剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第七六話 偽装された糸の解読

 

第七十六話:決意と新たな始まり

 

 

ゆっくりと、まぶたの裏に朝の光が滲むのを感じた。

目が覚めると、数秒間、自分がどこにいるのかが分からなかった。天井は高く、装飾が施されている。身体の下には上質なシーツ。鼻をくすぐるのは、路地裏の埃や生ゴミの匂いではなく、清潔で優しい香りだ。身体の芯から力が抜けるような、完全な安心感。

 

(ここは……ルーカス様の邸)

 

リナは、そっと身体を起こした。隣の大きなベッドには、妹たちが寄り添うように眠っていた。

ルーナも、ココも、メイも、皆、深く、穏やかな寝息を立てている。いつもは小さな物音にもすぐに反応し、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた彼女たちが、今は完全に警戒心から解放されている。その安らかな寝顔は、昨夜、ルーカス様が自分たちに与えてくれた「命の安寧」を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

(リリー……)

 

リナは、静かにベッドを降りた。リリーの姿は、この部屋にはない。昨夜、ルーカス様から告げられた通り、彼女は医務室で、治療を受けている。あの、奇妙な機械と薬で、きっと熱を下げているはずだ。

そして、リナは、医務室で見た光景を思い出した。

奇妙な機械と繋がれながらも、ファリナと名乗る女性に優しく見守られ、眠っていたリリー。ファリナは「点滴」という治療器具が、どんなに弱った体でも元気にすると、優しく説明してくれた。

 

(大丈夫。リリーは、あの素晴らしい器具と、お医者様に護られている)

 

リナは、胸に手を当てて深く息を吐いた。身体に染みついた警戒心は、まだ完全には抜けないが、妹たちが護られているという事実が、彼女の心を支えた。

リナは、新しい服に着替え、窓辺に立つ。王都の朝焼けが、ガラス越しに柔らかく光っていた。

 

昨夜、ルーカス様の執務室で交わした言葉が、冷たい鋼のように心に突き刺さっていた。

 

――礼は必要ない。これは、俺の投資だ。お前には、その投資に見合うだけの成果を出してもらわなければ困る。

明日から早速、体力錬成と基礎訓練を始める。お前の体は、長年の栄養不足で、まるで使い物にならない。まともに踊ることも、歌うこともできまい。まずは、その体を、俺の命令通りに動く『道具』へと変えてやる――

 

彼は、自分たちの命に、値札をつけた。それは、あの奪われた金貨の代わりに、彼女の「未来の価値」を担保にした、明確な契約だった。金品はまだ戻っていない。彼が路地裏でどれほど冷酷な報復を行ったかなど、知る由もない。リナが抱えているのは、妹たちの未来という重圧と、ただ一つ、「強くなる」という固い決意だけだ。

 

(わたしは、選んだ。もう、後戻りはできない)

 

彼女の背には、妹たちの命と未来がかかっている。この投資に見合う「道具」にならなければ、再び全てを失うだろう。恐怖ではない、強い使命感が、彼女の全身を熱くさせた。

 

妹たちの安らかな寝顔をもう一度見つめ、リナは静かに部屋を後にした。もう、立ち止まることはできない。ルーカス様が待つ執務室へ向かう一歩は、恐怖ではなく、自ら選んだ運命への確かな前進だった。

 

廊下を進むうち、向こうから一人の女性が歩いてくるのが見えた。柔らかな微笑みを浮かべた、昨夜ルーカスの側にいたエレノアだ。

 

「ああ、リナ。おはようございます。ちょうどお迎えに上がろうとしていたところでした」

 

エレノアは、そう言って優雅に微笑んだ。その顔には、嘲りや侮蔑の影は微塵もない。ただ、リナという少女の未来を導こうとする、穏やかな決意が宿っているように見えた。

 

「おはようございます、エレノア様…」

 

リナは、緊張しながら頭を下げた。

 

「昨夜は、ゆっくりお休みになれましたか。妹さんたちも、今は安心して眠っているようですね」

 

「はい…おかげさまで。リリーも、医務室で…」

 

「ええ、リリーについてはご安心ください。ファリナがついております。さて、ルーカス様がお待ちです。参りましょう」

 

エレノアは、そう言ってリナの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。その落ち着いた優雅な立ち居振る舞いは、リナの緊張をわずかに和らげた。

 

