第七十二話:静かな護送と揺れる決意
リナが退出した後、執務室には沈黙が満ちていた。羊皮紙に押された拇印を見つめながら、ルーカスは静かにペンを置いた。
「ルーカス様」
エレノアの声は、普段の穏やかさとは異なり、わずかに怒気を帯びていた。ルーカスは顔を上げず、ただ羊皮紙に視線を向けたまま、口を開いた。
「どうした、エレノア。何か問題でもあったか?」
「問題、ですか? あなた様のあのようなご発言は、デリカシーに欠けると思いませんか?」
エレノアは、怒りを抑えきれない様子で、ルーカスに詰め寄った。
「娼婦にでもなりたいなら構わん、などと、なぜあのようなことをおっしゃるのですか。彼女は、あなた様の言葉に、深く傷ついていました」
エレノアの言葉に、ルーカスは初めて彼女の方を見た。
「傷ついただと? 彼女は、自分の身を売ることも厭わないほどの覚悟を見せていた。俺はただ、彼女の覚悟を確かめただけだ」
「それでもです! 彼女は、あなた様の言葉に、深く絶望していた。あなたは、彼女が文字を書けないことも、知らなかったのでしょう?」
エレノアの指摘に、ルーカスは口を閉ざした。今の侯爵領の子供は当然のように文字を学ぶ。しかし、路地裏の子供たちには、そんな機会がなかった。ルーカスは、これまでの改革の過程で、識字率の低さが侯爵領の課題であることを理解していたが、目の前の少女にその事実を突きつけられ、言葉を失った。
「…無知だったな。俺の確認不足だ」
ルーカスは、素直に非を認めた。エレノアは、その言葉にわずかに表情を緩めたが、まだ不満そうな顔をしている。
「それに、ロイヤリティ、イニシャルコスト、イニシアチブ……。なぜ、あのような難しい言葉をお使いになるのですか。彼女が困惑していたのは、明白でした」
エレノアの言葉に、ルーカスは苦笑を浮かべた。
「これは、俺の職業病だ。これまでの契約や改革の中で、つい使ってしまう。それに、ビジネスだ。契約は、すべて言葉で明確にしなければならない。誤解を生む余地は、徹底的に排除する」
「わかります。しかし、もう少し、彼女に寄り添って差し上げてもよかったのではないでしょうか。まるで、ギャングの親玉が、無体を働く場面にしか見えませんでしたよ」
ベリルは、そう言って苦笑を浮かべた。その言葉に、アレックスも小さく頷いた。ルーカスの行動の裏に、冷徹な計算があることを理解していながらも、目の前で傷つく少女を放っておけなかったのだ。
ルーカスは、ベリルの言葉に、再び顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「弄んでなどいない。俺は、彼女に『夢』を与えた。そして、その夢を叶えるために、俺は全力を尽くす。だが、その夢を叶えるためには、時に残酷な言葉も必要になる。これは、彼女の人生を賭けた、長期的で、非効率極まりない投資だからな」
ルーカスの言葉に、エレノアとベリルは、何も言えなくなった。彼らは、ルーカスの言葉の裏にある、彼の強い決意と、それがどれほどの犠牲の上に成り立っているかを理解していた。
「……わかりました。リナのことは、私に任せてください。言葉や作法、読み書きも、私が手配します」
エレノアは、そう言うと、ルーカスに深々と頭を下げた。
「感謝する。エレノア。アレックス、リナを彼女の家まで送り届けてくれ。夜道は危険だ。念のため、護衛をつけろ。もちろん、彼女の家には立ち入るな。妹たちの身柄はこちらで確認次第、改めて迎えに行く」
「はっ!承知いたしました」
アレックスは一瞬の迷いもなく、敬礼と共に力強く応えた。その簡潔な返答には、ルーカスの命令への揺るぎない忠誠心と、彼が意図することを完璧に理解しているという自負がにじみ出ていた。彼はルーカスに深々と一礼すると、音もなく執務室を後にした。
ルーカスは、アレックスが去った後も、しばらく静かに椅子に座っていた。やがて、彼は立ち上がると、扉へと向かった。
「エレノア、少し厨房に寄っていく。彼女は妹の為に何も求めなかった。熱を出しているそうだ。消化に良さそうな食事をいくつか手配しようと思う」
エレノアは、その言葉に驚きを隠せない様子で、ルーカスを見つめた。
「ルーカス様が、厨房に…?」
「ああ。どうせなら、俺が運んでやってもいい。だが、それは配慮が過ぎるか……」
