ゴゴゴゴ…ゴゴゴゴ。
真っ暗な空間の中で水の激しく流れる音だけが響き渡る。
この17年の間は誰一人として侵入したことがなく、ただこの水の音だけが支配していた。
だが、ようやくそのような場所にも来客が現れた。
ランタンの明かりがゆらぎ、数人の足音は水音によってかき消される。
「そうじゃ…この水路。確かに築城された時から存在している脱出路。おそらくはそこから…」
その道はロウだけでなく、この城に暮らしていた人間ならだれでも知っている。
ここを進めば、裏山の先にある森の中へ逃げ込むことができる。
エレノアと幼いマルティナ、そして赤子のエルバもここを通り、森の中へ逃げたのだろう。
そして、ここでアーウィンだけが死んだとなると、きっと彼はここに残って殿を務めていた。
そして、彼が命を捨ててまで逃がした3人がどうなったかはエルバ自身が知っている。
「感じます…とても悲しい怨念が、ずっととどまっていて…」
「怨念、父さんの…」
「アーウィンにはあまりにも似つかわしくない感情じゃのぉ」
ランタンの明かりを頼りに進んでいき、次第に出口へとつながる踊り場に到着する。
そこには錆が目立つ鎧姿で、折れた剣を手にしている騎士が座り込んでいる。
「あ、ああああ…そうじゃ、その鎧じゃ…アーウィン」
「アーウィン様…」
「アー…ウィン…」
名前を言われたことで反応を見せた鎧の男がゆっくりと立ち上がり、エルバ達の元へと歩いていく。
近づいてくるアーウィンを見たグレイグの手に粘り気のある汗がへばりつく。
鎧姿の彼の顔は真っ暗でよく見えない。
そんな汗ばみ、違和感を見せるグレイグにアーウィンの目がとまる。
「君は…グ…グレ…」
「はい…そうです。グレイグです…」
とうとう心に深く突き刺さった罪悪感に耐えられなくなったのか、アーウィンの前で膝を折る。
そんな彼に向けて、アーウィンは剣を向けることはなく、ただじっと彼を見つめるだけだった。
「許してください…。許して、ください…」
英雄であるはずのグレイグには似つかわしくない弱々しく許しを請う姿。
そんな彼にアーウィンもまた膝をつき、彼と同じ高さの視線になる。
「…答えてくれ。エルバは…私の子供はどこにいる?」
「アーウィンよ…久しいのお」
「義父…上…?」
「そうじゃ、声が聞こえるようなじゃ。エルバは…エルバは生きておる。ここにおるぞ」
アーウィンの肩に手を置き、エルバのいる方向に手を向ける。
エルバはしっかりと自分の顔を見せることができるように、兜を外す。
そして、一番の証拠である痣を見せた。
「あ、ああ…そう、か…。貴様ら、よくも…」
「え…?」
「エルバを殺すに飽き足らず、その遺体をも辱めるか!!」
先ほどまでの物静かな声と態度はどこでいったのか、怒りに囚われたかのような激しい言動となり、彼の体を黒いオーラが包み込んでいく。
「父さん…一体、いったいどうしたというんだ!?」
「アーウィン様!どうか、正気にお戻りください!エルバが分からぬのですか!?」
「エルバよ…お前を守れなかった愚かな父を許してくれ…。今すぐお前の体を奪っている魔物を殺し、母さんと一緒に眠らせてやる…!!」
折れた剣の刀身に真っ黒な光でできた刃が形成される。
動揺を見せるエルバに向けてその剣を貫こうとする。
だが、刺そうとした彼の右腕が震えと共に止まってしまう。
「な、にぃ…動かん、な、なぜ…?」
「すまぬ、アーウィン…。もっと早く気付いてやればよかったのぉ…」
近くにいたにも関わらず、ずっとそのことに17年もの間気付くことができなかった。
その間に見つけていれば、このようなことにならなかったかもしれない。
己のふがいなさを涙目になって詫びるロウ。
アーウィンの体にはゴールドフェザーが刺さっており、それが彼の動きを封じていた。
破邪力を強めることのできるゴールドフェザーはたとえ呪文を宿していなくても、邪悪な力を阻害することができる。
逆にそれがない場合はただの魔力のこもった投げナイフにしかならない。
だが、こうしてアーウィンの動きがそれで止まるということは、彼は何らかの理由でその力に囚われてしまっていることになる。
「ぐう、う…なぜだ!?なぜ動けぬのだぁ!!!!」
もはや痛覚もないのか、ゴールドフェザーが刺さっていることに気付いていない。
問題なのはここからどうやってアーウィンからそれを取り除くかだ。
勇者の力があれば、解決できるかもしれないが、力を失っているエルバには無理な相談だ。
「どうすればいいんだ、父さん…」
動けないアーウィンの救う手立てが思いつかず、立ち尽くすことしかできない。
(くはははははは!!ざまぁないぜ、親父!!まさか、守ろうとしているてめえの息子を手にかけようだぁなんてなぁ!救えねえ、救えねえなあこりゃあ!!)
