剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第六十五話

 

第六十五話:王都の門と訓練兵の試練

 

 

王都への道中、部隊を率いるアレックスは、刻一刻と迫る王都の検問に意識を集中させていた。王都の門は、厳重な警備で知られ、特に近年は魔獣の出没が報告されており、警戒態勢が強化されている。

 

「閣下、まもなく検問所に到達します。兵士の数から見て、かなりの厳重態勢です。クインの姿を隠す手立ては……」

アレックスの言葉に、ルーカスは冷静に答える。

 

「問題ない。クライス、準備はできたか?」

 

ルーカスの隣で、クライスは額の汗を拭いながら、手に持った魔道具を調整していた。それは、複雑な魔法陣が刻まれた、手のひらサイズの水晶の塊だった。その水晶は、微かに青白い光を放ち、周囲の魔力を吸い込んでいるかのように見えた。

 

「ギリギリ間に合ったよ、ルーカス! これが、クインの生態魔術を補助し、形態変化を安定させる魔道具だ。名付けて……『フェンリル・フォームコントローラー』!」

 

クライスは自信満々に魔道具を掲げた。その表情には、徹夜の疲労と、研究者としての達成感が入り混じっていた。

 

 

検問所から数百ヤード手前、鬱蒼と茂る森の木陰に、ルーカス率いる部隊は身を隠した。検問所の兵士たちからは見えない距離だ。ここでクインを小型化させる。

 

「クイン、お前の出番だ」

 

ルーカスは、そばにいる巨大なクインに静かに語りかけた。クインは、緊張した空気を察してか、不安げに鼻を鳴らした。

 

「クライス。始めてくれ」

 

クライスはルーカスに促され、おずおずとクインの巨大な鼻先に、装飾の少ないシンプルな首輪型の魔道具を差し出した。その中心には、青白い光を放つ小さな魔晶石が埋め込まれている。ルーカスは内心で舌打ちした。ネーミングセンスが絶望的にダサい。もっとこう、無機質で機能的な名前にできないものか。まるで子供が考えたヒーローの必殺技のような響きだ。それでも、徹夜で作り上げたクライスの苦労を思えば、口に出すわけにはいかなかった。

 

クインは警戒しながらも、その首輪を嗅ぎ、ゆっくりと咥えようとした――しかし、首輪型では咥えることができない。クライスは慌てて「あ、いや、これは装着するんだ!」と叫びながら、クインの首元にその首輪を巻き付けた。途端、魔晶石から放たれる青白い光が強まり、クインの体全体を包み込んだ。

 

「Alpha、状況を報告しろ」

 

『分析:形態変化の術式が安定化。外部からの魔力供給により、クイン個体への負荷は極めて低減されています。指示された小型化形態への移行を開始します』

 

光が収束し、クインの巨体が徐々に縮んでいく。しかし、その過程はスムーズではなかった。クインの体が痙攣し、縮むにつれて唸り声を上げる。

 

「頑張れ、クイン! 制御が乱れると、変な形になるぞ!」

 

クライスの叫びも虚しく、クインの体がまるで粘土のように歪む。一瞬、首が異様に伸び、次に足が不自然に短くなる。その度に、クインは悲鳴にも似た声を上げた。部隊の兵士たちは、その異様な光景に目を見張る。

 

「まさか、これが……」

 

ギルバードが呆然と呟いた。アレックスもまた、冷や汗を流しながらその光景を見守っていた。

 

「クソッ、まだ調整が甘かったか……!」

 

クライスが悔しそうに歯噛みする。だが、ルーカスは冷静だった。

 

「エレノア!」

 

ルーカスは迷わず指示を飛ばす。エレノアは、既に準備を整えていた。彼女はクインの元へ歩み寄ると、両手をかざし、クインの不安定な魔力に自身の魔力を重ね合わせた。

 

「クイン訓練兵。心を乱してはなりません。形態の維持、集中。これは貴方の務めです」

 

エレノアの声は静かだが、その魔力はクインの乱れた生命エネルギーを強制的に整えていく。彼女の周囲に、薄い青色の魔力線が幾重にも交錯し、クインの体を正確な形へと誘導するかのように張り巡らされた。それはまるで、熟練の職人が歪んだ粘土を修正するかのような、精密な魔力制御だった。

