智の系譜Ⅱ(殺意の微笑)   作:安岡久遠

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第四章 学内スキャンダル

 JR山手線は首都東京の都心部で環状運転を行い、その多くの駅から各方面に伸びる各社の放射路線に接続している基本路線である。

 山手線は、戦後長らく『やまてせん』と呼ばれた時期が続いたが、一九七一年に当時の国鉄が全路線の路線名称にふりがなを付することを決定した際に、線名の由来・発祥から鑑みて伝統的に正しい『やまのてせん』を復活させたという経緯があった。

 言うまでもなく、最重要路線であるため、その利用需要は増加の一途を辿っている。JR側も様々な対策を立ててきているが、それでも朝夕の通勤ラッシュの混雑は解消されていない。

 山手線に限らず、すし詰め状態で通勤を余儀なくされるサラリーマンは、それだけでエネルギーを消費し、相当の労働力を削がれている。例えて言うなら、百メートルダッシュを三本熟した直後にテストを受けたとき、脳が働き始めるには、まず息を整え体力を回復しなければならないのと同じ理屈である。

もし、快適な通勤状態が提供されれば、社会全体としての生産性のアップは疑う余地もないであろう。

 エネルギーの喪失と共に、この混雑状態が生み出す大きな社会問題が痴漢行為である。ストレスの発散にしろ、歪な性癖の捌け口にしろ、この卑怯極まりない行為が女性に与える肉体的、精神的苦痛は計り知れない。まさに女性の天敵と言っても過言ではない。

 

 中沢篤志もその女性の天敵の一人だった。

 彼はこの朝も獲物を物色していた。まるでハイエナのように鼻を利かし、好みであるおとなしそうな顔立ちの女性を捜し求めていた。

彼は一ヶ月前に初めて痴漢行為をして、妻とのセックスでは味わえないエクスタシーを感じ、病み付きになった。

最初はほんの出来心だった。会社の営業成績が上がらず、課長から叱責されイライラしていたある夕方のラッシュ時、同じ車両に好みの女性を見つけ欲情した。しかも、丈の短いスカート穿き『いかにも触って下さい』と言わんばかりに無防備なのである。

つい魔が差してしまった。

下車する際に、彼女のお尻に手を当て、局部を右手の中指で押した。当て逃げならぬ、触り逃げである。

『いやぁ……』と、彼女は弱々しい声で抵抗するのが精一杯だった。その瞬間、中沢は下腹部に電流が奔ったような興奮を覚えた。

 それ以来、彼はそのときの痺れるような指の感触が忘れられなくなった。罪悪感に苛まれながらも、麻薬の常習者のように痴漢行為を繰り返すようになってしまっていた。

中沢にとって、声を出さなさそうな女性なら誰でも良いというわけではなかった。自分の欲情をそそる女性がいなければ、何もせずにやり過ごした。

この日は、眼鏡に適う女性が見つからず、中沢は半ば諦めかけていた。彼は大手生命保険会社の浜松支店に勤めるサラリーマンであるため、好みの女性が見つかるまで乗降を繰り返すことはできないのだ。

 ところが、降車する浜松町の三つ手前の東京駅から乗り込んできた若い女性に中沢の目が釘付けになった。一見したところ学生のようであるが、彼女の容姿は彼の好みにぴったり当てはまっていたのである。

彼は次の駅で下車する素振りをして、彼女に近づいていった。彼女は目を宙にやり、何かの思いに耽っている様子で、心ここに在らずという絶好の呈だ。

中沢は二、三度そっと手の甲をお尻に押し当てたが、彼女の反応はなかった。どうやら気づいていない様子である。意を強くした彼は、手を返しひらを当てたが、それでも彼女は反応しなかった。余程、深刻に思い詰めることがあるのだろうと中沢は思ったが、好都合には違いなかった。

 

だが、これが中沢の誤算だった。

大胆になった彼が、いよいよ手を彼女のスカートの中に入れ、彼女の局部に触れた瞬間、『痴漢です』

と、彼女が声を張り上げ、彼の手を掴んだのである。中沢は、思いも寄らぬ成り行きに一瞬呆然となった。

彼の不運は――と言って良いだろうが――その声を聞いて視線を注いだ者の中に、麻布署の中筋刑事が乗り合わせていたことだった。

中筋は男と背合わせに立っていた。女性の声を聞いて彼が振り向いたとき、ようやく我に返り、振り切ろうとする中沢の手と、そうはさせまいとしっかりと掴んで離さない彼女の手が目に入った。

