第七十三話:旅立ちと見送る影
朝の光が、埃まみれの窓から差し込む。リナは、冷たい床の上で目を覚ました。昨夜の出来事は、まるで夢だったかのようだ。侯爵邸の煌びやかな灯り、ルーカスという底知れない男、そして、自分の指に刻まれた、あの黒いインクの跡。
(…夢じゃ、なかったんだ…)
リナは、自分の指に視線を落とした。そこには、あの時の誓いの証が、薄っすらと残っていた。鼻をくすぐるカビ臭い空気、隣で聞こえる妹たちの弱々しい寝息、そして、冷たい床から伝わる、骨まで凍てつくような寒さ。
胸の奥に、昨夜の男たちに金貨を奪われた時の絶望が蘇る。しかし、それ以上に、もう二度と家族を飢えさせないという、強い決意が燃え上がっていた。
「リナお姉ちゃん…」
隣で寝ていたルーナが、小さな声でリナを呼んだ。彼女の顔は、まだ眠たげだ。リナは、そっとルーナの頭を撫でた。
「お腹空いたね。でも、もう大丈夫だから」
リナはそう言うと、静かに立ち上がり、簡素な荷物をまとめ始めた。妹たちが使っていた、くたびれた毛布。リリーのために、街の薬草師からもらった、残り少ない薬草。そして、昨夜ルーカスからもらった、一枚のメモ。それだけが、彼女たちの全財産だった。
「どこへ行くの、お姉ちゃん…?」
メイが、警戒するような目でリナを見つめた。彼女の瞳は、いつもリナを心配している。
「新しい家よ。もっと、暖かくて、お腹いっぱいご飯が食べられる家」
リナがそう答えると、メイの顔に、わずかな安堵と、そして深い不安が混じり合った。
「でも…また、危ない目に遭ったら…?」
「大丈夫。今度は、きっと大丈夫だから」
リナは、メイの手を優しく握った。その手には、まだ土埃が残っている。彼女は、メイにすべてを話すことはできなかった。ルーカスという男が、どんな目的で自分たちを連れて行くのか。それは、まだリナにも分からなかったからだ。
「さあ、行こう。みんな、新しい家に」
リナは、そう言って微笑んだ。その笑顔は、かつてないほどに、強く、そして、優しかった。
夜が明け、街の喧騒が再び王都に満ち始めた頃。リナは、簡素な荷物を抱え、妹たちと共に家を出た。リリーはまだ熱にうなされていたが、不思議と昨晩より顔色は良かった。メイは不安げな表情で周囲を警戒し、ルーナとココは、見慣れない光景に目を丸くしている。
外に出ると、家の前から少し離れた場所に、昨夜と同じ質素な馬車が停まっていた。そして、その横には、疲労を滲ませながらも、一糸乱れぬ姿勢で立つアレックスの姿があった。彼は、一晩中この場所で、彼女たちを護っていたのだ。
「…おはようお嬢さん方。さあ、乗れ。ルーカス様がお待ちだ」
アレックスの声は、普段の冷たさとは違い、どこか安堵を含んでいた。リナは、その言葉に深く頷くと、妹たちを連れて馬車に乗り込もうとした。
その時、アレックスは静かに言った。
「サントス伍長、彼女を運んでやれ。その荷物は、俺が持とう」
彼は、配下の女性兵士にリリーを運ぶよう命じ、自身はリナが抱える小さな荷物を、静かに受け取った。家の中には立ち入らないという命令を忠実に守りながらも、彼は彼女の負担を少しでも減らそうとしたのだ。リナは、その不器用な優しさに、わずかに目を見開いた。
「…ありがとう、ございます」
リナがそう言うと、アレックスは無言で頷き、リナと妹たちを馬車へと促した。彼らの間に、言葉はなかったが、互いの間に確かな信頼が芽生え始めていた。
馬車が走り出す。リナは、窓の外から見慣れた路地裏を眺めた。そこは、彼女が生まれ育った場所。苦しく、辛いことも多かったが、妹たちと生きてきた、大切な場所だった。
「(…さようなら。私の、過去…)」
リナは、心の中で静かに別れを告げた。彼女の瞳には、不安と期待が入り混じった、複雑な表情が浮かんでいた。
その頃、ゼオン・ド・フィアットは、朝のランニングを終え、汗を拭きながら、いつもの路地裏に足を運んでいた。彼は、毎朝、リナの無事な姿を確認するのが日課になっていた。しかし、今日の彼女の売り場は、いつもと違っていた。
「…リナさん?」
誰もいない。代わりに、見慣れない男たちが、リナの家の前で待機しているのが見えた。彼らは、黒い服に身を包み、身につけた軽鎧には、見慣れない紋章が刻まれている。ゼオンの心臓が、ドクン、と大きく脈打った。
(なんだ、あいつらは…! マフィアの連中か…?)
