《追憶》ⅩⅢ 逆さ吊りの剣
「勝ったぞ!」
誰かが叫んでいた。
「龍を追い返した!」 「キース様がやった!」 「トレンスの勝利だ!」
城壁の上を、狂ったような歓声が駆け抜けていく。
剣を放り出して泣き崩れる兵。 隣の男を抱き締める者。 膝をつき、天を仰いで神へ祈りを捧げる者。
誰も彼も、笑っていた。
キースは、そのすべてを遠い場所から眺めているような気がした。
耳鳴りがしていた。
龍の咆哮ではない。 砲声でもない。
高く、細い音が、頭蓋の内側へ一本の針を差し込んだように鳴り続けている。
パキィン、と硬質な音が響渡った。
握りしめていた折れた剣が、乾いた音を立てて砕け散った。刀身の破片は細かな鉄の粉となり、突風に煽られて吹き消えていく。
柄と、鋭く欠けた残骸だけが手の中にある。
父もいない。ルドルフも。ハーゲンも。
もう……何もない。
ただ、龍だけが去った。
「勝ったぞ!」
また聞こえた。
その声が、今度ははっきり耳へ入った。
キースの指が、折れた柄を握り込む。
ぎり、と革が鳴った。
その声を皮切りに、あちこちで勝ち鬨が上がった。
「勝った!俺たちの勝ちだ!」
「敵が退いたぞ!」
「旗を上げろ!生き残った者を集めろ!」
剣が空へ掲げられる。
槍の穂先が昇った陽光を弾く。
泥と血に塗れた兵たちが、肩を抱き合い、泣き、笑っていた。
その真ん中で、彼だけが動かなかった。
右手には、半ばから折れた剣。
刃はもうない。
「……違う」
誰にも届かない声だった。
「勝ってなど……」
喉が震えた。
白龍が消えていった空を睨む。
「勝ってなどいない!」
怒号が、戦場に広がり、歓声が止まった。
数百人の兵が、一斉にこちらを振り返る。
キース自身も、自分の声の大きさに驚いていた。
それでも止められなかった。
「何を喜んでいる!」
声が掠れる。
「何を……勝った顔をしている!」
父は死んだ。
ルドルフも、ハーゲンも、朝まで隣にいた家臣たちも死んだ。
領都から連れてきた兵の多くも、この野に横たわっている。
守ると誓った、村々は消えた。
人が、何十人、何百人と死んだ。
それでも龍は倒せなかった。
ただ、相手にされなかった。
そして、龍は何もせずに……ただ飛んだ。
屈辱ですらなかった。
敵意も、憎悪も、侮蔑さえも向けられなかった。
ただ……ただ、どこかへ行っただけだ。
「俺たちは──」
続く言葉は出なかった。
喉が塞がった。何を言えばいい。
負けた、と言えばいいのか。
それとも、生き残ったから勝ちだと認めればいいのか。
どちらも違う。
どちらも、吐き気がするほど違っていた。
「侯爵様!」
兵士が彼を見つけ、喜びに顔を歪めた。
「ご無事でしたか!」
別の兵が叫ぶ。
「キース様が生きておられるぞ!」
歓声が大きくなる。
彼は答えなかった。いや、答えられなかった。
何が無事なのだろう、とも思った。
家も。父も。臣も。民も。
何ひとつ守れなかった男の、どこが無事なのか。
折れた剣を握る指だけが、ゆっくりと強くなる。
血が滲んだ。
それが自分の血なのか、誰かの血なのかも、もう分からなかった。
「閣下」
背後から、静かな声がした。
振り返らなくても分かった。
ローダス。
兜は失われ、額から流れた血が片目の横で黒く固まっている。 肩当ては片方なく、分厚い胸甲にも深い爪痕が三本走っていた。
それでもローダスは背筋を伸ばし、いつもよりも、恭しく彼へ一礼した。
「……ローダス」
「はい」
「俺は」
声が出なかった。
喉の奥で何かが潰れた。
ローダスは待たなかった。
「負傷者の収容を」
淡々としていた。いつものように、皮肉も、荒い口調ですらなかった。
「……何?」
「急がねば、今夜を越せぬ者が増えます」
彼はローダスを見た。
「残敵の掃討を。死者の確認も必要です。まず名の分かる者から記録を。遺品も集めさせましょう」
「待て」
「また、魔獣は森にも残っております。追撃は禁じてください。こちらにその余力はありません」
「ローダス……!」
「落ちた船には、生きてる奴がいるかもしれません。避難民は誰を信じてどこへ逃げればいいのか分からず右往左往してる」
「やめろ!」
ようやく出た声は、ひどく幼かった。
ローダスの眉が、ほんの少しだけ動いた。
彼は折れた剣を見つめた。
「……父上は死んだ」
キースの奥底で、何かが切れた。
「存じております」
「……ルドルフもだ」
「はい」
「……ベートも、ロイも」
「はい」
「……遊撃隊は」
ローダスが一瞬だけ目を伏せた。
「七十二名、生存しております」
七十二。
彼は笑いかけた。
笑えなかった。
「二百近くいた」
「はい」
「他は……?」
ローダスは答えなかった。
それで十分だった。
周囲では、まだ勝ち鬨が続いている。
勝った。
勝った。
勝った。
その言葉が、遠い国の言葉のように聞こえた。
「……俺たちは……何に……勝ったんだ」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
ローダスだけがそれを聞いた。
だが、慰めなかった。
「閣下」
低い声だった。
「戦は終わりました」
彼は顔を上げた。
ローダスの目には涙がなかった。
「ゆえに、次は閣下のお仕事でございます」
「……俺の?」
「はい」
ローダスは周囲を示した。
泣いている兵。笑っている兵。倒れた仲間を抱く兵。水を求める負傷者。主人を失った従者。旗を支える力すらなく、その場に座り込んだ少年兵。
「彼らは勝ったと思っております」
ローダスが言う。
「そう思わせる為に」
彼の眉が動いた。
「何を……」
「今日、生き残ったことを勝利と呼ばせるのです」
ローダスは、一歩近づいた。
「明日になれば、死者の数を知ります」
さらに一歩。
「故郷へ帰れば、焼けた村を見ます」
一歩。
「家へ戻れば、帰らぬ者を待っていた妻と子がおります」
ローダスは彼の前で止まった。
「その時まで、この者たちから勝利まで取り上げてはなりません」
彼は何も言えなかった。
「閣下」
ローダスは深く頭を下げた。
「侯爵家当主として、ご命令を」
その言葉が、胸に突き刺さった。
父の死を見た時よりも、家臣の亡骸を見つけた時よりも、敵将に背を向けられた時よりも深く。
「……俺に」
声が震えた。
「俺に……まだ侯爵をやれと言うのか」
ローダスは頭を下げたまま答えた。
「まだ、ではございません」
そして顔を上げた。
「今からでございます」
歓声が遠のいた。
彼はしばらくローダスを見ていた。
やがて、手の中の折れた剣に目を落とした。
父から譲られた剣だった。
もう剣としては使えない。
それでも捨てることはできなかった。
彼はゆっくりと息を吸った。
「……負傷者を中央の丘へ集めろ」
近くにいた兵が振り返った。
声は小さかった。
彼はもう一度言った。
「負傷者を中央の丘へ。聖律師を全員そこへ回せ」
今度は、聞こえた。
「はっ!」
兵士が走り出す。
「騎兵は追撃するな。馬が動く者は伝令に使え。北の街道が生きているか確認しろ」
別の兵が駆けていった。
「死者は……」
そこで声が詰まった。
足元には、知った顔があった。
昨日まで笑っていた男だった。
彼は目を閉じた。
そして開いた。
「死者は、一人残らず名を記せ」
ローダスが静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
「分からない者もだ」
「はい」
「名が分からなくても……いたことは残せ」
ローダスの口元が、ほんのわずかに震えた。
「必ず」
彼は歩き出した。
兵士たちが道を開ける。
誰かがまた叫んだ。
「侯爵様!」
彼は振り返らなかった。
折れた剣を握ったまま進んだ。
「……外の残敵を払う」
門脇の詰め所。キースは棚から引き抜いた無骨な予備の長剣を、握り直した。
刃の重み。鉄の冷たさ。
それだけが、いまの自分を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
「森の外縁へ散った群れを放置すれば、南の街道へ回る。……私が前へ出て掃討線を敷く」
誰に聞かせるでもなく、早口で吐き捨て、泥の出口へ向けて踏み出そうとした。
動いていなければならなかった。
剣を振るい、獣の肉を断ち、血を浴びていなければ、耳の奥で鳴り続けるあの細い針のような耳鳴りに頭蓋を割られてしまいそうだった。
「そのナマクラを持って、どこへ行く気だ」
冷たい声が、正面から落ちてきた。
アメリアが立っていた。
煤と血に汚れた長外套。その右足は、引きずるように半歩遅れて石畳を踏んでいた。
膝の装甲が外され、巻かれた麻布には赤黒い血と熱を持った脂汗が滲んでいる。関節が異様なほどに腫れ上がっていた。
その背後には、喉の奥で不満げにグルルルと唸り、地面を爪で苛立たしげに引っ掻くゼフィロスがいた。
銀色だったはずの鱗は焼け爛れて黒ずみ、自慢の皮膜翼には熱波で焼き千切られた無残な穴がいくつも口を開けていた。荒い鼻息を吐くたび、痛々しい熱気が漏れ出す。
キースは息を呑み、咄嗟に声を荒らげた。
「先生、その足は……!何を歩いているんですか、すぐに治療所へ──」
「私の足の話はしていない」
アメリアの瞳が、キースの手にある真新しい剣を射抜いていた。
「どこへ行く気かと聞いているのよ、キース」
「……残敵の掃討です」
キースは視線を逸らさずに答えた。
「森の奥へ散った大型がまだいる。城壁の射程外で立て直されれば厄介です。私が指揮を執って──」
「逃げる気か」
短く、刃物のように切り落とされた。
キースの喉が、引き攣るように強張った。
「……何がです」
「剣を握って前へ出ていれば、何も考えずに済むものね」
アメリアは一歩、痛む足を踏み出して近づいた。
「敵の首を刎ねていれば、父が死んだことも、街が壊れたことも、これから自分が背負わなきゃいけない帳簿の数字も、全部見ないで済む。……違うとでも?」
「違います……!」
キースの声が裏返った。
「外に敵がいるから倒しに行くだけだ! あいつらを放置して、また誰かが死んだらどうするんですか!俺が……俺が斬れるなら、俺が行くのが一番確実だ!」
「その仕事は、兵の仕事だ」
アメリアは冷徹に言い放ち、ゼフィロスの鞍の横へ回った。
歯を食いしばり、痛む右膝を強引に持ち上げて鐙へ足をかける。全身から脂汗を滲ませながら、一息で鞍の上へと身体を引き上げた。
そして、緩んでいた固定革を、腫れ上がった膝の上から力任せに締め上げる。
『少しくらい休ませろ!』
老竜の悪態に、アメリアはその首筋を革手袋で乱暴に引っぱたいた。
「文句を言うな、老いぼれ!四本足は無事でしょうが!走れば馬より速いわ!」
『馬なんぞと一緒にするな!』
その背後から、煤けた飛竜の手綱を引いた竜騎士たちが、足音を忍ばせて集まってくる。全員が傷だらけだった。
「先生……?」
「残敵の刈り取りと、落ちた船の捜索は私たちがやる」
「馬鹿なことを言わないでください!」
キースは叫んだ。
「先生の膝、割れているでしょう!そんな身体で飛べるわけがない!」
「飛竜の背に乗るのに、膝が曲がる必要はない」
アメリアの唇の端が、傲然と歪んだ。
「手綱と鐙があれば十分よ。この程度、どうということはない」
「先生!」
「聞きなさい、キース」
脂汗がこめかみを伝う。それでも、その手綱を握る手は微塵も震えていなかった。
「残った三隻を誰が決める?墜落船の生存者と避難民のどちらを優先する?南街道へ魔獣が流れた場合、船を飛ばすのか馬車を止めるのか?」
鞍の上から、彼女は見下ろした。
かつて泥の中で木剣を振るっていた少年を。
「……それらを判断し、指揮するのは……誰だ?」
そしていま、逃げ場を失って立ち尽くしている、新しい侯爵を。
「貴公の戦場は、もう泥の上じゃない」
容赦のない言葉だった。