「警察です。彼に間違いありませんか」

「間違いありません」

 彼女は気丈に答えた。

「君、駅員室へ同行してもらうよ」

 中筋は厳しい声で中沢に言った後、一転して、

「それから、お嬢さん。貴女にもご一緒して頂きます」

 と、彼女にはやさしい笑みを浮かべて継いだ。

 痴漢行為は、現行犯でなければ逮捕はできない。中筋は痴漢行為を目撃していたわけではないので、逮捕することはできないが、彼女の申告と状況から、中沢を駅員室へ同行し、鉄道警察官へ引き渡すことにした。

「あ、貴方が麻布署の中筋刑事であられますか」

有楽町駅から通報を受け、駆け付けた二人の鉄道警察官は、身分を明かした中筋に驚きの声を上げた。

「そうですが、どうしたというのですか」

「中筋刑事のご高名は、私たちにも伝わっております」

「私の名が?」

 中筋は事態が飲み込めなかった。

「あの広域暴力団・稲墨連合の犯行だった、ブックメーカー連続殺人事件を解決に導かれたことは、私たちの耳にも届いておりました」

――なるほど、そういうことか。

 中筋は得心がいった。

 ブックメーカー連続殺人事件とは、英国政府公認のブックメーカーのライセンスを巡って起きた四件の連続殺人事件のことである。

 中筋は一時迷宮入りも囁かれた難解な連続殺人事件を解決した刑事として、警視庁内にあまねく名が轟いていたのだった。

「いや、あれは私の力ではなく、別当光智君という帝大生の端倪すべからざる推理によって解決されたのです」

 中筋は正直に説明した。

 だが、

「いやあ、さすがに重大事件を解決される方は違いますね。御謙遜なさるとは、敬服いたします」

 と、中筋の意に反して、鉄道警察官はますます尊敬の眼差しを投げ掛ける始末だった。

「あのう……」

 中筋が引き継ぎを終え、有楽町駅を引き上げようとしたときだった。痴漢にあった女性が、遠慮がちに声を掛けた。

「何か?」

「刑事さんは、そんなに優秀な方なのですか」

「いいえ、とんでもありません。彼らは勘違いしているのです」

 中筋はばつが悪そうに言った。

「そうなのですか」

 彼女は何か言いたそうにして、躊躇った。

 中筋はその様子から、彼女が何か問題を抱えていると直感した。捜査暦三十五年のベテラン刑事としての勘である。

「それほど優秀ではありませんが、これも何かのご縁です。私でお役に立てることでしたら力になりますよ。気になることがお有りでしたら、何でも相談して下さい」

 中筋は微笑を浮かべて言った。彼は昇進試験を一切受けず、現場捜査勤続三十五年のベテラン刑事だが、普段は一見したところ熟練刑事には見えない。

 彼女は心の緊張が溶けたのか、ようやくその思い口を開いたのだが、彼女が綴った言葉は意外なものだった。

「実は私、父を探して東京へ来たのです」

「お父様を? どういうことです」

「父が、昨日東京へ行くと言って家を出て以来、音信不通なのです」

「待って下さい。お父様が行方不明だということですか」

「ええ」

「それで、貴女が探しに東京に来られたということなのですね」

「はい」

「急用で東京へ来られて、たまたま連絡が無いということは考えられませんか」

「三年前に母を失くしてから、父娘二人きりでしたので、連絡は小まめに取っていました。丸一日、いえ今日を含めて二日も連絡が取れないことなど、これまでに一度もありませんでした」

 彼女はいまにも泣き出さんばかりである。 

「分かりました。詳しい事情をお聞きしましょう。まず、あなたとお父様お名前をお聞かせ願えますか」

「私は、滝沢由香里。父は、英輔といいます」

 中筋はどこかで聞いたような名だと思った。

「失礼ですが、お父様のご職業は?」

「名古屋の国土中央建設という会社で経理課長をしています」

「何ですって、あの滝沢さんですか」

 中筋の声が昂じていた。

 国土中央建設は、政権政党である民自党の村雨幹事長との癒着をとり立たされている渦中の会社であり、しかも滝沢英輔は贈収賄の鍵を握る経理担当者として、東京地検特捜部からも事情聴取を受けている最重要人物だったのである。

「滝沢さん。詳しいお話をお伺いします。麻布署までご足労願えませんか」

 事件性を感じた中筋が緊張の表情で言った。

 

 八月二十日、午後二時三十三分。警視庁本部の通信指令センターに一一〇番通報が入った。通報内容は、帝都大学文学部の成瀬教授室において、男女二名が床に倒れているという内容だった。

受理台と同時に通報を聞いていた指令台は、直ちに現場付近を警ら中の機動捜査隊に現場に急行するよう指示した。

 通報を受けてから、約四分後に機動捜査員が到着し、初動捜査を行った。

遺体の二人は、遺留品から男性が成瀬定和・帝都大学文学部教授、女性は同大学文学部の四回生、仁科奈津子とわかった。

 第一発見者は、学内の清掃を請け負っている清掃業者だった。十名ほどの清掃員が分担して清掃を行っていたのだが、そのうちの一名が教授室に入ったところ、二人の遺体を発見した。

