巻雲たちが帰投する6時間前。
空一面に雨雲が覆いかぶさり、夕暮れが近づいているのか景色は一層暗さを増していた。雨傘が雨粒をはじく。その小気味の良い音を聞きながら、私と朝潮、舞風、そして秋雲の4人は、先導する嵐の後ろを歩いていた。
「まぁ、俺に任せとけって。すぐにでも秋雲に俺のことを思い出せてやるから」と嵐は胸を張る。
「何か当てでもあるの?」
そう尋ねてみると、
「ない! けどなんとかなる!」
「どこから来るのよ、その自信は」
嵐が大きく踏み出す。一歩一歩に勢いがあるせいで、先ほどからこちらに水が散っていた。
偽装を展開していればシールド性能が起動するため、身体が水に濡れることはない。ただ、雨の日にいつも艤装を背負うわけにもいかないし、そこそこ重さがあるのだ。雨の降る日は傘を差すのが常だった。長靴も履けば完全防水だったが、あいにく持ち合わせがない。近いうちに酒保まで買いに行こう。嵐の踏み散らす水しぶきを避けながら、自分も水を散らさないように慎重に歩いた。
嵐に連れられてきたのは寮の裏にある倉庫だった。入り口に傘を立てかけて中に入ると、紙の柔らかい香りと金属の鉄臭さが同時に鼻をついた。壁のスイッチを押して明りをつける。10畳ほどの広さで、壁際の棚にはビニールシートや段ボール箱などが整然と収められていた。倉庫の隅には誰が買ったのか分からない週刊誌が山積みにされており、長い間放置されたままなのか、表紙には埃がつもっていた。
こんなところに、一体なんの用があるんだろう。そう思って嵐を見ると、彼女は奥へと進み、細長い棒状のものを手に取った。柄の部分に黒いゴムテープがぐるぐる巻きに貼られている。それは間違いなく、野球用の金属バットだった。埃を払い落すと、銀色の芯が蛍光灯の明かりで鈍く光る。嵐が何をするつもりなのか、理解するには十分だった。
「さっきも言ったよね」と舞風が言う。
「秋雲の頭はボールじゃないよ?」
「あ? 何当たり前のこと言ってんだ」
嵐はバッティングフォームをとり、バットを振った。バットの先端が窓ガラスの手前で空を切る。危ない。
「頭を叩けば絶対治ると思うんだって。試しにやってみようぜ? 秋雲もいろいろと思い出すはずだし」
「記憶が戻る前に頭が割れちゃうんじゃないかな」
「そんときゃ、脳みそ取り出して調べれば……」
「やめてやめて! 想像しちゃったじゃんかぁ!」
舞風は目に映った光景を振り払うように頭を振った。
「あのひと、ちょっと怖いんだけど」
「間違ってないから、その認識は変えなくていいわよ」
流石に空恐ろしくなったのか、秋雲は私と朝潮を盾にして隠れていた。
嵐がもう一度バットを振ると、積み上げられていた段ボールの上をかすめ、ぶわっと埃が舞いあがった。一本足を力強く踏み出してスイングする姿はとても様になっているのだが、ミートさせるのはぜひ普通の野球ボールだけにしてほしい。
「よし。じゃあ朝潮と満潮は、秋雲の頭をしっかり押さえておいてくれ」
「何が『よし』なのよ。何もよかないわよ」
ははは、と朝潮も苦笑いを浮かべている。嵐のやり方を採用してしまうと、記憶とは別の意味で秋雲を病院に送らねばならなくなる。面倒事が増えるだけで何も良いことがない。
頭に衝撃を与える以外の方法を探したほうがいい。それなら秋雲の身体を傷付けなくて済む。そう嵐に伝えると、しぶしぶとバットを元の位置に戻した。一同、ほっと胸をなでおろす。
再び雨の中で傘を差した。
***
「嵐には任せておけない!」という舞風を先頭にして、次に向かった先は酒保だった。舞風は私たちを店の前で待たせて、一人で中に入っていく。
それほど待つことなく、彼女はビニール袋を提げて出てきた。
「秋雲は昔から忘れっぽかったんだよね。だから、これ」