その時、家の扉が開き、リナと、彼女の幼い妹たちが、荷物を持って出てきた。彼らは、男たちの元へ向かい、男たちは、彼女たちを馬車へと促す。
「やめろ…! リナさんを放せ!」
ゼオンは、思わず叫んでいた。彼の声に、男たちが一斉に視線を向ける。その中に、一人の男がいた。彼は、厳つい顔つきで、ゼオンを睨みつけた。その男の体格は、周囲の兵士よりも一回り大きく、リーダー格に見えた。
「なんだ、貴様。ここは貴様のような人間が立ち入る場所ではない」
アレックスは、いつもの冷徹な口調で、ゼオンを突き放した。その瞬間、ゼオンの頭に血が上る。
「通りすがりの者だ! リナさんを放してやれ! 彼女に、何か手を出したら…!」
ゼオンは、彼に詰め寄った。その様子を見たアレックスは、わずかに眉をひそめ、リナに視線を向けた。
「この者は、知り合いか?」
アレックスの言葉に、リナは一瞬戸惑った。ゼオンは、自分に優しく接してくれた唯一の客だった。しかし、彼の親切は、どこか不自然で、彼女はいつも不信感を抱いていた。そして、何よりも、今、ここで彼が騒ぎを起こせば、ルーカスとの契約が、妹たちとの新しい未来が、すべて台無しになってしまうかもしれない。
「…いいえ、知りません!」
リナは、震えながらも、力強くそう叫んだ。その言葉に、ゼオンは絶句した。彼は、信じられないという目でリナを見つめた。
「リナさん、俺が分からないのか!? 俺は、いつも君の売り場に来ていた、クレヴィス…いや、ゼオンだ!」
ゼオンは、自身の身分を明かそうと、言葉を続けた。彼の顔色は、リナが自分を否定したことへの悲しみや戸惑いよりも、むしろ憤激の色に染まっていた。彼の瞳は、目の前の男を「リナを脅し、真実を言わせないようにしている悪人」として、一点の曇りもなく断定していた。
「俺は、フィアット子爵家の嫡男、ゼオン・ド・フィアットだ! この身分にかけて、彼女を奴隷にするような真似はさせん!」
ゼオンは、自身の身分を証明する紋章入りの印鑑をアレックスの目の前に突き出した。彼の言葉に、リナは再び驚きを隠せない。
リナは、ゼオンの芝居がかった熱意に、嫌悪感を覚えた。彼の視線は、妹たちを連れた自分を、まるで舞台の上の哀れなヒロインでも見ているかのようだ。彼の行動のすべてが、彼女の自立しようとする決意を、ただ踏みにじっているように感じられた。
「子爵家、ね」
アレックスは、眉一つ動かさずに、その印鑑を一瞥した。そして、自身の腰から、トレンス侯爵家の紋章が刻まれた銀のプレートを取り出し、ゼオンの目の前に突きつける。
「その者が何者であろうと関係ない。我々は、トレンス侯爵家の命を受け、彼女と交わした正式な契約に基づき行動している。これはその証だ」
アレックスの声は、冷たく、そして明確な拒絶の意を含んでいた。ゼオンは、その言葉に凍り付いた。トレンス侯爵家。近頃、最も勢いのある貴族の一つだ。そして、彼は、トレンス領の強引な改革や商会の取り潰しといった、不穏な噂を思い出した。すべては、トレンス侯爵家の息子、ルーカスが裏で糸を引いていると囁かれていた。
「そんな…! なぜ、リナさんが…!」
ゼオンは、怒りに震えながら叫んだ。彼の周りに、微かな熱が広がる。それは、彼がまだ自覚していない「ギフト」の、小さな兆候だった。
アレックスは、その熱に、わずかに眉をひそめた。この少年は、ただの坊ちゃんではない。危険な能力の萌芽を感じた彼は、警戒を強める。
「ふざけるな…! 貴様らのような奴らが、リナさんの夢を…未来を奪おうとしているんだ!」
ゼオンは、そう叫ぶと、怒りに任せてアレックスに拳を振り上げた。彼の拳は、何の躊躇もなく、アレックスの顔面を狙っていた。しかし、その拳は、まるで巨岩にぶつかったかのように、ピタリと止まった。
