「はあ、はあ…まったく。魔力がないっていうのに…」
吹雪に包まれたシケスビア雪原には似合わない煙と炎があちらこちらが上がり、岩陰に隠れたリーズレットは火傷した体を押して、負傷した兵士たちをベホイムで癒していく。
「リーズレット殿、大丈夫ですか…?ひどいけがで…」
「まずは自分のことに集中することね。そうじゃないと…あの魔物の前では、死ぬわよ」
命の大樹が落ちてから、リーズレットはクレイモランとシャールを守るべく、どうにか魔力を取り戻そうと努めていた。
そのおかげか、まだまだ本調子とはいかないものの、並の魔法使いには負けないくらいの力は取り戻した。
それによって、黄金病の原因を探るために古代図書館へ向かった際にも、襲って来た魔物たちを軽くひねりつぶした。
つい少し前にエルバ達が黄金病の原因を突き止め、時間を解決してくれたことを知らせる伝令が来て、安心して戻ろうとしていたが、待っていたのはシャール達クレイモランの人々からの歓迎ではなく、黒い蛇龍による黒い炎の歓迎だった。
「うおおおお!!どこだぁ!?どこにいる、ローシュぅぅぅぅ!!俺様を氷漬けにした報いを晴らしてやるぅぅぅぅぅ!!」
「ローシュ…ああ、自分のいる時代の感覚すらつかめなくなっているわね…。哀れな魔竜ネドラ」
黒い炎を吐きながら飛び回るネドラの姿はまさしく古代図書館で見つけた本の中にあった魔竜そのものだった。
かつて、勇者ローシュが聖地ラムダへと向かう最中、魔竜ネドラと戦った。
邪悪な神の手下であった彼はこの地に住む人々や魔物を焼き尽くし、恐怖のどん底へ叩き落していた。
まだ勇者の剣を手に入れていないローシュはその魔物に苦戦し、黒い炎で全身を焼かれたことで絶体絶命の危機に陥った。
その時、彼を助けたのがセニカだ。
夢の中で勇者の危機を知ったセニカは長老からの静止を振り切って山を下り、ローシュを殺そうとする魔竜ネドラを氷の中に閉じ込めた。
そして、全身に火傷を負ったは数日間生死の境をさまようことになり、その間セニカは付きっ切りで彼の看病をした。
意識を取り戻し、初めてセニカの姿を見たローシュはその時、彼女を天使か女神に一瞬見間違えたと言われている。
ネドラにとって、彼の時間はセニカによって氷漬けにされた時から止まっている。
氷漬けになっている長い時間は彼にとっては一瞬の過ぎ去りし時なのだろう。
「けれど…暴れさせるわけには…いかないのよ!!」
昔のリーズレットなら、ネドラから逃げていたかもしれない。
古代図書館で過ぎ去ったときを見続けた彼女にとって、今のロトゼタシアには大切なものなどなかったのだから。
だが、今は自分のことを受け入れてくれた人たちがいる。
魔女である自分のことを信じてくれる人がいる。
彼らを守るためにも、逃げるわけにはいかない。
意を決したリーズレットは岩場から出て、トベルーラで飛行を始める。
「リーズレット殿!?」
「クレイモランへ行って!そこにいても足手まといよ!」
「ですが…!!」
「殿をやるだけ!隙を見つけて逃げるから、さっさと行け!!」
飛び出そうとする兵士たちの行く手を阻むかのように氷塊が生まれる。
愛用していた杖は自分の策を見破った天才魔法少女に渡していて、今手にしているのはシャールからもらった青い水晶のついた杖。
氷魔の杖ほどではないが、それでもこの杖はクレイモランに保管されているものの中では最高の杖だという。
(幸いなのは…奴が本調子ではないということね。まったく、もし本調子になっていたら、全力の私でないと抑えられなかった…)
本調子でないもの同士、おまけに長年封印された者同士という奇妙な共通点。
いい男なら、一晩共にしてもいいとも思っていたが、こんな乱暴者についてはノーサンキューだ。
「貴様…ローシュはどこにいる!?答えろぉ!!」
「あんたが探しているローシュはもうこの世界にはいない。あんたが氷漬けになってから長すぎる年月が経ってるの。わかる?」
「ふざけるなぁ!?嘘をつくんじゃねえ!そんなこと、あるわけねえだろぉ!!」
ネドラの目に映るこの雪原の景色はかつて、氷漬けにされた時とは何も変わらない。
一瞬の時と変わらない景色。
彼にとって、時間が流れていないということを示す証拠はそれで十分だ。
