第十七話 母と子の時間、そして秘めたる誓い
季節は秋の気配を深め、侯爵邸の庭の木々は色づき始めていた。数日にわたり、ルーカスは執務を早めに切り上げ、母さんの元を訪れる時間を増やしていた。クリスティアナは相変わらず病弱で、一日のほとんどを寝台の上で過ごしていたが、ルーカスが来ると、その顔にはいつもとびきりの笑顔が花開いた。そして、ルーカスが側に来るなり、彼女は嬉しそうに抱きしめ、頬ずりをする。
「あら、ルーカス。よく来てくれたわね。母さん、貴方に会いたくてたまらなかったのよ!」
ルーカスの頭を撫でながら、クリスティアナは完全に親バカ丸出しの笑顔だ。ルーカスは少し気恥ずかしそうにしながらも、甘えるような仕草でそれを受け入れる。
その日、ルーカスはクリスティアナの部屋で、彼女のお気に入りの絵本を読んでいた。騎士と妖精が織りなす、この世界ではありふれた物語だ。ルーカスにとっては、前世の記憶からすれば荒唐無稽な内容だったが、クリスティアナは目を輝かせながら、彼の声に耳を傾けていた。
「……そして、勇敢な騎士は、傷ついた妖精をそっと抱き上げ、泉へと向かいました」
ルーカスが読み終えると、クリスティアナは小さな拍手をした。
「ルーカスの声は、物語の騎士様みたいに素敵ね。でも、騎士様は剣しか持っていなかったから、きっと大変だったわ」
クリスティアナがそう言うと、ルーカスはふと口元に笑みを浮かべた。
「そうだね。もし俺がその騎士なら、もっと効率的な方法を考えたさ。例えば、妖精を運ぶための簡易的な乗り物でも作ってやっただろうな。そうすれば、もっと早く泉に着けたし、騎士自身も疲弊せずに済む」
クリスティアナはきょとんとした後、楽しそうにクスクスと笑った。
「まあ、ルーカスは面白いことを言うのね。でも、それではロマンチックじゃないでしょう?」
「ロマンより実利さ。それが俺のモットーだからね」
ルーカスはそう返しながらも、クリスティアナの屈託のない笑顔を見ていると、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。この笑顔を、何としてでも守り抜くと、彼は心の中で改めて誓った。
クリスティアナがまどろみ始めたのを確認し、ルーカスは静かにAlphaに語りかけた。
「Alpha、先日報告した装甲強化服の『簡易生産版』と『正規版』の計画だが、ランディへの技術伝達は順調に進んでいるか?」
『はい、ルーカス。ランディの理解度は貴方の予測を上回る速さです。特に『魔獣素材の人工培養』から得られる新たな素材には、彼も強い興味を示しています。簡易生産版の試作機の完成は、予定よりも早まる見込みです』
「そうか。ランディならやってくれると信じていたさ。高高度偵察機の設計も並行して進めておけよ。それで、母さんの体質改善に向けた、例の『再生促進剤』の精製はどこまで進んだ?」
『
ルーカスは表情一つ変えず頷いた。
「構わん。兵器の生産は多少遅れても、戦力は質で補う。母さんの治療が最優先だ。それに廉価版…まぁ俺に馴染みのある、銃火器の方は影響は無いんだろ?」
『肯定。対人用軽量火器の生産には影響ありません。これらの銃火器にはシンプルな魔術回路が複雑かつ高精度に組み合わされており、誰が使用しても一定の性能を発揮します。加えて、大まかに弾倉等の互換性があり、生産能力への影響は軽度です。これらは強化型軽量火器の生産ラインを一部利用可能です。なお、マナ・パック式の銃火器は、外部からの魔力、すなわち使用者の魔力も併用することで、出力の向上や継続的な運用が可能となっています』
ルーカスはクリスティアナの柔らかな髪をそっと撫でた。彼の内側では、常に未来を見据えた計画が加速していた。
・・・・・
・・・
翌日、体調の良いクリスティアナは、ルーカスとシェーラ、そして護衛のギルバードとミリアムと共に、庭園を散策していた。車椅子に乗ったクリスティアナの横を、ルーカスはゆっくりと歩く。色づいた木々の葉が風に舞い、穏やかな時間が流れていた。
シェーラは、クリスティアナの車椅子を押し、その表情には常に穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、その瞳の奥には、主への深い忠誠と、周囲への鋭い警戒心が隠されているのがルーカスには分かった。彼女は時折、クリスティアナのブランケットを直したり、差し出された花を受け取ったりと、細やかな気配りを怠らない。クリスティアナはそんなシェーラに対して逐一感謝を述べていた。
「ねぇ、ルーカス。見てごらんなさい。この紅葉、まるで燃えているみたいに綺麗ね。私ね、この景色がとぉっても大好きなのよっ! 貴方とこうして眺めていると、胸がいっぱいになるわ」
