幕間 ベースに込める決意と想い
叙爵の儀が終わり、侯爵邸の華やかさに取り残されたように、エリスは自室の窓辺に立っていた。深い紺色の真新しい制服は、まだどこか落ち着かない。壁に映る自分の影を見る。燃えるような赤髪が、今はきっちりとまとめられている。この髪の色は、裏路地で生きていた頃、遠くからでも目立つ厄介な印だったが、同時に彼女自身の闘志の象徴でもあった。
「(まさか、あたしが『男爵様』なんて呼ばれる日が来るなんてな…)」
ペンダントとして下げられた爵位の証が、胸元で冷たく光る。この煌めきとは対極にあったのが、かつての彼女の日常だった。
・・・・・
・・・
トレンス領ヴェリタスの裏路地。そこは、文字通り明日をもしれぬ生活が当たり前だった場所だ。毎朝目が覚めるたびに、今日一日の食い扶持をどうするか、そればかり考えていた。スリ、詐欺。口汚く罵り、時には力ずくで、その日を凌ぐ。それが「エリス・メイフィールド」の生き方だった。
「(クソッたれ…またこれだけか)」
稼ぎが少なかった日の夜は、焦燥感が肺を締め付けた。自分のことだけならまだしも、彼女には守るべきものがあった。メイフィールド孤児院――いや、あの頃はただの、生活苦にあえぐ子供たちの集まりだった。そこには、血の繋がりはなくとも、彼女が「弟分」「妹分」と呼んで心を砕いた小さな命たちがいた。
「これで、なんとか今月も食いつなげるはずだ…」
手に入れた僅かな金貨を、孤児院の年老いた管理人に押し付ける。その瞬間だけは、路地裏で貼り付けていた冷たい仮面が剥がれ落ちる。女性や子供が相手だと、彼女の態度は一転して優しくなった。泥に塗れた手で、小さな子供たちの頭を撫でる。彼らの無垢な瞳を見つめるたびに、胸の奥でチクリと痛む。自分がしていることは犯罪だ。いつか捕まるかもしれない。いつか、路地裏の闇に吞み込まれ、身を滅ぼす日が来るかもしれない。その恐怖は常に、薄皮一枚隔てた場所に潜んでいた。
「(それでも、あの子たちが腹を空かせるよりはマシだ)」
そう自分に言い聞かせてきた。外の世界では、警戒心と悪態で身を守り、冷酷な目で他人を値踏みする。だが、孤児院に戻れば、小さな子供たちの笑顔のために、柔らかい声で物語を読み聞かせ、擦りむいた膝を心配する。その二面性は、彼女が生き抜くための術であり、また、彼女の心を守る最後の砦でもあった。裏路地の荒々しさと、内に秘めた深い情。そのギャップこそが、エリスという人間の本質だった。
そんな日々の中で、彼女は常に感じていた。この薄汚れた世界から、いつか抜け出したい。そして、自分のような境遇の人間が、まっとうに生きられる場所を作りたいと。それが、漠然とした、しかし確かな彼女の願いだった。
その日も、私はヴェリタスの薄汚れた裏路地を彷徨っていた。赤髪が、夕焼けに不吉に燃えているように見えた。孤児院の子供たちの顔が脳裏をよぎる。一番幼い子が熱を出している。薬も、碌な食事も与えてやれていない。今日の稼ぎがなければ、明日はない。その焦燥が、私の胃を焼くようだった。
獲物を見つけた。身なりのいい商人が、脇に大きな革袋を抱えている。チャンスだ。人混みに紛れ、巧みにその懐に手を伸ばした、その時だった。
「(ちっ、またこんなことになっちまうとはな…)」
「その手を止めろ」
まるで、背後から氷の刃を突きつけられたかのような声に、私の体は硬直した。振り返ると、そこにいたのは、信じられないほど幼い、しかし、その瞳の奥に底知れない冷たさを宿した少年だった。後に知った事だが、そいつがルーカス。当時のトレンス侯爵家の、病弱と噂される五歳の坊主だった。
「おいおい、ガキが何言ってんだ。引っ込んでろ、痛い目見たくねえならな」
悪態をついて威嚇したが、ルーカスは微動だにしない。その無機質な視線に、初めて背筋が凍るような感覚を覚えた。
「貴様の技術は、こんなところで使うには惜しい。選択肢を与えよう。ここで私に捕まり、牢獄で朽ちるか。それとも、私の元で、その能力を活かすか」
少年の口から発せられる言葉は、まるで大人を試すかのような、いや、全てを見透かすような冷酷さだった。路地裏で生きてきた私は、人の顔色を読むことには慣れていたが、この子供からは何も読み取れない。ただ、彼の提案に乗らなければ、本当にこの場で終わる、と直感した。
「…ッ、クソ…いいぜ。面白そうだ。地獄を見せてくれるってなら、付き合ってやるよ」
私は、半ばやけくそでそう答えた。どうせ、どこに行っても同じような地獄だろう、と。この時の私は、これから始まる地獄が、まさか文字通りの意味を持つことになるとは、夢にも思っていなかった。
ルーカスに「拾われる」というより、まるで商品のように品定めされ、言いようのない契約を交わされた私は、すぐにブートキャンプへと送られた。そこで待っていたのは、文字通りの地獄だった。
「おい、てめぇら! 足並み揃えろ! そんなんじゃ、野犬の方がまだマシだぜ!」
怒声が響き渡る訓練場。泥だらけの地面を這いずり回り、銃器の分解組み立てを延々と繰り返す。肉体は悲鳴を上げ、喉は枯れた。王都の衛兵に追われた経験は数知れずあったが、これほどまでに追い詰められたことはない。
「冗談じゃねえ! こんなクソみたいな訓練、いつまで続くってんだ!」
私は悪態をつきまくった。口が悪くなるのは、路地裏で身を守るための癖だった。疲労と苛立ちが限界に達すると、自然と汚い言葉が飛び出す。他の訓練兵たちも疲弊していたが、私ほど悪態をつく奴はいなかった。教官たちも、最初は私を目の敵にしたが、そのうち「口だけは達者な赤髪の女」として、半ば諦めるようになった。
夜には、足の震えで眠りにつくことすらできなかった。何度も、逃げ出してやろうかと思った。しかし、あのルーカス坊主の冷たい瞳が、脳裏にちらつく。「逃げても無駄だ」と、あの目が言っているようだった。
だが、地獄のような日々を過ごすうちに、私の体は徐々に、しかし確実に変わっていった。筋肉がつき、呼吸が整い、足は泥の中でも確かに地面を捉えるようになった。銃器の操作も、まるで自分の手足のように馴染んでいく。最初はただの反発だった悪態も、いつしか、負けん気と、自分を奮い立たせるためのリズムに変わっていった。
「(…なんだ、この感覚。ただ生き残るだけじゃない…もっと、強くなれる?)」
ある日、泥の中で伏せたまま、私はふとそう思った。これまでは、ただ逃げ惑い、盗み、隠れて生きてきた。けれど、ここでは、自分自身の能力が、着実に向上している実感があった。訓練の厳しさに比例して、自分自身が研ぎ澄まされていく。それは、路地裏では決して味わえなかった感覚だった。
そんなある日のことだ。休憩時間に、他の訓練兵の噂話が耳に届いた。
「なあ、聞いたか? 領都のメイフィールド孤児院ってのが、最近、急に潤ってきたらしいぜ」
「ああ、トレンス侯爵様が、大量の寄付をして、設備も整えたって話だ。子供たちもみんな元気になったってよ」
その言葉に、私の全身を電流が走り抜けた。メイフィールド孤児院。まさか、あのルーカス坊主が…?
