下の出力で回せ。敵の皮膚を焼く必要はない。音と衝撃波で、森から出てくる先頭の足を挫くだけでいい。道具の質が落ちたなら、使い方の水準を落として帳尻を合わせろ」

 

官吏が深く頭を下げ、震える手で数字を書き殴った。

 

「矢の残数」

「通常矢、残り六万三千余」

 

若い補給将校が答える。

一見すれば、城を埋め尽くさんばかりの膨大な数に見えるだろう。

だが、戦場において絶対的な数字など何の意味も持たない。意味を持つのは、時間あたりの減少速度だけだ。

 

「昨夜までの総消費量は」

「四万一千」

 

部屋の隅に控えていた若い参謀が、息を呑む音が聞こえた。

丸一日と一晩で、備蓄の四割を撃ち尽くした。

 

「術式矢」

「残り千七百二十二本」

「追尾式」

「二百六十四本」

「対大型の硬質貫通式」

「……八十三本です」

 

底が見えている。

あまりにも脆い底だ。

 

「全軍に通達。これより、城壁からの通常矢の一斉射を禁ずる」

 

幕僚数人が弾かれたように顔を上げた。

 

「閣下!」

「大型種以外への術式矢の使用は一切認めん。通常矢も、有効射程の限界では放つな。城壁の堀際まで引きつけろ」

「敵をそこまで近づけるのですか!?歩兵の損耗が跳ね上がります!」

「命中率を上げろと言っている」

 

儂は冷徹に告げた。

 

「虚空を裂いて泥に突き刺さる千本の矢より、確実に眉間を穿つ百本の矢を揃えろ。外れた矢は、この戦場に存在しなかったのと同義だ。存在せんものに支払う金も、運ぶ輜重の労力も、我が家にはない」

「……承知いたしました」

「矢の回収班を編成しろ」

「城外へ出すのですか?危険すぎます!」

「足元を見ろ。城壁下の死骸に突き刺さったまま放置されている矢が何千本あると思っている。あれをただのゴミとして腐らせる気か」

「しかし、敵の爪先が届く距離です」

「分かっている」

 

砂時計の落ちる砂を見つめながら言った。

 

「だから正規兵は使うな。工兵と、雇い入れた猟師、傭兵を使え。外壁の射線が落ち着いたわずかな合間にだけ城門の小扉を開け、手前積みの死骸から矢を抜け。折れたものは鏃だけ回収しろ。二度使えれば元は取れる」

「はっ」

「槍」

「予備の穂先、四百十三。ただし長槍用の規格柄はすでに底を突きました」

「折れた柄を集めて継ぎ合わせろ。あるいは手近な角材を削れ」

「強度が保てません。一度突けば根元から折れます」

「一度突ければいい」

 

儂は即答した。

 

「二度目を突く瞬間までその兵が生きていられる保証など、この戦場のどこにもない。一度の衝突を凌ぎ、敵の勢いを殺せば、その槍の減価償却は完了している」

 

誰も反論しなかった。

反論できる理屈を、誰も持ち合わせていない。

この部屋で交わされているのは名誉や武勇の議論ではない。ただの、容赦のない資源の擦り減らし合いだ。

 

「負傷者」

 

空気が一段、重く沈んだ。

医務を統括する老騎士が、血の染みついた帳面を胸に抱えて前へ進み出た。

 

「昨夕の集計から現時刻まで、戦死九十一」

昨日の四十七名と合わせ、百三十八。

「重傷二百三十八名。軽傷三百十一」

「軽傷のうち、今日中に戦列へ復帰可能な人員は」

 

老騎士の唇が、苦渋に歪む。

 

「……百七十六名」

 

指が、机の端で止まった。

 

「残る百三十五名は」

「歩行困難、利き腕の腱断裂、眼球損傷、あるいは肋骨の骨折です。……それに、昨夜半から高熱を発し始めた者が二十名ほど」

「発熱だと」

「傷口の化膿によるものと思われますが、体温の上昇が異常に早く──」

「即刻、隔離しろ」

 

眉一つ動かさずに命じた。

 

「……閣下、まさか疫病を疑われるのですか」

「疑う余裕があるなら隔離しろと言っている。原因を突き止める医学的知見など今ここにはない。確かなのは、この狭隘な城内に未知の熱源を放置すれば、魔獣の牙を待つまでもなく内側から崩壊するということだけだ。北東の地下倉庫を塞ぎ、そこへ全員放り込め」

「治療師は」

「付けん。水だけ運ばせろ。生き残った者だけを後で拾い上げればいい」

「閣下……!」

「治療所の寝台は」

 

老騎士の抗議を、乾いた質問で圧殺した。

 

「……満床です」

「廊下は」

「すでに両脇を負傷兵の毛布が埋めております」

「食糧倉庫の二棟を空けろ。穀物袋を外へ出し、床に藁を敷け」

「それでも……足りません」

 

老騎士が、力なく首を振った。

 

「包帯用の布も、消毒用の蒸留酒も、痛みを止める薬草も足りておりません。湯を沸かす薪すら、今朝から節約を命じられております」

「分かっている」

 

誰も怠けてなどいない。

兵は戦い、治療師は血に塗れ、工兵は不眠不休で槌を振るっている。

全員が己の職責を限界まで果たしている。

 

それでも、足りないのだ。

 

このヴァルデシアという巨大な城が消費する資材の速度に、補給という血液の供給が追いついていない。

 

「聖律師の状況は」

「本隊付けの七名のうち、二名が完全な魔力枯渇により昏倒。実働は五名です」

「二名を眠らせろ。残る五名も、一刻ごとに交代で座らせて気付け薬を飲ませろ」

「しかし!今この瞬間も、止血術を待つ兵が治療所の外まで列をなしております!」

「倒れた聖律師一人の損失は、歩兵一旗の全滅に匹敵する」

 

老騎士を冷徹に見据えた。

 

「死に瀕している者から優先して術を使うな」

 

部屋の中の息づかいが、完全に止まった。

 

「……何を、仰せになりますか」

 