 発見者から報告を受けたチームリーダーの主任が、直ちに消防と警察に通報をしたというものである。

 死因は服毒によるものと思われ、争った形跡もないことから、心中自殺の線が濃厚と見られたが、機動捜査員は念のため所轄の本富士署に引き継ぐことにした。

 本富士署の捜査員が臨場したのは十分後だった。捜査主任は、捜査一課の野崎警部である。野崎は機動捜査員から、それまでの捜査結果の報告を受けた。

 まず、監察医の報告で、二人の死亡推定時刻は、体温、死斑、死後硬直、角膜の混濁の状況から、当日の午後十二時半から一時半の間、死因は青酸系の毒物の服用と見られた。毒物の特定など詳細な分析は司法解剖の結果待ちとなる。

 死亡推定時刻前後の不審人物の聞き取り捜査をしたところ、午後一時頃、グランド練習していた複数のサッカー部員が文学部の学舎を小走りに出て行った中年の女性を目撃していた。

 さらに、同二時過ぎに女子学生が成瀬教授室にやって来て、消防と警察に通報を済ませた清掃員らと鉢合わせをしていた。

この二人以外に文学部の学舎を訪れた人物は目撃されておらず、仮に他殺であった場合、彼女らが何らかの関わりを持った可能性が高いため、人物の特定を急いだ。

 女子学生が姿を現したのは死亡推定時刻の範囲内ではないが、殺人現場に立ち寄ったのである。不審に思われても仕方が無かった。

 

京都府警東山署には、京都オリエンタルホテル殺人事件の捜査本部が設置され、本格的な捜査が開始されていた。ホテルの従業員の聞き込みで、被害者は数日前、ホテルのティーラウンジで、男性と一緒にいたことを目撃されていたの、ホテルの宿泊者ではなく、ホテル近辺の住人でもない一見の客だったため、身元の確認は暗礁に乗り上げていた。 

 そのような折、ふと須賀刑事の脳裡に光智のアドバイスが浮かんだ。彼は半信半疑ながら、膠着状態を打開すべく、捜査会議において光智の意見を披露した。他に手立ての無い捜査本部は、須賀の主張を取り入れ、犬の飼い主を探し出すべく、ホテル近辺のローラー作戦を敢行した。

 それが見事に功を奏し、被害者の身元が割れた。

 ホテル裏側の丘陵地帯の先に住む、富永家で飼われている『ゴン』という名のレトリバーが被害者からの貰い犬だったのである。

 一年半前、被害者が飼っていた母犬は五匹の子犬を出産したのだが、そのうち四匹はすぐに貰われていったものの、ゴンだけなかなか貰い手が見つからなかった。そのため、一年も母犬と一緒、つまり被害者が育てていたのだった。半年前、知人の仲介でようやく貰い手が見つかった。それが富永家だったのである。

 富永の証言で、被害者の名は鳥越達夫、三十八歳。住所は、京都府京都市東山区X丁目XX-X,職業は宝石のブローカーとわかった。

俄然、捜査会議は活気づいた。

宝石ブローカーの中には、盗品を細工して売り捌くのを生業にしている者がいる。その世界には暴力団の影が見え隠れすることも多いことから、被害者がホテルのティーラウンジで会っていた人物が闇社会の関係者である可能性が浮上したのである。

 

 捜査会議において、

 被害者の交友関係の捜査。

 被害者の取引先の捜査。

 被害者の当日の足取り捜査、特に被害者が犯行当日会っていた人物の特定。

 被害者宅の捜査。

 以上のように捜査方針を決定した。

 

「須賀さん、被害者がホテルで会っていた人物が暴力団関係者だとすれば、その男が犯人でしょうか」

 辰巳が訊いた。

「それはわからんが、何らかの関わりがある可能性は高いと見て良いだろう」

「しかし、犬は三日飼えば恩を忘れない、というのは本当なんですね。元の飼い主が死んでいるのを嗅ぎ付けるとは……」

 辰巳は神妙な面持ちで言った。

「それだけじゃないと思うよ。おそらく、被害者はホテルに行く前に、富永家に立ち寄ってゴンと旧交を温めていたのではないかな」

 須賀が答えた。

「そのとき、ゴンは被害者にただならぬものを感じたということですか」

「動物の本能は神秘的だからね。元主人の運命を察したのかもしれないね」

「それにしても、あの別当とかいう学生の着眼はたいしたものですね」

 ああ、と須賀が同調した。

「お陰で突破口が見出せた。ブックメーカー連続殺人事件を解決したという噂は眉唾ではなかったようだ」

 須賀は大きく頷きながら言った。

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