目覚め-1
――満潮。
誰だろう。私を呼ぶ声が聞こえる。聞いた覚えがある。温かい声だ。
いつもその声を聞いていた。いつも聞いていたのに、なぜか、とても懐かしく感じた。
その声は私を呼ぶたびに、どんどん近くなってくる。
だけど、誰も、何も見えない。真っ暗だ。
真っ暗な中で、地面に両足がついている感覚だけがあった。
声が近くなるたびに、徐々に視界が明るくなっていく。
暗い空に太陽が昇るように、黒の空間に静かに白が混じり始める。黒から白に、やがてその白は別の色へと変わり、周囲の輪郭がはっきりしてきた。
私が立っているのは冷たい海の上ではなく、見知った工廠のなかだった。灰色の壁が広い空間を作っており、換気用の窓が開け放たれていた。ごうんごうんと機械の動く音が絶え間なく反響していて、まるで船の客室にいるような気分だ。
窓の方をぼーっと見ていると、ひらひらと桜の花びらが舞い降りてくる。薄い桃色の、柔らかい花。外の季節は春のようだ。
開け放たれた窓からは温かい風が入ってきている。心地よいはずなのに、頭が寝起きのように重く、どうもすっきりしなかった。そのせいか、前に進もうとしてめまいに襲われた。後ろに倒れそうになる。それをやんわりと受け止めてくれた人がいた。
「えっと。大丈夫?」
その声は、先ほどから私を呼んでいた声とよく似ていた。
重い頭を支えて、肩越しに後ろを振り返ると少女の顔がそこにあった。
「……あなた」
「急に倒れそうになったけど。どこか具合が悪い?」
「頭が少し重いわ」
「ちょっと待ってて、すぐに椅子を持ってくるから」
少女は私を壁に横たえて、工廠の奥へと走って行く。すぐに椅子を抱えて戻ってきた。
私を起こし、椅子に深く腰掛けさせた。体勢が楽になったおかげで、頭のだるさが少しずつ消えて行った。
少女は私の前でじっと待機している。私の気分が悪くならないか心配なのだろう。小さな顔に不安を浮かべていた。
「大丈夫、少し楽になったわ。ありがとう」
「そう、どういたしまして。無理して我慢しないでね」
少女は目を細めて微笑んだ。
小動物のような顔に流れるような黒い髪。小さな体は白の制服とサスペンダー付きのスカートに覆われている。制服の首元には赤いリボンが付いていた。
ふと、自分の身体に目を落とす。よく見ると、目の前の少女と同じ服を着ていて、スカートの下からは2本の足が伸びていた。それは自分の思うように動かせた。
身体の左右には腕があり、それも思うがままに動かせる。私は右腕を意識して、手のひらを左胸に当ててみた。手のひらには、小さなふくらみの向こうで等間隔に脈打つ鼓動を感じた。何となく、その鼓動は心臓があるからだと分かった。
私は、人間の身体を持っていたのだ。
自分が人間になっていることに驚いていたが、目の前の少女がしげしげと私を見つめていることに気がついた。
「な、なに?」
「あ、ごめんね。まじまじと見ちゃって。わたしと同じ制服だから、同じ『朝潮型の駆逐艦』かなって思って」
駆逐艦、同じってどういうこと?
目の前にいるのは人間の女の子だった。駆逐艦とは程遠いほど脆く、弱い身体の人間だ。
その人間によって私たち駆逐艦は操舵され、背中の主砲や機銃で戦うことが出来る。なぜ目の前の少女は、自分のことを駆逐艦と言っているのだ。
そもそも、なぜ私は人間の姿をしているのだろう。レイテの海で私の鉄の身体は沈んで行って……それからのことは分からない。
分からないことだらけで頭がいっぱいだ。
「確かに、私は朝潮型駆逐艦だけど」
「やっぱりそうなんだ。違う艦種の制服を着ている子がいるから、ちょっと疑っちゃった」
「勝手に納得しないでっ」
「あぁ、ごめんごめん。とにかく、自己紹介が必要よね。私は、朝潮。朝潮型駆逐艦1番艦、朝潮。あなたは?」
私の疑問が解消されていないうちに、目の前の少女は自分のことを朝潮と名乗った。
状況が読めない。人間になっていることとか、少女が朝潮型を名乗っていることとか。
「満潮、朝潮型3番艦の。ねぇ、いろいろと聞きたいことがあるんだけど」
「分かってる。そのことは、提督室に向かいながら説明するから」
と朝潮は私をなだめた。
立ちくらみが落ち着くと、私は朝潮に手を引かれ工廠から外に出た。
春の陽射しを身体に浴びると、心の奥まで温められるようだった。柔らかい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出した。つっかえていたものが取れるように、胸の中がすっきりする。
朝潮が歩きだし、私はその斜め後ろをついて行った。