「お前…!!」
聞こえてくるもう1人の自分のアーウィンをあざ笑う声にエルバは怒りをにじませる。
「こりゃあ、解決策は1つ。もう1度ぶっ殺してやろうぜ!!そうすりゃあ、こいつの憎しみは消える!!」
「でも、そんなことをしたら…!!」
殺すこともためらうが、今のロトゼタシアには命の大樹がない。
もし、ここでアーウィンを解放したとしても、彼の魂はそこへ帰ることができず、冥府で消え去ることになってしまう。
「なら、どうするよ?こいつの中に飛び込んで原因を探すかぁ?無理なこったなぁ!今のてめえは勇者様でもなんでもねえ、俺っていう悪魔を宿してるだけのただの人間だからなぁ!!」
「黙れぇ!!」
あざ笑う彼を無理やり抑え込みながら思案するが、彼の言う通り今の自分にはアーウィンを助ける手段も力もない。
あるとしたら、彼の言う殺すという選択肢しかない。
(どうしたら…そうしたら…!!)
(救いたいか…?彼を)
「え…?」
聞いたことのない、若い男性の声が響くとともに急に真っ暗だった周囲が青く染まっていく。
それはセーニャ達も同様で、エルバ以外の全員の動きが止まり、同時に水の音も聞こえなくなった。
まるで時間が止まったかのような感覚に戸惑う中、声が響く。
(彼の魂は疲れ果てている。死してなお、17年もの間、ここで縛られ続けた彼を…父を助けたいという気持ちは本物か?)
何者かわからない声に戸惑いながらも、目の前のアーウィンを見る。
もう生きて会うことができず、声も聞くことができないと思っていた彼とここで思わぬ形で合うことができた。
命がけで自分の命を救ってくれた彼にまだ何一つ親孝行できていない。
「ああ…助けたい。どうすればいい…!?」
(なら…飛び込め。彼の中へ。そして、彼の心の空間へと向かえ)
その声と同時に、アーウィンとエルバの間に黒い渦が出現する。
渦は次第に彩りを見せ始め、やがてその中は赤い絨毯が敷かれたどこかの城の中のような景色となっていた。
(お前が戻ってくるまでの間、俺が抑えておこう。あまり、時間は残されていないが)
「待ってくれ…?あんたは誰だ?どうしてこんなことをする??」
ようやく思い出したが、その声は世界が崩壊した日に意識を失う直前にかすかに聞こえたあの声と似ているように思えた。
命の大樹の中にいた魂なのか、それとももっと別の次元の存在なのか。
(答えを聞きたければ、戦い続けろ。エルバよ…)
「…答える気なしか」
だが、今は彼にこだわっている場合ではなく、今開いた道を進まなければならない。
覚悟を決めたエルバはその渦の中へと飛び込んでいった。
「あーあー、まったく!ロウ様ったら、またこんな本をベッドの中へ!!エレノア様からあれだけ叱られたのに!!」
ベッドの清掃を行っていたメイドは下から出てきたムフフ本に呆れた表情を見せる。
前にエレノアが見つけたのは青い外巻きカールなロングヘアーをした、ベアトップなミニスカートのワンピース姿をした女性が表紙のもので、それは既に彼女自らの手で処分している。
今回見つけたのは茶色いツインテールで肩と胸の上部のはだけたドレス姿の少女が表紙のもので、どこからどうやって調達したのか、油断も隙もない助平翁に思わず頭を抱えてしまう。
おまけに読んでいる途中だったのか、ページが開いた状態で置いてあり、表紙の少女のあられのない姿まで見てしまったことで怒り心頭だ。
「もう…!こういうことがぜひとも、アーヴィン様とエルバ様に影響することがないのを願いたいものです!」
暖炉に投げ捨ててやるとそのムフフ本を手に去っていくメイド。
その後ろ姿を白いモヤがかかった姿をしたエルバがじっと見ていた。
「なんだ…ここは?じいさんと母さんのことを言っていた。ここは…ユグノア城なのか?」
