幕間:非合理な攻防
トレンス侯爵領の執務室。ルーカスは膨大な書類の山を前に、集中して端末を操作していた。彼の脳内では、Alphaが絶え間なくデータを分析し、最適解を導き出している。領地の経済、軍事、そして情報統制。全てが彼の緻密な計画の下で動いていた。
その静寂を破るように、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ルーカス様、ダイアナ・ラ・トレンスでございます。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
ルーカスは顔色一つ変えず、「入れ」と短く答えた。入室したのは、継母であるダイアナ・ラ・トレンス。かつてはルーカスとクリスティアナに敵意を抱いていた彼女だが、ルーカスの圧倒的な合理性と、クリスティアナの裏表のない優しさに触れ、今ではぎこちないながらも和解していた。しかし、ルーカスへの複雑な感情は、まだ完全に消え去ったわけではない。
ダイアナは、書類に目を落としたままのルーカスの前に、優雅な動作で椅子を引き、腰を下ろした。彼女の口元には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「ルーカス様、お疲れのようですわね。わたくし、先ほどクリスティアナ様とお茶をしていたのですが、とても興味深いお話をお聞きしまして…」
ルーカスは、視線を書類から上げず、淡々と答えた。
「母上がご機嫌ならば、結構なことだ。それが、私に何の用だ?」
ダイアナは、ルーカスの反応を楽しんでいるかのように、さらに言葉を続けた。
「あら、そうおっしゃらずに。何しろ、ルーカス様の『幼い頃の武勇伝』でございますもの。クリスティアナ様が、それはもう懐かしそうに語っていらっしゃいましたわ」
ルーカスは、わずかに眉をひそめた。彼の「幼い頃」とは、前世の記憶が覚醒する以前の、不出来な子供だった時期のことだ。
ルーカスは厄介な事を、言い出す前に、機先を制すように、先手を打った。
「幼い頃の武勇伝ですか…。そういえば、数年前にろくでもない教師が派遣されたことがありましたな。ただ教科書をなぞる程度の無能で、時間の無駄でしかなかった。名前は覚えていませんが、あんな者を派遣してきた厄介者の顔も見てみたいものですね」
ルーカスは、淡々とした口調のまま、ダイアナの顔をじっと見つめた。ダイアナの顔から、一瞬にして悪戯っぽい笑みが消え失せ、引き攣ったような表情になる。あの教師を派遣したのは、他ならぬ彼女自身だった。
「…きっと、素晴らしい方に違いありませんわ。わたくし、そのようなことは存じ上げませんけれど…」
ダイアナは、必死に平静を装うが、声はわずかに上ずっていた。ルーカスは、その反応に満足したかのように、再び書類に視線を戻した。
「…ええ、確か、ルーカス様がまだほんの小さな頃、お気に入りの木馬を洗おうとして、お部屋を水浸しにしてしまったとか。クリスティアナ様が駆けつけた時には、ルーカス様は水たまりの中で、それはもう大層、泣いていらっしゃったと」
ダイアナは、上品に口元を覆い、くすくすと笑った。ルーカスは、内心で舌打ちした。そんな記憶は、彼の合理的な脳には残っていない。
「ほう。それはまた、微笑ましい話ですな。しかし、それは貴方のご子息、アルバード殿やエドモンド殿が、幼い頃に起こした『領主の息子らしからぬ粗相』に比べれば、取るに足らぬ些事でしょう。彼らは、今も泥水の中で『粗相』を繰り返しているようですが?」
ルーカスは、皮肉たっぷりに返した。ダイアナの顔から笑みが消え、一瞬で不機嫌な表情になる。アルバードとエドモンドのブートキャンプでの過酷な日々は、彼女にとって未だ触れられたくない話題だった。
「あら、意地の悪いことをおっしゃる。では、こんな話はいかがかしら? ルーカス様が、まだお屋敷の庭の構造も覚えきれない頃、かくれんぼをして、そのまま迷子になってしまったとか。クリスティアナ様が、それはもう血相を変えてお探しになったと…」
ダイアナは、再び悪戯っぽい笑みを浮かべた。ルーカスは、内心で辟易した。なぜ、こんな無駄な情報を母は覚えているのだ。
「ふむ。迷子、ですか。それは、貴族の子息たちが、自らの領地の構造すら把握せず、執事や侍女に全てを任せきっている現状に比べれば、よほど健全な探究心の発露と言えるでしょうな。少なくとも、私は自分の領地の隅々まで把握していますから」
ルーカスは、冷静に、しかし嫌味を込めて反論した。ダイアナは、王都の貴族社会の現状を皮肉られたことに、わずかに顔を歪めた。
「あらあら、言葉巧みですこと。では、これはどうかしら。ルーカス様が、クリスティアナ様のために、初めてお菓子を作ろうとして、それはもう台所を大惨事にしてしまったと。クリスティアナ様は、その焦げ付いた塊を、それはもう嬉しそうに召し上がったそうですが…」