エレノアは、目の前で苦悶するクインの姿を見て、胸が締め付けられるような思いだった。しかし、これは試練なのだと自身に言い聞かせる。ルーカスは、クインにただ「形態を変化させる能力」を求めるだけでなく、「いかなる状況下でも自己を制御する精神力」を身につけさせようとしている。この過酷な訓練が、いつかクイン自身の命を救うことになる。そして、それを見抜き、訓練を課すルーカスの非情とも思える合理性に、エレノアは静かなる敬意を抱いていた。彼女はただの補佐官ではない。ルーカスが最も信頼する人物の一人として、彼の真意を理解し、その理念を支える覚悟を持っていた。

エレノアの介入により、クインの体の歪みが急速に修正されていく。光が完全に収束した時、そこには一匹の可愛らしい、白い毛並みの狼がいた。

 

 

エレノアの介入により、クインの体の歪みが急速に修正されていく。光が完全に収束した時、そこには一匹の可愛らしい、白い毛並みの狼がいた。その大きさは、通常のシベリアンハスキーほど。ただ、その瞳だけは、賢く、そしてどこか不安げにルーカスを見上げていた。

 

姿を隠した木陰から、ルーカス率いる部隊は検問所へと近づく。兵士たちは、まさか巨大な魔獣がこの中にいるとは夢にも思わない。

検問所の隊長は目を凝らすが、そこにいるのは、ごく普通の白い大型犬だ。ルーカスは、愛犬家を装ってクインに近づき、その頭を撫でる。クインは、緊張した面持ちでルーカスを見上げるが、ルーカスの意図を察したのか、小さく「クゥン」と鳴いた。

 

「お見苦しいところをお見せした。この犬は少し神経質でな。慣れない場所だと、つい興奮して毛並みが逆立つもんで」

 

ルーカスは、どこか胡散臭い笑顔で兵士たちに説明した。隊長が訝しげにクインに近づき、その鼻先を確かめるように覗き込む。クインは、ルーカスの視線を受け、おもむろに「お手」の姿勢を取り、前足を差し出した。隊長は思わずその手を取り、クインは尻尾を控えめに振る。

 

「ほう……しつけの行き届いた犬ですな」

 

隊長は、拍子抜けしたように呟いた。しかし、彼の部下の一人が、なおも疑念の眼差しでクインをじっと見つめていた。その兵士は、微かに魔力の気配を感じ取っているようだった。

 

「隊長、この犬は……尋常ではありません。何か、妙な魔力を感じます」

 

兵士の言葉に、隊長の顔色が変わる。ルーカスは、内心舌打ちしながらも、冷静さを保つ。

 

「まさか。旅の疲れで、幻でも見たんじゃないか? 我々はこちらの公務で急いでいる。無駄な足止めは迷惑だ」

 

ルーカスはそう言い放つと、懐から厳重に封印された公文書を取り出し、兵士の目の前に突きつけた。そこには、トレンス侯爵家の紋章と共に、王都への急使としての権限が記されている。そして、その筆頭には「ルーカス・フォン・トレンス」の名が堂々と記されていた。

 

兵士たちは、その公文書とルーカスの冷徹な眼差しに気圧された。彼らは、目の前の犬が持つかすかな違和感よりも、侯爵家であるトレンス家の権威を前に、それ以上追及するのを躊躇した。

 

「……通せ」

 

隊長は、最終的にそう指示を出した。門番が渋々といった様子で門を開く。部隊は無事に王都の門を通過した。門をくぐり抜けた瞬間、小さくなったクインは、緊張から解放されたように「キャン!」と力強く鳴いた。それは、成功の喜びを表しているかのようだった。

 

「よくやった、クイン。そして、クライス、エレノア。大成功だ」

 

ルーカスはクライスとエレノアに賛辞を送った。クライスは安堵の息をつき、エレノアは静かに頷く。

しかし、王都に入った瞬間、ルーカスは周囲の空気が変わったことに気づいた。街行く人々の視線が、彼の部隊に向けられている。特に、ルーカス自身と、その傍らに立つエレノア、そして彼の足元を歩くクインに、強い好奇と警戒の視線が注がれていた。

