ナインエイト、そして回るメイド   作:氷の泥

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スガノ・デザイア・ホナミ

 前回までのあらすじ……魔女ナインエイト登場。

 

 今回のターゲットは菅野保奈美という女性、金持ちの家にいるメイドらしい。

 神様が言葉を濁すことはしょっちゅうで、触手のおっさんの時だって「順調に年齢相応の出世を遂げてきた男性」と言っていたのだから、今回だって言葉のままに情報を受け取ることはできない。大体この日本国内に、メイドを雇っているような金持ちがそうそういるものか。

 指定された場所に行ってみればメイド喫茶でした、そりゃオーナーはそれなりに金持ってるでしょ、というオチがまず予想される。「家」という表現が肝だね、仕事とはいえ「お帰りなさい」って言ってるしあの人たち。

 さぁあたしの予想は当たっているかなーとクイズの答え合わせ感覚で指定された場所へ下見に行くと、平均的な一軒家の倍くらい大きな家にたどり着いた。それもそれだけ大きな家に、これもまた平均より遥かに広いと思われる庭がついていた。

 まさか、本気で金持ちの家なのか。いや、なんか暴力団関係とかそういうのだったらどうしよう。金という明確な力がある者と関わらなければならないのかと思うと、魔法少女だってちょっと怖い。金とか権力とか、あと恐喝とか暴力を使いこなしている人は少なくともあたしにとっては脅威だ。

 透明化の能力を使いつつ、家の窓を覗くことを試みる。一階は全てカーテンが引かれているか誰もいない部屋だったので、飛行能力で二階へ向かってみる。

 ちょうどカーテンが邪魔をしておらず、しかも人の気配を感じる窓を見つけたので、おそるおそるその部屋の中を覗いてみる。

 願わくばこの家に勤めるメイドさんが一人でありますように。二人以上いても、あたしは菅野保奈美という名前のメイドがいるということしか知らないのだから、顔ではまったく判断ができないぞ。

「……はぁ?」

 自分の姿が見えないのをいいことに窓に貼り付くようにして覗き、声が聞こえないのをいいことに素直な感想が漏れる。

 一応ビンゴだったと思う。覗いた部屋の中には風格のある四十後半か五十代くらいの男性と、メイド服を着た如何にもな女性がいた。……ただそこに異常があったとすれば、メイドの女性がひたすらにその場でぐるぐると回り、男性は肘掛けのついた椅子にふんぞり返ってそれを眺めている……と、そのような光景があったことだろうか。

「な、なにをしているんだ、アレは……」

 メイド服はロングスカートのタイプだったので、回転することである種芸術的にスカート部分が丸く広がっている。金を払ってその姿を見たいという者が出てきても、まぁギリギリ理解できなくもないので、男性はあれを鑑賞しているものだと思われるが……。

 だとすれば今回はまたしてもあたしが苦手とするところ、変態タイプの人間が話に関わってくるわけか。どうにか、どうにかメイドさんだけと関われないものだろうか……。

「そろそろ時間だな、もういいぞ」

 しばらく見ていると、男の一言でメイドが回転を止めた。それから男は身支度をして家を出る。今日は平日、金曜日だ。他の社会人よりは遅めながら出勤するのだろう。ターゲットに深く関わっていると思わしき人物が自ら外に出るのだ、関わりたくないという本心は変わらないけれど、さすがに追わないという選択肢はない。

 明日は土曜日、休日。今見た光景が嘘であるかのように、なんの変哲もない休日を過ごす金持ちの男とそれに雇われるメイドさんが見られるといいな。……叶わないのだろうけど。

 

 ……あれから休暇一日を挟み、ついに今日がデザイア発生予定日の当日。昨日のあたしは休暇といっても一日だらだらしていたわけではない。しっかりと偵察を行い、なおかつ金持ちの家への侵入経路を考えていたのだ。

 姿が消せるといっても壁をすり抜けられるようになるわけではないので、鎌を使おうにもまずは家の中に入れなければどうしようもない。なので今までは仕事なり学校なり、まぁそれ以外の動機でもなんでもいいのだけれど、とにかくターゲットが外に出ている時を狙って鎌を使っていた。

 ところが今回は困ったことに、昨日一日あらゆる窓から覗き見し見張っていても、ついにメイドさんが家から出てくることはなかった。一歩もだ、一歩たりとも外に出ない。庭にさえ出ない。驚きの引きこもりようだった。

 何が驚きって、どうやら彼女は本当に引きこもっているだけらしい。メイド本来の仕事であるはずの家事は見た限りでは全くやっていない。もう一人、メイド服のメの字もない恰好をしたメイドさん……というか家政婦さんが家を出入りしていて、家事その他はほぼすべてその人が行っているようだった。

 それなのに家政婦さんは通いで、あのメイドは住み込みらしい。メイドが一度も家を出ず、家政婦が早朝に来て夜には帰っていったのだから、そうだとしか思えない。

 一日観察しただけなので、あたしが見たものが全て真実そのものであると断定することはできない。ただそれを理解しつつも見たものだけで物を言わせてもらうならば、菅野保奈美と思わしきメイドは、ただ主人の前で回転するためだけに存在しているようだった。

 平日である金曜日の朝も、休日である土曜日に至っては朝昼夜とあらゆる場面で、彼女は主人に命じられるままに回っていた。あたしには到底理解できない世界が、家という隔離された空間で行われているのだ。いっそ恐ろしささえ感じる。

 それと一瞬、家政婦の方がターゲットなのではと思ったけれど、さすがの神様も傍にメイド服を着た人物がいるのに、それ以外の人を指してメイドとは言わない。回転する役のメイドさんが主人から「保奈美」と呼ばれているところも、あたしはすでに確認済みだ。

「さて、どうするか……」

 今日も昨日と同じように朝から姿を消し窓に貼り付いて、ひたすら回転するメイドとそれを眺める男を観察している。なんとか侵入して、あの二人の両方に鎌を当てなければいけないわけだが、どうやってそれを成し遂げようか。

 まず昨日の時点で思いついたことは、男の方は平日なら会社へ出勤するためその際に鎌を当て、彼からあたしという存在を信用できる者として紹介してもらい、堂々と正面から家に上げてもらう作戦だ。

 実は、これはすでに一応試している。金を持っている人間の立場らしく彼は会社にほぼ自分専用と言えるような部屋を持っていたが、そこに侵入して鎌であたしへの敵意を断ち切ることくらいは簡単だった。

 だが彼はどうも他人を家に上げることを好まないらしい。あたしが言葉を濁さず直接頼み、なおかつそれにより発生する否定的な感情をすべて断ち切っても、なお彼はあたしを家に入れたがらなかった。

 好まないという彼の性格的な特性を断ち切ることはできても、逆に他人を家に上げることを好むという特性を付与することは、断ち切ることしか出来ないあたしの鎌に出来た芸当ではない。押せ押せでいけば家に上がるところまでは行けたのかもしれないが、それであたしを信用ある人物と思い込ませられるかは怪しいところだった。

 目的の達成だけを考えるのなら、あたしにとって不都合な彼の性格的特性を片っ端から断ち切っていくこともできたけれど。それは一人の人間を空っぽにしてしまいそうで怖かったので、結局実行には移せなかった。その結果が今に至るわけだけど……。

 次に、いま実行できる作戦。それは目の前の窓から、あたしと干渉する部分だけを断ち切ること。これを実行すればおそらくこの窓は、あたしにだけ見えず触れず認識できない、あくまであたしにとっての無になるだろう。

 たぶんこの家に侵入する方法はそれしかない。主があまり他人を家に入れたくないと考えるタイプの人間である時点で、あれこれと小細工をしたところで窓をすり抜けて入ることと大差はないだろうから。

 そうとなれば鎌を握る。この作戦を実行すればこの窓はあたしに見える世界でだけ永遠に消えてなくなる。断ち切るだけの能力だ、それを元に戻すことはできない。自分だけに認識できない物があることに違和感を覚える機会がおそらくは訪れるだろうけど、背に腹は代えられない。

 鎌の刃を窓に当てると、それはホログラムであるかのように一切の感触も無くすり抜ける。すり抜けたのを確認したと思った時には、もうあたしにはその部分が、窓枠でくり抜かれた空白の空間にしか見えなくなっていた。

 空いているのだから入るさと言わんばかりに至極当然に侵入する。メイドは相変わらず回転しているし、それを見る男はほとんど動かない。あれだけ回っていて頭が痛くならないのだろうか、男はずっと見ていて飽きないのだろうか。

 ともかく、ここまであたしは姿を消して行動してきたけれど、いよいよそれも解除しなくてはならない。当然ながらあたしの鎌は存在するものしか断ち切れない……というか存在もしないものを断ち切るという意味がわからない。なので二人からあたしという存在への違和感や敵意を断ち切るには、まずそれらを抱かせてからでないとならない。

 男には背を向ける形で透明化を解除する。回るメイドの視界には突如、黒ローブで背丈と同じくらいの大鎌を背負ったピンクのショートヘア少女という、一見して不審者以外の何者でもない人物が現れたことになる。

 普通に突然あたしのことを認識するだけでも相当心臓に悪いだろうけど、回転する彼女の場合はなおさらだ。一定のペースで繰り返し映る景色に、ある時から急にあたしが映り始めるのだ。ホラーじゃないか。

