私とあの子の黄昏酒場 作:実質蒸しパン
「木野井せんぱーい」
「うん?」
今日も今日とて仕事上がり。さあ帰ろうとデスクから立ち上がったその時、狙いすましたかのようなタイミングで浅間ちゃんが声をかけてきた。
要件はその笑顔を見ればなんとなくわかる。
「これから一杯、いきませんか?」
うん。良い笑顔だ。
でもね浅間ちゃん。私は時々心配になるよ。
「そのお猪口をクイッとやるポーズ、おっさんみたいだね」
「がーん」
「擬音も」
「がびーん」
さては君、わざと古いのチョイスして楽しんでるね?
「……うん、飲みか。良いね。わかった、私も一緒に連れて行っておくれ」
「わーい」
「ところで、さっきお猪口をクイッとやってたけど。ひょっとして日本酒系かな」
浅間ちゃんはまだ若い。なんといっても新卒だ。二十代の前半も前半である。
しかしだからといって、そこらへんのチェーン店のような安っぽく画一化された居酒屋にはほとんど行かない。彼女のチョイスする店はいつだってうらぶれた場所にあるような、隠れた名店ばかりなのだ。
もちろん普通の居酒屋にも行かないわけではない。けど会社とか友人付き合いではほとんどそういった店なので、わざわざ一人でそういう場所には行きたくないのだそうな。
「この前にですねー、美味しそうな居酒屋を見つけたんですよ。飲み友がブログで紹介してて、その時上げてた画像がすっごく美味しそうで」
「ほほう。それは楽しみだ」
私もペースこそかたつむりだが、酒が嫌いなわけじゃない。
日本人の血がちゃんと流れているのだろう。日本酒も大の好みである。
浅間ちゃんのように徳利を何本も飲めやしないけれど。
「じゃ、行きましょっか。電車も帰りが近い路線なんで、安心ですよ!」
下調べもバッチリだ。
うーん。既に幹事ができそうな風格なんだけども。
悲しいかなうちの会社は浅間ちゃんの蟒蛇っぷりを恐れ、なかなかお鉢は回ってこない。
電車で数駅、歩いて数分。
都内に相応しい間近な場所に、お目当ての店はあった。
大通りから二本ほどずれた場所にある平屋は、一見すると普通の居酒屋だ。
古びた引き戸の上半分は色あせた暖簾に隠れ、店内が窺えない。
「席あるかなー」
が、そこはそれ、臆さない浅間ちゃんである。迷いなく店内に突入した。
重厚なバーであっても一人でずいずい開拓していくのだから、そのアクティブさは凄まじい。私もたまに見習いたいと思うことがある。
この店の席はカウンターだけらしい。混雑具合といえば、店主と会話している常連らしき男が数人いる程度で、二人分の座席を確保できたのはありがたい。
とりあえず店の奥側に浅間ちゃんを座らせ、私が内寄りの席に座ることにした。
「えーと、じゃあまずは私大ジョッキのビールと……先輩何にします?」
おっと。浅間ちゃんいきなりビールか。お猪口をクイッとやるのはどうしたのかな。
「後で飲みます!」
「さすがだ。それじゃあ、まず大を一つ。それと日本酒の大関を二合徳利、冷で。お猪口二つでお願いします」
「はいよー」
「あっ。それと鳥刺し。鳥刺し二つください」
「はいー、鳥刺し二つ」
おおそうだった。鳥刺しだったね。
「木野井先輩。鳥刺しって食べたことありますか?」
「鳥刺しかぁ。どうだったかな」
鳥刺し。それはつまり、そのまんま、鳥のお刺身である。
鶏の新鮮な肉を刺し身のように醤油につけて食べるやつである。
「炙ってあるのだったら食べたことがあると思う。どこで食べたかな……」
「ふふふ……この店はなんと。完全に生なんですよ」
「はい、生の大おまちー」
「あっ、どうも」
「こっちは冷酒ね」
「どうも」
まあ、何はともあれ。
「まずは乾杯ですね!」
「うん、そうしよう」
大ジョッキとお猪口。なんともちぐはぐだけれど、私達は今日の労働をいたわるため、カツンと安っぽい音を鳴らした。
「……んッ……んッ……かーッ! うまい!」
「おお……」
で、鳥刺しどころかお通しもまだ来てないっていうのに大ジョッキが既に半分になっている。
さすがだ浅間ちゃん。なるほどたしかにそのまますぐに日本酒にシフトできそうだ。
「魚であれ鳥であれ、お刺身と聞いたからには日本酒! これはゆずれません!」
「前座で大ジョッキとはまた豪快な」
「いやーこれがないと始まりませんからー」
上機嫌だ。この子は本当に楽しそうにお酒を飲む。
「しかし浅間ちゃん。お刺身っていうと、魚や鳥以外にも色々あるよね。馬刺しとか、鯨とか、コンニャクとか」
