第五十八話:王都への出立
夜明け前のトレンス侯爵邸は、静寂の中にも張り詰めた緊張感が漂っていた。空にはまだ星が残り、冷たい朝の空気が肌を刺す。邸宅の門前には、ルーカスを乗せるための馬車が既に準備を終え、待機していた。馬車を護る先行部隊の面々は、完全武装で周囲を厳重に警戒している。
門前を挟むようにして、侯爵領の精鋭たちが整列していた。右翼には、ダリルが率いる輸送部隊と、ガレス指揮下の工兵部隊が、泥にまみれた作業服とは違う、真新しい制服に身を包み、堂々とした姿で立っている。左翼には、エリスが指揮する医療部隊が、凛とした表情で並び、その後ろには、リディアとゼファーが、それぞれ砲兵隊と機動砲兵隊の指揮官として、ルーカスを見つめていた。
ルーカスが馬車に乗り込もうとすると、ダリルが声をかけた。
「よぉ、ダリル。こんな朝早くから、見送りか」
ダリルは、かつての荒くれ者の面影は微塵もなく、規律正しい軍人の顔つきでそう言った。彼の背後には、彼が指揮する輸送部隊の面々が、誇らしげに整列していた。
「とんでもございません、ルーカス様。お見送りは、俺の責務でございます」
「そうか。今回の王都への旅路、物資の輸送が途絶えることは、決してあってはならない。お前に任せておけば、心配ないだろうがな」
ルーカスの言葉に、ダリルは胸を張った。
「はっ! 陸路、水路、そして今後開発されるであろう空路も視野に入れ、最高の輸送網を構築いたします。王都の貴族様方がどんな妨害を試みようとも、必ずや物資を届け切ってみせます。俺たち輸送部隊は、閣下の戦いを背後から支える、もう一つの『力』であると自負しております」
その言葉には、輸送という地味な役割に強い誇りと責任感を持つ、ダリルらしい響きがあった。
エリスがルーカスの馬車に駆け寄り、静かに言った。
「ルーカス、アンタ、王都では無理すんなよ。アンタの体は、この侯爵領の宝だ。無茶をして、あたしの手で治せる範囲を超えんなよ」
彼女の口調はぶっきらぼうだったが、その瞳には深い信頼が宿っていた。ルーカスは、彼女の言葉に静かに頷いた。
ガレスは、ルーカスに深々と頭を下げ、言葉を詰まらせながらも、力強く言った。
「ルーカス様、俺たちの作った道が、貴方様の道を拓きます。道がなければ、俺たちが拓きます。どうか、ご武運を」
その言葉には、不器用ながらも、ルーカスへの絶対的な忠誠が込められていた。
護衛騎士のギルバードとベリルとそしてアレックス、エレノアやクライスも馬車に乗り込むべく、準備を整えていた。この旅の護衛は、ルーカスの指揮下で最も信頼のおける面々で固められていた。
その時、一人の女性が馬車に近づいてきた。クリスティアナの侍女であるシェーラだ。彼女は、ルーカスに小さな木製の御守り人形を差し出した。
「ルーカス様。こちらを」
ルーカスが受け取ると、シェーラは静かに続けた。
「これは、奥様と私が、ルーカス様の無事を願い、魔力を込めた御守りでございます。お守り自身が、一度だけ、ルーカス様が受けた致命的な傷を肩代わりしてくれます。どうか、道中の無事を」
その言葉に、ルーカスは一瞬、言葉を失った。シェーラの瞳の奥には、主であるクリスティアナへの深い忠誠と、ルーカスを案じる気持ちが混在していた。
「……Hmph. 母さんらしいな。ありがたく受け取っておく」
ルーカスはそう言って、御守りを懐にしまい込んだ。
ルーカスが馬車に乗り込もうとすると、荒々しい笑い声が聞こえた。見れば、バルバトスが腕を組み、ニヤリと笑っている。
「…よう、坊主」
「王都の貴族どもに、俺たちの作った泥の味がわかるか? まぁせいぜい、坊主のお土産話を楽しみに待ってるぜ。俺はここで、あんたが帰ってくるまでに、戦車を泥まみれにしとくからな」
その言葉には、忠誠ではなく、互いの矜持をかけた戦友のような響きがあった。ルーカスはそれに答えず、ただ静かに頷いた。
邸宅の正面には、キース侯爵、クリスティアナ、そしてダイアナが立っていた。彼らの後ろには、リディア、ゼファーといった主要な部下たちが整列している。彼らは皆、心配と期待が入り混じった眼差しで、ルーカスの乗る馬車を見つめていた。
「ルーカス……。領地のことは、任せておけ。お前の旅路は、私がこの地から守ろう」
キース侯爵の言葉には、当主としての厳格さと、未だ親として接し方が分からないが、息子への深い愛情、そして過去の負い目からくる贖罪の念がにじみ出ていた。
クリスティアナは、ルーカスの乗る馬車の窓にそっと手を触れた。その手は、小さく震えている。
