《追憶》 Ⅻ 龍
城内の中庭では、空船へ負傷者を運び上げるための昇降網が軋んだ音を立てていた。
「足元に気をつけろ!担架を斜めにするな!」
「次、第三治療所からの重傷者四名!搭乗札の番号順に通せ!」
「子供を先に乗せてくれ!荷物は後だ、手荷物だけ持て!」
届いたばかりの補給物資が次々に荷解きされ、油紙で包まれた木箱から新しい白麻の包帯や薬瓶が取り出されていた。空船の甲板へ通じるタラップの脇では、書記が震える手で搭乗者名簿に受領印を押し、誘導兵が避難民の背中を押して船内へと送り込んでいる。
城壁の上でも、工兵たちが届いたばかりの魔晶石を砲架の装填部へ嵌め込み、歪んだ防柵に新しい角材を打ち付けていた。
数日間、減り続ける備蓄と負傷者の山に押し潰されていた城内に、ようやく血の巡るような活気が戻りつつあった。
泥に塗れた包帯を替えられた兵が、乾いた喉に新しい水を流し込み、深い息を吐く。
これなら、保つ。
王都からの船団と街道の輜重隊が繋がっている限り、防衛線は維持できる。
誰もがそう信じ、それぞれの持ち場で手を動かしていた。
東の空が、茜色から鮮やかな朱へと染まり始めていた。
針葉樹林の黒い稜線を切り裂くように、朝焼けの光が城壁の突端を照らし出す。
その時だった。
ず、と。
城塞の基礎を成す岩盤そのものが、真下から短く揺れた。
地震ではない。
揺れは一度で収まらず、数拍の間をおいて、再び同じ重さで大地の底を突いた。
ず、ん。
治療所の天幕で、薬瓶の触れ合う硬い音が微かに鳴った。
空船のタラップを上がっていた避難民の足が止まる。
工兵が振り下ろそうとした金槌の手を止め、怪訝そうに足元の石畳を見下ろした。
「……何だ?」
「落石か?北の崖が崩れたのか?」
誰かの呟きは、重なる震動にかき消された。
ず、ん。
ず、ん。
規則正しい。
歩行の音だった。
途方もない質量の何かが、一歩、また一歩と、大地を踏みしめて近づいてくる音。
森のざわめきが、突如として消えた。
城壁の外で散発的に響いていた魔獣の唸り声も、死骸を漁る羽音も、吹き抜ける風の音すらも、まるで世界から音そのものが抜き取られたかのように途絶えた。
城壁の最上段にいたキースが、手摺りの縁を掴み、北東の朝焼けへ視線を向けた。
隣に立つゲアハルトも、アメリアも、何も言わずに同じ方向を凝視していた。
朝焼けの逆光の中。
山並みの向こうから、影が立ち上がってきた。
最初、それは山そのものが隆起したように見えた。
あるいは、黒い嵐の雲が地を這って流れてきたのかと思われた。
だが、違った。
影には、明確な輪郭があった。
四つの太い脚。
地を這うように長くしなる尾。
背に折り畳まれた、二対──四枚の長大な翼。
体高だけで二十馬身を超える。
城塞都市ヴァルデシアの、何代にもわたって人間が積み上げてきた巨大な主外壁すら、その前足の関節ほどの高さにしかならない。
そして、その皮膚の色が、朝の光を浴びて露わになった。
白だった。
泥にも、返り血にも、煤にも染まっていない。
冷え切った鉱物のように、無機質で、滑らかな、圧倒的な白。
「……あ」
城壁の上で、誰かの喉から意味にならない音が一筋だけ漏れた。
悲鳴ではなかった。
恐れるための言葉も、逃げるための判断も、人間の思考の枠組みを完全に超えていた。
おとぎ話。
聖堂の天井画。
建国神話の擦り切れた古文書。
子供を寝かしつけるための口承の片隅にしか存在せず、この世の誰も実在を信じてなどいなかったはずの輪郭が、ただそこに実体を持って立っていた。
龍だった。
咆哮はなかった。
威嚇も、怒りも、敵意すらもない。
龍はただ、歩いていた。
その足元で、数千の魔獣たちが狂乱して四方へ散っていた。
昨日まで城壁を埋め尽くし、人間たちを絶望の淵へ叩き落としていたはずのスタンピードの群れが、龍の爪先が森を踏み荒らすたび、まるで草むらを歩く人間に驚いて飛び出す羽虫のように、蜘蛛の子を散らして逃げ惑っている。
逃げ遅れた巨猪の群れが、龍の進路を塞ぐ形になった。
龍は止まらない。
ただ邪魔な小石を払うかのように、前足をわずかに払った。
それだけだった。
数十人がかりでようやく仕留めるはずの巨獣が、紙屑のように数百歩彼方へ弾き飛ばされ、大木を十数本へし折りながら肉塊となって森の奥へ叩きつけられた。
龍はその死骸を一瞥すらしない。
踏み潰した感覚すら持ち合わせていない足取りで、ただ真っ直ぐに、朝の光の中を進んでくる。
「……嘘だろ」
城壁の上で、騎士の手から鉄の長槍が滑り落ちた。
石畳に当たって甲高い金属音が響いたが、誰もそれを咎めなかった。
中庭で負傷者を抱えていた兵も、タラップの上で立ち止まった避難民も、全員が顔を上げ、城壁の向こうからせり上がってくる白い山を見上げていた。
誰も叫ばない。
誰も走らない。
逃げる場所など、この世界のどこにも存在しないことを、その巨躯を見た瞬間に全員の身体が理解してしまっていた。
冷たい朝の風が吹き抜ける。
龍の首が、ゆっくりと持ち上がった。
城壁を見下ろす位置に、巨大な頭部が静止する。
その瞳には、城も、人間も、空船すらも、塵一つ映っていなかった。
「──全員、耳の穴をかっぽじって聞け!」
静寂を叩き割ったのは、老いた司令官の怒号だった。
ゲアハルトが腰の鞘を鳴らし、城壁の天端を大股で踏み出した。恐怖で足をもつれさせ、石畳にへたり込んでいた騎士の胸当てを、革の手袋で乱暴に掴み上げて立たせる。
「腰を抜かしている暇があるなら槍の柄を握れ!立て!目を開けろ!」
叫びながら、ゲアハルトは城壁の最前線、胸壁の狭間へと身を乗り出した。兵たちの視線が、白い怪物から、泥と煤にまみれた背格好の司令官へと引き戻される。
「伝令!係留索を解いた第一船、第二船へ手旗を振れ!」
「は、はい!」
「積載途中の荷はすべて切り離せ!人員を抱えたまま、可能な限りの全速で南へ高度を取らせろ!街道の上空を抜けさせろ!」
