第七十四話:新たな生活と戸惑い
馬車が止まり、リナはゆっくりと目を開けた。そこは、王都の喧騒から隔絶された、静かで広大な庭園に囲まれた邸宅だった。馬車を降りると、彼女たちを迎え入れたのは、厳格な表情をした初老の女性だった。
「ようこそ、トレンス侯爵家王都別邸へ。私が、この屋敷のメイド長、ヒルダでございます」
ヒルダと名乗ったその女性は、深々と頭を下げた。しかし、その態度は礼儀正しいものの、どこか冷たい事務的な響きを持っていた。リナは、その威圧感に、思わず身を固くした。
リナの後ろ、馬車から降りてきたのは、アレックスの部下である鎧姿の女性兵士、サントス伍長だった。彼女は、行軍の間ずっと、発熱しているリリーを慎重に抱きかかえていた。リリーは、サントスという屈強な女性の腕の中で、ぐったりとしている。
「そちらのお嬢様がリリー様ですね」
ヒルダは、サントス伍長に抱えられたリリーに視線を向けた。
その言葉に、リナが戸惑っていると、一台のストレッチャーが素早く馬車に近づいてきた。
「ファリナ殿。リリー様の引き継ぎを」
ヒルダは、その場に立っていた軍服姿の女性に声をかけた。彼女は、トレンス侯爵家の紋章と金色の鷲と円形と錨、武器のような物が刻まれたパッチを着け、見慣れない服を身につけていた。その指示に、リナだけでなく、周りの使用人たちもわずかに顔をこわばらせた。王都別邸に、海兵隊が駐屯しているなど、彼らにとっては前代未聞の事態だった。
「かしこまりました。すぐに医務室へ搬送します」
ファリナと名乗ったその女性は、サントスの腕からリリーをそっと受け取ると、ストレッチャーに横たわらせた。その動きは、無駄がなく、的確で、まるで訓練された獣のようだった。彼女は、ヒルダにすら、わずかな緊張感を感じさせるほどの手際で、リリーの容態を素早く確認し、指示を出していく。
「バイタルに問題ありません。熱も、安定しております。そのまま医務室へ」
「了解しました。中尉殿」
ファリナの指示に、別の衛生兵が敬礼しストレッチャーを運び始めた。その背中を見送り、ヒルダは、初めてリナに視線を戻した。
「さあ、お嬢様方。まずは、身を清めていただきます。お食事はその後で」
ヒルダは、そう言うと、彼女たちを屋敷の中へと促した。彼女の態度に、リナはわずかながら安堵を覚えた。リリーのことが気になったが、プロフェッショナルな衛生兵の手際を見て、今は彼女に任せるべきだと直感的に感じた。
・・・・・
・・・
メイドたちに案内されたのは、路地裏の家とは比べ物にならないほど広々とした湯殿だった。壁には磨かれた大理石が張られ、床には温かい湯気が満ちている。部屋の中央には、二人が足を伸ばしても余裕があるほどの大きな浴槽が置かれていた。湯面からは甘い香りが立ち上り、かすかに揺れる光が、疲れた心を解きほぐしていくようだった。
「(…これが、貴族の暮らし…)」
リナは、湯殿の入口で、湯の美しさと香りに、ただ息をのんだ。妹のルーナとココは、湯に浮かぶ泡を掌で掬い、遊び道具にしている。メイは、まだ不安そうな顔をしていたが、湯の温かさと、石鹸の心地よい香りに、少しずつ表情を和らげていった。
「お嬢様、どうぞこちらへ」
そう促したのは、まだ年若い、見習いらしいメイドだった。彼女は、リナの手に白い塊をそっと乗せた。
「これは…?」
「石鹸でございます。この白い塊を体に擦り付けると、泡が汚れを洗い流してくれます」
リナは、おそるおそるその石鹸を濡れた肌に当てた。すると、ふわりと柔らかな泡が立ち上がり、甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。それは、路地裏で嗅いだことのない、清潔で心休まる匂いだった。