 ……と、思ったのだけれど。

「ご主人様、背後に怪しい輩がおりますが」

 至極落ち着いた調子で、回転を止めることなくメイドが言った。当然彼女の主人は背後を振り返る。

「お前、どこから入った」

 彼にとってあたしは完全な他人ではない。友人とも言い難いが、顔見知り程度の仲ではある。初対面の時にあたしへの敵意その他は断ち切ってから話したからだ。

 しかし、それは主人の知らぬ間に家に侵入していたことを見逃す理由にはならない。彼は再びあたしに敵意と、得体の知れない侵入者への警戒心を抱いているようだった。

 絶好の断ち切り時だ、あたしはまず男の方に鎌を振る。一度目の時にすでに知っていたことだけれど、彼にそれを躱すだけの能力はない。

「失礼ながら、どうやって入ったのかはお答えできません。いけませんでしょうか」

「いや、構わんよ、君のことだ。ただ言わせてもらうのなら、タイミングが悪かったな。……おい、もういいぞ」

 主人の一言で、ひたすらに回転していたメイドはついにそれをやめた。そう、彼女は主人から許しが出るまで延々と回っているのだ。昨日の偵察でも、五分以上は回っていた。

「ご主人様、その方は」

「あぁ、こいつはデイズといって、魔法少女をやっているらしいんだ」

「……そうですか。お知り合いなら、よかったです」

 それだけ言うと、まさかそれで納得したわけではないだろうけど、とにかくメイドはそれ以上あたしについて追及しなかった。

 男の方も男の方でそれ以上あたしに関する説明をロクにすることもなく立ち上がり、また用があれば呼ぶと言って部屋を出て行った。出ていく際に思い出したかのように、

「そういえばデイズ、私に何か用があったのか」

 と訊いてはきたけれど、あたしが首を横に振ると「そうか」とだけ言って、不機嫌そうな顔をして去っていった。

 部屋に残された死神風の不審者とメイド服を着た謎の女性。あたしからすれば彼女だって、不審ではなくても十分不可思議だ。

「……あの」

「はい」

 話しかけると応じてくれた。それもメイドはその場に直立不動で、あたしのことを警戒こそしているけれどそれ以上のアクションを起こそうとしない。

「彼の言った通りあたしは魔法少女なんですけど、彼からそう言われただけで全て信じられるものですか」

「信じるか信じないか、ではありません。ご主人様から説明されたのですから、言葉の意味が飲み込めるのならわたくしはそれを了解するだけです。飲み込めなければ、より理解しやすい説明を求めることもあるかもしれませんが」

「魔法少女が何なのか理解できたということですか」

「いいえ。しかしその点をわたくしが理解しなければならない理由はないでしょう。あなたが何者であれ、ご主人様のお知り合いということでしたら、それ以上を理解する必要はないかと考えます」

 魂がこもっていないのかと思った。言われるがままにいくらでも回ってみせるメイドは、話してみればなおのこと人間味のない人だった。

 抑揚のない話し方、これっぽっちの変化もない表情、感情の感じられない目。全ての要素が彼女に、命令を聞くだけの人形であるかのような印象を付与している。

 それでもあたしが鎌を構えて彼女に一歩近づけば、さすがに彼女でも距離を維持するように一歩後ずさった。

「怖がらなくて平気ですよ、怪我はさせません」

 ただ、状況を理解できるように、全てを違和感なく飲み込めるようにしてあげるだけです。と言ったのではあたしの不審者感がさらに高まるだけなので、この際説明はしない。今までだって鎌を当ててからの説明はいくらでもしたけれど、その段階に至るまでは問答無用に鎌を当てることだけを目的にしてきた。

 あたしがもう一歩にじり寄ると、彼女の方はもうそこから動かなかった。主人があれだけ気を許した態度を取っていた相手だ、あたしから逃げることはきっと立場上できないのだろう。

 かわいそうに、とは思う。そりゃあ心も痛む。けれどあたしは人を怖がらせてしまうことはあっても、最終的に不幸にするつもりはないし、したこともない。

 鎌のリーチ圏内に入ったので、メイドに向かって振り下ろした。彼女は逃げも避けもしなかったけれど、目をつむり震えるほど全身に力をこめてジッと耐えていた。

「あたしは魔法少女です、人の欲望から生まれる化け物であるデザイアを消滅させることを目的にしています。今回ここへ訪れたのは、あなたの欲望からデザイアが生まれるという情報を得たからです。……理解できましたか?」

 元通り機械のような感情の見受けられない目に戻った彼女は、これも元々の彼女と変わらず淡々と落ち着いた調子で言う。

「……半分くらいは、理解できたかと思います。しかしわたくしがそれを理解しないことで支障が出るのなら、もっと詳しい説明をお願いしたいです」

 今までに出会ったことのないタイプ、未知の領域だ。これはデザイア戦も険しい道のりとなるかもしれない。あたしは自分の心を奮い立たせ、より詳しく彼女に魔法少女というものについて説明する。

 

 数分後、さすがにお互い立ち話というのもアレなので、ということであたしとメイドは部屋に置いてあった適当な椅子に座って話をしていた。

というか、あたしが座っているのは彼女の主人が使っていた肘掛け付きの椅子だ。勝手に座っていいのかは定かではなかったが、メイドから止められなかったので悪いことではないのだろう。そういうことにしておく。

「なるほど、理解できたと思います。要するにデイズ様は、情報収集のためにわたくしと接触したかったと」

「その通りです。……あの、でもそのデイズ様って呼び方やめません?」

 こちらが名乗るや否や様を付けて呼ばれた。ナイン様とはなかなか上手くやっていけそうなメイドだけれど、同時にここで初めてあたしは、様を付けて呼ばれることへの抵抗を覚えた。

 自分が大した人間ではないことを知っているのだから、そんな呼ばれ方をしてしまうと過大評価を受けているような気になって居たたまれなくなってしまう。まだ「お前」と呼ばれるとか、「女」みたいな失礼な呼ばれ方をする方がマシだ。

 もちろん彼女もそんな深い意味をこめて呼び方を決めているわけではないのだろうけど、とにかくこれに耐えるどころか自ら要求できるナイン様のメンタルが常人離れしていることは理解した。

「気に入りませんか、デイズ様とお呼びしては」

「気に入りません。どうぞ気軽に呼び捨てでデイズ、もしくはデイズちゃんとお呼びください」

「デイズさん、ではいけませんか」

「もうそれでいいです」

 もう好きにしてくれ。どう見てもメイドの菅野さんはあたしより年上だけど、もういいや知らない。

「えー、それでですね菅野さん」

「デイズさんも、わたくしのことは呼び捨てで構いませんよ。それに敬語も必要ありません」

「……そんなこと言うとあたしこんな喋り方になるけどいいの?」

「もちろんです」

 いつのことだったか、あたしは自分の辞書から一時的に「恥」の文字を消そうとしたことがあった。今回は「礼儀」に関わる項目をすべて消そうと思う。もちろん一時的に。

「じゃあ、それでなんだけどね菅野さん」

「ですから……」

「いやこれは純粋にこっちの方が呼びやすいんですよ、いいじゃないですか」

 ここに飛ばされてきてからというもの、ナイン様といいこの人といい呼び方にうるさい人によく出会う。世の中は広い、あたしが今までに知らなかった難儀な人もたくさんいるものだ。これも人生経験ということにしておこう。

「そういうことでしたら、はい。どうぞそのままお呼びください」

「それはどうも。で、あたしは菅野さんの欲望を調べに来たんですよ」

 それさえ聞き出せればデザイアなんて攻略したも同然……とはさすがに言えないけれど、それでもだいぶ目途は立つ。

 それに目途以外の部分でも、触手のおっさんみたいな目の前の人物、つまりあたしを標的にしようとするタイプなのか、それ以外の一般人を巻き込むタイプなのかを大まかにでも判断できるだけで有益だ。だって例えばさ、世界滅亡とかを本気で願っている人がいたらどうするのよ。それこそ魔法少女の共闘が計画されるほどの一大事だぞ。

 と、まぁそこまで大規模ではなくても、どのくらいの規模で標的となる「他人」が選ばれるのかは予測しておきたい。

「欲望ですか。……そう言われましても、特に思い当たる物がありません」

 あたしは今までの経験で知っている。そう、あなたの抱く欲望はなんですかと直球で訊いたところで、誰も答えはしないのだ。みんなそれぞれ理由の違いこそあれ、結局は誰も答えない。

 だからあたしはくじけない。こんなこと日常茶飯事なのだから、勝負はここからだ。このタイミングで落胆することは何もない。……そう、何もないんだよ。だってこれだけみんな同じように「思い当たらない」って言うんだから、仕方ないじゃない。

「まぁ、そうだよね。こんなこといきなり言われて、長年温めておいた野望を語る人なんて見たことないし」

「お力になれず申し訳ないです」

「ううん、いいのいいの。みんなそうだから気にしないで」

 と言うまでもなく、みんな大して申し訳なさそうにはしない。メイドの菅野さんも同様だった。いくら魔法少女という存在を受け入れられるように余計な思考を断ち切られても、結局は誰の目から見てもあたしは突然やってきたよくわからない人でしかないのだから、相当な善人でないと申し訳なさなんて感じない。

 現実的なところに例えるとあれだ、押し売りに来た人に「いりません」と言う時、申し訳なさそうな顔をするかどうかみたいな話だ。みんな多かれ少なかれ演技で申し訳なさそうにはするけれど、本心は声に出る。が、菅野さんに至っては表情まで一切変わらずだった。このオートマタめ。

 しかし、あたしもそろそろ見習い魔法少女は卒業しなければならない。雑談の中から相手の欲望を見抜くくらいの技術は、いやせめてそれに準ずるくらいの技術は身につけなければ。少なくともその努力はしなければ。

「あの、ところでこれは興味本位で訊くんだけど」

「はい」

「菅野さんって、なんで彼の前で回ってるの?」

 こうやってくるくるーってさ、と指で何かをかき混ぜるようなジェスチャーをしてみる。

「なぜ、と言われましても。ご主人様がそれを望むからです」

「なんで望むんだろう。見て楽しんでるの?」

「そのようです」

 奇特な価値観だ、変人だ、変態だ。やはり結局この家には、あたしの理解できない領域があるのだ。しかしそれを理解できないからという理由で放ったらかしにしておいて良いのだろうか。主人の趣味のため回るメイドという特殊極まりない構図が、デザイアにまったく関係してこないとでも?

