第百四十七話 四角い食卓と、抗えぬ揺り籠
壁際の黒い映像受信機は沈黙したままだった。
ほんの少し前まで、その中では色鮮やかな少女たちが笑いながら武器を構え、見たこともない兵器の扱いを歌うように教えていた。
子供向け。
その言葉を思い返すだけで、こめかみの奥がじわりと痛む。
アメリアは立ち上がり、窓際へ歩いた。
外はもう薄暗い。北方の空は日が落ちるのが早い。
硝子越しに見える庭の樹木は、風に揺れている。なのに室内は静かだった。
重厚な扉の向こうから、鈴を転がすような笑い声と、小走りの足音が近づいてきた。
ぱたぱたぱたぱた。
規則正しい侍女の足音ではない。
もっと軽く。もっと速く。そして、明らかに誰かに止められている足音だった。
「奥様……!お待ちくださいませ」
聞き覚えのない侍女の声。
続いて、明るい女の声。
「嫌です」
アメリアの眉が上がった。
「ですが、長旅の直後でございます。お休みになられている可能性が」
「では、静かに起こします」
「起こしては意味がございません」
「でも、もう着いてから随分経ったでしょう?」
「まだ一時間も経っておりません……!」
「シェーラ、そんなに慌てなくても大丈夫ですわ」
「慌てさせているのは奥様でございます……!」
足音が近づく。
アメリアは、その声を聞いた瞬間から、もう誰なのか分かっていた。
分かっていたからこそ、額へ手を当てた。
「……まさか」
扉の前で足音が止まった。
「アメリア様!アメリア様がいらしていると伺って!」
扉がノックされるよりも早く勢いよく開き、飛び込んできたのは、白銀の髪をふわりと揺らした女性だった。
薄桃色の部屋着の上に、驚くほど薄手の白いショールを一枚羽織っているだけ。
外は北方の吹雪だというのに、その頬は湯上がりのように淡い桜色に染まっていた。
かつてアメリアが思い描いていた、寒々しい離れで咳き込み、夫の挫折と王室の身勝手な政略に沈む「悲劇の母」の面影は、どこにもなかった。
「……クリスティアナ様?」
アメリアは温熱布を膝から落としそうになりながら、思わず寝台から立ち上がった。
昔とほとんど変わらぬ、ぱっと花が開いたような笑顔。
次の瞬間、その細く白い両手が、ためらいもなくアメリアの手を包み込んだ。
王家の……そして、公爵家の血を引く侯爵夫人でありながら、まるで寄宿舎の同室の友人に駆け寄る少女のような無作法。
「まぁ、本当にお久しぶりですわ!ルーカスが学園でご迷惑をかけていないかしら?あの子、少し頭が良すぎて、たまに可愛くないことを言ってしまうでしょう?」
屈託のない笑顔だった。
手のひらは驚くほど温かく、指先には荒れひとつない。
トレンスを覆っていたあの軍事的な硬質さも、精密に時間を刻むダイアナの鋭さも、ここには欠片も存在しなかった。
アメリアは、その柔らかい体温に一瞬だけ喉を詰まらせた。
だが、すぐに教育者としての背筋を伸ばし、クリスティアナの手を優しく、しかし確実に押し戻した。
「……クリスティアナ殿下。お顔色がよろしいのは何よりですが、少々、喜びを露わにしすぎでございます」
アメリアの声は静かだったが、かつて訓練場で生徒を正した時の硬さを孕んでいた。
「貴女様はエルトリアの血を引かれ、このトレンス侯爵家の母たるお方。……廊下を走るなど、学園の初等部の生徒ですら慎みますわ。それに、そのお召し物は……」
アメリアの視線が、クリスティアナの薄いショールと足元へ落ちる。
床を引きずる長い裾はなく、足元には音を立てない室内履き。
扉の向こうではシェーラが息を整えており、そのさらに奥から、青ざめたルイーゼまで小走りで追いついてきていた。
「玄関の冷気に晒すなと、ルーカス卿から厳命されているとキース殿から伺いましたが」
クリスティアナは、小言を食らった子供のように「あら……」と小さく唇を尖らせた。
だが、叱られたことすら嬉しいとでも言うように、すぐにまた朗らかに微笑む。
「ふふ、ごめんなさい。でも、早くお顔が見たかったのですもの。それに……寒くありませんのよ」
クリスティアナは薄いショールの端を指先でつまんでみせた。
羽毛のように軽く、織り目の詰まった見慣れない布地。
