《追憶》 Ⅺ 重なる影
それから先は、殲滅ではなく作業に近かった。
もっとも、その作業一つ一つが人の背丈を優に越える大型の魔獣を相手にした殺し合いなのだから、普通の意味での作業とは程遠い。
「次、私が出る。あなたは下がって」
「まだいけます」
「知ってる。だから下がりなさい」
アメリアの革手袋をはめた手が、キースの左肩を強く押し戻した。キースは不満そうに奥歯を噛み、泥に沈んだ靴裏を引き抜いて半歩退く。
その入れ替わりの一瞬の隙を縫うように、彼女が前へ出ていた。
足元に積み上がった死骸の壁を迂回しようと、濡れた黒毛に覆われた魔獣が二頭、低く唸りながら踏み込んでくる。
アメリアは正面から迎え撃たない。
濡れた泥を滑らせるように踏み込み、一頭目の踏み出した前脚の関節へ、最小限の力で剣の峰を叩きつけた。関節を外された巨体が前のめりに崩れ落ち、後続の進路を塞ぐ。二頭目がそれを踏み越えるのを嫌がり、外側へと膨らんだ。
そのわずかな迷いの上空へ、竜騎士が風を裂いて急降下する。
風圧と騎竜の鉤爪が鼻先をかすめ、魔獣は甲高い威嚇音を上げながら、門から離れる西側へと進路を戻した。
「そのまま西へ流して!」
『俺は、牧羊犬になった覚えはない!』
アメリアの鋭い声に呼応し、上空のゼフィロスが右の翼をわずかに傾けて旋回する。影に追われた魔獣は、逃げ場を求めてさらに外側へと足を向けた。
倒す必要のないものは倒さない。逃げる先だけを選ばせる。
そのわずかな時間を利用して、キースは荒れた呼吸を整えた。
肺腑へ冷たい外気を吸い込み、巡らせていた魔力を内側へ畳み込む。《剛体化》の膜を極限まで薄く解くと、筋肉と皮膚のあいだに滞留していた鉛のような熱が、汗となって噴き出した。指先が微かに震える。
だが、完全に腰を落ち着ける猶予などない。
十呼吸。
十五呼吸。
肺の焼けつく感覚が引き、視界の白みが引いた。それだけで十分だった。
「先生!」
声をかけると同時に、キースが泥を蹴って前へ出た。それと寸分の狂いもなく、アメリアが剣を引いて半歩後ろへと滑り込む。
門前へ向かおうとする一頭がいる。
キースは足元に転がっていた、折れた歩兵用の槍を拾い上げた。
穂先は鈍くひしゃげ、柄の中ほどに深い亀裂が入っている。
関係ない。
手根から柄を通じて、一気に魔力を流し込む。乾いた木と鉄が軋み、青白い光が亀裂を埋めた。
腕のしなりとともに放たれた槍は、唸りを上げて魔獣の右肩深くへ突き刺さった。
直後、木肌を食い破って激しい炎が噴き上がる。
毛皮を焼かれた獣が悲鳴を上げ、痛みに耐えかねて横へと跳ねた。
キースは腰を落とし、足元の拳大の石を鷲掴みにする。そのまま腕を振る。
投槍術式・応用変化──《波紋弾》
着弾。
石に込めた魔力が、硬質な頭蓋の上で鈍く炸裂した。
衝撃波が頭部を横へ強引に押し流し、巨体の重心が門とは正反対の泥濘へと傾く。
槍を構えて仕留めにかかろうとした若い歩兵の肩を、キースが咄嗟に掴んで引き戻した。
「あれは流せ!」
殺すことが目的ではない。
門へ近づけさせないことだけが目的だ。
その原則が最前線の兵たちに浸透し始めると、戦線の動きは目に見えて統制を取り戻していった。
竜騎士は群れの外周を削り、巨大な扇を開くようにして内へ寄せる。
地上では息を整えた兵たちが密集して槍列を組み、進ませたくない場所だけに切っ先の壁を立てる。
それでも頑狂に突進してくる大型だけを、キースとアメリアが呼吸を合わせて交代で潰した。
倒す場所も、選ぶ。
門の真正面には絶対に積まない。
やや外側へ。
城壁に対して斜めの角度を保つように。
一頭を仕留める。
その崩れ落ちた胴体の上へ、次の一頭を重ねる。
さらにもう一頭。
巨大な骨肉の塊が幾重にも折り重なり、やがて血と泥、そして吐き出された体液にまみれた歪な防壁が、門前から外へ向かって伸びていった。
真正面から門へ突っ込んできた魔獣は、鼻腔を突く同類の死臭と肉の山を嫌がり、自然と進路を外側へ歪める。
歪めた先には、低空で旋回する竜騎士の槍とブレスがある。
さらに外へ追われる。
少しずつ、だが確実に。
戦場の流れそのものが、城門という急所から逸らされていった。
「右、抜ける!」
後方からの叫び声に、キースの身体が反射的に跳ねる。
「《閃断》!」
足元の泥を吹き飛ばしながら踏み込み、横薙ぎに振るった白い斬撃が、魔獣の太い前脚を骨ごと断ち切った。
傾ぐ巨体の軌道を見極めたアメリアが、横合いから深々と革靴の踵を叩き込む。
空中で半回転した巨体が泥を巻き上げて滑り、あらかじめ計算されていたかのように、死骸の防壁の切れ目へとすっぽり収まった。
キースは乱れた前髪を払うこともせず、剣を構えたまま横目で彼女を見た。
「……先生、それ狙いました?」
「当然でしょう」
アメリアは息一つ乱さず、穂先についた脂を鋭く振り払った。
「今ので?」
「戦場で、死体をただの死体にして転がしておく方がもったいない」
「言い方が怖いんですよ」
「あなたが言う?」
言葉を交わすあいだにも、泥を跳ね上げる重い足音が響く。
キースが下がる。アメリアが出る。
アメリアが下がる。キースが出る。
どちらか一人が刃を交えている数十拍のあいだ、もう一人は必ず背後で壁に背を預け、魔力と呼吸を鎮める。
無理をすれば、まだ戦える。限界まで絞り出せば、一人で二頭を斬り伏せられる。だからこそ、決して無理をさせない。
その冷徹なまでの交代運用を、アメリアが徹底させていた。
やがて、前方を埋め尽くしていた魔獣の密度が急激に薄れ始めた。
真正面から門へ突っ込んでくる影はない。群れの大半は防壁に弾かれて外側の荒野へと流され、残った数頭も、旋回する騎竜の影に追い立てられながら、城壁の射程外へと散っていく。
最後の一頭の背が、立ち込める土煙の向こうへ消えたのを確認したところで、キースはようやく剣先を下げた。
門前には、異様な光景が広がっていた。
魔獣の死骸が、まるで築城された外壁のように連なっている。
