ここ数日、
食欲が無く、酒も不味く、寝付きも悪い。
原因ははっきりとしていた。
成瀬は、結婚してからずっと味気ない生活を送っていた。講師時代の三十歳のとき、助手をしていた
学内の実力者であった義父の引き立てでトントン拍子に出世したこともあり、周囲からは羨望の眼差しを受けていたが、実生活は砂を噛むような味気ないものだった。
お嬢様育ちの里美は、新婚当初から家事一切を家政婦に任せたため、成瀬定和は彼女の手料理を一度も口にしていない。それどころか、今年の春、十六歳になった一人娘の
それだけであれば、定和はなんとも思わなかった。夜の営みは、結婚二年目に葉子が生まれたのを機にめっきり少なくなり、互いに無関心になっていったが、その分学問に没頭することができたお陰で、三年前に四十五歳という若さで教授の席を射止めた。
里美も天下の帝都大学・大学教授の妻の立場に満足し、尻を叩くようなことはなくなった。実父誠一は次期大学長の有力候補で、首尾よくその椅子を射止めることが出来れば、教授の身分となった夫定和の、学部長昇進への道筋が見えてくるからである。
二人は、たまに肉体を求め合うことはあったが、それは愛情の確認ではなく、現状維持を確認する儀式のようなものになっていた。どちらかが身体を求めたとき、それはこのまま夫婦関係を続ける意思を表明したことになり、それに応ずれば同意したことを意味していた。
むろん確認したわけではなかったが、定和は里美にも同様の意図があり、両者の間には暗黙の了解があったと確信していた。
いわゆる仮面夫婦ではあったが、お互い無関心になっただけで、決して嫌いになったわけではなく、また相手の存在価値を認めていたので、離婚する気も全くなかった。
ところが一年前、定和はひょんなことから妻の浮気を知った。文学書の出版のため、出版社の編集員と赤坂クイーンホテルのロビーラウンジで打ち合わせをしていたところへ、中年の男性と腕を組んだ里美が姿を現したのである。
二人は、まるで部屋まで待ちきれない恋人同士のように、身体を絡めながらエレベータの中に消えた。
定和は、里美の浮気自体はそれほどショックではなかった。とうの昔に正常な夫婦関係は終わっていたし、日毎に派手になってゆく化粧や服装、そして自分には一度も見せたことのない色気を目の当たりにする度に、彼女の背後に男の存在を感じ取っていたので、取り立てて動揺することもなかった。
問題は、彼自身が浮気の
里美の相手が見知らぬ男であれば、そのようなことは起こらなかったのかもしれないが、彼女の肩を抱いていたのが、大学の同級生で、当時彼女の婿候補として最後まで張り合った
その嫉妬心が、自分を裏切った里美や森永に対する憎悪ではなく、妖しい炎の点火となって具現化されたのだった。
妻の浮気を目撃したことで、心の眼のフィルターが取れた彼が、あらためて周囲を見渡してみると、端正な美貌の仁科奈津子が目に留まった。
彼女は里美と正反対の女性だった。定和は、何事にも控えめでおとなしく、それでいてゼミの飲み会などでは細かな気配りをしていたのを思い出した。彼女は勉学に熱心で成績も良く、将来は大学に残る希望を持っている。
定和は、あらためて自分が求めていたのは、彼女のような女性だと勝手に思い込むようになった。恋愛経験の少ない中年男性の都合の良い錯覚であるが、彼は初恋をした少年のように、奈津子に感情移入していった。
とはいえ、生来生真面目な性格の定和が、積極的にアプローチをするようなことはなかった。彼は、これまでどおり実直に教育指導を行った。ところが、彼は普段どおりに接していたつもりでも、燃え滾る心の炎は奈津子の心を暖めて行っていた。
定和の意識の外で、言葉の一つ一つに、彼女に対する情愛が込められていたのである。それを敏感に感受した奈津子の心も化学反応を起こし、しだいに定和を意識するようになった。
元々、奈津子にはファザーコンプレックスがあった。幼くして両親が離婚し、女手一つで育てられたせいか中年の男性に父の面影を追っていたのである。
二人の距離は、奈津子が卒業論文の相談を持ち掛けたことで一気に縮まった。論文指導の名目で、教授室で二人きりになることも多くなった二人が、心の垣根を飛び越えるのは時間の問題となったのである。