やがて二人は、別邸の奥、重厚な扉の前に辿り着いた。エレノアの背後で、リナは再び静かな緊張に包まれる。この扉の向こうに、自分たちの未来の全てを握る、あの冷徹な少年がいるのだ。

エレノアは扉をノックすることなく、優雅にノブに手をかけ、リナに先導を促すようにそっと扉を開けた。

リナが侯爵邸の執務室の扉を開け、中へ入る。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

侯爵家が王都に構える別邸の執務室は、書類の山と、壁一面に広がる魔法陣の設計図で埋め尽くされていた。

ルーカスは、ソファに深々と腰掛け、カップから立ち上る湯気を眺めていた。その表情は、昨夜の冷酷なものとは異なり、どこか退屈そうに見える。彼の足元には、ルーカスの影に寄り添うようにして、クインが静かに伏せている。彼の向かいには、リナが恐る恐る椅子に腰かけていた。彼女はまだ、昨夜の恐怖と興奮が混じり合っていた。

 

(どうか、彼の言葉が……冷たい契約だけではない、優しさであって欲しい)

 

「……ルーカス様。昨日は、本当にありがとうございました」

 

リナは、絞り出すような声で言った。彼女が自分のためにあそこまでしてくれたことに、感謝の念をどう言葉にすればいいか分からなかった。

 

「感謝?…Heh。勘違いするな、リナ」

 

ルーカスは、口元を歪め、鼻で笑った。その笑みは、リナの感謝を、まるで何の価値もないもののように一蹴していた。

 

「私はただ、投資の見返りを回収する準備に過ぎない。お前たちが不当に奪われた金は、私が以前お前たちに与えたものだ。それを回収するためには、お前という原石を磨かかねばならん。それだけの話だ」

ルーカスは、カップをソーサーに戻すと、冷たい視線を彼女に向けた。

 

リナは、その言葉に、わずかに肩を震わせた。彼女が抱いていた淡い期待は、ルーカスの冷徹な言葉によって、一瞬にして打ち砕かれた。言いようのない空虚感を覚えた。

 

「だが、お前が私に『感謝』を捧げるというなら、それも悪くない。…さて、本題に入ろうか」

 

ルーカスは、そう言って、机の上の書類を一枚取り上げた。それは、様々な衣服のデザイン画と、ファッションブランドの事業計画書だった。

 

「お前は、この街で生きるには弱すぎる。ゴミのような連中に、何度も大事なものを奪われてきただろう?それは、お前自身が弱いからだ。そして、弱者は、いつか必ず『餌』になる」

 

ルーカスの言葉に、リナは唇を噛みしめた。否定したくても、昨夜の出来事が、その言葉の正しさを突きつけていた。

 

「だからこそ、お前を強くする。…正確には、お前を『有益な道具』へと再構築する。私にとって、何の利益も生み出さない『道具』に、存在価値はないからな」

 

ルーカスは、容赦のない言葉を続けた。彼の脳内では、すでにリナを起点とした新たなプロジェクトの青写真が描かれていた。

「お前には、これから王都での『イコン』となってもらう」

 

リナは、何を言われているのか理解できなかった。「イコン」という言葉も、それが何を意味するかも分からなかった。

 

「お前のような、路地裏の孤児が、侯爵家の庇護のもと、美しく着飾り、歌と踊りで人々を魅了する。それは、この王都の民衆にとって、夢と希望に満ちた『灰被りの奇跡』だ」

 

ルーカスの言葉に、リナは目を丸くした。それは、彼女が夢見たこともない、遥か遠い世界の話だった。

 

「お前は、これから歌と踊り、そしてファッションを宣伝する『顔』となる。そのためには、まず、その弱くて貧弱な身体を叩き直す必要がある」

 

その時、ルーカスの頭の中に、Alphaの声が響いた。

『個体「リナ」の身体組成、栄養状態、筋力の分析完了。基礎体力訓練プログラムの実行を推奨』

 

ルーカスは、Alphaの機械的な分析を無視するように、リナに告げた。

 

「さあ、選べ。このまま弱いまま、誰かのゴミになるか。それとも、私の『道具』として、生きる道を選ぶか?」

 

リナは、ルーカスの言葉に、再び恐怖に震えた。しかし、彼女の脳裏に浮かんだのは、昨夜、泣きながら金品を奪われた少女たちの姿だった。そして、彼女たちのために、何一つ出来なかった、無力な自分自身の姿だった。

 

(…私は、もう誰も、何も、失いたくない…!)