 かといって、もう回りたくないよーつらいよーという救いを求める欲望があるとか、そんな簡単な話だとも思わないけれど。

「ていうか、菅野さんはなんであの人に」

「おい保奈美!」

 勢いよくドアを開けて若い男が入ってきた。突然のことだったのとその勢いのせいで肩が勝手にビクッとなる。なに、誰なの。偵察していた二日間お前のことは一度も見かけなかったぞ。

「なんだよそいつ、誰だ」

 青年はあたしを指さして言う。人に指をさすとは礼儀を知らないやつだ、お返しに鎌をお見舞いしてあげようか。

「デイズ様です。ご主人様のご友人です」

「オレはそんなやつ聞いたことねぇぞ」

「わたくしも初めてお会いしました」

「へぇ……?」

 値踏みするような目であたしをなめまわすように見つめながら、そいつは不良が威嚇するのと同じような動きでにじり寄って来た。

 自分から近づいてくれるなんて好都合だ。鎌を振る。

「あたしは魔法少女をやっているデイズです。魔法少女が何をする仕事なのかは説明すると長くなるので割愛させていただきますが、ところであなたは?」

「あ? この家の長男だよ。と言っても次男や長女はいないけどな。お前親父の知り合いなのにオレのこと知らないわけ?」

 不愉快な気持ちをあたしにぶつけるかのように威圧的な口調で吐き捨てて、それから彼はポケットからタバコを取り出して火をつけた。ということは成人はしているのかと考えたけれど、この態度の相手だ、非行くらいしていても違和感はない。

「えぇ、すみません。息子さんがいること自体初耳でした」

 初対面の相手に息子の話題から入る人なんてそうそういないと思うので、あたしが彼の存在を聞いていなくても特に不思議はないはずだ。

「へぇー、そう。なに、愛人?」

「いえ違います。仕事に協力していただいている関係です」

「どうだか」

 こんな怪しい恰好した愛人がいるものか、と思うけれどそうだった、この場の人間は全員あたしの恰好に違和感を抱く感覚を断ち切られているのだった。

 いやでも、それを抜きにしてもあたしは年齢的には女子高生だぞ。見た目もそれ相応だと自負している。あの男、普段何をしている……。

「で、あれか。保奈美に何か用があったのか」

「あぁ、はい」

「そうかいそうかい。けど悪いな、優先順位ってものがあるんだ。行くぞ保奈美」

 青年がそれだけ言って部屋を出ていくと、菅野さんはあたしに頭を下げ謝罪の言葉を並べてから、急ぎ足で彼の後を追っていった。

 メイドを下の名前で呼び捨てにすることがこの家での常識なのか、それとも二人には何か特別な関係があるのか。それはあたしの知ったところではないけれど、とにかくターゲットを奪われてしまったのはまずい。

 しかし二人がどこかへ向かうなら尾行するまでだ。あたしは再び透明化の能力を発動し、家から出ていった二人を空中から追うことにした。

「えっ、マジか」

 尾行早々に驚いたのは、菅野さんがメイド服のままで外へ出たことだ。そして彼女の主人の息子であるらしい彼は、そのことにまったく驚きもしない、何も言わない。メイド服を着て外へ出ることが当然であるというよりも、もはや見慣れた物だと言わんばかりだ。

「あー、歩くのめんどくせえよなぁ。保奈美、お前が車に乗れるようになればさ、オレはこんな苦労しなくていいのによ」

「申し訳ありません。しかし、ご主人様が不要だと申しますので」

「お前は本当に親父の言いなりだよな。それで生きてて楽しいの?」

「もちろんです」

 二人とも前だけ見つめて歩いていて、会話しているはずなのにお互いの顔を一度も見ようとしていない。空中から眺めていても服装といい態度といい特殊極まりないコンビでとても目立つ。

 それとこれはあたし個人の感情だけれど、お前が車乗ればいいんじゃないのクソ息子と言いたくて仕方がない。

 さてそんな二人がどこへ向かうのかと追っていれば、急にスッとカーブしてそこそこ大きな建物の中に入っていった。何かと思えばゲームセンターだ。

「こんなところ来るんだ……」

 あの息子がゲームにのめり込むことには特に違和感がない。平日に一度も家から出ず引きこもるとはいったいどんな生活をして生きていけているのか知らないが、あたしがあの息子の存在を認識できなかったのは、彼がずっと自分の部屋から出てこない上に窓のカーテンは常に閉めてあったからだろう。

 それよりいろいろとミスマッチなのが菅野さんだ。メイド服を着てロクでもない男とゲームセンターって、どんな罪を犯すとそういう償いをさせられるのだろう。

 見失わないように急いで中へ入って二人を追ってみる。天井という地形が登場すると飛行能力はちょっとシビアな操作が求められる。まぁ、それでミスして頭をぶつけるようなあたしではないけれど。

「オレ前やるから何かニーゴー乗って」

「了解です」

 二人が着席したゲーム機は……ガンダムだ! 橋本青年の家にあった物とよく似たゲームが、ゲーセン特有の筐体による大画面大音量で映されている。……が、そんなことより周囲の音がうるさすぎて、ドリンクバー全部混ぜみたいな濁った汚い音しか聞こえてこなくて何がなんだかほぼわからない。

 二人がゲームをプレイしていると、次第に後ろにギャラリーが集まってくる。そりゃそうだろう、メイド服着た女性がゲーセンでゲームしてたら、あたしでも何事かと思ってちょっと気になり足を止める。

 さらに面白いことに、素人目で見ての感想だけれど、どうやらゲームの腕前は菅野さんの方が上らしかった。二対二のチーム戦だけれど、彼女がうまく息子の方をフォローしているように見える。

 手元はレバーとボタンをせわしなくガチャガチャしていて二人が何をやっているかなんてあたしにはさっぱりなのだけれど、家庭用のゲームコントローラーで似たようなゲームをして遊び、そして五十連敗もした者として、なんだか同性の菅野さんには憧れを感じる。

 画面に大きく「WIN」という文字が表示されると、息子の方がウェーイと頭の悪そうな声と共にハイタッチを要求していた。菅野さんはそれをチラりとだけ見て、画面に視線を戻しつつ要求に答える。

 騒音に埋め尽くされた空間の中でも、手の平からの乾いた音はなぜかよく聞こえた。

「いやお前やっぱ上手いわ」

「恐縮です」

 総じて菅野さんがかっこいい。実力があって、コミュニケーションは取るけど冷めていて、なおかつ奇抜な恰好をしている。あたしが自分で今の服装をチョイスしたことからわかるかもしれないが、こういう人ってすごくあたしの趣味に合っている。好き。

 そうしてしばらく二人はゲームを、おそらくはオンライン対戦で遊んでいた。対戦相手の情報が書かれている欄に対戦相手がどこのゲームセンターでプレイしているのかが表示されるのだけれど、そこに都道府県名が「○○店」という形で書かれていて、これがてんでバラバラの場所だった。

 しかし、ある時から二人の対戦相手は一変する。どうやらギャラリーの中から「あのメイド服を倒してやる」と挑戦を挑み始める人が出てきたらしく、対戦は全国から店内にまで一気に規模を縮小、凝縮したものとなった。

 で、あたしはデザイアとしかこのゲームをプレイしたことがなく、あいつは容赦がなかったけれど勝負事にはそれなりに紳士的だったので、あたしはこの時までゲーマーという人種についてまだ正しく理解していなかったのだと思う。

 なんというか、とにかくうるさい。とどめを刺されて負けた方が「あああああっ!」と悲鳴を上げることがしょっちゅうで、時々「相方ァ!」と叫んでいる人もいる。たぶんパートナーに文句を言っているのだと思われるけど、まぁうるさい。

 そしてそれにつられて息子の方もエンジンが温まってきてしまったのか、勝つと時々「相方やるよ!」と叫んでいらっしゃる。それ以外にもちょくちょく「やるやるやるやる」とか、とにかく「やる」を連呼していた。