「あの、冷え切った机の上よ」
アメリアが踵を入れる。
ゼフィロスが腹の底から咆哮を上げ、四肢で泥濘を力任せに蹴り出した。
「フェルナー!続け!一番船を確認する!四番騎は三番船と森際を確認!六番騎は第二騎、第三騎の捜索に回れ!」
ドガガッ、と地響きを立て、畳んだ翼を泥で汚しながら、銀の老竜が戦車のような勢いで街道の先へと突進していく。
後ろからは、同じく翼を痛めた数騎の竜が、泥飛沫を巻き上げて地を這うように続いていった。
キースの目の前から、戦うべき敵も、向かうべき戦場も、すべてが奪い去られていった。
静まり返った門前に、ただ一人、取り残される。
手の中には、振るうことのない真新しい剣。
「……閣下」
背後から、恐る恐る声をかけてくる者がいた。
振り返ると、血塗れの羊皮紙の束を抱えた文官が、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「……先代のお部屋から、決裁印と、損害の目録をお持ちいたしました。……ご指示を」
キースの指から、力が抜けた。
カラン、と。
拾い上げたばかりの替えの剣が、泥の敷石の上へと音を立てて転がり落ちた。
その日。
彼は何ひとつ取り戻さなかった。
父も。家臣も。民も。名誉も。
ただ、失ったものの後始末をする責任だけが残った。
そしてそれが、侯爵として彼が初めて継いだものだった。
・・・・・
・・・
詰め所の少し離れた場所で、槍の柄を杖代わりにし、泥まみれのまま立ち尽くしている若い騎士がいた。
ギルバードだった。
甲冑はあちこちがへこみ、左の肩当ては吹き飛んでいる。
彼は、キースの元へ駆け寄ることも、声をかけることもできなかった。
止められなかった。
空を舞う龍の前に吹き飛ばされ、盾の陰で地べたを這い、ただ見上げることしかできなかった。若き主君が己の身一つで火炎に突っ込むのも、先代侯爵が光となって散るのも、ただ呆然と見届けるしかなかったのだ。
『連れて帰ります』
出陣の朝、胸を叩いて誓った自らの言葉が、苦い汚泥の味となって舌の上に蘇る。
確かに、生きている。
だが、目の前で剣を落とし、血塗れの羊皮紙を受け取っている男の魂は、すでに半分死んでいるように見えた。
そこへ通りかかったローダスが、足元を蹴り飛ばす。
「突っ立ってんじゃねぇ、手を動かせ!」
「……団……長」
ギルバードの掠れた声がこぼれる。
「俺は……何も……若様のそばにすら、行けませんでした……」
「当たり前だ、相手は龍だぞ」
ローダスは一瞥もせず、担架の端を担ぎ上げる。
「空を飛ぶ鳥を、地べたのトカゲが止められるかよ。……だがな、あのお方は生きて戻られた。お前も生きてる。なら、今の仕事は悔しがることじゃねぇ。死人の名前を数えて、生き残った奴に湯を運ぶことだ。走れ」
ギルバードは握りしめた槍の柄に額を押し当て、ぎり、と奥歯を噛みしめることしかできなかった。
・・・・・
・・・
城壁の上から、割れんばかりの歓声が風に乗って降ってきていた。
「勝ったぞ!」
「キース様が龍を退けた!」
その熱狂に背を向け、城門の脇、まだ白煙と異臭が立ち込める外郭の泥濘へと足を踏み出していく一団があった。
作業用の厚手の革手袋をはめたエレノア。その後ろに、工具と冷却用の木桶を担いだ工兵が四名、術式測定具を抱えた若い魔術師が二名、そして長槍を構えた護衛の騎士が三名。
最後尾で長弓を肩に担いだフェリクスが、頭上の喧騒を見上げ、それから小さく肩を竦めた。
「……おいおい、エリー。上があんなにお祭り騒ぎだってのに、なんで俺たちはまだ血の池の中に長靴を突っ込まなきゃならねぇんだ?」
「魔力心臓の内包魔力が揮発するまで、あと半刻もありません」
エレノアは振り返りもせず、速足で倒壊した巨獣の山へと向かった。
額には魔攻砲の煤が残り、袖口は焦げた術式線の脂で黒く汚れている。声には微塵の昂揚もなく、冷え切った平坦さだけがあった。
「白龍の火炎を浴びた個体があります。外皮は炭化していますが、体内器官が超高熱で急速に変質し、核が結晶化している可能性がある」
「結晶化ねぇ」
「通常の魔獣素材とは桁が違います。魔攻砲の半数は術式盤が融解し、導魔槍は二本が全損、王都から届いた物資もすべて負債として帳簿に残る。……これからの補修と返済の目処を立てるなら、今ここで拾えるものを拾う以外の選択肢はありません」
「はいはい、相変わらず夢のない話で」
「現実の話をしています」
エレノアは、半ば泥に埋もれた大鉄爪竜の巨躯の前で足を止めた。
手甲を外した右指を首筋の皮膚へ滑り込ませ、体温と残留魔力の波長を検分する。
「……まだ濁っていません。魔力腺の摘出を最優先。工兵隊、胸郭を開きなさい。肋骨の第三節から斜めに鉄梃を入れて」
「は、はい!」
「ミリアム。貴方は術式核の固定陣を。木桶の冷却液が飽和したら即座に氷結術式を重ねなさい。内包魔力が抜けた時点で、ただの重い肉塊になります」
「はい、射撃長!」
術式測定具を抱えていた少女が、弾かれたように膝をついた。従騎士見習いで、騎士としても実戦経験は浅い。
裂かれた魔獣の胸郭を前に顔色こそ青ざめていたが、エレノアから命じられた固定陣の展開には一拍の遅れもなかった。
エレノアは、先の迎撃戦で術式運用と魔攻砲の指揮能力を認められ、戦時特例により射撃長へ昇任していた。
正式な辞令も、徽章の付け替えもまだ済んでいない。
それでも現場では、すでに彼女の命令に従って人が動いていた。
指示は極めて簡潔で、迷いがなかった。工兵たちが無駄口を叩く暇もなく大鋸を構え、骨節へ刃を当てる。
その時だった。
森の暗がり、折れ曲がった針葉樹の隙間から、低く濁った唸り声が漏れた。
泥を爪で掻く音。
龍の圧迫から逃れ、外縁へ散っていた手負いの灰狼が二頭。血の匂いに引き寄せられ、濁った黄色い眼球をこちらへ据えていた。
「し、射撃長!残敵です!」
若い魔導師が測定器を取り落としそうになる。
エレノアは視線を手元の竜の喉元から外さなかった。
「手を止めないで。肋骨を割りなさい」
「し、しかし──」
「フェリクス」
「へいへい」
背後で、弦が低く唸りを上げた。
弓幹に走る銀の刻線が淡く灯り、番えられた鉄鏃の矢が一閃する。
飛びかかろうとした一頭目の眉間へ、吸い込まれるように矢が深々と突き立った。
頭蓋を内側から穿たれ、悲鳴を上げる間もなく泥濘の中へ横倒しになる。
「一本」
フェリクスはすでに二本目を番えながら、眉をわずかにひそめた。
「……エリー、もう一頭は足が速いぞ」
「分かっています」
エレノアが左手をわずかに払った。
詠唱はない。
泥の上、彼女の周囲に三本の氷槍が音もなく結実する。
放たれた白光が空気を切り裂き、迂回して飛び込もうとしていた二頭目の前脚の腱、喉、そして腹膜を寸分の狂いもなく地面へ縫い止めた。
激しい痙攣ののち、巨体が動かなくなる。
フェリクスが番えた矢を下ろし、呆れたように息を吐いた。
「……毎度思うんだが、俺の矢、要るか?」
「牽制の射角を塞がないでください。作業の邪魔です」
「人使いが荒いのは誰に似たんだか」
エレノアは答えず、工兵が抉り出したばかりの大鉄爪の魔力腺へ手を伸ばした。
指先を青白い液体が濡らす。
冷たい。だが、微細な脈動がある。
「……良質です。これなら、焼けた導魔線の引き直しに三本分は使える」
呟きながら、木桶へ沈める。
その瞬間、エレノアの身体が微かに揺らいだ。
膝が泥の上に落ちかける。
「おっと」
横から伸びてきたフェリクスの革手袋が、彼女の肩を強引に引き戻した。
エレノアの顔から、完全に血の気が引いていた。
唇の端が切れ、わずかに赤いものが滲んでいる。魔攻砲の過負荷運転を城壁の上で何十回と調整し続け、さらに先ほど無詠唱で術式を放った反動が、細い身体の限界をとうに超えていた。
「……離してください。まだ、魔獣の素材が──」
「駄目だな」
フェリクスの声から、軽薄な調子が消えていた。
「爪を抜く前にお前が限界だ。歩兵、その桶を担いで門の中へ戻れ。ハートリー射撃長を回収する」
「フェリクス」
「命令だ、エリー。……あんたの師匠が生きてりゃ、間違いなく同じことを言ってるぜ」
エレノアの喉が、小さく詰まった。
師匠──先刻、城壁の先で光となって消え去った、老魔導師ルドルフの名が、冷たい風の中に落ちる。
「……あの人は、もういません」
「ああ。だからあんたが死んだら、この城に魔攻砲を直せる奴がいなくなる」
フェリクスは有無を言わさずエレノアの手首を掴み、泥の中から引き起こした。
「ほら、戻るぞ。若様……いや、キース様が、山のような帳簿を抱えて待ってるはずだ。あんたがその数字を書き込んでやらなきゃ、あの人は本当に一人になっちまう」
エレノアは手首を払おうとして、結局、払うだけの力が残っていないことに気づき、唇を噛んだ。
「……分かっています」
小さく、掠れた声だった。
「分かっているなら、歩きな」
フェリクスがエレノアの肩を押そうとした、その刹那だった。
死角に積み上がった爬竜の巨躯、その割れた肋骨の影から、泥色の塊が音もなく撃ち出された。
唸り声すらなかった。
潜んでいた灰色狼の巨躯が、ふらつくエレノアの背中へ一直線に跳躍する。
「エリーッ!」
フェリクスの手が伸びた。
エレノアの襟首を掴み、力任せに横の泥濘へと突き飛ばす。
視界が反転し、エレノアは泥水の中へ背中から叩きつけられた。
水飛沫の向こうに起き上がろうと顔を上げた彼女の網膜に映ったのは、身代わりとなったフェリクスの姿だった。
ドスン、と。
重い肉塊がぶつかり合う鈍い音。
飛びかかった狼の前脚が、フェリクスの胸当てを泥の中へと押し倒す。
弓を取り落とし、フェリクスが腰の短剣へ手を伸ばしかけた──その手首に、死骸の影から飛び出してきた二頭目の牙が食らいついた。
ぐちゃり、と骨の砕ける音がした。
「が──」
短い空気の漏れる音。
間髪容れず、三頭目がフェリクスの顔面の上へのしかかった。
開かれた巨大な顎が、無防備に晒された喉首へ、何の躊躇もなく深々と突き刺さる。
肉を断ち、腱を引き裂き、太い頚動脈を噛み砕く、生々しい破壊の音。
ブシュッ、と黒ずんだ鮮血が数尺の高さまで噴き上がり、灰色の毛皮と、泥にまみれた雪を赤黒く染め抜いた。
フェリクスの両脚が、泥の中で二度、激しく痙攣した。
手から短刀が滑り落ちる。
言葉はなかった。
最後の軽口も、別れの叫びも、苦痛の呻き声すらもなかった。
ただ首骨の折れるゴキリという乾いた音が一度だけ響き、それきり、男の身体から一切の緊張が抜け落ちた。
一拍。
あるいは、二拍。
それだけの間に、一人の人間が、ただの食い散らかされる肉塊へと変わり果てていた。
「…………ぁ」
エレノアの喉から、声にならない呼気が漏れた。
狼が喉肉を力任せに引きちぎる。
腹を裂こうと前脚の鉤爪が革鎧を掻きむしり、内臓が泥の上に引きずり出される。
血の泡を吐くことすらできなくなったフェリクスの顔が、首の折れた角度のまま、泥水の中に沈んでいく。見開かれたその瞳は、空の茜色を映したまま、すでに光を失っていた。
思考が、白く焼き切れた。
「あああああああああああああああああああああああッ!!」
絶叫だった。
人語ではない。傷口を引き裂かれた獣のような、耳障りな狂乱の悲鳴がエレノアの口から爆発した。
泥の中へ両手を叩きつける。
爪が敷石の角に当たり、人差し指と中指の爪が根元から剥がれ飛んだ。激痛など知覚すらしていなかった。
体内の魔力回路が、安全弁をすべて破断させて激沸する。
術式の構成も、魔力の流量計算も、効率も、何一つない。
ただ目の前で男の死体を貪っているものすべてを、この世界から跡形もなく消し去りたいという狂気だけが、彼女の細い腕を通じて大地へと叩き込まれた。
「死ね! 死ね! 死になさいッ!」
ドォンッ!