「…嘘だろ…」
私は信じられなかった。あの、薄汚れた路地裏で、明日をもしれぬ生活に喘いでいた私を、冷酷な目で品定めしたあの少年が、私の命よりも大切だった子供たちのために、そんなことを…?
最初は信じられなかった。きっと、別のメイフィールド孤児院だろう、と。しかし、その後も続く噂話と、細部の合致に、私の疑念は確信へと変わっていった。ルーカスは、私が地獄の訓練に耐えている間、水面下で、私の、そして孤児院の未来を築いていたのだ。
その瞬間、私の心の中にあった、ルーカスに対する全ての反発が、音を立てて崩れ去った。代わりに、彼の底知れない深さと、冷徹な合理性の裏に隠された真の目的を理解した。彼は、私を道具として扱ったかもしれない。だが、その道具が守るべきものまで、彼は見据えていたのだ。
それから、私の訓練に対する姿勢は一変した。悪態は消え、代わりに訓練に食らいつく執念が生まれた。ルーカス坊主のやり方は、確かに地獄だ。だが、この地獄の先に、私が本当に守りたかったものがあるのなら、喜んでその泥に塗れてやろう。彼の命令ならば、たとえ火の中水の中、どこへでも行ってやろう。
私の忠誠は、この日、完全に、そして揺るぎないものになった。
(あの幼いルーカス様が、まさか、あたしにそんな場所を与えてくれるなんてな…)
そんな事を思い出しながら、窓の外の闇を見つめ、エリスはそっと息を吐いた。
・・・・・
・・・
叙爵の儀から暫く後。陸路、水路、果ては空路まで見据える輸送部隊長のダリルが、新たな装甲車や高速艇、輸送ヘリを「これでもか」と自慢するのを聞き流しながら、エリスは、自身の体からまだ抜けきらないブートキャンプの残滓にため息をついた。
ブートキャンプの最終訓練。泥と汗と血にまみれた日々だった。限界を超えては叩き起こされ、罵声を浴びながらも、何とか食らいついてきた。心臓は喉を突き破りそうに鳴り、視界は霞んだが、それでも歯を食いしばり、最後の訓練を終えた時、私の体は、これまでに感じたことのない軽さと、確かな力に満ちていた。
「衛生部隊長、エリス・メイフィールド! 前へ!」
教官の怒号のような声が響き渡り、私の体が震えた。まさか、このあたしが……。ルーカス様が、ブートキャンプの最終選考に残った隊員たちの中から、新たに編成される部隊の指揮官を任命すると発表したばかりだった。
私の名は、呼ばれないだろうと思っていた。いや、呼ばれるはずがない。裏路地で生きてきたスリ上がりの、口の悪い女だ。隊長なんて、ガラじゃない。
だが、私の足は、勝手に一歩踏み出していた。ルーカス様が、無機質な瞳で私を見つめ、静かに頷く。その瞬間、堰を切ったように、熱いものが頬を伝った。泥まみれの訓練を乗り越えた時ですら流れなかった涙が、とめどなく溢れ落ちる。それは、歓喜でもあり、ようやく辿り着いた安堵でもあった。
「(あたしが…衛生部隊の隊長に…!)」
泥の中を這いずり回り、血反吐を吐くようなブートキャンプの地獄の先には、確かに光があった。だが、その光の先に待っていたのは、また別の地獄だった。
「んだよこれ! まだ勉強すんのかよ!? 地獄は終わったんじゃなかったのか!?」
私は、与えられた分厚い医療教本を机に叩きつけた。衛生部隊長に任命されたはいいが、今度は「MOS(特技)取得」だの「専門知識習得」だのと、膨大な座学と実習が待ち構えていた。人体解剖図、薬草学、外科手術の手順…どれもこれも、私の頭を悩ませるものばかりだ。
「貴様の知的好奇心は、路地裏での小細工にしか向けられていなかったようだな。これもお勉強だ、エリス」
脳内に直接響くルーカス様の作った、学習用AIとやらの無機質な声に、私は悪態をついた。
「うるせえ! テメェは口出すんじゃねえよ、ポンコツAI!」
悪態をつく癖は、どうやらそう簡単には抜けないらしい。だが、不思議とAIは何も言い返さない。その事務的なサポートを受けながら、私は徹夜で教本を読み込み、新しい知識を頭に叩き込んだ。
衛生部隊の隊長になってからも、私の口の悪さは相変わらずだった。特に、男の兵隊が相手だと、それが顕著に出る。
「てめぇ、こんなんでへばってんのか!? 軟弱なツラしやがって! 足が痛い? 頭が痛い? はぁ!? 水でも飲んで寝てろ! 次!」
訓練で擦りむいた程度の怪我や、ちょっとした疲労を訴える男には、そう言って冷たく突き放した。医務室は戦場を支える場所だ。こんなことで甘えている暇はない。
「全く、使えねえな、テメェは!」
だが、本当に深刻な患者が来ると、私の態度は一変した。腹を抱えてうずくまる兵士。深手を負って血を流す負傷兵。
「ったく、てめぇはいつも肝心なとこで怪我しやがるな! 死ぬんじゃねえぞ、バカ野郎…」
そう悪態をつきながら、私は躊躇なく薬を投げつけるように渡した。そして、渋々、といった様子で顔を覗き込み、容態を的確に判断する。傷口は素早く清潔な布で覆い、手際よく縫合していく。その手つきは、荒々しい言葉とは裏腹に、驚くほど正確で繊細だった。兵士の生死が関わるとなれば、一切の容赦はない。命を繋ぐためには、どんな手段でも使う。それは、路地裏で生き抜いてきた私の本能だった。
しかし、女性兵士や、子供が相手になると、私の態度は打って変わって優しくなった。
「大丈夫かい? 無理しすぎたんだね。ほら、ここに座って。温かい薬を淹れてあげるから、ゆっくり休みな」
疲労困憊で、医務室の隅でうずくまっていた若い女性兵士に、私はそう声をかけた。彼女の肩をそっと抱き寄せ、優しく頭を撫でる。まるで、孤児院の妹たちを慰める時のように、私の声は自然と甘くなる。彼女の顔には、まだ訓練の厳しさによる憔悴が浮かんでいたが、私の言葉に、彼女は安堵したように小さく頷いた。
「怪我は? ここが痛むのかい? 見せてごらん、大丈夫だからね」
子供のような顔で、不安げに差し出された手のひらにできたマメを、私は丁寧に消毒し、薬を塗る。私の手つきは、ひどく穏やかで、まるで母親が子供を看病するように見えただろう。男性兵士たちには見せられない、私の二面性だ。彼らがこの姿を見たら、きっと気持ち悪がるに違いない。だが、それでも構わない。傷つきやすい心や、幼い命を守るためなら、どんな役でも演じてやる。
