第百四十八話 トレンス領、異常ナシ
翌朝。
朝食を終え、客室へ戻ったアメリアは、厚手の外套へ腕を通しながら、窓の外を一瞥した。
北方の空は高く晴れている。
昨夜あれほど荒れていた雪風が嘘のように止み、庭木の枝先には、新しく積もった雪が薄く白い縁取りを残していた。
寝台脇の時計が、短く乾いた音を立てる。
その直後。
重厚なオーク材の扉が、規則正しく二度、叩かれた。
「……どうぞ」
アメリアが声を返すと、扉が静かに開いた。
最初に入ってきたのは、見慣れた濃紺の侍女服だった。
ルイーゼである。
だが、その半歩後ろに立つ人物を見た瞬間、アメリアは無意識に背筋を正していた。
視界へ飛び込んできたのは、息を呑むほどに隙のない、引き締まったオリーブグリーンだった。
仕立ての良いサービスジャケットは皺一つなく、肩章には彼女の階級を示す銀色のバーが、室内灯を受けて鈍く光っている。
胸元には整然と略綬が並び、その上に留められた徽章は、歩行の振動にも微動だにせず布地へ固定されていた。
カーキのシャツの襟元は完璧に整えられ、濃色のネクタイの結び目にも一分の隙もない。
艶を抑えた短靴は、磨き抜かれているにもかかわらず、決して成金趣味な光り方をしていなかった。
女は一歩進み出ると、深く一礼した。
「お初にお目にかかります、グロースハイム伯爵夫人」
向けられた視線は鋭い。
だが、その鋭さは相手を威圧するためのものではなく、視線を向けられることに慣れきった者だけが持つ、静かな余裕を帯びていた。
「トレンス海兵隊広報部第二課所属、広報士官――ジーン・ハルゼー中尉でございます。本日の施設視察に際し、ご案内を仰せつかっております」
アメリアは、彼女の姿を頭の先から靴先まで一瞥した。
軍人だ。
しかも、ただ制服を着せられているだけの文官ではない。
立ち方、肩の開き、重心の置き方。
必要とあらば、今日この場で走り出し、伏せ、命令を飛ばせる身体つきだった。
「……広報部……?貴女が?」
アメリアがそう問うと、彼女は表情を崩さなかった。
「はい。査察団への施設公開、対外説明、記録管理、および広報対応は、第二課の所管でございます」
「ずいぶんと手広いのね」
「必要なことをまとめておりますので」
あまりにも当然のような返答だった。
アメリアはその顔をしばらく見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。
「効率的、というわけ」
「はい」
「嫌いではないけれど、腹は立つわね」
「光栄でございます」
真顔で返され、アメリアの眉がわずかに上がる。
横では、ルイーゼがいつもの無表情のまま、静かに口を開いた。
「本日の予定でございます」
手元の薄い板状の手帳を開く。
「午前中は、第一補給集積所、港湾荷役管制棟、領内放送設備の見学。昼食を挟みまして、午後は海兵隊軍病院、リハビリ棟、後送患者用病床区画。その後、必要がございましたら簡単な質疑の時間を設けます」
「……そう。任せます」
・・・・・
・・・
階段を一段降りるごとに、ハルゼーの足元でトラウザーの裾が鋭く揺れ、次の瞬間には吸い付くように靴の甲へ落ちる。
上から見下ろすアメリアの視界のなかで、その裾はどれほど段を刻んでも、決してまくれ上がったり、足首の肉を覗かせたりしなかった。常に何かに強く下へ引っ張られているような、不自然なほどの張りと直線性がある。
「……ルーカス卿もそうだけど」
アメリアは手すりに指先を滑らせながら、視線を戻さずに言った。
「貴女達は皆、ブレイシーズで吊っているの?」
ハルゼーの足取りは乱れなかった。
「はい。制服規定で定められております」
「……女の身で、そのような金具で足元を縛り付けているのが?」