ダイアナは、今度は隠しきれない笑いを漏らした。ルーカスは、内心で苛立ちを覚える。彼の「合理性」からすれば、料理など、最も非効率な行為の一つだ。
「なるほど。それは、私の『非効率な行為』への挑戦の証でしょうな。しかし、その『焦げ付いた塊』が、貴方方が提供する『高価で不味い料理』よりは、よほど母の心を温めたはずだ。少なくとも、私の料理は『愛情』という名の『価値』を含んでいますから」
ルーカスは、表面上は冷静を装いつつも、内心では「(くそっ、なぜそんなことを覚えている…!)」と毒づいていた。ダイアナは、ルーカスの言葉に、僅かに、青筋を浮かべつつも笑顔を保った。
ダイアナは、ルーカスをからかうことを辞め、ふと真面目な顔に戻った。
「そういえば、ルーカス様。先ほどクリスティアナ様とロマンドの新作タルトをいただきましたのよ。季節の果物をふんだんに使った、それはもう美しいタルトで…」
ルーカスは、書類に視線を戻したまま、興味なさげに答えた。
「…それが?」
ダイアナは、ルーカスの反応に少し呆れたように息を吐いた。
「それが、ではございませんわ。クリスティアナ様は、それはもう美味しそうに召し上がって、わたくしに『このタルト、ルーカスにも食べさせてあげたいわね! きっと気に入るわ!』と仰っていらっしゃいましたのよ。そして、そのタルトが、いかに素晴らしい香りで、いかに繊細な甘さだったか、それはもう自慢げに語っていらっしゃいましたわ」
ルーカスの手が、ピタリと止まった。クリスティアナが、自分が知らない情報を、楽しそうにダイアナと共有している。しかも、それが自分の「合理性」の範疇外である「味覚」や「感情」に関する情報だ。彼の完璧な情報統制の網の、わずかな隙間を突かれたような、言いようのない悔しさと、そして、母親が自分ではなくダイアナと親密に語り合っていることへの、無意識の葛藤が、彼の胸をよぎった。
「…何が望みだ?」
ルーカスは、低い声で尋ねた。ダイアナは、ルーカスの反応を見て、内心でほくそ笑んだ。彼の反応は、予想通りだった。
「あら、お分かりになりますのね。では、単刀直入に申し上げますわ。わたくし、ルーカス様が考案されたという、あの『新しい嗜好品』が気になっておりますのよ。噂では、それはもう、人を夢中にさせる香りと味だとか。それに、わたくし、先日クリスティアナ様とロマンドのタルトをいただいた際に、ルーカス様がお作りになった『写真』で、クリスティアナ様がそれはもう美味しそうにタルトを頬張るお姿を収めておりましてね…」
ダイアナは、ルーカスが密かに開発を進めている、この世界にはない「アロマ」や「コーヒー」「紙巻タバコ」といった嗜好品、そして「カメラ」で撮影した写真のことを持ち出した。
ダイアナは、そう言って、懐から一枚の小さな紙片を取り出した。そこには、確かにクリスティアナが満面の笑みでタルトを頬張る姿が、鮮明に写し取られている。それは、ルーカスがごく個人的な目的で試作したカメラで、クリスティアナの笑顔を収めた、彼にとって特別な一枚だった。まさか、それがダイアナの手に渡っているとは。ルーカスの顔に、明確な苛立ちと動揺が走る。
「…何故、貴殿がそれを…!」
ルーカスの声に、わずかながらも感情が滲んだ。ダイアナは、その反応に満足げに微笑んだ。
「あら、ご心配なく。わたくし、クリスティアナ様からお借りしただけですわ。本当に素敵な笑顔でいらっしゃいますもの。この笑顔を、ルーカス様もご覧になりたいでしょう?」
ダイアナは、ルーカスの動揺をさらに煽るように、写真を見せびらかした。ルーカスは、その写真から目を離せない。母親の屈託のない笑顔が、彼の心を揺さぶる。
「…なるほど。交渉、というわけか」
ルーカスは、わずかに唇の端を上げた。それは、嘲笑でもなく、侮蔑でもない。ただ、ダイアナの巧妙な手腕を認める、冷徹な笑みだった。
「分かった。条件を飲もう。ロマンドの新作タルトの情報を全て提供しろ。そして、母上との会話の内容も、詳細に報告すること。その代わり、貴殿には、私が開発した嗜好品を試す機会を与えよう。そして…その『写真』は、私に返却することだ」
ルーカスは、ダイアナの提案を受け入れた。母親が自分に隠している(あるいは、悪意なく共有していない)情報への渇望と、それが自分の「合理性」の範疇外であることへの苛立ちが、彼を突き動かした。それは、彼の「完璧な支配」への執着と、母親への複雑な愛情が入り混じった、ルーカスらしい「最適解」だった。ダイアナは、満足げに微笑んだ。彼女は、ルーカスという強大な存在の、わずかな「隙」を見つけ、それを巧みに利用することに成功したのだ。