 

リナは、固く拳を握りしめ、顔を上げた。その瞳には、恐怖ではなく、強い決意の光が宿っていた。

 

「…お願いします。ルーカス様。私を、あなたの『道具』にしてください。…私は、強くなりたい。もう、誰も傷つけられたくないんです!」

 

リナの言葉を聞くと、足元で伏せていたクインが、立ち上がってルーカスを見つめ、「クゥン」と甲高く鳴いた。まるで、リナの言葉に同意し、何かを訴えかけるかのように。

ルーカスは、その様子に一瞬だけ視線を向けた。

 

「賢明な選択だ。…では、契約成立だ。アレックス」

 

「了解しました閣下。仰せのままに」

アレックスは、そう言って敬礼した。

 

傍らのベリルはクインの行動を見て微笑んだ。

 

「どうやら、こいつも参加したいみたいですよ、ルーカス様」

 

ベリルは、そう言って、クインの頭を優しく撫でた。クインは、ベリルに撫でられながら、満足げに尻尾を振った。

 

「こいつなりに、新たな妹分が群れに加わった、とでも思っているのでしょう。…私がついててやるぜ、と言った所でしょうか」

 

ベリルは、そう言って冗談めかしたが、その表情には、クインがリナを本物の仲間として受け入れていることを確信している、穏やかな光があった。

 

ルーカスは、そんな二人の様子を無言で見ていた。彼の計画には、この獣人が絡む余地はなかった。しかし、彼らの間に生まれた、理屈では説明できない「絆」のようなものが、彼の冷徹な計画に、意図せずとも人間的な要素を加えつつあった。

 

「リナ。今日から、地獄の訓練が待っている。覚悟しろ」

 

アレックスは、そう言ってリナに歩み寄った。

 

リナは、アレックスの言葉に、再び全身の震えを感じた。しかし、その震えは、恐怖からではなく、未知の未来に対する期待と、ほんのかすかな高揚感からだった。そして、足元でクインが自分を見つめ、静かに尻尾を振っているのを見て、彼女は少しだけ勇気が出た。

 

 

その時、執務室の扉が、ノックもなしに勢いよく開かれた。

 

「ルーカス、クインの首輪の調子が……って、何だ?この子は…」

 

若草色の髪を持つ少年、クライスが、部屋に入ってくるなり、リナに視線を向けた。彼の瞳は、リナの姿を捉えた瞬間、まるで時間が止まったかのように、ぼーっとした表情に変わった。

 

「クライス。ノックぐらいしろと何度言ったらわかる?」

 

ルーカスは、呆れたように言った。しかし、クライスはルーカスの言葉が耳に入っていないかのように、ただリナを見つめ続けている。

 

「おい、クライス。聞こえているのか?」

ルーカスは、クライスの頭を軽く小突いた。その瞬間、クライスは我に返ったように、慌ててルーカスに顔を向けた。

 

「あ、ごめんルーカス。…えっと、この子は…?」

「彼女は今日から、この屋敷の新しい客人だ。…さて、リナ。クライスには後で挨拶させよう。アレックス。彼女を庭に連れて行け。サントスには後で合流させろ。簡単な準備運動からだ」

 

ルーカスは、扉の外に控えていたアレックスに指示を出した。アレックスは、その言葉に静かに頷き、リナを促した。

「さあ、お嬢さん。参りましょう」

 

リナは、まだ戸惑いながらも、アレックスに連れられ、執務室を後にした。

部屋に残されたクライスは、未だにぼーっとしていた。

 

「…おい、クライス。お前、いつまでそこに立っているつもりだ?」

 

ルーカスがそう言うと、クインが立ち上がり、クライスの足元に擦り寄って「クゥン」と甘えるような声を上げた。

 

「クイン…ごめん、今日の調整はまた今度にしてくれるか…」

クライスは、そう言ってクインを撫でたが、その瞳は、まだリナがいた場所を彷徨っていた。

 

「お前、惚れたのか?」

ルーカスの単刀直入な言葉に、クライスは顔を真っ赤にした。

 

「な、何を馬鹿なことを…!そんなわけないだろ!」

 

「Heh。そうか。ならいい。エレノア、どう思う?」

 

ルーカスは、傍らに控えていたエレノアに話を振った。エレノアは、クライスの様子を一瞥すると、穏やかに微笑んだ。

 