「助かる見込みの高い者から順に処置しろ。手足を失い、腹膜を裂かれ、術を施しても今日中に死ぬであろう者に、貴重な聖律師の魔力を注ぐな。一人の死に損ないを延命させるために魔力を空にし、その間に助かるはずだった五人の軽傷者を失うことこそが、最大の戦略的失陥だ」

 

「見殺しにしろと……!」

「優先順位だ」

 

儂は机の上に置かれた、傷だらけの砂時計を指先で弾いた。

 

「感情で命を拾い上げるな。計算で拾い上げろ。この城を今日一日維持するために、最も費用対効果の高い箇所へ、手持ちの資源をすべて集中配分しろ。それができんのなら、貴様が真っ先にあの城壁から飛び降りろ」

 

老騎士は蒼白になり、唇を震わせながら、深く頭を垂れた。

 

「……承知、いたしました」

「残存実効兵力」

軍務官が、震える指で羊皮紙の端をめくった。

「城内常駐の正規守備兵、千百六十二名。うち即時実戦可能者は、八百九十六名」

 

開戦時の定数、千二百。

 

「予備役召集兵、千九十四名。実戦可能七百三十一」

「領内の寄子兵」

「昨夜までに到着した分で六百八十二名。実働可能は五百四十」

「遊撃隊」

 

軍務官が一瞬、言葉を詰まらせた。

 

「……百八十三名で出撃。現在、外壁前庭にて戦闘を継続している確認可能人員は、百十九名」

 

視線が、わずかに揺れた。

百十九名。

ローダスか。

 

あの男が、泥を啜りながらまだ百十九人の首を繋ぎ止めている。

だが、裏を返せばすでに六十人以上がすり潰されたということだ。

 

「総実動戦力、およそ二千二百八十六名」

 

軍務官が帳面の総計を読み上げる。

昨日の朝の段階では、諸手を挙げれば三千を超えていた。

 

だが、まだ二千以上いる。

 

数字だけを見れば、依然として戦力が健在であるかのように錯覚する。

 

「城壁は、保ちます」

 

卓の向かいに立つ若い幕僚が、自らに言い聞かせるように、縋るような笑みを浮かべて言った。

 

「門も破られておりません。外壁の胸壁も健在です。兵の士気も落ちていない。このまま持ちこたえれば、今日も防ぎ切れます」

 

返事をしなかった。

ゆっくりと立ち上がり、今日初めて、窓の外へと視線を向けた。

 

白み始めた空の下。

 

北壁の胸壁から断続的に放たれる、魔攻砲の閃光。

空を覆う黒煙。

城門の前庭に積み上がる、おびただしい数の獣の屍骸。

 

泥にまみれ、返り血で黒く染まりながら、狂ったように刃を振るい続ける兵たちの群れ。

 

動いている。

 

確かに、すべてが動いている。

 

防壁は砕けておらず、跳ね橋は落ちておらず、トレンス家の旗は依然として朝風を孕んで翻っている。

誰の目から見ても、これは「拮抗した防衛戦」に見えるだろう。

 

「このままだから、駄目なのだ」

 

その静かな呟きに、作戦室の全員が凍りついた。

 

「閣下……?」

「敵の一頭を屠るために」

 

卓上の帳簿を、指の背で乾いた音を立てて叩いた。

 

「こちらは、矢を三本消費する」

 

トン。

 

「魔晶石を幾つ消費する」

 

トン。

 

「兵の体力を削り、刃をこぼし、骨を折る」

 

トン。

 

「そして何より──二度と買い戻せぬ、貴重な時間を消費する」

 

窓の向こう、地平線の彼方まで続く黒い森の影を見据えた。

 

「では問うが、向こうは何を消費している?」

 

誰も、息すらしない。

 

「何も消費しておらん」

 

吐き捨てた言葉は、冷酷な真実となって室内に突き刺さった。

 

「魔獣は補給線を持たん。輜重隊を編成する必要もなければ、傷病兵に包帯を巻く必要もない。疲弊した個体を交代させる宿舎も要らなければ、死んだ仲間の遺族に年金を支払う必要すらない。ただ森の奥から、無尽蔵に湧き出しては死にに来るだけだ」

 

儂は卓上に戻り、自陣の兵力を示す木製の駒を一つ、指先で無造作に倒した。

 

「敵を百頭殺したからといって、こちらが優勢になったと思うな。倒した数だけ敵が減っているように見えるのは、ただの錯覚だ。現実に減っているのは、こちらの帳簿の数字だけだ」

 

二つ目の駒を倒す。

 

「戦線は拮抗などしていない。ただ一方的に、外側から削り取られているのだ」

 

三つ目の駒を倒す。

 

「この帳簿の引き算を続ければ、どうなる」

 

誰も答えない。

答えなど、初等教育を終えた子供でも分かる。

 

「城壁が物理的に破られる前に、矢が尽きる。石が尽きる。道具が折れる。そして、道具を扱う人が死に絶える。壁の上に誰も立っていなければ、どれほど強固な石積みであっても、ただの通り道にすぎん」

 

遠くで、重い衝撃音が響いた。

魔攻砲の音だ。

 

一発。

……長い沈黙。

 

昨日なら、即座に重なって響いていたはずの連射音が、来ない。

 

砂時計の砂がいくつも落ちた後、ようやく、頼りない二発目の重低音が届いた。

 

射撃間隔が、目に見えて開いている。

 

現場の兵が指示通り、焼き付きを恐れて間隔を広げた証拠だ。

だがそれは同時に、敵が城壁に取り付くための猶予を、こちらから無償で差し出していることを意味していた。

 

「通常矢の限界は」

「……射撃制限を厳守させても、夕刻が限界です」

「術式矢は」

「大型のみに絞っても、明朝まで持ちません」

「兵の気力限界は」

 

誰も答えられない。

 

不眠不休で泥を啜り、仲間の肉片を浴びながら剣を振り続ける人間の神経が、あと何刻持つかなど、神にしか計れん。

 

ゆっくりと目を閉じた。

 

瞼の裏に浮かぶのは、城下の光景だ。

流通が滞り、物資が枯渇し、王都からの支援も望めぬ中で、手元の数字だけをやりくりして破滅を先送りし続けるこの作業。

 