良家の子女を預かる学園長として、身だしなみとは日頃の所作と育ちの良さによって保たれるべきものだった。背筋を伸ばし、歩幅を整え、衣擦れを乱さないように身を律する。それを金具の力で無理やり張り詰めさせるなど、アメリアの感覚からすればどこか痛々しく、不作法にすら見えた。
「外見を取り繕うためだけに、そこまで体を締め上げるものなのだと?」
「取り繕うためではございません」
ハルゼーの声には、侮られたことに対する苛立ちも、弁解の色もなかった。
「靴下がたるんで足首に溜まりますと、長時間の行軍や見張りで血行を阻害し、靴擦れの原因になります。また、パンツ……失礼。トラウザーの裾が跳ね上がらなければ、泥や雪が靴の中へ入り込むのを防げます」
淡々と並べられる理由は、どれも職務と機能の話ばかりだった。
「それに」
ハルゼーは踊り場で一歩足を止め、振り返ることなく言った。
「靴下がずり落ちたからと、道端で屈んで引き上げる兵士は、その瞬間だけ周囲への警戒を解くことになります。身なりを整えるために手を使わずに済むなら、その両手は常に帳簿か、装備のために空けておくべきですので」
「……道具に体を縛らせて、隙をなくす、と」
「道具で保てる規律は、最初から道具に任せるのが弊隊の基準でございます」
「ずいぶん実用的ですこと。見栄ではない、と」
「外見上の規律も理由の半分ではございます」
ハルゼーは、淡々と事実だけを並べる。
「個人の体型差に関わらず、吊り具の金具位置を記録しておけば、補給部で受け取った規格通りの既製服を、仕立て直すことなくその日のうちに実戦投入可能です」
「……仕立て直さない?」
「はい。海兵隊の被服はすべて標準寸法で管理されております。身幅、股下、肩幅ごとに番号が割り振られており、隊員は自分の番号を申告して棚から受け取るだけです」
「職人に測らせもせず、吊るしの服をそのまま着ているの。侯爵の名代まで」
「閣下の身体寸法も、四半期ごとに兵站部の被服台帳へ更新されております。特注の手縫いを待つよりも、予備が倉庫に十着積まれていることの方が、軍の運用上は重要でございますので」
アメリアは思わず眉間を寄せた。
「貴族に既製品を着せて、誰も文句を言わないと?」
「最初の三日は布地の硬さに不平を漏らす士官もおります」
ハルゼーは足を止め、エントランスホールへ続く内扉の取っ手に手を掛けた。
「四日目からは、予備がいつでも同じ寸法で届くありがたさに感謝するようになります。戦場でも、港でも」
ハルゼーは再び前を向き、規則正しい足音を立てて階段を降り始めた。
アメリアはその引き締まった背中を見つめ、小さくため息を落とした。
無駄がない。
それ自体は理解できる。
理解できてしまうことの方が、よほど気味が悪かった。
・・・・・
・・・
エントランスへ降りる。
ハルゼーは歩調を緩めることなく、そのまま正面の大扉へ向かった。
あと三歩。
二歩。
一歩。
重厚なオーク材の扉が、左右へ音もなく開いた。
「…………」
アメリアの足が、ほんの僅かに鈍る。
誰も触れていないように見えた。
少なくとも、一瞬だけは。
開け放たれた扉の左右。
昨日と同じ、白手袋。濃紺の礼装。寸分違わぬ動作。
片方の白手袋が、真鍮の取っ手から離れるところだった。
(……昨日、見たはずなのだけれど)
あれほど仔細に観察した。踏み出す足も。重心の移動も。扉を引く腕の軌道も。
それなのに、意識を外した途端、まるで最初から扉だけが勝手に開いたように見える。
ハルゼーは左手に携えていた制帽を、何事もなかったように被った。
鍔の位置を指先で一度確かめる。それだけで、僅かに空気が変わった。
そして、ハルゼーが敷居へ差しかかった、その時。
カッ。
二人の右手が、揃って制帽の鍔へ跳ね上がった。
