第六十八話:偽装された出会い
あの頃の俺は、きっと、一番輝いていた。
王太子として生まれた俺は、幼い頃から周囲の期待を一身に背負ってきた。学問、武術、政治、社交術。全てにおいて人並み以上の才能を発揮し、臣下からも「次期国王として申し分ない」と称賛された。レオナルドのような飛び抜けた天才ではなかったが、誰よりも努力し、誰よりも真面目に、与えられた責務を果たしてきた自負があった。王国の未来を背負う者として、「常に最善を尽くし、弱音を吐かず、国民の模範となる」。それが、俺の揺るぎない信念だった。
特に、幼い弟、レオナルドのことは可愛くて仕方なかった。多忙だった母上に代わって、俺が小さな手を引いて庭を散歩したり、物語を読んで聞かせたり。繊細で、学問や芸術に夢中な弟が、日に日に成長していくのを見るのが何よりも喜びだった。レオナルドが古文書の難解な一節を読み解いたり、美しい調べを奏でたりするたびに、俺は心から「凄いな、レオ」と褒め称えた。弟の才能は、俺にとって自慢だったのだ。
しかし、あの「ギフト」が発現してからのレオは……いや、レオナルドは変わってしまった。
最初は、彼の尋常ではない成長速度に驚嘆した。どんな学問も瞬時に理解し、どんな武技も一度見れば完璧に再現する。それは模倣などではなかった。彼が作り出すものは、常に「最適化」されていて、俺が何年もかけて磨き上げてきた技ですら、彼にかかれば一瞬で無駄をそぎ落とされ、別次元のものへと昇華される。彼は、もはや俺の知る弟ではなかった。
「兄上。その剣筋では、重心がぶれます。最適な力の伝達を阻害している」
「エドワード兄上。その論理では、結局は感情に流されています。最終的な結論へと至るまでの非効率的な思考プロセスです」
彼の言葉に悪意はない。純粋に「最適解」を口にしているだけだ。だが、その言葉は、俺の努力を、俺の存在そのものを、微塵も意味のないものとして否定するようだった。俺は、これまで積み上げてきたものが全て「非効率」で「無駄」だったかのように感じ始めた。
周りの視線も変わった。「努力家のエドワード王子」から、「天才レオナルド王子の兄」へ。かつて俺に向けられていた期待や称賛の多くが、レオナルドへと移っていくのを肌で感じるたびに、胸の奥が締め付けられるようだった。王太子として国民を導く責任感と、天才である弟に全てを凌駕される現状。そのギャップが、俺を深く蝕んでいった。このままではいけない、王太子として、もっと強くならなければ、もっと賢くならなければと焦るのに、何をしてもレオナルドには及ばない。その絶望が、俺を酒や女、そして喧嘩へと駆り立てた。現実から目を背け、ただひたすらに、己の無力さを忘れようとした。だが、毎朝、目を覚ますたびに、胸の奥には一層深い空虚感と自己嫌悪が残るだけだった。
俺は、どうすればいいのか分からなかった。レオナルドの冷徹な合理性や傲慢さは、彼自身の才能の裏返しだ。だが、それにどう接すればいい? 俺の努力は、この弟の前では無力なのか? そんな苦悩ばかりが募っていった。
ある日の夜だった。
宮廷の空気が重く、息苦しかった。レオナルドの「最適化」された報告書が、王の間で次々と承認されていくのを横目に、俺は自分の居場所がどこにもないような気がしていた。結局、その日の夜も、俺は城を抜け出した。王太子としての矜持は埃まみれになり、ただ、この重苦しい責任と無力感から逃れたかった。
あてもなく、裏通りの酒場街を歩いていると、どこからか、聞いたことのない、しかし不思議と胸を打つような旋律が聞こえてきた。それは、この国の伝統的な楽器とは違う、何かが打ち鳴らされるような、あるいは弦を激しく掻き鳴らすような、荒々しくも魅力的な音楽だった。