「そうですね。クライス様のお気持ちは、とても分かりやすいかと存じます。…ただ、お顔が真っ赤なこと、そして無意識にクインの首輪の魔力調整術式をいじってしまっていることから、心ここにあらず、といったところでしょうか」

 

エレノアは、皮肉を込めて、しかし優雅な言葉でクライスを指摘した。クライスは、エレノアにまで看破されたことにさらに顔を赤くし、慌てて手に持った首輪を隠そうとした。

 

「な、なんでそれを……!エレノアさんまで、ルーカスと一緒になって俺をからかうなよ!」

 

クライスは拗ねたように言った。それに追従するように、ベリルも何処か意地悪げな表情で、クインの頭を優しく撫でながら静かに言った。

 

「クインが声をかけても聞こえないほど、クライス様の心は遠くへ行ってしまったようですな。まるで、獲物の香りを嗅ぎつけたばかりの、若い狼のように」

 

「ベリルさんまで!」

 

ルーカスはそんなクライスの様子を見て、愉快そうに口角を上げた。

 

「からかっているわけではない。事実を述べているだけだ。お前はわかりやすすぎる。それに、そんな無意識で調整したものが、まともに動くと思うか?」

 

ルーカスはそう言って、クライスの手から首輪を取り上げた。

 

「…クソ。やっぱりめちゃくちゃだ」

 

クライスは、自分の情けない姿にうなだれた。

「まあいい。どうせ、クインの大型化を検知した観測魔術が、首輪の魔力的な特徴を捉えようとして、調整が乱れたのだろう。それに、この首輪も、王都入りで一度しか使わないつもりだったからな。あとは、もっとまともな、安定した形態維持の魔導具を作る。お前のその『恋煩い』とやらが、開発の妨げになるなら、リナの訓練を一日中、間近で見せてやるぞ」

 

ルーカスはそう言い放った。クライスは、その言葉に顔をさらに赤くした。

 

「なっ!…それは、その……」

 

「後悔する前に、自分の感情と向き合え、クライス。お前はただのエンジニアではなく、大切な仲間だ。そして、お前が誰かを護ろうとすることは、俺がこの領地を護るのと同じくらい、大切で、誇らしいことだ。その気持ちは、絶対に馬鹿にされるもんじゃない」

 

ルーカスは、いつもの皮肉めいた表情から一転、どこか真剣な面持ちで言った。その言葉の裏には、前世で愛を知らずに育ったルーカスだからこそ理解できる、不器用な優しさが隠されていた。

クライスは、ルーカスの言葉に何も言い返すことができず、ただ静かに、その言葉を心に刻み込んだ。彼は、その胸に生まれた、リナへの「守りたい」という感情を、誰にも言えない秘密として、大切に心にしまい込んだ。

 

 

「さて、クインの首輪の調整だ」

ルーカスはクライスとエレノアを呼び寄せた。

 

「この首輪は、王都入りでの一時的な使用に過ぎなかった。もっと安定して、かつ継続的に小型化を維持できる魔導具が必要だ。クライス、お前の作った『フェンリル・フォームコントローラー』は、基礎としては優秀だ。だが、調整が不安定で、クインに負担をかけた。この問題点を洗い出し、もっと安定したものを開発する。エレノア、魔力的な制御に関する助言を頼む」

 

クライスは、先日の失態を思い出し、顔を赤くしながらうなずいた。エレノアは、クインを優しく撫でながら、静かに言った。

 

「ルーカス様。クイン訓練兵は、この魔導具を装着している間、意識的に自身の魔力と身体を制御する必要があります。しかし、王都のような魔力場の変動が激しい場所では、無意識のうちに制御が乱れる可能性も否定できません。魔力供給の安定化と、外部魔力場の干渉を遮断する結界術の併用を推奨します。特に、首輪に埋め込まれた魔晶石の術式を、小型化に特化したものに再構築し、クイン自身の生命エネルギーと同期させることで、より安定した形態維持が可能になるかと存じます。クライス様が開発された『フェンリル・フォームコントローラー』は、その基礎となる魔力流路を確立しているため、極めて有望です」

 

エレノアは、専門家らしい的確なアドバイスを続けた。クライスは、その言葉に目を輝かせながら、自身の魔道具の設計図に熱心にメモを書き込んでいく。

 

「なるほど!それなら、魔晶石の配置をここに変えて、さらに魔力遮断のミニチュア術式を組み込めば……」

 