大きなものは優に人の背丈を二倍以上越え、ねじくれた角と強靭な四肢、分厚い外皮が複雑に絡み合い、破城槍をぶつけてもびくともしないような重厚な土塁と化していた。
黒ずんだ血が泥と混ざり合い、ぬかるんだ地面にどす黒い水たまりを作っている。立ち込める鉄と臓物の臭いが、冷え始めた大気を重く満たしていた。
キースは血塗れの剣をだらりと下げ、肩で息をしながらその山を見上げた。
「……片づけるの、大変そうですね」
隣に並んだアメリアが、額に張り付いた髪を手甲で払いながら答える。
「今気づいたの?」
「戦ってる最中は便利だったので」
「便利だから積んだんでしょう」
「積みすぎた気もします」
「でしょうね。最後に押し込んだの、誰だったか?」
「否定できない……」
重い金属の擦れる音が、背後で低く響いた。
城門が内側から、ゆっくりと押し開かれていく。
開かれた隙間から、法衣を着た聖律師たち、大工道具を担いだ工兵、分厚い革前掛けをつけた解体班と回収班、そして軋む車輪を鳴らす荷車が雪崩を打って出てきた。
命のやり取りが終われば、今度は別の人間たちの仕事が始まる。
魔獣の死骸をそのまま放置することは許されない。
利用できる部位は、即座に回収しなければならないからだ。
第一に
疫病や土壌汚染の元となる腐敗しやすい内臓は、現場で油を撒いて焼却しなければならない。地面に染み込んだ血溜まりを石灰で清め、破壊された防柵の杭を打ち直し、荷車が通れるように泥を均す。
命を削る戦闘そのものよりも、泥臭く、遥かに長い仕事が始まるのだ。
「キース」
背後から、低く沈んだ声が届いた。
その瞬間、キースの背筋が無意識に跳ね上がり、両肩が強張った。
振り返ると、腕を組んだゲアハルトが立っていた。
外套には返り血ひとつ飛んでいない。だが、いつも以上に声音が低く、押し殺されている。
そして何より、眉間に刻まれた皺が深い。非常にまずい。
「……父上」
「なんだ」
返答が短い。短すぎる。
キースは周囲へ視線を走らせた。
工兵たちは目も合わせずに荷車を押して通り過ぎていく。逃げ道は完全に塞がれていた。
ふと横を見ると、アメリアがいつの間にか音もなく二歩ほど後ずさっていた。
「先生?」
「私は関係ないもの」
「さっきまで一緒に戦ってましたよね?」
「戦ったことと、あなたが怒られることは別問題でしょう」
冷たく言い捨てられた。見捨てられた。
ゲアハルトの長靴が、ぬかるんだ泥を踏みしめながら近づいてくる。
だが、彼はすぐには怒声を上げなかった。
鋭い視線が、まずキースの顔の血色を改め、次いで垂れ下がった左肩、ひび割れた胸当て、そしてぎこちなく体重を支えている脚へと、なぞるように落とされていく。
革紐の切れ端から血が滲んでいないか。
重心の掛け方に狂いはないか。
呼吸の浅さは疲労によるものか、それとも臓腑の損傷か。
無言の検分が、キースの皮膚を刺すように続く。
「左肩は」
「問題ありません。少し鈍い痛みがある程度です」
「見せろ」
「父上、先に報告を」
「見せろ」
低く、有無を言わさぬ響きだった。
キースは観念し、強張った関節を庇いながら、慎重に左肩を回してみせた。
ゲアハルトの無骨な指が、肩口の装甲の隙間から伸び、関節の周囲を強い力で押し込む。キースがわずかに顔をしかめたのを見届け、ゲアハルトはようやく、喉の奥から小さく息を吐き出した。
「骨は」
「無事です。《剛体化》で受けました」
「そうか」
そこで初めて、張り詰めていた鋼のような表情筋が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、安堵の色が消え去るのもまた一瞬だった。
「では聞こう」
冷え切った空気が、ふたたびその場を支配する。嫌な予感しかしない。
ゲアハルトの視線が、キースの右脚へと落ちた。
脚甲に組み込まれていたウェイマーチの導魔線が、焼け爛れ、完全に沈黙している。
次に亀裂の入ったグラウゼル。
黒く焼けたヴァルグレイヴの術式線。
そして最後に、もう一度キースを見る。
「なぜ、お前は生きて帰るたびに装備を一式殺してくる」
「……今回は事情が」
「事情があれば壊してよいとは言っていない」
「壊したくて壊したわけではありません」
「知っている!」
ゲアハルトの声が、空気を震わせるほどの重みをもって落ちた。
近くで解体作業に入ろうとしていた工兵たちが、びくりと肩を跳ねさせて振り返る。
「知っているから言っているんだ!」
キースの口が、硬く閉ざされた。
ゲアハルトが一歩、泥を踏み越えて詰め寄る。
「お前が誰かを助けようとして前へ出たことも分かっている。東を捨てて西を選んだことも、門を守るために残ったことも、報告を聞けば分かる」
ゲアハルトはそこで一度言葉を切り、胸の底から湧き上がるものを押し殺すように息を吸った。
「だがな、キース。お前が倒れれば、それで救えなくなる人間がどれだけ増えると思っている」
「……」
「自分一人を勘定から外すな」
静かな、だが重い鉄のような言葉だった。
キースは何も言い返せず、泥で汚れた剣の柄を固く握りしめた。
数歩離れた場所で、アメリアが腕を組んだまま、静かに視線を伏せている。
ゲアハルトは息子を見据えたまま、さらに言葉を重ねた。
「お前が自分の命の価値を安く見積もって無茶を押し通すたびに、周りの人間がその穴埋めを払わされることになる。率いる兵も、隣に立つ騎士も、城の奥にいる家族もだ」
「父上……!」
キースがわずかに顔を上げた。
「何だ」
「……安く扱ったつもりはありません」
ゲアハルトは息子の目をじっと見つめ、それから短く鼻を鳴らした。
「なら、次は壊し切る前に戻れ」
「それが戦場で選べれば、誰も苦労しません」
「口答えをする元気だけは残っているようだな」
「あります」
「なら問題ないな」
「何が、です?」
「説教の続きができる」
キースが苦々しく顔を歪めた。その横で、アメリアの唇が小さく弧を描くのが見えた。