フェリクスの遺骸の周囲、泥濘が爆発するように吹き飛んだ。
一本ではない。
十本、二十本という太い石の杭が、地面を突き破って下から乱杭のように逆巻く。
狼の一頭が胴体を真下から串刺しにされ、内臓を撒き散らしながら中空へと跳ね上げられた。
だが、止まらない。
「あああッ! いぎゃあああああッ!」
エレノアは頭髪を振り乱し、泥水に顔を突っ込みそうになりながら、狂ったように両手で地面を殴りつけた。
掌の皮が裂け、自身の血が泥に混ざる。
氷槍。
何十条もの鋭利な蒼白い針が、詠唱も配列もなく、歪な塊となって虚空へ現出する。
炸裂音とともに放たれた氷の暴風が、フェリクスに覆いかぶさっていた二頭目の頭蓋を破砕し、肉片を四方へと飛び散らせる。
「死ね! 消えろ! 消えなさいッ!」
ドガァンッ! バァンッ!
死骸の山が崩れ落ちるほどの衝撃波が連打される。
石槍が地面を耕し、氷塊が弾け、炎の渦が泥水を蒸発させて濛々たる白煙を噴き上げる。
すでに息絶え、ただの肉片と骨の破片になった狼の残骸へ向けて、エレノアは血走った目を剥き出しにしたまま、ひたすら破壊の術式を叩き込み続けた。
目から、鼻から、耳から、赤い血が糸を引いて垂れ落ちていく。
過負荷で焼き切れた魔力回路が、皮膚の下で血管を紫色に破裂させていく。
それでも指を泥へ突き立て、叫び、叫び、呪詛のように魔力を放出し続ける。
「射撃長! 止まって、射撃長ッ!」
最初に飛びついたのはミリアムだった。
まだ細い腕で、背後からエレノアの身体へしがみつく。だが暴走する魔力に弾き飛ばされ、泥の上を転がった。
「離せッ!離しなさい!まだそこにいる!まだ……ッ!」
「死んでる!もう敵は死んでいるの!」
声が裏返った。自分でも何を叫んでいるのか分からなかった。
「フェリクスが!フェリクスがそこにッ……!」
「誰か!押さえて!このままじゃ射撃長まで……!」
その叫びに護衛騎士二人が駆け込み、三人がかりでエレノアを泥の中へ引き倒した。
エレノアは騎士の腕に噛みつき、爪を立て、血の涙を流しながら暴れ狂った。
工兵たちが青ざめた顔で駆け寄り、泥の中に横たわる変わり果てた残骸を見下ろして絶句する。
そこにはもう、フェリクス・エルンストという人間の輪郭は残っていなかった。
「見ないで……!もう見るな!……エレノア!」
狼に食い破られ、エレノアの狂乱した魔法の余波に切り刻まれ、泥と血と骨が混ざり合った、ただの赤い窪みがあるだけだった。
「うああああああああああああああああッ!」
エレノアの喉から、血の混じった絶叫が吐き出された。
激しく血を吐き、身体を弓なりに硬直させた後、彼女の瞳から急速に光が失われ、人形のようにぐったりと泥水の中へ崩れ落ちた。
沈黙が降りた。
ただ、立ち込める血の湯気と、術式が焼き焦がした泥炭の悪臭だけが風に巻かれている。
工兵の一人が、泥の上に落ちていた折れた弓を、震える手で拾い上げた。
ミリアムは泥の中に膝をつき、意識を失ったエレノアの頭を自分の膝へ載せていた。
血と泥に濡れた頬を拭おうとして、手を止める。自分の革手袋もまた、フェリクスの血で真っ赤に染まっていることに気づいたからだった。
遥か頭上。
高い城壁の上からは、なおも熱狂的な歓声が響き続けていた。
「勝ったぞ!」
「キース様万歳!」
「トレンスの勝利だ!」
誰一人として、足元の泥の中で何が起きたのかを知る者はいなかった。
勝鬨の叫びは、冷え切った冬の空へと、どこまでも高く、残酷に吸い込まれていった。
その歓声の足元を、冷たい泥と高価な素材を満載した荷車が、軋んだ音を立てて内郭へと進んでいく。
英雄のいない場所で、誰も見向きもしない仕事が、確実に都市の命を繋ぎ止めていた。
・・・・・
・・・
白龍の姿が確認されたという第一報、そして北部烽火網が途絶したという第二報が届いてから、王都はずっと呼吸を止めていた。
巨大な白影。森を埋め尽くす魔獣の狂乱と散会。
断片的な符号がもたらす意味を、誰も口に出そうとはしなかった。ヴァルデシアは落ちたのか。北の防壁は呑まれたのか。最悪の推測だけが宮廷の回廊を冷たく這い回り、誰もが北の空を見上げて固唾を飲んでいた。
その沈黙を切り裂いて届いた第三報は、あまりにも短かった。
『ヴァルデシア健在。大規模魔獣群、北東へ離散。白龍、戦域より離脱』
早馬の伝令が差し出した紙片を読み上げた瞬間、応接室に詰めていた文官の何人かが、張り詰めていた息を吐き出して立ち上がった。
「生き残った……!」
誰かが胸元で神へ祈りを捧げ、別の者は椅子の背に崩れるように腰を落とす。部屋を満たしていた張り詰めた沈黙が、安堵のどよめきによって破られた。
ダイアナは笑わなかった。乾いた唇をわずかに引き結び、卓上の紙片を見つめたまま、微動だにしなかった。
「……続きは」
伝令の騎士が、埃にまみれた革手袋を固く握り直し、口を閉ざした。
頬にこびりついた乾いた泥と、視線を逸らしたその沈黙だけで、分かった。
「続きがあるのでしょう」
「……はい」
差し出された羊皮紙を受け取る。
『北部城塞都市ヴァルデシア、外壁および中央塔健在。
敵主力、北東方面へ離散。
残敵掃討中。
死傷者数、現在集計中。
輸送空船二隻喪失。
護衛戦闘艦一隻喪失。
先代侯爵ゲアハルト・フォン・トレンス──』
そこで文字が滲んだ。
墨が擦れているのではない。紙が濡れているのでもない。
自分の指先が、微かに震えていた。
ダイアナは一度だけ目を閉じ、奥歯を噛みしめた。
瞼の裏に、老侯爵の、鉄のように引き締まった背中が浮かぶ。
目を開く。
続きを読む。
『戦死確認』
室内のどこかで、文官の手から羽ペンが床へ落ち、カチリと乾いた音を立てた。
誰も拾おうとしなかった。誰も息を吸おうとしなかった。
「……キース様は」
静まり返った部屋に落ちたのは、自分でも驚くほど平坦な声だった。感情の起伏をすべて削ぎ落とした、事務的な響き。
伝令が即座に頭を下げた。
「……ご存命です。現在も現地にて指揮を継続しておられます」
その言葉が耳に届いた瞬間。
肺の奥に固まっていた冷たい空気が、喉の隙間から、細く、長く吐き出された。
安堵だった。
そして、その安堵を覚えた自分自身に、すぐさま激しい吐き気がこみ上げた。
義父が死んだのだ。
長年トレンスを支え、自らを温かく迎え入れてくれた老武人が。
数え切れない兵が死に、空船に乗せたはずの避難民が空から落とされ、北の守りが血に塗れている。
それなのに。
夫が……生きている。
その一点だけで、自分の身体は確かに胸を撫で下ろし、生き残ったことに安堵してしまった。
胃の底がきりきりと痛み、喉の奥に苦い液がせり上がる。
「……次を」
ダイアナは手元の紙を伏せ、机の縁を指先で強く押さえた。白くなった爪の先が、木目に食い込む。
「奥様……」
ヒルダが痛ましげに低く呼んだ。
「次の報告を」
「ですが、まずは少しお身体を休められて──」
「次を」
短く、だが誰の差し挟みも許さない声だった。
誰も逆らわなかった。部屋の文官たちが、弾かれたように次の通信筒の封蝋へ手を伸ばした。
続報が届いたのは、茜色の夕暮れが王都の屋根を暗く染め抜いた頃だった。
今度の書状は、革の紐で幾重にも縛られた、分厚い束だった。
戦勝を祝う文言など一行もなかった。
それは、どこまでも冷徹で、容赦のない損害目録だった。
死者。
負傷者。
行方不明者。
壊れた魔攻砲の基数。
術式盤の亀裂。
焼損し、ただの灰塊となった高純度魔晶石。
消費された鉄矢の簗数。
折れた破城槍の柄。
潰れた輜重車の車輪。
凍死した輸送馬の頭数。
崩壊した開拓村の戸数。
灰燼に帰した穀倉の坪数。
冬を越せぬ避難民の推定数。
家を失った者。
親を失った幼子。
夫を失った妻。
そして、めくられた次の頁から連なるのは、それらを満たすために必要な途方もない数字だった。
石工の頭数。
大工の工数。
鍛冶師の数。
荷車。
替えの馬。
小麦の俵数。
塩の樽。
油の壺。
当て布用の白麻。
火傷用の膏薬。
薪の束。
鉄釘の重量。
補修用の鋼材。
魔晶核。
金。
金。
金。
どこまで頁をめくっても、紙の端を指で追っても、そこに並んでいるのは「足りないもの」の記録だけだった。
「……これを」
ダイアナは、擦り切れた最後の頁をゆっくりと閉じた。
麻糸で荒っぽく綴じられた用紙の端には、煤と、乾いた茶色い染みが点々と残っていた。
「誰がまとめたのです」
伝令は一瞬だけ言葉を詰まらせ、視線を落とした。
「先代侯爵閣下が、戦闘中より作成を命じておられた帳簿を基にしております」
ダイアナの指が、表紙の粗い羊皮紙の上で止まった。
「義父上が……」
「はい」
「最後まで……?」
「……はい。『後詰めの帳面を汚すな』と。戦闘の最中も、消費した矢弾と落とした資材の数を、すべて記録させておられました」
目録の重みが、手のひらにずしりと沈む。
死者の数より先に、不足する鉄矢の数、必要な石工の人数、崩れた街道の修復距離、越冬に必要な麦の配給量。
まるで……自分が死ぬことすら勘定に入れた上で、残された者たちが明日から何を動かさねばならないかを、最初から書き残していたかのようだった。
ダイアナはゆっくりと目を閉じた。
『必要なものは必要だと言え』
王都で背中を押してくれたエルトリア公爵の嗄れ声が蘇る。
『足りぬなら、足りぬと叫べ』
次いで。
『何が、どれだけ足りなかったのか。必ず残せ』
眉間に深い皺を刻んだ、セドリック宰相の乾いた声音。
ダイアナは目を開いた。
瞳の奥から、迷いも、怯えも、完全に消え去っていた。
「ヒルダ」
「はい」
「馬車を」
「どちらへ」
「全部です」
ヒルダの眉がわずかに跳ね、すぐに深く頭を下げた。
ダイアナは卓上の損害目録を両手で抱え上げた。ずしりとした紙の束が、胸当ての薄い布越しに、冷たい重みとなって伝わってくる。
「もう一度、回ります」
・・・・・
・・・
だが、二度目の王都は、一度目よりも遥かに冷たかった。
車輪が軋むたび、車窓の外を流れる王都の街並みが目に映る。
路地には熱病の病人を運ぶ粗末な荷車が列をなし、聖律院の鐘が重く湿った音を絶え間なく響かせていた。薬草を燻す青い煙が立ち込め、行き交う人々の顔は一様に青ざめ、飢えと病への恐怖で強張っている。