「ルーカス……。元気な姿で、私の元へ帰ってきてちょうだいね。あなたの幸せが、私の何よりの願いなの」
彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。ルーカスは、その母の愛に、心が締め付けられるような思いがした。
「ああ、母さん。心配しないでくれ。すぐに帰ってくるさ」
ルーカスは、そう言って、優しく微笑んだ。その笑顔の裏には、母を護るため、どんな非情なこともやってのけるという、悲壮な決意が秘められていた。
「あらあら、泣かないで、クリスティアナ様。あの子は、わたくしに似て、なかなか丈夫なのだから」
ダイアナがクリスティアナの肩を抱き、からかうような、しかしどこか本気の心配が透けて見える口調で言った。
「ふふ……、そうですね。私も、ルーカスを信じなければ」
クリスティアナは、涙を拭い、微笑んだ。
その時、邸宅の門が、重厚な音を立てて開かれた。門の外には、早朝にも関わらず、多くの領民たちが集まっていた。彼らは、ルーカスが領地にもたらした恩恵に感謝し、一目見送ろうと集まったのだ。
「ルーカス様のお陰で、うちの子の病が……!ご武運を!」
「ルーカス様の新しい流通網で、こんな私でも商売ができるようになりました!ありがとうございます!」
民衆の声が、夜明け前の静寂を破り、大通りに響き渡る。その熱気は、冷たい空気を震わせるほどだった。
「ルーカス様、ご武運を!」
「必ず、ご無事で!」
「我らの希望、ルーカス様万歳!」
民衆の声が、夜明け前の静寂を破り、大通りに響き渡る。その熱気は、冷たい空気を震わせるほどだった。
そして、その民衆の前に、青と銀の紋章をあしらったブルードレスを纏った儀仗隊が、整然と並んでいた。彼らは、ルーカスがこの数年間、自らの手でゼロから鍛え上げた精鋭たち、海兵隊の選抜隊員だった。
彼らの多くは、かつては行き場のない孤児やゴロツキ、あるいはただ剣を振ることしか知らなかった若者たちだ。ルーカスはそんな彼らに、単なる戦闘技術ではなく、規律と誇りを植え付けた。
彼らは一糸乱れぬ動作で、捧げ銃の姿勢を取る。その銃剣が、夜明けの冷たい光を反射してきらりと光った。その銃身は、彼らがルーカスから教えられた「責任」と「規律」の重さを象徴しているかのようだった。
隊員の一人、かつてルーカスに命を救われた兵士は、心の中で呟いた。
「(俺は、ただのゴロツキだった。それが今、この侯爵領の希望を背負う、あんたの旅路を見送っている。この命も、この銃も、あんたがくれたものだ。...行ってらっしゃい、ルーカス様。俺たちの未来を、どうか...)」
同時に、儀仗隊の楽団が、荘厳なファンファーレを奏で始める。その音色は、単なる祝福のメロディではない。それは、泥にまみれ、血と汗を流しながらも、ルーカスと共に未来を掴もうとする彼らの魂の叫びだった。
ルーカスは、その光景を目の当たりにし、一瞬、目を見開いた。
「……おい、エレノア」
ルーカスは、呆れたように、馬車の横に立つエレノアに目を向けた。エレノアは、知ってか知らずか、ただ静かに微笑んでいる。
「これは、お前の仕業か?」
「さあ、どうでしょう? ですが、この光景は、侯爵領の民と兵士たちが、ルーカス様を心から信頼している証でございます。彼らなりの、ささやかな心遣いでしょう」
エレノアは、ルーカスの問いを煙に巻きながらも、その言葉には、彼を侯爵領の象徴として送り出すという、彼女の強い意図が込められていた。
「ささやか、ね……。まったくだ。お前はいつも大袈裟すぎる。永遠の別れでもあるまいしな」
ルーカスは苦笑した。その表情には、不満と、しかしどこか温かい感情が混じり合っていた。
「では、行ってくる。後を頼んだ」
ルーカスが馬車の窓から顔を出し、静かにそう告げた。ダリルとシェーラ、そしてキース侯爵、クリスティアナ、ダイアナ、そして主要な部下たちは、その背中をまっすぐに見つめた。
馬車が静かに動き出し、護衛に守られながら、夜明け前のトレンス侯爵邸を後にする。その馬車の後ろを、武装した先行部隊が続く。
皆は、馬車が完全に視界から消えるまで、その場に立ち尽くしていた。彼らの心は、遠く離れた王都へと旅立つ主への、揺るぎない忠誠と、任務への確固たる決意に満ちていた。そして、朝の光が空を染め始める頃、トレンス侯爵領は、新たな歴史の一ページを刻むため、その歯車を静かに回し始めた。
・・・・・
・・・