 

『報告:市内の魔力場に異常な集中が確認されます。これは、特定の個人に向けられた、強度の高い観測魔術の痕跡です』

 

Alphaの声がルーカスの脳内に響いた。

 

「どうやら、随分と歓迎されているようだな、俺たちは」

 

ルーカスは、小さく口元を歪めた。王都での彼らの戦いは、まだ始まったばかりだった。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

馬車がようやく王都の城門をくぐり抜けたのは、夕暮れ時だった。荘厳な石造りの門を通り過ぎると、侯爵領とは全く異なる、きらびやかで活気に満ちた大通りが広がる。高層の建物が立ち並び、行き交う人々は皆、上質な衣服を身につけていた。

 

『報告:主要道路沿いの建築物、特に貴族街方面からの視線集中を確認。特定の個人への観測魔術の使用が継続されています』

 

Alphaの無機質な声が、ルーカスの内に響く。彼に向けられた視線は、単なる好奇のそれを超え、明らかに裏で何者かの意図が働いていることを示唆していた。街の喧騒の中、一見して気付かれぬような微かな魔力の脈動。それは、熟練の魔術師が放つ「探り」の気配だった。

 

「全く、随分と歓迎されているようだな、俺たちは。まるで見世物の獲物だ。あの酔っ払いめ、これ見よがしに視線を浴びせようとでも企んでいるのか」

 

ルーカスは小さく呟いた。王立総合学院への入学命令。それは、レオナルドがルーカスを王都に引き込み、その異端な才能を自勢力に取り込むための策略に違いない。だが、ルーカスにしてみれば、これは王都の深部に足を踏み入れ、王都の魔力的な特異点、そして裏で糸を引く連中の思惑を探る絶好の機会でもあった。

 

 

部隊は、人々の視線を受け流しながら、王都の大通りを侯爵家の別邸へと進む。別邸は王都の貴族街の一角、厳重な警備が敷かれた区域に位置していた。その道のりは、ルーカスにとって、王都の魔力的な空気を感じ取る機会でもあった。

 

「Alpha、王都全体の魔力分布はどうか?」

 

『分析:王都の魔力場は、侯爵領とは異なる特徴を示しています。都市機能の維持、魔導具の稼働、そして王族や貴族階級が集中しているため、高密度で複雑な魔力流動が観測されます。特に、王城、魔法師団本部、そして王立総合学院周辺で、顕著な魔力集中を確認』

 

「なるほど、やはりな。学院は単なる教育機関ではない、魔力研究の一大拠点ということか。そして、この観測魔術の波長……。俺を『理解』しようと躍起になっている連中が、そこかしこにいるらしい」

 

ルーカスの脳裏には、レオナルドの真の狙いが浮かんでいた。そして、その裏に、彼自身の情報操作がどこまで浸透しているのか、測りかねる部分もある。彼がイザークに流させた情報が、どのように受け止められているのか、その感触を掴む必要があった。

通りを進むにつれて、人々の視線だけでなく、明らかに魔術的な「探り」が増えてくる。ルーカスはそれに気づかないふりをしながら、小型化したクインをさりげなく抱き上げた。クインは、慣れない王都の雰囲気に緊張しているのか、ルーカスの腕の中で小さく震えている。

 

「大丈夫だ、クイン。お前はただの、ちょっと珍しい『ペット』で通せばいい。俺の指示があるまで、絶対に大型化するな」

 

ルーカスはクインの頭を軽く撫でながら囁いた。クインは「クゥン」と小さく鳴き、ルーカスの腕に顔を埋めた。

 

やがて、部隊は侯爵家別邸の門に到着した。重厚な門扉の向こうには、本邸とは異なる、洗練された趣の邸宅が広がっている。門番がルーカス一行の到着に気づき、慌ただしく門を開く。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