「脳筋め…!今のあんたをクレイモランには近づけさせないわ!」
こんな奴がクレイモランに行き、そこで真実を知ってから何をするかは目に見えている。
すべてを焼き尽くし、人々を消し炭にしてからなおもローシュに執着し、世界中を飛び回るだろう。
こんな存在をこの雪原から出すわけにも、生かしておくわけにもいかない。
「さあ、もう1度氷漬けになってもらうよ!!」
杖に己の魔力を集中させていく。
そのことで、彼女の体から発するプレッシャーを感じたネドラは黒い炎を彼女に向けて放つ。
炎がリーズレットに迫るが、それに構うことなく彼女は極大氷結呪文マヒャデドスを唱えた。
空気中の水分が輝くほどの超低温の空間となっていくとともに、真っ白な氷の奔流が黒い炎とぶつかり合う。
絶対零度の空間であれば、本来は炎は維持できずに消えてしまうのだが、ネドラの炎は魔竜ということあってか、それに対抗できる魔力が炎そのものに宿っているようで、消える気配がない。
だが、ぶつかり合っている間なら少なくとも足止めする時間は稼げる。
問題は自分の魔力と杖がどこまでマヒャデドスに耐えられるかだ。
このマヒャデドスは足りない魔力と杖の力で増幅して無理やり放っている状態。
嫌な汗が体から噴き出て、杖についている水晶にも細かいヒビが入る。
おそらく、このままこの呪文を唱え続けたら、杖は砕け散ってしまうだろう。
そして、マヒャデドスは維持できずに消滅し、あの炎に焼かれることになる。
彼女の計算であれば、あと30秒くらいなら唱え続けることができる。
「さあ、さっさと降参して氷漬けになりなさい!!」
「うるせええええ!!ローシュを灰にするまで、氷漬けはごめんだああああ!!!」
「本当に…その執念、今の私にはないものね!!」
疲れを見せる気配のないネドラに対して、リーズレットにガタが来てしまう。
背筋が凍るような嫌な予感を感じた瞬間、リーズレットの杖の水晶が粉々に砕け、マヒャデドスが消えてしまう。
そして、炎はリーズレットに迫った。
「ここまで、ね…。まったく、逃げる隙さえなかったわ」
伝令からはエルバが来ているという話も合った。
自分を止めた彼らなら、もしかしたらネドラを倒せるかもしれない。
きっと、聖地ラムダへ向かう途中の彼らは逃げた兵士たちから情報を聞き、ここに駆け付けてくれる。
クレイモランに戦火が及ばずに済めば、自分の勝利だ。
「まったく、短い自由だったわね。さようなら…シャール。いい女王様になりなさい」
思い残すことなく消えてやろうと思い始めたリーズレット。
炎が彼女を包み、体が焼ける感覚を覚える中、彼女の脳裏に浮かぶのはシャールや側近たちの顔、そして自分が呪文を披露することで見せた子供たちの笑顔。
「まったく…」
意識が薄らぐ中、急に自分を包む黒い炎が消えてしまう。
完全に意識を手放そうとしていたリーズレットは一瞬、ただの幻覚かと思ったが、そうではない。
体中の痛みに耐え、視界を開くとそこには首筋から鮮血が放つ魔竜ネドラと、黒いローブ姿の男の姿があった。
「あな…た、は…」
大幅に服装が変わり、彼から放つ気配もまるで違うが、見間違えるはずがない。
長きにわたって封じられた自分を自由にしてくれた男。
また、助けてくれたのかと思い、安心したように笑う。
「フッ…勇者と英雄…。彼ら…なら…」
かすかに、目の前の男の声が耳に届くが、そんなことを気にすることなく、リーズレットは目を閉じた。
「ふう、はあ…」
「大丈夫ですか、リーズレット様、じっとなさってください。まだ火傷が治りきっていませんから…」
耳に聞き覚えのある少女の声が届く。
意識を取り戻したばかりでまだ視界がぼやけているが、彼女が身に着けてみる緑と白の厚手のドレスと金色の長い髪は分かる。
徐々にはっきりとしてきた視界で、テントの中で回復呪文を施すセーニャの姿が見えた。
「あなたは…」
「セーニャです。ご無事でよかったです…兵士の皆さまからあなたとネドラのことを聞いて…」
「そう…それで、ネドラは…?」
「それが…」
「おいおい、マジか…。一体どんな奴がやったら、こんなザマになんだよ…?」
ネドラが氷漬けにされていた場所には氷の巨塔がそびえたっていて、その先にあるものにカミュは口元を手で覆う。