「ルーカスが整えてくれたこのお家、廊下の端から端まで、どこを歩いても同じ温かさなのです。あの子が言うには、空気の通り道を作って、入ってくる風を全部温めているのだとか……難しいことは分かりませんけれど」
彼女は振り返り、部屋の外に控えていた侍女へ手招きをした。
侍女がおずおずと差し出した小さな銀のトレイの上には、見慣れない細身の金属筒が載っていた。
継ぎ目のない銀色の筒。蓋を外すと、ふわりと甘い湯気が立ち上る。
炉で温め直した気配はないのに、淹れたての熱が閉じ込められていた。
「これ、ルーカスが温度や甘さまで何度も試して、私に合うように作ってくれた林檎の果湯ですの。飲むと体がポカポカして、難しいことなんて、ぜんぶ忘れられてしまいますのよ。アメリア様もどうぞ」
陶器の小さな杯に、黄金色の澄んだ液体が注がれる。
蜂蜜と干し葡萄、そして極限まで澄まされた薬草の匂い。
だが、決定的に違う。
手渡された杯の縁には歪みがなく、底には澱ひとつ沈んでいない。
アメリアは杯を受け取った。
指先へ、鋭すぎない、最適な温度が伝わってくる。
「……クリスティアナ殿下」
アメリアは湯気を見つめたまま、低く問うた。
「……ご子息について、お伺いしたい」
クリスティアナは、何でもない日常の天気を答えるように、首を傾げた。
「ルーカスですの?」
「ええ」
「可愛いでしょう?」
「そういう話ではありません」
「とても賢くて」
「知っています」
「優しくて」
「……」
「それから、とても可愛いですわ」
「……二回目ですが」
クリスティアナはにこにこと笑っている。
アメリアはその顔をしばらく見つめ、ふと、尋ねた。
「……昔から、ああだったと?」
「いいえ?」
あまりにも即答だった。
アメリアの眉が動く。
「……違うので?」
「赤ちゃんの頃は普通でしたわ」
「それは……そうでしょうね」
「よく泣いて。よく眠って。私が抱っこすると、すぐ眠ってしまって」
クリスティアナは懐かしそうに目を細める。
「とても素直で可愛い赤ちゃんでした」
「でも」
少しだけ、クリスティアナが考える。
「ある頃から、急に本を読むようになりましたの」
アメリアの表情が変わった。
「ある頃?」
「ええ」
「何歳くらい」
「三つ……四つになる前くらいだったかしら」
アメリアの目が細くなる。
「それは……普通なのでは……?」
早くはある。だが、異常という程ではない。多くの傑物も偉人にも、その程度の話は枚挙にいとまがない。
「最初は絵本でしたけれど」
クリスティアナは笑った。
「文字を覚えたと思ったら、すぐ書庫へ行ってしまって。気づけば、私にもよく分からない本を読んでいましたわ」
「でも、ルーカスは魔法より魔術の方が好きだったようですわ」
アメリアは黙った。
「……本人に聞いたことは?」
「何をです?」
「なぜ、そんなに急いでいるのか」
クリスティアナは窓辺へ歩き、外を見た。
庭の向こう。灯りの並ぶ街を見下ろす。
「最初は」
静かな声だった。
「皆、よく分からなかったと思います」
アメリアが目を向ける。
「ルーカスが言うこと」
「……例えば?」
「水をきれいにしましょう、とか」
「ええ」
「道を平らにしましょう、とか」
「ええ」
「薬を同じ場所で作りましょう、とか」
「……ええ」
「倉庫の箱の大きさを揃えましょう、とか」
アメリアは、今日見たものを思い返した。
道路。病院。物流拠点。規格箱。
「皆、最初は不思議そうでしたわ」
「……反対は?」
「ありました」
「当然ね」
「でも」
クリスティアナは振り返る。
その表情には、何かを説こうとする気負いなど欠片もなかった。
「便利でしたもの」
アメリアは黙った。
「……それだけ?」
「ええ」
あっけらかんとした答えだった。
「冬に暖かくて、水がきれいで、病気になった子が助かって、荷物が早く届いて、帰ってこられる兵が増えるなら……」
クリスティアナは、本当に不思議そうに首を傾げた。
「使いますでしょう?」
アメリアは返事をしなかった。
できなかった。
思想ではない。革命でもない。
ましてや、未来を信奉しているわけでもない。
使えるから使う。
生き残れるから残す。
魔法より魔術。
派手な力ではなく。構造を読む方へ。
キースから受け継いだ価値観を、そのまま異常な方向へ伸ばしたのでもない。
もっと前。
もっと深いところから。
あるいは、最初から、何かが違っているのか。