どこにも、誰にも、余白など残されていなかった。
王軍の倉庫は熱病対策の警備と隔離で底が見え、鍵を預かる将校は門前で申し訳なさそうに首を振るだけだった。
聖律院の回廊は、床に直に敷かれた筵の上に呻く患者で埋まり、呼び止めた治療師は目の下に濃い隈を張り付かせ、返事すらできずに倒れ込むように去っていった。
エルトリアの倉番は、前回の緊急支援ですでに空になった棚の目録を、無言で差し出してきた。
そして、国庫の帳簿を預かるハートフィリアの執務室でも、答えは変わらなかった。
「これ以上、国庫から直接出せば冬の王軍給与が飛ぶ」
セドリック宰相は言った。
机の上には、王国財政の帳簿が、山のように積まれていた。
「来春の徴税を前借りすれば」
「凶作が来た瞬間に国家が死ぬ」
「王領の備蓄を」
「疫病で削った」
「特別税を」
「今それをやれば諸侯が割れる」
ダイアナは唇を強く噛み締めた。口内に鉄の味が広がる。
「では……トレンスに死ねと?」
「その台詞は一度目にも聞いた」
セドリックは顔を上げず、帳簿の数字の端をペン先で叩いた。
「誰も死ねとは言っていない」
「ですが……!」
「無いものは出せん」
それだけだった。
悪意ではない。政治的な駆け引きですらない。
本当に……この国のどこを叩いても、埃すら出ないほどに、何も無いのだ。
ダイアナは両手を固く握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、静かな執務室に重く響く。
「……失礼いたしました」
一礼し、扉へ向けて踵を返した。
「ダイアナ夫人」
背後から、低く呼び止める声が落ちた。
立ち止まり、振り返る。
セドリックは相変わらず、帳簿の数字から視線を外していなかった。インク壺へペン先を浸し、淡々と紙面を走らせながら言う。
「王家の名で追加の信用保証は出す」
セドリックは帳簿を見たまま言った。
「だが現金は無理だ」
「はい」
「分かるな」
「……はい」
分かっている。
信用保証の紙が一枚あっても、飢えた子供の腹は膨らまない。凍える兵の指先を温める薪にはならない。それを現金や物資へ換えるためには、また別の誰かの前で頭を下げ、値踏みされ、何かを差し出さねばならないのだ。
分かっている。
だからこそ、息が詰まるほどに苦しかった。
・・・・・
・・・
アークランド公爵邸を訪れた時には、すでに夜も深かった。
一度目にここを訪れた時とは違い、応接室には茶器すら置かれていなかった。
長机。
帳簿。
蝋燭。
それだけだった。
クラリス・ド・ロンスマイヤ・ラ・アークランドは、椅子に腰掛けたまま、ダイアナが差し出した損害目録を受け取った。
「座りなさい」
「結構です」
「そう」
勧め直しもしなかった。
紙をめくる乾いた音だけが、しばらく室内に続いた。
死者。
負傷者。
行方不明者。
失われた村。
損壊した城壁。
焼けた穀倉。
壊れた魔攻砲。
必要な薬。
必要な麦。
必要な木材。
必要な人員。
必要な金。
そして、冬までに間に合わせなければ死ぬ人間の数。
クラリスは最後の頁まで読み終えると、静かに目録を閉じた。
「無理よ」
ダイアナは動かなかった。
「……何が、でしょう」
「分かっているでしょう」
クラリスは目録を机の中央へ押し戻した。
「もう、アークランドからは出せない」
喉の奥がひどく乾いた。
「前回、何を出したか覚えている?」
「すべて」
「荷馬車百二十台。輸送馬二百。保存食。鋼材。弓材。魔晶核。空船二隻」
「はい」
「その空船のうち、何隻が戻ったの?」
返事ができなかった。
クラリスは答えを求めていなかった。
「輸送馬も相当数を失っている。荷車も潰れた。北へ出した保存食は当然戻らない。こちらの倉も、冬を越す分まで削っている」
声音は冷たかった。
だが、責めているわけではない。
ただ、事実を並べているだけだった。
だからこそ……痛かった。
「……暴君走竜の爪、硬質鱗百二十枚、中型竜種の魔力腺……」
クラリスは細い指先で、回収目録の端をめくった。
その視線は、ただの貴族夫人のそれではない。素材の相場と工房の稼働率を骨の髄まで知る、ロンスマイヤの血筋の目だった。
「……こちらも、初撃で首を落とし、熱波を避けて剥がしているわね。爪の根元も砕いていない。……魔力腺の油抜きの手順も完璧。現場に腕のいい魔導師がいたようね。ロンスマイヤの細工工房でも、一級品として通るわ」
「なら──」
ダイアナが身を乗り出しかけた瞬間、クラリスは目録を机の中央へ滑らせて戻した。
「ええ。ロンスマイヤの名において、これ以上ない適正価格で買い取るわ。王都までの運搬護衛隊も、うちのツケで手配してあげる。運送中の損耗込みで、通常の一割分被ってあげるわ」
淡々と、淀みなく並べられる破格の好条件。
だが、クラリスの表情には冷たい翳りしかなかった。羽ペンを取り、手元の紙片へ素早く数字を走らせる。
「……平時なら大金貨三千枚、王都の競売ならそれ以上よ。けれど……今は、買い取りの総額から、北への武装輸送隊の人件費、飼料代、街道損失見込みを差し引く。残りは大金貨にして四百八十枚。いま王都の相場で手に入る穀物と薪に換算すれば、荷馬車六十台分ね」
さらさらと書かれた紙片が、ダイアナの前へ差し出される。
そこに記された数字を見たダイアナの指先が、小さく震えた。
「六十台……」
「ええ。ヴァルデシアの避難民四千人に配れば、十日で消える量よ」
クラリスは羽ペンを置いた。
だが、ダイアナはその紙片から目を離さなかった。震える指先でそれを引き寄せ、机の上で強く押し平らげる。
「……十日あれば」
掠れた声だった。
「十日分あれば、南門の炊き出しが保ちます。その間に次の手を──」
「ダイアナ」
「売ってください、クラリス。大金貨四百八十枚、今すぐ手形を切って。麦と薪の手配を急がせてちょうだい。北の倉はもう──」
「正気なの!?」
甲高い平手の音が、夜の応接室に鋭く響き渡った。
クラリスが立ち上がり、長机を掌で激しく叩きつけていた。肩を怒らせ、その整った眉を吊り上げ、燃えるような瞳でダイアナを睨み据えている。
「十日分の麦のために、トレンスの数年分の特級素材を叩き売る気!?」
「十日生き延びられるなら、安いものです!」
「馬鹿をお言いんじゃないわ!」
クラリスの声が、室内の空気を切り裂いた。
「うちが引かなければ、王都の大商組合へでも持ち込むつもり?行きなさいよ。座商人たちの前でその目録を広げてみなさい。ロンスマイヤより高い値を付ける阿呆が、この王都に一人でもいると思う?足元を見られて、その半値、いいえ、三分の一で買い叩かれるのがオチよ!」
机の上の紙片を、クラリスの細い指が鋭く弾いた。
「今、王都の工房がどうなっているか知っているでしょう!熱病で職人が倒れ、細工工房も武具工房も半分が扉を閉ざしているのよ!そこに、ヴァルデシアから出た一級の鱗や爪を何百枚も一気に吐き出してみなさい!相場がどうなると思うの!?」
ダイアナの息が詰まる。
「……暴落するわ」
クラリスは容赦なく吐き捨てた。
「特級素材の市場そのものが根底から崩壊するのよ。値崩れを起こせば、日々の狩りで糊口をしのいでいる猟師も、仕入れを抱えた問屋も、生き残っている工房も全部まとめて吹き飛ぶわ!供給過多で市場が死ねば、次にあなたたちが魔獣を倒して素材を持ち込んだ時には、銀貨一枚の値すら付かなくなる!」
クラリスは机越しに身を乗り出し、ダイアナの顔を覗き込んだ。その瞳には、侮蔑ではなく、激しい苛立ちと悔しさが煮えたぎっていた。
「目先の十日のために市場を焼き払って、そのあとあなたたちは何を売って春を迎える気なの!?答えてみなさいよ! 帳簿を読める女じゃなかったの!?領都で誰よりも冷静に算盤を弾いてきたはずのあなたが、なんでそんな目先の数字も見えない阿呆な投げ売りをしようとしているのよ!」
胸ぐらを掴まれんばかりの剣幕だった。
普段のダイアナならば、領都の執務室で、キースの横で帳簿を広げていた時のダイアナなら、まさに同じ言葉を使って愚かな商人や家臣を怒鳴りつけていたはずだった。
ダイアナは奥歯を噛み締めた。
唇から血が滲み、口内に鉄の味が広がる。
「……知って……います」
絞り出した声が、小刻みに震えていた。
「そんなこと……全部、知っています……!」
「なら──」
「知っていても、胃袋は埋まらないのよ!」
ダイアナは顔を跳ね上げ、クラリスの視線を真正面から睨み返した。
その瞳に、涙はなかった。ただ、血を吐くような切迫感だけが燃え盛っていた。
「市場が死のうが、商人が倒れようが、明日の朝の粥が出なければ、今夜生き残った人間が明後日には凍えて死ぬの!夫が、血塗れの布を巻いたまま、死んだ兵の名前を帳簿に書き写しているのよ!その横で『市場相場が崩れますから素材は温存しましょう』なんて、誰が言えるというの!?」
二人の息遣いだけが、重苦しくぶつかり合った。
蝋燭の炎が、激しい呼気に煽られて揺れる。
クラリスはしばらく、激昂したダイアナの顔を見つめていた。
やがて、深く、重い溜息とともに、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「……だから」
冷え切った声が、静かに落ちた。
「帰りなさいと言っているのよ、ダイアナ」
クラリスは椅子へ深く腰を沈め、目を伏せた。
「あなたの手元にある帳簿の穴は、素材の売買で埋まるような大きさじゃない。……アークランドにも領民がいる。こちらにも、冬が来るのよ」
ダイアナは何も言えなくなった。
激昂の熱が潮のように引き、代わりに底知れぬ寒気が足元から這い上がってくる。
「これ以上トレンスへ流せば、今度はこちらで麦が足りなくなる」
「……分かっています」
「いいえ」
クラリスの瞳が細くなった。
「分かっているなら、二度目は来ないでしょう」
胸の奥に、細い刃を差し込まれたようだった。
けれど、帰れなかった。
北では、キースが父を失っている。
家臣を、民を失っている。
それでも決裁印を握って、損害目録へ署名している。
その男の妻が「ありませんでした」と帰るわけにはいかなかった。
ダイアナは首元へ手を伸ばした。
クラリスの眉がわずかに動く。