「鯨も美味しいですよねー……馬刺しも最高です。あ、今度馬刺しのお店いきませんか?」
「はは、気が早い気が早い」
もちろんお誘いいただけるなら私も喜んで行かせてもらうけど。
「はい、鳥刺し二人分お待ち」
「わお」
そうこう話しているうちに、お目当ての品がやってきた。
肉の見た目は……鳥の生肉を一口サイズに切り分けたようなものである。
新鮮だからといって、スーパーでパック詰めされているものと大きく違うことはなかった。
しかし注目すべきは、肉よりも色の濃い他の二種類のものであろう。
「こちらは砂肝、こっちがレバーになってます。こちらは悪くならないうちに早めに。塩ごま油につけてどうぞ」
おお、鳥のレバ刺し。これは初めてだ。砂肝の刺し身も初めてかな。
「おー……じゃあ早速日本酒いただきましてー……」
「あ、ごめん」
「うふふ。いただきますー」
浅間ちゃんはいつのまにか大ジョッキを飲み干しており、そのまま自分のお猪口に並々と酒を注いだ。
これで鳥刺しを楽しむ準備は万全ということである。
「いただきます」
「いただきまーす」
レバーが気になる。けどまずは普通のお肉をいただこう。
醤油皿にわさびをひとつまみ入れて、ほぐして……適度につけてから、ぱくり。
ふむ。……おお、なかなかこれは。しっかりした歯ごたえ……。
「うわー、美味しい。美味しいですよね?」
「うん。噛むほど甘く感じる」
「日本酒も合う!」
「はい、おかわりどうぞ」
「おっとっと」
「まぁまぁまぁ」
味わいは鶏肉。鶏肉だけど……なんだろうか。チキンって感じがあまりしない。
不思議だ。それよりはむしろ、刺し身のせいで錯覚でも起こしているんだろうか。上品な白身魚のような味わいがある。……気がする。
「砂肝も美味しいなぁー」
ほほう? どれどれ……おー、これは良い。さすが砂肝だ。良い歯ごたえ。
日本酒……二合じゃ足りないな。
「すみません、日本酒二合徳利もうひとつ」
「あ、それとここにある厚揚げください」
「はいよー、お酒と厚揚げー」
厚揚げか。良いね。私も豆腐は好きだよ。
こういうメニューが美味しいのが、居酒屋の醍醐味だよね。
「……さて」
店主に急かされているので、こっちのレバーもさっさと味わってしまおう。
下に氷が敷かれているからすぐにどうこうなるってわけじゃないだろうけど、だらだら食して私達が食あたりでも起こせば、この店が営業できなくなってしまうかもしれない。それは避けなくちゃね。
さて、塩ごま油につけて。……ふむ。
「レバーは良い……」
「わかる……」
隣で同時に食べた浅間ちゃんも感慨深そうに頷いている。
わかってくれるか。レバーは良いよね。
「肝臓って日本酒のためにありますよね……」
「すごい日本語だけど、言いたいことはよくわかる。美味しいね」
「食べるとお酒に強くなりそうな気もしますし……」
「ヘパリーゼみたいな?」
「はい、そういう感じ」
肝臓を食べながら、アルコールを飲み、自らの肝臓を苛める……。
うーん……人間とは罪深い生き物だ。
「はい、お酒。それと厚揚げねー」
「わーい」
温かい豆腐もやってきた。素晴らしいね。
日本酒をちびちび飲み、高級な鳥のお刺身を食べ、時々豆腐にちょっかいをかける。
席はカウンターで、浅間ちゃんと向い合わせになっているわけではないけれど、なんとなく私はこの雰囲気が好きだ。
私は高身長なものだから、元々人と話す時にはどうしても相手を見下すようになってしまう。ひょっとすると、人知れず相手の気を悪くしたこともあるかもしれない。
でもカウンター席ならその心配は無用だ。
だらりとテーブルを見つめていても、隣の席の人と同じものを食べ、同じ酒を飲んでいれば、目線が合わなくたって心は通い合うのだと思う。
……いや、どうだろう。勢いで言ってみただけだ。私も酔っているかもしれない。
「良いお店ですね」
「うん。教えてくれてありがとう」
ほんのり顔を赤くした彼女の笑みは、とても魅力的だ。
私ごときが彼女の晩酌の相手をするのは、ちょっともったいないのではないかと思えるほどに。
「じゃあ最後に、あれ頼みませんか?」
「あれ? なんだろう。じゃあ、一緒に頼んでみようか」
「せーので頼みましょう! せーのっ」
彼女もいつか、私以外の身近な飲み友達を作るだろう。
その時まではどうか、こんな私も一緒に連れて行ってほしい。
「焼きおにぎりください!」
「お茶漬けください」