勝つための戦いではない。

 

ただ、負ける瞬間をどれだけ遅らせられるかという、絶望的な算術。

 

目を開ける。

 

「なら、今日一日を買う」

 

声の調子は微塵も揺らがない。

 

「矢を惜しめ」

「はっ」

「魔晶石を削れ」

「はっ」

「兵を使い潰すな。一歩下がって凌げるなら、血を流して見栄を張るな」

「はっ」

「だが」

 

窓の外。

城壁の直下、泥濘の中で一人、狂ったように敵の隙間を埋め続けている紺色の影が見えた。

 

キースだ。

馬鹿な息子だ。

あのように己の身一つを楔にして戦線を繋ぎ止める戦い方は、最も美しく、そして最も愚劣な消耗の極みだ。英雄気取りの一撃で救える命の数など、帳簿の上の誤差にすらならん。

 

「時間だけは惜しむな」

 

冷徹な声に、幕僚たちが怪訝な顔を見合わせた。

 

「一刻でもいい。半刻でもいい。あらゆる手段を用いて敵の前進速度を落とせ。死骸を転がせ。泥を掘れ。火を放て。何を使ってでも、今日という日を生き延びろ」

 

その時だった。

 

ヒュン──ッ。

 

窓の外の空気を鋭く引き裂き、小気味のいい高音が響いた。

見張りの兵が、作戦室のテラスから身を乗り出す。

 

「何事だ」

「矢です!城壁の内庭、石畳へ一本の矢が突き刺さりました!」

「敵の曲射か!?」

「いえ、違います! 矢羽根に赤布……伝令筒が括り付けられています!」

 

階下の兵が矢を抜き、筒を外して走り込んでくる足音が響いて、作戦室の扉が乱暴に開かれた。

届けられたのは、手のひらに収まるほどの、質の良い羊皮紙の切れ端だった。

 

『北東三百歩、大型一。死骸の陰より接近中』

 

墨の乾き切っていない、無駄を削ぎ落とした軍用の書式。

幕僚の一人が息を呑んだ。

 

「北東三百……第五班の死角です! なぜそれが上空から──」

「見張員、空を見ろ!」

 

命じるより先に、テラスの兵が悲鳴に近い叫び声を上げた。

 

「竜影!上空、雲の切れ目に竜影を確認!」

「数は!」

「一、二……六! 飛竜六騎、編隊を組んで旋回中!」

 

部屋の中にいた全員が、窓際へと殺到した。

儂もまた、静かに窓枠へと歩み寄った。

薄青く明け始めた空を、鋭利な刃物のように切り裂いて旋回する六つの影。

その先頭を飛ぶ、朝日を浴びて白銀に輝く歴戦の巨躯。

 

「……ゼフィロス」

 

誰かがその名を口にした。

見間違えるはずもない。

 

西の空を幾度となく哨戒し、対レガリアの要、ヴァルトシュタイン家の竜だ。

 

「アメリア・ヴァルトシュタイン卿……」

 

幕僚が呆然と呟いた。

次いで、別の若い将校が、渇き切った砂漠で水を見つけたかのように声を上ずらせる。

 

「え、援軍ですか!? 騎士団の本隊が後ろに続いているのでは──」

「浮かれるな」

 

儂は一言でその熱狂を切り捨てた。

 

「後続の歩兵や輜重の影は見えん。あれは単なる先行の斥候、あるいは独断の遊撃だ。現実に目の前にあるのは、たった六騎の飛竜にすぎん」

「し、しかし、六騎の飛竜など、数千の魔獣の波の前には焼け石に水では……」

 

幕僚の顔に、再び絶望の色が戻る。

戦力として見れば、その通りだ。

六頭の竜が火を吐き、六人の騎士が槍を振るったところで、この膨大な魔獣の質量を物理的に押し返すことなど不可能だ。一頭につき百頭を屠ったところで、六百頭の死骸が増えるだけにすぎん。

だが。

 

手元の紙片──『北東三百、大型一』の文字を見下ろした。

 

「上空からの視界がある」

 

独り言のように呟いた。

幕僚が戸惑ったようにこちらを見る。

 

「閣下……?」

「竜騎士の価値は、その爪や牙にあるのではない」

 

もう、すでに窓の外を見ていなかった。

 

大股で机へと戻り、卓上の配置図を睨み据える。

 

「高い位置に『目』があるということだ」

 

思考の歯車が、猛烈な速度で噛み合い、回転を始める。

一本の真鍮の針を取り上げ、地図の一点を突いた。

 

「上空から敵の進軍経路を俯瞰できれば、死角からの奇襲が消える。それはすなわち、不意打ちによって潰される隊の損耗がゼロになるということだ」

 

針を滑らせる。

 

「敵の分流を事前に把握できる。密集地点を上から特定できれば、第一砲の通常出力をどこへ撃ち込むべきかが瞬時に定まる。無駄撃ちが消え、魔晶石の延命に直結する」

 

次。

 

「伝令矢を落とさせることで、城壁と前線部隊の間の伝令往復の遅延が消える。ローダスの遊撃隊が、手遅れになる前に迎撃態勢を整えられる」

 

次。

 

「孤立しかけた部隊を、敵の薄い方角へ上から誘導して回収できる。歩兵の消耗速度を、確実に鈍化させられる」

 

彼らの表情が、困惑から驚愕へ、そして冷たい理解へと塗り替えられていく。

 

彼らにも見え始めたのだ。

六騎の竜がもたらすものが、情緒的な「希望」などではなく、極めて実務的で冷酷な「効率の改善」であるということが。

 

懐から懐中時計を取り出し、机の上の砂時計の横へと置いた。

 

カチ、カチ、と規則正しい針の音が響く。

 

「六騎の目を得たことで」

 

低く、室内の全員へ向けて問うた。

 

「資材の消費効率を何割引き上げられる。……何刻、買える」

 

誰も、即座には答えられなかった。

 

しかし、その沈黙は先ほどまでの絶望のそれではない。頭の中で帳簿を開き、残弾と兵数と時間を冷徹に再計算する、実務者たちの沈黙だった。

 

