第三十八話:歓待の裏側――母への誓い
トレンス侯爵領、領都ヴェリタス。閲兵式の熱狂が冷めやらぬ中、領内は次の大きな出来事に向けて慌ただしく動き始めていた。王都からの使節団を迎え入れるための、大規模な歓迎パーティの準備である。
侯爵邸の広大な庭園では、ルーカスが設計した自動化された設営機械が、音もなく動き回っていた。魔力と歯車が複雑に絡み合い、わずか数日で豪華な天幕が張られ、噴水が設置され、色とりどりの花々が植えられていく。それは、まるで魔法のように効率的で、従来の常識では考えられない速度だった。
(やはり、ルーカス様は、この世界の常識を軽々と超えていらっしゃるわ)
侯爵邸の奥、クリスティアナの私室で、侍女頭のシェーラは、窓からその光景を眺めながら静かに呟いた。彼女の視線の先では、普段は冷徹な顔をしているルーカスが、時折、設営の進捗をAlphaに確認し、わずかに口元を緩めているのが見えた。
シェーラは、クリスティアナの身の回りの世話をしながら、この侯爵家で起こっている変化を誰よりも近くで見てきた。ルーカスがこの領地に戻ってきて以来、侯爵家は変貌を遂げた。特に、クリスティアナの病状が劇的に改善していることは、シェーラにとって何よりも喜ばしいことだった。
「シェーラ、今日の薬はもう用意できたかしら?」
ベッドに横たわるクリスティアナが、柔らかな声で尋ねた。以前は常に顔色が悪く、起き上がるのも辛そうだった彼女の頬には、今はほんのりと血色が戻り、瞳には穏やかな光が宿っている。
「はい、奥様。ただいまお持ちいたします」
シェーラは優雅に一礼し、ルーカスが特別に調合した薬湯をクリスティアナに手渡した。その薬湯は、ルーカスがAlphaの知識と魔力を駆使して、人工培養された特殊な魔獣の素材から抽出した成分を配合したものだ。その製造には、侯爵領の最新鋭の設備と、莫大なリソースが投入されていることを、シェーラは知っていた。
(ルーカス様は、奥様のために、どれほどの力を注ぎ込んでいらっしゃるのでしょう。あの莫大な予算と、最新の技術を……)
クリスティアナが薬を飲む間、シェーラはふと、数年前の痛ましい記憶を思い出していた。あの頃、奥様は今よりもずっと弱々しく、そしてルーカス様は、まだ幼かった。侯爵家ではダイアナ夫人とその息子たちが横暴を極め、クリスティアナ様は病のためにその嫌がらせに耐えるしかなかった。そして、その矛先は、奥様の身の回りを世話する自分にも向けられた。
あの日の屈辱が、鮮明に蘇る。薬瓶を割られ、床に散らばる薬草。ミディアンとのハーフであるという出自を汚い言葉で罵られ、アルバードとエドモンドの不快な視線と手が、彼女の尊厳を蹂躙しようとした。
『お願いです、アルバード様、エドモンド様! クリスティアナ様のお薬が!』
あの日の屈辱が、鮮明に蘇る。ミディアンの血を引く自分は、使用人たちの間でさえ噂の対象であり、侯爵家の息子たちからは蔑みの目で見られていた。薬瓶を割られ、髪を掴まれ、心ない言葉を浴びせられた。
『お前、確かミディアンの血が入ってるだったな。薄気味悪いったらありゃしない』
『お前の薄汚い手が触れた薬なんて、あの病弱な奥様にはちょうどいい薬になるんじゃないか? 呪われた血には呪われた薬がお似合いだ』
屈辱で顔が歪む。普段の冷静沈着なシェーラからは想像もできないほど、心は深く傷つき、恐怖で硬直していた。ミディアンの血が、彼女を薄気味悪い存在だと囁く周囲の声が、まさに現実の汚泥となってまとわりつくようだった。この侯爵家で、奥様以外に自分を受け入れてくれる者はいない。あのままでは、どこまで穢されてしまうかわからなかった。その時、彼女の目の前を、幼いルーカス様が音もなく横切った。
背後からアルバード様を蹴り飛ばし、エドモンド様を関節技で床にねじ伏せる。その流れるような、しかし容赦ない動きは、当時からすでに熟練の兵士を思わせるほどだった。
『貴様らの汚れた手で、この侯爵家の者に触れることを、誰が許した?』
あの時のルーカス様の瞳に宿っていた、凍えるような怒りの炎。それは、自分に向けられた侮辱だけでなく、クリスティアナ様への、そしてこの侯爵家への冒涜に対する、純粋な激怒だった。
「シェーラ、話は後だ。行け」
あの時の、ルーカス様の声。それは、冷たく、そして有無を言わせぬ命令だったが、シェーラの耳には、彼女を救い、その尊厳を守ろうとする、強い意思が込められているように聞こえた。恐怖と屈辱で麻痺しかけていた身体は、ルーカス様の支える手に、温かい血が巡るのを感じた。シェーラは言われるままにその場を離れた。心臓は激しく打ち鳴り、背中には冷たい汗が伝っていたが、その胸には、彼らが徹底的に叩きのめされることへの、痛快な期待が湧き上がっていた。
(ルーカス様の才は、私が初めて魔術の初歩をお教えした、わずか3歳の頃から既に非凡だった。その瞳は、幼いながらも世界の真理を見通しているかのようで、私の言葉の奥にある法則すら瞬時に見抜き、驚くべき速さで魔力の制御を習得された。あの時、私の目に映ったのは、もはやただの子供ではなかった。その特異な才能が、まさか私を救い、この侯爵家での私の存在意義をこれほどまでに明確にしてくれるとは……)