(……やはり、そういう作法なのね)
そう納得しかけた直後。
アメリアの半歩前を歩いていたハルゼーの右手が、ほとんど同時に上がった。
白手袋ではない。
オリーブグリーンの袖が鋭く折れ、指先が制帽の鍔へ触れる。
一歩。
通過。
互いの右手が下がった。
「…………」
アメリアは歩きながら、昨日の光景を思い返した。
昨日は、自分の半歩後ろに誰がいたか。
「……そういうこと」
「何か?」
「いいえ。何でもないわ」
大扉を抜けると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
昨夜の吹雪は完全に止んでいた。
敷地前の車寄せには、黒と深緑に塗り分けられた大型車両が一台、低い唸りを立てて待機している。
アメリアが近づくと、運転席から制服姿の兵士が降り、音もなく後部扉を開いた。
「最初は第一補給集積所へ参ります」
ハルゼーが扉脇へ立ち、アメリアを先に車内へ促す。
ルイーゼが続き、最後にハルゼーが乗り込んだ。
「ここからは?」
「約十五分です」
「近いのね」
「領都の中でございますので」
その程度の会話を交わしている間にも、車両は滑るように屋敷を離れた。
「……昨日のメルヴィル男爵は?」
「メルヴィル少佐は通常任務に復帰しております。本日の旅程は第二課の所掌ですので」
当然のように返され、アメリアは小さく息を吐いた。
(情が移る暇すら与えない、というわけね)
窓の外を、雪の残る街路が流れていく。
朝の時間帯にもかかわらず、道路にはすでに多くの車両が走っていた。
荷を積んだ大型車。小型の配送車。工員らしい男たちを乗せた長い車体。
それらが互いに進路を奪い合うこともなく、一定の間隔を保ちながら交差点を抜けていく。
信号が赤へ変われば、すべてが止まり、青になれば、また動く。
昨日も見た光景だった。
もう驚くまい、とアメリアは思った。
その決意は、十五分後には早くも試されることになった。
第一補給集積所。
そう聞いていた。
だが、車両を降りた瞬間に目へ飛び込んできた光景は、彼女が知る「倉庫」という言葉からは大きく外れていた。
石造りの巨大な建物が、いくつも平行に並んでいる。
その前を、箱型の荷台を引いた車両が絶え間なく出入りしていた。
一台が止まる。後部扉が開く。
中には、同じ大きさの箱が、一枚の平たい木製台の上へ寸分違わず積み重ねられている。
「……あれは?」
「パレットでございます」
ハルゼーが答えた。
「荷物を一つずつ扱わず、一定単位でまとめて移動させるための荷役台です」
その直後。
低い機械音とともに、二本の金属製の爪を前へ突き出した小型車両が滑り込んできた。
爪が木製台の下へ差し込まれ、わずかに持ち上がる。
そして、荷の山が丸ごと移動した。
アメリアは黙ってそれを見送った。
「……人が持たないのね」
「持てるものまで持たせる必要はございませんので」
次の荷。
次の荷。
また次。
一つとして止まらない。
荷下ろしされたパレットは番号を確認され、印を押され、別の列へ送られる。
頭上では、天井近くを渡る巨大な梁に沿って、吊り下げ式のクレーンがゆっくりと横移動していた。
鎖が下りれば、鉄骨の束が持ち上がる。
人の頭上を避ける決められた経路を通り、そのまま別区画へ降ろされる。
地上では、色分けされた線の内側だけを作業員が歩き、その外を車両が通る。
誰も走らない。誰も叫ばない。
それなのに、異様な速度で物だけが動いていく。
アメリアは、少しの間その光景を見つめた。
「……戦場より静かね」
「補給所ですので」
「褒めているのよ」
「ありがとうございます」
倉庫の壁際には、大きな板が掲げられていた。
入庫。出庫。在庫。滞留。損耗。
幾つもの数字が並んでいる。