すでに中庭の石畳を離れ、数十歩の高さまで浮き上がっていた二隻の輸送空船へ向けて、信号旗が激しく振られた。船体の推進翼が青白い火花を散らし、二隻の巨大な影が、龍の進路から逃れるように南の空へと舳先を向け始める。
ゲアハルトは視線を中庭へ叩き落とした。
「残りの空船への搭乗は全面中止だ!タラップを跳ね上げろ!」
「し、しかし閣下、まだ治療所の負傷者が──」
「空へ逃がせば標的になる!あの巨躯の風圧一撃で落とされるぞ!」
ゲアハルトは即座に怒鳴り返し、中庭の指揮官を指さした。
「南門を開放しろ!徒歩と馬車に切り替える!軽傷者は重傷者の担架を担げ!荷物を持とうとする奴は置いていけ、命だけを南の街道へ叩き出せ!」
容赦のない指示が飛ぶごとに、凍りついていた人間の身体に無理やり熱が注ぎ込まれていく。中庭では悲鳴と怒声が入り混じり、タラップから引き剥がされた避難民と負傷兵が、南門の暗がりへ向けて雪崩を打って走り始めた。
「主砲座!第二堡塁!西防区!」
ゲアハルトは再び城壁の長手方向へ向き直り、残る三基の魔攻砲座を順に睨みつけた。
「冷却弁を全閉、最大出力で固定しろ!届いたばかりの魔晶石を全部ぶち込め!野戦魔攻砲は城壁の窪みへ引き上げろ、破城槍は巻き上げ機を限界まで絞れ!頭を狙うな、前足の関節を狙え!」
「了解!」
「核の装填、急げ!」
石畳の上を砲術兵たちが走り、冷えた金属と魔晶石が擦れ合う高い音が響き渡る。
その喧騒の中、ゲアハルトの背後に二つの足音が並んだ。
「キース。アメリア」
ゲアハルトは龍から目を離さないまま、低く言った。
「下がれ」
「断ります」
キースの返答は、息を吸うよりも早かった。手元で愛剣の柄を固く握り直し、白く煙る巨体を睨み据えている。
「お前たちの仕事はここまでだ。馬を引かせろ。南門の避難隊の後尾につき、殿を務めろ」
「ここに父上を残して引けるわけがないでしょう」
「儂の命令だ」
「領主の権限で拒否します」
「……この親不孝者が」
ゲアハルトは舌打ちし、今度は隣のアメリアを睨んだ。
「アメリア。教え子の首根っこを掴んで引っ張っていけ」
「無理ね」
アメリアは短く鼻を鳴らし、腰の得物の留め具を外した。
「あの子に『退くな』と教えたのは私よ。それに、こんな面白くもない死に場所に、昔の馴染みを一人で置いていくほど薄情じゃないわ」
「揃いも揃って、引き際を知らん馬鹿ばかりだ」
ゲアハルトは吐き捨てるように言ったが、それ以上は二人を追い払おうとはしなかった。
彼の視線は、城壁の内側、中庭の端に低空で静止している一隻の空船へと向けられていた。
王都の補給船団を護衛してきた、唯一の武装戦闘艦。
その装甲甲板の中央に、異様な威容を放つ鉄の塊が据えつけられていた。
竜撃砲。
十馬身に及ぶ巨大な術式杭。
かつて王国の建国期、飛翔する大型竜を撃墜するためだけに設計された、失われつつある規格の対竜兵器。
「……あれを使うおつもりですか」
キースがその視線を追って呟いた。
ゲアハルトの表情は、鉄のように硬かった。
「あれしか通らんだろう。城壁の砲も槍も、せいぜい奴の足止めにすらならん余興だ。……だが、射程が短すぎる。空船ごとあの怪物の鼻先、一駆けの距離まで肉薄しなければ当たらん」
それは、自殺行為に等しかった。
ただ歩いているだけで周囲の森林を押し潰し、巨獣をゴミのように撥ね飛ばす質量の前に、木と鉄でできた空船を晒すということだ。
「甲板の固定器を外させろ!」
ゲアハルトが喉を絞って怒鳴った。
「護衛艦へ信号!竜撃砲の準備を開始せよ!全砲座、狙いを怪物の右前脚に固定──合図を待て!」
朝焼けが、天を真っ赤に染め上げていく。
大地を揺るがす歩行音が、城壁の前、金響き一つの距離まで迫っていた。
・・・・・
・・・
護衛艦へ信号が送られ、船首の竜撃砲がゆっくりと旋回を始める。
その騒音の片隅で、ゲアハルトの眉がかすかに動いた。
城壁の隅、無造作に積み上げられた麻袋と木箱の影で、キースとルドルフが対峙している。
言い争っているというよりは、ルドルフが一方的に怒声を叩きつけていた。
「──馬鹿を言うな!」
怒鳴り声が、砲架を叩く金槌の音を越えて届いた。
ゲアハルトは目を細める。
キースの手には、届いたばかりの高純度魔晶石が一つ握られていた。
魔攻砲用。
それも、通常の兵士が個人術式へ転用することなど想定されていない、高出力の石だ。
「何を考えている」
喉の奥で呟いた瞬間、息子の手元に光る細い線が見えた。
導魔線が愛剣の柄頭から刃の根元へ向けて、幾重にも荒々しく巻き付けられている。
「……なるほどな」
思わず乾いた声が漏れた。
隣に立つアメリアが、得物の留め金を弾きながら横目で見てくる。
「何がで?」
「いや」
ゲアハルトは答えず、キースの手元を見つめていた。
砲を撃つための力を、剣へ流す。
本来その力を受け止めるはずの巨大な術式盤も、冷却機構も、分厚い魔術回路もない。
ならば当然、その代わりを務めるのは術者自身だ。
無茶などという言葉では到底足りない。
ゲアハルトは視線を正面、朝焼けを背負って進み続ける白い巨体へと戻した。
城壁の魔攻砲も、巻き上げ機を軋ませる破城槍も、あの前足の爪先をかすめる小石にすらなるまい。護衛艦の竜撃砲とて、分厚い白鱗をどこまで穿てるか定かではなかった。
ならば、誰かが無茶を背負うしかない。
「……親子だな」
自嘲の笑みが、冷え切った口元をわずかに歪めた。
何をしようとしているのか、理屈で組み立てるより早く、息子の選んだ筋道だけが腑に落ちていた。
足りないなら、別のものを繋ぐ。
器が耐えきれないなら、自分の骨ごと焼き切って代償にする。
その時、頭上の大気が裂けるような風切り音が落ちてきた。
巨大な風圧が城壁の天端を叩き、アメリアが跳ねるように顔を上げる。
「ゼフィロス!」
飛竜が城壁すれすれまで高度を落とす。
キースの足が迷いなく石畳を蹴る。
「キース!」
ゲアハルトの喉から、反射的に名が飛んだ。
だが、息子は一度も首を巡らせなかった。
空中でアメリアの手首を掴み、そのまま飛竜の鞍の後背へと身を躍らせる。