卓上に転がっていた木製の駒を取り上げた。

先ほど、自らの手で倒した三つの駒のうちの一つ。

指先で、それを静かに立て直す。

 

「これより、防衛計画を第二段階へ移行する。全砲座および各中隊長へ通達──頭上の竜が落とす指示を最優先の観測情報として扱え。一弾、一矢たりとも無駄にするな。今日を生き延びるぞ」

 

トン、と。

 

石の床に駒が立つ乾いた音が、作戦室の淀んだ空気を鋭く切り裂いた。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 

右脚の魔装鉄脚(ウェイマーチ)が、とうとう悲鳴を上げた。

 

地面を踏み込んだ瞬間、いつもなら靴底の術式へ流れ込んだ魔力が爆発的な推進力へ変わり、身体だけを景色の先へ押し出す。だが今回は、その加速が半歩遅れた。

 

「っ……!」

 

右脚だけが先に投げ出され、膝の裏へ鈍い衝撃が突き上がる。

 

術式が焼けていることは分かっていた。革の内側、脛を這うように刻まれていた加速術式はすでに三分の一ほどが黒く焦げ落ち、最初は青白く澄んでいた魔晶石も、今では乳白色に濁っている。

 

それでも、止まるわけにはいかなかった。

 

「キース様!」

 

後方から誰かの声が飛んできたが、振り返る余裕はない。

 

崩れかけた防柵の向こうに、負傷兵が三人いる。一人は自力で動けず、もう一人がその肩を抱えていた。残る一人は折れた槍を構え、二人を庇うように前へ立っている。

 

その正面から、大型の魔獣が二頭迫っていた。

 

片方は六本脚。もう片方は異様に長い顎を持つ虫だ。

 

どちらも兵を狙っているわけではない。ただ戦場から逃げているだけだった。だからこそ、人間が進路上にいようと速度を落とさない。彼らにとって兵士など、道を塞ぐ木杭と大差ないのだろう。

このままでは踏み潰される。

 

「間に合え……!」

 

もう一度、右足を踏み込む。

 

ウェイマーチが一瞬だけ光った直後、内側からぱちんと乾いた破裂音がした。加速術式の一つが完全に焼け落ちた。

 

それでも身体は前へ飛んだ。

 

だが、まだ足りない。

 

「グラウゼル!」

 

左拳を前へ突き出し、籠手の甲に埋め込まれた魔晶石へ魔力を流し込む。浮かび上がった光は弱く、すでに石そのものが限界へ近づいていることを示していた。

 

拳を振り抜いた瞬間、空気が爆ぜた。

 

放たれた圧力の塊が六脚の魔獣の顔面を捉え、巨体の首を横へ弾く。しかし、本来なら頭ごと進路を逸らせるほどの威力があるはずなのに、今はわずかに顔を振らせただけだった。

 

「ちっ……!」

 

魔獣は勢いを殺さないまま兵たちへ突っ込んでいく。

 

キースは剣を抜いた。距離は……約十歩。

 

ウェイマーチをもう一度使えば、おそらく完全に壊れる。グラウゼルも次の一撃が出る保証はない。

 

だが、剣まで死んだわけではない。

その瞬間、不思議なくらい頭の中が静かになった。

届かないのなら、届くまで伸ばせばいい。

 

剣閃術式──《閃断》

 

長剣の輪郭に白光が走る。

それは剣に刻まれた術式ではない。キース自身の魔力を刃へまとわせ、斬撃そのものの間合いを強引に拡張する術式だった。

 

刀身から溢れた魔力が幾重にも重なり、本来の刃を越えて伸びていく。

 

腕へ負荷がかかる。魔力が削られる。

だが、壊れる術具とは違う。削られているのは自分自身だ。

 

ならば、まだ使える。使えるなら……!

 

「届かせろ……!」

 

剣を横薙ぎに振り抜いた。

 

白い斬光が空気を裂き、六脚の魔獣の前脚二本をまとめて断ち飛ばす。

 

支えを失った巨体が前のめりに崩れ、その勢いのまま地面を滑った。

 

それでも止まらない。

このままでは、結局兵たちを巻き込む。

 

「伏せろ!」

 

キースは自ら巨体へ飛び込んだ。

 

胸部を覆う魔装鎧(ヴァルグレイヴ)が鈍く発光し、衝撃緩和術式を起動する。しかし焼けかけた術式線は十分に働かず、光はすぐに途切れた。

 

その瞬間、キースは自分の魔力を全身へ巡らせる。

 

強化術式──《剛体化》。

 

皮膚の下を走った魔力が筋肉と骨を包み込み、身体そのものを一時的に強化する。

 

次の瞬間、魔獣の巨体が肩へぶつかった。

 

重い衝撃が全身を揺らしたが、骨へ突き刺さるような痛みはない。肩の奥へ鈍い痛みが残る程度で済んだ。

 

装甲が守れないなら、自分で守ればいい。

 

キースはそのまま右拳を握った。グラウゼルからは、もう……拳圧は出ない。

 

なら、直接殴る。

 

「おおおおッ!」

 

《剛体化》で固めた拳を顎へ叩き込む。

鈍い衝撃とともに魔獣の頭が跳ね上がった。そこへ身体を捻り、左脚を首筋へ叩き込む。

 

ウェイマーチは反応しない。

 

加速術式などなくても、強化した脚力と腰の捻りをすべて乗せれば十分だった。

 

巨体の進路が逸れ、魔獣は兵たちのすぐ横を土煙を巻き上げながら滑っていく。

 

「走れ! 今だ!」

 

肩を貸していた兵が、動けない仲間をほとんど引きずるようにして走り出す。残る一人も続いた。

 

三人とも生きている。

 

間に合った……!