その横では係官が何かを確認し、細い棒の先を板へ触れさせていた。
数字が変わり、アメリアの眉が上がる。
「……今、何を書き換えた?」
「集積所の中央記録と連動しております」
「この倉庫だけ?」
「いいえ」
ハルゼーは歩きながら答える。
「主要補給拠点はすべて接続されております」
その説明だけで終わった。
アメリアも、それ以上は問わなかった。
今日一日で疑問を全部拾っていては、日が暮れる。
それでも胸の奥には、また一つ、気味の悪いほど整った数字が積み上がっていった。
・・・・・
・・・
港湾荷役管制棟は、海にはなかった。
それがまず、アメリアには理解しづらかった。
案内された建物はヴェリタスの都市部にある。
窓の外に見えるのは道路と倉庫群。
潮の匂いなど、どこにもない。
「ポートリオンまでは?」
アメリアが訊く。
「約66マイル……晴天下、平坦路を荷馬車で三駄日程です」
「でしょうね」
分かっている。
だからこそ聞いたのだ。
階段を上がった先の管制室へ入る。
そこで、彼女は立ち止まった。
壁一面に、大きな盤が並んでいた。
港の全体図。埠頭番号。船名。積載重量。入港予定。出港予定。接岸位置。倉庫使用率。荷役進捗。風速。波高。潮位。
色と数字が、絶えず静かに変化している。
「……これは」
アメリアは一歩近づいた。
「ポートリオンでございます」
「今の?」
「はい」
「……三駄日先の?」
「はい」
ハルゼーは、ごく普通の報告をするように続ける。
「現在、第三埠頭で鉱石船一隻が荷下ろし中。第二埠頭は穀物船の接岸待ち。第五埠頭は荷役機故障により処理能力が二割低下しております」
アメリアは盤を見る。
確かに第五埠頭の横に、警告を示す色が灯っていた。
その時だった。
卓上に据え付けられた金属製の四角い箱から、短く澄んだ電子音が鳴った。
係官が素早くレバーを倒すと、雑音の混じる低い風切り音とともに、スピーカーから男の声が明瞭に響いた。
《――こちらポートリオン第一桟橋、運行管理部。ヴェリタス管制、聞こえるか》
若いが、低く落ち着き払った声だった。
係官が手元の送話器を口元へ寄せる。
「はい、こちらヴェリタス。感度良好。第五の荷役機ですね」
《ああ。油圧ホースの破断だ。予備部品の引き出しと交換作業員の手配はすでに完了した。復旧見込みは一時間二十分後》
背後から、さらに別の若い声が割り込んできた。
受話器の向こうで紙をめくる乾いた音と、重機の唸る音が混ざっている。
《兄上、沖合で――》
《総括だ》
《……総括。沖合で待機中の穀物船、潮が引く前に第二へ捩じ込みます。第三の鉱石船は荷降ろしを三十分前倒しで終わらせるよう、現場のクルーゼ班へ指示を出しました。陸送の大型トラックが十六台、北門の待機場に溜まってます。詰まる前に荷捌き場へ流していいですか》
《構わん、流せ。ただし第二への接岸はタグボートを二隻つけろ。風が出ている。桟橋にぶつけたら始末書では済まさんぞ、エドモンド》
《了解、二隻手配します。……ヴェリタス、聞こえていたな? 三十分後に第二と第三の荷役進捗、数値を上書きする。盤の警戒色を落としておいてくれ》
係官が手元の運行台帳へ素早くペンを走らせ、レバーに指を添える。
「了解、ポートリオン。陸送便の割当と照合完了。臨時手順承認、受付番号四二」
《受付四二、了解。現時刻をもって執行、総括印を入れる。中央台帳を更新してくれ》
係官がレバーを戻すと、スピーカーからの音は途絶え、管制室は再び針が落ちても聞こえるような静けさに戻った。
アメリアは、立ち尽くしていた。
指先が、外套の布地を無意識に強く掴んでいる。
「…………今の」
声が喉に引っかかり、掠れた。
聞き間違いのはずがなかった。
かつて、学園の廊下で大声を上げ、魔法を誇示し、教官の頭を抱えさせていた二人。