音に引き寄せられるように、俺は古びた倉庫の裏手へと足を踏み入れた。蝋燭の明かりが揺れる中、数人の男たちが、古い木箱や鍋を叩き、即席の楽器で演奏をしていた。そして、その中心にいたのは、見慣れない茶髪の少年だった。彼は、奇妙な形の木と金属の塊を抱え、錆びついた弦を指で優しく弾いていた。
ポロン…
古びた楽器から紡ぎ出された音は、しかし驚くほど澄んでいて、場の空気を一変させた。メロディは、どこか懐かしさを感じさせながらも、決して過去を嘆くものではなかった。むしろ、明日への希望を語りかけているようだった。俺が知る宮廷の音楽とは全く違う、魂に直接響くような、自由な音楽だった。
俺は、物陰に隠れてその様子を眺めていた。こんな場所で、こんな音を奏でる少年がいるとは。そして、もう一人、男がその少年の音に合わせて、力強くリズムを刻んでいる。粗末な木箱や鍋を叩いているだけなのに、そのリズムは不思議と安定しており、二人の演奏は、この街の闇に、一筋の光を灯したかのようだった。
演奏が終わると、少年は小さく息を吐いた。そして不意に顔を上げた。俺が隠れている場所を、まるで知っているかのように、まっすぐにこちらを見た気がした。
「おい、そこの」
彼の声が、夜の闇に響いた。俺は咄嗟に身を硬くしたが、逃げることはしなかった。
「いつまでそこに突っ立ってるんだ? お前もやってみるか?」
彼は、何も持たず、ただ彷徨うように立っている俺に、彼が使っていたのと同じ、奇妙な形の楽器を示した。
俺は戸惑った。王太子である俺が、こんな場所で、こんな見知らぬ少年と?宮廷で使うような装飾されたリュートではなく、彼が使っていたのと同じ、少し古い不思議な形の楽器を見やった。
しかし、彼の目には、俺を「王太子」として見るような畏敬の念は微塵もなかった。ただ、「音楽を楽しむ仲間」として誘っている、そんな風に見えた。
その瞬間、俺は、あの息苦しい宮廷からも、天才的な弟の影からも、王太子という重い枷からも、一時的に解放されたような気がした。
「……いいのか?」
俺がそう呟くと、茶髪の少年はニヤリと笑った。
「ああ。だが、下手くそでも笑わないとは言えねえな」
それが、俺とルーカスとの出会いだった。
俺は、そこで初めて、王太子としての重荷を忘れ、一人の少年として音を奏でる喜びを知った。そして、この「不良仲間」との時間が、どれほど俺の心を軽くしてくれるか、その時はまだ知る由もなかった。同時に、この出会いが、俺自身の、そしてホーネリア王国の運命を大きく変えるきっかけとなることも、この時の俺は知る由もなかった。
・・・・・
・・・
(こいつ…見た事あるな。確か第1王子のエドワードだったか。こんな所でなにやってやがんだ?)
ルーカスは、目の前の男が誰であるかを瞬時に見抜いた。公務から解放された安堵感と、この場所で見慣れた顔を見つけた驚きが、彼の胸中で交錯する。しかし、ルーカスはそれを表情に出さず、ただニヤリと笑った。
「……いいのか?」
エドワードの戸惑いが混じった声に、ルーカスは軽く肩をすくめる。
「ああ。だが、下手くそでも笑わないとは言えねえな」
ルーカスはそう言い放ち、彼が手に入れたばかりのギターを差し出した。エドワードは、そのギターを恐る恐るといった様子で受け取った。
「触ったことあるか?」
「いや、一度も。その…こういう楽器は見たことがないな」
エドワードは言葉を選びながらそう答えた。彼の目に宿る戸惑いと、好奇心がルーカスには見て取れた。
「だろうな。まぁ、好きにやれ。弦を弾けば音は出る」
ルーカスは、そう言ってエドワードにギターの基本的な構造や弾き方を教えようとはしなかった。ただ、彼に自由に音を奏でてほしいと願っていた。エドワードは、ぎこちない手つきで弦を弾いた。音は、ルーカスが奏でたものとは程遠く、不協和音だった。しかし、ルーカスは何も言わなかった。
「…難しいな」