メイド長のヒルダは、王都の別邸の門前に整列した使用人たちの先頭に立ち、馬車が近づくのを待っていた。執事長は既に引退しており、別邸の最高責任者はヒルダだった。トレンス侯爵ルーカス・フォン・トレンス。最近、王都中の貴族たちが噂している、あの異端の侯爵だ。旧弊な貴族社会の常識を覆す数々の行動、そして得体の知れない技術。ヒルダは、代々トレンス侯爵家に仕えてきた誇り高いメイドとして、新しくやって来る主人を厳しく品定めしようとしていた。

彼女の心の中には、現当主であるキース侯爵への忠誠と、彼が築いてきた秩序への愛着があった。キース侯爵は、伝統と格式を重んじ、邸宅の運営に関しても細やかな気配りを見せていた。だからこそ、先行してやってきたルーカスの部隊が、その秩序を破壊するかのような行動を取ったことに、ヒルダは強い憤りを感じていた。彼らが持ち込んだ奇妙な機械や、効率ばかりを追求するやり方は、キース侯爵が何十年もかけて築き上げてきた「トレンス侯爵家の品位」を、まるでゴミのように扱っているように思えたのだ。

 

特に不満だったのは、ルーカスが王都入りする前に、本邸から正体不明の『兵士』と『汎用ドローン』を先行させてきたことだ。彼らは別邸に入ると、ヒルダの知らない間に敷地内を動き回り、何やら怪しげな作業を始めた。

 

「メイド長、あの者たち、一体何をしておるのです? 裏庭の物置に奇妙な機材を持ち込んでおりますが……」

 

若手の使用人が不安げに尋ねてきたが、ヒルダも的確な答えを持ち合わせていなかった。先行してやってきた部隊の隊長らしき男、アレックスは、ヒルダの問いかけにも紳士的に、しかし明確な線引きを持って応じた。

 

「メイド長殿、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。これは侯爵様からの直々の命令でして、別邸の『防衛強化』に関わる機密事項となります。貴殿ら使用人の方々の権限の範囲外につき、詳細は申し上げかねます。何卒、ご理解いただけますと幸いです」

 

アレックスは丁寧な言葉遣いで頭を下げたが、その表情は一切崩さなかった。彼らは侯爵家の使用人の指示など聞かず、まるで透明な存在であるかのように、自身の任務に没頭していた。彼らの動きは迅速かつ無駄がなく、ヒルダが何かを咎めようとする時には、既に作業が完了し、彼らは影のように姿を消していた。

 

特に、別邸の防衛強化と称して行われた改築は、ヒルダの神経を逆撫でするものだった。キース侯爵時代に施されていた「ある程度の」防衛強化は、ヒルダにとっても十分なものだと認識していた。しかし、先行してきた兵士たちは、門衛の配置を変え、庭園の巡回ルートを無断で変更し、さらには地下への侵入経路を塞ぐなど、既存の警備体制を根底から覆した。

 

「まるで、邸宅全体を要塞にでもするかのよう……。一体、王都のどこに、これほどの厳重な警備が必要だというのか。何と無礼な……」

 

ヒルダは内心でそう毒づいた。彼らの行動は、侯爵家の品位を保つべき別邸を、まるで戦場の拠点であるかのように扱っているように見えたのだ。彼らの施した「偽装された地下駐車場」や「魔力遮断結界に守られた執務室と研究室」、そして「魔力妨害装置」といった機能は、ヒルダの知る限りでは存在せず、彼女の常識を遥かに逸脱していた。それらの機能は、外見からは全く分からないように巧妙に隠蔽されており、ヒルダはそれが何であるか、その真の目的を理解できなかった。ただ、彼らが極めて「効率的」に、そして「秘密裏に」作業を進めていたことだけは理解できた。

 

さらに、彼らが持ち込んだ『汎用ドローン』と呼ぶ、奇妙な存在には、ヒルダは明確な嫌悪感を覚えた。それは、人の背丈ほどもある人型の機体で、重厚な盾を構え、見るからに重そうな重機関銃やロケットランチャーといった武器を軽々と運搬していた。彼らが別邸の改築作業をする際には、まるで人の兵士と同じように、いや、それ以上に力仕事をこなし、重い資材を軽々と運び上げ、組み上げていく。分隊規模で配備されたその機械の兵士たちは、静かに、そして完璧に任務を遂行していた。時折、彼らが使用人たちの側をすり抜ける際、追従させている兵士の一人が「メイド長殿、この子たちは少々無愛想ですが、ご覧の通り、とても頼れる奴らなんです。侯爵様のためなら、どんな困難な任務も文句一つ言わず、完璧にこなしますから」と、苦笑しながらも誇らしげに語るのが聞こえた。その言葉は、ヒルダの胸に突き刺さった。まるで、自分たち使用人とは違う次元の存在、というような含みがあるように感じた。