「お姉ちゃん、リリーもこれ、できるかな…?」
ルーナが、小さな声でリナに尋ねた。リナは、その言葉に、胸が締め付けられるような思いがした。リリーは、まだ熱にうなされ、医務室で休んでいる。この温かい湯と、優しい香りを、彼女にも感じさせてあげたかった。
若いメイドたちは、驚きに目を丸くするリナをよそに、大きな布を手にテキパキと体を洗い始めた。肌についた長年の土埃や煤が、白い泡に包まれては、あっという間に流れ落ちていく。リナは、まるで自分の体から、過去の辛さや絶望が溶け出していくような感覚を覚えた。
その時、見習いメイドの一人が、リナの顔を見て、はっとしたような表情を見せた。
「あの…妹様、すぐに良くなりますよ」
彼女はそう言うと、少しはにかむように微笑んだ。
「ルーカス若様のお連れされたお医者様は、とても腕の立つ方だと評判です。そして、お風呂も、とても気持ちが良いので、きっとすぐに、一緒に湯船に浸かれるようになりますよ」
その言葉は、ヒルダのような事務的な響きとは違い、素直な善意に満ちていた。リナは、その温かい言葉に、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
湯から上がり、新品の柔らかい衣類に着替えさせられると、鏡に映った自分たちは別人のようだった。土埃にまみれていた顔は、わずかに血色を取り戻し、髪も梳かれ、清潔な服に包まれている。
「お姉ちゃん、きれい…」
ルーナが、目を丸くしてリナを見つめた。リナは、その言葉に、わずかに頬を染めた。彼女は、今まで自分たちがどれほど不潔で、人としての尊厳を奪われていたかを痛感すると同時に、この新しい環境が、自分たちにもたらす可能性に、希望を見出した。それは、身分や立場とは関係なく、誰もが持つべき尊厳を、ほんの少しだけ取り戻した瞬間だった。
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・・・
リナと妹たちは、食堂へと案内される前に、まず医務室へと向かった。医務室は、屋敷の他の部屋とは異なり、無機質な金属製の棚や、見たこともない奇妙な装置が並んでいた。特に、部屋の隅には、小型の動力炉のようなものがかすかに青い光を放っており、その存在自体が未知の技術を感じさせた。
「リリー…!」
リナは、ベッドに横たわるリリーの姿を見て、思わず駆け寄った。リリーの小さな体には、透明な管が繋がれ、腕からは別の管が伸びて、奇妙な機械へと繋がっている。機械は、かすかな音を立て、透明な液体をゆっくりとリリーの体へと送り込んでいた。
「大丈夫だよ、お嬢ちゃん」
ファリナは、リリーの腕から伸びる管を確認しながら、優しい声で話しかけた。
「点滴っていうんだ。栄養と薬を直接体に入れるから、早く元気になる。これを使えば、どんなに弱っていても、不思議と熱が下がって、元気になるんだ。だから安心して」
その声は、まるで母親か、優しい姉が聞かせる子守唄のようだった。ファリナは、リナの不安を察すると、そっとリリーの頭を撫でた。
「若様はね、この治療器具を『この世界をより良い場所にするための最初の一歩』って言ってる。だから、この器具も、薬も、何もかもが最上級なんだ」
彼女は、ルーカスを尊敬するまなざしでそう語った。その言葉は、リナが感じたルーカスの冷たさとは違う、温かさに満ちていた。
「この子は、若様が見つけ出した、希望の種だから。私たちが、大切に育てなきゃ」
ファリナはそう言うと、リナに笑顔を向けた。その笑顔は、リナの胸に、大きな安堵と、この場所への信頼を与えてくれた。