「……何?」
ゼオンは、自分の拳が、アレックスの掌に、まるで子供の力のように、簡単に受け止められていることに気づき、愕然とした。アレックスは、眉一つ動かさず、その拳を掴んだまま、静かに言った。
「貴族の子息ともあろう者が、路地裏で拳を振り上げるなど、みっともない真似はよせ。それがフィアット子爵家のやり方か?」
その言葉は、ゼオンのプライドを抉るようだった。彼は、自分の行動が、いかに軽率で、無様なものであったかを悟り、顔を赤くする。
「貴殿の正義感は理解する。だが、その正義感とやらを、このような場で振りかざすのは、少々乱暴すぎるのではないか? 貴殿が知るべきは、その少女が我々と交わした契約の重みだ。それは、貴殿の身分や、その軽薄な善意などよりも、遥かに重いものだ」
アレックスは、そう言うと、掴んでいた拳を静かに放した。その掌からは、彼の圧倒的な実力が伝わってくる。
「……ッ」
ゼオンは、何も言い返せなかった。彼は、自分の無力さと、そして、アレックスの言葉の真意を理解できなかった。彼はただ、悔しさに唇を噛みしめるしかなかった。
「もういい。行くぞ」
アレックスは、そう言うと、リナたちを馬車に乗せ、走り出した。ゼオンは、その場に立ち尽くすしかなかった。彼の瞳には、悔しさと、そして、リナを必ず取り戻すという、強い決意が宿っていた。
・・・・・
・・・
馬車は、王都の裏路地を抜け、次第に舗装された広い通りへと向かっていた。リナは、隣に座る妹たちの小さな手を握りながら、窓の外の景色を眺めていた。ゼオンとのやり取りは、彼女の心に重くのしかかっていたが、ルーカスとの契約、そして妹たちを救えるという希望が、彼女の心を支えていた。
「…あの…さっきの事ですが…」
リナは不安を抱えながら、誤解をとくように、アレックスに弁明しようとした。
「…先程の男は、本当に知り合いではないのか?」
沈黙を破り、アレックスがぽつりと尋ねた。彼の声は、先程の厳しさとは違い、どこか探るような響きを持っていた。
リナは、わずかに体を震わせ、首を横に振った。
「…知りません。ただ、時々、私の売り場に来て、物を買っていくだけの、変な貴族です」
リナは、そう答えると、握りしめていた拳にさらに力を込めた。その言葉は、自分を助けようとする唯一の存在を突き放す、彼女自身の心を深く抉っていた。
「…いつも、私の話を聞いてくれないんです。私が、大丈夫だって言っても、勝手に可哀想な人だと決めつけて…勝手に助けようとしてくるんです…。あの人の行動の全てが、私自身の決めたこと、私が選んだ道を、軽んじているように感じました」
彼女の言葉には、不信感と、そして自らの覚悟を揺るがされることへの苛立ちが混じっていた。
「…私は、もう大丈夫なんです。…だから、放っておいて欲しいんです」
最後に呟かれた言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「変な、か…」
アレックスは、そう呟くと、再び静かになった。リナは、その言葉に安堵を覚えた。彼女は、ゼオンとの間に、特別な繋がりなどないことを、アレックスに証明したかった。そうでなければ、ルーカスとの契約が、危険に晒されるかもしれないからだ。
「彼は、貴族のようですけど…」
リナは、不安を滲ませながら尋ねた。
「ああ。フィアット子爵家の嫡男らしいな。…だが、あの男の行動は、貴族としては些か軽率すぎる」
アレックスは、そう言うと、静かに目を閉じた。リナは、その言葉の意味を理解できなかったが、彼が、ゼオンのことを軽んじていることは分かった。そして、それが、自分にとって有利なことだと、直感的に感じた。