二人の重みを乗せた飛竜は、不満のような咆哮をひとつ残し、朝焼けの中を進む白い山へ向けて、垂直に近い角度で天へと駆け上がっていった。
ゲアハルトは抜身の長剣を鞘に納め、カチリと硬い金具の音を鳴らした。
止めたところで聞くはずがない。昔からそうだった。
そしておそらく、自分も同じだった。
「……面倒なところばかり似おって」
足音がひとつ、石畳を踏んで隣に並んだ。
「誰に似たんだろうな」
ゲアハルトは鼻を鳴らし、革手袋の甲で口元を拭った。
「少なくとも儂ではない」
「鏡を持ってきてやろうか?」
「割るぞ」
ルドルフは肩をすくめ、深い溜息とともに空を見上げた。
飛竜はすでに白龍の右側面、巨大な四枚翼の死角へと回り込もうとしている。
その遥か下、中庭から浮上した護衛艦が、軋む竜骨を震わせながら、竜撃砲の穂先がゆっくりと持ち上がった。
風が吹き抜け、朝焼けの赤い光が二人の影を長く石畳に引く。
「ルドルフ」
「何だ」
「あれが城へ向けて、本気で何か吐いたらどうなる」
ルドルフの横顔から、軽口の残滓が削ぎ落とされた。
垂れ下がった眉の下で、老いた魔導師の目が冷たく細まる。
「……何か、とは?」
「分かっているだろう」
わずかな沈黙が落ちた。
遠くで、白龍の巨大な胸郭がわずかに持ち上がり、沈む。
それだけで、大気全体が波打ち、城壁の裂け目から小石がパラパラと零れ落ちた。
「……持たんだろうな」
ルドルフの指が、手元の杖を無意識にまさぐっていた。
「ああ」
「城壁も結界も関係ない。規模次第じゃ街ごと消える」
「《返照》なら?」
「何を返す気だ」
ルドルフの声が低く尖る。
「城塞の結界全部を繋いでも、受け止められるか怪しい。そもそも《返照》は、受けた術を別方向へ流すためのものだ。術式の許容量を越えたものを受ければ、返す以前に核が潰れる」
「核さえ持てばいいのか」
ルドルフの手が止まった。
ゆっくりと首が巡らされ、ゲアハルトの顔を射抜く。
「……何だと」
ゲアハルトは答えなかった。
視線の先では、キースの剣に固定された魔晶石が白い光を放っている。
本来なら魔晶核と術式盤が受け止める力を、あの馬鹿は、自分の身体ごと使って受け止めようとしている。
足りない器を、別の何かで補う。
魔法の基本。絶対の理。
天秤の片皿に巨岩を載せるなら、もう片方にも同じ重さを積まねば傾いて落ちる。無から生まれる力などない。引き出した熱の分だけ、どこかが冷え、放った衝撃の分だけ、己の肉が裂ける。道具で払えぬ負債なら……骨と命で埋めるしかない。
ゲアハルトは右手を、胸当ての内側へと滑り込ませた。
革の奥、長年肌身離さず収められていた、古びた銀黒色の短杖。
トレンス家に代々受け継がれてきた《返照》の触媒。
指先がその冷え切った金属の肌に触れた瞬間、古傷の残る手のひらに、微かな痛みが走った。
「ルドルフ」
「……おい」
長い付き合いだ。だからこそ、その声音には疑念ではなく、確信に近い険しさが滲んでいた。
「……まさかとは思うが」
「まだ何も言っておらん」
「お前が何も言わない時ほど碌でもないことを考えている」
ゲアハルトは短く息を吐き、城壁の縁まで大股で歩み寄ると、親指と人差し指を唇に当てて鋭い指笛を鳴らした。
間を置かず、城内の厩舎区画から重い羽ばたきが返ってくる。
灰色に煤けた翼が建物の屋根を越え、白煙と煤にまみれ、あちこちの風切羽を欠いた老いたグリフォンが、巨体を軋ませながら城壁の天端へと滑り込んできた。
「ハーゲン」
低く呼ぶと、老獣は喉の奥を鳴らし、ゲアハルトの足元へ重い前足を下ろした。
荒い鉤爪が石畳を削り、年老いて白く濁り始めた金色の瞳が、主人の顔を見上げる。
長い年月、数え切れない戦場を共に駆け、幾度も主の背を守ってきた老獣の首筋に、ゲアハルトは革手袋を外した素手を置いた。
固く、冷えた羽毛。
その奥にある、力強い体温と拍動。
ハーゲンは主の手のひらの感触を確かめるように、静かに額を押し当ててきた。
ルドルフが、その光景を立ち尽くしたまま見つめていた。
伸ばしかけた手が宙で止まり、やがて力なく落ちる。
長い沈黙が落ちた。
「……三つか」
ぽつりと、掠れた声がこぼれた。
ゲアハルトは老獣の首を撫でたまま、振り返らない。
「人間二人と、グリフォン一頭」
「まだ何も言っておらんと言っただろう」
「足りると思うか?」
今度は、ゲアハルトが言葉を止めた。
二対の視線が、揃って北東の空へと向けられる。
朝焼けの朱を浴びて進む、白き災厄。
歩みを止めることすらなく、人間という矮小な存在を視界に留めることすらなく。
あれがもし、邪魔な羽虫を払うように一息でも熱を吐き出せば……この城塞都市に生きる数万の命諸共、跡形もなく消え失せる。
「足りるかどうかではない」
ゲアハルトは短杖を胸元から引き抜き、冷たい石畳を強く踏みしめた。
「足らせる」
ルドルフは天を仰ぎ、乾いた両手で顔を覆った。
深い息が、指の隙間から漏れる。
「……そう言うと思った」
「嫌なら降りろ。避難の馬車はまだ南門を出きっておらん」
「馬鹿を言え」
ルドルフは手を下ろし、自嘲に歪んだ笑みを浮かべながら、腰の魔導書を荒々しく引き抜いた。
「三十年も付き合って、最後だけ他人に押しつけられるか」
その瞬間、大気が激しく震動した。
至近の空で、護衛艦の竜撃砲が火を噴いた。
・・・・・
・・・
城壁の上には、届いたばかりの木箱がまだ封も切られぬまま雑然と積み上げられていた。中身は魔攻砲用の高純度魔晶石だ。大人の拳ほどの大きさしかないにもかかわらず、その内部では濃密な乳白色の光が鼓動のように揺らめいている。魔力そのものを溜め込んでいるのではない。石の奥深くに、極限まで張り詰めた魔力の波長が封じ込められているのだ。外部からわずかな火を灯せば、その力が一気に周囲の大気を巻き込み、術式の威力を底なしに跳ね上げる。だがそれは、頑丈な砲身と強固な術式盤を介して初めて御せるものであり、生身の人間が直に触れて扱うような代物ではなかった。
「……それを使う気か」