 

そして、極めつけは、邸宅内の厨房や洗濯場に運び込まれた、奇妙な『魔導具』の数々だ。光沢のある白い箱『冷蔵庫』、衣類を自動で洗い、乾燥させるという『洗濯機』、そして材料を入れるだけで自動で調理を始めてしまう『クックメーカー』。これらは、ヒルダが長年培ってきた「使用人の仕事」の根幹を脅かすものばかりだった。使用人たちは皆、不安げな視線を交わし合っていた。

そんな不満と疑念を抱えたまま、ヒルダは馬車を降りるルーカスを出迎えた。彼の無表情な顔は、ヒルダが想像していた「貴族らしさ」とはかけ離れており、その瞳の奥には、読めない深い色が宿っていた。

 

馬車を降りると、メイド長は一歩前に進み出た。

 

「ルーカス様。ようこそ、王都の別邸へ。わたくし、メイド長のヒルダと申します。皆様のご到着を心待ちにしておりました」

 

ヒルダは深々と頭を下げたが、その瞳にはルーカスを値踏みするような、鋭い光が宿っていた。ルーカスは、そんなヒルダの態度に気づきながらも、ただ無表情に頷いた。

 

「ご苦労。エレノアから話は聞いているな。明日からの予定は、すべてエレノアに任せろ。何かあれば、エレノアを通して報告しろ」

ルーカスの言葉に、ヒルダは顔を上げた。

 

「坊っちゃま。恐れながら申し上げます。この別邸は、代々トレンス侯爵家の品位を示す場所でございます。わたくしは、ルーカス様のご命令に従う所存でございますが、侯爵家としての体面を損なうような事態は、いかなる場合も看過できません。それに……先行された兵士の方々が、あまりにも横暴かと。邸宅を勝手に改築し、挙句、我々の仕事の邪魔まで……」

 

ヒルダは、ルーカスの合理主義が侯爵家の伝統や格式を脅かすことを暗に示唆し、溜まっていた不満を堂々とぶつけた。彼女はわざと「坊っちゃま」という呼称を使い、ルーカスを牽制した。

 

「Hmph. ヒルダ。貴様が私を『坊っちゃま』と呼ぶのは不適切だ。私は当主キース侯爵より、このトレンス侯爵家の正式な名代として任命され、全権を委任されている。貴様らが言う『品位』や『名誉』は、結果を出して初めて意味を持つものだ。それらの無形なものに固執し、肝心な『結果』を出せなければ、トレンス侯爵家はお前たちが守りたがっている『体面』ごと、消滅することになるだろう。これまでの旧弊なやり方では、もはやこの乱世を生き抜くことはできない。この王都において、トレンス侯爵家の『名誉』と『品位』は、この俺が、この手で、新たに築き上げてやる。それでも、俺のやり方が不服か?不服ならば、明日からここに来る必要はない」

 

ルーカスは冷たく、そして明確に言い放った。その言葉には、一切の迷いも感情も感じさせない。絶対的な自信に裏打ちされた、凍てつくような傲慢さがそこにはあった。ヒルダは、その言葉に反論することができず、ただ口を閉ざした。使用人たちも不安げに顔を見合わせる。

 

「ああ、それから、汎用ドローンや新しい魔導具には慣れておけ。これから、お前たちの仕事のやり方は大きく変わる。不平を言う暇があるなら、新しい技術を覚えることに時間を費やせ。そうしなければ、文句も言わず、人件費もかからない『自動魔導具』に全ての仕事を取られることになるぞ」

 

