智の系譜Ⅱ(殺意の微笑)   作:安岡久遠

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第三章 ホテル裏殺人事件

 翌早朝、東の空が白み始めた頃――。

 光智は、ベッドと同化して泥のように眠る恭子にメモを残し、一人で散策に出た。

 つい先ほどまでの激しい愛の交流で火照った身体を冷ますために、日が昇る前の澄み切った空気の中に身を晒すことにしたのである。

 三方を山々に囲まれた京都の夏は蒸し暑いことで有名だが、東の空に薄紫色に染まる雲が残っている夜明け前はさすがにまだ清々しい。

 このホテルは、やんごとなき旧皇族の別邸だったのを、今のオーナーが買い取って、敷地内に近代的なホテル増築したたものである。そのため、ホテルのビル以外はほとんどそのまま手付かずになっており、表側は日本有数にも数えられる日本庭園が、裏側は緑豊かな丘陵となっていた。

 光智は、暫しホテル自慢の日本庭園を散策していた。

 三十分も経っただろうか、自然の営みを堪能した光智が、そろそろ部屋に戻ろうと踵を返そうとした、まさにそのときだった。いきなりホテルの裏側からけたたましい犬の鳴き声が聞こえてきた。ずいぶんと遠くではあるが、その吼え様は尋常でないとわかる。

 ホテルの敷地内に犬がいるというのも妙に思ったが、それはともかく、声の低さから大型犬だと推測され、自分と同じように散歩している誰かが、敷地内に迷い込んだ野犬にでも襲われていれば大変なことになると思い、急いで裏手に回った。

 ホテルの裏は、小さな日本庭園の先に森が続いていた。犬の鳴き声はその森の中から聞えて来る。

 光智は、ためらうことなく森の中に入っていった。森と言っても、そこはさすがにホテルの敷地内だけに、草木が鬱蒼としているようなことはなく、散歩のための遊歩道が整備されていた。

 その遊歩道から外れた樹木の生い茂った方角から聞えて来る鳴き声を頼って分け入って行くと、そこに人影はなく、地面に向ってしきりに吼え続けるラブラドールレトリバーがいるだけだった。

 人が襲われているのではないとわかり、光智は踵を返そうとしたが、いっこうに鳴き止まない異様な光景に不吉な予感が働いた。

 そこで、ラブラドールレトリバーを刺激しないようにゆっくりと近づいて行くと、首輪が嵌められているが確認された。野犬ではなく誰かの飼い犬が迷い込んだものなのだろう。飼い犬であれば危害を加えられる可能性は少ないが、何せ異常な興奮状態であるため、気を抜くことはできない。

 光智がさらに近づいて行くと、気配を察したラブラドールレトリバーは、まるで彼に見せ付けるかのように地面に口を近づけ、何かを銜えて引っ張り出した。

 光智には、それが人間のものと見られる手首から先の部位だとわかった。ラブラドールレトリバーはその袖口を銜えて引っ張ったため、地中から肘から先が露わになった。

 よしよし、と光智は興奮を鎮めるように声を掛けながらラブラドールレトリバーの横にしゃがみ、その手が間違いなく人間のものであることを視認した。

――ああ、また死体の第一発見者になってしまった。 

 光智は苦笑しながら、すぐさま一一〇番通報をした。

 彼は四ヶ月前に起こったブックメーカー事業に絡む連続殺人事件でも、一つの殺人現場に出くわし、容疑者扱いまでされていた。それがきっかけで、事件の捜査に首を突っ込むことになったのだが、どうやらよくよく死体と出会う巡り会わせに生まれ付いたらしい。

 光智は恭子にもメールを送った。第一発見者として事情聴取されれば帰りが遅くなるからである。

 やがて、機動捜査隊の臨場があり、続いて所轄である東山署の捜査員が到着した。

 時ならぬ数多くのパトカーのサイレンに、ホテル関係者や宿泊客が続々と詰め掛け、現場は騒然となった。

「彼が第一発見者で、一一〇番通報をした別当さんです」

 機動捜査員から紹介され光智が軽く会釈をすると、

「東山署の須賀です」

「同じく辰巳です」

 と、二人の刑事が警察手帳を見せながら口々に名乗った。

 須賀は五十手前の熟練刑事、辰巳は二十代中頃と思われる若い刑事だった。

 須賀が口火を切った。

「さっそくですが、発見時の状況についてお尋ねします。貴方が遺体を発見された時刻は、五時頃ということになりますが、なぜそのような時間にこの辺りをうろついていたのですか」