魔法師団団長の声が低く沈んだ。キースは無言のまま木箱へ手を伸ばし、その石を一つ拾い上げた。掌に乗せただけで、皮膚の下を通る魔力回路が焼けるようにざわめき、微細な痺れが肘のあたりまで駆け上がる。
「使います」
「何にだ」
「《閃断》へ」
師団長の眉が跳ね上がった。
「馬鹿を言うな!」
「《剛剣》も重ねます」
「ますます悪い!」
怒号が城壁の石敷きに反響した。
「その石は魔攻砲の分厚い盤を鳴らすためのものだ。生身の回路へ直結してみろ、石の荒れ狂う力に身体中の回路が引きずり回されるぞ!」
「承知しています」
「承知していて言っているならなおさら性質が悪い!」
キースは答えず、城壁の外、白くかすむ朝焼けの地平へと視線を向けた。
荒野を、白龍が歩いていた。
その巨大な前脚には、城壁から放たれた破城槍が一本、深く突き刺さっている。だが、ただ突き刺さっているだけだった。鋼鉄の杭は確かに強固な鱗を砕いて肉に達していたが、龍は血の一滴すら気に留める様子もなく、歩調を乱しさえしない。
「ルドルフ……いや、クライン師団長」
「……何だ」
「石を」
「……本気なのか」
「本気です」
「それで、あの化け物を斬れるとでも思っているのか」
キースは息を止め、ほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
「いいえ」
ルドルフが苦渋に満ちた目を細める。
「なら、何をする気だ」
「気を引きます」
「……それだけのために、命を捨てるというのか」
「それだけでも、今の戦況では決定的な意味を持ちます」
キースは腰の長剣を抜いた。度重なる防衛戦を経て、刀身にはすでに無数の細かな傷が刻まれている。
《閃断》は、切っ先の先そのものを伸ばし届かせる術式だ。
対する《剛剣》は、刃が触れたものの結びつきを強引に断ち切る向きへと押し込める術式である。
本来ならば決して同時に使うものではない。《閃断》で間合いの外から切り裂き、《剛剣》で強固な装甲を押し切る。異なる理を持つ二つの術式を無理やり重ね、さらにそこへ砲用の石を噛み合わせるなど、正気の沙汰ではなかった。
「固定具を」
キースが短く促すと、ルドルフは激しく舌打ちした。だが、その手はすでに職人の正確さで動いていた。
「三息だ」
「何がです」
「石を導線に噛ませてから、お前の身体が負荷に耐え切れなくなるまでの猶予だ。三息を超えて維持すれば、剣が砕けるより前にお前の神経と魔力回路が焼き切れる」
「十分です」
「貴様らは昔から、その言葉の使いどころを根本から間違えている」
仮設の導魔線が、剣の鍔元へ幾重にも巻き付けられた。その中心へ、高純度魔晶石が力づくで固定される。
起動。
石が鋭い高鳴りを上げた瞬間、刀身の周囲の大気が陽炎のように揺らめいた。剣そのものが硬く、あるいは鋭くなったのではない。刃の周囲わずかな間合いにおいてのみ、触れるものすべてが裂かれるという結果だけが、絶対の理として押し通されているのだ。
キースが一歩、石の胸壁の縁へ踏み出した。
「キース!」
頭上から突風が吹き下ろし、重々しい羽音が響いた。アメリアの乗る飛竜だった。
「飛び乗りなさい!」
「先生!」
「早く!」
キースは城壁の端を強く蹴り、差し伸べられたアメリアの手を掴んだ。引き上げられると同時に、飛竜は翼を激しく打ち振るって急上昇し、龍の側面を突く軌道で旋回に入る。
「一撃だ!」
風圧のなか、アメリアが喉を裂かんばかりに叫ぶ。
「深追いは許さない!」
「分かっています!」
「今のその返事、昔から一度だって信用できた試しがないわ!」
飛竜が風を切り、白龍の首元へ回り込んでいく。
届かせる。
そう確信した、まさにその刹那だった。
上空に待機していた護衛艦の竜撃砲が轟然と火を噴いた。耳を聾する砲声とともに、十馬身近い巨大な術式杭が朝の空気を引き裂き、龍の胸元へ直撃する。凄まじい衝撃が広がり、硬質な白い鱗が四方へ弾け飛んだ。巨躯の首が、ほんの僅かに揺らぐ。
城壁の上から、喉を引き裂くような歓声が上がった。
「通った!」
「竜撃砲が通ったぞ!」
間髪を容れず、城壁に据え付けられた魔攻砲や、届いたばかりの野戦魔攻砲が、一斉に唸りを上げた。火炎の奔流、凍てつく氷槍、大気を固めた不可視の衝撃波。持てる限りの術式が、白い巨躯めがけて間断なく叩き込まれる。
白龍の足が、止まった。
ほんの一瞬。
そして龍は、顔の周りを飛び回る小虫を鬱陶しがるかのように、背の四枚の翼をゆるやかに広げた。
「──ッ!伏せ…」
誰かの絶叫と同時に、ただ一度の羽ばたきが放たれた。
それだけで、空が横向きに崩壊した。
避難民を満載し、全速力で南へ離脱しつつあった第一輸送船が、横殴りの暴風をもろに受ける。装甲をきしませ、術式翼が紙のように引き裂かれ、甲板から無数の人影が虚空へと放り出されていく。後続の第二船の被害はさらに惨どかった。船首を上から巨大な槌で叩き潰されたように風圧を浴び、浮力を一瞬で喪失した船体は、なす術もなく緩やかに高度を落とし、地上の深い森林の中へと消えていった。
そして、先ほど竜撃砲を撃ち放った護衛艦。龍の太い尾が、しなるように揺れた。
狙い澄ました一撃ですらない。ただ歩みを進めるついでに、邪魔な塵を払い落とすような、ぞっとするほど何気ない一動だった。
次の瞬間、頑丈を誇った武装船は中央から消失していた。
挽き割られた木材、ひしゃげた鉄板、吹き飛んだ砲架、そして人の肉体。すべてが一瞬で細かな破片へと破砕され、赤い飛沫となって虚空へ撒き散らされた。
歓声は完全に死に絶え、城壁の上を冷酷な沈黙が支配した。龍は自らが粉砕した残骸を一瞥することすらなく、ただ歩みを再開している。
竜撃砲が鱗を剥ぎ取った、生々しい肉の露出部が視界の端に捉えられた。届く。一撃を叩き込めば、首の肉を深く断ち切れる。
キースは肺腑の空気を静かに吐き出した。
龍の頭部が動いた。
白い巨頭が、緩慢な動きで城壁のほうを向く。巨大な顎門がわずかに開かれ、その暗がりの中で、小さな赤い光が灯った。