ルーカスはそう言い放つと、屋敷の中へと入っていった。ヒルダは、その場に立ち尽くし、ルーカスの背中をただ見つめていた。彼女の心には、不満と困惑、そしてルーカスの言葉に込められた圧倒的な迫力に、わずかに動揺が走っていた。彼女の目の前で、長年培ってきた「常識」と「職務」が、少しずつ崩れ始めていた。

 

 

 

その夜、別邸にて

ルーカスは別邸の自室に入ると、まずは簡易的な執務スペースを確認した。エレノアが事前に指示していた通り、最低限の通信設備と情報端末が既に設置されている。彼はクインを床に下ろし、Alphaに問いかけた。

 

「Alpha、王都別邸の監視体制と魔力的な異常はどうか?」

 

『確認:外部からの観測魔術は継続していますが、別邸の周囲にアレックス少佐とシャドウ・ランスが構築した防御網により、その精度は大幅に低下しています。地下の研究室と執務室は、完全に外部からの干渉を遮断可能です。また、先行配備した汎用ドローンによる屋内監視システムも稼働中。現時点での侵入、魔力異常、その他の脅威は確認されません』

 

「よし。ベリルとアレックスは、よくやってくれた。流石だな」

ルーカスはそう呟くと、自室の椅子に深く腰掛けた。その時、扉がノックされ、ヒルダが先ほどのやり取りとは打って変わって、硬い表情で入室してきた。彼女の手には、銀の盆に載せられた食事がある。

 

「ルーカス様、お食事でございます。粗末ではございますが、王都の食材でございます」

 

ヒルダは盆をテーブルに置くと、ルーカスから視線を逸らしがちに言った。盆の上には、肉料理とパン、それにスープという、この世界では標準的な貴族の食事が並んでいる。

ルーカスは食事を一瞥すると、クインの方を見た。クインは小型化したままだが、好奇心旺盛にきらきらと目を輝かせ、テーブルの上の食事を見つめている。

 

「クイン、お前も食うか?」

 

ルーカスがそう尋ねると、クインは嬉しそうにルーカスの足元をくるくると回った。ヒルダは、その様子に眉をひそめた。クインの足が、別邸の美しい絨毯の上を自由に歩き回っているのが、彼女にはどうしても許せない。

 

「坊っちゃま!その獣は邸内を土足で!絨毯が汚れてしまいます!」

 

ヒルダは、思わず声を荒げた。彼女にとって、クインが邸内を歩き回ること自体、侯爵家の品位を著しく損なう行為だった。

ルーカスはヒルダを一瞥すると、冷ややかな視線を向けた。

 

「ヒルダ。先ほども言ったはずだ。これは私の『ペット』だ。そして、こいつがこの絨毯を汚したところで、何の問題もない。絨毯など、いくらでも替えが利く消耗品に過ぎない。もし汚れて困るというのなら、替えの絨毯を用意しておくか、最初から敷かなければいい。ここでは、この俺がルールブックだ。俺の寛大さは海よりも広い。だが、何度も同じことを言って聞かせるほど優しくは無い。これで二度目だ。次はわかるな?」

 

ルーカスはそう言い放つと、銀の皿から肉を一切れ取り、クインの口元に運んでやった。クインは嬉しそうにそれを平らげ、さらにねだるようにルーカスを見上げた。

 

「それに、ヒルダ。お前がこの邸で一番に学ぶべきは、『優先順位』だ。この別邸が真に護るべきものは何で、些末なものは何なのか、よく考えることだ。貴様らが言う『品位』や『名誉』は、生きた人間と、その成果の上に成り立つものだ。理解できないのなら、無理に理解する必要はない。ただ、私の命令に従っていればいい。それが、このトレンス侯爵家が生き残る唯一の道だ」

 

ルーカスは、ヒルダの目の前で、平然とクインに肉を与えながら言い放った。ヒルダは、ルーカスの言葉と、クインの無邪気な仕草、そしてそれらを全く意に介さないルーカスの態度に、心の中で激しい反発を覚えた。しかし、彼の言葉に込められた圧倒的な『事実』の重みが、彼女の反論を封じた。

 

「……かしこまりました」

 