貴族特有の尊大な語尾も、他者を見下す薄笑いも、跡形もなく消え失せていた。
残っていたのは、油と鉄の匂いすら混ざりそうな、極めて簡潔な報告と指示の応酬だけだった。
「……今の声は」
ハルゼーは手元の板状手帳から目を上げず、事務的な調子を一切崩さずに言った。
「当港湾総括管理官のアルバード・トレンス卿、および運行主任のエドモンド・トレンス卿でございます」
「…………」
「第五埠頭の荷役機故障に伴う入港順の変更、および陸送待機車両の誘導指示でございました。通常通りの初動対応でございますので、特段の遅延は生じません」
アメリアは、壁の盤を見上げた。
警告の色が灯る第五埠頭の横で、二隻の船を示す小さな木札が、係官の手によって音もなく別の番号へ差し替えられていく。
――サプライチェーンの脆弱性、つまり備品の調達・管理プロセスが最適化されていないことの表れです――
――彼らが港湾都市の整備に尽力した際、学園で学んだ知識ではなく、実地での経験と、それに伴う迅速な意思決定能力が求められました――
学長室で、あの生意気な子供が平然と言い放った言葉が、耳の奥で蘇る。
「……逃げ場がないわね」
絞り出すように言葉が漏れた。
ハルゼーは少しだけ首を傾けた。
「問題が起きた際に、誰も知らなかったという状況を避けるためでございます」
「……そう。励んでいるようでなにより」
アメリアは深く、胸の底にある冷たいものを吐き出すように息を落とした。
現場を信用していないわけではない。
だが、信用しているから見ない、という発想もない。
遠く離れていても数字は来る。
そして数字が来れば、比較できる。
比較できれば、遅れも、停滞も、異常も分かる。
三駄日という距離が、帳簿の上ではほとんど消えている。
それだけ確認すると、アメリアは盤から視線を外した。
「次へ行きましょう」
これ以上考えると、また頭が痛くなりそうだった。
・・・・・
・・・
領内放送設備。
建物そのものは、想像していたより地味だった。
厚い壁。
窓の少ない構造。
廊下には吸音材らしい柔らかな板が貼られ、足音さえ妙に小さい。
しかし、中へ進むほどに奇妙なものが増えていく。
広い部屋には、大きな黒い筒を据えた機材。
別室には、細長い卓の上へ無数のつまみと針。
壁の向こうでは、誰かが原稿を読み上げている声がした。
「現在は昼の道路情報を収録しております」
ハルゼーが説明する。
アメリアは、ふと足を止めた。
開いた扉の向こう。
机の上に積まれた色紙。妙に鮮やかな桃色の布。星型の意匠。
そして壁際に立て掛けられた、見覚えのある淡い色の長物。
「…………」
嫌な予感がした。
アメリアの視線を追ったハルゼーが、ほんの僅かに眉を寄せる。
「……こちらは第三課の区画でございます」
「第三課?」
「児童向け広報、娯楽放送、教育番組、部隊協力作品などを担当しております」
その瞬間、昨夜の記憶が鮮明に蘇った。
『ほほづけ、かんりょう☆』
『マガジン、チェック!』
『デンジャークロースだよ!』
『対砲射撃に備えよっ☆』
アメリアの顔が、ゆっくりと固まっていく。
「……まさか」
ハルゼーは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
「昨日、見たのだけれど」
「何をでしょう」
「『魔砲少女』」
ハルゼーの目が、一瞬だけ遠くなった。
本当に一瞬だった。
だが、アメリアは見逃さなかった。
「……あれを」
廊下の奥を指す。
「彼らが?」
「はい」
「海兵隊が?」
「はい」
「本気で?」
「…………残念ながら」
初めてハルゼーの返答に、明確な感情が混じった。
アメリアの眉が上がる。
「残念?」
「……第三課は少々、熱意が過剰でございまして」