このような場所に来た記憶はないが、なぜかどこかこの城からはなつかしさを覚えた。
自分が生まれてほんのわずかの間過ごした場所だからなのか。
先ほどの会話を聞いていたら、エルバの名前も出てきたことから、おそらくは自分もここにいる。
だが、おそらくは今この場所にいる自分のことではないのだろう。
数分前にこの空間に降り立ったエルバはメイドに声をかけたり、彼女の目の前へ行ったりしたが、メイドは彼のことに一切気づくことはなく、正面から歩いてすり抜けた。
「そうだ…。俺が生まれた日、となると母さんとマルティナが…!!」
おそらく、2人は一緒にこの城のどこかにいるはず。
産後で疲れていることを考えると、いるのはエレノアの私室。
エルバはロウの部屋のドアをすり抜ける。
まっすぐ進むと王の間があり、そこを横切った先にある部屋へと向かう。
ロウの部屋がそこだとするなら、王族はこの階に部屋を置いているはず。
その部屋をあてずっぽうでも探していけば、見つかるかもしれない。
そう考えて、その部屋へ入るとそこは予想通りエレノアの私室であった。
そこには椅子に座るエレノアと彼女のそばではねる幼いマルティナの姿があり、更にエレノアの腕の中にはまだ生まれたばかりのエルバの姿もあった。
「母さん…マルティナ…こいつが、俺か…」
やはり2人にもエルバの姿は見えていない。
近づいて、赤子の自分を見つめる。
自分である一番の証拠と言える勇者の痣は確かに左手の甲に刻まれていた。
「ねえ、エレノア様。アーウィン様はまだ戻ってこないの?」
「今、アーウィン様はとっても忙しいの。だって、今はマルティナのお父様だけじゃなくて、たくさんの人と会わないといけないから…」
「たくさんの人…?」
(そうだ、我が子が生まれた日…)
急に周囲の色が青白く染まっていき、時間が止まったような感覚がエルバを襲う。
そして、どこからはアーウィンの声が響き渡る。
「父さん…!?」
(あの日は人々に希望をもたらす日となるはずだった。多くの人が集まり、私たちとエルバを祝福してくれた)
「どこにいる!?答えてくれ、父さん!!」
エルバの声に反応するかのように後ろの扉が開き、鎧姿のアーウィンが王の間ところで姿を見せる。
急いで彼を追いかけるエルバだが、あと少しのところで王の間の正面扉が開き、アーウィンはそこから歩いて出ていく。
王の間を出ると、アーウィンは下への階段を降りていく。
エルバも走って階段まで行き、降りていくと彼はそのすぐそばにある広間への扉を指さしてから消えてしまう。
同時に周囲の景色の色が元に戻り、人々が動き出した。
「この先に何があるというんだ…それに、俺が生まれた日だって…」
その言葉が正しければ、それはユグノアが滅びた日でもある。
もしかすると、このまま先へ進むと、あの惨劇を自らの目で見なければならなくなるのかもしれない。
その不安を感じながらも、エルバは扉をすり抜ける。
そこにはアーウィンの言った通り、祝賀会が開かれており、多くの身なりの整った人々や鎧姿の男たちが集まっていた。
「アーウィン様、この度は記念すべき祝杯の日にお招きいただき、誠にありがとうございます!」
「エルバ様ご誕生は私たちにとっても喜ばしいことですわ。本当におめでとうございます」
貴族たちが口々にエルバの誕生を祝い、メイドが運んできたワインを喉に通す。
そして、この祝賀会の主役であるアーウィンは赤い王冠をかぶり、緑の貴族の服に赤い外套を重ね着した姿となっていた。
「ありがとうございます、本日はユグノア王国にとって特別な日であります。祝杯の宴をどうぞ、ごゆっくりとお楽しみください」
貴族たちへの返事を済ませ、お辞儀をしたアーウィンは数人の兵士によって守られた2人の男性の元へと足を運ぶ。
