第十九話 不穏な噂と報復
あれから二年の時が流れた。トレンス侯爵領は、ルーカスの手腕により目覚ましい発展を遂げ、彼の計画は着実に実を結び始めていた。だが、侯爵邸の内部では、陰湿な対立の火種が燻り続けている。
侯爵邸の廊下や使用人たちの間では、最近、クリスティアナの体調に関するヒソヒソとした噂話が目立つようになっていた。「奥様はまた寝込まれたらしい」「どうやら王家傍系の血筋に、呪いが……」といった、悪意に満ちた憶測が囁かれている。これは、ダイアナが無意識に放つ負の念が、使用人たちの心を蝕み、噂として拡散している証拠だった。
ある日、廊下を歩いていたルーカスは、使用人たちがひそかに噂話をしている現場に遭遇した。彼らはルーカスに気づくと、サッと口を閉ざし、慌てて頭を下げた。
「ごきげんよう、坊ちゃま」
ルーカスは足を止め、彼らに向かってにやりと笑った。
「ああ、ごきげんよう。ずいぶん楽しそうに話していたようだが? 私の母上、クリスティアナ・ラ・トレンス侯爵夫人のことか? それとも、この侯爵邸に巣食う、どこかの鼠が撒き散らした悪臭についてかな? 随分と腐った匂いがする。生ゴミでも放置しているのか?」
使用人たちは顔を青ざめ、何も言えずに震え上がった。ルーカスは彼らを一瞥すると、冷たい声で続けた。
「おしゃべりは結構だが、侯爵家の品位を貶めるような軽率な言動は慎むことだ。もしそれが、誰かの差し金によるものだとしたら……私の『お返し』は、貴様らが想像するよりも、はるかに手の込んだものになるだろうからな。私は常に、礼儀正しい人間が好きだ。貴様らがゴミ溜めの臭いを撒き散らすのは勝手だが、この侯爵家をその臭いで汚すことは許さない」
その言葉には、幼い子供とは思えないほどの、ねっとりとした皮肉と底知れない脅威が込められていた。使用人たちは、恐怖で冷や汗を流しながら、頭を下げることしかできなかった。
使用人たちの間の噂は、ダイアナの息子たち、アルバードとエドモンドの耳にも届いていた。彼らは、王家傍系の血筋を持ちながら病弱なクリスティアナを軽蔑し、ルーカスの異常なまでの才能を妬んでいた。彼らは比較的早熟で、15歳のアルバードは中位の火魔法、13歳のエドモンドは中位の風魔法をそれぞれ習得しており、自身の魔法の腕前には強い自信を持っていた。
そして、彼らの嫌がらせは、ルーカスだけでなく、彼の身の回りの者にも及んでいた。特に、クリスティアナの侍女であり、ルーカスの魔法指導役でもあるシェーラは、その標的になりやすかった。彼女がミディアンとのハーフという出自を持つことも、彼らの優越感を刺激した。
ある日の午後、ルーカスが離れの書斎に向かっていると、廊下の曲がり角から、シェーラの悲鳴にも似た、押し殺した声が聞こえてきた。ルーカスの足が止まる。
「お願いです、アルバード様、エドモンド様! クリスティアナ様のお薬が!」
ルーカスが角を曲がると、そこに広がっていた光景に、彼の瞳から急速に色が失われた。
アルバードとエドモンドが、シェーラを取り囲んでいた。シェーラの手から滑り落ちたらしい薬瓶が、床に散らばった薬草と共に割れて転がっている。彼らはシェーラの長い髪を掴み、その瞳を覗き込みながら、下卑た笑みを浮かべていた。
「お前、確かミディアンの血が入ってるだったな。薄気味悪いったらありゃしない」
「お前の薄汚い手が触れた薬なんて、あの病弱な奥様にはちょうどいい薬になるんじゃないか? 呪われた血には呪われた薬がお似合いだ」
シェーラの顔は屈辱に歪んでいた。彼女の普段の冷静沈着な表情からは想像もできないほどの、痛ましい姿だった。
その光景を目にしたルーカスの顔から、クリスティアナの前で見せていた子供らしさは完全に消え去っていた。彼の瞳には、凍えるような怒りの炎が宿っていた。
ルーカスは音も立てずに近寄ると、背後からアルバードを蹴り倒した。驚いたエドモンドが振り向く間もなく、関節を極め、床に落としていく。
「ぐぁっ」「なっ!わぁ!」
2人は何が、起きたのかも分からず、混乱して倒れふしていた。
その間にルーカスはシェーラを支え、起き上がらせる。
「シェーラ話は後だ。行け」
「…かしこまりました」