そう言って袋を広げて、私たちに中を見せた。
ビニール袋の中には、黒鉛筆が数本に、一冊のスケッチブックだった。
「昔、秋雲に提案したことがあるんだ。似顔絵を描けば忘れないんじゃないかなって」
「あぁ、そういえば。わたしが似顔絵を描くようになったのって、それからだった気がする」
なんと。秋雲の趣味に舞風が関わっていたとは意外だ。しかし、なかなか妙案に思えた。相手の顔を見るだけでなく、手を動かして特徴を掴めば早々相手を忘れることはないはずだ。絵心のある秋雲なら造作もないだろう。もしかしたら、書いている間に記憶が戻るかもしれない。
酒保を後にして、私たちは工廠へ向かう。食堂でも良かったが、食事をするところで絵を描くというのも場違いに思えて気が引けた。
工廠では、相変わらず妖精たちが忙しなく動き回っていた。彼らの邪魔をしないように、イスと机を借りて工廠の隅に陣取る。舞風は秋雲を椅子に座らせ、机にスケッチブックを広げた。
「ん~。じゃあ朝潮、座って~」
舞風は別に椅子を用意して、朝潮を指名する。
「忘れた子をもう一度描けば、何か思い出すかもしれない。頭は忘れていても腕は覚えてる、みたいな?」
「でもさ。描いたから思い出せるって、ちょっと安直すぎじゃないか?」
「秋雲の頭を野球ボールの代わりにしようとした誰かさんより、まともなやり方だと思うなー」
「なんだとぉ!」
嵐が目を尖らせるが、舞風は華麗に受け流す。「じゃあやってみよっか」と秋雲に鉛筆を手渡した。
秋雲はときどき顔を上げながら、朝潮の似顔絵を描き進めていく。動く手は止まらない。ほんの30分ほどで朝潮の絵は完成した。
「ずいぶん早くなったねぇ」
舞風が感心しながら、しげしげと描かれた絵を眺める。気になってスケッチブックを覗き込むと、思わずため息が漏れた。すっとした目鼻。凛々しい顔つき。きちんと朝潮の特徴が捉えられている。素人目にも、この絵はとても上手だと思わされた。
「朝潮のこと、何か思い出せた?」
私は秋雲に尋ねる。
「ううん、なんにも」
秋雲はふるふると首を振った。残念ながら、絵を描けば何かを思い出せるわけではないようだった。そんなに都合よくはいかない、ということか。
それでも、一度で諦めるわけにはいかない。続けて、私と嵐の絵も描いてもらった。何も期待していなかった、と言えば嘘になる。しかし案の条、秋雲の記憶が戻る様子はなかった。嵐が描かれてしばらくの間、私たちの間にはだんまりとした時間が流れた。
また使うことになるかもしれないと、スケッチブックと鉛筆はそのまま工廠に置かせてもらうことにした。私たちが工廠を出るころには、辺りはすっかり暗く暮れていた。陰気な心をより重く苦しくするかのように、空には雨雲が乗りかかっている。星の代わりとばかりに暗がりを照らす、外灯のぽうっとした明りが雨に霞んでいた。
記憶喪失の人が様々なことを思い出すには、少なくない根気と期間が必要と聞いたことがある。記憶を失ったその日に何とかしようとしたのは、気が早すぎたのかもしれない。かといって、ただじっと待つことは出来なかった。しかし、そう思って行動したことがかえって、秋雲が記憶を失ったという事実を私たちの中に色濃く突きつける結果となってしまった。
本当に雨は止むのだろうか。
私にはこの雨雲が、今後何十年にも渡って、世界を覆うような気がしてならなかった。
***
そして、潜水艦掃討から帰投した艦娘たちが秋雲と対峙する。
秋雲は彼女たちのことを覚えていた。ひとりを残し、ほとんどの仲間が秋雲の記憶の中にいた。
そんな中、唯一忘れられた女の子は、この事態をどのように捉えただろう。
医務室の秋雲を連れて、遅くなった夕食が始まる。
秋雲の隣に、巻雲の姿はなかった。
次回は9月16日(土)投稿予定です。