ゲアハルトは息子から視線を外し、小走りで駆け寄ってきた補給担当の輜重兵へと向き直った。
「さて」
声の質が切り替わる。
危うい息子を案じる父親から、軍の維持を計算する指揮官のものへ。
「次は損耗の話だ」
キースは露骨に肩を落とし、天を仰いだ。
「……まだあるんですか」
「ここからが本番だ」
「父上」
「まずは報告を」
「……門前への魔獣流入は完全に阻止。死骸を利用した誘導路を形成し、本隊への被害は軽微。負傷者は──」
「戦果の話ではない。装備の報告をしろ」
キースは口をもごもごさせ、視線を足元へと落とした。
「……右ウェイマーチ、ほぼ全損」
「ほぼ?」
「……全損です。導魔線が焼き切れています」
「グラウゼル」
「左、術式系に損傷。外装も一部変形」
「ヴァルグレイヴ」
「胸部衝撃緩和術式が……かなり」
「かなり?」
ゲアハルトが片眉を上げる。
「…………死んでます」
ゲアハルトは深く、深く息を吐き出した。眉間の皺が一段と深くなる。
「よし」
「よし、ではない顔をしてますが」
「安心しろ。さっきより怒っている」
ゲアハルトは一度目を閉じ、両手の親指と人差し指で目頭を強く圧迫した。
それから、低く抑えた声で問い詰める。
「魔晶石は」
キースは少し間を置いた。
「……濁ってます」
「何個だ」
「ほぼ全部」
ゲアハルトはしばらく、何も言わなかった。
怒鳴られるよりも、その沈黙のほうが遥かに重く胃の腑に刺さる。
やがてゲアハルトは、横で青ざめて立っていた補給担当の兵へと顔を向けた。
「現在庫は」
担当兵が慌てて革表紙の分厚い帳簿を開き、インクの染みた指先で羊皮紙の項目をなぞった。
「高純度魔晶石、使用可能品が二十一。中純度四十八。低純度は七十七です」
「予備ウェイマーチ」
「右用が六基、左用七基。……ただし右用一基は術式同調前です」
「グラウゼルの交換術式盤」
「残り五枚です」
「ヴァルグレイヴ用の衝撃緩和核」
帳簿をめくる乾いた紙の音だけが響き、そこで止まった。
担当兵の視線が帳簿の一点に張り付く。
ゲアハルトが急かすこともなく待つ。その静けさが恐ろしい。
「……二基」
ゲアハルトがゆっくりキースを見る。
「だそうだ」
「……聞こえてます」
「貴様一人で、一戦で何基分消耗されたか理解しているか」
「今回は状況が」
「理解しているか?」
「……はい」
「なら結構」
全くもって結構ではない、冷え切った声音だった。
ゲアハルトは手元の帳簿を覗き込み、手袋をした指で項目を叩きながら、淡々と現実を突きつけていく。
投槍用の槍もかなり減っている。
矢も少ない。
備蓄されていた治療用の魔法薬は、予定量を越えて消費した。気付け酒。塗油。止血布。薬草酒。騎馬の飼料。革具を縫い直す蝋引き糸に至るまで。ありとあらゆるものが戦闘のたびに減っていく。
魔獣を倒せば終わりではない。
一頭を倒すために、何をいくつ使ったか。
その結果、明日もう一度同じことが起きたとき、同じように戦えるのか。
ゲアハルトが立っているのは、その数字の積み重なりの上だった。
「それと」
まだ終わらないらしい。
キースは引き攣った顔で、おずおずと視線を上げた。
ゲアハルトの骨太な指先が、門の前に横たわる巨大な肉の防壁を指し示していた。
「これは何だ」
「防壁です」
「見れば分かる」
「ではなぜ聞いたんです?」
「誰が片づけるのか聞いている」
キースは高く積み上がった黒い山を見た。
大鋸を担いで途方に暮れている解体班の顔を見た。そして、ゲアハルトを見る。
「……皆で?」
「キース」
「はい」
「やれ」
「……やっぱりですか」
「当たり前だ。自分で作った障害物だろう」
隣で押し殺したような笑い声が漏れた。アメリアが口元を手甲で隠して肩を揺らしている。
ゲアハルトの鋭い眼光が、即座に彼女を捉えた。
「お前もだ。アメリア卿」
「なぜ?」
アメリアは笑みを消し、心底心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
「半分は積んだろう」
「私は倒す位置を指示しただけよ」
「横から蹴りを入れて、ちょうどいい隙間に叩き込んでいただろう」
「……細かい男ね」
「今まさに後処理の話をしいてる」
ゲアハルトの底光りする視線が、アメリアの顔を真っ向から射抜く。
数秒の沈黙。
視線の鍔迫り合いの末、アメリアは小さく肩をすくめ、諦めたように息を吐き出した。
「……私も手伝います」
「ありがとうございます」
ゲアハルトは表情一つ変えずに即答した。
その淀みのないやり取りを見て、キースは思わず吹き出した。
「先生も弱いじゃないですか」
その直後、ゴツンと鈍い衝撃がキースの後頭部を揺らした。手甲の裏拳である。
「痛っ……!」
「あなたは口より先に手を動かしなさい」
「今のは不意打ちでしょう!見てれば避けられましたよ」
「避けたら、もう一発反対側から叩き込むだけだ」
「理不尽すぎる……」
ぼやきながらも、キースは突き刺していた剣を抜き、革の鞘へと収めた。カチリと金具が噛み合う音が、疲労の底に小さく響く。
戦いは終わった。
だが、今日の仕事が終わったわけでは決してない。
死骸を片づける。負傷者を数える。壊れた装備を集める。残った魔晶石を確認し、明日使える槍の穂先を研ぎ直す。破損した木柵を組み直し、上空から降りてきた竜の体温を確かめる。
そして、次に同じ群れが来ても耐えられるようにする。
そうして一つ一つの帳尻を合わせることでしか、次の夜明けを迎えることはできない。
キースは門前で異臭を放つ巨大な黒い山を見上げ、重い溜息を吐き出した。
「……これ、本当に今日中に終わるのか……?」
横を通り過ぎるゲアハルトが、足を止めることもなく背中越しに言った。
「終わるまでが今日だ」
「聞かなきゃよかった……」
アメリアが腰の剣帯を締め直し、顎で山をしゃくってみせる。
「ほら、キース。行くわよ」
「先生、さっき帰るまで説教するって言ってませんでした?」
「ええ」
「もう帰ってきましたけど」