クリスティアナが嬉しそうに指差す。その瞳には、心からこの光景を慈しむような愛おしさが宿っていた。ルーカスはその視線の先に目を向けた。鮮やかな赤や黄に染まった木々は、確かに息をのむほど美しい。前世の故郷とは異なる、この世界の自然の色合いも、最近は悪くないと感じるようになっていた。
——どこか、ひどく懐かしい形式の美しさだと、彼は思った。
「そうだね。確かに綺麗だ。でも、いずれこの葉も朽ち、土に還る。そしてまた、春になれば新たな芽吹きがある。自然とはそういうものさ」
ルーカスは気恥しさを感じ、どこか達観したように言った。クリスティアナは少し寂しそうに眉を下げた。
「そうね……私も、いつかはこの美しい景色を見られなくなるのかしら」
その言葉に、ルーカスは自身の発言に、後悔し表情がわずかに硬くなる。シェーラがすかさずクリスティアナの手をそっと握った。
「奥様、そのようなことをおっしゃってはいけません。きっと、来年も再来年も、この美しい紅葉をご覧になれますわ」
ギルバードも「その通りです、奥様!」と明るく付け加えた。
ルーカスは静かにクリスティアナを見つめた。
「心配ないさ、母さん。この世界は、まだまだ母さんの知らない景色で溢れている。それを全て母さんに見せてやる。何があっても、俺が母さんを守り、母さんの未来を切り開く。それを誓うよ」
ルーカスは瞳の奥に、幼い子供らしからぬ強い光を宿していた。クリスティアナは彼の言葉に驚いたように目を丸くした後、優しい笑みを浮かべた。
「ルーカス…ありがとう。貴方がそう言ってくれると、本当に心強いわ」
その夜、ルーカスはAlphaに対し、高高度偵察機の開発を最優先事項にするよう指示した。クリスティアナに見せてやりたい「まだ見ぬ景色」を、一日も早く発見するために。
数日後、侯爵邸にわずかなざわつきが生まれた。クリスティアナが、いつものように目覚めが悪く、食欲も普段より落ち込んでいるのだ。寝込むほどではないものの、顔色は優れず、侍医も首を傾げるばかりだった。シェーラは心配そうにクリスティアナの傍らを離れない。ルーカスもまた、その事態に冷静さを装いつつも、内心では激しい焦燥感に駆られていた。
「Alpha。母さんの生体データはどうなっている? 侍医の見立てと、お前の分析に乖離はないか?」
ルーカスは自室に戻り、Alphaに問いかけた。
『貴方の肉眼で確認できる症状は、侍医の診察結果と一致します。しかし、私の分析によると、クリスティアナの肉体に遍在する魔力と生命エネルギーの結合が、通常の病弱な状態よりも不安定化しています。これは、外部から無意識に放たれる負の念や悪意といった魔力的な干渉を、クリスティアナの体質が溜め込みやすいことに起因していると考えられます』
Alphaの言葉に、ルーカスの目が鋭く光る。
「…やはり、ダイアナの悪意か。あのアマ、貴族のプライドだか何だか知らねえが、どこまでも陰湿な手を使いやがる」
『可能性は否定できません。特定の魔力的な痕跡を検知しました。これは、ダイアナ夫人の周辺から発せられる魔力パターンと酷似しており、彼女のクリスティアナへの強い負の感情が、無意識のうちに魔力的な作用を及ぼしていると推定されます。直接的な魔術を用いたものではありませんが、クリスティアナの元来の体質と相まって、体調悪化を誘発する一因となっているでしょう』
ルーカスは握りしめた拳を震わせた。以前にも増して、ダイアナの存在がクリスティアナの脅威となっている。
「チッ…やはり、本格的に動く時が来たか。Alpha、ダイアナの勢力の内部情報、特に弱点になりそうな情報を再度精査しろ。そして、ブートキャンプの初期戦力に対して、いつでも出撃できるよう準備を整えさせろ。これ以上、俺の大切なものに手を出させるわけにはいかない。あのアマがどんなに高貴な血筋であろうと、俺の邪魔をするなら容赦はしない」
ルーカスの声には、幼い外見からは想像もできない、冷徹な決意が滲んでいた。クリスティアナの体調の微細な変化は、彼の中で燻っていた行動への決定的なトリガーとなった。彼はもう、待つことをしない。クリスティアナの病が、王家傍系の血筋に由来する魔力と生命エネルギーの不均衡であり、さらに外部の悪意を魔力として溜め込みやすい特異体質であることを知るルーカスは、現行の治療薬では一時的な延命にしかならないことも理解していた。彼の脳裏には、伝説の秘宝『月下の雫』の存在がちらつく。いつか、あの秘宝を手に入れ、母の病を完全に治してみせると、ルーカスは静かに誓った。そのためならば、どんな手段も厭わない。