ヒルダは絞り出すような声でそう答えるのが精一杯だった。彼女は一礼すると、足早に部屋を後にした。

ルーカスは、出て行ったヒルダの背中を一瞥すると、小さく鼻を鳴らした。

 

「まったく。無駄にプライドが高いのも考えものだな。まあ、少しは刺激になっただろう」

 

彼は再びクインに肉を与えながら、王都の今後の動向について思案を巡らせた。王都の貴族たち、そしてヒルダのような旧弊な使用人たち。彼らの凝り固まった常識を打ち破り、新たな秩序を構築すること。それが、この王都でのルーカスの最初の任務だった。

 

 

 

数刻後、ルーカスが思考の加速を終え、データ確認を終えようとしていた時、控えめなノックの後、エレノアが静かに執務室に入ってきた。元侯爵家の魔法師団副団長であった彼女は、その知識と経験でルーカスの右腕として機能していた。

 

「ルーカス様、夜分遅くに申し訳ありません。ご夕食は召し上がりましたでしょうか?」

 

「ああ。ヒルダが持ってきたものと、クインの分を分けてやった」

ルーカスは淡々と答えたが、エレノアの視線がクインに注がれると、僅かに、本当に僅かに、バツが悪そうな顔をした。クインは腹いっぱい食べたのか、床で丸まって寝息を立てている。

エレノアは小さくため息をつくと、優しく、しかし確かな口調で言った。

 

「ルーカス様。クインには、確かに十分な栄養が必要です。しかし、あのサイズの個体にとっては、一度に与える食事の量は、少し過度に過ぎます。摂取カロリーと消費カロリーのバランスが崩れれば、消化器系への負担が増大し、長期的に見れば健康を損なう原因となりかねません」

 

彼女の言葉は、まるで厳格な教師が問題児を諭すかのようだった。ルーカスは眉をひそめ、不機嫌そうに顔を背けた。

 

「……ったく、お前はどこまでお節介なんだ。わかっている。だが、今は食わせてやりたい気分だったんだ。それに、お前のような生粋のヒュームには、魔獣の生理なんて理解できるものか」

 

「私は医療魔術の知識もありますし、資料で確認もしております。種族による差異は考慮しておりますので、ご安心ください。それに、ルーカス様。王都入り直後で、お疲れではないですか? お身体にはくれぐれもお気をつけください。遠征でのご無理が祟って、ご体調を崩されては本末転倒です」

 

エレノアは淡々と続けたが、その言葉には、ルーカスの隠れた体調不良を心配する色が滲んでいた。

「……なぜ、お前がそれを知っている」

 

ルーカスは表情を硬くし、エレノアを鋭く睨んだ。自身の体調不良は、専属医のエリスにしか打ち明けていないはずだった。しかも、エリスは現在、侯爵領の医療部隊と共に別の任務に就いており、ここにはいない。

 

「……ふふ。ルーカス様。私が元侯爵家の魔法師団副団長であったことをお忘れですか? そして、私が貴方様の補佐官に就任して、まだ一年、あるいは二年足らずではございますが、常に貴方様のお傍で仕えております。それに、専属医のエリス隊長が、以前、貴方様に無理をさせ過ぎだ、と私に喧嘩を売ってきたことをご存知ですか?」

 

エレノアは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で続けた。

「貴方様の無理は、私にとっても、エリス隊長にとっても、そして何より侯爵家にとっても、大きな損失です。貴方様が長期的に安定した状態で活動されることが最優先事項であると認識しております。それは、クインの健康状態も含まれます。それに、私が口うるさく申し上げなければ、誰が貴方様に小言を言えるでしょう?」

 

エレノアは淡々と続けたが、その瞳の奥には、ルーカスへの深い信頼と、彼を支えようとする強い意志が宿っていた。

ルーカスはさらに不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「……Tsk。まったく、お前はいつもそうだな。いいだろう、次からは気をつけよう。だが、監視しすぎだ。どこから見てやがる」

 

ルーカスはそう言い放ったが、その声には先ほどのヒルダに対するような冷徹さはなく、どこか諦めにも似た皮肉が混じっていた。エレノアはそれに小さく微笑むと、手際よくテーブルの上の空になった食器を片付けた。

 

 

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