エドワードが苦笑いしながら言うと、ルーカスは口元を緩める。
「当然だ。最初から上手くやれる奴なんていねえ。けどな、上手い下手じゃねえ。お前がどんな音を鳴らしたいか、それだけだ。お前の音を、俺にぶつけて来い」
「お前の音」…。エドワードは、その言葉に驚いたように顔を上げた。これまでの人生で、父や臣下、そしてレオナルドですら、彼の「音」に耳を傾けたことはなかった。彼らが求めたのは、常に「王太子としてあるべき音」、つまり「完璧な模範」だった。だが、目の前の少年は、その全てを否定し、彼自身の「音」を求めている。それは、エドワードが最も欲していた、しかし決して手に入らないと諦めていたものだった。
今、その瞳には、今まで誰からも言われたことのない言葉に対する、戸惑いと同時に、わずかな喜びが浮かんでいた。
その横で、ヴァイスは静かにドラムを叩き始めた。そのリズムは、エドワードのぎこちないギターの音に優しく寄り添うようだった。
「…お前の連れか? 上手いな」
「まあな。俺の相棒だ。リズム感が異常なだけの、ただのバカだがな」
ルーカスがそう言ってヴァイスをからかうと、ヴァイスはわざとらしくスティックを叩きつけ、ルーカスを不満げに見た。その様子を見て、エドワードは小さく笑った。
「お前も…笑うんだな」
エドワードの言葉に、ルーカスは一瞬、表情を消した。
「ああ。笑うさ。人間だからな。あんた…いや、お前も笑えばいい。ここでは、誰もお前のことなんて知らねえ。俺も、ただの音楽好きな不良だ。お前も、ただの音楽好きな酔っ払いだ」
ルーカスは、エドワードにそう言い放った。彼の言葉は、エドワードの胸に深く突き刺さった。王太子という重荷から解放されたいと願いながらも、その身分から逃れられずにいたエドワードにとって、ルーカスの言葉は、彼が求めていた「救い」そのものだった。
エドワードは、ルーカスの言葉に静かに頷き、再びギターを弾き始めた。今度は、先ほどよりも少しだけ、音に感情がこもっていた。
ルーカスは、エドワードの演奏に合わせて、口笛を吹き始めた。二人の奏でる音は、まだ不協和音だったが、しかし、そこには確かに音楽があった。
その夜、彼らはいくつかの曲を奏で、互いの素性を深く探り合うこともなく、ただ一人の男として時間を共有した。やがて夜も更け、ルーカスが時計代わりの月を指差すと、エドワードは名残惜しそうに立ち上がった。
「…そろそろ、行かないと」
「そうかい。じゃあな、またどこかで」
ルーカスはそう言って、別れの言葉を告げた。エドワードは、ルーカスに深々と頭を下げると、夜の闇へと消えていった。
ヴァイスは、そんな二人の様子を黙って見守っていた。エドワードの姿が見えなくなると、彼はルーカスに問いかけた。
「ルーク様、よろしいのですか? 護衛もつけずに、あのような場所を一人で歩かせて」
「大丈夫だろ。ただの喧嘩程度なら、あの男、一人で捌けるさ。それに、今夜のあいつは、誰よりも自由だった。それに水を差すような真似は、したくねえ」
ルーカスは、そう言って煙草を取り出した。彼は、遠ざかるエドワードの後ろ姿を眺めながら、静かに煙を吐き出した。
トレンス侯爵家王都別邸
邸宅の門をくぐると、ルーカスはすでにメイド長であるヒルダと、首席補佐官のエレノアが待ち構えているのを目にした。ヒルダは不満げな表情を浮かべていたが、その隣に立つエレノアの顔は、かつてないほど険しかった。
「ルーカス様。お戻りになられましたか」
エレノアの声は、普段の冷静沈着なものとは違い、明らかに怒りを孕んでいた。彼女は、ルーカスの旅人のような粗末な格好を見て、さらに眉をひそめた。
「ああ、ただいま、エレノア。少し気分転換をしてきた」
ルーカスは、事もなげにそう答えた。しかし、エレノアはルーカスの言葉に耳を貸さず、その瞳に冷たい光を宿らせた。