衛生部隊の隊長として、私は幾度かの小規模な戦闘にも参加した。その中でも、特に心に深く刻まれているのが、数年前のヴァルデシアの戦いだ。あの時の光景は、今でも悪夢となって私の目を閉じさせる。
「(クソッ、足りねえ…! 何もかも、足りねえんだ!)」
魔獣達の大規模な襲撃により、ヴァルデシアは瞬く間に地獄と化した。負傷者の数が、私の想像をはるかに超えていた。いくら応急処置を施しても、次から次へと血まみれの患者が運ばれてくる。薬も、医療器具も、人手も、何もかもが不足していた。私一人では、どうすることもできない。目の前で、助けを求める声が、次々と途切れていく。
あの時、私は、衛生部隊長として、医者として、自分の無力さを痛いほど思い知らされた。どんなに悪態をついても、どんなに罵っても、死んでいく命を止めることはできなかった。
「(もっと…もっと、力が必要だ。あんな思いは、二度としたくない)」
その強烈な無力感こそが、私を突き動かす原動力となった。ルーカス様が提示する未来の脅威。そして、その脅威に対抗するための新しい軍のあり方。あの無力感を二度と味わわないために、私は、この医療部隊を最強の部隊にする。そして、ルーカス様の描く、誰もが安心して暮らせる世界を守り抜くのだ。
・・・・・
・・・
叙爵の儀を終えて数日後、私は真新しい制服を身につけ、護衛もつけずに孤児院へと向かう道を歩いていた。道中、胸元に下げた男爵のペンダントを何度も握りしめる。この煌めきが、本当に私のような人間にふさわしいのか。時折、そんな不安がよぎる。
(まさか、こんな日が来るなんてな…)
路地裏で必死に稼ぎ、身を隠して孤児院に仕送りをしていた頃の私が、今の私を見たら、どんな顔をするだろうか。きっと、馬鹿げている、と笑うに違いない。それでも、私がこの道を選び、ここまで来たのは、全てあの子たちの笑顔のためだ。
孤児院の古びた門が見えてきた。かつては、ボロボロで寂れた、生活苦が滲み出る場所だった。だが、今は違う。ルーカス様が改革に乗り出し、潤沢な資金が流れ込み、施設は綺麗に改装され、子供たちの顔には生気が戻っていた。
門をくぐると、すぐに子供たちの賑やかな声が響いてきた。
「エリスお姉ちゃんだ!」
一斉に私に駆け寄ってくる小さな影たち。私は、一瞬、戸惑いながらも、自然と顔が綻んだ。
「お前ら、元気にしてたか? ったく、また大きくなったな!」
口ではそう言いながら、子供たちの頭を次々と撫でてやった。路地裏で身につけた素早さで、一人ひとりを抱きしめ、頬を撫でる。
そして、その奥から、優しげな顔立ちの女性が歩み寄ってきた。彼女こそ、ルーカス様が新たに孤児院の院長に任命したマリエル・グレイス夫人だ。夫に先立たれて孤独だった彼女は、この孤児院で子供たちに新たな生きがいを見出したと聞いている。子供たちは彼女をまるで母親のように慕っており、その穏やかな笑顔は、荒んだ心を包み込むような温かさがあった。
「エリスさん、おかえりなさい。いつも、子供たちに会いに来てくださって、ありがとうございます」
マリエル夫人は、優しく微笑みながら私を迎えた。その眼差しは、私の過去を知っているかのように、しかし、一切の偏見を含まず、ただ温かい。
私は、緊張と、何とも言えない高揚感で、彼女に一歩近づいた。
「マリエル、ママ…見てくれよ、あたし、男爵になったんだ」
私の口から「ママ」という言葉が飛び出した時、マリエル夫人の瞳が大きく見開かれた。そして、彼女はそっと私の手を取り、温かい微笑みを浮かべた。その手は、かつて私を支えてくれた孤児院の管理人の手のようでもあり、そして、今、私が「家族」と呼べるものの温もりそのものだった。私の頬には、再び熱いものが伝っていた。それは、爵位を賜った時とはまた違う、心からの安堵と、やっとここまで来られたという、深い喜びの涙だった。
「ええ、エリス。立派になりましたね。本当に、よく頑張りました」
マリエル夫人の言葉に、私は子供のように泣きじゃくった。この場所が、私の帰るべき家なのだと、改めて実感した。ルーカス様は、本当に、私の、そしてこの子たちの全てを救ってくれた。私の忠誠は、揺るぎないものになった。
孤児院を後にした私は、晴れやかな気持ちと、胸に宿る新たな決意を胸に、侯爵邸へと戻った。子供たちの笑顔と、マリエル・ママの温かい手。あの光景が、私の新たな原動力だった。ルーカス様が描く「安寧の世界」は、決して夢物語なんかじゃない。この手で掴み取れる、確かな未来だ。
だが、その未来を掴むためには、まだまだ足りないものばかりだった。
衛生部隊長としての任務が始まってからも、ルーカス様は容赦なく、私を含む各部隊長に新たな訓練を課した。それは、私たち海兵隊が直面する脅威に対抗するための、途方もない知識と経験を強制的に叩き込むものだった。
「おいおい、まだお勉強が続くのかよ!? 脳みそ焼き切れるわ!」
私たちが送り込まれたのは、侯爵邸の地下深くにある、ルーカス様が「VR訓練室」と呼ぶ奇妙な部屋だった。ゴーグルのようなものを装着すると、目の前には現実と見紛うばかりの精巧な仮想空間が広がる。そこでは、実戦さながらの傷病兵の治療が、無限に繰り返された。
「クソッ、こんな状況、ありえねえだろ!」
「早く手当てしろ! 血が止まらねえぞ!」
仮想空間の中で、私は悪態をつきながらも、必死で患者たちに向き合った。だが、訓練の対象は、単純な魔獣相手の負傷だけではなかった。
爆弾を仕掛けられた公共施設。民間人の姿に偽装したテロリストが、無辜の市民を巻き込みながら襲いかかってくる。背後からの不意打ち。油断した隙を狙って、毒を盛られた食料が持ち込まれる。そして、子供を盾にする者、捕虜を拷問し情報を引き出そうとする者……。
「(これが、人の悪意ってやつか…底がねえな…)」
画面の向こうで繰り広げられる、人間が人間に対して行使する、想像を絶する残虐な行為の数々。吐き気を催すほどの憎悪と狡猾さに、私は何度も目を背けそうになった。しかし、ルーカス様の命令は絶対だ。「目を逸らすな。敵は、お前たちが想像する以上に、底なしの悪意を秘めている」