ルーカスは、どこか自嘲気味にそう呟いた。エレノアは、ルーカスの言葉の裏にある、不器用な優しさに、思わず微笑みを浮かべた。
「いえ、十分でございます。すぐにお呼びいたします」
エレノアは、そう言うと、慌ただしく執務室を後にした。ルーカスは、エレノアが去った後、再び羊皮紙に視線を落とした。拇印の横に、彼女が震えながら書き記した「L」の文字。
「……まったく、不器用な奴め」
ルーカスは、そう呟くと、わずかに口元を緩めた。
だが、その笑みは一瞬で凍りついた。
ルーカスは、誰もいない空間に向かって鋭く命令した。
「Alpha、状況を報告。ターゲットはドン・サルヴァトーレ傘下の下位組織。先日、我々のターゲットに接触したあのゴロツキどもの現在の集中地点と、以前我々の輸送を妨害しようとした組織との関連調査の最終結果を」
『最終データアップデート完了。現在のターゲットの集中地点は、王都東区画の古い製粉所地下。総員推定三十名。以前の妨害組織との関連性は、末端の取引ルートを通じて3.2%の確率で示唆。戦闘評価:低』
「ベリル。準備しろ。今から東区画のマフィアのアジトへ向かう。奴らが我々の領域を侵害し、私財を強奪したことへの正当な報復を行う。これは、王都の裏を統制し、領地の基盤を安定させるための布石だ」
ベリルは、その言葉に一瞬の迷いもなく敬礼した。
「はっ。速やかに部隊を編成致します」
そう言ってベリルは執務室を足早に退出していった。
「
・・・・・
・・・
廊下を足早に進み、屋敷の入り口に近づくと、彼はすぐさま内側の警備を担当する部下に声をかけた。
「門にいる小娘を待たせている。今から彼女の家まで送る。適切な人員を護衛に4人、最低でも1人は女性兵士でな。馬車に同乗させろ。目立たぬよう簡易装甲強化服の迷彩を調整させろ。それと、護衛には決して口を開くなと伝えろ」
部下は、その厳命に驚きながらも、即座に命令を伝達した。アレックスは、馬車が準備されるまでの間、冷たい石畳の上で静かに待った。彼の頭の中では、すでにリナを送り届けるまでのルートと、万が一の事態に備えた対応策が組み立てられていた。
侯爵邸の重厚な門前で、リナは寒さに身を震わせながら、ただじっと待っていた。彼女の周りを、別邸の衛兵たちが遠巻きにしている。彼らの視線は、好奇心と侮蔑が入り混じったもので、まるで檻の中の珍獣を見るかのようだった。
リナは、その視線から逃れるように身を縮め、胸の奥に隠したメモをぎゅっと握りしめた。彼女の指先には、まだインクの跡が残っていた。それは、この数時間で起きた、すべての出来事が夢ではないという、唯一の確かな証拠だった。
(…信じて。信じなくちゃ…)
リナは、自分に言い聞かせた。彼女の心には、恐怖と、そしてわずかな希望が渦巻いていた。
やがて、屋敷の奥から、アレックスが姿を現した。彼の背後には、街の夜の色に溶け込むような、暗い色の装甲を身につけた、複数の人影が控えていた。その人影は、威圧的でありながらも、不自然に目立つことはなく、まるで夜に潜む影のようだった。
「待たせたな。早く帰って家族を安心させてやれ」
アレックスの声が響く。その直後、護衛に選ばれた女性兵士、サントス伍長が、リナにそっと近づき、迷彩柄のブランケットを肩に掛けた。
「冷えるだろう。これを」
サントス伍長は、命令に背かないよう、必要最低限の言葉でそう告げた。 リナは、その予想外の優しさに目を見開いた。
「夜道は冷える。ルーカス様からの預かりものだ。彼等は喋るな、と言われている」
次の瞬間、アレックスは旧衛兵たちに向け、冷たく威圧的な声を放った。
「見せもんじゃねぇぞ。そんなに物欲しければ、てめぇらのケツでも見てやがれ。これはルーカス様直轄の極秘任務だ。一歩たりとも近づくな」
その剣呑な威圧に、好奇の視線を向けていた衛兵たちは一斉に顔を青ざめ、退散した。リナは、ブランケットの温かさとアレックスの言葉に、わずかな安堵を覚えた。彼女は深く頷くと、馬車へと乗り込んだ。彼女の顔には、不安と期待が入り混じった、複雑な表情が浮かんでいた。
こうして、路地裏の少女は、侯爵家の馬車に揺られ、新たな運命へと向かって走り出した。
・・・・・
・・・
アレックスは、夜の王都を走る質素な馬車の中で、静かに目を閉じていた。
