第七十一話 侯爵邸の門前に立つ少女
アレックスの執務室の机には、王都の警備体制に関する報告書が山積みにされていた。昨夜、ヴァイスの突飛な行動に付き合わされたルーカスのせいで、追加された警備網の調整と、それに伴う書類仕事に追われていた。
「やれやれ、まったく……」
アレックスは、深くため息をついた。ルーカスは、王都に来てわずか1日程度で、街の裏と表を揺るがすような動きを見せている。ヴァイスを「案内人」として王都の夜を徘徊し、昼間は学園で「一学生」を装う。そして、侯爵領の技術を文化という衣で包み、王都に浸透させようと企んでいる。アレックスは、その一連の行動の背後にある、ルーカスの壮大な戦略を理解していた。
コンコン、と扉がノックされた。
「入れ」
扉を開けて入ってきたのは、内側の警備を担当する海兵隊の部下だった。
「少佐。門の外で騒ぎが起きています。別邸の衛兵が、小娘を追い払おうとしているのですが、どうにも話がこじれているようで……」
「小娘?」
アレックスは、報告を聞いて、ふと昨夜のルーカスの楽しそうな笑みを思い出した。そして、今朝、出発前に見せた、何かを企んでいるかのような、不敵な表情。
(まさか、またか……)
アレックスは、額に手を当て、深い苦笑を浮かべた。昨夜のヴァイスに続き、今度は「小娘」か。ルーカスの周りには、常に予測不能な出来事が起こる。そして、その一つ一つが、彼の周到な計画の一部なのだ。
「仕方ない。私も向かう。部下には、不用意に手を出さないよう伝えろ」
アレックスは、立ち上がると、部下と共に門へと向かった。
門前には、身なりの粗末な少女が、別邸の衛兵たちに追い払われそうになっていた。衛兵たちは、彼女を不審者と決めつけ、罵声を浴びせている。
「失せろ!ここがお前のような者が来る場所だと思うな!」
「お願い!本当にルーカス様から頂いたメモなんです!見てください!」
少女の悲痛な叫びが響く。彼女の瞳には、ただ生きるためだけの、切実な光が宿っていた。アレックスは、その光に、かつての自分が持っていた、希望への渇望を見た気がした。
「どうした。騒がしいな」
アレックスは、門衛たちの間に割って入った。衛兵たちは、アレックスの姿を見て、慌てて敬礼する。
「プライム殿。申し訳ございません。この小娘が、ルーカス様にお会いしたいなどと、ふざけたことを申しまして……」
衛兵が、リナを追い払おうとしたが、アレックスはそれを手で制した。アレックスは、少女、リナの必死な眼差しと、彼女が差し出すメモをじっと見つめた。メモには、この大陸には存在しない奇妙な文字と、最後に記された「L」のサイン。アレックスは、それがルーカスの筆跡であることを知っていた。
「……ルーカス様から預かったものだと、言ったな」
アレックスの声は、衛兵に向けられた時とは違い、穏やかなものだった。リナは、その声に、かすかな希望を見出した。
「はい…!はい!ルーカス様が、これを……」
「分かった。お前は少し、そこで待っていなさい」
アレックスは、リナにそう告げると、メモを手に取り、屋敷の中へと入っていった。彼が向かう先は、当然、ルーカスの執務室だ。
「やれやれ、今度はどんな仕掛けを……」
アレックスは、メモに書かれた「L」のサインを見つめながら、静かに、しかし深い苦笑を浮かべた。ルーカスの行動は常に予測不能だ。しかし、その一つ一つが、侯爵領の未来を創るための、確かな一歩であることも、アレックスは理解していた。彼が再び、ルーカスの策略に巻き込まれることを予感しながら、その背中には、揺るぎない忠誠心が満ち溢れていた。
・・・・・
・・・
ルーカスは執務室の窓から、夜の王都を眺めていた。アメリア学長との面談を終え、被服店の主人との交渉も上手くいった。そして、先ほど、アレックスから門前に「小娘」が訪れたとの報告が入った。
(やはり、予想通りか……)
ルーカスは心の中で静かに呟いた。リナが、金品を奪われ、それでも助けを求めてここに来るだろうことは、最初から彼の計算の内だった。あの裏路地で彼女の瞳を見たときから、彼女が持つ「渇望」と「強さ」が、自分の計画に不可欠な存在だと確信していた。