朝潮曰く、今の私は『艦娘』と呼ばれる存在らしい。艦娘とは、戦争時代に大海を戦場としていた艦船の生まれ変わりで、当時の船の魂を持っている。魂は、艦船で戦っていた乗組員や指揮官、操舵員などの想いが集まったものなんだとか。
そのような生まれ変わりがあるのかと疑問に思うが、私が艦娘になっていて、人間の身体や意思を持っていることがその裏付けだそうだ。
では、なぜ現代になって船の魂を持つ存在が現れたのかというと、現在世界の海には『深海棲艦』によって、その安全が脅かされていることが原因と言われている。深海棲艦はどこからともなく現れ、海上を行く船をことごとく破壊して回っている。客船が狙われ多くの命が奪われたり、輸送船の行く手を阻んで資源の供給を滞らせたり。国際連盟でも議題に挙げられるほどの自体に陥っていた。
そして自衛隊や各国海軍の手に余り、万策尽きたと思われていた時に現れたのが、艦娘なのだそうだ。艦娘は背中に艤装と呼ばれる動力装置を背負い、小型の主砲や魚雷を持って深海棲艦を撃退して回る。艦娘の放つ砲撃や雷撃でなければ、深海棲艦を完全に倒し切ることが出来ない。艦娘だけが深海棲艦に有効打を与えられるそうだ。
「それに、戦闘機や実際の艦船を動かすより艦娘が戦う方が、はるかにコストパフォーマンスがいいの。艤装にも燃料や修理用の鋼材が必要だけど、使う量が圧倒的に少ないしね。少ない量で、かつ艦船と同等の出力や走行距離が出せる」
つまり、自衛隊や各国海軍としては、手柄を奪われた形になるわけだ。良い気分では無い気がする。軍隊レベルでは太刀打ちできず、見た目が少女の存在が戦えるというのだから。
それに近いことを言うと、
「そうね。日本はそこまでじゃないけど、他の国では一時期騒がしかったみたいよ。『艦娘より俺たち人間の力を使え』みたいに。でも、自分達に出来ないことが出来る艦娘のことを少しずつ認めていったんだって」
提督から聞いたんだけどね、と朝潮は付け足した。
しばらく歩いて、私たちは大きな扉の前で止まった。朝潮は体で押すように扉を開け、私を中へ通した。広いエントランスのようで、2階は吹き抜けになっている。エントランス奥には左右に廊下が延びており、取り付けられた窓から温かい陽が差し込んでいた。私たちは螺旋階段を上り、二階へ向かった。
「さっき、提督って言ってたけど」
「私たち艦娘の指揮官。全国にある鎮守府と泊地にいて、深海棲艦の掃討作戦や輸送船の護衛任務等々の指揮をするの」
「ふーん」
そう聞き流しそうになったが、ふと疑問が浮かんできた。
「あれ、今って、戦争はもうしてないんでしょ。なのに、何でまた戦争してた時と同じ体制をとっているの」
過去の戦争で、この国は大敗北を喫した。無慈悲にも罪のない多くの人が蹂躙され、もちろん日本も、敗北以前には他国の民に対しても卑劣な行為を強行していた。流れた血の多さと幾万の命を奪う兵器の恐ろしさをしり、この国は二度と戦争はしないと誓ったはずだった。私は戦争が終わる以前に海の底へと沈んだが、そのことはなぜか知っていた。
それなのに、また当時と同じような体制をとるのは、国民の不信感や反感を買うのではないか。私なら反対する。いくら艦娘が世界にとって貴重な存在としても、同じ轍を踏むようなことがあってはいけないはずだ。
朝潮が窓をひとつ開け放ち、その下縁に手を添える。柔らかい春の風はこの二階にも潮の香りを運んできて、去り際に彼女の黒い髪を撫でた。
「昔とは違うよ」
朝潮は遠く広がる水平線に目をやった。
「別に、どこかの国と戦争をしようっていうんじゃないよ。今の敵は深海棲艦っていう、ひとならざる者。むしろ、全世界に共通の敵なわけだから、戦争するどころか互いに手を取り合って協力しているよ」
「内乱になりかけた国もあるのに?」
「それはまぁ、過ぎた話だよ。それに、お互いの国の艦娘をやりとりすることもある。うちにも一人、ドイツの艦娘が助っ人に来てくれているんだ」
朝潮は私に向き直った。
「私たちは、過去の艦船の生まれ変わり。生まれ変わる前の名前を今でも持っていて、それは心に刻まれている。だから、私たちを指揮するには、過去に存在した体制や役職を作った方がいいだろうってことになったの。でも、過去の法律を全部復活させるんじゃなくて、艦娘を指揮するうえで必要な役職や制度だけ。国民から不当な税を取り立てたり、何かを我慢させたりはしてないよ」
それを聞いて私は安心した。艦船だったころの『私』の乗組員が、よく家族の心配をしていた気がしたからだ。何を言っていたかまでは分からないけど。
これが、艦船のころの『魂』というものなのだろうか。
朝潮が私を手招きして、再び彼女の後ろについて歩く。木造の廊下を朝潮は迷いなく進み、ある部屋の前で立ち止まった。合わせて私も立ちどまり、扉の上部に掲げられたプレートを見ると、『提督室』と書かれていた。