龍にとってそれは、口腔の奥で弾けた小さな火種に過ぎないのかもしれない。だがその瞬間、城壁を囲む大気が一斉に悲鳴を上げるように震え始めた。風に舞う砂塵、足元の石敷き、城門を補強する分厚い鉄、木造の監視櫓に至るまで、その場にあるすべてのものが耐えきれず、熱源へと引き寄せられ、ただ灰燼へと還る運命を押しつけられようとしていた。
ルドルフの顔から血の気が引いた。
「……あれは、火じゃない」
キースにも即座に理解できた。龍は熱風や火球を吐き出そうとしているのではない。自らの進路上にある空間そのものを、丸ごと「燃え盛る世界」へと塗り替え、不可逆の破滅へ押し込もうとしているのだ。
視界の下方で、世界のすべてを圧殺するほどの凶悪な赤が膨れ上がった。
龍の顎門から、火炎が放たれていた。
もはや火炎弾などという生易しい塊ではない。大気そのものが赤熱し、周囲の光景を歪ませ、あらゆるものを呑み込む熱の津波となって、一直線に城壁へと向かっていた。
その城壁の向こうには、ヴァルデシアの街並みが広がっている。
まだ逃げ遅れた無数の民がひしめく街並み、手当てを待つ負傷兵で溢れかえる臨時治療所、脱出の要である南門。直撃すれば、城壁ごと全てが消し飛ぶ。
キースの視線が、龍の首から、眼下を突き進む火炎の奔流へと切り替わった。
「キース!」
アメリアが叫ぶ。
「右へ舵を!」
「何を言って──」
「街が焼ける!」
一瞬、アメリアは息を詰まらせた。そして次の瞬間には、血を吐くような気迫で手綱を引き絞り、飛竜の頭を強引に巨大な熱の津波の側面へと向けさせていた。
「一度だけよ!」
「十分です!」
「だからその言葉を信じるなと──!」
キースは飛竜の背を蹴るようにして立ち上がり、両手で柄を握りしめて剣を振り上げた。
鍔元の魔晶石が臨界点を超えて白熱する。《閃断》と《剛剣》、相反する二つの術式が、石の暴威によって力づくで重ね合わされた。
巨大な光の刃が現れたわけではない。ただ、刃の軌道に沿って、空間そのものに「ここを境として、事象は二つに分かたれる」という断絶が刻み込まれる。
キースはその見えざる刃を、迫り来る火炎の側面へ、渾身の力で斜めに叩き込んだ。
「曲がれぇぇぇッ!」
衝突の瞬間、世界のすべての音が消え去った。
極彩色の赤い奔流が、一瞬だけ左右に裂ける。キースの放った一撃が、火炎の芯を貫く魔力の結節点へ強引に割り込み、炎の連鎖を力づくで引き裂いたのだ。完全に消し去ることなどできない。それでも、空間を呑み込んでいた破滅の進路が、右へと僅かに動いた。一分、二分、三分。城壁の直撃進路から、わずかにその軸線が逸れる。
「……やった」
アメリアが息を呑んだ。
だがその直後、刀身の表面に乾いた破断音が響いた。亀裂が一本、二本、三本と瞬く間に走り抜ける。
「キース!」
耐えきれなくなった剣が、半ばから甲高い音を立てて砕け散った。同時に、限界を迎えた魔晶石が白い閃光を放って爆散する。
「ぐっ……!」
吹き荒れる爆圧に飛竜が激しく煽られ、アメリアの身体が鞍から浮いた。右脚が固定用の鞍金具へ激しく打ち付けられる。
『ぐぁぁぁあ!』
ゼフィロスもまた翼の皮膜を熱波に焼かれ、悲鳴のような鳴き声を上げながら大きく高度を失っていく。
それでも、火炎は逸れた。城壁を消滅させるはずだった絶対の軌道から、わずかに外れた虚空を薙ぎ払う。
そして、その逸れた軌道の先で、待っている影があった。
灰色に煤けた老いた翼を広げる一頭のグリフォン。
その背には、重厚な甲冑を纏ったゲアハルトと、杖を構えたルドルフの姿があった。
「父…上……?」
高度を落とす飛竜の背から、キースの喉が掠れた声を絞り出した。
ゲアハルトはこちらを一切見ていなかった。迫り来る火炎の津波だけを、氷のように冷徹な目で見据えている。
「ルドルフ」
「ああ」
「今だ」
「……まったく」
ルドルフが、吐き捨てるように笑った。
「どいつもこいつも、親子揃って馬鹿ばかりだ」
「今さら気づいたのか?」
「三十年前から知っている!」
ゲアハルトは無言で家宝を掲げた。古びてくすんだ、銀黒色の短杖。トレンス家に代々受け継がれてきた、城塞防衛の最終術式具《返照》である。本来ならば城塞の分厚い力場に接続し、街に向けられた大規模な攻撃魔法を受け止めて別方向へと跳ね返すための基準杖だ。
短杖が青白い光を帯び、空中へ巨大な術式の反射面が展開された。キースが軌道を曲げた火炎弾を、真正面から受け止める。
激突。火炎の先端が反射面にぶつかり、一瞬だけ進行を止めた。
だが次の瞬間、ルドルフの顔が苦悶に歪んだ。
「返せんぞ!」
「分かっている!」
《返照》の術式面が、軋みを上げて歪んでいく。受け止めた威力を瞬時に別の向きへ受け流すのがこの術式の本質だ。だが、龍の放った火炎はあまりにも強大すぎた。術としての格が、現象としての厚みが桁違いであり、人間の編んだ術式程度では、その力筋を捉えることすら叶わない。
反射面が、火炎の圧倒的な質量そのものに押されて後退していく。
「十息!」
ルドルフが叫んだ。
「いや、八息も持たん!」
「十分だ!」
「貴様までその言葉を使うな!」
2人の手がほとんど同時に動いた。
偏向。
分流。
一つだった火炎の奔流を二つへ裂く。
保持、流路固定。
さらに四つ。
拡散抑制、術理補正。
八つ。
十六。
細く分けられた灼熱の流れを、それぞれ異なる方向へ逸らし、空中へ大きく迂回させる。
空中に無数の幾何学術式が次々と重ねられていく。だが、それでも足りない。絶望的なまでに、術を支える根底の力が不足していた。
ルドルフが、横のゲアハルトをちらりと見た。
「どう、足掻いても持たんぞ……!」
「ああ……!」
「どれほど重ねようと、受け止める核が耐えられん!」
「だろうな!」
喋りながらも、細く分けられた灼熱の流れを、それぞれ異なる方向へ逸らし、空中へ大きく迂回させる。
一条を上へ。
一条を西へ。
一条を城壁の外周へ沿わせ。
一条を再び高空へ巻き上げる。
完全に逃がすのではない。
捨てるのでもない。
ただ、戻ってくるまでの距離を伸ばす。
一息でも長く。
半息でも長く。
そのわずかな時間を稼ぐために、龍の劫火を空いっぱいへ引き延ばしていく。
