私とあの子の黄昏酒場 作:実質蒸しパン
「チェローニア・マイダス」
「うん?」
「青海亀です。読み、これだったんですねえ」
仕事の終わり際、給湯室にて。私は浅間ちゃんのよくわからない会話の切り出しにポカンとしていた。
シンクの側面についた洗剤痕をこすっていた手を止め、しばし考え込む。
「……ああ、前にアオウミガメについて調べてたね」
「そうですそれです。あれから気になっちゃっててー。あ、こっちの器しまっておきますね」
「うん、ありがとう」
アオウミガメなんてもう二週間近く前の話じゃなかったかな。
これだけ時間が経ってもふと思い出せるのは若さ故か、それとも浅間ちゃんだからなのか。
ふむ……あと十分もしないうちに終業時間になる。
さっきから浅間ちゃんが仕舞うべき器を手にしたままわざとらしくこっちをチラチラ見ているし……。
「……これかい?」
私はおちょこをクイッとやる仕草をしてみせた。
途端、彼女は今日一番の良い笑顔になる。
「はい! これです! いかがですか?」
そういう彼女は、ジョッキをガッとやる仕草をしてみせるのだった。
「是非、ご一緒させてください」
「やったー」
私達は目に見えない器を打ち合わせ、あまりに気の早すぎる乾杯を交わした。
「今日はバー行きましょう、バー!」
「へえ、バーかぁ」
「木野井先輩はバーって行ったことあります?」
「一応あるよ。2、3回だけどね。浅間ちゃんは……まぁ聞くまでもないか」
「聞いていいですよ」
「……行ったことある?」
「沢山!」
ぐっと親指立てられましてもね。知ってたよ。
さて、バーといえばカクテルを出してくれるシックでオシャレなカウンターというのが一般的なイメージだろう。そしてそのイメージは間違いない。
初めて入るにはあまりにも敷居が高く、門構えが閉鎖的なせいもあって経験したことのない人も多いだろう。
何より高い。一息で飲めそうなカクテルが一杯千円は軽く超えるところも珍しくはない。二千、三千する店だってザラだ。ここまで言えばわかるだろう。満足いくまでベロンベロンに酔おうとして行く店ではないのだ。
しかしそのような飲み方で、浅間ちゃんが満足できるのだろうか?
と、少し心配していたのだが。
「浅間ちゃん。どうして私達はいつもの大衆居酒屋に入っているのだろうか」
「っぷはー! ……え?」
バーに行くと言っていたのに、何故か私達は大衆居酒屋で腰を落ち着けていた。
浅間ちゃんは既に大ジョッキの八割をお通しに手を付けること無く飲み干している。
「そりゃもちろん、ごはん食べてからじゃないと駄目ですからね。さすがに空きっ腹にカクテルみたいな強いお酒入れたら、胃に悪そうですから」
「……なるほど」
じゃあその酒は? 胃に優しいの? と言いたかったがまぁ、ここで飲んでおかないことには気分良くカクテルも楽しめないのだろう。
浅間ちゃんが丁度いい酔い気分になるためには、カクテル五杯じゃ足りないだろうからね。
「というわけで目的のバーはこちらになります!」
「なるほど……」
腹も満たし、お酒もちょっと入れてから電車に乗り、心地よく揺られているうちに目的地についた。
繁華街よりも少しだけ暗い通りにある重厚な窓なしの扉だ。
浅間ちゃん曰く、値段安めだけどしっかりバーしてるとのことである。しっかりバーというのがよくわからないけど、まぁ普通のバーらしいバーってことなのだろう。
「あのーすみません」
と、私がぼんやりと店の看板を見上げていると、暗いところから男の声が近づいてきた。
二人組の若い男である。カジュアルな格好しているが、少し酔った私の目から見るとそれ以上の判別ができない。
「え? はあ、なんですか?」
「浅間ちゃん」
私は小さめの声で咎めたのだが、彼女の耳には届かなかった。
「もしかして、これから飲みにいくの? このお店ってもうやってる?」
「あ、はい。開店してると思いますよ。ほら、営業中って」
浅間ちゃんは親切にスマホを差し出し、店が営業中であることを男たちに示してみせた。
けど浅間ちゃん。親切だけどこの二人はただのナンパだよ。まともに相手にするもんじゃない。
「へー、ありがとうございます! 優しいんだね」
「え? はぁ……」
「一緒に入ろうよ。一杯奢るからさ」
「いっぱい? それなら……」
「浅間ちゃん」
「!? きゃ……」
私は彼女を肩を抱き寄せ、男達の前に躍り出た。
「う、わ……」
「でけえ……」
自慢にもならないが、私は背が高い。靴の底だってそこそこ厚みがある。
少なくとも、目の前のぱっとしない若者たちを見下せる程度には。
「彼女はこれから“私と”飲むんだ。そうだよね?」
「え……は、はいっ」
抱き寄せたまま彼女に聞けば、彼女はおずおずと頷いた。
うん、これで良し。
「二人で飲みたいんだ。他を当たってくれ」
「……行こうぜ」
「ああ……ごめんね! じゃあね!」
そう言って、男二人は足早に去っていった。
強引に同じ店に入ろうとはしないようだったので、一安心である。
「……浅間ちゃん」
「は、はい」
抱き寄せていた身体を離し、少しだけよれた服を直す。……うん、よし。
「ごめんね。もしかすると、余計なお世話だったかな」
「い、いえ! そんなことないです。助かりました! まさかナンパだとは思わなくて……ありがとうございます」
「そうか、なら良かった。難しいだろうけど、こういう街で声をかけられたら無視が一番だよ」
「……はい。気をつけます……」
飲み屋巡りは彼女の趣味だ。ライフワークにも近いだろう。
けど、彼女は……私の目から見ても、とても可愛らしい子だ。若々しく、華奢で……だからあまりに無防備な振る舞いをしていると、すぐに目をつけられてしまう。
そういう出会いもあるだろう。遊びもある。全てを否定はしない。私には縁の無いものだったから全てを知っているわけでもない。
けど、やはり年上として、守ってあげなきゃいけない時というのは、それなりにわかるつもりだ。
夜の街に繰り出すことの多い浅間ちゃんだからこそ、気をつけてほしいものだ。
「……さっきの木野井先輩、結構かっこよかったです」
「そう?」
「はい。すごいイケメンでした」
「うーむ……礼を言えばいいのかなそれは」
「えへへ。先輩よりも頼りになる男の人じゃないとナンパされたくないですね!」
そんなこと言って、ぎゅっと腕にしがみついてくる。
いや、褒めているんだろうけど。一応私も女だから、どう反応すれば良いんだろう。
冗談めかしているわりに少し顔を赤くしている彼女からは、最適解が読み取れない。
「……それじゃあ、バーに入ろうか。はい、中へどうぞ。浅間様」
「わあ、エスコート! えへへーなんかいい気分」
こうして、バーでの本番飲み会が始まったのである。
浅間ちゃんも気分が乗っているようだし、今日は浅間ちゃんの彼氏っぽくリードしてあげることにしよう。
ただし、奢るのは先輩としての一、二杯だけだからね。