夜な夜な、脳みそが焼き切れるような感覚に襲われながら、私はVR訓練に没頭した。失敗すれば、患者は命を落とす。民間人が犠牲になる。その重圧は、本物と何ら変わらなかった。ヴァルデシアの戦場で感じた無力感が、訓練のたびに私の胸を締め付けた。
「(あの時みたいにはさせねえ…!)」
VR訓練は、単なる知識の詰め込みではなかった。それは、来るべき地獄を、何度も繰り返し追体験させることで、私たちの「覚悟」を、より深く、より強固なものへと変えていくものだった。そして、この新たな知識と経験を得るたびに、私のルーカス様への信頼は、揺るぎないものとなっていった。
侯爵邸での改革が加速するにつれて、ルーカス様は人知れず、その身を削っていることを、私は彼の専属医として知ることになった。それは、誰にも見せることのない、彼の「影」の部分だった。
「…またですか、ルーカス様」
夜中、いや、明け方と言った方が正確かもしれない。私の部屋の扉が、コンコン、と控えめに叩かれる。たいてい、その声はルーカス様の執事か護衛だが、稀に、彼自身の声が聞こえることがあった。そんな時は、決まって彼の体調が限界に達している証拠だ。
ノックの音に、私はため息をつきながらも、すぐに身支度を整え、彼を執務室に招き入れた。ルーカス様は、いつもは完璧な身なりをしているが、その時ばかりは、着崩れたシャツに、やつれた表情をしていた。
彼の顔色は土気色で、目の下には深い隈が刻まれている。頭を押さえて、小さく呻く声が漏れる。そして、その視線は、何もない空間の一点を見つめ、まるでそこに何か、私には見えないものがあるかのように揺らめいている。
「…悪いな、エリス。また、頭痛がひどくてな。例の薬を…」
ルーカス様は、そう言って、私に薬を求めた。彼の言う「例の薬」とは、脳の負担を軽減し、一時的に痛みを和らげるための、かなり強力な鎮痛剤のことだ。処方するたびに、私は彼に苦言を呈していた。
「全く、いい加減にしてください!あんた、自分の体、何だと思ってんだ!? そんな無茶ばかりして、倒れたらどうするんですか!?」
私の悪態交じりの苦言にも、彼は眉一つ動かさない。ただ、深く息を吐き出すだけだ。
「世話を掛けるな、エリス。だが、時間が足りない。やることが…多すぎる」
彼は、私には理解できない方法で、膨大な知識や情報を得ているようだった。そのせいで、しばしば激しい頭痛や、体調不良に襲われる。私は、彼が寝不足で食事もろくに取らずにいるのを知っていた。改革の度に、彼はその代償を、自分の体で払っているのだ。
「そんなこと言って、本当にぶっ倒れたら、誰がこの侯爵領を動かすんですか! 私にまた、路地裏に戻れとでも言うんですか!?」
半ば脅しのようにそう言ってみるが、ルーカス様はただ静かに、私の言葉を聞いているだけだ。彼は、私の言葉の裏に隠された、彼の身を案じる気持ちを理解しているようだった。
「…たとえ、俺が死んだとしても、どうということは無い。朝日は何事も無く登り、世は全て事もなし、だ」
「…っ!ふざけ…」
私は目の前が真っ赤に染まった気がして、怒鳴りつけようとした。
「いいか、エリス。俺は死ぬつもりはない。だが、常に最悪の事態は想定しておくべきだ。俺がいなくなったところで、この機械仕掛けの歯車は止まらないだろう。そう仕込んである。…だが、安心しろ、エリス。お前たちを、あの路地裏に逆戻りさせるようなヘマはしない。俺が倒れたところで、お前たちならば、俺の尻拭いくらい、どうとでもするだろう? …それを見届けるのが、俺の…最後の仕事だからな」
彼のその一言に、私の怒りはどこかへ消え失せてしまう。彼の弱音を聞くのは、この秘密の診察の時だけだ。そして、彼はいつも、私にだけ、その弱さをさらけ出す。
「(まったく、手のかかる弟だよ、あんたは…)」
私は内心でそう呟きながら、ルーカス様の熱い額に手を当て、魔力を流した。治癒魔法で、彼の疲弊した体を少しでも楽にしてやる。私は、彼のこの無茶な努力の理由を全て知っているわけではない。彼が見つめる「何か」が、彼の体を蝕んでいることも、薄々感づいていた。しかし、私には、彼のこの「秘密の戦い」を支えることしかできない。
彼の瞳の奥に宿る、深淵を覗き込むような光は、相変わらず無機質で、彼の孤独を物語っている。けれど、その孤独を、私だけは分かち合える。彼の無茶と引き換えに、侯爵領は、そして孤児院の子供たちは、新しい未来を掴もうとしている。だから、私は、彼のこの「無茶」を、黙って見過ごすことはできないのだ。
VR訓練が一段落した頃、侯爵邸に新たな顔が加わった。ルーカス様の首席補佐官として着任したという、エレノア・フォン・ハートンだ。彼女は、完璧な立ち居振る舞いと、驚くべき事務処理能力で、瞬く間にルーカス様の執務を次々と処理していった。
「(へぇ、あんな女がいたんだな…)」
エレノアが来てから、ルーカス様の執務室に籠る時間は、確かに減ったように見えた。夜中に、あの疲弊しきった顔で診察を求める頻度も、一時的にだが、減った。私は、これでようやく、あの人も少しは休めるだろう、と安堵した。
だが、私の安堵は、すぐに呆れに変わった。ルーカス様は、エレノアによって一時的に軽くなったはずの時間を、休むことに使うどころか、さらに別の改革に着手し始めたのだ。
「全く、休むってことを知らねえのか、あの人…!?」
私が見る限り、彼は以前よりもさらに精力的に動いているように見えた。新たな商会の設立、魔導具の量産計画、領内のインフラ整備…エレノアの働きで空いたリソースは、彼の脳内で次々と新たな計画へと変換されていく。呆れて物も言えないとは、まさにこのことだった。
「(なんか、あたしの弟、取られたみてえじゃねえか…)」
エレノアがルーカス様の隣に立つ姿を見るたびに、私の胸に、言いようのない不機嫌さが募った。彼女が有能なのは分かっている。ルーカス様を支えるために、彼女が必要なことも理解している。だが、彼の側にいるのは、私だけだと思っていたのに。まるで、手塩にかけて育てた弟を、どこかの女に横取りされたような、複雑な感情が湧き上がってくるのだった。