二人は一瞬だけ、互いの顔を見た。それだけで十分だった。泥沼の戦場で、凍てつく城壁で、あるいは祝宴の酒席で、戦友の葬列で。幾度となく背中を預け合い、同じ景色を見てきた二人だった。言葉による説明など、何一つとして必要なかった。
「始めるぞ!」
家宝《返照》の中央構造が、カチリと音を立てて開いた。
通常であれば、術者、魔晶石、そして城壁の結界を一つに繋ぎ合わせるための基準回路だ。だがゲアハルトは、その安全弁たる縛りを、迷いなく外した。
「本当にやるのか……」
ルドルフが乾いた笑みを漏らす。
「他に、この場を満たせるものがあるか?」
「……ないな」
術式の光列が、三者へと牙を剥くように食い込んだ。
肉体を焼くのではない。命を破壊するのでもない。人間という生命をこの世に繋ぎ止めている無数の結びつき──骨格の強さ、巡る血潮、肉と皮、そして魂に結びついた魔力回路。それらが一つに寄り集まり形を保っている理そのものへ、術式が直接食い込んだ。
解除。そして、強制的な再構成。
ゲアハルトの指先が、輪郭を失って淡い光の粒子へとほどけていく。
ルドルフの掲げた腕も、握られた短杖も、纏った法衣も、同じようにほどけて混ざり合う。
ハーゲンの灰色の羽毛が一枚、また一枚と光の塵へ解かれ、逞しい翼の骨が、肉が、血が、誰のものとも判別のつかぬ白金色の輝きの中へ溶け去っていった。
龍の火を捌きながら、自分たちを削る。
一条を逸らすたびに、一部が消える。
一条を保持するたびに、さらに削れる。
やがて、空へ迂回させていた火炎の流れが、ひとつずつ戻り始めた。
「来るぞ!」
ルドルフが叫ぶ。
遠くへ逃がしていた一条目。
続いて二条目。
三条、四条。
大きく迂回していた龍の劫火が、術式によって定められた一点へ向けて再び収束し始める。
その中心には、もはや半ば以上、形を失った三者の白金の輝きがあった。
「……最終段階まで開くぞ」
ルドルフが低く告げる。
「ああ」
「もう二度と……元には戻れんな」
「今更だろう」
老グリフォンが、喉の奥で小さく鳴いた。
ゲアハルトはその硬い首筋の羽毛を、手袋越しに一度だけ、愛おしそうに撫でた。
「……すまんな、ハーゲン。お前まで付き合わせることになった」
老いた獣は逃げようともせず、ただ静かに、風を捉えて翼を限界まで広げた。
そして。
三つの命が、完全に形を失った。
人でもなく。
獣でもなく。
ただ一つの、白金に輝く巨大な力の塊へと束ねられる。
僅かな間しか保てぬ異形の塊。
魔導の基礎。
同時に、空へ逃がされていた龍の劫火が、四方から戻ってくる。
一条。
二条。
四条。
八条。
分けられていた火炎のすべてが、マナ・スフィアの周囲へ収束していく。
龍の力。三つの命。
それらすべてが、ひとつの巨大な流れへとまとめ上げられる。
白金の球体が、朝の空で激しく脈動した。
キースの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
「父上……!」
返事はなかった。ゲアハルトという人間の喉も、声帯も、息遣いも、すでにこの世界のどこにも存在していなかった。
だが、白金に輝く球体の中心から、確かに魂の震えそのものが響き渡った。
『キース!』
父の声だった。厳格で、決して揺らぐことのなかったあの声が、大気を震わせた。
『受け取れぇッ!』
「待て!」
キースは喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「父上!待ってくれ!」
マナ・スフィアが熱波を切り裂き、飛竜の上で手を伸ばすキースのもとへ一直線に飛来する。
動転するキースの背を、アメリアの手が激しく打ち据えた。
「受けなさい!」
「先生……!」
「もう、元には戻せないのよ!」
その峻烈な叫びが、キースの思考を縫い止めた。
戻せない。父はもう、人間ではないのだ。ルドルフも、あの老いたグリフォンも。あの輝きを受け止めなければ、三つの命が捧げた意味は、この荒野の風の中でただ虚しく散り果てるだけだ。
キースは折れた剣の柄を握り直した。刃の半ばを失った、無残な鉄の塊。
そこへ、白金色の魔力球が触れた。
魔力が流れ込んだのではない。剣に熱が宿ったのでもない。キースの全身を巡る魔力回路と、龍の劫火さえ呑み込んだ白金の塊が、一つに重なり合った。
世界が一変した。
キースの視界の中で、迫り来るニつ目の火炎が、もはや単なる炎の津波としては映っていなかった。
燃え盛る熱、押し寄せる風圧、唸りを上げる魔力のうねり、喰らい尽くす炎の牙、そして前へ前へと突き進む凶悪な殺到。それら無数の理が複雑に絡み合い、一つの巨大な厄災を形作っている継ぎ目が、網の目のように透けて見えていた。
キースは折れた刀身を構えた。
《閃断》。もはやその術式の名に何の意味もなかった。
《剛剣》。それも現象を固定するための骨組みに過ぎない。
彼らが、自らの形を捨ててまで成立させた無色の力が、いまキースの腕と共にある。
キースは、折れた剣を振り抜いた。
白金の奔流が、折れた刃を基点に一斉に解放された。
一度目の劫火と三つの命を束ねていた莫大な力が、二度目の火炎へ食い込み、その流れを外側から押し曲げていく。
衝突。
二度目の火炎が、縦横に裂けた。
巨大な奔流としてまとまっていた炎が、キースの刃の軌道に沿って細かく分断されていく。
だが、それでも止まらない。
細かく裂かれた炎はなお莫大な熱量と勢いを保ったまま、城壁へ雪崩れ込もうとする。
キースは歯が砕けるほどに噛み締め、両腕の血管を浮き上がらせて剣の切っ先を強引に捻り上げた。
「戻れ……ッ!」
マナ・スフィアの残響が、最後の輝きを放つ。
空間に刻まれた断絶の溝に沿って、千々に裂かれた炎の奔流が、不条理な軌道を描いて歪み始めた。
一条の巨大な火柱が、反転して龍へと向かう。二条目がその軌跡を追い、三条、四条、無数に分断された龍自身の吐息が、次々と大きく虚空を迂回しながら、白い巨躯へと収束していく。
「行けぇぇぇッ!」