構わず細い銀鎖を外し、服の内側に隠していた、小さな首飾りを取り出した。
青い石に古い銀細工。端に、ほんの小さな傷。
学生時代、王立総合学園の剣術大会の優勝者に授けられた記念章。
キースが受け取ったもの。
馬鹿みたいに若かった二人が、誰が持つのか、誰が持っているのが相応しいのかを……本気で張り合ったもの。
最後にはダイアナが持って帰った。
クラリスがしばらく口を利かなかったほど、腹を立てて。
ダイアナもまた勝ったつもりで、何度も彼女の前で見せつけた。
くだらない。
けれど……捨てられなかった。
ダイアナはそれを机へ置いた。
ことん、と、小さな硬い音がした。
クラリスの顔から、表情が消えた。
「……何のつもり」
「これを」
「持って帰りなさい」
「買ってください」
クラリスの目が鋭くなる。
「ダイアナ」
「買ってください」
「そんなものに値段をつける気はないわ」
「宝石です」
「知っている」
「銀も上等です」
「知っているわ」
「細工も……」
「私が一番知っている!」
クラリスの声が、初めて荒れた。
ダイアナは動かなかった。
「それを私に持ってきて……!」
彼女は首飾りを睨んだ。
「何を買うつもりなの!?」
「何でも」
ダイアナは即答した。
「……なんですって?」
「麦でも……」
ダイアナは答えた。
「薬でも。毛布でも。鉄釘でも。荷車の車輪でも。子供の冬靴でも」
声が僅かに震えていた。
「これで……買えるだけ。それだけで構いません」
「……買わないと言っているでしょう」
「……なら、ベルンハルトへ持っていきます」
クラリスの眉が跳ね上がる。
「あそこに持ち込んでみなさい。かつて競り負けた相手の恥を喜んで買い叩いて、王都中に言いふらされるのが関の山よ」
「麦になるなら……それも構いません」
ダイアナは微動だにしなかった。
クラリスは息を呑み、それから、凍りついたように口を閉ざした。
「……本気なの」
「はい」
「あなた、それを」
クラリスの指先が、青い石の手前で止まる。
「昔、私に見せつけたの、覚えているでしょう」
「覚えています」
「『これは私が持つものです』って」
「言いました」
「本当に腹が立った」
「私も、貴女が欲しがるので余計に手放したくありませんでした」
「……馬鹿みたいね」
「ええ」
クラリスの唇が、ごく僅かに歪んだ。
笑みではなかった。
「それで」
彼女が問う。
「今は?」
ダイアナは青い石を見た。
何年も。
何度も。
指で触れた。
キースがまだ学生だった頃。
剣を振れば誰よりも速く。
負ければ悔しそうに。
勝てば少し困ったように笑っていた頃。
あの頃の証。
「今の北では……」
喉を押し開く。
「思い出より、麦の方が必要です」
長い沈黙だった。
クラリスは手を伸ばし、首飾りを指先で拾い上げた。
青い石が、蝋燭の火を鈍く返す。
そのまま、自らの掌の中へ静かに握り込んだ。
「……この場で値段は出せない」
ダイアナが顔を上げる。
「宝石商へ回す」
「はい」
「由緒物としての価値も見る。細工も、石も、銀も全部査定させる」
「はい」
「それ以上は約束しない」
冷たい言葉だった。
「これを預かったからといって、アークランドから追加で何か出すとも言わない」
「承知しています」
「査定額が思ったほどつかなくても、文句は受け付けない」
「構いません」
「……本当に嫌な女」
クラリスが吐き捨てた。
ダイアナは小さく頭を下げた。
「存じています」
「帰りなさい」
「はい」
首飾りは、もう机の上にはなかった。
ダイアナはそれを見ないようにして、応接室を出た。
・・・・・
・・・
「……これを、ダイアナ夫人が?」
アークランド公爵家当主、マクシミリアン・フランツ・フォン・アークランドは、掌の上に載せられた青い首飾りを見下ろした。
夜半。
公爵邸の執務室には、最低限の灯りしか残されていない。
壁一面に並ぶ帳簿。
冬期備蓄。
軍馬。
街道補修。
王都向け融資。
北方支援。
どの数字にも、余白などほとんど残されていなかった。
クラリスは夫の机の前に立っていた。
「査定を頼まれました」
「値段を聞いているのではない」
マクシミリアンは首飾りを指先で持ち上げた。
「これを、あの侯爵夫人が自分で外して置いたのかと聞いている」
「ええ」
「……そうか」
夫はもう一度、青い石を見る。
首飾りそのものの由来は、詳しくは知らなかった。
だからクラリスが説明した。
「学生時代の剣術大会の賞品です」
「キース侯爵の?」
「ええ」
「それを、なぜ君が知っている」
クラリスは無言で夫を見た。
暫くの間があった。
やがて小さく息を吐く。
「……なるほど」
「何がです」
「……若い頃の君たちにも色々あったのだろう」
「……今はそこではありません」
「分かっている」
青い首飾りが、机の上へ置かれた。
「それほどの物なのか」
「金額の話なら、それほどでもないでしょう」
「そうではない」
クラリスは少しだけ黙った。
それから答える。
「昔のあの女なら……何を差し出しても、これだけは差し出さなかったと思います」
夫の視線が首飾りから上がった。
「何を欲しがった」
「何でも、と」
「何でも?」
「麦でも、薬でも、毛布でも。これで買えるだけでいいと」
彼は何も言わなかった。
クラリスは、ダイアナから預かった損害目録を夫の前へ置いた。
彼は頁をめくった。
一頁。
二頁。
三頁。
途中で手が止まった。
必要物資の欄。
復旧見込み。
冬期死者予測。
遺族補償。
負傷兵の扶助。
再建不能村落。
その数字をしばらく見つめていた。
やがて、目録を閉じた。
「査定額など……」
ぽつりと呟く。
「……何の意味もないな」
クラリスは答えなかった。
「この首飾りを売ったところで、村一つ冬を越せん」
「……ええ」
「君も分かっていたな」
「分かっていました」
「それでも預かった、と」
クラリスの表情が僅かに硬くなる。
「返したところで、あの女は別の物を売りに行くだけです」
夫の指が止まった。
「……だろうな」
マクシミリアンは椅子へ深く背を預けた。
しばらくの間、何も言わなかった。
やがて静かに問う。
「うちから、あとどれだけ出せる」
クラリスは即答した。
「……出せません」
夫の目が細くなる。
「一袋もか」
「一袋出して終わる話ではありません」
クラリスは夫の前の帳簿を開いた。
「いま麦を十袋送れば、来月にはまた十袋必要になる。復旧は春まで続きます。むしろ冬を越した後の方が金が要る」
「……」
「一公爵家が無理をして十を出しても、必要なのは百です」
「そうだな」
「それに、うちだけではない」
王都は疫病。
ロザリアは北部国境。
ヴァルトシュタインは西方防衛。
エルトリアはすでに商会信用まで切っている。
王軍も削られた。国庫も……余裕はない。
「もう……」
クラリスが低く言った。
「家同士で助ける段階ではありません」
アークランド公爵は、もう一度首飾りを見た。
「これは宝石ではない。我々への警報だ」
小さい。
あまりにも小さい。
それなのに……あのダイアナが、これを売るところまで来ている。
「明日の王宮会議へ持っていく」
クラリスが僅かに目を見開いた。
「首飾りを?」
「そんなものを持ち込んでどうする」
夫は机の上の青い石から、静かに指を離した。
「問題を、だ」
「……」
「トレンスの復興は、もう一侯爵家の財政問題ではない」
損害目録を指で叩く。
「北方防衛そのものの再建であり、そして国の仕事だ」
クラリスは何も言わなかった。
アークランド公爵は、手元の目録へ視線を落とした。
「これは預かっておけ」
「査定は」
「エーデルライト家に任せろ」
「はい」
「ただし」
夫は目録の最後の頁を指先でなぞった。
「査定額が出る前に、もっと大きな値段を決める必要がありそうだ」
クラリスは、その言葉の意味を問わなかった。
・・・・・
・・・
翌日。
王宮、大会議室。
机の上に並んでいるのは、戦勝報告ではなかった。
金だった。
正確には金がない、という報告だった。
財務卿が青ざめた顔で帳簿を読み上げる。
「王領備蓄の追加放出は、冬期分を侵食いたします」
次。
「北方復興のための特別補助を新設した場合、同等の被害を受けた諸領から同様の要求が出ることは避けられません」
次。
「トレンスの債務を王命で一方的に免除すれば、今後の王家保証そのものの信用を損ねます」
「追加徴税は」
「却下だ」
国王が短く言った。
「疫病の最中だぞ」
「御意」
沈黙が重く広がる。
誰も、トレンスを救う必要がないとは言わない。
むしろ逆だった。
救わなければならない。
白龍と大規模スタンピードによって、北方防衛線は崩壊寸前まで追い込まれた。
多数の村が失われ、城塞も補修が必要。兵も補充しなければならない。
トレンスを復旧させなければ、次に同じ規模の災害が来た時、王国北方そのものが裂ける。
だが。
金も、余剰兵も、物資もない。
どこも限界だった。
長い沈黙の後。
マクシミリアンが口を開いた。
「一つ」
全員の視線が集まる。
「方法がある」
レオポルトは、そこで初めて顔を上げた。
マクシミリアンは続ける。
「現金を復興補助として出せば、他家との公平性に問題が出る」
「そうだ」
財務卿が答える。
「ならば」
マクシミリアンの指が、机を一度叩いた。
「復興補助という形で出さなければよい」
セドリックの眉がわずかに動く。
「……続けろ」
「婚姻だ」
室内の空気が変わった。
レオポルトの瞳が、ゆっくりと細くなる。
「……誰と……誰の話だ」
その声だけが、ひどく低かった。
マクシミリアンは彼を見た。
一瞬だけ、間があった。
「キース・フォン・トレンス侯爵と」
誰かの息を飲む声が、やけに大きく聞こえた。
「クリスティアナ・アルベルト・エレナ殿下」
静寂。
完全な静寂だった。
レオポルトは動かなかった。
ただ、机の上に置いていた右手の指だけが、ゆっくりと曲がった。
「……理由を、聞こうか」
冷たい声音だった。
彼は感情を挟まなかった。
「まず政治的に」
机の上に置いた手から、親指を静かに起こす。
「龍災害を受けた北方の忠臣へ、王家が最大級の信頼を示せる」
続いて、人差し指。
「王家との血縁を結ぶことで、復興後のトレンスと中央との関係を強く保てる」
