嵐たちはもうしばらく食堂にいるそうだ。着替えた下着と制服を洗うため、私は食堂を後にして寮に向かった。寮の中は、どこか様子がおかしかった。行き来する娘たちはひどく慌ただしい。何事か言い交わしたあと、再び足早にどこかへ向かって行く。
その様子を眺め、不思議に思いつつ彼女たちの側を通り過ぎる。一階廊下の一部屋に洗濯機が置いてある。電源を入れて制服を洗う準備をしている間も、部屋の外はやはり騒がしかった。椅子に腰かけて廊下の方を見ると、忙しそうに行き来する艦娘の中に朝潮の姿を見とめた。
私は部屋から出て、朝潮を呼んだ。
「朝潮、どうしたの?」
私に気がついた朝潮が立ちどまり、振り返る。普段は笑顔の彼女しか見たことがないため、不安そうな表情がどこか新鮮で、わだかまりを感じずにはいられなかった。わたしは近寄って、
「何かあったの?」
「ちょっと、ね。面倒なことにはなってるかな」
朝潮は何かに迷うに視線を落とす。
「言いづらいこと?」
「いや、そういうわけじゃないけど--とりあえず、うん。来てもらった方が早いね」
ついて来て、と朝潮はさっと歩き出した。私は慌てて彼女の後を追った。いつもより歩幅が大きかったのは、たぶん気のせいではないだろう。
連れてこられたのは医務室だった。艦娘がいくら艤装で保護されているとはいえ、深海棲艦からの攻撃で怪我をしないわけではない。大怪我であればすぐにドックに入れられるが、軽傷であればこの医務室で治療される。診察台がひとつあり、4つのベッドが等間隔に並んでいる。静寂を強要された空間。時を刻む針の音が耳についた。
朝潮はその中の、唯一白いレースで仕切られているベッドを目指した。
場所が場所なだけに、私は嫌な予感を拭えなかった。誰かに何かがあったのは間違いない。泥棒、鎮守府荒らし。もしかして、街でストーカーに後をつけられて、抵抗の末虚しく……。艦娘は陸上では普通の女の子と大差ない。いくら訓練されているとはいえ、複数の大人に囲まれればなす術もないのだ。
朝潮がレースの前に立つ。そして金属の車輪がこすれるような音とともに、白い幕が開けられる。目の前に現れたのは秋雲だった。いつもの制服姿でベッドの縁に腰掛け、きょとんとした目をこちらに向けている。しっかり背中は伸びていて、身体のどこにも傷ついた様子はなかった。ただ暇そうにぶらぶらと貧乏ゆすりを繰り返していた。
その姿を見て、私は胸をほっと息をついた。
「もう、びっくりしたわよ。誰かがとんでもないことに巻き込まれたのかと思っちゃったじゃない」
私は朝潮の前に出た。
「全く、あんた何で医務室にいるのよ。どこも怪我してないし。まさか仮病? 絵を描きたいからって、そこまでするのはどうかと思うわよ」
相変わらず、秋雲はきょとんとした顔をしていた。特に反応が無くて肩をすくめてみせると、何も言わない秋雲に代わって朝潮が口を開いた。
「……どうして、医務室にいると思う?」
そう問われて、思わず朝潮に振り向いた。
「どうしてって……」
答えあぐねる私に、朝潮は確認するように言葉を紡いだ。
「目立った外傷はない。悪いものを食べてお腹を壊した様子もない。出撃も遠征もしない日だから、深海棲艦との戦いで体力を消耗したわけでも、街に出かけて変質者に襲われたわけでもない」
少し間を置いて、私が言葉を理解する時間を与える。そしてもう一度尋ねた。
「なら、どうして医務室にいると思う?」
どうして。秋雲はなぜ、医務室にいるのか。医務室、広く、医療系の部屋が使われるとはどういうことか。
どこぞの学校ならサボる意味で保健室を利用することがあるだろうが、鎮守府でそれをやれば何かしらの罰があるはずだ。叱責か、掃除か、腕立て一万回か。いずれにせよ、進んでサボろうとする人はいないだろう。
病室にいる。それはつまり、身体のどこかに悪いところがあるからだ。悪いところを治療したり、安静にしてもらったりするために病室は使われる。
では、どこが悪いのだろう。
朝潮に返す答えを探す。その答えは、私が思いつくより先に、秋雲自身が教えてくれた。
「えっと」
よく使われる前置き。誰かと話すときでも、大々的な発表をするときでも、つい口にしてしまう言葉だ。しかし、次に秋雲の口から出された言葉は、親しい中ではまず使われないものだった。
「キミは……だれ?」
医務室、広く、病室が使われる理由。体のどこかに悪いところがあるひとを休ませるために使われる。
秋雲のなかから、私たちに関する一切の記憶が消失していた。
しんとした医務室に、ノイズのような雨音がしみ込んできた。