 

キースが息を吐いた、その瞬間だった。

 

背後で風が鳴る。

振り返ったときには、もう二頭目の魔獣が眼前まで迫っていた。

 

長い顎が開く。

剣を戻そうとするが、間に合わない。

 

「若様ァッ!」

 

遠くでローダスの声がした。

 

キースは左腕を差し出し、同時に《剛体化》の魔力を肩から腕へ集中させた。

 

牙が届く直前、一歩踏み込む。

 

逃げるのではない。

顎の内側へ潜り込む。

 

左のガントレットが牙とぶつかり、火花が散った。グラウゼルの甲が軋んでひしゃげ、牙はそのまま肩口へ滑り、ヴァルグレイヴの表面を削る。

 

装甲の衝撃緩和術式は明滅するだけで、ほとんど役に立たない。

 

だが、その下では《剛体化》が生きている。

牙の圧力が肩へ食い込み、鈍い痛みが走った。

 

それだけだ。

 

「近いな」

 

キースは剣を逆手に持ち替えた。

これだけ近いなら、《閃断》で刃を伸ばす必要はない。

 

魔力を刀身へ叩き込む。

今度は外へ伸ばさず、そのすべてを刃そのものへ圧縮する。

 

破断術式──《剛剣》

 

長剣が低く唸った。

白光が刀身へ凝縮され、刃の輪郭が硬質に揺らめく。

 

斬るというより、押し切る。

 

外皮も、肉も、骨も……そこにあるものすべてを、力任せに断ち割る!

 

キースは顎の下へ刃をねじ込んだが、硬い外皮に食い込み、途中で止まる。

 

ならば、さらに押せばいい。

 

《剛体化》で固めた脚を地面へ踏み込み、腰から背中、肩、腕までを一本に繋げる。

 

全身の力を柄へ乗せた。

外皮が裂け、刃が肉を割り、骨へ届く。

 

それすら押し切る。

 

「倒れろッ!」

 

《剛剣》の白光が弾け、刃が喉を断ち割った。

 

魔獣が激しく暴れ、キースの身体ごと振り回す。

それでも《剛体化》を切らさない。

肩へ鈍い痛みが走るたび魔力を重ね、暴れる巨体を押さえ込む。

 

やがて力が抜けた。

 

キースは剣を引き抜き、そのまま身体を捻って右踵を側頭部へ叩き込む。

 

魔獣が地面へ崩れ落ちた。

 

キースは着地すると、一度だけ大きく息を吐いた。

右のウェイマーチはほとんど沈黙している。グラウゼルには亀裂が走り、ヴァルグレイヴの術式線もあちこちが黒く焼けていた。

 

装備は確実に死に始めている。

 

だが身体はまだ動く。魔力も残っている。剣も握れる。

それなら……まだ戦える。

 

顔を上げて見渡せば、遠くで煙が上がっていた。

 

東側では赤い救難旗が二度振られている。

その直後、西から短い鐘が三度鳴った。

 

戦線突破の合図。

 

キースの足が止まる。

東は遠い。それでも救難旗が上がっている以上、あちらも切迫している。

 

だが西を放置すれば、魔獣は城門へ抜ける。その先には避難路があり、戦えない者たちがいる。

 

どちらへ行くかを数瞬の間、天秤に乗せた。

 

東の救難旗がもう一度上がった。

見えている。助けを求めている。

 

キースは奥歯を噛んだ。

 

「……すまない」

 

西へと向かう。

 

右のウェイマーチはもう光らず、ただの重い鉄靴になっていた。ヴァルグレイヴも身体を軽くしてはくれない。術式の死んだ装甲は、むしろ全身へまとわりつく重石だ。

 

それでも《剛体化》を薄く全身へ巡らせ、脚を動かす。

 

装備が運んでくれないなら、自分で走る。

 

東は見ない。

見れば戻りたくなるから。

 

今はただ、西へ行くしかない。

 

「退けぇッ!」

 

前方には魔獣が三頭いた。

その向こうで兵たちの隊列が崩れている。

 

キースは剣を握り直した。

 

一頭目までは遠い。

 

「──《閃断》!」

 

刀身から白い刃が伸びる。

 

最初の一撃より短い。だが、それでも十分だった。

 

踏み込みと同時に横薙ぎに振るい、伸びた剣閃が一頭目の胴を深く裂く。

さらに剣を返す。

魔力をもう一度、刀身の外へ展開する。

 

術具に依存する技ではない。

自分の魔力で作る術式だからこそ、もう一度撃てる。

 

二撃目の《閃断》が走り、二頭目の肩口から胸までを一気に切り開いた。

 

それでも倒れない。魔獣がよろめきながら前へ出る。

キースは足元へ視線を落とした。

 

折れた槍が転がっている。

柄は途中から裂け、穂先も欠けていた。武器として使うには頼りない。

 

だが……投げるだけなら十分だ。

 

キースは槍を拾い上げた。

握った瞬間、魔力を流し込む。

木の柄を赤い術式光が走り、最後には穂先へ集まった。

 

投擲術式──《焔投げ》

 

肩を引き、全身を捻る。

《剛体化》で強化した脚から腰へ力を伝え、そのまま腕を振り抜いた。

 

槍が空気を穿つ。

 

一直線に飛んだ穂先が、傷ついた魔獣の胸へ深く突き刺さった。

 

その瞬間、槍へ込めていた魔力が燃え上がる。

赤い炎が傷口から一気に噴き出し、魔獣の胸部を包み込んだ。

 

絶叫し、巨体がたたらを踏む。

キースはもう見ていない。走りながら次を探す。

 

足元に石があった。

 

拾う。

 

掌に収まる程度の、何の変哲もない石だ。

 

それでいい。

指先から魔力を流し込み、一点へ圧縮する。

 

振りかぶり──投げる。

 

石が飛び、別の魔獣の側頭部へ命中した。瞬間、込められていた魔力が炸裂する。

炎は上がらない。爆風もない。

ただ、着弾点から純粋な衝撃だけが叩き込まれた。

 

ゴンッ、と重い音が響き、魔獣の頭が横へ弾かれる。

 

身体まで傾いた。その隙へ踏み込む。

キースは地面から折れた柵の棒を拾い上げ、そのまま別方向へ放った。

 

木片が魔獣の前脚へ当たる。直後、魔力が炸裂した。

 

衝撃で脚が跳ね上がり、体勢が崩れる。

武器である必要はなかった。

 

槍でも。石でも。折れた棒でも。

投げられるものなら……使える。使えるなら……投げる!