 言葉は丁寧だが、表情は厳しかった。第一発見者を疑うのが殺人事件の鉄則からいえば当然のことではあった。

「なかなか寝付けなかったものですから、気分転換に散歩をしていたのです」

「ということは、このホテルにお泊りなのですね」

「そうです」

「それにしても、明け方に森の中を散歩とは酔狂ですね」

 口調に皮肉がこもっていた。

「いえ。表の日本庭園を散策していたのです」

「それが、なぜ裏手に?」

「犬の鳴き声がしたのです」

「犬? どこにもいませんが……」

 そういえば、いつの間にかラブラドールレトリバーがいなくなっていた。大勢の人間に気後れでもしたのだろう。

「ラブラドールレトリバーがしきりに鳴いていたので、気になってやって来たのです」

「そこで遺体を発見したということですね」

「ラブラドールレトリバーが袖を加えて、肘から先を引っ張り出したので、人間のものだと確認し通報しました」

「なるほど。ところで、別当さんはどちらから京都へ」

 来たのか、と訊いた。

「東京です」

「いつからですか」

「昨日です」

「お一人で」

「いえ。違います」

「京都へは観光ですか」

「はい。五山送り火を観賞しに来ました」

「ほう。五山送り火をね……しかし、よくこのホテルが取れましたね。いつ予約されたのですか」

「二週間前ですが、それがどうかしたのですか」

 光智には須賀の言葉の意味がわからなかった。

「このホテルは、とても有名なホテルでして、日頃から満室に近い状態なのですが、とくこの時期はなかなか予約が取れません。お分かりと思いますが、五山送り火を観賞するには絶好の場所にありますからね。早ければ一年も前から予約が入ります。ですから、よく部屋が取れたものだなと思いましてね」