中指。
「婚姻に伴う財産移転であれば、トレンスだけを対象とした特別復興補助とは扱われにくい」
財務卿が顔を上げた。
マクシミリアンは続ける。
「エルトリア家が現在保有しているトレンス名義の債権」
レオポルトの瞳が鋭くなる。
「その一部を、持参財産との相殺として処理できる」
「……」
「王家からは婚姻祝儀」
次。
「婚姻支度金」
次。
「必要であれば、一定期間の関税、街道使用料、王領施設利用料についても、婚姻に伴う特例として調整できる」
セドリックがゆっくりと息を吐いた。
「なるほどな」
財務卿も理解した。
「国庫から『トレンス復興費』として巨額を直接計上する必要がない」
「そうだ」
「他諸侯には、功臣への王族降嫁に伴う措置と説明できる」
「そうだ」
次々と理屈が組み上がっていく。
どれも……正しい。吐き気がするほどに。
「反対だ」
レオポルトが苛立ちを隠さず告げる。
空気が止まった。
「……レオポルト」
セドリックが低く呼ぶ。
「……反対だ」
もう一度、今度は睨みつけながら。
マクシミリアンは静かに問う。
「理由を」
レオポルトの眼光が鋭くなる。
「クリスティアナは物資ではない」
「分かっている」
「債務整理のための貨幣でもない」
「分かっている」
「ならば……!」
「だから婚姻という形を取る」
「言葉を変えれば、人間を使っていないことになるのか」
マクシミリアンは一歩も引かなかった。
「なら代案を出せ」
その言葉だけで、レオポルトの口が止まった。
マクシミリアンは机上の帳簿を押し出した。
「トレンスが冬を越すために必要な金額だ」
次。
「国庫から追加で出せる限界」
次。
「エルトリアがすでに引き受けている信用保証」
次。
「アークランド、ハートフィリアが既に出した支援」
次。
「他公爵家が動かせる余力」
最後に。
「……全部足しても届かん」
誰も言わなかった。いや……言えなかった。
「昨日」
マクシミリアンの声が少しだけ低くなる。
「トレンス侯爵夫人が、我が妻のところへ来た」
レオポルトが視線を上げる。
「追加支援を求めた」
「……」
「妻は断った」
少し間が開いた。
「それでも帰らず、学生時代から持っていた私物を差し出して、これで買えるだけ何かを寄越せと言ったそうだ」
セドリックの眉が動いた。
レオポルトの顔から、僅かに色が消える。
「一侯爵夫人が……思い出の品まで売って麦を買おうとしている」
マクシミリアンは続ける。
「……そこまで来ている」
レオポルトの視線が、机の一点に落ちた。
「これはもう、トレンス家の倹約や私財で解決できる規模ではない」
マクシミリアンの声は冷静だった。
「このままでは……トレンスは戦場では生き残っても、復興で死ぬ」
誰も反論しなかった。
正しいからだ。
それが……何よりも……腹立たしかった。
セドリックが口を開いた。
「レオポルト」
「……」
「俺も、この案が気に入っているわけではない」
「なら……止めろ……!」
「止めた後に……何を出す」
答えがなかった。
「金か」
答えられない。
「兵か」
…答えられない。
「穀物か」
……答えられない。
「魔晶石か」
答え……られない。
沈黙が真綿で首を絞めるように、重くのしかかる。
やがて国王が、低い声で問うた。
「……クリスティアナ本人は」
レオポルトの視線が上がった。
その目だけは、明確に鋭かった。
「本人には」
ゆっくりと、絞り出すように吐き出した。
「私から話す」
「拒んだ場合は」
「その時は……この話は終わりだ」
誰も、すぐには答えなかった。
マクシミリアンが静かに頷く。
「異論はない」
セドリックも。
「当然だ」
国王は目を閉じ、暫しの間逡巡した。
「では、本人の意思を確認した後、再度決する」
そう告げた。
会議はそこで一旦、止まった。
レオポルトは最後まで席を立たなかった。
目の前にあるのは、トレンスを救う数字。
その横にはあるのは……一人の少女の名。
どちらも……消すことができなかった。
・・・・・
・・・
同じ夜。
エルトリア公爵邸。
レオポルトは長いあいだ、クリスティアナの部屋の前に立っていた。
扉を叩けなかった。
中から、小さな咳が聞こえた。
やがて。
「叔父様?」
声がした。
気配に気づいたのだろう。
「そこにいらっしゃるのでしょう?」
レオポルトは目を閉じた。
それから扉を叩いた。
「入ってもいいか」
「もちろんですわ」
扉を開くと暖炉の火が見えた。
ついで、薄い毛布を被った白銀の髪と赤い瞳。
窓辺の椅子に座ったクリスティアナが、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「随分、怖いお顔ですこと」
「……そうか」
「ええ」
彼女は笑った。
「今にも誰かを叱りつけそう」
レオポルトは何も言えなかった。
机の上には持ってきた書類。
トレンス侯爵家の損害。
債務。必要復興額。婚姻によって動かせる金。
全部入っている。
クリスティアナの視線が、そこへ落ちた。
「……トレンスのお話ですね」
レオポルトの喉が固くなった。
「……なぜ分かる」
「叔父様が、そのようなお顔をなさる時は」
柔らかく答える。
「大抵、誰かを助けたいのに、簡単には助けられない時ですもの」
その言葉が。
深く胸へ刺さった。
レオポルトは椅子へ座った。
やがて、逃げずに……最初から最後まで話し始めた。
・・・・・
・・・
翌朝。
ダイアナのもとへ、エルトリア公爵家から正式な使者が訪れた。
差し出された書面には。
借財の一部相殺。
持参金。
婚姻に伴う信用供与。
関税減免。
王家からの祝金。
数字が並んでいた。
昨夜まで。
どれほど走っても。
どれほど頭を下げても。
どれほど思い出を売っても。
なお、届かなかった数字だった。
ダイアナは、紙を握ったまま動かなかった。
「……条件は」
使者が答える。
「婚姻にございます」
「誰と……です……?」
聞く必要などなかった。
それでも聞いた。
「現トレンス侯爵、キース・フォン・トレンス閣下と」
一拍。
「クリスティアナ・アルベルト・エレナ殿下」
ダイアナは目を閉じた。
昨夜、クラリスの机に置いた青い首飾りが、脳裏に浮かんだ。
あれ一つで。
麦が二十袋。
毛布が五十。
子供の靴。
旧式の鉄釘。
それが自分の思っていた値段だった。
そして今、目の前にあるのは、一人の女へつけられた。
家一つを辛うじて生かすほどの数字が並んでいた。
「……そう」
それだけ言った。
怒りはなかった。
まだ、嫉妬もなかった。
ただ、ひどく疲れていたのだと思う。
使者が慎重に問う。
「侯爵夫人として、御意見を」
ダイアナは書面をもう一度見た。
この金があれば……冬を越せる。
この金があれば……遺族へ金を出せる。
この金があれば……村を再建できる。
この金があれば……商会への支払いを繋げられる。
この金があれば……壊れた砦を直せる。
キースが背負わされた、あの血塗れの損害目録の数字を……。
ほんの少しだけ……減らせる。
ダイアナは唇を開いた。
「……受けるべきです」
声は震えなかった。そうであって欲しかった。
・・・・・
・・・
召喚状がヴァルデシアに届いたのは、死者の名簿が三冊目の半ばに達した朝だった。
指先は炭と泥で黒く汚れ、右腕の当て布からは今朝もまだ黄色い体液が滲んでいた。凍りついた帳簿の頁をめくるたび、破れた革手袋の隙間から冷気が骨を刺す。
そこへ現れた王宮典礼院の特使の外套には、泥の跳ね返り一つ付いていなかった。真紅の封蝋が、薄暗い詰所の中で異様に鮮やかだった。
「……凱旋式?」
帳簿から目を上げた自分の声が、他人のもののように掠れて響いた。
特使は埃を嫌うように半歩身を引き、恭しく羊皮紙を差し出してきた。白龍を退けた未曾有の大功、王国の北壁を死守した武勲を全土に布告するため、国王陛下が王都にて凱旋の式典を執り行う──新当主は直ちに王都へ出頭せよ、と。
「断る」
俺は羊皮紙を押し返した。
何を言っているのか、本気で分からなかった。
「まだ外郭の瓦礫の下に遺体がある。埋葬も終わっていない。崩れた防柵の杭一本すら打ち直せていないんだ。今、俺がここを離れられるわけがない」
特使は眉一つ動かさなかった。その清潔な視線が、俺の背後で副官が抱え込んでいる資材の受領台帳へと、すべり落ちる。
「閣下。王都第二軍需倉からの追加資材、ならびにエルトリア公爵家からの復興手形についてでございますが」
「……何の話だ」
「本式典における『親授の儀』を以て、すべての支援決済が完了する規定となっております」
氷水のような声だった。
「当主閣下の御親署と受領印が玉座の前で交わされぬ限り、南の街道で待機している荷馬車三百台は一歩も動きません。……止めるおつもりですか。明日の朝、この城の民に配るはずの麦を」
喉が詰まった。息が吸えなかった。
視線を落とせば、足元には昨日まで俺が書き写していた死者たちの名前。窓の外からは、凍傷の手で木槌を振るう工兵たちの、鈍く湿った音が響いている。
右手を強く握り締めると、包帯の奥で傷口が裂け、生ぬるい血が皮膚を伝った。その熱さだけが、辛うじて現実だった。
「……馬を引かせろ」
絞り出した声に、特使は満足そうに深く頭を下げた。
・・・・・
・・・
数日後
王都の別邸に着いたあとのことは、水底から見上げているような、酷く輪郭の曖昧な記憶しかない。
通された大広間の中央には、もうもうと湯気を上げる巨大な真鍮の湯桶が据えられていた。迎え出た典礼官の従僕たちに、有無を言わさず泥だらけの外套を剥ぎ取られる。
「傷口の泥を落とせ。香油を三度塗り重ねろ」
「爪の間の血を掻き出せ。手袋で隠せると侮るな」
「髭を剃れ。髪を切り揃えろ。英雄が薄汚れていては民が失望する」
飛び交う指示が、耳の奥で反響して意味を結ばない。
冷え切った身体に熱湯を浴びせられ、傷口を刺激の強い薬酒で擦られるたび、歯がガチガチと鳴った。痛いのか熱いのかすら判然としない。まるで、市場に並べる家畜を解体し、洗い清めている作業を見ているようだった。
北の砦では、貴重な治癒薬の最後の一匙まで、腹を裂かれた兵や凍傷で手足を落とした工兵へ回させた。当主である俺の腕に塗られたのは、馬用の気付け薬の残りと、煤けた布きれだけだった。