そんなある日のことだった。エレノアが着任し、侯爵邸の改革が順調に進む中、ルーカス様の体調が、以前にも増して急激に悪化し始めた。それは、叙爵の儀の少し前のことだ。
夜中の呼び出しは、再び頻繁になった。そして、その度に彼の状態は悪くなっていた。以前は頭痛と疲労だけだった症状が、今では吐き気や、微熱、そして指先の震えまで伴うようになっていた。彼の顔色は常に青白い土気色で、目の下には深い隈がこびりついている。
「…ルーカス様、一体何があったんですか!? この短期間で、どうしてここまで…!」
私は、彼の診察を終えるたびに、問いただした。彼は、何かを隠している。以前の「時間がない」という言葉は、彼の身を削る理由としては理解できたが、今回の悪化は、それだけでは説明がつかない。彼の瞳の奥に宿る無機質な光は、以前よりもさらに深く、まるで底なしの深淵を覗き込んでいるかのようだった。
ルーカス様は、多くを語らなかった。ただ、頭を押さえて小さく呻き、空を見上げるだけだ。
「…エリス。この大陸に…いや、この世界に、我々の想像を遥かに超える脅威が迫っていることが、確認された」
その一言に、私の全身に冷たいものが走った。VR訓練で見た、人間による底なしの悪意とは違う。彼の言葉から感じられるのは、もっと根源的な、この世界の理すら捻じ曲げかねない、途方もない「何か」の気配だった。
彼は、その「何か」の正体を私には明かさない。だが、その秘密を一人で抱え込み、解決策を見つけ出すために、自分の体を極限まで追い詰めていることは、痛いほど理解できた。
「冗談じゃねえ! こんな状態じゃ、あんたが先に倒れちまうぞ! 馬鹿なんですかあんたは!?」
私は、いつもの悪態交じりの苦言を呈した。しかし、今回は怒りよりも、彼への深い心配と、どうしようもない焦燥が胸を焼いた。
「(まったく、本当に、手のかかる弟だよ、あんたは…!)」
私は内心でそう呟きながら、彼の熱い額に手を当て、懸命に魔力を流し続けた。私には、彼が見つめる「未知の脅威」の正体は分からない。しかし、彼がその重荷を一人で背負い込もうとしていることだけは確かだ。ならば、せめて彼の肉体が壊れてしまわないように、私が支えてやるしかない。
彼の孤独な戦いは、私が想像していた以上に、深く、そして危険なものへと変貌していた。
作戦司令室でのブリーフィング後、私は沸き立つ怒りを抑えきれずに、エレノア・フォン・ハートンの私室へと向かった。扉を叩く音も荒々しく、返事を待たずに部屋に踏み込む。エレノアは書類の山に囲まれ、眉一つ動かさずにこちらを見た。その冷静さが、私の苛立ちにさらに拍車をかけた。
「おい、あんた!」
私の声は、私室に響き渡る怒声となった。エレノアは、ゆっくりと顔を上げ、私を真正面から見据えた。その瞳には、私の怒りを静かに受け止める、穏やかな光が宿っている。
「どうなさいました、エリス隊長。そのようなご様子で、何か?」
その落ち着いた声が、私の神経を逆撫でする。緊急事態に決まっているだろうが、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ルーカス様が、命に関わるほど体を削っていることが、私にとっては最大の緊急事態だった。
「緊急事態だろが! あんたは首席補佐官なんだろ!? ルーカス様の体調がどうなってるか、見て見ぬふりか!?」
私はエレノアの机に両手をつき、身を乗り出した。怒りで震える指先が、書類の山をわずかに揺らす。
「あんたが来て、一度は休めるかと思ったのに、あの人はさらに無茶を重ねてる! これじゃ、あんたが来た意味がねえだろうが!」
エレノアは、私の剣幕にも動じず、悲しげな色を帯びた瞳で私を見つめ返した。
「彼の体調については、私が把握していないとでも? …貴官の仰ることは、ごもっともです。しかし、私にも、私の役目がございます」
その静かな言葉は、私の胸に重く響いた。だが、私の苛立ちは収まらない。
「役目だぁ!? その役目とやらで、あの人をぶっ壊す気か!? あたしに言わせりゃ、あんたはあの人を追い込んでるだけだ! 首席補佐官だかなんだか知らないが、あたしの…弟をぶっ壊そうとしてるだけだ!」
私の叫びに、エレノアの表情が微かに歪んだ。その瞳の奥に、深い痛みが宿ったように見えた。だが、彼女はそれを抑え込むように、そっと息を吐いた。
「っ!…私も、彼を弟のように思っています。いえ、それ以上の、この国の未来を託された、幼い王子のようにも…」
エレノアの言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。まさか、この完璧な女も、ルーカス様をそう思っていたとは。しかし、彼女の表情は、私とは違う、もっと深く、静かな悲しみと覚悟を秘めているように見えた。
「しかし、彼はこのトレンス侯爵領の、そしてこの地の領主名代です。その責務を果たすためには、いかなる犠牲も厭わない覚悟を、彼は既に決めていらっしゃる。その彼の覚悟を、わたしは尊重する。そして、彼がその道を突き進むために、私にできること全てを捧げ、支える覚悟を決めています」
エレノアの言葉には、感情はない。ただ、淡々とした事実と、揺るぎない決意が込められていた。彼女の言う「犠牲」の中に、ルーカス様自身の体が、命が含まれていることを、私ははっきりと理解した。
「ふざけるなっ! その覚悟とやらで、あの人を死なせる気か!? そんなの、覚悟でもなんでもねえ! ただの無茶だ!」
私は感情に任せて叫んだ。だが、エレノアは、そんな私の感情的な言葉を打ち消すように、力強く言い放った。
「私が!そんな事を分からないとでも!?あぁ、貴女には理解できないのでしょうね!貴女の覚悟は、目の前の命を救うため。彼の覚悟は違う!この世界の運命を背負うものよ!彼は、誰よりも先を行く。私達は、彼についていくだけよ!それが、彼の選んだ道であり、私の選んだ道よ…」