アメリアは解体班から手渡された無骨な引き回し鋸を受け取り、刃の具合を指先で弾いて確かめながら、涼しい顔で微笑んだ。
「では、片づけが終わるまで」
「延長されてる……」
門前の広場では、すでに工兵たちの掛け声とともに、大鋸の鈍い金属音が響き始めていた。
戦場を支配していた魔獣の咆哮は完全に去り、代わりに泥を掻く音、車軸の軋み、そして帳簿の頁を繰る実務者たちの乾いた声が、冷たい風の中に溶けていく。
その騒がしい後始末の真ん中で、キースは焼け焦げた装甲を外しながら、ゲアハルトから装備の減価償却と在庫管理についての延々と続く小言を、骨の髄まで叩き込まれることになった。
・・・・・
・・・
城内、西兵舎の渡り廊下。
鼻腔を突くのは、煮沸した酢と血膿の混ざり合った、胸の悪くなるような臭気だった。
「閣下、こちらへ。足元にお気をつけください」
杖を突いて歩く私の脇を、老執事のゴットフリートが支えようとする。
「よい。自分で歩ける」
右脚を引きずるたび、包帯の下で傷口が焼けるように痛んだ。
イブリンに殴りつけられた左頬は酷く腫れ上がり、視界の半分が塞がっている。背中の傷も、息を吸い込むたびに引き攣れた。
だが、横たわっている暇など、この城塞のどこにも残されていなかった。
兵舎の廊下には、床板の隙間もないほど敷布と藁が敷き詰められ、負傷兵が何重にも折り重なって倒れていた。
手足を失った者。
魔獣の爪毒で皮膚を赤黒く腫らせた者。
腹を裂かれ、浅い息を繰り返すだけの若い兵。
唸り声。うわ言。痛みに耐えかねて床板を掻きむしる爪の音。
「……ハインツ様」
角を曲がったところで、泥と煤にまみれたエプロンをつけた女が、血に染まった木桶を抱えて立ち止まった。
妻のルイーゼだった。
夜会で着ていた絹のドレスなど影もない。袖を肘まで捲り上げ、髪を乱暴に手拭いで束ね、両手は負傷者の血を洗った水で赤くふやけていた。
その背後では、うちの屋敷の侍女や下男たちが、シーツを裂いて包帯を作り、湯を沸かし、汚れた布を洗うために走り回っている。
「帳簿の確認は済んだのですか」
妻の声は、驚くほど低く、乾いていた。
「ああ。第一倉庫の乾肉を二割、こちらの炊き出しへ回した。……すまないな、こんな真似をさせて」
「お止めなさい」
妻は視線を合わせず、桶を持ち直した。
「謝る暇があるなら、油と布の手配を。もう古着すら底を突きました。これ以上運ばれてくれば、敷く藁すら足りなくなります」
それだけ言って、彼女は負傷兵の群れの中へと戻っていった。
領地の屋敷を追われ、家財を捨て、着の身着のままでこの砦へ逃げ込んできた。
男爵夫人としての体面も誇りも、ここには欠片も残っていない。ただ、生き残るために血を拭う手があるだけだ。
「父上」
細い声がして、柱の陰から小さな影が出た。
十歳になる息子のカールだった。
その手には、泥だらけの木札が何枚も握られている。
「避難民の受付、手伝ってきた。……これで合ってる?」
差し出された木札には、拙い文字で家族の人数と、預かった荷の数が炭で書き付けられていた。
「……ああ。よくやった」
頭を撫でようとして、自分の指先が血と泥で汚れていることに気づき、手を引っ込めた。
「怖くはないか」
「怖いよ……!」
息子は正直に言った。
「外で、ずっと変な音がしてる。壁が震えてる。……みんな、死んじゃうの?」
喉の奥が詰まりそうになった。
北の森で散っていった部下たちの顔が浮かぶ。
一人で奔流へと突っ込んでいった黒鉄狼の族長。
家族を託し、土の中へと消えていったあの農夫。
彼らの命をすり潰して、私はここにいる。
家族を連れて、この分厚い石壁の内側で、今……息をしている。
「……死なせん」
私は息子の小さな肩を、折れそうなほど強く掴んだ。
「お館様がおられる。若様……キース様が、外で戦っておられる。……我々も、持ち場を守るぞ」
「うん」
息子が小さく頷き、また避難民の列へと走っていく。
私は深く息を吸い込み、痛む脚に力を込めて杖を突いた。
城壁の外では、キース様が自らの肉体を削りながら、時間を買い止めている。
ならば、内側にいる私たちは、その買われた時間の中で、一人でも多くの首を繋ぎ止めねばならない。
「ゴットフリート」
「はっ」
「持ち出せた武具を開けろ。錆びた槍でも何でもいい、歩ける負傷兵に持たせる。内門の警備を交代させ、兵を一人でも多く外壁へ上げろ」
「かしこまりました」
「それと……あの娘の様子は」
老執事は一瞬だけ言葉を濁した。
「……荷台の隅で、ずっとシグルダ様の遺骸の傍らに座り込んでおられます。誰も声をかけられずにおります」
左頬が、ズキリと疼いた。
あの子の拳の重さ。
逃げ傷だと罵られた背中の痛み。
「……放っておけ」
私は前を向いて歩き出した。
「今は、生きている者の世話だけで手一杯だ」
言いながら、私は杖を強く握りしめた。
いつか、あの娘にすべてを話さねばならない時が来る。
だがそれは、この城の全員が生き残った後の話だ。
遠く、城壁の上から魔攻砲の鈍い地響きが落ちてきた。
私は血の海の廊下を、前へ向かって歩いた。
避難民が身を寄せ合う荷車置き場の片隅で、その光景が目に留まった。
筵を敷いた泥土の上に少年──ゼファーが、壁に背を預けて座り込んでいた。
その腕の中には、小さな女の子が抱えられている。あの農夫の娘、リディアだ。
少年は両手で、骨が軋むほどの力で幼子の手を握り締めていた。指先が白く血の気を失い、目は充血し、近づく大人すべてを獣のように警戒している。あの約束に、細い身体を縛りつけられているようだった。
そこへ、おずおずと近づいていく小さな影があった。
七歳になる私の娘、ファリナだった。
避難民が身を寄せ合う荷車置き場の片隅で、ファリナはその二人を見つけた。
筵の敷かれた泥炭の地面。壊れた荷車の陰。
男の子と、小さな女の子。
二人とも、さっきからずっとそこにいた。
男の子は壁に背中を押しつけるようにして小さく縮こまり、その腕の中に、自分よりずっと小さな女の子を抱え込んでいる。