王都に着いて施されたのも、治療などではなかった。
熱病で聖律院の薬が底を突いているからではないのだろう。彼らが求めているのは傷の治癒ではなく、腐臭を覆い隠す香油と、爛れた皮膚を隠すための白い手袋だ。
「……喪服はないのか」
濡れた髪を布で乱暴に拭われながら、俺は壁際に掛けられた衣装を見て呟いていた。
「父が死んだ。師団長も、八百を超える兵も死んだんだ。俺が着るべきは黒だ」
「滅相もない!」
主任典礼官が両手を激しく振って、俺の言葉を遮った。
「本日は王都のすべての民が熱病の恐怖を忘れ、神と英雄に感謝を捧げる日です!そのような場に喪服で登壇するなど不吉極まりない。王命に対する反逆と取られかねません」
目の前に広げられたのは、純白の絹で仕立てられた豪奢な礼装だった。
肩には金糸で精緻に縫い上げられた双頭の鷲。襟元には大粒の真珠が並び、胸当てには曇り一つなく磨き抜かれた白銀の儀礼甲冑が嵌め込まれている。
固く縛り直された傷口に、滑らかな絹の裏地が擦れる。その滑らかさが、吐き気を催すほどに冷たかった。
腰には、宝飾店から届けられたばかりの、一度も血を吸ったことのない華美な儀礼剣が吊るされる。重みばかりがあって、何の役にも立たない金細工。
姿見の中に立っていたのは、泥に塗れて父を喪い、仲間を埋めてきた男ではなかった。
白と金で塗り固められた、完璧な「英雄」の剥製が、虚ろな目でこちらを見返していた。
・・・・・
・・・
ゴォン、と重苦しい鐘の音が頭上から降ってきた。
王都正門の巨大な鉄扉が軋みを上げて開かれた瞬間、視界が真っ白に染まった。白と赤の花吹雪が、吹雪のように吹き荒れていた。
「キース様だ!」
「白龍を討ち払った英雄だ!」
「トレンス万歳! 王国万歳!」
地響きのような大歓声が、石造りの街並みを震わせる。
目抜き通りを埋め尽くす群衆。熱病の死臭を消すために撒かれた強い香水の匂いと、家々の軒先から立ち上る煮詰めた酢の酸っぱい蒸気。
病人を出したはずの家の窓からも人々が身を乗り出し、狂ったように白い手巾を振っていた。
俺はあてがわれた白馬の背で、手綱を握り、背筋を伸ばしていた。
そうしていなければ、今すぐにでも馬から転がり落ちそうだった。
(……なぜだ)
敷石を見下ろすと、撒き散らされた花びらが、白馬の蹄に踏み躙られて泥水の中でぐちゃぐちゃに潰れていく。
耳の奥で、あの細い針のような耳鳴りが止まらない。
(なぜ、祝っているんだ)
「英雄様!こっちを向いてくれ!」
「助けてくださってありがとう!」
幼子を天にかざす母親。涙を流して両手を合わせる老人。
見渡す限りの熱狂。だが、その光景のすべてにピントが合わない。音だけが鼓膜を殴りつけ、映像だけが網膜の上を滑っていく。
(俺は、龍を討ち払ってなどいない)
父を殺され、家臣を、部下を殺され、剣を粉々に砕かれ、ただ見向きもされずに雪の上に転がっていただけだ。
助けたのではない。生き残ってしまっただけだ。
何を喜んでいる。何に感謝している。
お前たちが頭の上からばら撒いているこの花びらの一片すら、北の冷たい土の下に埋もれた兵たちの、砕けた骨の代わりにはならないというのに。
手綱を握る指が白く強張り、唇を噛み切るほど固く結んだ。
もし今、一言でも口を開けば、沿道の群衆に向けて取り返しのつかない罵声を叫んでしまいそうだった。
熱狂の濁流に押し流されるようにして進みながら、俺の目は、無意識に群衆の隙間を彷徨っていた。
──ディア。
別邸に着いたとき、彼女の姿はなかった。
王都にいるはずの彼女が、なぜ出迎えないのか。なぜここにいないのか。
この眩暈のするような狂気の中で、あの静かな、澄んだ佇まいだけを探していた。彼女の姿を見つけられれば、この悪夢から覚められるのではないかと、縋るように視線を巡らせていた。
だが、どこにもいなかった。
花吹雪と歓声の渦を抜け、白馬は冷たい影を落とす王宮の白亜の門へと吸い込まれていった。
・・・・・
・・・
謁見の間の高い天蓋の下は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
中央に敷かれた長い赤い絨毯。その上を一歩踏み出すたび、腰に下げられた真新しい儀礼剣の鞘が、カチャリと無機質な音を立てる。
両脇に居並ぶ諸侯や高位貴族たちの視線が、針のように俺の身体に突き刺さっていた。
右列の先頭には、巌のような顔で腕を組むエルトリア公。その隣には、氷のように目を細めるアークランド公爵と、青ざめた唇を噛むクラリス夫人。左列には、帳簿を胸に抱えた宰相セドリック。
誰もが、着飾った俺を値踏みするように見つめている。
俺は歩きながら、参列席の列を必死で目で追っていた。
どこだ。どこにいる。
歩みを進めるたび、心臓が早鐘を打った。
そして──最前列に、その姿を捉えた。
ダイアナがいた。
息が止まりそうになった。
だが、安堵は生まれなかった。むしろ、足の裏から全身が凍りついていくような悪寒が走った。
濃紺の、非の打ち所のない侯爵夫人の正装。乱れ一つなく結い上げられた夜色の髪。
その首元を凝視して、俺の足が一瞬、完全に止まりかけた。
ない。
いつも彼女が肌身離さず身につけていた、記念証の青い首飾りがなかった。
あるはずのものが消え去ったそこには、ただ、白く細い首筋が寒々しく露わになっていた。傷口を晒しているかのように、痛々しく、何もない。
目が合った。
助けを求めるように、俺は彼女を見つめた。
だが、ダイアナは微笑みすら崩さず、わずかに顎を引いて、完璧な淑女の礼を返してきた。
揺らぎのない、隙のない、あまりにも美しい所作。
その澄み切った双眸は、俺を「夫」として見てはいなかった。
儀礼の場に据えられた、ひとつの「象徴」を見る目だった。
遠い。
手を伸ばせば届くはずの距離にいるのに、彼女と俺の間には、絶対に越えられない深いクレバスが穿たれているようだった。声も届かない。想いも届かない。あんなにも近くにいる妻が、まるで別世界の絵画の中に閉じ込められてしまったかのように遠かった。
玉座の前で、俺は敷物に膝を突いた。
白銀の儀礼甲冑が擦れ、石床に硬い音を立てる。
「面を上げよ、キース・フォン・トレンス」
若き国王の声が、高く響いた。
顔を上げると、玉座の豪奢な天幕の影に、ひとつの人影が佇んでいるのが見えた。
王の口から、定型句の賛辞が滑らかに紡ぎ出される。未曾有の災厄より北境を守り抜いた、古の白龍を退けた、先代ゲアハルト卿の討死は痛恨の極みであるがその忠誠を高く評価する──。
全部、空虚な音の羅列だった。
王の合図で財務卿が進み出て、分厚い羊皮紙の巻物を広げた。咳払いが一つ、静寂を切り裂く。
「論功行賞の目録を読み上げる」
感情を削ぎ落とした、平坦な実務者の声。
「一、エルトリア公爵家保有のトレンス侯爵領債権、四十万マルク相当を全額相殺免除」
四十万マルク……標準金貨にして八万枚分。
だが、どの金貨だろうと関係ない。そもそも硬貨など一枚も支払われはしないのだ。エルトリアの大帳に書かれたマルクの数字に、王家の判が押されて消えるだけだ。
「一、王都第二、第三軍需倉より、高純度魔晶石二百、工兵用鋼材四千斤、冬期用小麦三万袋の優先無償払い出し」
「一、北方街道における通行税および関銭の免除特例、向こう二十年間」
「一、破損せる魔攻砲の再建補助として、王家より婚姻支度金、金貨三万枚を下賜」
「一、向こう十五年間、トレンス領内にて産出・回収さるる指定魔獣素材ならびに魔力心臓につき、ロンスマイヤ家および指定座商による協定公定価格での全量優先買付権を認可」
「一、これに伴い、当該素材の移送に係る北方関税および中央取引税を全額免除とし、その買付総額は、各家立て替えの越冬支援債務の相殺原資へ優先充当せしむるものとする」
広間のあちこちから、低いため息とざわめきが漏れた。
破格。一領地に与えられる恩賞の桁を完全に踏み越えた、途方もない数字。
居並ぶ公爵たちの顔を見れば分かった。
眉間に皺を寄せ唇を結ぶレオポルト。氷の目で帳簿を見つめるマクシミリアン。隈の浮いた目で視線を落とすセドリック。その他にも列席する面々。
王都の金庫を底まで叩き、各家の蔵から絞れるだけの枠を掻き集めて、婚姻という名目で辛うじて積み上げた、国家の限界の数字。
膝の上に置いた俺の拳が、微かに震えた。
(これが……)
父の命の値段。
雪と泥に消えた部下たちの、砕けた骨の重み。
そして、北の街を冬の飢えから救うために、どうしても喉から手が出るほど必要な、絶対の数字。
俺たちが血を流して買ったのは、勝利などではない。
この一枚の紙の上に並べられた数字と、未来の領地そのものを質に入れた、絶対に不渡りの許されない空手形だった。
「──そして」
財務卿が巻物の最後の一行を読み上げた。
「此度の武功に対する王家至高の信任の証として。故兄王太子の実娘、クリスティアナ・アルベルト・エレナ殿下を、トレンス侯爵家へ降嫁せしむるものとする」
空気が凍りついた。
ざわめきすら消え失せ、広間が完全な沈黙に呑まれる。
奥の天幕が静かに引かれた。
歩み出てきたのは、白銀の髪を持つ少女だった。
豪奢な真紅のドレスは、その折れそうなほど華奢な身体には重たすぎるように見えた。雪のように白い肌。透き通るような紅玉の瞳。
薄いベールの下から覗く唇は血色を欠き、踏み出す足取りは風に揺れる花のように頼りない。かすかに、甘い薬草の匂いが漂ってきた。
少女は俺の前まで進み、立ち止まった。
「……トレンス侯爵」
鈴を転がすような、だが不思議なほど芯のある声だった。
「北の守護、感謝いたします」
差し出されたのは、陶器のように白く細い手だった。
触れれば折れてしまいそうな、小さな指先。
俺はその手を見つめた。
頭が真っ白になり、思考が焼き切れていく。
この手を取れば。
先ほど読み上げられたあの冷酷な数字が、すべて現実になる。
北に麦が届く。石が届く。
死んだ兵たちの遺族に年金が支払われ、凍える子供たちに靴と毛布が配られる。
俺がこの手を拒めば、街道の三百台の馬車は止まり、ヴァルデシアの民は飢えて死ぬ。
選ぶ余地など、最初からどこにも用意されていなかった。