 

キースは崩れた魔獣へ踏み込んだ。

ここまで近ければ《閃断》はいらない。

 

「《剛剣》!」

 

魔力を刀身へ圧縮し、そのまま袈裟に振り下ろす。

 

刃が硬い外皮へ食い込み……そして止まる。

 

だが、そこで終わらせない。

 

脚を踏み込み、《剛体化》で固めた身体ごと押し込む。

 

外皮が裂ける。肉が開く。骨を断つ。

剣を抜く頃には、巨体は地面へ崩れ落ちていた。

 

その向こうでは、さらに魔獣が押し寄せてくる。

 

一頭。

 

二頭。

 

五頭。

 

その後ろにも、まだいる。

 

逃げている魔獣同士がぶつかり合いながら、ひとつの濁流のようになって城門へ向かっていた。

兵たちは押されている。このままでは飲み込まれる。

 

キースは周囲を見る。

 

槍。一本。

 

折れた剣。石。瓦礫。斧。槌。鋤。

 

使えるものは……まだ、腐るほどある。

 

槍を拾う。

 

「《焔投げ》!」

 

放つ。

 

刺さる。

 

炎が上がる。

 

別の一頭へ石を投げる。

着弾と同時に魔力が炸裂し、頭部を横へ弾く。

さらに折れた剣を拾い、投げる。

刃が肩へ食い込んだ瞬間、炸裂した魔力が傷を内側から広げた。

 

それでも数が多い。

 

一頭を止めれば、その横から二頭が出る。

二頭を斬れば、その後ろからさらに来る。

 

「キース様!」

 

兵の声がした。

振り向くと、隊列が崩れかけている。

 

あと数息……それだけあれば、負傷者を下げられる。

 

だが、その数息がない。

 

キースは剣を握った。

 

《閃断》で前列を斬り、《剛剣》で近づいた一頭を押し切る。

拾った石を投げて別の一頭を逸らす。

 

それでも……止まらない。

 

足りない……斬るだけでは……倒すだけでは……。

 

この数すべてを相手にしている間に、後ろが崩れる。

必要なのは一撃ではない。

 

一瞬だ。

こいつら全員の脚を止める、一瞬だ。

キースは大きく息を吸い、胸郭を広げる。

 

《剛体化》の魔力を、今度は筋肉や骨ではなく、胸と喉へ集めていく。

 

肺を包み、声帯を守り、喉の奥へ魔力を圧縮する。

 

ローダスが何か叫んでいるが、聞こえない。

 

キースは魔獣の群れだけを見た。

恐怖させる必要も、逃げさせる必要もない。

 

ただ、本能を一瞬だけ凍らせればいい。

 

剣を地面へ突き立て、息を吸い切る。

 

 

咆吼術式──《戦吼砲》

 

 

「──…カァァアッ!!」

 

咆哮が爆ぜた。

 

ただの大声ではない。

喉から放たれた声へ魔力を乗せ、その振動そのものを前方へ叩きつける。

 

空気が震え、土埃が円を描いて吹き飛ぶ。

近くにいた魔獣の耳が伏せられ、眼球が揺れる。

前列の一頭が身体を硬直させた。

その後ろも、さらに後ろも。咆哮を浴びた群れの動きが、一瞬だけ止まる。

 

怯えたのではない。

身体が、本能的に動くことを拒んだ。

 

強大な何かに真正面から吼えつけられたと錯覚し、獣としての反射が脚を縫い止める。

 

戦場に、奇妙な空白が生まれた。

 

ほんの一瞬。

 

だが、それで十分だった。

 

「今だ!下がれ!」

 

キースの声で兵たちが動き出す。

負傷者を抱え、崩れた隊列を引き戻す。

魔獣たちもすぐに硬直から抜け始める。

 

一頭が首を振った。

 

二頭目が脚を踏み出す。

 

三頭目が牙を剥く。

 

キースは地面へ突き立てていた剣を引き抜いた。

 

喉が熱い。肺も痛む。魔力も大きく削られた。

 

それでも……立っている。

 

遠ければ《閃断》で届かせればいい。近ければ《剛剣》で押し切ればいい。

受けるなら《剛体化》で耐える。槍があれば《焔投げ》。

石でも棒でも、拾えるものなら投げて魔力を叩き込む。

数に押されるなら、《戦吼砲》で一瞬を奪う。

 

装備は壊れていく。

ウェイマーチも。グラウゼルも。ヴァルグレイヴも。

だが、自分自身の魔力まで壊れたわけではない。

 

ならば、まだ戦える。

 

キースは剣を構え直した。

その向こうでは、止まっていた魔獣たちが再び動き始めている。

そしてさらに遠く、東ではまだ赤い救難旗が上がっていた。

 

見えている……。助けを……求めている。

 

けれど、今は……行けない。

 

それを分かったうえで、キースは前を見る。

 

すべてには届かない。

いつか、どう足掻いても手の届かない場所が来る。

 

いや、もう来ている。

 

それでも。

 

今、自分の前にあるものだけは……絶対に。

 

「ここは……通さない!」

 

剣を握る手に、再び白い光が灯った。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

剣を握るキースの右手に、再び白い光が灯った。

熱をもった魔力が、すでに痛みすら麻痺し始めた指先から刀身へと這い上がっていく。

 

《戦吼砲》で止まっていた魔獣の群れが、急速にその硬直から解け始めていた。前列の巨狼が激しく頭を振り、その後ろの爬竜が泥を爪で掻きむしる。潰えかけた殺気が、再び塊となって前線へ圧力をかけようとしていた。

 

息を吸う。肺の奥が焼けるように熱い。

キースは切っ先をわずかに下げ、構えを正した。

 

次が来る。

もう一歩も引けない。

 

そう覚悟した瞬間。

頭上から、空気を裂く凄まじい風切り音が降ってきた。

 

何かが落ちてくる。

 

反射的に視線を上げた。

青ざめた朝の光を背負い、白い外套が暴風を孕んで激しくはためいている。飛竜の背を蹴り放ち、重力に引かれるまま、一直線で地上へ突っ込んでくる影。

 

「……先生!?」

 

