暗い雲が空を覆う。今にも泣き出しそうな空模様だが、予報では夕方から降り始めるとのことだった。
巻雲を含む艦隊が出撃したのち、私はいつも通り鹿島の航行練習に参加した。この日は複縦陣での航行。曇り空の下、隣との間隔に気をつけながら旗艦の指示に従って海をすべる。もちろんみんなの練習は午後で終わりだが、私はさらに1時間居残りすることが決まっている。それもこれも司令官のせいだ。しかし、遅かれ早かれいつかは秘書艦をしなければいけなかったのだ。早めに役目を終えられて良かったと思うことにしよう。
鹿島の腕時計のアラームが午後を報せ、練習生が一斉に港へ戻っていく。それを見送り、私と鹿島は笑顔を交わす。笑わないとやっていられない。潮の香りに雨のツンと鼻をつくようなにおいが混じるのを感じながら、鹿島の追加指導をこなしていく。唯一の救いは、へとへとになるまで練習した後のご飯はおいしいということだけだった。
港に戻った私は、食堂ではなくまずドックへ向かった。お米の甘いかおりが恋しかったが、汗と海水でべたついた身体をさっさと洗ってしまいたかった。手早く手短に汗を流す。着替えた下着は柔らかく心地いい。制服も新しいものを着て、さっぱりした気持ちで食堂の扉を開けた。
お昼時はとうに過ぎている。誰もいないかと思われた食堂には、意外にも来客があった。入り口近くの丸テーブルに舞風と嵐が座っていた。私に気づいた舞風が手を上げる。手招きされたので素直に従う。
「舞風たちもご飯?」
「ご飯はもう食べたよ。今日は非番だから、やることなくて暇なんだ」
舞風の隣、嵐の対面に腰掛けて、汚れた服を空いた席に置く。そこへ妖精がメモ帳を持ってやってきた。艦娘が多くないときは、こうやって注文を取ってくれるのだ。お腹が空いていれば何でもおいしいので、とりあえずから揚げ定食を頼む。
「二人して暇なんだから、何かしようってことになって。二人で『愛』について語ってたんだ~」
細くしなやかな指を組み、舞風は演技っぽくうっとりと目を細めた。
「舞風たち、昔は艦船だったでしょ。でも今は、こうして身も心も人間のものになってる。だから、いろんな感情が沸く。それがどういうものか考えてたの」
「俺はいいって言ったんだけどな。巻きこまれた」
と嵐は頬杖をついた。
「俺は考えるのが苦手なんだよ。もういいじゃねぇか。相手のことを好きって思うのが愛で」
「嵐はそれでいいの? 簡単に片づけていいの? 愛を軽く見てケッコンする人が、望まない子どもを授かることになってるんだよ!」
流石にそれは極論な気がするけど、一理あるような気もするから反論できない。嵐もそうなのか、苦い顔をしている。「お昼時にする話じゃねぇな」とため息交じりに言い、ちらりとこちらに目を向けた。助けを求められても困る。でも、どうやら舞風の気が済むまで付き合わないと終わらないみたいだ。
私は言った。
「ねぇ、語るのはいいけど、せめて別の話題にしない? 『愛』だと、話題がちょっと重くなりそう」
「そう? そんなこともないと思うけど……ん~、じゃあねぇ」
舞風は腕を組んで考えるそぶりをして、
「じゃあ、『好き』にしよう」
自信有り気に言う舞風とは対照的に、私と嵐はきょとんと顔を見合わせた。
「それ、何か違うの?」
「結局『愛』と変わってないじゃんか」
二人揃ってそう言うと、舞風は腰に当てて頬を膨らませた。
「全然違うよ。嵐がさっき言ったのは、誰かを恋しく想う『好き』でしょ。『好き』っていうのはもっと他に種類があるよ」
例えば、と舞風は人差し指を立てて、
「満潮。食堂のメニューでお気に入りのものって何かある?」
突然の指名に驚いたが、少し考えてみる。
「そうね。ドーナツかな。ほら、ときどきメニューにあるじゃない。ライオンのたてがみみたいに、外側の縁がもこもこしてるやつ。あれが好きなのよ」
「それは自分の髪型が好きって言う婉曲表現ですか」
「うるさい」
肩を小突いてやろうかと思ったがすんなり避けられてしまう。
舞風にからかわれてしまったが、このポンデリング調の髪型を作るのは大変なのだ。出来れば朝はゆっくりしたい。でも、髪を結って丸める時間を作るために早起きしていた。頭の両側に作るから余計に時間がかかる。これが取り外しできる髪飾りならどれだけ良いか。作らないといけない義務は誰からも課されていないが、そうしないと気が済まないのだ。もしかして、この髪型をするように誰かにプログラミングされているのかもしれない。
ひとりで考えを巡らせる私に構うことなく、舞風は一つ咳払いして、
「まぁ冗談だけど。今の満潮の『好き』は、食べ物が好きってこと。舞風は踊るのが好き。嵐は暴力とか好きそうだよね」
「舞が俺のことをどう見てるか、よくわかったよ」
「これも冗談だって! そんな怖い目で見ないでっ」
嵐の鋭い視線から、舞風はいやいやと目をそらす。
「それに、他のひとを想う『好き』にも色々あるよ。恋人として好き。友達として好き。姉妹として好き。舞風は嵐も満潮も好きだよ」
「嬉しいといえば嬉しいのに、何でかな。フォローのつもりで言われた気がする」
「これはほんとだよ! 信じてよ嵐ぃ」
と悲しそうに声を震わせて嵐の制服の袖にすがった。ちょっとした狼少年状態だ。いや、狼少女か。私は舞風に憐れみの眼差しを向けていたが、一方で感心していた。
舞風は「好き」と言うことにためらいがないようだった。わたしには難しいことだ。それが、例えばドーナツなどの食べ物や、読み終わった本なんかにはいくらでも「好き」と言うことができる。それなのに、相手が人間、艦娘だと、どうしても想いを伝える言葉が出てこない。自分の想いをためらいなく言葉にできる舞風が羨ましかった。
「舞風はすごいね」
自然と言葉が漏れた。聞かせるつもりがなかっただけに、「へ、どうして?」と反応されてしまって戸惑う。胸の前で不自然に手を動いた。
「あ……いや、ほら。私は舞風みたいに、自分の思ってることを、すっと伝えられないから。それができる舞風が、素直に凄いなって」
「ふふん、そんな風に褒められると、この舞風さんも悪い気はしないよ」
「調子いいんだから」
舞風が席に着く。
「俺は、無理に言葉にする必要はないと思うぜ。手紙を書くとか、贈り物をするとかでも充分だろ。誰もかれもが言葉を上手に使えるわけじゃないし」
伝え方はいろいろさ、と言って嵐はひとつあくびをした。
「んあ~。頭使ったらお腹空いたな。なんか食べようか」
そのとき、ちょうど折よく2匹の妖精がテーブルに近づいてきた。妖精たちはトレーを持っていて、銀色の縁の端と端を支えている。
トレーに乗せられている料理を見て、思い出したように私のお腹が鳴った。