「貴女様は、今のこの領地を……あの子のしていることを、どう思っていらっしゃいますか?」
その瞬間。
クリスティアナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ええ、とても『正しい』場所だと思っていますわ」
一点の曇りもなかった。
疑いも、恐れも、後ろめたさも、微塵も混ざっていない紅玉の双眸。
「あの子が、誰も泣かないように、誰も寒くないようにと、魔法のように作り替えてくれたのですもの。……あの子の言う通りにお薬を飲んで、あの子の言う通りにお部屋を温めていれば、本当に咳が出なくなりますのよ。皆も笑っていますし……愛に溢れた、完璧な世界ですわ」
アメリアの指先が、杯の縁で小さく強張った。
愛。
あまりにも純粋で、あまりにも疑いようのない言葉だった。
この女性は、嘘をついていない。
息子が敷き詰めた規格も、秒刻みの運用も、外気を遮断する二重の気密も、すべて自分への「気配り」として、ただただ幸福そうに受け取っている。
ダイアナが秒単位の時間を刻む歯車となり。
キースが外から飛んでくる矢を受ける盾となり。
そしてクリスティアナが、傷ひとつない純白のまま、その中心で微笑んでいる。
あの少年が何を目指し、何を急いでいるのか。
その答えが、この暖炉の前にある気がした。
誰も死なせない。誰も凍えさせない。
そのために、熱を測り、風を塞ぎ、時間を縛り、人を動かす。
その徹底した計算の果てに出来上がったものが、目の前で薄桃色の服を着て、無邪気に笑っているこの母親だった。
「……左様でございますか」
アメリアは杯を口元へ運び、ゆっくりと果湯を含んだ。
甘い。
そして、恐ろしいほどに喉を滑らかに潤していく。
不純物も、苦味も、何ひとつ混ざっていない。
(……あの子は)
アメリアは胸の中で、静かに目を細めた。
あの少年は、世界を壊そうとしているのではない。
この、完璧に温められた部屋を。
誰も凍えず、誰も死なずに済むこの閉じた揺り籠を、ただそのまま、外の世界へ押し広げようとしているだけなのだ。
そして、そのために。
自分自身の体温すら、温度計の目盛りのように削りながら。
「……とても、温かい果湯ですわ。クリスティアナ様」
アメリアは杯をソーサーへ戻し、小さく微笑んでみせた。
「あら、よかった!」
少女のように相好を崩す侯爵夫人を見つめながら、アメリアの灰青の瞳の奥に、かつて戦場で見せた冷徹な光が、静かに、だが決して消えない火として灯り直していた。
すると、クリスティアナは空になった金属筒を侍女へ戻させ、ふと、アメリアの右膝へ視線を落とした。
「……アメリア様」
鈴のような声から、ふっと、先ほどまでの無邪気な浮遊感が抜け落ちた。
アメリアがわずかに顎を引く。
クリスティアナは、薄桃色の袖口から覗く自らの白く滑らかな指先を、静かに重ね合わせた。
その紅玉の瞳には、澄み切った光が宿っていた。
「私たちが王都で教わった『貴族の美徳』は」
あまりにも静かな、雪の降る音のような囁きだった。
「あの暗い部屋で咳き込んでいた私を、一度も温めてはくれませんでしたわ」
アメリアの呼吸が止まった。
クリスティアナは、微笑んでいた。
哀しみも、恨みもない。ただ春の光のような、残酷なほどの穏やかさ。
「あの子が私にくれたのは、格式でも名誉でもなく……ただ、明日も目が覚めるという事実だけですもの」
彼女は小さく首を傾げ、悪戯が見つかった少女のように、そっと人差し指を唇に当てた。
「ですから……私は、この温かいお部屋で、可愛いあの子の母でい続けますわ。……外の皆様が、それをどれほどお嫌いになろうとも」
トレンス侯爵邸の客室に、快適な空気が、音もなく満ちていた。
・・・・・
・・・
夕食の刻限を告げる鐘は、鳴らなかった。
部屋の壁に埋め込まれた小さな真鍮の時計が、六時を示すと同時にカチリと乾いた音を立て、それと寸分違わず扉が二度、静かに叩かれた。
ルイーゼだった。
「伯爵夫人、お食事の用意が整いました」
アメリアは立ち上がった。
右膝には、先ほどまでの痛みが嘘のように残っていない。温熱布の熱が芯まで通ったのか、敷石を踏みしめる感触がいつもより軽く感じられた。
そのことが、やはり少しだけ忌々しい。