馬車の一角、リナの隣に座るサントス伍長が、無言でリナの様子を窺う。そして、リナがブランケットを無意識に強く握っているのを確認すると、そっとその布の位置を直してやった。彼女は、馬車の揺れに合わせて、リナが壁に頭をぶつけないよう、最小限の動きで姿勢を保っていた。
「(ルーカス様は、あの一瞬で、この小娘の何を見抜かれたのだろう…)」
彼の脳裏には、トレンス領の都市ヴァルデシアを襲った大規模魔獣侵攻の悪夢が蘇る。あの時、アレックスは傭兵部隊の一員として、壊滅寸前の前線で戦っていた。ルーカス様の部隊は、キース侯爵が窮地に陥るまで動かず、その後、一斉に動き出し、圧倒的な戦力で魔獣を一掃した。多くの命が失われたが、結果として、領地全体の犠牲を最小限に抑えた。
馬車の揺れに合わせて、彼の思考も揺れる。同行している護衛兵は、見た目は重厚な軽鎧のようだが、最新の技術が凝縮された装甲強化服に身を包み、周囲の警戒を怠らない。その圧倒的な防御力と存在感は、この貧民街の夜の闇をものともしない。だが、アレックスの心には、まだ拭えない疑問が残っていた。
ルーカスは、なぜ、路地裏の貧しい少女を、侯爵領の未来を賭けた計画の「広告塔」に選んだのか。彼は、貴族の娘よりも、この少女が持つ「渇望」と「強さ」に価値を見出した。しかし、それは、あまりにも不確実な賭けではないか?
「…あの、プライム…さん」
リナの不安げな声に、アレックスは目を開けた。馬車は、彼女の家がある路地裏へと差し掛かっていた。
「…あー…なんだ? どうした?」
アレックスは、いつもの冷静な口調が崩れ、わずかに戸惑いを滲ませた。彼は、リナのような、必死に生きる子供とどう接していいか分からなかった。
「あの…本当に、私たちを助けてくれるのですか…?」
リナは、不安を隠せない様子でそう尋ねた。彼女の瞳には、まだ怯えと疑念が混じり合っている。アレックスは、その問いに、少し言葉を詰まらせた。
「ああ…もちろんだ。ルーカス様のご命令だ。貴様の身に何かあれば、俺の首が飛ぶ。それに…」
言葉を探すように、彼は少し間を置く。
「…ルーカス様は、貴様を、ただの物として扱ってはいない。これは…そう、貴様と貴様の家族の人生を賭けた、契約だ。あの方は契約は必ず守る。だから…もう、怯えなくていい」
やがて馬車はリナの、家の近くまで到着し静かに停車した。
「…到着だ。ここから先は貴様1人だ。まぁ、家に入るまではここで待っててやる」
彼の言葉は、不器用ながらも、不思議な安心感をリナに与えた。
「…ありがとう…ございます」
リナは深くお辞儀をして、小走りで家へと帰っていった。
馬車の窓から、アレックスは彼女が扉を開け、中にいる誰かに向かって安堵の表情を見せるのを確認した。その時、彼の脳裏に、ルーカスの言葉が蘇る。
──弄んでなどいない。俺は、彼女に『夢』を与えた……──
アレックスは、リナの安堵の表情に、ルーカスの言葉が真実であると確信した。彼は静かに護衛兵に目で合図を送ると、馬車をそのまま停車させ、夜通し彼女の家を見守ることにした。
・・・・・
・・・
家に戻ると、リリーはまだ熱にうなされ、苦しそうに息をしていた。リナは、その小さな体を優しく撫で、額の濡れ布巾を取り替える。その様子を、心配そうに見つめる妹たちがいた。
「お姉ちゃん…どうだったの? 貴族様、怖かった…?」
泣き虫のルーナが、震える声で尋ねた。リナは、その問いに、微笑みを浮かべた。
「うん…すごく、怖い人だった。でもね…」
リナは、自分の指に残った、黒いインクの跡を見つめた。それは、この数時間で起きた、すべての出来事が夢ではないという証だった。
「…もう大丈夫。もう、誰も私たちを傷つけたりしない。お姉ちゃん、もう、誰にも、何も奪わせないから」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「リナ、また危ないことしたんじゃないの…?」
メイが、リナの腕に残った傷跡を見て、厳しい声で言った。リナは、メイの言葉に、ゆっくりと首を横に振った。
「違うの。これは…『チャンス』を掴んだ証拠」
リナは、震えながらも、希望に満ちた声で、妹たちに語り始めた。侯爵邸の煌びやかさ、ルーカスの底知れない笑み、そして、自分に与えられた「イコン」という、聞き慣れない言葉の意味。そして、何よりも、妹たちの命が救われるという希望を。