ちょうどその時。
廊下の奥から、数人の隊員が現れた。
制服姿ではある。
だが腕には色紙の束。
一人は小さな模型の迫撃砲を抱え。
もう一人は、明らかに子供向けと分かる派手な桃色のヘルメットを持っている。
その先頭を歩く小柄な士官が、短髪の隙間からピンと突き出た大きな耳を一度だけ微かに動かし、ハルゼーを見つけて片手を上げた。
(……
アメリアは思わず眉を寄せた。
南方の乾燥地帯にしかいないはずの種族だ。
薄茶の短い毛並み、熱を逃がすための広く薄い耳介。
それは、北方の冬の冷気に晒されれば、数時間と持たずに耳先から凍傷に侵されるだろう。
だが、その耳の根元には、制服と同じオリーブグリーンの薄い保温バンドが巻きつけられている。
その異常さにアメリアが息を呑む間もなく、その耳がピクピクと方向を変え、得意げに跳ねた。
「第二課。昨日の再放送視聴率、また上がったわよ」
ハルゼーのこめかみが僅かに動く。
「聞いていない」
「地域別で12.7%。児童層だけなら35%を越えた」
「聞いていないと言っている」
「商品連動調査も良好。安全装具の認知率、前月比で11.4ポイント上昇」
アメリアの視線が、ゆっくりとハルゼーへ戻った。
「……視聴率?」
「数字でございます」
「それは分かるわ」
短髪の士官が、そこで初めてアメリアの存在に気づいた。
大きな耳が警戒するように前方へ向いた直後、一瞬で姿勢を正す。
「失礼いたしました」
あの鋭い敬礼。
「海兵隊広報部第三課、映像企画主任、マルタ・ヘルマ大尉であります」
アメリアはその顔と、抱えられた桃色のヘルメットを交互に見た。
「……貴女が?」
「何がでしょう」
「あの……活劇の……」
彼女の両耳が、ぱっと横へ広がった。顔全体が輝く。
「ご覧になりましたか!」
隣でハルゼーが、目を閉じた。
「……ええ」
「いかがでした?」
「質問していいかしら」
「もちろんです!」
「あれは……ルーカス卿の指示?」
その瞬間空気が止まった。
ハルゼーは天を見上げていた。
一秒。
二秒。
ヘルマ大尉の耳が、ゆっくりと横へ倒れ、やがて怒りを孕んで真後ろへペタンと伏せられた。
「……閣下の?」
「ええ。あの子が、子供の頃から軍事に親しませるためにでも――」
次の瞬間。
「違います!!」
廊下に怒声が響いた。
倒れていた両耳が、毛を逆立てて跳ね起きる。
アメリアが目を見開き、ハルゼーは額へ手を当てた。
「大尉」
「閣下は何も分かっておられません!」
「ヘルマ大尉」
「我々が!」
止まらない。
「情報保全上、何を出してよくて何を隠すべきか!住民へ軍の役割をどう説明するか!子供に安全規則をどう理解させるか!採用年齢以前から危険物への距離感をどう教育するか!災害時に制服を見た時、逃げるのではなく指示を聞いてもらうにはどうするか!」
耳先を細かく震わせながら、ヘルマは抱えていたヘルメットを脇の隊員へ押しつけた。
横を見ると、ルイーゼはいつもの無表情だった。
ただし、視線だけは桃色のヘルメットから頑として動かなかった。
「我々第三課がどれほど企画書を書いたと思っているんですか!」
「……知らないわ」
「十八回です!」
「……そう」
「脚本の改訂は四十二回!安全監修、法務監修、兵器取扱監修、医療監修、児童心理監修、玩具安全規格、映像表現基準!全部通したんです!」
ハルゼーが静かに口を挟む。
「伯爵夫人が困っている」
「そして!」
無視された。
「完成版を閣下へ提出したら何と仰ったと思います!?」
アメリアは、少しだけ興味が湧いた。
「……何と?」
ヘルマ大尉の顔が、怒りで引き攣った。
「『気は確かか?』です!」
沈黙。
そして同感だった。そのことに僅かに安堵した。
アメリアの口元が、僅かに動いた。
「……言いそうね」