 よくわからないけど雰囲気から察するに、「やる」は「さすが」みたいな意味だと思われる。要するにパートナーを褒めていると思うのだけれど、人を褒めるのにこんな品性の欠片もない方法があったのかとあたしは驚愕していた。

 けれども菅野さんは相変わらず「恐縮です」とか「ありがとうございます」しか言わないので、このゲームに関わる人が全員動物園の猿みたいになってしまうわけではなく、そういう人が割合として多くこのゲームに集まるという逆の式が成り立っているらしい。菅野さんは苦労人だ。

「頭痛くなってきた……」

 この場にこれ以上いると騒音でやられてしまいそうなので退散することにする。ゲームセンターの入り口で二人が出てくるのを待ち伏せしていよう。

 多くの人が歩く道路の上に帰ってくるとひどく静かに感じた。何も変わってはいないのに、昼間の外にいて静かだと感じたのは初めてかもしれない。変わってしまったとすれば、この短時間であたしが変わったのだろう。

 橋本青年のデザイアは、ゲーム中に煽ってきたりしなかった分紳士だったのだな、と今になってしみじみありがたさを噛みしめる。デザイアがそうであったということは橋本青年本人もゲームプレイ中の態度は同じであったはずで、彼らのような人間はとても貴重なのだと今ならわかる。もっと橋本青年に感謝と敬意の気持ちを伝えればよかった。

 二時間ほど待っただろうか。あたしはスマホでネットを閲覧して暇を潰していたのだけれど、危うく充電がなくなるところだった。息子が妙にすがすがしい顔をして、菅野さんは前と変わらない無表情で店から出てきた。

 帰り道でも二人はゲームの話をしていたようだったけど、あたしには専門用語だらけで何を言っているのか理解できなかった。そのまま二人が家の玄関に入ったところを見届けて、あたしはさもずっと部屋で待っていましたという態度を作って元居た部屋に戻る。

 ……が、部屋に誰も来ない。そういえばこの部屋は別に菅野さんの部屋というわけではなそうだし、この家はいくつ部屋があるのかわからないほど広い。ここに居ては時間を無駄にするかもしれない。

 もうこれ以上あたしの知らない人間はいないよね、と恐る恐る家の中を探索して人を探す。主人の男に遭遇したら嫌な顔をされそうだ……。

 びびっていても仕方がないので、手当たり次第に部屋をノックしてみる。初めて返事が返ってきた部屋で、あたしは幸運にも菅野さんの声を聞いた。

「はい」

「あの、デイズです」

「どうぞ入ってください」

 鍵がかかっているわけではないらしかったので、あたしはそのままドアを開いて中に入る。すると真っ先に目に入ったのは、何をするでもなく椅子に座っている菅野さんだった。本当に何もせずボケーっと宙を見つめていたので、やはり彼女は機械人形で充電が切れてしまったのかとさえ思った。

 まぁ実際はそんなわけないのだけれど、それでもやっぱり彼女には人間味がない。主人から何もせずに座っていろと言われればいつまでもそうしていそうだ。

「デザイアについてですか」

「うん。でもお疲れなら、無理に話をしようとは言わないよ」

「いいえ大丈夫です。ただ、先にも言いました通り、わたくしにこれ以上話せることはありませんよ」

「いや、欲望の話はいったん置いておくよ。それより」

 話しかけたところで、座ってくださいと手のひらで示されたので、あたしは部屋に置かれていたベッドに腰掛ける。

「それより、あたしは菅野さんがなぜこの家でメイドをしているのかが知りたい」

「それはデイズさんの仕事に必要なことですか」

「わからない。何が必要かなんて、結果を見てからじゃないとあたしにもわからないよ」

 どうして奇特な趣味を持つ主人の言いなりで、その息子に無礼な態度を取られても顔色一つ変えずに、それが当然であるかのようにここにいるのか。明確な根拠はないけれど、あたしにはその点が何か欲望と関係している気がしてならない。まだ勘を完全に信用できるほど経験を重ねてきたわけではないのが、また悲しいけれど。

 でもその質問には、あたし自身の単なる興味も含まれていた。それは認める。だからあたしは少し後悔した。

「では答えねばなりませんね。……わたくしは、ご主人様に買われた身です。購入の、買うです。お金で売られました」

「売られたって、そんなことが」

「父はお金に困っていたので。ご主人様から取引の話が出た時、断る選択肢なんてありませんでした」

 親に売られた? 金持ちが金で人を買った? そんな話が、この国であるわけがない。それもこんなに堂々と、世間から姿を眩ませ逃げ隠れする意思など微塵も感じさせない場所で。

 この家の主人は、彼女の主人は、毎日普通に働いて普通に生活しているじゃないか。金を持っていること以外、彼も大元は他の一般人と変わらない。こんなところで、こんなに自然に、そんな話があるわけがない。嘘っぱちだ。

「待って、それ本気で言ってる? 日本で人身売買があったって? それもこんなに堂々と、あなたを隠そうともしないで」

 息子が彼女をゲームセンターへ連れ出しても無警戒だった。主人は何も警戒なんかしていないのだ。人の人生を買い叩いておいて、そんな飄々としていられるわけがない。

「隠れる必要はありません。それに、人身売買なんて大それたものじゃあありませんよ。わたくしの父が、友人の家に自分の娘が無期限で泊まることを容認しているだけです。そしてご主人様はわたくしの父の経済事情を見かねて、友人としてのよしみで援助してあげているだけ。すべて合意の上です、何も問題はありません」

「問題ないわけないでしょ! あなたもそれに合意しているって言うの!?」

「もちろんです」

 相変わらず顔色一つ変えずに彼女はあたしの言葉を肯定した。

 彼女の態度から感情を感じられないのは、隠されているわけではなく本当に感情が限りなく無に等しいからなのではないか。彼女の目から感情を感じられないのは、とうにそんなもの奪われてしまったからではないのか。キャラクターとして認識していた彼女の無表情と無愛想が、急に悲壮なものに見えてくる。

「あの、デイズさん。きっとデイズさんは勘違いされています。ご主人様は悪人ではありません」

「そりゃあ、人にその場での回転を命じる悪なんて聞いたことないけどさ。……それだけなの? 菅野さんはちゃんと人としての生活を送れているの……?」

 彼女も部屋のカーテンは閉め切っている。あたしが外からこの家を眺めて把握できたことは、ほとんど彼女が毎日くるくると回っていたことだけ。この家の他の場所で、彼女が何をしているのかあたしは一つも知らない。

「当然です。ですから、ご主人様はそんな悪人ではないと言っているではないですか」

「本当にそうならいいんだけど……」

 ではどうして、そんなに何にも興味がなさそうな顔をするのだろう。少なくとも楽しければ人は笑うと思うのだけれど、これはあたしの偏見だろうか。

「それでこの話は、何かの参考になりそうでしょうか」

「いや……」

 彼女は確かに欲望からはかけ離れた領域に心を置いている存在で、思い当たりがないというのにも頷ける。過去の彼女が本当に今と同じだったのかあたしに知る術はないけれど、彼女に欲望がないことは理解した。

「お力になれず、本当に申し訳ありません」

「いや、こっちこそごめんなさい。それじゃあ、あたしはこれで」

 これ以上聞けることはないだろうと部屋を後にする。これ以上聞きたくない、という気持ちがあったことは否定しない。だって、今の彼女に何を聞こうとも、彼女は誰のことも悪く言わないだろうから。それはやっぱり気味が悪い。

 一番初めに入った、彼女がくるくるとその場で回転して見せていた部屋へ戻り、窓があるはずの空白に見える空間から家を抜け出す。もう日が沈みかけていた。

 ……デザイアは日が沈んでから現れるのだろうか。日付が予定された日に切り替わってから二十四時間以内にデザイアは出現するとのことなので、別に夜中に現れたところで何も不思議なことはない。その前例もすでに体験している。

 だけど、なんだろう。胸騒ぎがする。

 菅野さんには自分を売った父親への恨みや憎しみがあってもおかしくない。というか、あって然るべきだ。なのに彼女は誰も恨んでいないと言う。口でだけそう言っているのかもしれないけれど、彼女が嘘を言っているようには見えなかった。彼女に嘘を吐くだけのエネルギーがあるようには見えなかった。

 そうだ、そもそもがおかしいのだ。彼女のような人間からデザイアが発生するなんて、一見して考えられないではないか。それでも神様は彼女をターゲットにしたのだから、やっぱり彼女にも望みが、欲望がないわけではないのだ。なのにこれだけ話して、その欠片も感じられないのはおかしい。

 姿を消し、あたしはこの家の屋根の上に浮かんで考えていた。彼女はきっと本当に欲望を持っていない。けれど、それは察知できる欲望がないという意味である可能性が高い。要するに無意識下だとか潜在意識だとか、そういった奥底に眠る欲望が、彼女にはきっとある。

 それが何なのかがわかればデザイアと戦いやすくなる。……と、そんな段階の話ではない気がする。だってデザイアは、そうだデザイアは、欲望の主の影響を色濃く受けるではないか。デザイア特有の化け物じみた特徴を除けば、容姿までそっくりになるくらいに。

 であれば、欲望を心の奥底にしまい込んだ彼女から生まれるデザイアだって、きっとわかりやすく現れて、わかりやすい悪行を働いてくれはしない。彼女の欲望はきっと誰にも察知されない場所で、確かにその存在を主張するはずだ。