「だから、お腹を空かせることも、もうないの。リリーも、きっと良くなる。ね、信じてくれる?」
その時、寝床から、か細い声が聞こえた。
「…リナ、無理、してない?」
熱に浮かされ、まともに起き上がることすらできないリリーだったが、姉の声を聞きつけ、心配そうに顔を向けていた。その小さな額には汗が滲み、瞳はうつろだった。
「大丈夫よ、リリー。もう、痛い思いをしなくて済むから」
リナは、リリーの小さな手を握り、力強く微笑んだ。しかし、リリーは首を横に振った。
「…リナの方が、痛い。顔も、手が震えてる…。アタシ、知ってるんだからね。リナが笑う時、本当に楽しそうなのか、それとも、アタシたちのために頑張って笑ってるだけなのか」
リリーは、リナの冷えた手を、自身の熱い手で包み込む。
「…リナ、一人で背負わないで。全部、アタシたちに話して。…おせっかいだって思われるかもしれないけど、アタシ、リナが辛そうな顔をしてるの、見てられないんだよ」
彼女の言葉は、リナの胸に深く突き刺さる。リリーは、自分が苦しい時でさえ、誰かを気遣うことをやめられない、そういう人間だった。
「…リナが笑ってないと、アタシたち、笑えないんだから。だから…お願い。アタシたちを、一人にしないで」
リリーは、そう言って、リナの手をぎゅっと握りしめた。その小さな手から伝わる熱が、リナの心の奥底に燃え尽きそうになっていた炎を、再び燃え上がらせた。
「大丈夫。これは…もう二度と、私たちが弱いままではいられないための、おまじないだから」
リナがそう言うと、リリーは安心したように、再び眠りについた。
リナはルーナやココ、メイの方へと向き直り続けた。
「これからは、お腹を空かせることも、もうないの。リリーも、きっと良くなる。だから…信じて?」
リナがそう尋ねると、泣き虫のルーナが、小さな体をすり寄せてきた。
「お姉ちゃんが言うなら、信じる!」
その言葉に、リナの目に涙が滲む。しかし、メイだけは、まだ納得していないようだった。
「でも…本当に、大丈夫なの? リナ、一人でそんな大きな話に…」
メイの言葉は、リナの心を揺さぶった。彼女の言う通り、この取引は、あまりにも大きすぎる。しかし、リナにはもう、後戻りする道はなかった。
「信じるしかないの。もう…他に、私たちを救ってくれる人なんていないから」
リナは、静かにそう呟いた。その言葉に、妹たちは何も言えなくなった。ただ、姉の瞳に宿る、決して消えることのない強い光だけを、じっと見つめていた。
・・・・・
・・・
アレックスは、リナの家から少し離れた路地裏で、静かに一夜を明かした。夜の闇の中、彼は遠目にリナの家を見つめる。窓から漏れるわずかな光が、彼女たちのささやかな生活を照らしている。
「(…戦場での冷徹な判断も、文化で戦うという異端な発想も、根底は同じ。最小の犠牲で、最大の結果を掴む……)」
アレックスは、ルーカスの言葉を思い出していた。一人の少女の人生を賭けた、壮大な計画。それは、この貧しい路地裏の生活を、根本から変えようとする試みだ。
(俺は、これまで『戦』しか知らなかった。剣を振るい、敵を討ち、領地を拡大する。それが、この世界で男が果たすべき使命だと教えられてきた。だが、ルーカス様は違う。彼は、剣だけではなく、文化でも戦おうとしている。音楽、被服、そして…一人の少女の『夢』)
アレックスは、リナの瞳に宿っていた、あの純粋な渇望を思い出す。あれは、金品や権力への欲望ではない。ただ、愛する家族を護りたいという、切実な願いだった。
「…彼は、弱き者を護るために、自らを汚すことも厭わない。それは、傭兵稼業では当たり前だが、この世界を治める者がしていいことなのか……。だが、俺はあの男が正しいと知っている。あの時、あの地獄のような戦場で、その戦い方を見届けたからだ」
ルーカス様は、あの小さな火種を、王都を照らす炎にしようとしている。これは…俺のこれまでの常識を、覆すような戦いだ。だが、もし、それが本当に成し遂げられるなら…
彼の心に、わずかな希望が芽生える。ルーカスの異端な発想、驚愕の行動力、そして底知れない知識と魔術技術。彼は、その多くを間近で見てきた。そして、彼が率いる海兵隊の技術革新を、誰よりも肌で感じていた。ルーカスなら、本当にこの不確実な賭けを成功させることができるかもしれない。