エレノアの言葉は、私の心を深く抉った。確かに、私の覚悟は、目の前の患者を救うこと、孤児院の子供たちを守ること、だ。ルーカス様のように、世界の運命など、重すぎるものを背負うことなど、考えたこともなかった。彼女は、私の怒りを真正面から受け止めながらも、ルーカス様の背負うものの途方もない大きさを、私に突きつけている。
「…そして、彼が少しでも心穏やかに、その重荷を背負えるよう、わたしはあらゆる手を尽くします。彼が孤独ではないと、その身をもって示すことが、わたしの役割です」
エレノアはそう言い、窓の外の闇を見つめた。その横顔には、言いようのない孤独と、諦めにも似た、しかし揺るぎない決意が宿っているように見えた。彼女もまた、私と同じように、ルーカス様の孤独な戦いを、間近で見てきたのだろう。そして、私とは異なる形で、彼の覚悟を受け入れているのだ。
怒鳴り合った末に、私は言い返す言葉を失った。エレノアの言葉は、冷たい現実を突きつけ、私の感情的な反発を打ち砕いた。私たちは、ルーカス様という、あまりにも異質な存在を、それぞれ異なる形で「弟」として見つめ、そして支えようとしている。だが、その支え方には、埋めがたい溝があることを、私は痛感したのだった。
エレノアとの感情をぶつけ合った後の私室は、嫌なほど静まり返っていた。エレノアの言葉が、私の頭の中で何度も反響する。彼女は、私とは全く異なる方法で、しかし確かな覚悟を持ってルーカス様を支えようとしている。それは、私のような人間には、あまりにも遠い、そして冷徹な覚悟に見えた。
「(あたしに何ができるってんだ…?)」
私は自問自答した。医術で体を癒し、口汚く罵って発破をかける。それは、これまで私がルーカス様にしてきた、唯一の支え方だった。だが、彼の背負う重荷は、私の想像をはるかに超えていた。新大陸の脅威。それは、私の医術ではどうすることもできない、世界の根源を揺るがすような問題だ。
私は、ソファに深く沈み込み、ぼんやりと天井を仰いだ。エレノアのように、論理的に、そして戦略的にルーカス様を支えることなど、私にはできない。剣術ならギルバードがいる。魔術ならミリアムやシェーラがいる。それぞれの持ち場で、彼らはルーカス様のために命を懸ける覚悟だ。
私だって、命を懸ける覚悟はできている。だが、あのブリーフィングの後、ルーカス様の目に宿っていた深い孤独を見たら、ただ命を懸けるだけでは足りないと感じたのだ。彼の背負う重さに、ほんの少しでも寄り添える、私なりの方法が欲しい。
「(…そういや、孤児院のガキどもに歌聞かせてやったことはあったっけな)」
ふと、昔の記憶が蘇った。楽器なんて、まともに触ったこともない。子供たちに童謡を歌って聞かせる程度だ。とてもじゃないが、人前で披露できるようなものではない。しかし、ルーカス様が、ギターを弾く姿を思い出した時、一つの、突拍子もない考えが頭をよぎった。
あの坊主の演奏に、私が「色を付ける」だと?
冗談じゃない、と自分で自分に悪態をつく。だが、その馬鹿げた考えが、妙に心に引っかかった。歌なら、まあ、できる。音楽というものは、言葉よりも、もっと感情に直接訴えかけるものだ。そして、ルーカス様の孤独な音に、私が寄り添うことができれば…。
次の日、私はこっそりと楽器庫に忍び込み、埃をかぶった弦楽器の中から、ベースギターを見つけ出した。無骨で、どこか私に似ている。これなら、ルーカス様のギターに重なって、彼の音を支えることができるかもしれない。
その日から、私の個人的な「特訓」が始まった。夜な夜な、人目を避けては、侯爵邸の隅や、時には孤児院の空き部屋で、私はベースを抱え込んだ。
「うおおおおっ!? 指が痛え! マメが潰れた! クソッ!」
指の皮はめくれ、見る見るうちに血が滲み、肉が露出した。弦を抑えるたびに、焼けるような痛みが走る。それでも、私は練習をやめなかった。痛む指を、持ち前の医術で手際よく治療し、簡単な包帯を巻いては、またすぐに弦に触れる。治っては傷つき、傷ついては治す。その繰り返しだった。
「(あんたの無茶、止めることなんざできねえんだ。なら、せめて…せめて、あんたの隣で、あんたが一人じゃねえってことを、示してやるしかねえんだ…)」
指の痛みは、ルーカス様が背負う苦痛に比べれば、何でもない。彼の焦燥を思えば、こんな練習など、屁でもないことだ。
優しき揶揄と不器用な愛情
練習に疲れては、私は孤児院へ足を運んだ。子供たちの笑顔と、マリエル・ママの温かい手。それが、私にとっての唯一の安らぎだった。
ある日、私が孤児院の空き部屋で必死にベースを練習していると、マリエル・ママが、おっとりと笑いながら、私の手元を覗き込んだ。私の指は、いくつもの絆創膏と、固くなったマメで、見るも無残な状態だった。
「あらあら、エリスちゃん、ずいぶん熱心なこと。手が傷だらけになって…」
彼女はそう言いながら、私の痛々しい指をそっと撫でた。そして、優しげな目を細め、くすりと笑った。
「よっぽどルーカス様を好きなのね」
その言葉に、私は顔から火が出るかと思った。
「はあ!? な、なに言ってんだよ、ママ! そんなんじゃないよ…! ただ、あの坊主、見てるとほっとけねえだけだよ…!」
私は慌てて否定し、顔を背けた。頬が熱くなるのが分かる。マリエル・ママは、そんな私を見て、さらに穏やかに笑うだけだった。
「ええ、ええ。分かっていますとも。…それでも、誰かを放っておけない、その優しさが、エリスちゃんの良いところよ」
マリエル・ママの言葉に、私は何も言い返せなかった。照れくささと、わずかな誇らしさで、私の心は満たされていった。
夜空の下、指先の痛みを感じながら弦を弾く。まだぎこちない音しか出ないが、それでも、少しずつ音が繋がり、旋律になる手応えを感じていた。王都へ旅立つルーカス様へ。私なりの、不器用な
ブリーフィングの夜、あの時エレノアに感情をぶちまけてから、私の胸には妙なざわめきが残っていた。あんな氷みたいな女が、ルーカス様を「弟のように」思っているだなんて。しかも、私とは違う、もっと冷徹な覚悟で、彼の背負う重荷を受け入れている。最初は腹立たしかったが、あの女の言葉は、私の心を深く抉った。私にできることはなんだ? 医術で命を繋ぎ、口汚く罵って発破をかけるだけか?