 事態はすでに取り返しのつかない段階まで進んでいるのではないだろうか。デザイアはもうとっくに出現していて、何か目的を成しているのではないか。……「その通りだ」とも「それは違う」とも言い切れない想像が次々と思い浮かぶ。

 どう手を打っていいのかわからなくなったその時、あたしは玄関から庭へ出ていくメイド服の人間を見た。屋根の上から眺めていて正解だった、たった二日だけの観察とはいえ、今まで彼女が一人だけで外へ出たところなんて見たことがない。これは何かがあったのだ、きっとそうだ。

 話しかけようと、透明化を解除して姿を現し近づく。

「菅野さん、…………えっ?」

 消えた。近づいて後ろ姿を見たけれど、彼女は確かにメイド服を着た菅野保奈美だった。けれど、突然消えた。日が沈みかかって暗くなった庭で、初めからいなかったかのように彼女は消えてなくなった。

 あたしは慌ててもう一度二階の窓があった部分から侵入し、彼女の部屋へノックもせずに床に足をつけることもないまま、文字通り飛び込んだ。

 無表情のまま座っていた彼女が、人間らしくビクッと肩を震わせて驚いたのを見た。

「デイズさん……?」

「菅野さん、あなたさっき庭に出てた!?」

「いえ……? わたくしはここから動いていません」

 まずい、まずいまずい、まずいぞ。もうデザイアは出現している、さっきのがソレだ。しかしアイツは消えた。どこへ消えたのかがわからない。自然消滅するデザイアなんて聞いたこともない。

 あたしの透明化と同じようにただ姿を消しただけかもしれないが、それでもかなりの高確率でアイツはどこかへと移ったと思われる。ワープ能力を持つデザイアがいるなら、それには驚く要素など一つもないし、何よりこの予想には根拠がある。

 今思えばそうだった、橋本青年のデザイアはその欲望の特性上初めに彼の妹を狙ったが、それのおかげでデザイアの出現に気付けた。その後も全てのケースにおいてそうだった。あたし自身がデザイアに狙われたこともある。

 デザイアが他人に害を成そうとする時、それが特定の人物を狙い撃ちにした欲望でも、無差別な欲望でも、必ず初めは身近な人間を狙うのだ。きっと人間の欲望は、赤の他人を何より優先することができない。いずれは全ての人間へ害を成すつもりでも、まずは身近な人間へ関わらなければ気が済まないのだ。

 なのに彼女のデザイアはこの家から消えた。もし、この家の誰もデザイアからの影響を受けていないなら……。

「この家にいるのは菅野さんと主人の彼と、その息子だけですか」

「えぇ、そうですけど。……あの、もしかして何かありましたか」

「何もなければこんなに慌てるわけないでしょう……!」

 あたしは慌てて家中を飛び回る。息子の自室と思わしき部屋に入れば部屋の主が画面に向かっていて、あたしに気づくなりノックも無しに入るなと激怒していた。しかしそれに構っている暇もなく、適当に謝って今度は主人を探す。

 主人もまた彼の自室らしき部屋で本を読んでいた。彼は純粋にあたしの存在に驚き「どこへ消えたのかと思えば、まだいたのか」と言って目を見開いた。それにこれといった返事をすることもなく適当に「えぇ」だとか「あぁ」だとか言って、あたしは菅野さんの部屋に戻った。

 誰にも異常はなかった。なら残るはあと一つしかない。

「菅野さん、あなた父親を恨んでいないなんて嘘だ。少なくとも今の主人に対してよりは恨むなり憎むなりしているでしょう。教えて、もしあなたが今父親に会えるとすれば、そしてそこで何をしても許され何でもできてしまうとしたら、あなたはどうするの。どうしたいの」

「あの、なにを急に」

「答えてください!」

 あのデザイアは間違いなく父親のもとに向かった。それがどこなのかあたしは知らない。しかし場所だけ知っても、デザイアが何を成すつもりなのか知らなければどうにもならない。相手の特性さえわからないまま突っ込むのは、そうせざるを得ない場合を除き控えたい。わざわざリスクを背負ってもリターンは何一つないのだから。

「……あぁ、そうですね。いま、父に会えればと言われて一つ、そういえばと思い出したことがあります。欲望と言えるほどのことではありませんけど」

「言って」

「父がどんな暮らしをしているのか、本人の口から聞きたいのです」

 つまりは、娘を売っておいてどの面してのうのうと生きているんだ、と言ってやりたいわけだ。やはり彼女は父親に敵意がある。ということは、デザイアもそれと同じようになっている。

 あのメイド服まで再現していたデザイアは父親のもとへ行ってどうする気だ、シンプルに殺人でも犯す気か。それとも自分と同じように、誰かに売られてしまう体験でもさせるつもりか。前者ならともかく、後者だとどんな異能を持っているか想像もつかない。

 そうやって思考を巡らしていたところ、彼女は信じられないことを付けたして言った。

「幸せに暮らしていてくれれば、それ以上に望むことはないんですけどね」

「……なんですって?」

「父がお金の問題から解放されて、幸せに暮らしていれば良いと」

 ダメだ。もう、ダメだ。理解ができない。これ以上は時間の無駄だ。それよりもこうなったら、あのデザイアがどこへ消えたのかを知らなければ。

「まぁいい、もうなんでもいい。それで、あなたの父親はどこに住んでいるの。大体の情報でもいいから教えて」

「すみません、知りません」

「はぁ!?」

 少なくとも物心ついた時からこの家に来るまでは、一緒に暮らしていたのだろう? どうしてわからない、どうして知らない。こうしている間にも、デザイアは目的を成しえているかもしれないのに、何を言っているんだ。

「わたくしがここへ来たあとしばらくして、父はどこかへ引っ越したという知らせを受けました。ですので、今どこにいるのかは……」

「……わかった。わかりました、すみません、一度落ち着きます」

 もうここまで来れば焦っても仕方がない。場所がわからないのでは、デザイアの追いようがない。もしアイツが一瞬で父親のもとへワープする能力を持っていたとすれば、手遅れになることがもう確定している。これはさすがにあたしのせいではないはずだ。断ち切る鎌の能力で人探しはできない。

 あのデザイアのワープ能力が、単純に敵から逃れるため、距離を稼ぐためのものだと仮定すれば、まだ手遅れとは限らない。あたしは、もはやそちらの線を前提として動くしかないのだ。

「デザイアは出現しました。そして菅野さんの父親のもとに向かっています」

「欲望の化け物が、父へですか」

 相変わらず表情を変えなかったけれど、常識と呼ばれる思考の、デザイアの理解を阻害する部分だけを断ち切られた状態でなお、彼女は状況を受け入れがたいと感じているようだった。

 その印に彼女は落ち着きを取り戻すためにそうしているかのように深呼吸を一つした。その様子は冷静そのもので、全てを悟っていそうな風にさえ見えるのだけれど。それでも彼女は、彼女も、この状況に焦っている。

「それならきっとわたくしは、父に会いたかったのでしょうね。それを望んだ覚えはないのですけど、結果が出ているのならどんな言葉を並べても無意味でしょう」

「その通り。だからもう一度聞かせてもらいます。あなたは、本当に父親を恨んではいないの?」

「はい、もちろんです」

 迷いのない即答。もしかするとあのデザイアは、本当に父親に会って会話をするためだけに、姿を消す能力を使ってまでして存在しているのかもしれない。

 しかし、魔法少女としてそんな楽観的な思考を支持するわけにはいかない。神様は言った、デザイアとは「他人に害を成す」欲望の化け物であると。彼女のデザイアが本当に会話を望んでいるだけでも、最終的に穏便なまま事を終えるわけがないのだ。それがデザイアの定義なのだから。

 菅野さんの父親の所在地を知る者は、おそらくこの家の主人だけだろう。菅野さんの言い方から察するに、主人は一度大金を払って娘を買い取ったのではなく、今後の金銭的援助を条件として娘の身柄を預かっていると思われる。だとすれば、彼だけは父親の居場所を知っているはずだ。

 それにデザイアなど関係なく、彼には居場所を知っていてもらわなければ困る。彼は悪人ではないのだろう? なら、せめて約束だけは守っていてもらわないと。欲しい物が手元に渡れば金についてはシラを切っていただなんて、そんなことだけはあってはならない。

 再び主人の部屋へ行き、彼が口を開く前に鎌を振りかざす。もはや彼はいつ何時あたしが家に居ようと驚きもしなければ不快にも感じない。そしてあたしに人を買った件がバレても焦りはしない。

「あなた、菅野保奈美の父親がどこにいるか知っているな!? 金を渡しているなら知っているでしょう!?」

 ガラでもなくあたしが大声を出して問い詰めると、彼は嘲笑気味に笑ってメモ紙に何かを書くとあたしに渡した。

「あいつは引っ越したからな。私が知っている住所はこれだけだ」

 書かれていたのは銀行の口座だった。彼はあたしの手からすぐにそれをひったくると、個人情報だと言ってそれを何度も引き裂いた。

 あたしは黙って部屋を出た。望みが絶たれたのに絶望感は気配も見せず、ただイラ立ちのような物だけが次々心に溜まって消えていかない。かさばる感情に流されて、あたしは思い切り床を蹴りつけた。

 まさか何もできないのか。あたしの予想は間違ってなんかいない。デザイアは確実に父親のもとへ向かっている、そして何かしらの害を成そうとしている。そこまでわかっていて、あたしは何もできないというのか。そんな、そんな惨めなことが他にあるか……!?