二度目の劫火が、白金の奔流に押し戻され、その勢いそのものを加えながら反転していく。白龍の胸元と頭部へ一斉に叩き込まれた。
視界のすべてが白光に呑み込まれた。天地を揺るがす轟音、吹き荒れる衝撃、そして超高熱の奔流。
あの白龍の巨頭が、初めて、明確に横へと大きく弾き飛ばされた。強固無比を誇った白い鱗が、黒く焼け爛れ、肉の焼ける異臭が風に乗って城壁まで届く。
龍の歩みが、止まった。
ただ一歩、足を止めた。それだけだった。致命傷には程遠く、巨躯を地に伏せさせたわけでもない。
だが、人間という小さき存在が、初めてその歩みを力づくで阻んだのだ。
役目を終えた魔力球が、音もなく崩壊を始めた。白金色の光の粒子が、ほどけるようにして朝の風の中へ散っていく。
キースは無我夢中で、虚空へと手を伸ばした。
「父上!」
指先は何の感触も捉えられず、ただ冷たい光の粒が掌の間をすり抜けて消えていくだけだった。
煙の立ち込める荒野のただ中で、白龍がゆっくりと頭をもたげた。
その黄金の双眸が、はっきりと城壁の上、そして地上の人間たちを捉えていた。小虫を払うような無関心ではない。明確な殺意と警戒を孕んだ眼差しで、龍は人間を見据えていた。
・・・・・
・・・
白龍が、ゆっくりと頭をもたげた。
焼け焦げた白い鱗の隙間からは、爛れた赤黒い肉が覗いている。自らの吐き出した絶大な劫火を真正面から叩き返されたその胸元には、黒々とした破壊の痕跡が深く刻み込まれていた。
それでも、龍は四肢を踏みしめて立っていた。まるで何事もなかったかのように。
否、先ほどまでとは決定的に違っていた。冷酷な黄金の双眸が、いまや明確な焦点を結んでこちらを射抜いている。人間を。飛竜の上のアメリアを。そして何より、折れた剣を握る自分の姿を。
生まれて初めて、明確な敵として見据えていた。
その事実に、歓喜など欠片も湧かなかった。背筋を駆け上がるのは、肌を粟立たせる純粋な悪寒だけだった。
その右手から、白金色の光の粒子がはらはらと零れ落ちていく。
一粒、また一粒。
父だったもの。師団長だったもの。長年忠義を尽くしてきた、あの老いたグリフォンだったもの。三つの尊い命を束ねていた奇跡の残滓が、朝の凍てつく風にさらわれ、あっけなく虚空へ消え去っていく。
「……父上」
呼んでも、返事はなかった。あるはずがなかった。
無我夢中で手を伸ばしたが、指先が掻き抱いたのは冷たい大気だけだった。掌を握りしめれば握りしめるほど、光は指の隙間をすり抜け、砂のようにこぼれ落ちていく。やがて、最後の淡い一粒が風に溶けて消えた。
その瞬間、白龍が一歩を踏み出した。
巨躯の重みを受け、大地がごうと沈み込む。遅れて響き渡る地鳴りのような轟音。城壁の石材が悲鳴を上げて軋み、防壁の上にいた誰かが息を呑み、誰かがすすり泣き、誰かが「……嘘だろ」と絶望に掠れた声で呟いた。
声すら出せなかった。
止めたのだ。確かに、止めたはずだった。
家宝を使い、己の剣を砕き、全身の魔力回路を焼き焦がし、何より、父と師団長、そして誇り高き獣の命そのものを代償に差し出して。龍自身の放った火炎のすべてを叩き返し、あれほどの奇跡を重ねて──ようやく、たったの一歩。歩みを止めたのは、ただのその一瞬に過ぎなかった。
白龍が、さらにもう一歩を踏み出す。
胸の奥底で、重く冷たい何かが静かに沈み落ちていった。
それは底知れぬ絶望だったのかもしれない。凍りつくような恐怖だったのかもしれない。あるいは、自らの無力さに対する、どうしようもない屈辱だったのか。
誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで剣を振るってきた。いつか父の背中に追いつき、領民を守り、背後にいる者たちを誰一人として失わないほどの強い騎士になろうと信じて疑わなかった。その血のにじむような鍛錬の果てが、父の命を刃に変えてなお届かない、この無様な結末なのか。
喉の奥から、乾ききった壊れた笑いが漏れ出しそうになった。
だが、現実は嘲笑う時間すら与えてくれない。
白龍の巨大な顎門が、再び、緩慢な動きで開かれた。城壁の上から幾重もの悲鳴が上がる。
口腔の奥に灯る、毒々しい赤い光。先ほどと同じ、いや、先ほどを遥かに凌駕する濃密な熱の気配だった。大気がきしきしと軋み、熱波が届くより早く、周囲の空間そのものが震え始めている。
背後でアメリアが何かを狂ったように叫んでいたが、耳の奥で鳴り響く甲高い金属音にかき消され、言葉として届かない。翼を焼かれた飛竜は、墜落を免れるだけで精一杯だった。
逃げ場など、どこにもなかった。城壁も、その向こうの街も、逃げ惑う人々も、そして自分たちも。
次は……ない。
冷え切った頭が、冷酷なまでにその事実を告げていた。同じ奇跡は二度と起こらない。父はもういない。師団長もいない。増幅するための魔晶石も、龍の鱗を断つための業物も、何一つ残されていなかった。
自らの右手を見つめた。
そこに握られていたのは、半ばから無残にへし折れた長剣の柄だった。父とともに幾多の戦場を駆け抜け、無数の魔獣を討ち、数え切れない命を拾い上げてきた鋼の刃。その先端は、もうどこにも存在しない。
その断面を、ほんの一瞬だけ見つめた。
そして、ぎり、と革巻きの柄を強く握り直した。
「……キース?」
訝しげなアメリアの声が耳朶を打ったが、応える気はなかった。
折れた剣を、静かに肩の高さへと持ち上げる。
思考よりも先に、骨と筋肉が勝手に動いていた。足を開き、腰を深く落とし、左肩をわずかに前へ出して、右肘を引く。幼少の頃から何千回、何万回と、血を吐くような思いで繰り返してきた騎士の基本構えだった。
剣の長さが半分になろうとも、父を喪おうとも、天地がひっくり返ろうとも勝てぬ絶望を前にしても、己の肉体だけは、頑ななまでに騎士であり続けていた。
いつものように。短く……息を吸い込んだ。
どれほど善政を敷こうと、どれほど蔵を満たそうと、最後の最後に領民の前へ立てない領主に、何の価値がある。
ならば……私は……俺は……!