しかし、その確信の裏で、彼の胃の奥から吐き気がこみ上げてきた。それは、前世の記憶に苛まれていたからだった。
「民間人を守るために戦ってきたのではないのか?」
胸の中で、もう一人の自分が問いかける。
国家を、仲間を、そして民間人を守るために命を賭してきた海兵隊員としての自分が、今、この世界の貧しい少女を、自らの目的のために利用しようとしている。その行為は、彼の中にある倫理観と、冷徹な戦略家としての自分との間で、激しい葛藤を生んでいた。
「……不甲斐ないな。俺は、いつからこんな、汚い真似を平然とするようになった」
心の中で自分自身を罵倒しながらも、ルーカスは表情一つ変えることなく、不敵な笑みを浮かべた。その笑みの裏で、彼は机の上の報告書を握りしめ、僅かに爪を立てる。感情を表に出すことは、彼の戦略を狂わせる。今、彼がなすべきは、この葛藤を心の奥底に封じ込め、リナという「駒」を、最も効果的に動かすことだった。
「ルーカス様。お連れいたしました」
ルーカスの視界に、憔悴しきった様子のリナが映った。彼女の服には土埃がつき、顔には涙の跡が残っている。その姿に、ルーカスの胸の奥で、再び痛みが走った。しかし、彼はその感情を、脳裏に浮かんだ母クリスティアナの笑顔で押し殺す。この母の笑顔と、家族を、侯爵領を、そしてこの国を守るために、いかなる泥も被る覚悟を決めた。そのためなら、この程度の吐き気は、安い代償だと、自分に言い聞かせた。何事もなかったかのように口を開く。
「ほう。随分とお早い再会だな、リナ。今度は何を売りつけに来たんだ?」
その言葉は、まるで彼女が単なる物売りであるかのように突き放した、冷たいものだった。エレノアは、その言葉に眉をひそめ、アレックスは無言でルーカスの背後を見つめる。ベリルは、その場で直立不動の姿勢を保ち、何も言わない。
しかし、一匹だけ、ルーカスの足元で横たわっていたクインが、リナの悲しげな気配を察知したのか、ゴクリと喉を鳴らした。普段はルーカスにしか興味を示さないクインの反応に、エレノアとアレックスは、わずかに驚きの表情を見せた。
リナは、ルーカスの言葉に肩を震わせ、俯いたまま何も答えられない。エレノアが、リナの肩に手を置き、宥めるように優しい声で言った。
「リナ。怯えなくて大丈夫よ。ルーカス様は、あなたを責めたりはしませんから」
その言葉に、リナは顔を上げた。彼女の瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、かすかな希望と、そして、もう二度と大切なものを失わないという強い決意が宿っていた。
「……預けた物は、どうした?」
ルーカスは、彼女の瞳の奥にある炎を見て、再び問いかけた。
「…奪われました」
リナは、絞り出すような声でそう答えた。ルーカスは、椅子に深く腰掛け、彼女を見つめる。
「そうか。お前が管理しろと言った、俺の財産を、奪われたと……。それで、どうするつもりだ?」
ルーカスは、まるで彼女を試すかのように、意地の悪い笑みを浮かべた。リナは、その言葉に、わずかに怯えながらも、拳を強く握りしめた。彼女の脳裏には、金品を奪われた悔しさ、そして無力な自分を嘲笑う男たちの顔が蘇る。
「……もう、二度と、奪わせません。だから、お願いです。私に、もう一度だけ、チャンスをください。どんなことでも、します…!」
その声は、震えていながらも、確固たる決意に満ちていた。リナは、ルーカスもまた、自分を食い物にする相手の一人かもしれないという恐怖を抱きながら、それでもその言葉を絞り出した。エレノアは、その言葉に、心を痛めるような表情を浮かべた。
ルーカスは、その言葉を聞くと、笑みを深めた。
「Hmph.何でも、と言ったな?」
「…はい。どんな事でも…!」
リナは、ルーカスの目が、他の男たちと同じように、自分を値踏みしているように感じた。しかし、彼女には、もう後戻りする道はなかった。
「お前、歌は歌えるか?」
「…歌…ですか…?」