そんなことを考えていた矢先、ルーカス様が王都へ旅立つ前の送別会だという。しかもエレノアの提案で「文化戦略」の一環として、ルーカス様がギターを弾き、私も演奏に加わることになった。まさか、あの冷静なエレノアが、そんな大掛かりなことを仕掛けるとは。そして、私がベースを弾くなんて。人前で楽器を弾くなんて、子供たちに歌を聞かせるくらいしか経験がない私にできるのか? 楽器の知識なんてほとんどない。だけど、私には私なりの支え方がある。そう、指の皮がめくれても、マメが潰れても、ひたすら練習を重ねた。痛む指を自分の医術で治しながら、必死で弦を叩いた。
「(あの坊主の無茶、止めることなんざできねえんだ。なら、せめて…せめて、あんたの隣で、あんたが一人じゃねえってことを、示してやるしかねえんだ…)」
孤児院のママに「よっぽどルーカス様を好きなのね」なんて揶揄われた時も、顔を真っ赤にして否定したけれど、本当は、ただ、あの孤独な背中を放っておけないだけだ。
そして迎えた当日。侯爵邸の裏の訓練所は、普段の厳しさなど微塵も感じさせない、まるで別世界のような熱気に包まれていた。巨大な焚き火がいくつも焚かれ、香ばしい肉の匂いが漂ってくる。ああ、ルーカス様の言う「ハンバーガー」や「ピザ」ってやつか。兵士たちが列をなして、見たこともない「コーラ」とやらをガブ飲みしては、その刺激に歓声を上げている。子供たちは色とりどりの「アイスクリーム」に目を輝かせていて、見ているだけで心が温かくなる。
ギルバードが満面の笑みで肉を頬張っている。いつも仏頂面なミリアムも、静かに、でも嬉しそうにルーカス様の言葉に耳を傾けている。シェーラはクリスティアナ様の傍らで、控えめながらも柔らかな笑みを浮かべていた。みんな、ルーカス様のおかげで、こんなにも楽しそうに笑っている。この光景を守るために、ルーカス様は王都へ行くのだ。
ダリルはすっかり輸送部隊の指揮官らしく堂々としているが、時折ルーカス様に頭を下げている姿を見ると、やっぱりあいつも根は変わってないんだなと笑えてくる。ガレスは相変わらずぶっきらぼうだが、その表情にはルーカス様への深い信頼が宿っているのがわかる。
商会のお頭たちは、以前の困窮した顔とはまるで違う、ギラギラとした目でルーカス様に頭を下げている。彼らは、ルーカス様がもたらした利益に目を奪われ、その先にある彼の真の目的には気づいていない。ルーカス様も、彼らの野心を全て見透かした上で、あえて何も言わない。彼のその冷徹な判断力は、今さら驚くことでもないけれど、やはり底知れない。
宴も中頃、ダリルが「坊主様!」と叫びながら、ルーカス様に絡んでいくのが見えた。まったく、泥酔しやがって…って、あれは演技か? 魔力で酔いをクリアできるのに、わざと泥酔したフリをしている。ルーカス様のことだから、どうせ頭痛やら体調不良やらで、まともに飲んでないんだろう。そんなルーカス様の様子を見て、私もわざとらしく酒臭さを振りまいて絡みに行った。
「ルーカスぅ、アンタ、王都に行くんだってな……」
呂律が回らないフリをしながら、彼の肩に腕を回す。顔が、やけに間近にある。兵士たちが爆笑しているけれど、構わない。
「っつれーんだよ!アンタの無理難題、いっつも叶えてやってんだぞ!アタシは寝る間も惜しんで薬作ってんだ!もっと、褒められたっていいはずだろ!」
そう言って、彼の頬をプニプニと指でつつく。まったく、こんな無茶な真似して、王都で倒れでもしたらどうすんだ。誰も見てねえところで、一人で苦しんでるってことになったら…。そんな不安が、胸を締め付ける。
「あんたの感謝の言葉なんざ、いつも上から目線で全然心こもってねえんだよ!馬鹿!たまにはあんたの口からも甘い言葉の一つや二つ、聞いてみたいもんだね!クソったれ!」
彼の胸をドンと叩く。エレノアとの会話の後、ルーカス様の背負うものの大きさを痛感した。だから、「王都なんか行くな」なんて言えるわけもない。彼には、あの脅威に立ち向かうために、王都へ行く必要があるのだと分かっている。
「王都で無理しすぎて、熱でも出してぶっ倒れたらどうすんだよ。あたしがいないんだぞ。もう少し、人間らしく、誰かに頼るってことも覚えなよ、…ルーカス」
最後の言葉は、掠れて聞き取れないほど小さかっただろう。それでも、彼には届いたはずだ。不器用な私なりの、精一杯の心配を込めた言葉が。
その後も、クライスの坊やが騎士人形について延々と語り続けたり、クリスティアナ様が私を無視してルーカス様の頭を撫で続けたりと、宴は和やかに、しかし騒がしく続いていく。ルーカス様は辟易しながらも、どこか諦めたような顔でそれを受け入れている。そんな彼の様子を見て、私は少しだけ安心した。
宴もたけなわになった頃、ルーカス様がステージに上がった。スポットライトが彼を照らし、愛用のギターを手に取る。そして、彼がループペダルでドラムを重ねていくと、私も意を決してステージの傍らに立った。ルーカス様が驚いた顔で私を見る。
「おい、エリス。何をする気だ?」
私はニヤリと笑った。
「何って、アンタのクソみたいな演奏に、アタシが色を付けてやるんだよ! このベースでな!」
そう言って、練習で固くなったマメだらけの指で、ベースギターを抱え込んだ。
「
「舐めんじゃねえよ。アタシは元々、孤児院の世話で、音楽も嗜んでたんだ。これくらい、どうってことねえ」
鼻を鳴らす。もちろん、楽器はほとんど触ったことがない。だけど、嘘じゃない。子供たちに歌を歌うのは、私の得意なことだった。そして、このベースは、あんたの隣に立つための、私なりの覚悟なのだ。エレノアはあんたの背負ってるもんを理解して、遠くから支えるって言う。でも、あたしは…あんたのすぐ隣で、あんたの音を支えるんだ。この不器用な手で、あんたを支えるんだよ…。
「……
ルーカス様の言葉に、私は頷いた。そして、彼の叫びに、兵士たちの野太い歓声が会場に響き渡る。
「Let’s get this party started!」
ルーカス様の演奏が始まった。
最初に響くのは、力強い、行進のような旋律。それは、この侯爵領に来てから、彼が築き上げてきた全てを象徴しているかのようだった。泥だらけになって、血を流して、それでも前に進むことを教えてくれた、彼の背中。あたしたちは、もう、あの頃の弱っちいだけじゃねえんだ…! 私のベースが、彼のギターの旋律に重なり、その音に深みと推進力を与えていく。私の拙いベースが、彼の背中を押す音になってほしいと願った。