通された食堂は、王都の大貴族が客人を威圧するために使う、あの薄暗く無駄に広大な大広間ではなかった。
四人が座るのにちょうど良い寸法の、磨き抜かれた無垢材の長机。
天井からは煤の出ない乳白ガラスの灯具が吊り下げられ、過剰な金箔の装飾はないが、卓上の白磁の器と銀のナイフが均一な光を反射している。
「先生、こちらへ」
上座の手前で待っていたキースが、椅子を引いた。
昼間の泥臭い領主の顔から、仕立ての良い濃紺の上着をまとった当主の姿へと戻っている。
その向かいには、すでに二人の夫人が並んで腰掛けていた。
アメリアが席に着くと、ダイアナが扇子を膝の上に置き、滑らかなカーテシーを思わせる姿勢で首を傾げた。
「お寛ぎいただけましたでしょうか、グロースハイム伯爵夫人」
「ええ。驚くほどにね」
アメリアが乾いた笑みを返すと、隣のクリスティアナが嬉しそうに目を細めた。
先ほど客室で見せた薄桃色の部屋着から、落ち着いた色調のドレスへと着替えているが、その手首にはあの時計が静かに揺れている。
「よかった。あのお部屋、ルーカスがアメリア様をお迎えするために、特に念入りに温度を整えさせたのですもの」
「……あの部屋だけではないでしょう」
クリスティアナは屈託なく笑った。
その無邪気な瞳に、悪意や皮肉の影は微塵もない。
給仕が音もなく進み出た。
運ばれてきたのは、銀の覆いを外した瞬間に白い湯気が立ち昇る、黄金色の澄んだスープだった。
王都の晩餐会でよく見られる、毒味役が一口ずつ匙を浸す仰々しい儀礼はない。
代わりに、運ばれてきた深皿の縁には二重の保温術式が施されており、外気に晒されても熱が逃げないようになっていた。
一口含む。
根菜の滋味が染み渡る。塩気は控えめで、わずかにジンジャーとハーブ、そして甜菜の香りが残る。
冷えを散らし、血の巡りを促すための調合。
アメリアは視線を手元の皿から上げなかったが、誰の身体に合わせて組まれた献立かは、一口で分かってしまった。
「……ダイアナ夫人」
「はい」
「貴女の指図かしら」
ダイアナは小さく匙を動かしながら、表情を崩さずに答えた。
「シェフが勝手に気を利かせただけでございます。長旅で冷えたお身体に、脂っこい肉や強い香辛料は障りますので」
「ずいぶんと薬効に詳しいのね」
「帳簿を預かる身としては、無用な胃薬を消費させるより、食事で帳尻を合わせる方が安上がりですので」
「相変わらず、可愛げのない言い草だこと」
アメリアが小さく息を漏らすと、キースが向かいで肩をすくめた。
「先生、諦めてください。この家の台所は、すでに彼女の帳簿の一部です」
「貴方が余計な口を挟むから、スープが冷めますよ、閣下」
ダイアナが冷ややかに視線を流すと、キースは居心地悪そうに咳払いをし、慌てて手元の皿へ視線を落とした。
その二人のやり取りを、クリスティアナが楽しそうに眺めている。
愛憎の火花も、正妻と側室の序列を誇示する牽制もない。
ダイアナが匙を置くタイミングを見計らい、さりげなくクリスティアナの杯へ白湯を注ぎ足す。
クリスティアナは「ありがとう、ダイアナ様」と当然のようにそれを受け取る。
あまりにも滑らかだった。演技も摩擦も感じられない。
「そういえば」
アメリアは手元のナプキンで口元を拭い、ダイアナへ視線を向けた。
「貴女、近々王都へ上がるそうね」
ダイアナの手が止まり、わずかに眉が上がった。
「耳が早いですわね。さすがは学園長先生」
「耳が早いも何も、王都の大貴族でその話を知らない者を探す方が難しいわ。アークランドの『氷の華』と、トレンスの若き麒麟児の婚約ですもの」
アメリアの灰青の瞳が、向かいの席を静かに射抜く。
「クラリス夫人が、珍しく胃を痛めているという噂を聞いたわ」
ダイアナの唇が、意地の悪い弧を描いた。
「あの女狐が?それは見物ですわね。昔から、計算通りに事が運ばないとすぐに眉間を寄せる方でしたから」
「貴女が見定めに行くのでしょう?」
「当然ですわ」
ダイアナは扇子を指先で弄びながら、平然と言い放った。
「アークランド公爵令嬢がどれほどの器であれ、ルーカス様の隣に立つ以上、この領地の規格に耐えていただかねばなりません。王都の優雅な社交界ごっこを持ち込まれては、現場が混乱しますもの」
「相変わらずの手厳しさね」