シェーラは複雑な、気持ちを押し殺し、駆けて行った。
それを見送ると、ルーカスは2人を振り返り、獰猛な笑みを浮かべ嗤った。
「これはこれはご立派なお兄様方ではありませんか。相変わらず口から腐敗臭を、撒き散らすのがご趣味なご様子で。ところで何の権利があって俺の母のことを語る? たかが二流、いや三流以下の魔導師ごときが、この俺の前で口を開くこと自体が不敬だと知れ。あぁ、それとも人の言葉を解さんか、所詮は獣だな。それも、しつけのなっていない駄犬といったところか。貴様らの汚れた手で、この侯爵家の者に触れることを、誰が許した?」
ルーカスは、海兵隊仕込みの皮肉と殺意をたっぷりと込めて応酬した。
「貴様っ、ルーカス!何をしやがる!」
慌てて起き上がりながら、アルバードとエドモンドはルーカスを睨みつけた。ルーカスは2人の様子に気にも止めず、更に続けた。
「ああ、そういえば貴様ら、多少魔力が使えるようになったと浮かれているようだが、その程度で天下を取れるとでも? この程度の魔法しか扱えない未熟者が、高潔な血を引く者を嘲笑うとは、笑止千万だな。貴様らの魔法など、俺の足元にも及ばん、ゴミカス同然のカスだ」
ルーカスの徹底した見下しと、容赦ない言葉に、アルバードとエドモンドの顔がみるみる赤くなる。彼らの貴族としてのプライドが、根底から踏みにじられたのだ。
「「なっ……!てめえ……!!」」
激情したアルバードとエドモンドは、即座に魔法を放とうと体内に魔力を集中させ始めた。それを確認したルーカスは、余裕の笑みを浮かべた。
「おや?罵倒の言葉は通じるのか。面白い。だがここじゃあ、手狭だろう? 貴様らの汚い魔法で、この侯爵邸を汚されるのはごめんだからな」
「…こっちだ!外の訓練場に来い!」
「ママのお手手を使わなくて大丈夫か?すっ転んで怪我しないようにな! 貴様らの魔法の腕前同様、足元もおぼつかないようだからな」
「減らず口を!みてろ、叩きのめしてやる!」
ルーカスは挑発的に言い放ち、訓練場へと歩き出した。彼の背中には、これから始まる決闘への冷徹な愉悦が滲み出ていた。
訓練場に着くと、既に数名の使用人が人目を忍ぶように見守っていた。アルバードとエドモンドは、ルーカスの挑発に乗せられ、顔を歪ませながらも、一斉に魔法を放った。火球が、風の刃が、ルーカス目掛けて襲いかかる。しかし、ルーカスは最小限の動きでそれを躱し、二人の懐に飛び込んだ。
一瞬の攻防。ルーカスの体術は、二人の未熟な魔法使いを圧倒した。彼は正確無比な動きで二人の急所を突き、関節を固め、地面に叩きつけた。二人が苦痛に呻き、魔法を使う隙を与えない。ルーカスの動きは、まるで熟練の戦士のそれだった。
アルバードは地面に這いつくばり、エドモンドは腕を捻じ曲げられ、悲鳴を押し殺していた。ルーカスはアルバードの顔をコンバットブーツで踏みつけ、ゆっくりと体重をかける。
「
ルーカスはさらに煽り立てる。エドモンドが、その場から這い上がろうと必死にもがくが、ルーカスの影が彼を覆った。
「そんなとこで座り込んで、どうしたんだ?お座りの練習か?大した魔法だな! あぁ、俺の目の前で粗相するなよ。貴様らのようなゴミの処理は面倒でね」
彼の言葉は、もはや怒りを超え、ただただ相手を貶める純粋な悪意と愉悦に満ちていた。使用人たちは、ルーカスの変貌ぶりに息を呑み、恐怖で凍り付いていた。
「はっ、剣を使うまでもねぇな。所詮は才能に溺れただけの未熟者。この程度の腕前で、俺に楯突こうとはな。貴様らの存在自体が、このトレンス侯爵家にとっての恥だ。この程度の低俗な魔法しか使えない貴様らに、俺の家族に触れる資格はない。貴様らは、俺の母上どころか、その足元にも及ばない。下水溝の蛆虫以下だ」
ルーカスが二人を徹底的に叩きのめし、完全に無力化したその時、訓練場の入り口に冷ややかな視線を向けた人物が現れた。
「……随分と、はしたない真似をしてくれるわね、ルーカス」
そこに立っていたのは、トレンス侯爵家の正妻、ダイアナ・ラ・トレンス侯爵夫人だった。彼女の瞳には、怒りと、そしてどこか冷たい嘲りが宿っていた。ルーカスは地面の二人から足を離し、ダイアナの方を向いた。ついに、直接対決の時が来たのだ。