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一行はそのまま、食事の部屋へと案内された。リナは、テーブルに並べられた料理を見て、内心、期待で胸を膨らませていた。しかし、そこに並んでいたのは、豪華な肉料理やパイなどではなく、温かい野菜のポタージュと、柔らかいパン、そして、ミルク粥だった。
「……これだけ?」
メイが、がっかりしたような表情で呟いた。リナもまた、内心で同じ気持ちだった。しかし、ヒルダは、そんな彼女たちの気持ちなどお構いなしに、淡々と言葉を続けた。
「あなた方の体は、長年の栄養不足により、衰弱しております。いきなり栄養価の高いものを摂取すれば、かえって体を壊しかねません。まずは、この食事で、少しずつ体を慣らしていただきます」
ヒルダの言葉は、冷たく突き放すようだったが、その中に、彼らの健康を気遣う思いが込められていることを、リナは感じ取った。
リナは、おそるおそるスプーンを手に取り、ポタージュを口に運んだ。それは、路地裏でごく稀に手に入れた、塩辛いだけの、水っぽいスープとは全く違っていた。驚くほど舌触りが優しく、野菜の持つ甘みが奥深く、滋味が体に染み渡るのが分かった。飢餓に慣れていた胃が、まるで赤子のように優しく包み込まれるような感覚。
彼女たちの体に、温かいスープが染み渡っていく。
その時、厨房の扉が開き、一人の男性が顔を出した。大柄な体格で腕組みをしたまま、彼女たちをじっと見つめている。彼は、この侯爵邸の料理人、マルセルだった。
「お前たちが、ルーカス様がお連れになった客人か」
マルセルは、静かにそう呟くと、湯気を立てる別の皿を手に取り、彼女たちの目の前に置いた。ヒルダが用意した食事は、テーブルにそのまま残っていた。
「……何?」
リナが戸惑うと、マルセルはぶっきらぼうに言った。
「この料理は、腹を空かせた小娘どもに、栄養を補給するためのものだ」
彼の言葉は冷たかったが、その瞳には、彼なりの優しさが宿っていた。
「このマルセルが、特別に用意した。同情などしない。お前たちは、若様の客だ。ならば、最高の料理で、その体と心を温めてやるのが、私の務めだ」
彼は、リナたちを同情の眼差しで見るのではなく、まるで対等の客として扱っていた。リナは、彼がヒルダとは違う種類の優しさを、自分たちに示していることを感じ取った。それは、上から見下ろすような親切ではなく、一人の料理人としてのプライドと、彼女たちへの敬意が混じり合ったものだった。
マルセルが用意した皿には、細かく刻まれた野菜と、ほぐした魚の身を煮込んだ、滋養のあるシチューが盛られていた。それは、まるで琥珀のように透き通った、濃い汁で覆われていた。煮込まれた肉の匂いが強烈に食欲を刺激し、リナは思わずゴクリと喉を鳴らした。
リナは、震える手でそれを口に運んだ。汁は驚くほど濃厚で、唇がわずかに張り付くような粘り気があった。口に入れると、温かさと共に、骨の芯から溶け出したような、深い塩気が広がった。
「おいしい…」
メイが、目を潤ませながら呟いた。リナは、その言葉に、静かに頷いた。彼女には、それがどんな高級な料理かは分からない。だが、自分の体が、そして妹たちの小さな体が、「これは、ただ生きるための食べ物ではない」と叫んでいるのを感じた。それは、自分たちが初めて手にした、「人間の尊厳」の味がした。
彼女は、この侯爵邸に、ヒルダのような冷徹なメイド長だけでなく、マルセルのような、不器用だが温かい心を持った人間もいることを知った。そして、そのことが、彼女の心に、わずかな安堵と、新しい生活への希望を与えたのだった。
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食事を終え、リナは妹たちと共に、用意された部屋へと向かった。そこは、路地裏の家とは比べ物にならないほど清潔で、温かい場所だった。部屋には、フカフカの厚い絨毯が敷き詰められ、何よりも、中央に置かれた大きなベッドが、彼女たちを呼んでいるようだった。