驚愕の声を上げる暇すら与えられなかった。

落下の加速度を何一つ殺さぬまま、その人物──アメリアは、両手で長柄の得物を天へ振りかぶっていた。

真下にいた大型魔獣が、頭上の気配に気づいて凶悪な顎を持ち上げる。

 

遅い。

 

「退きなさい」

 

短く、冷徹な声が落ちる。

直後。

 

兜割り。

 

叩きつけられた一撃が、魔獣の分厚い頭蓋を真正面から粉砕した。

ドォン、と竜撃砲を撃ち込んだような重低音が地面を揺らし、衝撃波で泥と黒い血飛沫が四方へ弾け飛ぶ。巨体が泥濘の中へ半ば埋没し、周囲にいた魔獣たちが巻き添えを食らって足元をすくわれた。

キースは飛沫を腕で庇いながら、思わず目を見張った。

 

「先生、いきなり何を──」

 

怒鳴りかけた瞬間、横面を硬い革の手袋が引っぱたいた。

鋭利な裏拳だった。

 

「ぶっ……!」

 

視界が歪み、身体が半歩横へ流れる。

そのわずか一瞬後、さっきまでキースの首があった空間を、鋭利な爪が空を切って薙ぎ払っていった。切り裂かれた風が、キースの前髪を激しく揺らす。

泥に足を踏ん張り直したキースは、頬を押さえながら眉をつり上げた。

 

「いや、今のは自分で避けられましたが」

 

「避けられるなら、よそ見をするな」

 

「先生が空から降ってきたんですが!?」

 

「戦場で驚く余裕があるなら、まだ手足は動くということだ」

 

「そういう問題ですか?」

 

「そういう問題だ」

 

平然と言い放ちながら、アメリアは振り返りもせずに背後へ肘を突き入れた。

背後から忍び寄っていた魔獣の鼻頭へ正確に肘がめり込み、骨の折れる鈍い音が響く。仰け反ったその顎の下へ、キースが無意識に踏み込んでいた。

 

「《剛剣》」

 

刀身へ魔力を圧縮し、下から一気に振り上げる。

刃が分厚い胸筋を裂き、鎖骨を断ち割り、背骨まで強引に斬り裂いた。溢れ出る緑の体液が、朝の冷気の中に噴き上がる。

 

「それと」

 

返り血をものともせず、アメリアが迫る別の一頭の側頭部を泥塗れの脚甲で蹴り飛ばしながら言った。

 

「一人で全部抱え込むな」

 

「抱え込んでません!」

 

「東を捨てたでしょう」

 

キースの足が、泥の上でわずかに滑った。

その一瞬の動揺を、女傑の目が逃すはずもない。

 

「図星ね」

 

「判断しただけです」

 

「なら、判断した顔をしなさい」

 

横から突進してきた甲殻獣の眉間へ、アメリアが容赦なく得物の石突を突き立てる。甲殻が砕け散る乾いた音が響く。

 

「捨てたと割り切ったなら、その痛みをいちいち顔に出すな。そんな迷いを引きずりながら剣を振るうから、太刀筋に雑味が混ざるのよ」

 

キースは唇を噛み締め、足元に落ちていた折れた槍を拾い上げた。

腕を引く。肩甲骨を極限まで絞り込む。

 

「《焔投げ》!」

 

腕の振りと同時に、魔力の火花が槍の柄を走った。

手放された槍は一本の赤い軌跡を描いて飛び、十歩先で兵を襲おうとしていた魔獣の胸板へ深々と突き刺さる。直後、穂先から圧縮された炎が一気に破裂した。

内側から焼かれた獣がのたうち回り、泥の上を転がる。

 

その隙間へ、アメリアが影のように滑り込んだ。

 

「貴公は昔から、助けられなかった側を、全部自分の落ち度にして背負い込む」

 

「説教なら後にしてください!」

 

「今しているから意味があるの」

 

「戦闘中ですよ!」

 

「見ればわかる」

 

アメリアの一撃が魔獣の喉笛を断ち、キースは転がっていた拳大の瓦礫を足先で跳ね上げ、魔力を込めて横殴りに打ち放つ。破片が散弾のように弾け、別の個体の目を潰す。

 

「生き残るための講釈よ。耳を塞ぐ暇があるなら聞きなさい」

 

「聞いてます!」

 

「返事だけはいいわね」

 

「先生!」

 

二人の間を割るように、黒毛の巨獣が牙を剥き出して割り込んできた。

キースは迷わず横へ踏み込み、腰を落とす。

 

「《重ね閃断》!」

 

真横に薙いだ白刃が、見えない刃渡りを伸ばして前脚の腱を両断した。

バランスを崩して前のめりに倒れ込む巨体。その剥き出しになった後頭部へ、上段からアメリアの得物が叩き落とされる。

泥の中へ頭部がめり込み、二度と動かなくなった。

 

「いちいち大振りをするな。肩が上がっている」

 

アメリアの手首が小さく返る。

 

槍突術式──《破洸斬》

 

切っ先から放たれた衝撃の刃が、不可視の砲弾となって大蜘蛛の脚を薙ぎ払い、体勢を崩したところへキースの追撃の突きが喉を貫く。

 

「最小の動きで崩して、急所だけを突け」

 

話しながらも、呼吸が乱れない。

斬り、殴り、払い、叩き落とす。

二人が並び立った一角だけ、濁流のように押し寄せていた魔獣の群れが、目に見えて削ぎ落とされていく。泥濘の上に、ぽっかりとした空白が広がり始めた。

 

「右、三頭!」

 

アメリアの声が飛ぶ。

キースは跳んだ。足元をすくい取ろうとした泥を魔力で蹴り飛ばし、間合いを詰める。

 

「《閃断》!」

 

一撃目で先頭の首を裂き、返しの刃で二頭目の肩口を深々と断ち切る。

だが、三頭目の突進が止まらない。

刃を引き抜く時間がない。

 

「《剛剣》──ッ!」

 

引くのをやめ、全体重を預けて刃を押し込んだ。

硬い外皮を、筋肉を、骨を、力任せに断ち割る。

返り血の熱さが頬を打つ。その間に、背後ではアメリアが反対方向から回り込もうとしていた二頭を瞬く間に沈めていた。

 