唐突な質問に、リナの心臓が止まりそうになった。歌。歌って、踊って、着飾って。彼女が知る限り、この路地裏でそんなことをして金を稼ぐのは、娼婦だけだ。やはり、ルーカスの言う「どんなことでも」とは、そういうことなのか。彼女の顔から血の気が引き、瞳には絶望的な悲壮感が浮かんだ。しかし、妹たちの顔が脳裏に蘇る。この命を投げ打っても、彼女たちを救わなければならない。
「…はい。精一杯努めさせて頂きます…」
リナは、震えながらも、そう答えるのが精一杯だった。その様子を見たエレノアが、ルーカスの言葉の少なさにため息をつき、やんわりと宥めた。
「ルーカス様。そのような物言いでは、この子が、娼婦にでもさせられるかと勘違いしてしまいます。どうか、もう少しご配慮を」
「Ha.エレノア。俺は、こんなちんちくりんに、わざわざ金をかけてポールダンサーにするほど、暇でも愚かでもない。非効率極まりない。俺は先の短い投資には興味が無い」
ルーカスの言葉は、冷たく、そしてどこまでも合理的だった。リナは、その言葉の意味を理解できなかったが、エレノアの言葉によって、自分が見た最悪の未来は、ひとまず否定されたことを悟った。
「…身を、売らなくても…いいのですか?」
ルーカスは、その問いに静かに頷いた。
「娼婦にでもなりたいなら構わんが、俺はそんなものに金は出さん。短期的には利益はあるが、それはすぐに先細りする。必要なのは、長期的な利益と知名度だ」
ルーカスの言葉に、リナの瞳に安堵の色が浮かんだ。彼女は、自分の最悪の想像とは違う、彼の言葉に、かすかに震える声で尋ねた。
「ああ。俺が欲しいのは、お前という存在だ。お前で成功すれば、次のプランにもスムーズに移行できる。裏路地の見すぼらしいガキが、綺麗に着飾り、歌と踊りという、娯楽を提供し、民衆に夢と希望を与える。そして、お前が着る服は、俺の発案を元に作成した衣装になる。これらは、既存の被服とは一線を画す物となる。お前の知名度や人気が高まれば、よりその売上げにも貢献する、という寸法だ。理解できたか?」
ルーカスの言葉は、冷徹なビジネスマンのそれだった。しかし、リナには、その言葉の裏にある、彼女の人生を根本から変えようとする壮大な計画が見えた。彼女は、ルーカスの言葉に、深く頷いた。
ルーカスは僅かに笑いながら、リナを見据えて告げた。
「よろしい。ならば、
ルーカスは、そう言うと、机の引き出しから、契約書が記された羊皮紙を取り出した。彼はペンを手に取ると、そこに次々と文字を書き込んでいく。その間、リナは、ただ息をのんで、その様子を見つめていた。
「お前には、俺の『
リナは、「イコン」という聞き慣れない言葉に、首を傾げた。ルーカスは、その様子を見て、淡々と続けた。
「契約内容はこうだ。お前のロイヤリティは30%。残りの70%は俺の取り分となる。だが、心配は不要だ。俺がイニシアチブを取り、全てを管理する。新しい衣装も、訓練の場も、すべてこちらで用意する。最初のイニシャルコストは大きく上回るから、俺が損をするだろう」
ルーカスの口から次々と繰り出される聞き慣れない言葉に、リナは困惑した。彼女は、目を丸くして、必死に理解しようと努めるが、頭の中は混乱するばかりだった。
エレノアは、そんなリナの様子を見て、微笑みながら口を挟んだ。
「リナ。ロイヤリティというのは、あなたが得るお金のことよ。そして、イニシャルコストというのは、最初にかかるお金のこと。ルーカス様は、そのお金をすべて負担してくださる、と言っているの。あなたは、何も心配しなくていいのよ」
エレノアの優しい言葉に、リナは安堵の表情を浮かべ、何度も頷いた。しかし疑問を抱き、再び口を開いた。
「経費が上回る…?ってことは、お兄さんは損をするってことですか?」
リナがそう尋ねると、ルーカスは不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ。だが、これは投資だ。お前は、金の卵を産むガチョウとなる……かもしれん」
ルーカスは、そうおどけて見せた。リナは、その言葉に、再び戸惑いの表情を浮かべた。しかし、彼女の頭の中には、一つの疑問が浮かんでいた。