女の子の身体は薄汚れた毛布にくるまれていて、外に出ているのは、泥のついた丸い頬と、赤くなった鼻の先だけ。
それから、男の子に握られている、ちいさな手。
男の子は、その手をずっと握りしめていた。
ぎゅう、と。
指の節が白くなって、骨の形が浮き上がるくらい強く。
ご飯の鍋を持った大人が前を通り過ぎても。
血のついた布を巻いた兵隊さんが運ばれていっても。
遠くで、お腹の底が震えるような嫌な音がドスンと響いても。
一度も緩めなかった。
一度も膝から下ろさなかった。
(……痛くないのかな)
わたしはそう思った。
あんなに強く握られたら、絶対に痛い。
お兄ちゃんと、庭で遊んでいるとき、転びそうになって手を強く引っ張られただけでも、わたしは「痛い!」って泣いてしまうのに。
でも、毛布の中の女の子は泣かなかった。
ただ、男の子の腕の中で、小鳥みたいに小さく震えているだけだった。
わたしは、両手で抱え持っている木椀に目を落とした。
お母様が、大きな鍋から少しだけ掬ってくれた麦湯。
お湯の底には、黒っぽい干し果実の切れ端が二つ沈んでいる。
鼻を近づけると、麦の焦げた匂いに混ざって、ほんの少しだけ、お砂糖を焦がしたような甘い匂いがした。
お腹が、きゅうと鳴った。
本当は、自分が飲みたかった。
馬車に乗ってから、固くて冷たいパンを一口かじったきりで、喉はずっと砂を飲み込んだみたいにカサカサしていた。指先も、靴の中の足の指も、氷みたいに冷たかった。
でも。
あの子は、自分よりもずっと小さかった。
服も薄くて、靴も履いていなくて、寒そうに小さく丸まって、ずっと震えていた。
それに、男の子の顔が──泣きそうなくらい、怖かったから。
わたしはお椀を胸の前でぎゅっと抱え直した。
こぼさないように、泥の地面へそろりと足を踏み出す。
ぐちゃり、と冷たい音がした。
お気に入りの、裾にレースのついた上着の端が泥に浸かった。
いつもなら、乳母や侍女に「まあ、ファリナ様」と怒られてしまうところだ。
けれど、もう怒る人は誰もいなかった。
みんな血を洗ったり、布を裂いたりするのに忙しくて、わたしのことなんて見ていなかった。
もう一歩、踏み出す。
男の子が、弾かれたように顔を上げた。
わたしの足が、ぴたりと止まった。
息が止まりそうなくらい、怖い目だった。
目の縁が赤く腫れ上がっていて、髪の毛は泥で固まっていて、頬っぺたには木の枝で引っかけたような乾いた傷が何本も走っている。
近寄ったら、噛みつかれそうだった。
あっちへ行けって、怒鳴られそうだった。
わたしの心臓が、とくとくと早く打ち始めた。
お母様のところへ逃げて帰ろうかと思った。
このお湯を自分で飲んで、あたたかい火のそばへ戻ろうかと思った。
けれど。
男の子の腕の中から、毛布にくるまった女の子の目だけが、じっとこちらを見ていた。
濡れた、黒い、ちいさな目だった。
わたしは唾を飲み込んで、もう半歩だけ、泥を踏んだ。
「……あの」
声がかすれて、自分でも変な音になった。
男の子は何も言わなかった。
ただ、女の子を奪われないように隠すみたいに、抱きしめる腕にさらに力を込めた。男の子の腕が、びくびくと動いているのが見えた。
わたしは困ってしまった。
どうしていいか分からなくて、とりあえず、胸の前にあった木椀を、そろそろと前へ突き出した。
「これ……甘いよ」
男の子はピクリとも動かなかった。相変わらず、怖いお顔で見てくる。
でも。
毛布の中から、小さな鼻がひくひくと動いた。
犬の子みたいに、匂いを嗅いでいる。
毛布がずれて、泥だらけの小さな顎が出た。
「……あまい?」
消え入りそうな、ちいさな声だった。
わたしは嬉しくなって、何度もコクコクと頷いた。
「うん!お母様がね、お湯に入れてくれたの。……すこしだけど、あまいよ」
女の子の目が、お椀の底をじっと見つめた。
飲みたいんだ、とわたしには分かった。
だから、男の子の方もチラリと見て、尋ねてみた。
「お兄ちゃんも、のむ?」
男の子の喉が、ごくりと大きく動いた。
お椀の中の、わずかな湯気を見つめている。
伸ばしかけた首が、ほんの少しだけ前に出かけた。
けれど、男の子は急に歯を食いしばると、力任せにお顔を横へ背けた。
「……いらない」
低くて、尖った声だった。
怒っているみたいだった。
わたしは眉を下げた。
どうして怒るんだろう。
お腹が空いていないのかな。それとも、果物が嫌いなのかな。
せっかくお母様からもらったのに。甘くて、おいしいのに。
「じゃあ……」
持って帰ろうかと思って、お椀を引き寄せかけた。
でも、女の子の濡れた目が、じーっと、お椀を追いかけて動いた。
やっぱり、お腹が空いているんだ。
わたしはため息をついて、泥の地面にぺたりと膝をついた。
もうスカートが汚れることなんてどうでもよかった。
二人の足元の乾いている場所を選んで、そっとお椀を置いた。
「置いとくね。さめちゃう前に、のんでね」
男の子はそっぽを向いたままだった。
でも、睨みつけてはこなかった。
わたしは膝をついたまま、少し考えた。
お湯を置いたけれど、まだ何か足りない気がした。
男の子はまだ、ふるえているし、女の子の手も冷たそうだった。
二人とも、すごく寂しそうに見えた。
何か、あげられるものはないかな。
わたしは、汚れたエプロンの小さなポケットに手を突っ込んだ。
指先に、冷たくて丸い、硬いものが触れた。
つまみ出す。
角が少しだけ欠けた、青い硝子玉だった。
お屋敷を出るとき、「荷物は持てない」とお母様に言われたのに、どうしても置いていけなくて、こっそりポケットに忍び込ませてきた、わたしの一番の宝物。
光に透かすと、湖の水みたいに深い青色の中に、白い筋が渦を巻いていて、とても綺麗だった。
少しだけ、手の中でぎゅっと握りしめた。
あげたくないな、とちょっとだけ思った。
これしか持ってこられなかったから。
でも。
女の子の小さな指が、寒そうにピクピクと跳ねているのが見えた。