「事実を申し上げているだけです」
「ダイアナ様、クラリス様をあまりいじめないであげてね」
クリスティアナが、心配そうに口を挟む。
「あの方、昔から負けず嫌いだから、無理をして熱を出してしまうかもしれないわ」
「クリスティアナ様、あれは無理をしているのではなく、単に傲慢なだけです。少し鼻をへし折って差し上げるのが、長い目で見て向こうのためというものよ」
「まぁ、ダイアナ様ったら」
二人の笑い声が、温められた食堂に溶けていく。
キースは何も言わず、ただ肉料理の皿を黙々と片付けていた。
口を挟めばどちらからも小言が返ってくることを、長年の経験で知っている男の沈黙だった。
アメリアは、その三人の姿を静かに見つめていた。
王都の大貴族がこの食卓を見れば、狂気と呼ぶだろう。
血統の優劣も、格式の上下も、嫉妬の火種も、すべてが「日々の運用」という大きな箱の中に綺麗に畳まれて仕舞い込まれている。
誰も叫ばない。
誰も憎まない。
誰も泣かない。
あの日、泥と血の中で折れてしまった男の剣。
思い出を売って麦を買いに走った女の帳簿。
暗い部屋で咳き込んでいた公女の白い指先。
それらすべてを拾い上げ、隙間なく組み直した結果が、この四角い食卓だった。
「……キース」
「はい」
「貴方、良い家族を持ったわね」
キースのフォークが止まった。
彼は顔を上げ、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……私の手柄ではありません。あの子が、全部組み直していっただけです」
「知っているわ」
アメリアは立ち上がった。
皿はすべて綺麗に空になっていた。
「ごちそうさま。少し疲れたから、先に休ませてもらうわ」
「お部屋の温度はいかがでしたか?」
ダイアナが問う。
「……文句のつけようがなかったわよ」
アメリアは背を向け、食堂の扉へ向かった。
「それが、何より腹立たしいけれどね」
背後で、クリスティアナの小さな笑い声が響いた。
・・・・・
・・・
客室に戻ると、部屋は相変わらず均一な温もりに満たされていた。
暖炉の薪は、やはり定規で測ったような一定の間隔で爆ぜている。
ルイーゼが用意しておいたという薄手の寝衣に着替え、アメリアは寝台へ腰を下ろした。
静かだった。
窓の外では、北方の猛烈な吹雪が木々を揺らしているはずだった。
だが、分厚い硝子と遮音壁に遮られ、その音は遠い海の底のざわめきのようにしか届かない。
手袋を外した手で、シーツの端を撫でる。
滑らかで、引っかかりのない布地。
「……敵地偵察、ね」
独り言が、乾いた部屋に小さく落ちた。
偵察に来たつもりだった。
あの少年の冷徹な論理の歯車に、人間の情念という歯止めをかけるために。
これ以上、人を部品のようにすり潰させないために。
だが、あの家族の誰も、すり潰されてなどいなかった。
むしろ、あの仕組みの中で息を吹き返し、守られ、満ち足りていた。
キースは背中を守る盾となり、ダイアナは時間を刻む歯車となり、クリスティアナはその中心で無垢な花のように咲いている。
誰もが、自分の意思でその場所に立っているように見えた。
誰もが、その規格化された幸福を愛していた。
(あの子は……)
アメリアは、ゆっくりと寝台へ身体を倒した。
背中が沈む。
だが、沈みすぎない。
腰の骨をしっかりと下から押し返し、首の筋肉の強張りを解くように、三つ目の枕が吸い付くように頭部を支える。
右膝を伸ばす。
軋みも、刺すような鈍痛も、どこからも返ってこない。
(壊そうとしているのではない)
あの少年は、ただ……。
この、完璧に暖かく、誰も死なずに済む部屋を。
世界そのものの形にしようとしているだけなのだろう。
そして、そのために。
自分自身だけを、最も効率の悪い部品として酷使しながら。
「……馬鹿な子」
瞼が、鉛のように重くなっていく。
抗おうとした。
明日の査察の手順を考え、学園へ持ち帰るべき報告の文面を練ろうとした。
だが、身体が、骨が、皮膚が、この異常なほどに整えられた揺り籠の心地よさに、音を立てて屈服していく。
火の粉が二粒、ふわりと上がった。
三秒。
また、二粒。
完全に整えられた規則正しい微動の中で、アメリア・フォン・グロースハイムの意識は、底のない深い闇へと滑り落ちていった。