 デザイアは必ずしも、欲望の主が欲を叶えたいと願った場合にのみ出現するものではない。このままデザイアが目的を達成してしまったとして、それで菅野さんが心のどこかで喜んでくれるならまだいいけれど。もしそうでなかったらあたしは、あたしはどの面さげて生きていけばいいんだ。

 こうなれば最終手段を試すしかない。神様に電話をかけて、デザイアの居場所を教えてくれるように頼むのだ。しかし十中八九、忙しい彼はあたしを相手にしてくれないだろう。仮に時間に余裕があったとしても、自分でデザイアに対処できない無能な魔法少女に、はたして協力してくれるのかどうか……。

 望みは薄いけれど、だからと言って諦めるわけにはいかない。あたしはスマホを取り出し電話帳を開く。

「あ……」

 そこには最近になって初めて登録された名前が記されていた。頭の中で、彼女の自慢げな言葉が蘇り再生される。「あ、それとねそれとね。ナインには実は、隠されし能力があるんだ」。

 もう藁にも縋る思いだった。

「はぁいもしもし、ナインだよ。デイズちゃん?」

「ナイン様! ナイン様の隠されし能力ってなんなの!?」

 あれだけ自信満々、いやそれを通り越して自信過剰とも言える態度だった彼女が、電話の向こうでうろたえているのが見えたかのように感じる。

「えっ、なに……? どうしたのデイズちゃん急に」

「お願い緊急なの、教えて。ナイン様の隠されし能力で、どこにいるのかわからない人を探すことはできない……!?」

「で、できると思うけど。ねぇデイズちゃんどうしたの……? 電話かけてきてくれたと思ったら急にそんなこと言って」

「お願い力を貸して、今すぐナイン様の協力が必要なの。お願い……」

 喋りながら、自分が泣きそうになっていることに気づく。悲しいわけでも怖いわけでもない、希望が見えかけて嬉しくて泣いている余裕もない。ただあたしは、もし今にもデザイアがそれを生んだ主の望まない欲望を叶えていたらと考えると、もう冷静でいられない。

「なんかよくわかんないけど、わかった! いいよ、ナインの力を貸してあげる」

「ほんとう……? ありがとう、ありがとう……!」

「でも一個条件がある」

「なに、なんでも言って」

「ナインはデイズちゃんが今どこにいるのか知らないし、方向音痴だから。だから、最初に会った時の交差点で待ってるよ。それが条件、迎えに来て」

「今すぐ行く!」

 事はすでに手遅れかもしれない。でもそうでなければ、事は一分一秒を争う状況になっているかもしれない。あたしが最初にこの家へ侵入した時の部屋へ向かう、あそこから飛び立つのだ。

 道中、部屋から出てきた菅野さんに会った。

「あの、大きな声が聞こえましたが……」

「心配する必要はありません。それよりも、あたしは責務をまっとうしてきます」

 それだけ言って去ろうとすると呼び止められた。

「父に会うのですか。もしそうなら、お願いします、わたくしにも父の様子を教えてください」

「当然!」

 彼女に顔も向けずに返事した。

あたしには見えない窓、触れられない窓がある部屋へ行って、そこから全速力で飛び立つ。ナイン様のうっかりミスで雲まで飛んだ時のように、そうしなければ死んでしまうという気持ちで最速で飛んでいく。透明化はもちろん発動している。

 おそらく数分も経たないうちに、魔女の中の魔女と名乗った彼女と会った交差点の上空にたどり着いた。しかし彼女は身を隠す術を持たないので、重力の魔女はそこを飛んではいない。

「うっ……!?」

 突然体が地面に引っ張られるような感覚に襲われる。けど真下に向かって引っ張られているわけじゃない。ななめに、ななめに落ちるように……。あ、いた!

 あたしが引っ張られる方向にはナインエイトが立っていた。のんきに手を振っていたけれど、あたしにも相当余裕がなかったのか、彼女はあたしと目を合わせた途端に一瞬怯えた顔をした。

「触れたら解除される。触れないように、離れないように、いいね?」

「う、うん」

 さすが無重力空間を作る能力を持っているだけあってか、彼女は完璧にあたしと付かず離れずの距離を維持して浮かび上がった。

 太陽もほとんど沈み、街の電気的な明かりが主役に成り代わっていく中、いくらかの人が突然見えなくなったゴスロリ少女に気づいていた。

「え、今そこにいた女の子消えなかった……?」

 そんな声がそこかしこから、ほんの少しずつだけど聞こえてくる。だけど大丈夫だ、姿さえ見せなければ、みんなこれくらい気のせいで済ませてくれる。彼ら彼女らもそんなに暇じゃない。

 それに今、あたしはそんなことを心配している場合ではない。どうせデザイアを野放しにする魔法少女なんて魔法少女失格だ、今は敵を捕捉することに集中しなければ。

「お願いナイン様、デザイアが発生したけど、たぶんワープ能力を持っていて、それでどこに行ったかがわからないの。なんとかできるならあなたの力を貸して」

「わかったわかった。だからとりあえず、デイズちゃんも落ち着いて」

 ナインエイトは黒色をしている杖を握る。黒ということは、重力を強める方の能力だ。

 しかし重力が変化する気配はなく、代わりに杖の先端へ徐々に漆黒の球体が形成される。それが野球ボールほどの大きさになった時、彼女はそれを手で取って見せた。

「これ食べて」

「え、これを……?」

「これは契約だよ。食べれば、一日だけ超能力を得られる。ただし人間に可能な範囲の物だけね。ゼロから何かを生み出したり、時間を操る能力は使えない。他にも無茶苦茶な能力は全部ダメ」

「じゃあ」

「千里眼は出来るよ。ただし、顔と服装のわかっている人しか探せないけど」

 楽勝だ。顔は欲望の主本人の顔を見ているし、服装なんて、あのメイド服を忘れるものか。

「完璧だ。わかった、食べる」

 焦るあまり彼女の手からひったくるようにして、その漆黒の球体をかじる。味はなくて、案外のど越しは良く、おいしいと言える部類の物だった。あたしは残りを一気に口に含んで飲み込む。

 すべて食べ終えた時、また体が引っ張られる感覚に襲われた。今度は真下だ。

「これを食べると一日超能力を得られるけど、その代わり自分にかかる重力が倍に増えるようになってる。デイズちゃんの体重が二倍になった状態になるわけだから、動きにくいとは思うんだけどこれは仕方ないことなの」

「ううん、それくらい平気」

 どうせ移動手段は飛行だ、多少勝手こそ変われど、地面を蹴って走るよりは自分の重さに影響を受けづらい。なにせあたしたちの飛行能力は元々科学的ではない力で重力に逆らっているのだ、今さら不可能があったものか。

 そして確かに集中するまでもなく、早く行かなければと思っているだけでデザイアの姿が確認できた。ソイツが今どこにいるのかも座標でわかる。幸運にも、彼女は高速で移動中だった。まだ目的の場所には着いていないのだ。

「ごめんナイン様、お礼はあとで必ずするから!」

 どうやらデザイアのワープ能力には距離制限とクールタイムがあるらしく、一度に一定以上大きな距離は進まないし、一度ワープしてから十秒はその場から動かない。これなら全力で追えば間に合うかもしれない。

 透明化をあたしに依存している彼女をできるだけ人目の少ない地上に下ろしてから、あたしはその場から飛び立った。ロクなお礼も言わず、恩人に無礼な別れを告げるけれど許してほしい。必ず成功の報告を持って帰って来るから、今はどうか。

「じゃあナインここで待ってるよー?」

 遠ざかる彼女の声が聞こえた。急なことでわけも分からないまま協力してくれただろうに、あの子は本当に、本当にいい子だ。あたしは良い友達に巡り合えた。

 自分の飛んでいる位置とデザイアのいる位置が、レーダーに映る点のように頭の中で表示される。そしてその二点は少しずつだけれど近づいている。間に合うのだ、このまま追いかければまだ間に合う。

 また、頭の中に浮かんでくる映像はレーダーだけではない。デザイアの姿も今度はワープで消え去る能力に関係なく、常に姿を追えるので正確に捉えられる。いかんせん日が沈んで暗いために初めは見間違いかと思ったが、何度も見るうちにその姿を確実に把握することができた。

 顔がなかった。そのデザイアはほとんど全て菅野保奈美そっくりの姿をしているのに、顔面には何もパーツが配置されていなかった。肌色の皮が広がっているだけののっぺらぼう、それがデザイアの化け物らしい要素であった。

 追いかけることに必死で精神と体が上手く繋がって機能していないのか、もっと速度を上げて進みたいと思うくらいなのに、一方で次の瞬間には嘔吐してしまいそうな気もする。たぶん代償としての体重増加で高速飛行による体への負荷が増しているのだ。普段のあたしなら、神様の手荒な輸送でもこんな感覚には襲われないのに。