「気分転換とおっしゃいますか。侯爵様、あなたはご自身の立場を少しでも自覚しておられるのですか? 連絡も入れずに、護衛も連れずに、王都の裏路地を徘徊するなど、狂気の沙汰です! もし何かあれば、取り返しのつかない事態になりかねない。あなたの身に何かあれば、一体どうするおつもりですか?」
エレノアは、言葉を荒げながら、ルーカスにそう言い放った。ヒルダも、不満げに眉をひそめている。
「分かっている」
ルーカスは、二人の言葉を遮るように言った。しかし、彼の表情は、どこか楽しげだった。
「だがな、エレノア。俺はただ、報告書の上でしか知ることのできない、この王都の『真の顔』を見たかっただけだ。そして、そこには、俺が知るべき情報が、たくさん転がっていた。この体験は、お前が作成するどんな報告書よりも、俺の血となり肉となるだろう」
ルーカスの言葉に、エレノアは言葉を失った。彼女は、ルーカスの行動の目的を理解しながらも、その危険な行為を容認することはできなかった。
「…ルーカス様。私は、あなたの命を、お守りする義務があります。次からは、せめて私を伴っていただきたい。それとも私では、あなたの気分転換にはならない、と?」
エレノアの言葉には、彼女なりのルーカスへの忠誠心と、そして何よりも、彼の身を案じる気持ちが込められていた。ルーカスは、そんなエレノアの気持ちを汲み取り、小さく笑った。
「そうだな。だが、お前がいては、気分転換にはならねえな。お前は優秀すぎる。俺が知りたいのは、お前の報告書には載らない、ただの、街の喧騒や、そこで暮らす人々の生の声だ。それに、俺が命の危険に晒されることなんて、あるわけねえだろ? 俺を誰だと思ってんだ」
ルーカスは、そう言ってエレノアに背を向け、自室へと向かった。その背中には、夜の街で得た充実感と、新たな策謀の匂いが漂っていた。エレノアは、そんなルーカスの背中を、悔しさと、そしてわずかな安堵を込めた眼差しで見つめていた。
その夜、ルーカスが別邸を抜け出した後、小型化したクインは寂しそうに一匹、自室の絨毯の上で丸くなっていた。
彼女は、ルーカスが自分を置いていったことに、強い不満を感じていた。ルーカスが家を出る際、クインは足元にまとわりつき、自分も連れていってほしいと、小さな体で一生懸命アピールした。しかし、ルーカスはクインの頭を一度撫でただけで、何も言わずに家を出ていった。
「クゥン……」
クインは、寂しげに鼻を鳴らし、ルーカスの匂いが残る彼の椅子にもぐり込み、小さく丸くなった。
やがて、遠くから足音が聞こえてくる。その足音は、クインが何よりも心待ちにしていた、ルーカスのものだった。クインは、ハッと顔を上げると、その場から飛び出し、ルーカスの部屋へと走っていった。
部屋の扉が開くと、そこには旅の格好をしたルーカスの姿があった。クインは、嬉しさのあまり、ルーカスの足元に駆け寄り、その足に顔を擦りつけた。
「クン、クン!」
クインは、尻尾を勢いよく振りながら、ルーカスに飛びついた。ルーカスは、そんなクインの頭を優しく撫で、その体を抱き上げた。
「よぉ、クイン。寂しかったか」
ルーカスがそう囁くと、クインは嬉しそうにルーカスの腕の中で小さく鳴いた。その声は、寂しさから解放された喜びと、ルーカスの帰りを待ちわびていたという気持ちを、存分に物語っていた。
ルーカスは、クインのその無垢な愛情に、深い安堵を覚えた。彼がこれまでの人生で受け取ってきた「愛」は、常に何かの見返りを伴うものだった。前世では、軍人としての功績や、仲間を守るという義務感。今世では、母クリスティアナの無償の愛。そして、クインの愛もまた、何の計算もない、純粋なものだった。この小さな魔獣が示す愛情は、彼の心を、公務や策略から解放してくれる、一時の安息の場所だった。