「では、私は大変に幸運だったのですね」

「そういうことになりますね。失礼ですが何号室ですか」

「EX―Rです」

 光智はカード式のキーを見せた。

「EX―R? こ、これは……もしや、特別室では」

「そうです」

 光智は平然と答えた。

「そうですって、君。特別室っていうのは、両陛下もお泊りになったこともある、滅多な者では泊まれない部屋なのだよ。その部屋にどうして君が……」

 須賀が釈然としない口調でそう言ったとき、彼の携帯電話が鳴った。

「ちょっと失礼」

 須賀が五、六歩下がって身体を翻した。代わって辰巳が訊いた。

「詳しい検死はこれからやけど、先ほど鑑識から、遺体の死後硬直の状況から、死後四、五日程度経っているとの報告があったんや。あんた、その頃どこに居った」

 ずいぶんと礼儀知らずな物言いだった。

「四日前は富山の宇奈月温泉、五日前は東京にいました」

「ちなみに、宇奈月温泉から京都までの間はどこに居ったんや」

「宇奈月の後、片山津、山代、芦原と一泊ずつして、昨日京都に着きました」

「じゃあ、東京のご住所と連絡先を教えてくれるかな」

「まるで、重要参考人か容疑者扱いですね」

 光智は少し揶揄して言った。若い辰巳には、それが気に入らなかった。

「嫌や言うのんか。なんなら、署で話を聞いてもええんやで」

 礼儀知らずに高圧的な態度が加わった。

「任意同行なら拒否しますよ」

 光智もつい高揚した口調になった。

「生意気な。あんた、第一発見者にしてはおかしいんや」

「どこがですか」

「こんな夜も明けんうちから、散歩なんてどう考えても挙動不審やろ。犬かてどこにもおらんやないか」

「……私が犯人だとでも」

「遺体の状況を確認しに来たとも考えられるしな」

「もしそうだとすれば、夜中にしますよ。第一、警察に通報したのは私ですよ」

 光智は呆れ顔で言った。

「裏になんか魂胆があるとも考えられる。その辺をゆっくり聞かせてもらってもええんやで」

「ばかばかしい」

「なんやと」

 辰巳の昂じた声を出したとき、電話を終えた須賀が戻って来た。

「辰巳君、止めんか」

 須賀は辰巳を一喝すると、光智に向かって丁重に詫びた。

「申し訳ありません、別当さん。ずいぶんと乱暴な物言いでした。彼には重々注意しておきますので、ご無礼の段、お許し下さい」

「須賀さん、どうしたというのですか」

 深々と頭を下げた須賀に納得いかない様子の辰巳が訊いた。

「上からくれぐれも別当さんには失礼のないようにとの通達があったんや」

「上って、課長からですか」

「もっと上や」

「署長ですか」

「……」

 須賀は無言で首を横に振った。

「署長の上って、まさか府警本部長、ですか」

「そうや」

「ど、どうして本部長が」

「君もブックメーカー連続殺人事件を知っているだろう」

「はい」

「あの難事件の解決にご協力頂いたのが、この別当さんなんや」

 えっ、と辰巳の目が丸くなった。

「では、警視庁の辣腕刑事たちですら及びもつかない類稀な推理力で真犯人を追い詰めた帝大生というのが、彼なのですか」

 辰巳は気弱な声で言った。

「それだけじゃないぞ。本部長には、長官から直々に電話が入ったということだ」

「ち、長官……」

 辰巳の面から完全に血の気が引いていた。

「別当さんの後見人である元警視総監で、参議院議員の天谷さんと警察庁の朝比奈長官は帝大生の頃から親友ということで、別当さんとも面識がお有りになるということらしい」

「た、大変失礼いたしました」

 辰巳は平身低頭で詫びた。

「それはもう結構です。それより須賀さん、死因はなんですか」

「鋭利な刃物で心臓を一突きです。ほぼ即死だそうです」

「遺体の身元が分かるものはありましたか」

「いえ。いまのところ何も見つかっていません。これで、失踪人の捜索願でも出ていなければ身元確認は難航します」

「しかし、殺人事件として捜査するのでしょう」

「もちろんです。ですが、身元が分からなければ手の付けようがありません」

 須賀は困惑した表情で言った。

 そのとき、後方から女性の怒声が聞えた。光智が振り向くと、立ち入り禁止のロープが張ってあるところで警察官と言い争う恭子がいた。

「須賀さん。あそこの女性を入れてもらえませんか」

 光智は指差しながら、申し訳なさそうに頼んだ。

「お知り合いですか」

「はあ」

 と、光智は頭を掻く。

「そういうことでしたら良いでしょう。辰巳君、ここへ連れてきてあげなさい」

 わかりました、と辰巳が小走りで恭子の方へ向って行くと、

「恋人ですか」

 と、須賀が訊いた。

「ええ、まあ。見て見ぬ振りをしたりすると、後でこっぴどく叱られますから……」

 光智は決まりが悪そうに言った。

 やがて、辰巳が恭子を連れて戻って来た。

「また遺体の第一発見者になったのね」

 開口一番、恭子は嫌味口調で言った。

「どうやら僕は、事件に巻き込まれる宿命にあるらしい」

「でも、今度は容疑者扱いされなかっただけましじゃない」

「そうだね」

「私に感謝してね」

「僕からのメールを見て、恭ちゃんが電話したのはわかっていたけど、こんな朝早く誰に電話したの」

「片桐弁護士さんよ」

「ということは、片桐さんから天谷さんへ連絡がいったのか。迷惑を掛けちゃったなあ」

「あら。若い美人からの電話ならいつでも歓迎するっておっしゃってよ」

 恭子は微塵も意に介することなく言った。

「それはそうと須賀さん。遺体の身元の件ですけど」

「何か?」

「もし、身元確認に行き詰まったら、犬を手掛かりにしたらどうでしょう」

「犬……ですか」

「私が駆け付けたとき、たしかにラブラドールレトリバーがいました。首輪をしていましたので、飼い犬でしょう。しかも、飼い主はこのホテルからそう遠くではないところに住んでいると思われます」

「遺体の人物がその犬の飼い主だったとでも」

「そうであれば簡単でしょうが、少なくともラブラドールレトリバーと遺体の人物の間には密接な関係があったのではないでしょうか」

「ただ単に、遺体に興味があったということはありませんか」

「もちろん、その可能性もあります。ですが、飼い犬ですからね。野犬とは違い、興味本位では飼い主の下を離れてまで、ここまでやっては来ないでしょう」

「では、両者にはどういった関係が考えられますか」

「たとえば、散歩の途中で必ず立ち寄ったとか、あるいは遺体の人物もラブラドールレトリバーを飼っていて、親子関係にあったとか……」

「なるほど」

 須賀は目から鱗を落とした表情で頷いた。

「刑事さん。彼、凄いでしょう」

 恭子は鼻高々である。

「全くです」

 須賀は光智をまじまじと見つめて言った。

「では、辰巳さん。東京の住所と携帯電話の番号をお教えしましょう」

 光智は笑顔を浮かべて言った。

「恐れ入ります」

 辰巳は恐縮して答えた。

 

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