リナは、おそるおそるそのベッドに腰掛けた。体を沈ませる羽毛の柔らかな感触は、硬い床で寝ていたリナたちにとって、生まれて初めての体験だった。彼女が横になると、清潔なシーツの匂いが鼻をくすぐり、カビや湿気の臭いはどこにもない。
しかし、リナの心は、まだ安らぎを得られずにいた。
「…私たちが、ここにいていいのかな…」
リナは、不安を滲ませながら呟いた。
「お姉ちゃん…」
メイが、リナの服をそっと握った。彼女の顔には、まだ不安が残っていた。しかし、リナは、メイの手を優しく握り返すと、決意を新たにした。
「大丈夫。私たちは、もう、二度と飢えることはないんだから」
リナはそう言うと、妹たちを抱きしめた。彼女の決意は、少しずつ、この新しい生活に適応しようと、固まっていく。
その夜、夕食を終えた後、リナはルーカスの執務室に呼び出された。部屋に入ると、彼は椅子に腰掛け、書類に目を落としていた。
「ルーカス様…お呼びでしょうか」
リナが緊張した声で尋ねると、彼は書類から顔を上げた。その瞳が、リナを頭からつま先まで一瞥した。
「ああ。だいぶマシな見てくれになったな。ようやく、契約を履行する準備ができたようだ」
ルーカスは、そう言って不敵に笑った。その言葉は、まるでからかっているかのようだったが、リナは彼の言葉の裏に、かすかな満足感を感じ取った。
「さて、明日から早速、体力錬成と基礎訓練を始める。お前の体は、長年の栄養不足で、まるで使い物にならない。まともに踊ることも、歌うこともできまい。まずは、その体を、俺の命令通りに動く『道具』へと変えてやる」
ルーカスの言葉に、リナは息をのんだ。彼の言葉は、冷たく、そして明確だった。しかし、彼女は、その言葉の裏に隠された、彼の強い決意と、自分への期待を感じ取っていた。
「そして、もう一つ、お前に話がある。…お前の妹達、リリー含め、明日からこの屋敷に滞在させる」
リナは、その言葉に、信じられないという表情でルーカスを見つめた。
「彼女は、熱を出しているそうだな。この屋敷には、専属の医師がいる。彼らに、お前の妹の治療を任せる。もちろん、治療費は、お前の将来の収益から、きっちりと差し引いておくがな」
ルーカスは、そう言って、再び書類に目を落とした。彼の言葉は、あくまでビジネスライクだったが、リナは、その言葉が、自分たちの命を救い、新しい未来への切符を与えてくれたことを理解していた。彼は、自分たちの命に、値札をつけた。しかし、それは、路地裏で金貨を奪われた時のような絶望ではなく、自分たちの命に価値があると認めてくれた、彼なりの証明だった。
「ルーカス…様…」
リナは、言葉を失い、ただ深く頭を下げた。彼女は、この男が、自分たちの命を、そして未来を、救ってくれたことを知っていた。
「礼は必要ない。これは、俺の投資だ。お前には、その投資に見合うだけの成果を出してもらわなければ困る。これからお前に施す訓練は、並大抵のものではない。お前が路地裏で生き抜くために使ってきた『すべて』を忘れて、『俺の道具』として生まれ変わる覚悟を固めておけ。…さて、下がっていい。明日、改めてエレノアから、訓練の予定を伝えさせる」
ルーカスは、そう言って、再び書類に視線を戻した。リナは、その言葉に再び深く一礼し、静かに執務室を後にした。
彼女の心には、恐怖と、そして、この男の期待に応えなければならないという、強い使命感が燃え上がっていた。その背中に、これから待つ苦難と、妹たちの未来をかけた重圧がのしかかっていたが、リナはもう、立ち止まることはなかった。