クライスは、リナのことが頭から離れていないようだったが、エレノアのアドバイスと新たな研究テーマに、すっかり集中しているようだった。ルーカスは、そんな二人の様子を満足げに見つめていた。

 

「OK。これで、クインの負担も減るだろう。クライス、新しい首輪の完成を待っているぞ。ただし、今度こそ、もっとマシな名前を考えろ」

ルーカスはそう言って、クライスの肩を軽く叩いた。

「今度こそは頼む。逆立ちしたって出てこねぇ、悪趣味なネーミングセンスは、もう勘弁だ。こいつはこの首輪における最大の欠点…いや汚点だからな」

 

「うるさいな!ルーカスのネーミングだって、いつも機能そのまんまじゃないか!『装甲強化服』だの、『汎用なんちゃら〜』だの、『河川特殊輸送艇』だの、ひねりも何もないだろ!」

 

クライスは顔を真っ赤にして反論した。

「Tsk、うるさい。機能そのまんまのほうが、何に使うか一発でわかるだろう。それに、『装甲強化服』は防御とパワーアシストを両立した機能美の結晶だ。『汎用ドローン』も然り。お前がつけた『フェンリル・フォームコントローラー』は、聞いただけで三日三晩吐き気がする。その吐き気を治す薬を、お前が開発したネーミングセンスで飲み下せるわけがないだろう」

 

ルーカスは真顔でそう言い放った。クライスは悔しさで唇を噛み締めた。その様子を見ていたエレノアが、微笑ましく二人を見つめて、静かに口を開いた。

 

「まあまあ、お二人とも。ご自身のネーミングセンスを主張なさるのは、その成果に自信があるからこそ。それは、とても素晴らしいことではないですか」

 

エレノアの言葉は、まるで姉が弟たちの喧嘩を仲裁するようだった。二人はハッと我に返ると、互いに顔を背けた。

 

「……別に、喧嘩してるわけじゃないよ」

「……そうだ。俺はただ、事実を言っただけだ」

 

クライスとルーカスは、子供のように口を揃えた。エレノアは、そんな二人の様子に、さらに微笑みを深めるのだった。

 

「それでは、新しい首輪の開発、楽しみにしていますよ、クライス様」

 

エレノアはそう言って、優雅に部屋を後にした。クライスは、ルーカスに負けじと、新たなネーミングと魔導具の開発に燃えるのだった。

 

ルーカスは、そんなクライスの様子を満足げに見つめていた。エレノアが部屋を後にしたのを確認すると、彼は静かに、傍らに控えていたベリルに視線を向けた。

 

「ベリル。貴様は、あの『ゴミ』共の躾直しに向かえ。俺の指示した規律と戦術を叩き込み、使え物になるように再構築しろ。薬漬けの連中には、大量の水を飲ませて吐かせろ。それが、まず最初の一歩だ」

 

「承知いたしました、ルーカス様」

ベリルは、その言葉に深く頭を下げ、静かに執務室を後にした。彼の表情には、この任務に対する強い決意と、わずかな安堵が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

ルーカスは、ベリルが扉を閉めた後も、しばらく静かにソファに座っていた。彼は、カップに残る冷めた紅茶を一口含むと、窓の外に視線を向けた。

 

そこは、侯爵邸の広大な庭園。

 

すでにアレックスに連れ出されたリナの姿があった。彼女は、広々とした芝生の上で、アレックスの指示のもと、ぎこちなく、しかし必死に、基礎的な準備運動に勤しんでいる。その横には、クインが小さな姿で寄り添い、彼女の周りを跳ね回っていた。リナの身体は、長年の栄養不足と過酷な生活で細く、その動きはまだ貧弱で、路地裏で生きるための反射的な動きとはかけ離れていた。

しかし、ルーカスが見つめていたのは、その貧弱さではなかった。

冷たい朝の光の中、リナの顔は緊張で引き締まり、小さな背中はまっすぐに伸びている。彼女の瞳には、恐怖や諦めではなく、昨日、自ら選んだ未来への道を進む、純粋で強い光が宿っていた。

 

(…『道具』か。案外、使えるかもしれん)

 

ルーカスは、ふと口角をわずかに上げた。それは、契約の成果を確信する、投資家としての冷徹な笑みだった。

 

 

彼女の『プロローグ』は、ここで終わりを告げた。

新たな『物語』の幕が、今、開かれようとしていた

 

 

 

 

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