独りはエルバも見たことのある恰幅の良い体つきのサマディー王で、もう1人は真っ白なひげを臍のあたりまで伸ばしている、白いローブ姿の男性で、その背丈はグレイグに近い。
「クレイモラン王、サマディー王、お二人とも、ようこそユグノアへ」
「彼が、クレイモラン王のテオドール…。シャール女王の親父さんで、爺さんの友人…」
2年前に死んだその老人のマントには確かにクレイモランの国章が刻まれている。
「やあやあ、久しぶりですなぁ。アーウィン殿。このような盛大な宴での歓迎、感謝いたしますぞ、だっはっはっは!!」
「サマディー王は…そんなに変わっていないか」
1年前に会った時と変わらない様子だが、ある程度笑い終えると急に鋭い視線へと変えて、ジロリとアーウィンを見つめる。
「本日のサミットはロトゼタシアの行方を決める重要な会議。バンデルフォン王国滅亡の件もある。くれぐれも有益なものとしましょうぞ」
「ええ…分かっております」
いずれの王もこの祝賀会を楽しむため、そしてエルバ誕生を祝うためだけに来たわけではない。
勇者のこと、そして滅亡したバンデルフォン王国とその原因となった魔物の大軍の謎、それらのことを話しあうためにわざわざ集まって来た。
ファルス3世にも、ようやく一人息子が生まれている。
彼の未来のためにも、平和なロトゼタシアを残したい。
アーウィンの返事を聞き、満足したのかファルス3世は再び笑った表情を見せる。
「それはよかったよかった。それから、いくらサマディーがこのサミットでは末席であったとしても、くれぐれものけ者にしないように、頼みますぞー!」
「サミットか…。この20余年の中で2度も開催されるとは、儂の知る限りでは前代未聞じゃて」
バンデルフォン王国滅亡、勇者の誕生。
ロトゼタシアを揺るがす2度の事態はテオドールにとっても経験になく、バンデルフォンを含めた5か国が地図上に姿を現してからの200年近くの中でも異例の事態だ。
「それほどご子息であるエルバ殿、伝説の勇者の生まれ変わりというのは我々にとって重要なこと。本日の会議、楽しみにしておりますぞ」
「我が息子のため、遠方からはるばる来訪していただき、誠にありがとうございます。サミット開催の際にまたお声掛けさせていただきます。私は準備がありますので、これで。デルカダール王は何処に?」
「ハッ、デルカダール王はロウ様とお二人で城の中庭にいらっしゃいます」
「分かった、今から向かう」
2人の王に頭を下げたアーウィンは会場を後にし、下の階へ通りていく。
アーウィンの後に続いたエルバも降りていくと、ちょうど1階の中央あたりに噴水を中心とした中庭があり、そこではロウとデルカダール王、モーゼフが2人きりで話をしていた。
既に高齢ということもあるのか、2人ともその容姿はエルバが見知っている物とは変わりない。
「デルカダール王、義父上、そろそろサミットを開催しましょう。お二人とも、ご準備をお願いいたします」
「おお、アーウィン。ロウから話は聞いたぞ。そなたの息子、エルバがあの勇者の生まれ変わりであるとはな」
「はい…。そのことを、皆様にお話しするつもりです」
暖かな目で見るデルカダール王に対して、アーウィンの表情は祝賀会の時とは逆に固まっている。
まだエルバが勇者の生まれ変わりであることは公表しておらず、貴族の多くがただ単に世継ぎの誕生を祝福しているだけの状態だ。
先代のロウの時のように、世継ぎやほかの後継者となるはずの兄弟が世を去ることが相次いだ時期もある。
自国の安定のためには世継ぎというものは重要な分、こうして祝うのは彼らにとっては将来への祈願でもある。
だが、今回はそれ以上の意味をエルバが背負うことになった。
親として誇るべきなのか、それとも生まれながらに勇者という、父親である自分ですら背負いきれない重責を背負わせてしまったことを恥じるべきなのか。