わたしは思い切って、その硝子玉を、女の子の膝の毛布の上へ、ことんと転がした。
「これ、あげる」
女の子が目を丸くした。
小さな指が恐る恐る伸びて、泥のついた手のひらで硝子玉を包み込む。
それから、暗がりの中に揺れる蝋燭の明かりへ、透かすように掲げてみせた。
青い光が、暗い荷車置き場の中にぽっと灯った。
「……きれい」
女の子の唇から、ふうっと小さな息がこぼれた。
その顔を見たとき、わたしの胸の中が、じんわりと温かくなった。
宝物をあげてよかった、と思った。
「でしょ?」
わたしは少しだけ胸を張った。お姉さんになったような気分だった。
そして、もっとこの子を安心させてあげたくて、いつものお母様の真似をして、にっこりと笑ってみせた。
「お父様がね、帰ってきたら、もっと甘いのくれるんだって」
お屋敷の戸棚には、王都から届いた綺麗な缶に入ったお菓子がたくさんあった。
お父様がお仕事から戻ってきたら、きっとまたあれを出してくれる。
だから、いま泣かなくてもいいんだ。
「……だから、だいじょうぶだよ」
ぜんぶ、もとに戻るから。
だから、怖くないよ。
そう教えてあげたかった。
──その瞬間だった。
男の子の喉から、ひっ、と短い息が漏れた。
わたしは目をパチパチとした。
男の子の顔が、見たこともない色にかわっていた。
怒っているんじゃない。
何かにぶたれたみたいに、目を見開いて、唇をわなわなと震わせて。
「……お兄ちゃん?」
男の子が、がくりと頭を落とした。
女の子の手を握りしめたまま、自分の膝の間に、顔を力任せに押しつける。
背中が、波打つように激しく揺れ始めた。
ぽた、と。
泥の上に、何かが落ちた。
ぽたり、ぽたり。
雨じゃない。
上から降ってきたんじゃない。
男の子の目から、大粒の涙が、地面の泥をポタポタと零れ落ちていた。
「う……っ、ぐ……ぅ……ッ」
声を出さないように、喉の奥を必死に締め上げているような、苦しそうな呼吸。
歯がガチガチと激しく鳴っていた。
男の子は、女の子の小さな手を両手で挟み込んで、額を擦りつけるようにして、ただ震えていた。
わたしは言葉がつまった。
どうして?
なんで泣いているの?
甘いお湯がいけなかったのかな。
美味しくなかったのかな。
それとも、角の欠けた硝子玉じゃなくて、綺麗なのが欲しかったのかな。
わたしの頭の中が、真っ白になった。
何か悪いことを言ってしまったのだろうか。
「だいじょうぶ」って言ったのが、うそつきだと思われたのだろうか。
お母様の言いつけを守れなくて、人をおこらせてしまったのだろうか。
「……お、兄ちゃん……?」
恐る恐る、膝を泥に擦りながら近づいた。
泣き止んでほしかった。
怒らないでほしかった。
そんなふうに、息もできないくらい泣かないでほしかった。
男の子は顔を上げなかった。
ただ、泣き声が漏れないように口を塞いで、骨が浮き出るほど強く、女の子の手を握り直しているだけだった。
腕の中の女の子は、何が起きたのか分からないようだった。
手の中の青い硝子玉を不思議そうに見つめ、それから、激しく震える男の子の頭に、空いたほうの小さな手をそっと乗せた。
「……お兄ちゃん、いたい?」
ぽつりと、女の子が訊いた。
男の子は答えず、ただもっと激しく肩を揺らした。
わたしは、立ち尽くすことも逃げ出すこともできなくなっていた。
どうしたらいいのか、全然分からない。
ごめんなさい、と言えばいいのだろうか。
それとも、お椀を持ってあっちへ行ったほうがいいのだろうか。
分からない。
分からないけれど、この男の子が、胸が張り裂けそうなくらい痛がっていることだけは分かった。
わたしは震える指先をそっと伸ばした。
泥と煤で汚れた、男の子の硬い上着の袖口。
その端っこを、小さな指で、恐る恐るつまんだ。
「……だいじょうぶ……?」
泣かないで、と言えなくて。
ただ、冷え切った袖を、小さく、小さく引っ張った。
柱の陰で、私はその光景を立ち尽くしたまま見ていた。
杖を握る右手に、爪が食い込む。
あの娘の父親を死地に置き去りにして生き延びた男が、私だ。
その私の娘が、父親を奪われた子供に、なけなしの甘い湯と硝子玉を差し出している。
残酷なまでの無知と、救いようのない善意。
「……ハインツ様」
後ろから老執事が声をかけてきた。
「……行くぞ」
私は顔を背け、痛む脚を引きずりながら歩き出した。
声をかける資格など、私には欠片もなかった。
・・・・・
・・・
門前の戦闘が終わっても、城の中が静かになることはなかった。
むしろ、本当の意味で忙しくなったのはそこからだった。
負傷者が次々に運び込まれ、治療所では寝台が足りなくなった。工兵は壊れた防柵の修復に入り、解体班は門前へ積み上がった魔獣の死骸を片端から切り開いている。
血抜き。皮の剥離。骨の分別。角、牙、腱、魔力器官。
利用できる部位はすべて回収する。
腐敗の早い内臓や汚染された部位は別に積まれ、焼却用の穴へ運ばれていった。
戦場では障害物だった死骸が、今度は資源へ変わっていく。
その日の夕刻。
城内の作戦室には、大きな机の上いっぱいに帳簿と地図が広げられていた。
ゲアハルトはその一冊を閉じると、黙って指先で机を叩いた。
「まず、良い話からしよう」
キースが椅子へ深く座ったまま顔を上げる。
「良い話があるんですか」
「門前で倒した魔獣の素材は、想定より状態が良い」
「それは良かった」
「お前が頭から叩き割ったもの以外はな」
「……先生も結構やってましたよ」
隣に座っていたアメリアが視線だけを向ける。
「私に振るな」
ゲアハルトは二人を無視して帳簿を開いた。
「皮革は防具補修へ回せる。大型種の骨は柵の補強材に使える。角と牙は加工すれば売却可能。魔力器官が無傷で取れた個体もある」
キースが身を起こす。
「魔晶石の代わりになりますか」
「そのままでは無理だ。だが加工すれば低純度核の代替にはなる」
完全な補填にはならない。
それでも、何もないよりは遥かにいい。