「言いました!」
第三課の隊員たちが、全員深く頷いた。
「さらに!」
ヘルマの声が一段上がる。
「『普通の教育番組でいいだろ』と!」
「…………」
「よくないから作ったんです!」
拳が震えている。
「普通の安全教育番組を子供が最後まで見ると思いますか!? 見ません!大人ですら見ません!だからこそのリディアちゃんです!」
ハルゼーが、小さく息を吐いた。
「第三課は昔からこの調子でございます」
「第二課は数字が出てから手のひらを返しました!」
「数字が出る前に支持する理由はございません」
「そういうところが嫌いなのよ!」
アメリアは片手で口元を覆った。
笑う場面ではない。
たぶん。
「……それで」
どうにか声を整える。
「打ち切られなかったの?」
ヘルマ大尉は胸を張った。
「初回放送後、児童層における基本安全規則の認知率が27ポイント上昇」
親指を一本立てる。
「玩具らいふる購入家庭における、鎌やナタなど鋭利農具の児童による無断持ち出し事故が三か月でゼロ件」
二本目。
「荷馬車や家畜を驚かせる危険遊戯の通報件数が年間で八割減少」
三本目。
「投石および木剣チャンバラによる負傷事故届が四割減少」
四本目。
「避難訓練時、海兵隊員の誘導指示に従う児童の割合が15ポイント改善」
五本目。
「そして関連商品の売上収益の一部が、遺児扶助基金へ回っております」
ヘルマは鼻息荒く締めくくった。
「数字を全部まとめて閣下の机へ叩きつけました」
「本当に叩きつけたの?」
ハルゼーが無表情で答える。
「机の上へ置きました」
「比喩でございます!」
「で?」
アメリアが訊く。
「ルーカス卿は?」
ヘルマの顔が、少しだけ不満そうに歪んだ。
「三分ほど黙って資料を読み……――」
そして、思い出したのか、顔を赤く鼻息荒く言葉を繋いだ。
――執務室の机に置かれた、何束もの分厚い綴り。
表紙には『パイロット版視聴覚反応推移』『試作玩具普及に伴う受傷件数推移』『防護手順遵守率調査』『基金入金伝票控え』。
児童の恐怖反応、成人兵士比でマイナス72%。
安全規則の習得速度、既存の文字教材比で3.4倍。
固定台詞による安全手順の記憶定着率の前年比86%向上。
機密漏洩リスク、機構の偽装によりゼロ。
発砲炎および擬似体液のパステルカラー化による、女児層の受容性向上。
各部隊の視認性を高めるため色や装備を差別化。
一人の英雄によるボトルネックの解消と、それに代わるイコンの選定。
それぞれ異なる能力・職種を持たせ、協調性と集団行動の意義。
防弾プレートのエッジが露出していると子供向け映像として鋭利で威圧感を与えるため、端切れ布で縁取りをした結果フリルへの変更。
強風時における風向・風速の目視確認用リボンを頭部への設置。
鋭利農具持ち出し、ゼロ。
危険遊戯通報、80%減。
診療所外傷報告、40%減。
ルーカスは万年筆を置き、指先で数字だけを追っていた。
一つとして反論の余地がない。
軍事的合理性、情報保全、教育心理学、公衆衛生、財務、そのすべてが完璧に整合していた。してしまっていた。
「なぜ、ピンクなんだ?」
デスクの上に組んだ指先が、圧迫で白く染まっていく。
「波長調整により児童の動揺を防ぐためです」
「なぜ、ハート、なんだ……?」
視線を資料に落としたまま問う。記号の意味すら測りかねている声だった。
「着弾確認が容易で、攻撃的印象も低減します」
「……なぜ薬莢を落とす?」
声が一段と低くなった。
「兵器の構造を秘匿しつつ、排莢確認を身体に覚えさせるためです。また、玩具へ転用する際、安全な魔力光弾術式を封入する薬室規格としても最適でした」
低速で飛ぶ無害な魔力光。
万が一、人や家畜の目に当たっても絶対に傷つけないよう、接触した瞬間に表面張力が崩れ、星やハートの光散乱を起こして霧散する減衰術式。