一歩。

また一歩。

二人が足を進めるたびに、巨大な死骸が泥の上に転がっていく。

 

アメリアがその死体の山を一瞥し、短く命じた。

 

「キース、倒す位置を選びなさい」

 

「……位置?」

 

「ただ殺すだけでは無駄だ。腕が何本あっても足りない」

 

次に突っ込んできた魔獣の突進を、アメリアは正面から受け止めず、半身を躱しながらその片脚の関節だけを正確に撥ねた。

バランスを失った巨躯が横向きに滑り、泥を撒き散らしながら通路のど真ん中を塞ぐように転がる。

 

「壁にするの」

 

キースの思考が一瞬で繋がった。

前を見る。

泥にまみれた死骸。折れた脚、突き出た角、分厚い甲殻。

そうか。正面から来る奴を全部、自分の腕力で受け止める必要はない。

通れる場所を狭め、こちらが迎撃しやすい幅にしてしまえばいい。

 

「上!」

 

頭上から鋭い角笛のような音が響いた。

見上げれば、旋回していた銀の飛竜が翼をすぼめ、急降下して群れの側面へ滑り込んでいた。

 

別の鞍上の竜騎士が長槍を一閃させ、外側を迂回しようとしていた魔獣の首元を浅く薙ぐ。深追いはしない。ただ向きを変えさせるためだけの一撃。

すかさず別の二騎が低空を掠めるように飛行し、風圧と威嚇の咆哮で群れの外縁を叩く。

魔獣たちが嫌がり、進路を強引に内側──キースたちの正面へと寄せた。

 

「そう、そのまま!」

 

アメリアが空へ向けて鋭い声を張り上げる。

 

「散らすな!中央へ絞り込め!」

 

上空からの追い込み。側面からの威嚇。

そして正面で待ち構える、キースとアメリアの刃。

 

ただ闇雲に殺すのではない。

群れの勢いを殺し、誘導し、こちらが指定した狭い通路へと化け物どもを押し込んでいく。

キースは突き刺さっていた折れ槍を素早く引き抜いた。

正面の狭路へ、押し出されるように突っ込んできた一頭がいる。

 

「《焔投げ》!」

 

放たれた槍が喉元へ突き刺さり、爆炎が上がる。

絶叫を上げながら横倒しになった巨体が、すでに転がっていた死骸の上に重なり、さらに通路を塞いだ。

 

「そこだ!」

 

キースが叫ぶ。

頭上から降下した竜騎士が、退路を断つようにその背後へ火炎瓶を投げ落とす。炎の壁に怯んだ後続が足を止め、折り重なった死骸の山へと乗り上げた。

そこへ、アメリアの冷徹な一撃が吸い込まれる。

首が飛び、巨体が沈む。

 

また一つ、壁が高くなる。

倒す場所を選び、死体を積み上げ、障害物を組み上げていく。

気づけば、何も遮るもののなかった泥の平原に、魔獣の死骸で組み上げられた歪な『防壁』がそびえ立ち始めていた。

硬い甲殻が重なり合い、角と骨が絡み合い、簡単には乗り越えられない即席の胸壁となる。

 

「左をもう二頭、あそこの窪みへ落としなさい!」

「分かってます!」

「返事が遅い!」

「先生が喋るのをやめないからでしょう!」

「口を動かしながらでも手は動くはずよ!」

「動かしてますッ!」

 

キースは泥を蹴り、瓦礫を蹴り上げながら走った。

群れの先頭へ石を叩き込み、怯んだところへ上空から飛竜が圧力をかける。逃げ場を失った獣が死骸の壁にぶつかって足を止めた。

 

そこへ、並んで踏み込んだ二本の刃が同時に閃く。

ドサリ、と音を立てて肉の壁がまた一段、厚みを増した。

戦場の形が、完全に作り変えられていた。

平押しに押し寄せていた魔獣の数の暴力が、幾重にも築かれた死骸の壁によって細い筋道へと分断され、殺傷力を失っていく。

その後方では、稼ぎ出された時間を使って、兵たちが負傷兵を荷車へ乗せ、整然と後退を始めていた。

上空の竜騎士たちは、壁の切れ目を抜けようとする個体だけを正確に間引き、戦線の形を保ち続けている。

 

キースは額の汗を腕で拭い、ようやく深く息を吐き出した。

 

「……最初から、これをやるつもりで配備を?」

 

「できる土台を作ったのは貴公でしょう」

 

アメリアは前を見据えたまま、乱れのない声で応じた。

 

「敵の足を止めて、兵を下げて、竜が動ける時間まで作った。それで最後だけ、自分一人で片づけるつもりだったの?」

 

キースは返答に詰まり、唇を真一文字に結んだ。

アメリアが冷ややかな視線を横へ寄越す。

 

「だから、甘いと言っているのよ」

「……まだ説教、続くんですか」

「砦の門をくぐるまでよ」

「長すぎる……」

「嫌なら、さっさと足を動かしなさい」

 

キースは小さく息を漏らし、血で汚れた長剣を構え直した。

 

目の前には、自分たちが積み上げた死骸の壁に阻まれ、進路を見失った魔獣どもの咆哮が渦巻いている。

上空には旋回する飛竜の影。

隣には、理不尽なまでに頼もしい師の姿。

そして背後では、味方の部隊が確実に退却を完了しつつあった。

ここから先は、殲滅戦ではない。

押し返し、削り、誘導し、戦線を畳みながら引く。

 

「行きますよ」

「ええ」

 

二人は歩調を合わせ、一歩前へ出た。

上空から竜騎士が群れの端を削る。

逸れた個体を進路へ押し戻し、飛び出してきた個体を二人の刃が同時に断つ。

倒した死骸をそのまま次の防壁とし、敵の足を絡め取る。

 

一歩引くたびに、一つ壁を残す。

 

また一歩下がり、また一頭を積み上げる。

 

破綻しかけていた戦線を一枚の布を畳むように丁寧に収束させながら、二人は城門を目指して泥の中を後退していった。

 

その間も、キースの立ち回りに対するアメリアの容赦のない指摘は、ただの一度も途切れることがなかった。

 

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