 どれくらい頭の中に映る点を追いかけただろうか。ついにあたしとデザイアの間の距離が、ほぼゼロになったかというところまで来た。しかしその時、これまでずっと夜の街を転々とワープするデザイアを追っていた映像に、別の景色が映った。

「やばい……!」

 ヤツは屋内に入った。そしてデザイアの目の前に一人の男が立っているのが、あたしの脳内に映される映像からでもわかる。デザイアは男の背後に立ったのだ、つまりその男が欲望の主、菅野保奈美の父親だ。

 デザイアの侵入した建物は普通の一軒家だった。それが父親の現在住んでいる家なのだろうけど、肝心の彼は背後の化け物に気づいていない。このままじゃダメだ、最悪彼は殺される。

 あたしの肉眼でもその家が確認できた。ちょうど飛び込めば通れそうな大きさの窓を見つけたけれど、今は鎌を使って窓があたしに干渉する部分を断ち切ってなんておしとやかなことをしている場合ではない。ヤツはもう目的の男の背後に立っている、コンマ数秒を争う時なのだ。

 窓くらい突き破ってやる。どうせ体重が増えているというなら利用しない手はない。高速で飛んでいるあたしは元々のままでも結構な質量の塊であるはずだから、今ならこのまま突っ込んで窓も容易にぶち破れるだろう。

 肩から落下するように窓へ向かって突っ込むと、それはガラスではなく薄い氷の膜で出来ていたかのようにほぼ抵抗なく粉々になった。

 ガラスの割れた音が響き渡る。やっと追いつき家の中に侵入した時、デザイアは背後から父親に抱き着こうとしていた。そして父親はガラスの音に驚きこちらを振り返り、自分の娘にそっくりな、顔のない化け物を見てしまった。

「そおおおおおりゃあああああああああああ!!」

 窓を割り床に転がった時に受け身を取れなかったせいか右腕の自由が利かず、左腕にも体験したことがないほど熱がこもっていて焼けるように熱い。でも、それでもあたしは執念だけで、慣れない左腕だけで鎌を振るった。

 刃を受け、泡になっていく顔のない化け物。ソイツは最後に、口もないはずなのにうわ言のように呟いてから消えていった。

「おとうさん…………」

 ……デザイアは消滅した。けどそれだけで解決したわけではない。鎌を避けようとしたのか尻もちをついていた菅野保奈美の父親が、この外道があたしのことを、化け物を見るような目で見てくる。

「あんたが……」

「ま、待て、助けて」

「あんたが娘を売ったのか。あんたが」

 あたしの鎌は人を斬るための物ではない。魔法少女になった己の異質さを誤魔化しつつ人間に紛れて暮らすため、そしてデザイアを消滅させるためにある物だ。

 でもその気になれば、デザイアを消滅させられるのだから、それと同じように人だって消滅させられる。決して不可能なことではない。

 ものすごいスピードで窓を割りながらほとんど重力に逆らわず落下するように着地して、元からなんの技術もない受け身をなおさらロクに取れなかったからだろうか。それともせっかく救ってやったこの最低な父親から、化け物を見るような目で見られたからだろうか。あたしは自分の脳が沸騰してまともじゃなくなっていることを自覚していた。

「いっそお前みたいなやつ殺して……」

 殺してやろうか。そう言おうとした。本気でそうするつもりだったのかはあたしにもわからない。

 けれど偶然、立てかけてあった写真が視界の端に映った。にこりとも笑わない小さな女の子と、満面の笑みの男が映っている。男の方は、目の前の外道を少し若くしたように見えた。笑わない女の子の感情の感じられない目には見覚えがあった。

 腕に込めていた力を抜く。だらんと垂れ下がった腕は両腕とも、もう二度と動かせる気がしない。それくらい途方もなく重かった。

「……ねぇ、幸せ?」

「は、はあ……?」

「あなた、生きていて幸せ? ……答えろ」

 男はいい歳して未成年の女に睨まれて足を震わせながら、腰でも抜けたのか倒れたままで答えた。

「し、幸せだよ」

「お金に困ってない?」

「そ、そうだ、困ってない。もう二度と困らないんだ」

「……娘さんには、どう? 会いたい?」

 あたしの問いに、彼は目を丸くした。そして全てを悟ったように突然落ち着いて、

「あぁ、お前もしかして、保奈美の友達か……?」

 彼は彼で冷静さを失って、まともな思考ができる状態ではないようだった。持ち上がらない腕を、体全体を使って鞭のようにしならせ、鎌を投げる。

「あっ」

 間抜けな声を出した男は頭をかばうように腕で鎌を防ごうとして、そのまま気絶した。これで、彼の記憶からあたしの存在は消えた。

 さて、戻らなければ。と振り返ると、割ったはずの窓が元通りに戻っている。

 そういえば、デザイアが消えた場合、デザイアによる全ての影響は無かったことになるのだったか。ああ、もしかしてそれなら、この男を一度デザイアに殺させてから、元に戻すこともできたのかもしれない。冷静さを欠くと思考力が低下していけないな。

 でもこの窓はあたしが割った物なのに、それも含めて「デザイアの影響」としてくれるのはありがたい。ということはあたしが鎌を使うまでもなくあの男の記憶からは、あたしという魔法少女の存在諸共、全てが忘れ去られていたのか。いや本当に、冷静さを欠くと馬鹿なことばかりしてしまう。元々馬鹿ではあるのだけれども。

 投げた鎌を拾って、腕が上がらないので足を使って刃を持ち上げ窓に当て、あたしにだけ干渉しないようにする。透明化を発動してからそこをすり抜けて外に出る。

 外に出た時に初めて、窓が割れた音さえ近隣の人間の記憶から消されていて良かったと気付けた。あれだけ派手に割ったんだ、デザイア消滅時のリセット効果がなければあたしは終わっていた。

 それにしても体が重い。ナイン様の能力による代償はデザイアの影響にカウントしてくれないらしい。

「……あれ?」

 それにしたって何かがおかしい。そう思って自分の体を見てみると、あちこちから血が流れだしていて、右腕なんか骨がなくなったみたいにプラプラと揺れている。

 ああ、そういうことか、と理解する。だんだん法則を理解してきた。

ナイン様の能力の代償だって、ちょっと体中が慣れない感覚に浸っていて断言はできないけれど、たぶん継続している。……その証拠にナイン様を思い浮かべれば、夜の街でスマホをいじりながらあたしの帰りを待つ彼女の姿が、頭の中に映像として浮かび上がった。

 全身が痛い気がする。痛いのではなくて、熱い気もする。それなのに、なんだか震えるほど寒い。その上さらに体も重いのだからこれはもうダメだ。インフルエンザにかかってもこんな体調にはならない。

 なんとか残った力で飛行能力を使い、まずは今回のターゲットであった菅野保奈美のもとへ戻ろうとする。父親の様子を報告すると彼女に言ってしまったから。これを成し遂げるまで、今回のあたしの仕事は終わったとは言えない。

 朦朧とする意識の中で、あたしは今回の教訓を忘れないように頭の中で何度も繰り返す。

 デザイアによる影響はデザイアが消滅し次第、元から何もなかったかのようにたちまち消え去り元通りになる。……ただし、デザイアの敵である魔法少女への影響については、その限りではない。

 デザイアを捕捉するために得た能力とその代償も、デザイアを消滅させる過程で受けた傷も、あたしを含めきっと全ての魔法少女から、デザイアの消滅を理由に消え去ったりはしない。理由はわからないけれど、デザイア側からの「敵」へのささやかな報復なのかもしれない。

 こんな目に遭って、ようやくそんな基礎事項のようなことを知るなんて。さすがに神様も不親切すぎる。けれど思えば、あたしたち魔法少女からは当然のようにデザイアについての記憶が残るし、今回あたしはデザイアが消滅したあとに起こることを全て失念していたのだから、文句を言う筋合いはないのかもしれないけれど。

 二度とこの法則を忘れるものか。そう強く誓う意思が、だんだん遠くへ行ってしまう気がする。意識が、遠のいていく。ちょっと眠いだけだ……と考えるのは、さすがにもうダメか。

 

 自分が起きているのか寝ているのかもわからない。でも、あたしの執念は、あたしが思っているよりも遥かに恐ろしいものだった。

 気づいたら菅野保奈美のいる大きな家に帰ってきていて、彼女の部屋の前に立っていた。床には少しだけ血のしずくが、不規則に落ちている。

「デイズさん……? どうしたのです」

 やはり彼女の表情は変わらなかったけれど、今回は声が震えていた。あたしに駆け寄っていいものか、触れていいものかわからず、おろおろとその場に立ち上がっては挙動不審になっている。

「菅野さん聞いて」

「それよりもまずは手当てを」

「聞いて」

 ほとんど執念、意地だけで話すあたしの声に圧倒でもされたのか、彼女はそれきり喋らなくなった。さぁ、さっさと伝えることを伝えて去ろう。

「お父さん、幸せだって」

「えっ……?」

「お金に困らず、幸せに暮らしているってさ。……それだけ」

 写真のことは言わない。なぜあの男が幼い娘と一緒に撮った写真を未だに飾っていたのかが、あたしには理解できないから。そもそも目の前の彼女のことだって理解できず、あたしは脳みそを空っぽにしてありのままを伝えるだけの機械になる。

