「おーい。本当に俺のことが分からないのか?」
嵐が秋雲の前に立って尋ねる。
「うん、分かんない」
「まじかぁ」
とため息交じりに肩を落とした。紅い髪から雨の雫が医務室の白いタイルに落ちる。秋雲の記憶がなくなったと聞いた嵐は舞風をつれて、傘も差さず食堂から飛んできたのだ。舞風もずぶ濡れで、額や首筋に髪がべったりと張り付いている。私は棚からタオルを2枚取り出して二人に渡す。
雨水を拭うふたりを眺めながら、隣りに立つ朝潮が言った。
「でも、舞風のことは分かるんだよね」
そう、秋雲は何もかも忘れたわけではなかった。艦娘の名簿を見せたところ、秋雲が忘れたのはこの鎮守府に所属している艦娘の約半数のことだけだと分かった。残りの半数と自分のこと、鎮守府の各施設などは全て覚えていた。
記憶喪失には違いないが、症状は最悪というほどでもなかった。忘れられた側にとっては最悪以外の何物でもないが。ひとまず、一時的な記憶障害だろうということで落ち着いた。
「良かった。何もかもを忘れたわけじゃなくて」
「忘れられた側でしょ。辛くないの?」
「もちろん辛いよ。でも、もし秋雲が何もかも忘れていたらその方が辛かった。全部忘れたわけじゃないって思えるだけで、救われた気持ちになれる」
と、朝潮は目を細める。何かに耐えるように、口元はきゅっと結ばれていた。
朝潮がいつごろ着任したのかは分からないけど、私よりは多く秋雲と接してきたはずだ。それだけ私よりつながりは強いし、思い出もある。それらが秋雲から消えてしまった。もし私が秋雲ともっと長い時間を過ごしていたら、たぶん今の朝潮みたいに耐えることはできないだろう。
なかなか自分のことを思い出してもらえなくて、しびれを切らした嵐が「荒療治だ!」と言いながらこぶしを振り上げる。それを舞風が必死で止めていた。
「放せ、舞! こういうとき、頭を殴れば治ることがあるんだっ」
「古いテレビじゃないんだから!」
舞風だけでは手に負えそうになかった。慌てて私と朝潮も止めにかかる。暴力は良くない。嵐も不安なんだろう。記憶から自分の存在が消えていて、どうしたらいいのか分からない。不安に思うなというのは無理な話だ。
秋雲の中では、私の存在も消えている。私と秋雲を繋ぐつながりが途切れているということが、思いのほか胸をえぐっていた。
***
その日の夜。潜水艦掃討から帰投した艦隊は、大和から秋雲の事情を説明された。彼女たちはすぐさま医務室に向かい、秋雲と対面する。誰もが「忘れられていたらどうしよう」と青ざめていた。
しかし、彼女たちの不安は、たった一人を除いて杞憂に終わった。秋雲は帰投した艦娘をほとんど覚えていた。一人、また一人と秋雲が名前を呼ぶ。呼ばれるたび、彼女たちはほっと胸をなでおろした。
「なんだ、忘れられてないじゃん」
「よかったぁ。どうしようかって、ずっとビクビクしてたよ」
白く清潔に保たれた医務室が色づく。秋雲の記憶を確認した娘たちは安堵で頬を緩めた。
そして、最後のひとり。唯一彼女だけ、杞憂が現実になってしまった。
秋雲の前に出る。待つ。自分の名前が呼ばれるのを、待つ。激しく打ち付けている雨音が心を急かした。時計の針の音が耳をつく。体感では5分も10分も待った気がしていた。ようやく、秋雲の口が開かれた。
「だれ?」
名前は呼ばれない。何も言えず、何も考えられず、彼女は茫然と立ち尽くした。
そっと、秋雲に背を向ける。
喜ぶ娘たちに気づかれないように、巻雲は、重い足を医務室の外に向けた。
次回は9月10日(日)投稿予定です