「あ…あの。妹たちは……?」
リナは、震える声でそう尋ねた。彼女の契約よりも、何よりも、妹たちのことが気にかかっていた。ルーカスは、その問いに、笑みを浮かべたまま、静かに答えた。
「当然、俺が保護する。お前が二度と、家族のために何かを奪われることがないように、な。だから、安心して、俺の言うとおりにすればいい。ただし、一つだけ条件がある。今後、二度と、俺から逃げることは許されない。どんなことがあっても、だ」
ルーカスは、リナの瞳をまっすぐに見つめ、その言葉を告げた。それは、彼女の人生を完全に支配するという、冷徹な契約だった。リナは、ルーカスの言葉の意味を、徐々に理解していった。この男は、自分を救ってくれるかもしれない。しかし、同時に、彼女の人生を、彼の目的のために使うつもりなのだ。
ルーカスは、書き終えた羊皮紙をリナの前に差し出した。彼女は、震える手でそれを手に取った。羊皮紙には、彼女の知らない難しい言葉で、契約内容が詳細に記されていた。ルーカスは、リナの困惑した表情を見て、ペンを差し出した。
「サインしろ。今、お前が受け取るのは、この契約書だけだ。だが、お前が成功すれば、その先に、お前と家族の未来がある」
リナは、ペンを握りしめた。彼女の手は震え、汗で滑る。そして、その手が書いたのは、彼女が今まで学んだことのない、見慣れない文字だった。
「…私、文字、書けません」
リナは、そう呟くと、ペンを静かに置いた。侯爵領の子供は皆、当然のように文字を学ぶ。しかし、路地裏の子供たちには、そんな機会はなかった。
ルーカスは、その言葉に、わずかに目を見開いた。――無知、無垢、そして何よりも純粋な渇望。それが、この世界の底辺に生きる者たちの真実か。文字を教えれば、それは新たな価値を生む。文化戦略の広告塔として、これ以上の素材はない。
彼はすぐにいつもの不敵な笑みに戻った。
「そうか。では、
ルーカスは、そう言うと、インクの入った小瓶と、布を取り出した。彼は、リナの右手を取り、親指にインクをつけさせた。
「これを、ここに押し付けろ。これは、お前の覚悟の証だ。お前が文字を書けないのなら、この拇印がお前という存在を証明する。いいな?」
リナは、ルーカスの言葉に、深く頷いた。彼女は自身の親指を見つめた。その手は震え、汗で滑る。その指は、これまで妹たちのために小さな細工を作り、冷たい地面に手をつけ、何度も傷ついてきた、彼女の人生そのものだった。その指が、今、新たな人生の始まりを刻もうとしている。
しかし、彼女の脳裏には、熱にうなされる妹の顔が浮かんでいた。この契約書に拇印を押せば、彼女は、もう二度と、路地裏で必死に生きる必要はなくなる。妹たちも、温かい食事と、安全な寝床を手に入れることができる。
彼女の親指が、インクに濡れたまま、羊皮紙へと近づく。その瞬間、リナの脳裏に、もう一つの光景がフラッシュバックした。
――これは、お前の覚悟の証だ。お前が文字を書けないのなら、この拇印がお前という存在を証明する――
(…違う。私は、もう誰にも、何も奪わせない。私は、私自身の力で、家族を護るんだ…!私は、この人の言葉に流されるだけの存在じゃない…!)
リナは、インクに濡れた親指を、静かに下ろした。エレノアとアレックス、そしてルーカスまでもが、その不可解な行動に息をのんだ。
リナは、震える手で、インクをつけた親指で、羊皮紙の空白に、彼女の人生で初めて学ぶことになった、たった一つの文字を、力強く書き記した。
「L」
その文字を書き終えたリナの目に、涙が滲んだ。それは絶望の涙ではなく、自分自身で選んだ道への、そして自らの力で未来を切り開くことへの、決意の涙だった。
それを見て、ルーカスの冷徹な笑みが、一瞬だけ、微かな驚きと、そして満足の表情へと変わった。彼は、リナが単なる「駒」ではないことを、この時初めて悟った。彼女は、彼の計画を乗りこなすだけでなく、その上で自分自身の意志を刻み込む、稀有な才能を持った存在だと。
彼女の人生は、ルーカスとの出会いによって、そして彼女自身の「L」によって、大きく動き出した。