そこには目を見開いたまま串刺しになっているネドラの亡骸があり、氷にはネドラのどす黒い血が付着していた。
その付近には、いくつものクレーターができていて、巻き添えとなった魔物の亡骸も転がっている。
「一体だれがこんなことを…?ほかにも六軍王がいるということか?」
「可能性があるとしたら、ホメロスとまだ会っていないあと1人…。だが、なぜあの魔物を殺したのだ…?」
魔竜ネドラの話はローシュ戦記にも書いてあり、邪悪の神のしもべであったことから、やろうと思えばウルノーガの陣営に加えることもできただろう。
そう考えると、彼らの仕業と考える理由は薄いが、少なくともそれだけの所業の出来る強者が他にいるとは思えない。
「セーニャちゃん…リーズレットちゃんはどうだったかしら?」
「はい、大事には至っていませんでした。もう少し休む必要がありますが…」
「良かった…。それで、あいつを倒した奴について、何か言ってなかったか?」
「はい…。実は、リーズレット様が意識を失う直前に助けた男性の方がいらっしゃると言っていました。それで、おそらくなのですが…それが、ホメロスだと…」
「ホメロス…奴が?」
確かに、今のホメロスならこれだけのことをしてもおかしくない。
だが、グレイグには彼がそのようなことをする理由が分からない。
ローシュの生まれ変わりであるエルバを襲う可能性があるネドラを放置するか、懐柔することもできただろうに、なぜこのように殺したのか?
まるで、エルバ達に手助けをするかのように。
「魔竜の魂…」
「うん?魔竜の魂、なんだよ、そりゃ?」
マヤのふとした単語に隣でそれを耳にしたカミュが問いかける。
オリハルコンやプラチナなどの宝や希少な金属の知識を持つマヤが知っているということは、おそらくは特別な宝なのかもしれない。
「ああ、強大な魔力を持つドラゴンは体内に魔力を生み出す臓器があるんだよ。オーブみたいな形をしていて…確か、心臓の近くにあるなんて話を…」
「心臓か…」
トベルーラでネドラの遺体を確認するロウはその心臓にあたる部分は見事に氷の塔で貫かれているのを見つける。
ここからでは、マヤの言う魔竜の魂が砕かれてしまったのか、それとも奪われたかは判断できない。
魔竜の魂についてはロウも修行中の座学で学んでおり、実際にニマからも実物を見せてもらっている。
魔竜の膨大な魔力がこもっていることから、錬金術を用いることでダイヤモンドよりも高い硬度を持つ金属であるヒヒイロカネや一本一本に高度な魔力が宿り、オーロラのように輝くというオーロラの布切れなどを作り出すことができるという。
錬金術は物質の構成や形を変えて別の物に作り変える技術であり、かつては鉄などの様々なものを金に変えようと研究が行われていたという。
結局、金を生み出すことは叶わなかったが、その副産物として今ある物を対価として別の物質を作り出す技術として確立した。
だが、それを成し遂げるには膨大な魔力が必要となり、高い魔力を持つ賢者であっても複数人の手を借りなければ不可能な話だ。
その解決策として作り出されたものの中には複数の物質を入れて、それを魔力で構造を理解したうえで分解し、別のものに作り直す窯が作られたという話がある。
それが実在するかどうかは分からず、現在ロトゼタシアでは錬金術そのものは一部の魔法使いが研究するだけの存在となっている。
だが、長きにわたり生きているウルノーガが錬金術のことを知っている可能性がある。
そして、手に入れた魔竜の魂を使うこともあり得る。
「気になるところはいっぱいあるけれど、少なくともこれでクレイモランへの新しい危機は去ったわ。そのことを喜びましょう!」
「そうだな…。それに、今はラムダの里へ向かわなければならん。進んでいけば、ホメロスに会う機会もある。その時に聞けばいいだろう」
ホメロスが素直に答えを出してくれるとは思わないが、今ここで立ち止まる時間は惜しい。
ネドラが死んだのが分かった以上、あとは進むだけ。
エルバ達は氷の塔を見上げ、霜がついて白くなりつつあるネドラの遺体を見る。
(ネドラを殺したホメロス…そして、魔竜の魂…。ウルノーガとホメロスはいったい、世界を手に入れたというのに、更に何を手に入れようというんだ…?)