馬車は、夜明けの光が差す街道を順調に進んでいく。侯爵領の街道は、ルーカスが整備させたため、以前のような荒れた道ではなく、馬車の揺れはほとんど感じられなかった。馬車の窓からは、朝霧に包まれた広大な森と、遠くにそびえる山々が見える。
馬車の中には、ルーカスとエレノア、そしてクライスが向かい合って座っていた。ルーカスは、組んだ腕を窓枠に置いて外の景色を眺め、エレノアは膝の上の資料に目を落としている。同行しているはずのギルバードは護衛として先行部隊と共に行動しており、ベリルとアレックスは後方で警戒にあたっていた。
ルーカスが、不意に大きなため息をついた。
「Too Late.おい、エレノア。この馬車、もう少し何とかならなかったのか?」
ルーカスの言葉に、エレノアは顔を上げ、少し困ったような表情を浮かべた。
「ルーカス様、何か不都合がございましたでしょうか? この馬車は、ルーカス様ご指示の通りサスペンションシステムを組み込み、可能な限り乗り心地を改善した最新式でございますが……」
「ああ、分かっている。お前が最大限に努力したことはな。だが、揺れがひどい。ケツが割れそうだ」
ルーカスはそう言って、窓枠に額を打ち付けた。エレノアは、その言葉を聞いて、小さく苦笑した。
「もとより割れておりますので、ご安心下さい」
「
「既存の技術水準では、これが限界でございます。時速に関しましても、道路状況と馬の能力を考慮すれば、これ以上の加速は不可能でございます」
「
ルーカスは、苛立ちを隠せない様子で言った。その隣で、クライスは真剣な表情で馬車の構造を観察していた。
「気持ちは分かるけどね。この馬車の重心はまだ不安定だし、サスペンションも根本的な解決にはなってない。だけど、開発の時間と貰ったコストでは、これ以上は……」
クライスは申し訳無さそうにそう言いながら、馬車の資料を広げ始めた。
「…こんな事なら、もう少し早めに、金と時間を掛けとくんだったな。
ったく、ほかの連中は良くこんなもんに乗れるもんだ。俺が国を掌握したら、こんな馬車なんてもんは、全てお役御免にしてやる。車を走らせ、空を飛ばせて、海を渡らせる。物流を完全に支配し、この世界のあり方を根本から変えてやるさ。それこそが、俺がこの旅路に課す最初の目標かもしれんな」
ルーカスの言葉には、単なる愚痴ではなく、この世界の技術に対する深い知識と、それを変革しようとする強い意志が込められていた。エレノアは、そんなルーカスの言葉に、静かに頷いた。
「ええ、存じております。ですが、その目標を達成するためには、まず王都での貴族社会を掌握する必要がございます。焦るお気持ちは分かりますが、ここはご辛抱くださいませ。ルーカス様がいなければ、我々も、そしてこの侯爵領も、未来を失ってしまいますから」
エレノアは、いつもの冷静な口調で、ルーカスをなだめる。その言葉には、ルーカスの才能を信じ、しかしその無鉄砲さを心配する、彼女なりの愛情が感じられた。
ルーカスは、窓の外を流れる王都の景色を、ただ無表情に見つめていた。彼の隣で資料に目を通していたエレノアが、静かに口を開く。
「それよりもルーカス様、王都へ到着しましたら、侯爵家の別邸へ向う予定です。その翌日は、学園の理事長との挨拶、入学手続き、そして王都での社交界に向けた準備を順次進めてまいります」
「ああ、分かっている。それから、別邸の使用人どもに、俺のやり方に口を挟むなと伝えておけ。王都の貴族どもの前では、猫をかぶる必要があるが、屋敷の中までお利口さんにするつもりは無ぇ」
ルーカスはそう言って、わずかに嘲笑を浮かべた。彼の言葉には、貴族社会への嫌悪と、それを上手く利用しようとするしたたかさが滲み出ていた。
「かしこまりました。しかし、王都の別邸には、代々トレンス侯爵家にお仕えしている者がおります。特にメイド長は、侯爵家の名誉と品位を何よりも重んじる方でございます。ルーカス様の『合理主義』が、彼女の反発を招く可能性がございます。ご注意ください」
エレノアの警告に、ルーカスは興味なさそうに肩をすくめた。
「構わない。俺のやり方が気に入らないなら、辞めればいいだけの話だ。俺は、無駄なものに金を払うつもりはない。だが、まずは顔だけ見ておいてやるか」
ルーカスは、エレノアの言葉に何も言わなかった。ただ、再び大きなため息をつき、窓の外に視線を向けた。彼の視線の先には、侯爵領の豊かな森が広がっていた。
「Hmph...
そう呟くルーカスの声には、苛立ちだけでなく、少しだけ寂しさも混じっているようだった。