馬車は、侯爵邸へと向かって、静かに走り続けている。アレックスは、リナと妹たちの小さな寝息を聞きながら、先程の出来事を反芻していた。
(あの少年の力…思いのほか、強かったな)
彼は、左手を見つめた。掌に、かすかな熱が残っている。ゼオンの拳は、何の魔力も込められていなかったが、それでも、並の人間が持つ力とは一線を画していた。その一撃は、まるで彼の信念が物理的な力に変換されたかのように、不可解な力を持っていた。
(あれが何なのか、今は分からない。だが、脅威となるほどの力ではない。しかし…)
アレックスは、眉間に皺を寄せた。ゼオンの行動は、あくまで感情的なものだ。しかし、彼の行動は、今後のルーカスの計画に、思わぬ摩擦を生むかもしれない。彼は、この件をルーカスに報告すべきだと判断した。
・・・・・
・・・
侯爵邸、執務室
リナと妹たちが別室で休んでいる頃、アレックスは執務室に戻り、ルーカスに一部始終を報告した。
「…以上が、門外での一部始終です。フィアット子爵家の嫡男、ゼオン・ド・フィアットは、恐らく今後も、リナに接触を図るかと…」
アレックスは、そう言って報告を終えた。ルーカスは、ペンを回しながら、静かにアレックスの言葉を聞いていた。
「フィアット子爵家…聞いたことはあるな。派閥争いには関わらない、実直な家系だと」
ルーカスはそう呟くと、椅子に深く腰掛けた。
「しかし、彼が持つ、あの力…。現時点で、あれが何なのかは不明です。ただ、戦闘に特化した魔力でもなく、身体強化の魔法とも異なる。まるで、信念が力に変わるような、奇妙な感覚でした」
アレックスは、手のひらに残るかすかな熱を思い出しながら、正直にそう報告した。ルーカスは、その言葉に興味を示した。
「Hmm.信念が力に、か。面白いな」
彼は、そう言うと、静かに目を閉じた。
「Alpha。今しがたアレックスから報告があった、『信念を力に変える』 といった能力について、既存のデータと照合し、類例を検索せよ」
『該当するデータはありません。魔力による変異、あるいは未知の能力の可能性が高いと見られます。詳細な情報がなければ、特定は不可能です』
Alphaの声は、いつも通り無機質で事務的だった。ルーカスは、わずかに目を開け、思案する。
「そうか。未知の能力…か。まあいい。さしたる彼脅威でもないだろう。捨ておけ」
ルーカスはそう言うと、再びペンを手に取った。彼の関心は、すでに次の計画へと移っていた。ゼオンという存在は、ルーカスにとって、小さな石ころに過ぎなかった。しかし、その石ころが、いつか彼の計画を阻む、大きな障害となることを、この時のルーカスは知らなかった。
・・・・・
・・・
ゼオンは、その場で蹲り後悔していた。しかし、彼の胸の中では、リナを助けなければという強い使命感と、目の前の現実に打ちのめされた悔しさが、まるで溶鉱炉のように混ざり合っていた。
「くそ…! 俺に、もっと力があれば…!」
彼は、悔しそうに拳を握りしめた。彼の心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。その鼓動に合わせて、彼の体から、熱を帯びたオーラが放たれ、路地裏の冷たい空気を震わせた。それは、彼がまだ自覚していない「ギフト」の、小さな兆候だった。
ゼオンは、悔しさを滲ませながらも、リナが乗った馬車を目で追う。彼女を連れ去った男が誰なのか。彼は、その答えを、必ず突き止めると心に誓った。そして、リナを、彼らの手から必ず取り戻すと。
こうして、路地裏の少女は、侯爵家の馬車に揺られ、新たな運命へと向かって走り出した。そして、彼女の運命は、新たな対立の火種を、王都に撒き散らしていた。