一振りの剣でいい。
肺腑が焼けるように痛み、ズタズタに引き裂かれた体内の魔力回路が悲鳴を上げる。そんなものはどうでもよかった。体内に残された最後の魔力を、余滴の一滴に至るまで絞り出し、折れた刀身へと流し込む。
破断した鉄の断面から、淡く頼りない光がじわりと伸びた。
細かく震え、不格好に歪み、術式としての洗練など欠片もない。ただ、長年その手で振るい続けてきた刃の長さと重みを、身体が正確に覚えていただけだった。失われた切っ先を己の魔力で力づくで繋ぎ止めた、仮初めの刃先。
光の切っ先が、ゆっくりと白龍の眉間へと向けられる。
背後で、アメリアが息を呑む気配がした。
「……何をする気なの」
ただ白龍だけを睨み据えていた。
怖かった。恐ろしくないはずがなかった。膝はがくがくと震え、腹の底は氷を呑み込んだように冷え切っていた。逃げ出したかった。叫び声を上げて父の名を呼びたかった。先生にしがみついて、もう無理だと、これ以上は戦えないと泣き喚きたかった。なぜ自分ばかりが、こんな絶望の淵に立たされなければならないのか。悲しくて、悔しくて、あまりにも惨めで、己の小ささが呪わしかった。
それでも……。
自分の背後には、まだ逃げ切れていない人々がいる。街がある。守るべき者たちがいる。
ならば……立つしかないのだ。
剣が折れたならば……折れたまま振るえばいい。
刃が足りないなら……魔力を編んで繋げばいい。
通じないのなら……通じるまで、命が尽きるその瞬間まで振るい続ける。
何も変わらない。いつも通りだ。
変わるはずがない。
父なら、間違いなくそうしたはずだ。
その確信が脳裏をよぎった瞬間、胸の奥が引き裂かれそうな痛打に見舞われた。
「……父上」
今度は、喉から確かな声になって漏れた。返事などあるはずもない。
歯が砕けるほどに噛み締め、光の切っ先を構え直した。
「見ていてください」
震える刃を、龍の眼前に突きつける。
「今度は、俺が──」
その、覚悟を振り絞った刹那だった。
白龍の瞳が、ふっとキースから外れた。
「……え?」
あまりにも唐突だった。
肌を刺していた凶悪な殺意が、霧が晴れるように消え失せた。いや、消えたのではない。人間などという矮小な存在から、完全に興味を失ったのだ。
白龍は、遥か彼方から届く何かの音を聞き取ったかのように、ゆっくりと巨大な首をもたげた。その黄金の双眸は、人間たちを一瞥もせず、遥か遠い北東の空の果てを見据えている。
キースにも、アメリアにも、何も聞こえなかった。何も見えなかった。
ただ龍という超越的な獣だけが、遠く離れた世界の異変を感じ取っていた。
大きな頭部が、わずかに傾げられる。
大気を焼き尽くそうとしていた顎門が、静かに閉じられた。口腔の奥で渦巻いていたはずの凶暴な赤光が、幻であったかのように掻き消えていく。
「……何だ? 何が起きた?」
城壁の上から、困惑に満ちた兵士の声が漏れ聞こえた。
白龍が、背の四枚の翼をゆるやかに広げた。
城壁の兵たちが一斉に青ざめ、身構える。
「来るぞ!」
「伏せろ、羽ばたきが来る!」
だが、予想された暴虐の風は叩きつけられなかった。
一度、二度。重々しく空気を掴むような羽ばたきとともに、白龍の巨大な肉体が、軽々と大地を離れていく。巻き起こる上昇気流に煽られ、アメリアの飛竜が大きく体勢を崩した。キースも鞍に手をつき、必死に体勢を立て直しながら顔を上げる。
白龍の巨躯が、天へと昇っていく。
城壁の上で、誰かが信じられないものを見るように叫んだ。
「……退くぞ!」
別の誰かが、上ずった声でそれに続いた。
「白龍が、退いていくぞ!」
「勝った……? 勝ったのか!?」
歓声が上がった。
はじめは戸惑いがちに、そして次の瞬間には、張り詰めていた恐怖を吹き飛ばすように爆発的な歓喜となって城壁を揺るがした。
泣き叫ぶ声、雄叫びを上げて剣を掲げる音、互いに抱き合って涙を流す兵士たち。
「勝ったぞ!」
「追い返した!」
「キース様が! キース様が龍を退けたぞ!」
幾重にも重なる自分の名が、熱狂とともに風に乗って届いてくる。
何も……言えなかった。
白龍は、遠ざかるその瞬間まで、ただの一度たりとも城壁を振り返らなかった。
羽ばたく翼が小さくなり、朝焼けの雲の向こうへと溶け込んでいく。
最初から、城壁も、王都も、必死に抗った人間たちも、龍の視界には入っていなかったかのように。ただ通り道にあった小石を蹴飛ばし、別の用事を思い出して去っていった──それだけの無慈悲な事実が、そこにあった。
右手から、淡い光の切っ先が、ふっと糸が切れたように消え失せた。
残されたのは、半ばから折れ曲がった、ただの冷たい鉄の塊だけだった。
周囲には、なおも嵐のような勝鬨が響き渡っている。
勝った、勝ったと、誰もが涙を流して叫んでいる。
……手の中の無残な鉄屑を見やる。
父はもういない。師団長も、誇り高き老獣もいない。消滅した輸送船の避難民も、砕け散った護衛艦の兵たちも、二度と帰ってはこない。
そして自分たちは、龍を討ち果たしたわけでも、その力で追い払ったわけでもないのだ。龍が、何かに気を取られ、どこかへ飛び去った。ただ、それだけのことだった。
その指が、折れた柄をぎりぎりと締め上げた。
爪が皮膚を突き破り、掌から生ぬるい血が滲み出して、革巻きを赤く濡らしていく。
「……これで」
震える唇から、誰の耳にも届かないほどかすかな声が零れ落ちた。
「これで……俺たちが、勝ったというのか……!」
その問いに答えてくれる者は、もう、世界のどこにもいなかった。