「なぜ…………愛なんだ?」
ルーカスの口元が、見たこともないほど歪に引き攣っていた。
「デンジャークロースにおける味方への心理的配慮であります!」
「……そもそも、デンジャークロース自体を避ける筋書きには出来なかったのか?」
「憲兵大隊E中隊にも確認済みです。現場における至近弾要請の交戦規定に照らし、法務上も実務上も一切の瑕疵なしとの署名をいただいております」
沈黙が落ちた。
背筋を伸ばして直立不動のヘルマの前で、最後の受領印を確認した少年は、ゆっくりと両手で顔を覆った。
指の隙間から漏れ出たのは、地の底から絞り出すような低い声だった。
『……まるでこの世の地獄だ』
何の脈絡もない要素が、完璧な論理で結合している。その歪さに、少年の眉間が深く刻まれた。
「地獄ですと!?」
バン、と両手をデスクへ叩きつけ、ヘルマは顔を寄せて抗議した。
「閣下からの要件定義はすべて満たしております!数字も改善し、何よりもかわいいであります!」
「……What the actual hell. 来期以降のリクルーターはさぞ楽が出来るだろうな」
「将来的な募集母集団への好意形成効果も期待できるであります!」
「Pshh……」
ルーカスは机の引き出しから小さな遮光瓶を取り出し、苦い粉薬を舌の上に放り込んで水で流し込んだ。
それから筆を執り、決裁欄へ殴り書きのような署名を走らせる。
「情報保全に留意せよ。それと……私の執務室の半径50ヤード以内に、そのピンクのヘルメットを持ち込むな」
「了解であります! なおスピンオフのタイトルは『プラトゥーン☆モーターす』を予定して――」
「Get out」
――回想が終わり、ヘルマ大尉は不満そうに腕を組んだ。
「という次第であります!」
「……十分すぎるほど褒めていると思うのだけれど」
アメリアが乾いた声で返すと、ヘルマは首を激しく横に振った。
「違います!あの署名は『仕方なく決裁してやった』というだけの事務処理です!我々の芸術的ブレイクスルーへの敬意が、一滴も含まれておりません!」
第三課の隊員たちが一斉に頷く。
「閣下が作った評価方法を使った結果、閣下の趣味より我々の企画の方が合理的だと証明されました」
ハルゼーが横から冷淡に口を挟む。
「第二課としては、閣下の反応は極めて妥当であったと考えます。本当に面倒な部署です」
「貴女たち第二課の報告書こそ、情緒というものが欠落しているのよ!」
「情緒で弾薬は届きません」
「第二課にだけは言われたくない!」
火花を散らす二人の士官を前に、アメリアは小さく息を吸い、深く吐き出した。
あの執務室で薬を呷っていた少年の姿が、恐ろしいほどの解像度で脳裏に浮かんできた。
アメリアは、額を押さえた。
昨日まで、あの映像を見て、ルーカスという少年が、子供の頃から軍事教育を日常へ染み込ませるために、あの異様な活劇を作らせているのではないかと。
ほんの少しだけ、そう考えていた。
違った。
本人が望んだものではなかった。
むしろ止めかけたのだろう。
そして、部下に数字を叩きつけられて黙った。
「……そう」
アメリアは小さく呟いた。
まただ。
また一つ。
少年の思想だと思っていたものが。現場の人間たちが自分たちの必要に応じて作り上げたものだった。
しかも、その現場が子供向け番組へ兵器を出している。
「……この領地、本当にどうなっているのかしら」
誰に向けたとも知れない問いに、ヘルマ大尉だけが、誇らしげに答えた。
「大変好調でございます!」
ハルゼーが、深く溜息をついた。
「……次へ行きましょう」
アメリアは踵を返した。
「病院だったかしら。早く案内して頂戴」
これ以上ここにいては、自分まで胃が痛くなりそうだった。