視界の端に映ったダイアナが、微動だにせずそこに立っていた。
青い首飾りを失った、白く剥き出しの首筋。
彼女は何を思ってそこに立っているのか。
彼女が差し出したあの首飾りの残骸が、いま、この高い天井から俺たちを見下ろしているような気がした。胸の奥が、乾いた音を立てて軋んだ。
俺は右手を持ち上げた。
白龍の炎に焼かれ、皮膚がただれ、未だに指先の感覚すらろくに戻っていない右手。
金糸の刺繍が施された白い手袋が、その醜い傷口を覆い隠している。
震える腕を伸ばし、その手を、少女の冷たい指先へと重ねた。
氷のような冷たさが、布越しに伝わってくる。
「……過分なる栄誉」
喉の奥を力任せに引き裂くようにして、声を絞り出した。
胃の腑の底からせり上がってくる鉛のような熱さを、必死で飲み下す。
「謹んで……拝領いたします」
その瞬間、ドォンと腹に響く祝砲が炸裂した。
宮廷楽団のトランペットが一斉に甲高いファンファーレを吹き鳴らし、割れんばかりの拍手が謁見の間を埋め尽くした。
諸侯が立ち上がり、笑顔で手を叩いている。
国王が満足げに深く頷いている。
クリスティアナの赤い瞳が、至近距離から俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳の奥には、恐怖も、憐れみもなかった。
ただ、自分自身もまた、あの冷酷な帳簿の上に並べられた「品目」の一つに過ぎないことを、とうの昔に受け入れてしまった者の、澄み切った諦念に見えた。
「……痛みますのね」
怒号のような拍手と歓声の渦の中、少女の唇から、かすかな囁きが零れ落ちた。
「手袋の下。まだ、血が止まっておられませんわ」
俺は何も答えられなかった。
何も言えず、ただ、その白く冷たい手を、折れた指で強く握り返した。
降り注ぐ拍手。きらびやかな衣装。熱狂する人々。
そのすべてが、どこか遠い異国の出来事のように霞んでいく。
俺の中で、何かが音を立てて軋んでいた。
・・・・・
・・・
そこから先のことは、ほとんど覚えていない。
誰に何を言われたのか。
どの廊下を歩かされたのか。
誰に頭を下げ、誰に祝福の言葉を浴びせられたのか。
あの広間の最前列に立っていたダイアナが、いつ謁見の間からいなくなったのかさえ分からなかった。
気づけば、見知らぬ部屋の椅子に深く沈み込んでいた。
王宮の客間なのか、別邸の一室なのか、それすら判然としない。
暖炉では薪が爆ぜ、赤々とした火が揺れている。
磨き抜かれた机の上には、銀の蓋が被せられたまま、一口も手をつけられていない豪勢な料理。
脱がされた白銀の儀礼甲冑が、壁際の衣桁に虚ろな骸のように掛けられていた。あの華美な金細工の儀礼剣も、その横に立てかけられている。
全部が、どこか遠い他人の持ち物のように見えた。
俺は椅子に座ったまま、膝の上の自分の右手を見下ろしていた。
金糸の白い手袋はいつの間にか外されていた。
巻き直されたはずの包帯には、すでにじっとりと、赤黒い新しい血が滲み出している。
なぜ、俺はここにいるのか。
誰がここまで運んできたのか。
ダイアナはどこにいるのか。
訊かなければならないことは、山ほどあった。
だが、息を吸い、唇を動かし、声を出すという行為そのものが、途方もなく遠い対岸の出来事のように思えてならなかった。
頭の奥底で、針のような耳鳴りがずっと細く鳴り続けている。
不意に、扉が微かな衣擦れの音とともに開いた。
「──キース様」
鈴を転がすような、透き通った声だった。
顔を上げることすら億劫だった。だが、足音は躊躇うことなく絨毯を踏みしめ、俺の座る椅子のすぐ脇で止まった。
クリスティアナだった。
謁見の間のあの重苦しい真紅の正装ではなく、柔らかな薄桃色の室内着をまとっていた。白銀の髪は肩に流され、紅玉の瞳が、何の曇りもなく俺の顔を覗き込んでいる。
その後ろに控えていた侍女たちを手で制し、彼女は小さな銀の盆を自ら机に置いた。
湯気を立てる陶器の碗から、蜂蜜と干し葡萄を煮詰めた甘い匂いが立ち上る。
「侍女たちを下がらせましたわ。お疲れでしょう。式典のあいだ、ずっとお顔がお白く見えましたから」
屈託のない、花がほころぶような笑みだった。
悪意も、打算も、影すらもない、純粋な善意。
「温かい林檎の果湯ですの。喉を通しやすいように、香草を抜いて甘く仕立てさせました。一口だけでも召し上がれませんか?」
彼女は碗を手に取り、そっと俺の口元へと差し出してきた。
白い、透き通るような指先。
その指の隙間から立ち上る甘い湯気が、鼻腔を突く。
吐き気がした。
ヴァルデシアで兵たちが啜っていたのは、泥水で薄め、わずかな塩を振っただけの凍りついた麦粥だった。死にゆく者が最後に口にしたのは、雪の味だけだった。
それなのに、この部屋には、暖炉の熱気と、甘い果実の匂いが充満している。
「……殿下」
喉が張り付いて、掠れた声しか出なかった。
対して、クリスティアナは嬉しそうに目を細め、小首を傾げた。
「まあ、殿下だなんて。これからは夫婦になるのですもの。クリスティアナとお呼びになって。……それとも、クリスの方がよろしいかしら?」
夫婦。
その二文字が、頭蓋の内側に鈍器のように叩きつけられた。
俺の妻はダイアナだ。
あの日、父に背中を押され、ぎこちなく手を取り合って誓いを交わした、あの夜色の髪の女だけが──。
だが、言葉は声にならなかった。
この少女を拒めば、街道の麦が止まる。
四十万マルクの借財が北の首を絞め直す。
その事実が、鉄の枷となって俺の喉を塞いでいた。
「あ……右手、また血が」
クリスティアナが小さな声を上げた。
俺の膝の上、血の滲んだ包帯に気づいた彼女の眉が、悲しげに寄せられる。
彼女は迷うことなく、懐から取り出した雪のように白い麻の手巾を、俺の傷口の上に重ねた。
柔らかく、温かい手のひらが、包帯越しに痛む傷を包み込む。
「痛むのですね。……あのような巨大な白龍に、お一人で立ち向かわれたのですもの。どれほど恐ろしく、どれほど勇敢であられたか」
夢見るような、熱を帯びた瞳で彼女は俺を見上げていた。
「王宮の窓から、パレードを見下ろしておりましたの。国中の民が、あなたのお名前を叫んでおりました。白い馬に乗られたお姿は、まるで昔語りの英雄そのものでしたわ。私、ずっと胸が高鳴っておりました。このような立派な方に嫁ぐことができるなんて、神に感謝しなければなりませんね」
やめてくれ、と叫びたかった。
手巾を払いのけ、その無垢な顔を突き飛ばしたかった。
俺は立ち向かってなどいない。
父とルドルフにハーゲンが命を燃やし、歩みを止めた。
俺は茫然と立ち尽くしていただけだ。
剣を砕かれ、仲間の肉片が降り注ぐ雪の中で、ただ屈辱に震えていただけだ。
英雄など、どこにもいない。
ここにいるのは、父の命と引き換えに麦を買い、部下の屍の上に白い服を着せられて座らされている、ただの生き残りだ。
言わなければならない。
お前の見ているものは全部嘘だと。
外で手を振っていた民の熱狂も、王が読み上げた目録も、この白い服も、全部、泥と死臭を塗り隠すための欺瞞だと。
なのに、彼女の手巾はあまりにも白く、触れる手のひらはあまりにも温かかった。
「北のお城は、雪がたくさん降るのでしょう?私、本で読んだことがありますの」
クリスティアナは俺の手を大切そうに両手で包み込みながら、無邪気な夢を語り続ける。
「春になれば、雪解け水でお花が一斉に咲くのでしょうね。街の皆様にも、早くお会いしたいですわ。復興のお手伝い、私にもできることがあれば何でも仰ってくださいね。あ、まずは冬を越すための毛布の手配からでしょうか。私、叔父上……陛下にお願いして、もっと良い羊毛を集めていただきますわ」
彼女は本気だった。
心から、北の民を想い、心から、俺の傷をいたわり、心から、良き妻になろうとしていた。
「叔父様から、北のお話は伺いました。たくさんの方がお亡くなりになって……あなたも、大切な方を亡くされたと」
何の打算もない。
彼女自身もまた、政略の駒としてここに置かれているはずなのに、その過酷な現実を「美しいおとぎ話」として信じ切っていた。
「それでも、最後まで皆様の前に立たれたのでしょう?」
彼女の純白な善意の前では、俺の憎悪も、絶望も、ただの醜い泥に成り果てる。
怒ることすら、許されない。
拒絶することすら、この無力な少女を傷つけるだけの理不尽な暴力になってしまう。
(ああ……)
全身の力が、指先の先から抜けていくようだった。
胸の奥で、張り詰めていた最後の細い糸が、ぷつりと音を立てて千切れた。
ダイアナの、青い首飾りの消えた首筋が脳裏をよぎる。
彼女は知っていたのだ。
この部屋で、この少女が、俺に何を差し出すのかを。
そして、俺がその手を取る以外の道を残されていないことを。
だからこそ、彼女は何も言わず、一滴の涙も見せず、ただ完璧な礼をして俺を見送ったのだ。
俺の心を守るためではなく、トレンスを、ヴァルデシアの民を生かすために。
「キース様……?どうかなさいましたか?」
俺の頬を涙が伝っていたのか、クリスティアナが驚いたように瞳を揺らし、白い指先で俺の頬に触れようとした。
「お痛みがひどいのですか?それとも、お疲れが……」
「……いえ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦で、低く、冷たく乾いていた。
心臓の鼓動が、氷のように静まっていく。
感情を殺さなければ、今この瞬間に発狂してしまう。
俺は、傷口を押さえてくれている彼女の白く温かい手を、右手でそっと包み返した。
その手のひらの下に、傷口から滲んだ赤黒い血が、純白の手巾をじわりと赤く染め抜いていくのが見えた。
「……何でも、ありません。殿下」
「クリス、ですわ」
少女は安堵したように、再び眩いばかりの無邪気な笑顔を咲かせた。
「クリスとお呼びになって、キース様」
「……────―」
その名を唇に乗せた瞬間、俺の頭の奥で、何かが完全に砕け散った。
砕けて、粉々になって、二度と元には戻らない暗い穴が穿たれた感じがした。
その穴を、彼女の甘い果湯の匂いと、暖炉の無機質な熱気だけが、容赦なく満たしていった。
その夜、王宮では婚礼のための灯が、夜更けまで消えなかった。