その答えは未だに固まらない。
そんなアーウィンの肩をデルカダール王は叩く。
「先に、会場に行っておる。到着するまでに気持ちを落ち着かせるとよい、ロウよ、参るとしよう」
「うむ、モーゼフよ。アーウィン、勇者とはロトゼタシアの運命を左右する存在。じゃが、エルバ一人が背負うことも、ましてやおぬしだけが背負わなければならぬものでもない。ほれ、まずは家族の元へ行くがよい。サミットの時はエルバも連れてくるのじゃぞ」
「はい、義父上…」
モーゼフとロウが2人で階段を上がり、アーウィンは顔を下に向け、水に映る自分の顔を見た。
そして、同時に再び時間が止まる。
(エルバ…私にとって、この日はエレノアとの結婚を認めてもらった時以上に悩んだ。きっと、エレノアも悩んだことだろう。エルバの将来のこと、勇者のことを…。私はそれから部屋へ向かい、エレノアやマルティナ姫と共にエルバとわずかな時間を過ごした)
その言葉と同時に周囲の景色がぐるぐると混ざっていき、次第にそれはエレノアがいた部屋のものへと変わっていく。
そして、そこにはマルティナにだっこをするアーウィンと、エルバを抱き、椅子に座って優しく見守るエレノアの姿があった。
「大丈夫、大丈夫だ。マルティナ。怖くないよ」
「アーウィン様ー…」
「やぁ、エレノア…。嫌な天気だな…」
(嫌な天気…?)
窓の外は曇っていて、雨も降り始めていた。
おまけに雷も落ちており、それが幼いマルティナを怖がらせる。
「ええ、とても嫌な予感がします」
「心配するな。何があっても、私が君とエルバを守る。約束する」
「あなた…」
エレノアに仕えてからずっと約束してきたことだ。
その約束通り、アーウィンは常に彼女を守り続けてきた。
そんな彼の言葉だからこそ、エレノアは安心できる。
「アーウィン様アーウィン様!私は―?」
「ははは、マルティナには強くて勇ましいデルカダール王というお父様がいるじゃあないか。私より、よっぽど頼りになるぞー!さあ、エルバを…サミットが始まる」
「ええ。本当なら私も一緒に出ることができればよかったけれど…」
「君はしっかり休んでくれ。まだ疲れているだろう?」
マルティナを降ろしたアーウィンはエレノアから受け取ったエルバを優しく抱く。
そして、彼の左手の痣を見つめる。
これから重荷を背負うであろうエルバをアーウィンは高く掲げる。
「さあ、エルバ!これから行くところはこわーいおじちゃんがいっぱいだけど、何があっても、パパが守ってやるからなー!」
「まぁ、あなたったら。そんなに強く抱きしめると、エルバが苦しいでしょう」
フフフと笑いながら父子を見つめるエレノアだが、時折聞こえる雷雨の音が彼女の心に影を落とす。
「こんな特別な日にこの天気…。なんだか、嫌な予感がするわね…」
「1週間前に見た、夢のことか?」
エルバが生まれる1週間前、エレノアは夢を見た。
確かにエルバは元気に生まれるが、その左手には勇者の痣が宿り、そして今のような天気になっていること。
そして、魔物の大軍がユグノアを襲い、全員が殺される。
「夢のようなことにはさせない。絶対にだ」
アーウィンも思うところがあり、念のために見張りや警備の兵士を増やして、布陣も見直している。
住民にも、いざというときに備えて不要不急の外出を控えること、城から緊急の鐘が鳴ったらすぐに避難するようにというお触れも出している。
エレノアが見た夢を正夢にしないための準備はしっかりしたつもりだ。
「じゃあ、行ってくるよ。後のことは頼んだよ、エレノア」
「はい…」
エルバを抱いたアーウィンは彼を連れて、部屋を後にする。
そして、同時に再び時が止まる。
(そして…私はサミットに出席した。デルカダール王、クレイモラン王、サマディー王、そして義父上と共に…勇者のこと、将来のことを話しあったのだ…)