ゲアハルトは別の紙を広げた。
「問題は、使った量だ」
そこには今日一日の消耗が記録されていた。
矢。槍。治療薬。当て布。魔晶石。装備用の交換核。騎兵の飼料。城壁補修用の木材。さらに食料と水。
戦場では一瞬で消えていったものが、数字になって並んでいる。
キースはしばらく眺めた。
「……減ってますね」
「見れば分かる」
「いや、思っていたより」
「だから言っている」
ゲアハルトが睨む。
「戦いは、倒した数だけで勘定するものではない」
アメリアが帳簿を引き寄せた。
「矢が厳しいわね」
「三日分だ」
ゲアハルトが答える。
「今日と同じ密度の戦闘が続けば、三日で備蓄の大半を使う」
「槍は?」
「補修可能品を含めれば五日。ただし投擲で失う数が増えればもっと短い」
キースが少し気まずそうに目を逸らした。
「……《焔投げ》は便利なので」
「便利だから使うなとは言っていない」
ゲアハルトは淡々と返す。
「回収できる場所へ投げろと言っている」
アメリアが笑いを噛み殺した。
キースが横を見る。
「先生、笑いました?」
「笑ってないわ」
「絶対笑いましたよね」
「続けるぞ」
ゲアハルトの声で二人とも黙る。
「治療薬はさらに悪い。負傷者の数がこのまま増えれば、四日目には軽傷者への使用を制限しなければならん」
その言葉で、空気が少し変わった。
装備なら壊れても代えがある。槍も矢も作れる。
だが、人間はそうはいかない。
アメリアが地図へ視線を落とす。
「なら、正面で受ける回数そのものを減らすしかないわね」
ゲアハルトが頷いた。
「具体的には」
「今日作った死骸の防壁を伸ばす」
アメリアは門前を指でなぞった。
「ここから北西へ斜めに伸ばして、正面へ来る流れを最初から外へ逃がす。竜騎士は上空から群れの外側だけを叩いて、城壁へ寄せない」
キースも地図へ手を伸ばす。
「その場合、ここが細くなります」
「そうね」
「抜けようとするやつが集中する」
「だから、そこだけ地上戦力を厚くする」
「逆に他を薄くできる」
「そういうこと」
二人の指が同じ地点で止まった。
ゲアハルトがその様子を見ながら言う。
「兵を休ませられるか」
アメリアが即答する。
「できる。常に全員を壁へ置く必要がなくなる」
キースも続けた。
「前へ出る班と休む班を分けます。自分と先生も交代で前へ出れば、魔力消費も抑えられる」
「お前は休む側へ入れ」
「……なぜです」
「今日の装備損耗を見ろ」
「装備は関係ないでしょう」
「本人も損耗している」
「してません」
ゲアハルトとアメリアが同時にキースを見る。
少し間が空いた。
キースは諦めた。
「……多少は」
「多少ではない」
父親の声になっていた。
ゲアハルトはそれ以上責めず、今度は別の帳簿を開く。
「次に金だ」
キースが嫌そうな顔をした。
「まだありますか」
「当たり前だ」
戦争には金がかかる。それも、想像以上に。
兵への追加手当。職人への修理費。馬の飼料。薬。木材。鉄。輸送。魔晶石。そして失われた装備の補充。
ゲアハルトが数字を読み上げるほど、キースの表情が重くなる。
「現在の現金備蓄だけなら、通常運用で一月。今の戦時消費なら、その半分以下だ」
「素材を売れば?」
「売る先が正常ならな」
それが問題だった。
周辺地域も混乱している。商人がいつも通り来る保証はない。市場が開く保証もない。
いくら価値のある素材を抱えていても、買う者がいなければ金にはならない。
アメリアが言った。
「なら、売る前提で考えない方がいい」
「同意する」
ゲアハルトは頷いた。
「まず自分たちで使えるものを残す。余剰だけを換金対象にする」
キースは死骸処理の一覧を見る。
「皮は防具。骨は防壁。腱は弓や器具。魔力器官は術式核」
「肉は?」
「安全確認後、騎馬の飼料へ一部回せる」
ゲアハルトが答えた。
「人間用には?」
「勧めない」
「ですよね」
その夜、三人は遅くまで帳簿と地図を睨み続けた。
そして出した結論は単純だった。
勝つ必要はない。持たせればいい。
何日か、援軍が来るまで。補給が届くまで。
城が城として機能している限り、まだ負けではない。
作戦室の重い鎧戸の隙間から、冷え切った隙間風が吹き込み、卓上の蝋燭の炎を激しく揺らした。
ふと視線を向けたゲアハルトの手が止まる。
石枠の窓のへりに、白く湿った粒が音もなく積もり始めていた。
「……雪か」
アメリアが顔を上げ、小さく息を漏らした。
「早いな。例年より半月は早いぞ」
北方の冬は早い。だが、まだ秋の収穫の熱が街の片隅に残っているこの時期に降る雪ではない。大森林を押し流してきた異様な冷気が、気候そのものを狂わせている証拠だった。
キースも窓際へ歩み寄り、暗黒の夜空から舞い落ちる白い影を見上げた。
「……薄い雪です。夜明け前には止むでしょう」
その声には、何処か願望めいた響があった。
「止んでも道は死ぬ」
ゲアハルトの声音は、夜風よりも冷え切っていた。
「南の峠だ。ヴェリタスからここまでは、二駄日の距離。だが輜重隊が引いているのは重い野戦魔攻砲と矢の山だ。この寒気で峠が一度でも凍れば、急勾配で車軸が滑る。二日で着くはずの荷が、三日、四日と平気で延びるぞ」
卓上の数字を指先で叩く。
「最初から遅れる計算で配分を組み直せ。二日で届くと思うな」
その言葉を裏付けるように、翌朝、雪は一旦止んだものの、街道の泥濘は凍結と解氷を繰り返す最悪のぬかるみへと姿を変えていた。
翌朝から、防衛の形が変わった。
門前の死骸は片づけず、一部を意図的に残した。
工兵が骨と木材を組み合わせ、即席の壁へ変え、その外側に杭を打ち、さらに死骸を積む。
竜騎士は群れの外縁へ圧をかけ、魔獣を壁へ近づけない。
キースとアメリアは交代で前線へ出た。
キースが一刻戦えば、アメリアが代わる。
アメリアが戻れば、キースが出る。
無理に全部倒さない。流せるものは流し、逃がせるものは逃がす。そして、門へ向かうものだけを殺す。
一日目。
耐えた。
二日目。
壁が一度崩れた。