ある夜、ついに奈津子を抱いた定和は、初めて味わう官能に酔いしれた。里美とは一度も体験したことのない全身が痺れるような一体感を覚えた。彼はたった一度の交わりで、里美との十八年の夫婦関係を凌駕してしまったような気がした。
里美との夫婦生活が濃密なもので無いことは定和も実感している。そもそもが、大恋愛をして一緒になったわけではない。義父となった成瀬誠一・文学部学部長の強い勧めに応じたものだった。
それは大学における自分の将来を鑑みてのことであり、そこには打算以上の愛情はなかった。当時の里美に、どのような打算があったのかは知る由もないが、彼女も同様だったに違いない。
それでも、夫婦関係は始めから今のようではなかった。少なくとも、里美は森永ではなく定和を選んだのであり、そこに愛が全くなかったはずはない。
事実、新婚当事は貪るようにお互いの身体を求め合った。それは、単に欲望の赴くままの性交ではなかったはずである。
だが、定和はまもなく里美との性交に厭いた。里美の肉体に厭いたのではなく、感情を伴わない性交に厭いたのである。
絶対量に程遠い愛情はすぐに枯渇した。愛情の通わない性交は、もはや排泄処理以外の何者でもない。排泄処理ならば、何も妻でなくても事足りる。妻や恋人との性交が単なる排泄行為と異なるのは、そこに相手への情愛が伴っているからである。
だが、定和は里美との性交に愛情を注入できなくなった。
それでも、少しでも里美の愛情を感じれば、定和の心も留まっていたのだろうが、彼女も同様であることが分かった瞬間、二人の夫婦としての実質は終焉したのである。
それに対して、奈津子との性交には実質があった。どこから湧いて来るのだろうかと思うほどの愛しさに満ち満ちていた。彼女の、必死に堪えながらも、口を塞いだ手の隙間から漏れ出す喘ぎ声が、まるで天使の鳴き声のように尊く耳に響くほどであった。
定和は、二周り以上も若い奈津子にのめり込んで行った。失った青春を取り戻すかのように、彼女との時間を謳歌した。
一方で妻の里美は黙認した。
夫の言動の変化、その色艶、かつてない覇気に女の存在を嗅ぎ取ったが、嫉妬心を後ろめたさから逃れられたという開放感が上回った。彼女にも、僅かではあるが心の片隅に罪悪感というものがあったのである。これで、誰に気兼ねすることなく森永彰宏との関係を継続することができると安堵したのだった。
それまで里美だけの浮気という不均衡だった夫婦関係が、定和の浮気――彼はあくまでも本気なのだが――で再び均衡を取り戻した。お互いに愛人を持つという歪な関係だが、テミスの秤のように絶妙の精神的なバランスを取り戻したのである。
ところが、そのバランスは奈津子の妊娠という形で脆くも崩れた。しかも、再び崩れたその不均衡さは前の比ではなかった。遊びにしろ本気にしろ、本人同士のみの関係性であればそれほどでもなかったが、そこに新しい命の息吹が加わった瞬間、二人の、いや森永と奈津子を加えた四人の立ち居地に大きな変化が生じたのである。少なくとも定和自身はそう感じた。
定和は迷いに迷った。
奈津子を選び新しい人生を歩むか、これまでの人生を踏襲するか悩んだ。奈津子を選んだとしても、彼女の気持ちを確認したわけではない。二十六歳も年上の自分を拒む事も考えられる。
家庭に恵まれなかった彼女は、切に子供を生みたいと願ってはいるが、シングルマザーの道を選ぶことだって有り得るのだ。
仮に彼女が応えてくれたとしても、今の地位と未来の栄達を失うことは必定で、学会における義父の権勢を考えれば、地方の無名な大学の教授職に有り付くのが関の山であろう。
一方で、中絶を望むことは彼女を失うことであり、再び虚飾と欺瞞で塗り固められた牢獄に戻ることである。
定和にとって、それはある意味で死より辛いことだった。奈津子を知る前ならば何でもないことだったが、知った今では、その虚しさが何十倍も巨大化しているのが分かるからである。彼にはそれに耐えられる自信がなかった。
定和は、この先奈津子以上の女性と巡り会う幸運など訪れないということも分かっていた。彼は人生最大の決断を迫られていたのだった。