廊下の物陰から、シェーラは訓練場での出来事を一部始終見ていた。ルーカス様がアルバード様とエドモンド様を完膚なきまでに叩きのめし、容赦ない言葉で精神までも踏みにじる姿は、見ていて鳥肌が立つほど恐ろしく、同時に、胸の奥で燻っていた長年の屈辱と憎悪を、一掃してくれるかのようなスカッとした解放感を与えた。ルーカス様は、決して私の受けた屈辱を忘れず、直接手を汚して、あの傲慢な兄弟たちに裁きを下してくれたのだ。
そして、あの後。訓練場から逃げ帰ってきたシェーラを、ルーカス様は追いかけてこなかった。直接的な言葉での慰めもなかった。しかし、その夜、彼の部屋から、シェーラの傷の回復を早めるための、特別な魔力薬が届けられた。それは、誰の目にも触れないよう、静かに、しかし確実に、彼の配慮を示すものだった。ルーカス様は、彼女の心の傷も、身体の傷も、そして何よりも「尊厳」が踏みにじられたことへの怒りを、きちんと理解し、それに対して行動で応えてくれたのだ。
(あの幼い頃から、ルーカス様は決して変わらない。奥様のためならば、いかなる強敵にも、いかなる理不尽にも立ち向かわれる。そして、私のミディアンとしての知識と魔力を、誰よりも深く理解し、必要としてくださる。彼の壮大な計画の端々に、私の力が貢献できていることを感じている。もはやこの侯爵家は、奥様とルーカス様のお二人のものだ。そして、彼らが築き上げる新しい世界の中で、私の出自が、その一翼を担うことを許されている。これ以上の肯定があるだろうか)
ミディアンとのハーフであることに複雑な感情を抱いてきたシェーラだが、この侯爵家では、クリスティアナもルーカスも、彼女の出自を咎めることなく、その能力を信頼し受け入れてくれていた。特に、ルーカスは彼女の魔法の才能を最大限に引き出し、侯爵家における重要な役割を与えてくれた。
(この侯爵家は、今や奥様とルーカス様のお二人のもの。そして、私が命を賭して守るべき場所……)
クリスティアナが穏やかに薬を飲み干すのを見て、シェーラの胸に温かい、そして強い決意が満ちた。彼女は、ルーカスの冷徹な合理性の奥底にある、クリスティアナへの深い愛情を誰よりも理解していた。そして、その愛情が、この領地を、そして彼らを守るための、揺るぎない原動力となっていることを知っていた。
・・・・・
・・・
パーティの準備が一段落した夜、ルーカスは自室でAlphaと対話していた。机上には、ホログラムで表示された侯爵領の財政データと、軍事開発の進捗状況が浮かび上がっている。
「Alpha、パーティの準備状況は?」
『予定通り、98%の工程が完了しています。王都からの使節団の到着までには、全ての準備が整う見込みです。彼らの行動パターンと情報収集の傾向についても、過去のデータから予測モデルを構築済みです』
「結構。では、本題だ。軍事生産と人員増強の進捗は?」
『人工培養による魔獣素材の生産は、目標値の120%を達成。第二段階の「素材のみの人工培養」技術も安定稼働に入り、コストは初期予測の30%削減に成功しました。これにより、新型装甲や魔導具の量産体制は、当初計画より一ヶ月前倒しで確立可能です』
Alphaの報告に、ルーカスは満足げに頷いた。
「人員はどうか?閲兵式で領民の士気は高まったが、実戦に耐えうる練度を持つ兵士の数は?」
『新生部隊への志願兵は、閲兵式後、予測を上回る増加を示しました。しかし、彼らの練度向上には時間が必要です。現在、自動訓練システムとVRシミュレーションを導入し、教育効率を最大化しています。これにより、既存の訓練期間を50%短縮し、半年後には実戦投入可能な兵員を現在の2倍に増強できる見込みです』
ルーカスは、ホログラムのグラフが上昇していくのを見つめた。全てが計画通り、あるいはそれ以上の速度で進んでいる。
「……母さんの治療にかかるリソースは?」
ルーカスは一瞬の間を置いて、尋ねた。その声には、わずかながら感情の揺らぎが感じられた。
『個体:クリスティアナの治療には、現在、侯爵領の年間予算の約15%、および軍事開発予算の約25%に相当するリソースが継続的に投入されています。これは、特に高純度魔力結晶と、特定の希少魔獣の人工培養に起因するものです。しかし、彼女の生命活動指標は安定しており、病状は確実に改善傾向を示しています』
Alphaの無機質な報告を聞きながら、ルーカスは深く息を吐いた。莫大なリソースだ。だが、後悔は微塵もない。
「分かった。引き続き、治療プロトコルの最適化と、リソース効率の改善に努めろ。いかなる犠牲を払ってでも、母さんの完治を最優先する」
『承認。貴方の最優先事項として、リソース配分を継続します』
Alphaの声は変わらず事務的だったが、ルーカスの瞳には、冷徹な計算とは異なる、深い決意の光が宿っていた。この強大な力は、母を守るためにこそ存在する。その揺るぎない誓いが、彼の行動の全てを突き動かしていた。
このパーティで、王都の貴族たちはトレンス侯爵領の真の力を、そしてルーカスの恐るべき才覚を、目の当たりにすることになるだろう。そして、それは彼らの想像を遥かに超えるものとなる。