「……そうですか、幸せだと言っていたんですね」

「えぇ」

「そう……。あの、デイズさん、ありがとうございます」

 彼女の微笑みを初めて見た。あたしへの労いではない。報告を聞いた時にはすでに、彼女は幸せそうに微笑んでいた。

 もうあたしには何もわからない。何も考えたくない。この家とは、菅野保奈美とはこれでお別れだ。彼女について考えることを、あたしはもうやめてしまいたい。

 別れの挨拶もロクにせず家を出た。次はナイン様へ会いに行かなければならない。今回、彼女にはいくらお礼を言っても足りないくらいだ。

 あたしの傷は、たくさんの箇所から血が流れているとはいえ、どれもガラスの破片で少し切ってしまった程度の物だった。ナイフで深くえぐられるほどの致命傷ではない。それにここまで飛んで帰って来る間に、傷口の血はほとんど固まった。これくらいなら、きっと死にはしない。

 ……まぁ、飛行中の記憶がないのだけれど、それでも目的地に帰ってこられた上ギリギリ意識が残っているのだからいい方だろう。

 千里眼の能力でナイン様が待っている地点ピンポイントに駆けつけると、彼女は一瞬叫びだしそうな顔をした。でも、寸でのところで抑え込む。いやはや、そこで声を上げないのは本当に偉い、さすが魔女の中の魔女だ。目立たないための心得をちゃんと理解している。

「で、デイズちゃん。なんでそんな」

「いいからほら、おいで」

 またしても彼女は絶妙な距離を維持して一緒に飛んでくれる。今度は人気のない場所から飛び立ったので誰にもバレていなかったと思う。

「ごめんね、こんなグロテスクな恰好で。でもナイン様にはどうしてもお礼を言いたくて」

「そんなのどうでもいいから……! デイズちゃん、ねぇそれ治せるんだよね……? デイズちゃんの鎌で、ナインには難しくてよくわからなかったけど、その能力で治せるんだよね……!?」

 泣きそうな顔をしたナイン様の顔がネオンに照らされて、ちょっとロマンチックに見えた。この状況で何を言ってるんだって話だけど。

「治せるよ。……でも、もう腕が上がらないの」

「え……」

「鎌も握ってるけどさ、もう手の感覚がなくてよくわからないんだ。どうやって握った手を開けばいいのかもわからないくらいでさ」

「で、でもそれでもその鎌を使えば!」

 もちろん治る。あたしから傷という傷すべてを断ち切れば、あっという間に復活だ。そのために、動かない腕をどうにかして動かす必要があるけれど。

「ごめんねナイン様」

「なんで、なんで謝るの」

「お礼言いに来たって言いつつ、あたしまたナイン様に助けてほしい」

「助ける! どうすればいい!?」

 きっと出来るだろう、魔法少女の武器は、持ち主本人にしか使用できないというルールなんて聞いたことないし。……いや、デザイアが消滅した時の効果と魔法少女のことも、聞いてはいなかったけれど。でもたぶん大丈夫だ。

 目線を送って鎌を指し示す。

「それであたしのこと切って」

「え……?」

 絶句する幼い少女の表情は、そうそう見る機会のあるものではないと思う。

「あたしの傷が、あたしから断ち切られますようにって思いながら切るの」

「えっ、え……? 切るの……?」

「そう。大丈夫、軽いし刃はすり抜けるし、簡単だよ」

「す、すり抜けるのに切る……? えっ……?」

「切るフリをするって言えばわかるかな。とにかく、お願い」

 彼女は重力を操る魔法少女だ。それに、特殊な能力を持っていても結局中身は中学生だ、ちょっと態度が特殊な中学生でしかない。きっと刃物を人に向けたことなんてないのだろう。安全とわかっていても、手が震えるくらいには慣れていない。もしかすると包丁を握ったことさえなかったりして。

 震える手で彼女はあたしの手から鎌を取る。あたしの体に触れないように慎重に。握ったままで拳の開き方がわからなくなっていたとあたし自身は思っていたけれど、鎌はいとも簡単に彼女の手に移った。

「い、いくよ……? いいんだね……?」

「うん。あたしの傷を断ち切ろうって、ちゃんと思いながらじゃないとダメだよ」

「わ、わかった。……うぅっ!」

 目を閉じて顔をそむけて、彼女は一思いに鎌を振り下ろす。一応武器の持ち主であるあたしも、あたしの体から傷が断ち切られますようにと念じておく。

 刃なんて目に映るだけで実際は存在しないのではないか。そう思えるほどなんの引っ掛かりもなくそれはあたしの体をすり抜けた。その瞬間、常に半分どこかへ置いてきてしまったようだった意識が一気に覚醒する。

「ね、ねぇデイズちゃん、上手くできた……? あ、血の跡とかがなくなってる……」

「…………」

「で、デイズちゃん……? なんで何も言わないの? ねぇ、ねぇ!」

 彼女に悟られないように、小さく静かに息を吸い込む。なんのためにって、もちろん大きな声を出すために。

「デイズちゃん、ふぅぅぅぅぅっかぁぁぁぁぁぁっつ!!」

 がばっ、と腕を大きく広げて動物が威嚇するようなポーズを取る。

「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃ!」

 ナイン様が手で顔を隠すような体勢になって縮こまった。

「どう、驚いた?」

「うぅっ……えっぐ……うぅー……! うぅあー……!!」

 街の明かりがよく反射するので、彼女の頬に涙が伝っていることはすぐわかった。あぁ、やべ、泣かせちった。どうしよ。

「ご、ごめん。ちょっと出来心というか、悪戯心が」

「うわぁぁぁん……! バカ! バカバカバカバカ、びっくりしたぁー……! びっくりしたし、死んじゃったかと思った……」

「ごめん、ごめんなさい! 恩人になんてことしたんだろうあたし、ごめんなさい……!」

「うぅう……、いいよ、許してあげる。ナイン優しいから」

「ありがとう……!」

 本当に優しい、なんて心の広い人なのだろう。思いついてしまったから悪戯してみたけれど、よくよく考えればあたしが逆の立場ならマジギレしていたかもしれない。

「でも、もうやめてね……」

「はい、二度としません。デイズは誠実に生きます」

「うん、ありがと」

「それと今回は協力してくれて本当にありがとう。おかげでデザイアは倒せたよ」

「おぉー!」

 一瞬自分のことかのように喜んでくれたナイン様だけれど、突然ハッと気づいたような顔をすると、

「あ、違う。ちゃんと、お礼言うならありがとうございましたって言って!」

 と言ってきた。歪みないなぁ。

「ありがとうございましたナイン様」

「ふふん、どうしたしましてー」

 満足気に、にこっと笑う彼女は本当にかわいらしかった。叶うことならこれからも、彼女と一緒に魔法少女として生きていきたいと思うくらい、あたしはナイン様が気に入ってしまった。

 けれど、体が天から吊られているかのように浮いていく。生命の危機も脱したということで、もうここでの役目は終了ということか。

「あ、ごめん……じゃなかった、ごめんなさいナイン様。あたしもう次の場所へ飛ばされるみたい。恩返しとか出来なくて本当にごめんなさい」

 勝手に浮かび上がる体がナイン様から離れていく。……と、半透明になっている自分の体を見て思い出した。

「あ、ナイン様やばい、離れると透明化が!」

「えっ!? あっ!」

 あわてて彼女があたしに付いてきて上昇していく。

 このままいくとまた怖くなるほど高い所へ行ってしまうと察したのか、ナイン様は杖を出すとまたあの黒い球体を作り出し、それを小さな口でもぐもぐと、それでも一瞬のうちに食べた。

 ナイン様の体が透明化していく。

「体が重くなるから好きじゃないけど、ナインもこういうことできるんだよ」

「さすが! ……それじゃあお別れだけど、恩返しできないのは本当にごめんなさい」

「ううん、全然いいよ。助け合いが大事だし」

 ナイン様は聖人なのかもしれない。初めて話した時には気づけないけれど彼女には、ちょくちょく多少尊大な態度を取るだけの権利があると思う。こんな聖人にちょっとした態度について程度で文句を言えるほど清廉潔白な人はきっといない。

「また会えたらその時必ず何かお返しするから!」

「楽しみにしとくねー!」

 際限なく上昇していくあたしに手を振るナイン様の透明化がどんどん進行していき、最終的にはあたしと違ってまったく見えないようになっていった。

 きっとあたしの能力は一般人に認識されなくなる能力で、半透明になるのは能力が発動してしますよというサインの意味でしかないのだろう。逆にナイン様が一時的に得ている能力は、完全に透明化するだけの能力なのだと思われる。透明になるだけでは当然音までは隠せないので、自分が出す音などには気を付けてほしいものだ。

 街全体どころか、隣の街や、さらにその向こうの夜景まで見える高さにまで体が上がっていく。夜に移動が始まるとこれがあるからいつもより少しだけ楽しい。

 と、ゆっくり楽しむ暇もなく体が真横に引っ張られる。

「うぅっ……」

 でもなんだかこの手荒な移動にも、今日デザイアを追いかけたことで少し慣れた気がする。……いや、本当に少しだけれど。じゃあもっと手荒にしていいよね、とか言われたら今度こそ死んでしまうけれど。

 神様、ぜひお手柔らかにお願いしたいです。

 

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