大型種三頭が重なって突っ込んできたためだ。
だが、キースが《戦吼砲》で群れを止め、アメリアが先頭を叩き潰した。その死骸を新しい壁へ組み込み、むしろ前より厚くした。
三日目。
矢の使用量が半分まで落ちた。
竜騎士が誘導を覚えたからだ。
殺すより、逸らす。その方が少ない矢で済む。
だが、兵たちの疲労が限界に近づいたその日の夕刻、鉛色の空が再び重く垂れ込めた。
初日のそれとは比べものにならない、重く湿った大粒の雪が、音もなく視界を白く染め始めた。
本格的な降雪。
「……来ないな」
胸壁の上で、冷気に白く濁る息を吐きながらアメリアが呟いた。
「……ええ」
キースの返答は重かった。
初日の夜の危惧が、最悪の形で的中していた。
ヴェリタスを出立してから今日で一週間。本来なら遅くとも今日、前線へ滑り込んでいなければならなかった補給の車列が、影も形も見えない。
南の山道が、完全に雪に呑まれていた。
四日目。
本格的な雪が視界を白く塗り潰した。
吐く息は真っ白に凍りつき、胸当ての鉄は触れるだけで皮膚が張り付くほど冷え切った。凍結した泥と雪の上で、人間も魔獣も足を滑らせ、血が混ざり合った赤黒い氷が街道を覆う。
しかし、負傷者の数は目に見えて減っていた。
誰が前に出て、誰が下がり、誰が槍を回収し、誰が死骸を壁へ寄せるか。
兵たちの身体に戦いの手順が染み込んでいたからだ。
しかし、備蓄の底は残酷に近づいていた。
その夜、ゲアハルトが帳簿に引いた赤線は、もはや猶予を許さなかった。
治療薬、払底。
魔攻砲を動かす中純度以上の魔晶石、残数七。
槍の替え木、明日午前で尽きる。
「……あと一日だ」
ゲアハルトの低い宣告が、凍てつく作戦室に落ちた。
「明日を越えて車列が届かなければ、外壁を破棄し、内郭へ下がる」
誰も異論を挟まなかった。
手順をどれほど磨こうと、振るう槍がなければ人は死ぬ。数字がそう告げていた。
あと五日。
あと四日。
あと三日。
残された猶予を削り………今を耐え忍ぶ。
そして五日目の昼。
降り積もった雪を踏みしめ、門を背に交代の息を吐いていた時だった。
上空から、鋭い破裂音とともに一本の赤い信号弾が上がった。
見張りの竜騎士が、雪雲の下で大きく旋回している。
城壁の兵が一斉にざわめいた。
キースも剣を杖代わりにし、強張った首を跳ね上げる。
遠く、雪煙に煙る南街道の尾根の向こうから、地鳴りのような轍の軋みが響いてきた。
双頭の鷲と大樹が意匠された、トレンス侯爵家の本軍旗だった。
「……来た?」
アメリアが目を細め、額の汗と雪を手甲で拭う。
白く霞む視界の先、先頭の騎馬が掲げている見覚えのある旗が風に翻った。
「車列だ!ヴェリタスの輜重隊が入るぞ!」
見張り台からの絶叫が、冷たい大気を突き破った。
雪の積もった街道を、何十頭もの輓馬が湯気を吹き上げながら進んでくるのが見えた。すべての荷車の車輪には、凍結した峠を乗り越えるために幾重にも荒縄が巻きつけられ、泥と氷が車軸までこびりついている。
荷馬車。護衛の重装騎兵。交換用の魔晶石を収めた鉛の箱。真新しいトネリコの槍束。消毒用の酢樽と油。麦袋と干し肉。
そして、工兵が担ぎ込む魔攻砲の替え材。
城壁の上から、割れんばかりの歓声が爆発した。
だが、街道の雪煙を割って現れたのは、それだけではなかった。
ゴォォォォ……と、空気を押し潰すような重低音が、頭上の雲海を震わせた。
兵たちが息を呑んで空を見上げる。
雪雲の裂け目から、黒い巨影がゆっくりと滑り出てきた。
一つ。
二つ。
三つ。
木製の竜骨を鋼の帯材で締め上げ、巨大な帆に王家の白百合とトレンス家の紋章を並べた、巨大な六つの船影。
その巨大な船腹の下、街道の車列の後背からも、王都の輜重隊が引く荷馬車が延々と続いている。雪に阻まれた地上部隊の頭上を飛び越え、さらにその地上へも追加の兵站を雪崩れ込ませていた。
キースは剣を握ったまま、立ち尽くしていた。
何日も、何日も、減り続ける数字だけを眺めてきた。
あと何日保つか。
あと何本、槍が残っているか。
あと何人、手当てができるか。
失われていくものばかりを数え、自分の命と引き換えに時間を買い叩いてきた。
その視界の先で、今。何千、何万という単位の物資が、雪の道を押し破って運ばれてくる。
隣で、アメリアが深く、深く息を吐き出した。
「間に合ったわね」
「……ええ」
キースの口元が、わずかに緩んだ。
張り詰めていた奥歯の力が抜け、小さく笑った。
背後から、長靴が雪を踏みしめる重い足音が近づいてきた。
「安心するのはまだ早いぞ」
ゲアハルトだった。手には、真新しい受け入れ用の点検台帳が握られている。
二人が同時に振り返る。
「荷を降ろす人間がいる」
キースの笑顔が、一瞬で引きつった。
「……父上」
「何だ」
「今くらい喜ばせてください」
「荷下ろしが終わり、帳簿の数字が合うまでが補給だ」
老侯爵は表情を崩さず、台帳の角でキースの肩を小突いた。
「空船の綱を取れ。滑車を架け、馬車から城内へ荷を運び込め。魔晶石の検分はお前がやれ」
アメリアが小さく肩をすくめ、大鋸を工兵へ放り渡した。
「行きましょう、キース」
「先生まで……」
「物資が来たのよ。届いたものは数えなきゃ使えないわ」
「……はい」
重い軋み音を立てて、跳ね橋が下ろされた。
五日間、泥と雪に塗れて自分たちの盾となってくれた死骸の壁の脇を抜け、最初の輜重車が城門を潜り抜けていく。
続いて二台目、三台目。
頭上では空船から太い係留索が投下され、工兵たちが雪煙の中でロープを巻き取り機へと結わえ付ける。
防衛は終わっていない。
森の奥の災厄が去ったわけでもない。
だが、昨日までとは決定的に違っていた。
キースは雪を踏み抜き、次々と門内へ運び込まれてくる真新しい槍の穂先と、青く澄んだ魔晶石の木箱を見据えながら、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
これで、保つ。
今度は……この手で、前へ進める。