「ここが、この鎮守府を総括している提督の部屋。失礼の無いようにね」
私は胸の中で返事をして、こくりと頷く。
朝潮は扉に向き直り、木製の扉を4回ノックした。「どうぞ」と中から声が聞こえ、朝潮は扉を開けた。
きびきびと室内を歩き、私たちは大きな執務机の前に並んだ。
机の上には海図や資料が山積みになっていて、今にも崩れるんじゃないかと思わずハラハラさせられる。山の向こうでは文字を書く音が聞こえ、誰かが書類を作っているようだった。
山に向かって、朝潮が敬礼する。私もマネて敬礼した。
「失礼します。新しく建造された艦娘をお連れしました」
朝潮がちらりと私を見る。自己紹介を促しているようだ。
「朝潮型駆逐艦、3番艦の満潮です。宜しくお願いします」
「はい、よろしくね」
顔が見えない誰かは、文字を書く手を止めず返事をした。声からして男性のようだ。
「ごめんね。やらないといけない書類がたまってるんだ。顔を上げて話す余裕がない」
「いえ、構いませんけど……」
挨拶に顔を見せられないほど忙しいのか。少し疑ってしまう。
しかし、実際に文字を書く音が止まる気配はない。本当に忙しいようだ。
「3番艦ってことは、朝潮の妹か。良かったね、朝潮。妹が増えて、また賑やかになりそうだ」
「そうですね。他の鎮守府も合わせれば、姉妹艦は全て艦娘になっています。
鼻が高いです……少しだけ」
朝潮が照れくさそうに鼻を掻く。
その横顔を見ていると、入口からノックの音が聞こえた。
「どうぞ」と提督が言う。
「失礼します」
入ってきたのは、優しそうな雰囲気の女性だった。一番目を惹いたのはその胸元だった。豊満な胸が衣服を強く押し出している。髪にはかんざし、和傘を差せば大和美人と言われても不思議ではなかった。
大和美人な女性は私に気が付いて、にこりと微笑みかけてくる。なぜか恥ずかしくてそっぽを向いてしまった。彼女は私の隣までやってきて両足をそろえた。そして敬礼。
「戦艦大和、ただいま帰投いたしました」
名前を聞いて目を見開いた。
艦娘は過去の艦船の生まれ変わり。艦船の中には、当然、戦艦も含まれている。その中でも、特に名を博したと言っても過言ではない『大和』も艦娘になっていた。
ともかく、挨拶は必要よね。
そう思って口を開きかけた。
「おかえり大和ぉぉぉ!」
突然、事務机に築き上げられた山が崩れ落ちて、挨拶の声が引っ込んでしまった。
山の残骸がひらひらと床に散らばっていく。崩れた山の向こうに目を向けるが、そこにあるはずの人影がなかった。何が起こったのかと朝潮を見ると、彼女は頭を抱えていた。そして、無言で私の後ろを指差した。
促されて振り向くとそこには、大和さんの胸に顔を埋める何かがいた。
「お帰り大和寂しかったよぉぉ!」
「もう、恥ずかしいですよ、提督! 新しい仲間の前で、ちょっと!」
大和さんは顔を赤らめて、必死で何かを離そうとしていた。
察しはついた。提督だ。あれが提督なのだ。さっきまで私の頭の中にあった真面目な提督像が跡形もなく瓦解した。
そこにまた提督室の扉をノックする音がした。提督の返事が来る前に扉が開け放たれる。ズンズンという効果音が似合いそうな歩調で、ひとりの女の子が入ってきた。目端をキッと吊り上げ、長いサイドテールを振り乱しながら入ってきた彼女は鬼の形相で荒っぽい声を上げた。
「ちょっとクソ提督! あんたまた烈風作ろうとしたでしょ! ちゃんと大本営から支持された量を使わないと出来ないってあれほど……なに大和さんに抱きついてるのよ! 大和さん困ってるじゃない! 離れなさい、離れなさいって!」
サイドテール鬼少女はズカズカと提督に近づいて、白制服の襟元を掴んで引っ張る。何とか大和さんの胸から彼を引き離そうとしている。
「あ、ちょっと曙さんっ。無理に引っ張ると提督の手が変なところに当たって……提督、離してぇ」
私は、ここに来るまでの朝潮の言葉を思い出した。
昔とは違うんだよ。
確かに、昔とは違うようだ。艦船だった私の背中に多くのひとが乗り込み、厳しい統率と、ピリピリと張りつめた空気のなかで戦っていたころとは、何もかも違った。
この提督室には、統率なんてあったもんじゃなかった。セクハラする上司と、セクハラされる女性。セクハラを阻止しようと必死な少女。それらを呆然と見つめる傍観者2名。
さすがに止めようと思ったらしい。朝潮が曙と呼ばれた少女に手を貸した。
私はひとり、流れに取り残されたように立ち尽くしていた。
「なんでこんな部隊に配属されたのかしら」
その言葉は、誰に聞かれるでもなく、窓から吹き込む春風に溶けて消えていった。