次に、少しだけ感傷的な、しかし芯のあるメロディに変わる。それは、彼を無条件に愛し、信じてくれたクリスティアナ様への感謝。そして、この世界で出会った、信頼できる仲間たちへの思い。あんたは一人じゃない。あんたの隣には、あたしがいる。ギルバードも、ミリアムも、シェーラも、エレノアも…みんな、あんたを支えてるんだ。だから、一人で抱え込むな…! 私のベースラインが、彼の感情に呼応するように、時に優しく、時に力強く響き渡る。私のこの音が、彼を包み込む温かさになるようにと願った。
曲調が再び変化し、激しく、そして決然としたものになる。王都へと乗り込み、腐敗した貴族社会を掌握し、新大陸の脅威に対抗する。その先には、血と泥にまみれた戦いが待っているだろう。だが、ルーカス様は逃げない。この世界の未来のため、そして、己を信じてくれる者たちのために、彼は戦い続ける。彼のギターに込められた揺るぎない覚悟が、会場全体を震わせる。王都へ行け。そこで、あんたが信じるものを掴んでこい。あたしたちは、ここで、あんたが帰ってくる場所を守る。そして、あんたが背負うその重荷を、このベースのように、下から支えてやる。どんなに暗い道でも、あんたの足元を、あたしの音が響かせてやる…!行くんだ、ルーカス!行ってこい! エレノアもキーボードの前に座り、彼の演奏に合わせて柔らかな、しかし確かな音色を奏でていた。三人で奏でる音は、まるで一つの物語を紡ぎ出すかのように、夜空に響き渡った。
演奏が終わると、会場には万雷の拍手と、地鳴りのような「ルーカス様!」「侯爵様!」という野太い歓声が沸き起こった。
耳をつんざくような喝采の中、ルーカス様は静かにギターを置いた。クソッタレな現実から、しばし解放された気分だ。悪くない。この退屈な夜は、まだ始まったばかりだ。私の指は痛むけれど、その痛みも心地よかった。ルーカス様を支える覚悟は、もう揺るがない。
ルーカス様の演奏の熱狂が冷めやらぬ侯爵邸。エリスは、ベースを抱えたまま、そっとステージ裏へと向かった。そこには、片付けを手伝うエレノアの姿があった。彼女は、先ほどの演奏の興奮も冷めやらぬまま、静かにキーボードの電源を落としている。その背中に、エリスは声をかけた。
「おい、アンタ」
エレノアは振り返り、その完璧な顔にわずかな驚きを浮かべた。先ほどまでの熱いセッションとは打って変わって、エリスの声は落ち着いている。
「さっきの演奏、悪くなかったな。…あの坊主の無茶な音を、よくここまで支えてやった」
エリスはそう言いながら、手にしたベースを立てかけた。エレノアは、ふっと小さく微笑みをこぼす。
「貴官のベースも、見事なものでしたよ、エリス隊長。…まさか、貴官が楽器を嗜まれるとは、驚きました」
皮肉めいた、しかしどこか親しげなエレノアの言葉に、エリスは鼻を鳴らした。
「そりゃどうも。…で、だ。アンタのことだ、あの坊主の送り出しにしては、妙に大掛かりなことを仕掛けたもんだな」
エレノアは、静かに頷いた。
「ええ。彼が、私たちを、そしてこの侯爵領の民を信じていると示すために。そして何より、彼自身が、これから背負う重荷を、皆と共に分かち合う覚悟を固めるために必要だと、私が判断いたしましたから」
その言葉に、エリスは目を細めた。エレノアの言うことは、いちいち気に食わないが、彼女がルーカスのことを深く理解しているのは確かだ。
「…アンタのやり方は、相変わらず気に食わねえがな」
エリスは吐き捨てるように言った。
「あの坊主の体調を削ってまで、先行きの見えねえ準備をさせるなんざ、医者として到底許せるもんじゃねえ」
エレノアは、エリスの言葉を真っ直ぐに受け止めた。その瞳に、一瞬、深い悲しみの色がよぎる。
「…そうですね。貴官のお怒りは、ごもっともです。私も、彼の体を蝕むものが何であるか、そしてそれがどれほど彼を苦しめているか、理解していないわけではございません」
エレノアの言葉は、氷のように冷静だが、その奥に隠された感情を、エリスは感じ取った。
「ですが、エリス隊長。彼の背負う重荷は、私たちが想像するはるか上を行くものです。そして、彼がそこから目を逸らすことは決してございません。ならば、私にできることは、彼の道を平らにし、彼が孤独ではないと示すこと。…たとえ、その代償が、彼自身の身を削ることであったとしても、私はそれを厭いません」
エリスは、エレノアのその言葉に、先日の衝突で感じた「埋めがたい溝」が、やはりそこにあることを再確認した。彼女の覚悟は、エリスには理解できないほど冷徹で、そして深い。
「…全く、アンタも、あの坊主も、勝手に一人で背負い込みやがって」
エリスは、呆れたように息を吐いた。だが、その言葉には、以前のような苛立ちはない。代わりに、深い理解と、ある種の共感が混じっていた。
「あたしは、アンタと違って、そんな回りくどいことはできねえ。医者として、あいつの体ぶっ壊れたら、無理やりでも治してやる。そして、口うるさく、人間らしく生きろって、言ってやるさ」
エレノアは、エリスの言葉に、小さく微笑んだ。その微笑みは、どこか諦めにも似ていた。
「…ええ、それが貴女の、彼への支え方なのでしょうね。そして、彼の心を救う、唯一の手段かもしれません」
そして、エレノアはまっすぐにエリスを見つめ、静かに告げた。その眼差しには、揺るぎない決意と、わずかな挑戦的な光が宿る。
「ですが、覚えておくと良いですよ、エリス隊長。彼を支えるのは、貴女だけではありません。私もまた、彼の側で、彼が進むべき道を照らす光となることを、心に誓いましたから」
その言葉に、エリスの胸に、ふつふつとした感情が湧き上がった。それは、確かに「対抗心」のようなものだった。
「…へっ、言ってくれるじゃねえか。だが、それはこっちのセリフだぜ。あの坊主は、あたしの手のかかる弟だ。誰にも横取りなんざさせねえよ」
エリスは、不敵な笑みを浮かべた。エレノアもまた、穏やかな、しかし譲らぬ表情でそれを受け止める。
二人の間に流れる空気は、もはや単なる対立ではない。ルーカスという共通の「弟」を巡る、互いの覚悟と愛情の表明。それは、二人の間に新たな絆を築き、そして、これから始まる侯爵の旅路を、それぞれの形で支えていく、「弟」を巡るライバルとしての、静かな宣戦布告だった。